三味線 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集
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1. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

ながら歩いて行った。街道と波打際との距離は、折々遠くらぬが、成る程乳母の云うように「天ぶら喰いたい、天ぶ なったり近くなったりする。或る時は浜辺をひたひたと浸ら喰いたい」と悲しい節で唄っている。私と乳母とは、長 い間眼と眼を見合わせて、猶も静かに共の三味線の音に耳 蝕する波が、もう少しで松の根方を濡らしそうに押し寄せ じゅす て来る。遠くを這っている時はうすい白繻子を展べたようを澄ましている。人通りの絶えた、寒い冬の夜の凍った往 に見えるが、近くに寄せて来る時は一一一寸の厚みを持っ来に、カラリ、コロリと下駄の歯を鳴らしながら、新内語 て、湯に溶けたシャポンの如くに盛上っている。月は其のりは人形町の方から私の家の前を通り過ぎて、米屋町の方 かす 一二寸の盛上りに対してさえも、ちゃんと正直に共の波のへ流して行く。三味線の音が次第次第に遠のいて微かに消 影を砂地へ写して見せている。実際こんな月夜には、一本えてしまいそうになる。「天ぶら喰いたい、天ぶら喰いた い」と、ハッキリ聞えていたものが、だんだん薄くかすれ の針だって影を写さずにはいないだろう。 遙かな沖の方からか、それとも行くての何本も何本も先て行って、風のエ合で時々ちらりと聞えたり全く聞えなく の磯馴松の奥の方からか、孰方だかよく分らないが、ふなったりする。 喰いたい。天ぶら と、私の耳に這入って来た不思議な物の音があった。或は「天ぶら・ : : : : 天ぶら喰いたい。 そらみみ ・ : ぶら喰い 天ぶら : : : ・ : 天・ : : : : 喰い 私の空耳であるかも知れないけれど、兎に角それは三味線 の音のようであった。ふっと跡絶えては又ふっと聞えて来果てはこんな風にぼつりぼつりと・ほやけてしまう。共れ 日本橋にいたでも私は、トンネルの奥へ小さく小さく隠れて行く一点の る音色のエ合が、どうも三味線に違いない。 ばあやふところ 時分、乳母の懐に抱かれて布団の中に睡りかけている火影を視詰めるような心持で、まだ一心に耳を澄ましてい る。三味線の音が途切れても、暫くの間はやつばり「天ぶ と、私はよくあの三味線の音を聞いた。 ら喰いたい、天ぶら喰いたい」と、囁く声が私の耳にこび 「天ぶら喰いたい、天ぶら喰いたい」 くちずさ り付いている。 をと、乳母はいつも其の三味線の節に合わせて吟んだ。 それとも 「おや、まだ三味線が聞えているのかな。 恋「ほら、ね、あの三味線の音を聞いていると、天ぶら喰い 母たい、天ぶら喰いたい、と云 0 ているように聞えるでし自分の空耳かな」 私はひとりそんな事を考えながら、いっとはなしにすや ねえ、聞えるでございましよ」 そう云って乳母は、彼女の胸に手をあてて乳首をいじくすやと眠りの底へ引き込まれて行く。 っている私の顔を覗き込むのが常であった。気のせいか知その覚えのある新内の三味線が、今宵も相変らず「天ぷ どっち

2. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

私はふと眼を覚ました。夢の中でほんとうに泣いていた と見えて、私の枕には涙が湿っていた。自分は今年三十四 歳になる。そうして母は一昨年の夏以来此の世の人ではな くなっている。 此の考が浮かんだ時、更に新しい涙 がぼたりと枕の上に落ちた。 「天ぶら喰いたい、天ぶら喰いたい。・ あの三味線の音が、まだ私の耳の底に、彼の世からのお とずれの如く遠く遙けく響いていた。 はる

3. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

268 やはり 線の巨匠であった或る時蒸し暑い真夏の夜に此の大隅が師を以て鳴らしたのも矢張先師の方法を蹈襲したのであり由 このしたかげはぎまがっせん 匠の家で木下蔭挾合戦の「壬生村ーを稽古して貰っている来する所がある訳なのだが、それは佐助を教えた時代から きざ と「守り袋は遺品そと」というくだりがどうしても巧く語既に萌していたのである即ち幼い女師匠の遊戯から始まり あるい れない遣り直し遣り直して何遍繰り返してもよいと云って次第に本物に進化したのである。或は云う男の師匠が弟子 かや くれない師匠団平は蚊帳を吊って中に這刄って聴いているを折檻する例は多々あるけれども女だてらに男の弟子を打 大隅は蚊に血を吸われつつ百遍、二百遍、三百遍と際限もったり殴ったりしたという春琴の如きは他に類が少いこれ しぎやく なく繰り返しているうちに早や夏の夜の明け易くあたりがを以て思うに幾分嗜虐性の傾向があったのではないか稽古 白み初めて来て師匠もいっかくたびれたのであろう寝入っに事寄せて一種変態な性慾的快味を享楽していたのではな いかと。果して然るや否や今日に於て断定を下すことは困 てしまったようであるそれでも「よし」と云ってくれない うちはと「のろま」の特色を発揮して何処迄も一生懸命根難である唯明白な一事は、子供がままごと遊びをする時は 気よく遣り直し遣り直して語っているとやがて「出来た」必ず大人の真似をするされば彼女も自分は検校に愛せられ かっ と蚊帳の中から団平の声、寝入ったように見えた師匠はまていたので嘗て己れの肉体に痛棒を喫したことはないが日 んじりともせずに聴いていてくれたのである凡そ期くの如頃の師匠の流儀を知り師たる者はあのようにするのが本来 き逸話は椥挙になく敢て浄瑠璃の太夫や人形使いに限っであると幼心に合点して、遊戯の際に早くも検校の真似を たことではない生田流の琴や三味線の伝授に於ても同様でするに至ったのは自然の数でありそれが昻じて習い性とな あったそれに此の方の師匠は大概盲人の検校であったからったのであろう 不具者の常として片意地な人が多く勢い苛酷に走った傾き っと 〇 がないでもあるまい。春琴の師匠春松検校の教授法も夙に やや 佐助は泣き虫であったものかこいさんに打たれる度にい 厳格を以て聞えていたことは前述の如く動もすれば怒罵が まこと つも泣いたというそれが寔に意気地なくひいひいと声を挙 飛び手が伸びた教える方も盲人なら教わる方も盲人の場合 が多かったので師匠に叱られたり打たれたりする度に少しげるので「又こいさんの折檻が始まった」と端の者は眉を ずつ後ずさりをし、遂に三味線を抱えたまま中一一階の段梯ひそめた。最初こいさんに遊戯をあてがった積りの大人た すこぶ 子を転げ落ちるような騒ぎも起った。後日春琴が琴曲指南ちも此処に至って頗る当惑した毎夜おそくまで琴や三味線 の看板を掲げ弟子を取るようになってから稽古振りの峻烈の音が聞えるのさえやかましいのに間々春琴の激しい語調 みぶ

4. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

と歌われた時代の、うら若い放蕩の血が再び彼等夫婦の間飛ばして居る時、かな一一階座敷からどっとばかりに気違 とんきようざ よみがえ Ⅱに蘇生って来たかのように、吉兵衛とお町とは現在の身分いじみた笑い声が起って、頓興な戯れ言や荒々しい足拍子 を忘れて、奉公人や子供の手前もず酒色に溺れつつ馬が三味線の音に連れて洩れて来ることが度び度びあ 0 た。 あいつら 鹿の限りを尽すことが頻繁になった。一一階座敷の空気は料「ああ彼奴等はどんなに愉快なんだろう。」 おのず 理屋よりも寧ろ待合に近くなってしまった。お久はもとよ春之助の心は自と花やかな騒ぎの方へ奪われがちであっ かぶ た。俗悪で贅沢で飽く事を知らぬ大人共の、傍若無人な振 り、此の節まで猫を冠って取り澄まして居たお新が、そう 云う席の座興を添えるのに達者な手腕を発揮し出した。或る舞いに対する嫌悪と羨望と憤慨の情が、小さな家庭教師 あデく る晩お新は酒を飲まされて酔った句にきやっきやっと笑の胸に渦を巻いた。「何と云う愚かな人々であろう。」そう い転げながら、夢中で立ち上ってお久の三味線で「おいと考える直ぐ後から、日頃春之助を愛してくれる夫人や令嬢 こそうだ」を踊り出した。主人もお町も手を打って喝采しの、期う云う折に限って彼を全く疎外する不公平な処置 が、著しく心外に感ぜられた。子供を酒席へ侍らせるのが 「あの女には今まですっかり欺されて居た。どうもお新は悪いと云うなら、令嬢のお鈴にも遠慮させるがよい。「お ただ者じゃないらしい。おどりの手つきがなかなか巧者だ鈴が何だ。なりが大きくて言葉っきが生意気だから大人の おれ * だるまぢやや から、田舎芸者か達磨茶屋にでも奉公した事があるのだろ積りで居るかも知れないが、己よりたった一つ年上の十五 しゃなしか。頭の程度から云えばお鈴よりも己の方がずつ と大人だ。あんな小娘に今のうちからあんな真似をさせる そんな評判が、後でひそひそ囁かれた。 ほうかん 半分は商人で半分は幇間のような、お出入りの小間物から、ろくな人間になれないのだ。」と、彼は腹立たしげ つぶや ねら こっとう 屋、呉服屋、骨董屋などが、飯時を狙っては始終足繁く往に呟きたかった。 あ、な 来して、馬鹿の相手になって居た。彼等は商いの有る無し「鈴子さん、この頃あなたはちっとも勉強なさらないよう を共方除けにして、家族の者と一緒になって飲んだり喰つですね。騒いでばかりいらっしやらないで、たまにはお稽 古をなさい。」 たり唄ったりした。 家庭教師は時々こんな忠告を試みて、令嬢の顔を恨めし そんな騒ぎの最中に、玄一と家庭教師の二人だけはいっ も書生部屋に取り残されて、相変らず学科の復習に従事しそうに横眼で睨んだ。 つくろ なければならなかった。春之助が威儀を繕って玄一を叱り「試験になったら勉強するわ。今のうちは優しい所ばっか そっち ひんばん こうしゃ ぜいたく やさ

5. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

阪には幾らもよい師匠がある何処へなと勝手に弟子入りを 〇 2 しや私の所は今日限り止めて貰います此方から断ります 鵙屋の家でも父の安左衛門が生存中は月々春琴の云うが と、云い出したからはいかに詫び入っても聴き入れずとう また とう本当にその弟子を断ってしまった。又余分の付け届けままに仕送ったけれども父親が死んで兄が家督を継いでか を持って行くとさしも稽古の厳重な彼女もその日一日はそらはそうそう云うなりにもならなかった。今日でこそ有閑 さまで やわら の子に対して顔色を和げ心にもない褒め言葉を吐いたりす婦人の贅沢は左迄珍しくないようなものの昔は男子でもそ かたぎ るので聞く方が気味を悪がりお師匠さんのお世辞と云うとうは行かぬ裕福な家でも堅儀な旧家程衣食住の奢りを慎み せんじようそしり 恐ろしいものになっていた。そんな次第故諸方からの到来僣上の誹を受けないようにし成り上り者に伍するのを嫌っ しやし 物は一々自ら吟味して菓子の折まで開けて調べるという風た春琴に奢侈を許したのは外に楽しみのない不具の身を憐 とかく で月々の収入支出等も佐助を呼びつけて珠算盤を置かせ決れんだ親の情であったのだが、兄の代になると兎角の批難 が出て最大限度月に何と額をきめられそれ以上の請求に 算を明かにした彼女は非常に計数に敏く暗算が達者であり りんしよく 一度聞いた数字は容易に忘れず米屋の払いがいくらいくらは応じてくれないようになった彼女の吝嗇もそういう事が なおかっ 酒屋の払いがいくらいくらと二月三月前のことまで正確に多分に関係しているらしい。しかし尚且生活を支えて余り ひっきよう 覚えていた畢竟彼女の贅沢は甚だしく利己的なもので自