詩集 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集
124件見つかりました。

1. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

猫 ) として刊行しようと考へた。然るにその出版の好機がなく、且 っ詩の数が少し予定に足りないので、そのまま等閑に附してしまっ ただ た。但し此等の詩篇は、当時雑誌「日本詩人」その他に発表し、後 に第一書房版の綜合詩集にも編入したので、私の読者にとっては既 に公表されてる者なのである。しかも「青猫」を完全な定本詩集と する為には、是非とも此等の詩を補遺しなければならないので、初 版出版後今日まで、長く私はその再版の機会を待って居た。 同時にまた私は、その再版の機会をまって、初版本の編輯上に於 ける不統一を正さうとした。全集や綜合詩集は例外として、すべて 単一な標題を掲げた詩集は、その標題が示す一つの詩境を、力強く 自序 一点に向って集中させ、そこに詩集の統一された印象を構成させね ばならないこと、あたかも一巻の小説に於ける構成と同じである。 「青猫」の初版が出たのは、一九ニ三年の春であり、今から約十年一冊の標題された詩集の中に、そのテーマやスタイルを異にしてゐ ほど昔になる。その後ずっと絶版になって、市上に長く本を絶えてる種々雑多の詩が書かれてるのは、芸術品としての統一がなく、内 居た。元来、詩集といふものは、初版限りで絶本にするところに価容上の美的装幀を失格してゐる。そして「青猫」の初版本が、この 値があるので、版を重ねて増冊しては、詩集の人に貴重される稀本点でまた不備であった。例へば「軍隊」「僕の親分」などのやうに の価値が無くなって来る。しかも今日、あへてこの再版を定本にし詩の主想とスタイルとを異にして居る別種の者が混入して居り、他 との調和美を破って居た。再版の機会に於て、これもまた改訂編輯 て出す所以は、著者の私にとって種々の璉岫があるのである。 はなは 第一の理由は、初版「青猫」の内容と編輯とが、私にとって甚だせねばならなかった。 ため 不満足であり、意にみたないところが多かった為である。この詩集次の第二の理由は、初版本の装幀、特に挿絵のことに関係して居 の校正が終り、本が市上に出始めた頃、私はさらにまた多くの詩をる。私の始めのプランとしては、本書に用ゐた物と同じゃうな木版 しか 青作って居た。それらの詩篇は、すべて「青猫」に現れた同じ詩境の画を、初版本にも挿絵とするつもりであった。然るに出版書店の方 きら はんさ 本続篇であり、詩のテーにてもスタイルに於ても、当然「青猫」で時日を迫り、版画職工との煩瑣な交渉を嫌った為、止むを得ず有 り合せの絵端書を銅版にして代用した。元来私の書物に於ては、挿 定の中に編入す・ヘき種類のものであった。むしろそれが無ければ、 詩集としてのしめ括りがなく、大尾の完成が欠けるやうなものであ絵が単なる装飾でなく、内容の一部となって居るのであるから、挿 った。しかも詩集は既に製本されて出てしまったので、止むを得ず絵が著者の意に充たないのは、内容の詩集が意に充たないのと同じ 私は、さらに此等の詩を集めて一冊にし、青猫続篇詩集 ( 第二青である。この点もまた機会を見て、再版に改訂せねばならなかっ 定本亠月猫 宇宙は意志の現れであり、意志の本質は悩みである 1 べンハウエル

2. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

462 昭和五年 ( 一九三 0 ) 十六歳かリルケ、ポードレール、プルースト、ランポオに親しみ、フラン 五月上旬、校長罷免の事件に遭い、風紀委員として擁護運動に参加ス語を学ぶ。ここで、堀辰雄の影響の下に " 生徒もの“というべき する。またこの年、市電の切符の蒐集に熱中。 短篇小説のいくつかと詩 ( 冫 乍こ熱中した。六月から七月にかけて、杉 昭和六年 ( 一九三一 ) 十七歳浦明平とともに、明治・大正期の文学書蒐集に熱中し、とりわけ大 三月、府立第三中学校四年修了。四月、本郷の第一高等学校理科甲正の詩書を多く集める。この年手製の詩集『日曜日』『散歩詩集』 類に入学。天文学志望であった。生田勉、杉浦明平、国友則房、畠をつくる。このうち『日曜日』は母登免に捧げたものである。 山重政、松永茂雄らを知る。一年間は寮生活を送ったが、一一年目か昭和九年 ( 一九三四 ) 一一十歳 らは自宅通学とする。七月、同人誌「波止場」の創刊に加わり、ミ 一一月、萩原朔太郎の「氷島」を読み、詩人の自覚を得、室生犀星と チ・タチのべンネームでロ語歌を発表、また前田夕暮主宰の「詩リルケに傾倒。三月、「ホべーマの並木道」を書く。四月、天文学 歌」に三木祥彦のペンネームで初めて短歌を投じ十一一首が採用さ志望を変更、東京帝国大学工学部建築科に入学、意匠を専攻。一級 れ、以後毎号に自由律作品を発表した。夏の休暇中、奥多摩にこも下に丹下健三が在籍していた。大学入学のころから、自宅一一階の部 って、新興芸術派風の小説「あひみてののちの」を執筆し、十一屋から三階の屋根裏部屋に移る。六月、堀辰雄から津村信夫らの雑 月、校友会雑誌に同作を発表する。これによって、一躍一高文壇の誌「四人」をもらう。沢西健、猪野謙一一、江頭彦造と同人誌「偽 寵児となった。文芸部に属していたが、同時にローマ字会にも入っ画」を創刊、十二月号 ( 「メリノの歌」発表 ) までに三号を出して ていた。昭和二年末以来の歌作を前年から歌 / ート『自選葛飾集』廃刊。七月上旬、信州追分に行き、油屋に泊まって初めての村ぐら としてまとめる。この年、堀辰雄を識る。また映画をしきりに見る。しを送る。この地には堀辰雄、室生犀星や近藤武夫が滞在してお 昭和七年 ( 一九三一 l) 十八歳り、しきりに行き来して、追分を愛するようになる。小説「緑蔭倶 一月、一高短歌会に初めて出席。二月、友人と雑誌「こかげ」を創楽部」「貧乏の死」散文詩「子供の話」などを書き、プーシキン、 刊、「眠ってゐる男」ほかの短篇を発表。十二月に廃刊。三月末かレールモントフ、ゴーゴリ 、・ハルザック、藤村詩集、三好達治『閒 ら四月にかけて畠山重政と一一人で伊豆を徒歩旅行。夏休み中は自宅花集』などを読む。八月下旬、追分を発ち、長野県の上松を経て愛 にいてコクトオ、ラディゲ、ヴァレリイなどの読書にふける。この知県渥美半島の福江に杉浦明平を訪ね、帰京した。ひと夏の追分生 ころ三好達治の『南窗集』を読んで感動、その影響下に四行詩を書活は道造の詩作生活に大きく反映し、以後この土地は詩作の重要な き始める。また、この夏、『堀辰雄詩集』や、自作の短編小説『ゴ舞台となり背景となる。九月、古本蒐集に熱中、大正期の詩書だけ ンゴン』の手製本を作っている。 でも合計一六五冊に達した。十月、三好達治、丸山蕓、堀辰雄の共 昭和八年 ( 一九三 = I) 十九歳同編集で、第二次「四季」が創刊され、その同人となる。十一月、 七月半ばから奥多摩の御岳に滞在、九月上旬までを過ごす。自然と「四季」一一号に詩「村ぐらし」「詩は」を発表、注目を浴びる。 童話的なものに関心を寄せ、「ポォルとヴィルジニイ」を愛読するほ昭和十年 ( 一九三五 ) 一一十一歳

3. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

五月、徴兵検査のため、郷里へ向う途中の平岡公威 ( 三島由紀夫 ) 「手にふるゝ野花は、それを摘み、花とみづからを、さゝへつゝ、 歩みをはこ・ヘ」という詩句を刻んだ詩碑が建立される。選辞、揮 が、静雄をはじめて訪れる。 三十九歳毫、三好達治。昭和三十六年一一月、『伊東静雄全集』が人文書院よ 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 七月、空襲によって堺市北三国ヶ丘町の借家を焼け出され、大阪府り刊行された。 南河内郡菅生村高岡ウメ方に避難するかたわら学校の宿直室に寝と まりして勤労奉仕に勤める。 四十歳 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 一一月、大阪府南河内郡黒山村北余部四〇七番地に転居。敗戦、罹災、 疎開と相つぐ疲労からようやく立ち直りつつあった静雄は、このこ ろから好んで大阪の賑かな町を散策する。十月、「都会の慰め」を 「光燿」に発表。 四十一歳 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 十一月、第四詩集『反響』を創元社より刊行。 四十二歳 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 一一月、三好達治と会う。四月、学制改革のため阿倍野高等学校に転 動する。夏、激しい虚脱衰弱状態におちいる。すでに肺結核に冒さ れていた。 四十三歳 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 六月、発病、欠勤がちとなる。九月、「百花文庫」の一冊として『反 響』を創元社より再度刊行。十月、国立病院大阪長野分院に入院す る。 四十七歳 昭和ニ十八年 ( 一九五三 ) 一月十二日、大喀血し、日増しに衰弱が激しくなる。三月十一一日午 後七時四十一一分永眠。郷里諫早の広福寺に埋葬される。戒名は文林 院静光詩仙居士。七月、桑原武夫・富士正晴共編『伊東静雄詩集』 が創元社より刊行。 没後昭和一一十九年十一月、諫早文化協会によって諫早城址に、 この年譜は諸種のものを参照の上、編集部 で作成し、斎田昭吉氏の校閲を得ました。

4. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

今の詩壇で、正しい認識と理解をもっ別の読者を、新しく求めたい 最後に第三の理由としては、この詩集「青猫」が、私の過去に出と思ふからである。 した詩集の中で、特になっかしく自信と愛着とを持っことである。 世評の好悪はともかくあれ、著者の私としては、むしろ「月に吠え本書の標題「青猫」の意味について、しばしば人から質問を受け る」よりも「青猫」の方を愛してゐる。なぜならこの詩集には、私るので、ついでに此所で解説しておかう。著者の表象した語意によ の魂の最も奥深いが歌はれて居るからだ。日夏耿之介氏はそのれば、「青猫」の「青」は英語の B 一 ue を意味してゐるのである。即 いろ・ろ・つ 著「明治大正詩史」の下巻で、私の「青猫」が「月に吠える」のち「希望なき」「憂鬱なる」「疲労せる」等の語意を含む言葉として 延長であり、何の新しい変化も発展も無いと断定されてるが、私と使用した。この意を明らかにする為に、この定本版の表紙には、特 しては、この詩集と「月に吠える」とは、全然異った別の出発に立に英字で The Blue Cat と印刷しておいた。つまり「物憂げなる っポエヂイだった。処女詩集「月に吠える」は、純粋にイマヂスチ猫」と言ふ意味である。も一つ他の別の意味は、集中の詩「青猫」 ックのヴィジョンに詩境し、これに或る生理的の恐怖感を本質したにも現れてる如く、都会の空に映る電線の青白いスパークを、大ぎ 詩集であったが、この「青猫」はそれと異り、ポエヂイの本質が全な青猫のイメーヂに見てゐるので、当時田舎にゐて詩を書いてた私 なほ く哀傷に出発して居る。「月に吠える」には何の涙もなく哀傷もなが、都会への切ない郷愁を表象してゐる。尚この詩集を書いた当 わくでき ーヘンハウエルに惑溺してゐたので、あの意志否定の い。だが「青猫」を書いた著者は、始めから疲労した長椅子の上時、私はショ・ じゃく えんせい 哲学に本質してゐる、厭世的な無為のアンニュイ、小乗仏教的な寂 に、絶望的の悲しい身体を投げ出して居る。 ただよ おのづ めつるらく なっか 「青猫」ほどにも、私にとって懐しく悲しい詩集はない。これらの減為楽の厭世感が、自から詩の情想の底に漂ってゐる。 詩篇に於けるイメーヂとヴィジョンとは、涙の網膜に映じた幻燈の がらす 絵で、雨の日の硝子窓にかかる曇りのやうに、拭けども拭けども後初版「青猫」は多くの世評に登ったけれども、著者としての私が から後から現れて来る悲しみの表象だった。「青猫」はイマヂスム満足し、よく詩集のエスプリを言ひ当てたと思った批評は、当時読 の詩集でなく、近刊の詩集「氷島」と共に、私にとっての純一な感んだ限りに於て、蔵原伸二郎君の文だけだった。よってこの定本で はんい 傷を歌った詩集であった。ただ「氷島」の悲哀が、意志の反噬するは、同君に旧稿を乞うて巻尾に附した。読者の鑑賞に便すれば幸甚 きば 矛を持つに反して、この「青猫」の悲哀には矛がなく、全く疲労のである。 椅子に身を投げ出したデカダンスの悲哀 ( 意志を否定した虚無の悲 哀 ) であることに、二つの詩集の特殊な相違があるだけである。日挿絵について本書の挿絵は、すべて明治十七年に出版した世界 夏氏のみでなく、当時の詩壇の定評は、この点で著者のポエヂイを名所図絵から採録した。画家が芸術意識で描いたものではなく、無 はなは 甚だしく誤解してゐた。そしてこの一つのことが、私を未だに寂し智の職工が写真を見て、機械的に木ロ木版 ( 西洋木版 ) に刻ったも へ、・ペう く悲しませてゐる。今この再版を世に出すのも、既に十余年も経たのだが、不思議に一種の新鮮な詩的情趣が縹渺してゐる。つまり当 」 0 からだ

5. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

もとより過ぎゅく利根川の水の中に、一切を破って棄つべきもので集の刊行を機会として、集中の後篇「青猫以後」の部に編入した。 あるかも知れない。ただ切に感ずるものは非力である。無才にして すなは 詩を思ひ、カなくして人生に戦はうとする蜚長である。 編輯の順序は、大体に於て創作年代によることにした。即ち編を 別けてコ辰憐詩篇時代」「月に吠える時代」「青猫時代」「青猫以後」 の四期に分類し、さらにその各編を前期と後期とに対別した。しか 我れの瓣きて行かざる道に 新しき樹木皆伐られたり。 しその各編における箇々の詩の排列は、必ずしも創作順序によって るのではない。箇々の詩の排列順序はでたらめである。ただ大体に ともあれ此処に、私の「恥かしき存在」を編斡した。これを以て於て、同じ時期の創作に属するものを、できるだけ同じ編の項中に 一切の過去に告別する。もはや再度、私の「青猫」や「月に吠え類属させた。故に大体に於てみれば、過去における自分の詩作経歴 る」を繰返すことをしないだらう。私は歎きつつ、悲しみつつ、さ が、目次の順序通りに展開されてゐるわけである。 らに新しき道路に向って、非力の踏み出しをしようと構へてゐる。 以上は第一書房版「萩原朔太郎詩集』 ( 昭和三年刊 ) の序と凡例である。 ここには同書に初出の「青猫以後」の部分を収録した。 西暦一九二八年一一月 ( 編集部註 ) 凡例 自分は過去に四冊の詩集を出版してゐる。「月に吠える」「青猫」 これら 「蝶を夢む」「純情小曲集」である。そこでこの全集には、此等の全 部をまとめて一冊に綜合した。 「青猫」出版後に作った最近の詩が約三十篇ほどもある。この中、 郷土望景詩篇に属するもの十篇は、最近「純情小曲集」の一部に入 れて刊行したが、他の二十篇ほどの詩は、時々の雑誌に載せたのみ で、未だまとまった書物としては出してゐなかった。よってこの全 大森馬込村の新居にて 萩原朔太郎

6. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

三。私の第二詩集は、はじめ『憂鬱なる』とするつもりであった。 凡例 それはずっと以前から『感情』の裏表紙で予告広告を出して置いた 如くである。るにその後『憂鬱なる x x 』といふ題の小説が現は 一。第一詩集『月に吠える』を出してから既に六年ほど経過した。れたり、同じゃうな書銘の詩集が出版されたりして、この「憂鬱」 この長い間私は重に思索生活に没頭したのであるが、かたはら矢張といふ語句の官能的にきらびやかな触感が、当初に発見された時分 ゃう 詩を作って居た。そこで漸やく一冊に集ったのが、この詩集『青の鮮新な香気を稀薄にしてしまった。そればかりでなく、私の詩風 もその後によほど変転して、且っ生活の主題が他方へ移って行った 猫』である。 ゅゑ 何分にも長い間に少し宛書いたものである故、詩の情想やスタイ為、今ではこの「取って置きの書銘」を用ゐることが不可能になっ ルの上に種々の変移があって、一冊の詩集に統一すべく、所々気分た始末である。予告の破約を断るため、ここに一言しておく。 の貫流を欠いた怨みがある。けれども全体として言へば、矢張書銘 の『青猫』といふ感じが、一巻のライト・モチーヴとして著者の個四。とにかくこの詩集は、あまりに長く出版を遅れすぎた。そのた きひん め書銘ばかりでなく、内容の方でも、いろいろ「持ち腐れ」になっ 性的気稟を高調して居るやに思ふ。 てしまった。その当時の詩壇から見て、可成に新奇で鮮新な発明で 一一。集中の詩篇は、それぞれの情想やスタイルによって、大体之れあった特種のスタイルなども、今日では詩壇一般の類型となって居 じゃうたう いううつ を六章に類別した。即ち「幻の寝台」、「憂鬱なる桜」、「さびしい青て、むしろ常套の臭気が鼻につくやうにさへなって居る。さういふ 猫」、「閑雅な食慾」、「意志と無明」、「艶めける霊魂」他詩一篇であ古い自分の詩を、今更ら今日の詩壇に向って公表するのは、ふしぎ に理由のない羞恥と腹立たしさとを感ずるものである。 る。この分類の中、最初の二章 ( 「幻の寝台」、「憂鬱なる桜」 ) は、 主として創作年代の順序によって排列した。此等の章中に収められ っ おはむ た詩篇は、概ね雑誌『感情』に掲載したものであるから、皆今から五。附録の論文「自由詩のリズムに就いて」は、この書物の跋と見 もちろん るべきである。私の詩の読者は勿論、一般に「自由詩を作る人」、 数年以前の旧作である。『感情』が廃刊されてからずゐぶん久しい 間であるが、幸ひに残本の合本があって集録することを得た。同時「自由詩を読む人」、「自由詩を批評する人」、「自由詩を論議する人」 わか 代に他の雑誌へ寄稿したものは、すべて皆散佚して世に問ふべき機特に就中「自由詩が解らないと言ふ人」たちに読んでもらふ目的で 書いた。自由詩人としての我々の立場が、之れによって幾分でも一 縁もない。 「さびしい青猫」以下の章に収められた詩は、れもこの二三年来般の理解を得ば本望である。 ただ に於ける最近の収穫である。但し排列の順序は年代によらず、主と して情想やスタイルの類別によった。 さんいっ なかんづく し しうち こし J. わ かなり ばっ

7. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

四行詩十篇を収録。同月下旬から九月初旬にかけて、軽井沢に行っ月中旬、盛岡で「風立ちぬ」第三回分を書き、帰京。十一月中旬、 て留守の室生犀星の大森魚眠洞をあずかり、そこから出動する。八風邪をひいて不安を訴える。雑誌「午前」もなかなか実現しない中 月に二度、追分・軽井沢に旅行。十月上旬、肋膜を病み、約一か月で南への旅行を急ぐ。二十四日、長崎をめざして出発。このころ 間病臥。十一月半ば静養のため追分に行く。同月十九日、宿泊の油「ノート」を書き始める。奈良、京都、山陰から北九州を経て旅す 屋が火災に見舞われ、九死に一生を得る。十二月、詩集『暁とタのるが、極度に疲れて長崎に着く。十二月六日夜、喀血。十三日、帰 京を決心して長崎を発つ。十五日、帝大病院で絶対安静を宣告され 詩』を風信子叢書第一一冊として四季社より刊行。 二十四歳る。江古田の東京市立療養所に入った二十六日には、すでに手遅れ 昭和十三年 ( 一九三八 ) 一月十六日、銀座で『晩とタの詩』出版記念会を開く。一一月上旬、になっていた。二十九日から、水戸部アサイが献身的に看病した。 二十五歳 風邪と頬のこぶを取り去る手術のために十日間ほど欠勤。中旬、神昭和十四年 ( 一九三九 ) 保光太郎の住む浦和にヒアシンス・ハウスを建てるため設計。風信一月、室生犀星、津村信夫ら友人・知人が次々に見舞う。二月十三 日、第一回中原中也賞受賞決定。三月一一十九日、病状は急変、午前 子のべンネームで「コギト」に物語「オメガぶみ」を発表。三月、 疲労と徴熱を訴える。その著書『古典の親衛隊』に感動して芳賀檀一一時一一十分、誰にも見とられず、息をひきとった。四月六日、自宅 に贈った「何処へ」を「新日本」に発表。同人誌「午前」を計画すで告別式。谷中の多宝院に埋葬。法名は温恭院紫雲道範清信士。 る。四月、中村真一郎を知り、フランシス・ジャム詩集を贈る。五六月、堀辰雄が中心となって「四季」の立原道造追悼七月号を刊 月、堀辰雄論「風立ちぬ」を書き始め、その第一回・第二回を「四行、「優しき歌」を発表。 季」六、七月号に発表。このころ、同じ事務所に勤務する水戸部ア没後、昭和十六年一一月より、堀辰雄らの尽力により『立原道造全 サイと愛し合うようになり、中旬、彼女と軽井沢に旅する。七月、集』全三巻が山本書店より刊行される。十五年一月、丸山薫編によ 小山正孝を知る。下旬、健康すぐれず事務所を休むことにし、静養る河出書房『現代詩集第二巻』に詩三十一一篇収められる。二十一年 九月、物語集『鮎の歌』を鎌倉文庫より刊行。一一十二年三月、中村 のため大森の室生宅に移る。八月上旬追分に転地療養におもむく。 軽井沢には新婚の堀辰雄夫妻もいた。水戸部アサイも時折彼をたず真一郎の記憶によって補われた詩集「優しき歌』を角川書店より刊 ねてくる。中村真一郎に『優しき歌』のノ 1 トを見せる。下旬ごろ行。二十五年十一月より、『立原道造全集』全三巻を角川書店より から、日本縦断旅行を決意し、一冬を追分で過ごすことを勧める堀刊行。三十一一年十一一月より、『立原道造全集』全五巻を角川書店よ 辰雄の意見もあったが、聞きいれなかった。「むらさぎ」に「草にり刊行。三十六年九月、未発表作品集『詩人の出発』を書痴往来社 寝て : ・ : ・」を発表。九月六日に帰京し、十五日、上野を発って東北より刊行。四十六年六月より、新版『立原道造全集』を角川書店よ 地方の旅にの・ほる。山形、仙台を経て盛岡に行き、約一か月滞在、り刊行中。 この年譜は諸種のものを参照の上、編集部 アンデルセン、ト 1 マス・マン、ニ 1 チェなどを読み、宮沢賢治に で作成し、堀内達夫氏の校閲を得ました。 反撥を覚える。「四季」十月号に「優しき歌」・Ⅵ ) を発表。十

8. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

えそうです。国道からちょっと入っただけで、諏訪神 社、泉洞寺、小学校裏の小さな暗、、 し荒れた墓地など。 夢はいつもかへって行った山の麓のさびしい村 水引草に風が立ち 草ひばりのうたひやまない しづまりかへった午さがりの林道を 文学という仕事が、手仕事であるかぎり、別世界の ごと 如くに見えるこの詩人の作品は、やはり幾時までも、 素直な、なにかを求めている読者には、国道十八号線 の騒音のなかに、草ひばりのうたとして、思いもかけ ず、新鮮に、新しく、人工のうたが、自然の魅惑のう たとして、生きつづけるような気がしきりにしました。 従って私には、立原があれ程、あの時代のあらゆる 詩人 ( 三好達治の四行詩から津村信夫などを含め ) の 上 " 高原の寒駅。信濃追分詩法を学び、摂取し、根気のいる困難な作業を通して 右徳川時代、北国街道と 完成された十四行詩型を待たなくても、高等学校時代 中仙道の道標であった「分 の手書きの「散歩詩集」や、また、母光子に献じた「日 去れ」。今や、当時の面影は 曜日」だけでも充分なところもあるのです。 こみち うすれてしまった 小径が、林のなかを行ったり来たりしてゐる。 落葉を踏みながら、暮れやすい一日を、 それは、初期のまだ立原の詩風が確立されなかった妬 頃の、どの一作をとってみてもいいわけです。 ひる

9. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

447 注解 立原道造集注解 ヨーロッパで栄えた。立原の愛用した詩形。 一元 0 地異地上の変化。 三九 0 村立原の詩では、浅間山麓をイメージすればよい。 一元一一水引草に風が立ちこの一句で立原の詩情がしのばれる。 「水引草」は、たで科の多年生草木。山野の陰湿地に自生する。 夏から秋にかけて、赤色の小花を咲かせる。 日曜日 三九一一草ひばりこおろぎ科の昆虫。黄褐色。夏から秋にかけて、 夕方よい声で鳴く。「水引草」とか「草ひばり」とか、あまり = 穴五風立原の詩精神のありどころを探ぐる材料のひとつ。「風」 人の目につかぬ、小さな、やさしいものを立原は詩の中に挿入 にちなんだ詩は、頻出。 する。 三会ふうりんさう「風鈴草」。ききよう科の一年生 ( あるいは一一 年生 ) 草木。夏、紫、白色の鐘状の花を開く。 暁とタの詩 五街道立原に限らぬが、「街道」は、つねに詩人の詩心をそ 三九五晩とタ立原の詩心がとくにそそられる時刻。この時刻の風 そるもの。 = 穴六小径「径」の字は、それ自体小さな道という意味を持って 物を背景に、立原は、一人で考え、想像する。これらの詩もす べてソネット形式のもの。やさしい、繊細な感情があふれてい る。 = 穴六僕は・ : この短い二行の詩が代表するように、立原の詩に は、ほんのすこしシャレた都会ふうのセンスの詩が多い。 優しき歌 散歩詩集 四 8 優しき歌「やさしさ」は、立原の詩精神の基本的心情であ = 公郵便配達これも立原の詩によく出てくる。点景として生か されている。 「風に寄せて」他 = 発虹「虹」も「雲」も、ともに詩心をそそる材料。 三兊ひとの営み日々の生活をこのようにいうことによって、そ四実ゅふすげの花ゆり科の多年生草本。山野に自生。初夏の の人の生活の奥行きがしのばれる。 頃、百合に似た花を開く。夕方咲いて、翌日の午前中にし・ほ む。この種のかれんな花への関心はつねに強い 萱草に寄す EO< 風と花と雲と小鳥立原の詩の材料は、ほとんどこれらに尽 三九 0 Sonatine 十四行から成る小詩形。イタリアにおこり近世の きる。時局にかかわるものは、いっさいなし、という態度であ る。

10. 現代日本の文学 17 萩原朔太郎 中原中也 伊東静雄 立原道造集

に」を「四季」に発表。五日、発病。六日、小町の鎌倉養生院に入 の同人となることを承諾。 一一十九歳院。一一十一一日午前零時十分永眠。病名、結核性脳膜炎。一一十四日、 昭和十一年 ( 一九三六 ) 一月、「含羞」を「文学界」に、「除夜の鐘」を「四季」に、「頑是寿福寺にて告別式。法名は放光院賢空文心居士。後に郷里の吉敷村 ない歌」を「文芸汎論」に、二月、「冬の日の記億」を「文学界」の経塚に埋葬される。 に、「冷たい夜」を「四季」に、三月、「お道化うた」ほかを「歴没後、十二月、「文学界」「四季」「手帖」がそれそれ中也追悼号 程」に、四月、「冬の明け方」を「歴程」に、五月、「春の日の歌」を特集。遺稿として、「桑名の駅」「少女と雨」「無題 ( 夏 ) 」「僕が を「文学界」に、六月、「三歳の記憶」を「文芸汎論」に、「六月の知る」が「文学界」に、「材木」が「四季」に、「一夜分の歴史」が 雨」を「文学界」に発表。同月、『ランポオ詩抄』を山本文庫版に「文芸」に掲載された。翌年 ( 昭和十三年 ) 一月、次男愛雅死去、 て刊行。七月、「春宵感懐」を「文学界」に、「わが半生」を「四四月『在りし日の歌』が創元社より刊行された。 季」に、「曇天」を「改造」に、八月、「思ひ出」を「文学界」に、「夜 更の雨」「幼獣の歌」を「四季」に、十月、「秋の一日」を「文学 この年譜は角川書店版中原中也全集に基いて編 界」に発表。十一月、文也急死。激しい衝撃を受ける。「あばずれ 集部で作成し、吉田燕生氏の校閲を得ました。 女の亭主が歌った」を「歴程」に、「幻影」を「文学界」に、「ゆき てかへらぬ」を「四季」に、「一つのメルヘン」を「文芸汎論」に 発表。十一一月、次男雅生る。「言葉なき歌」を「文学界」に、「米 子」を「ペン」に発表。「冬の長門峡」を書く。神経衰弱が昻じた。 三十歳 昭和十一一年 ( 一九三七 ) 一月、元日に弟思郎を伴って佐藤春夫、三好達治を訪問。十日頃、 神経衰弱のため千葉寺療養所に入院。入院中、「泣くな心」「雨が降 るそえ」「千葉寺雑記」などを書いた。二月、退院。鎌倉町扇ヶ谷 譜 ( 寿福寺裏 ) に転居。「また来ん春 : : : 」「月の光」を「文学界」に、 「月夜の浜辺」を「新女苑」に発表。四月、「冬の長門峡」を「文学界」 に、五月、「春日狂想」を「文学界」に、七月、「蛙声」を「四季」 年に発表。八月、心身の疲労甚だしく、秋から郷里に帰ろうと考え る。九月、「道化の臨終」を「日本歌人」に発表。『ランポオ詩集』 を野田書房より刊行。詩集『在りし日の歌』の原稿清書、編集を終 え、小林秀雄に托した。十月、「正午」を「文学界」に、「初夏の夜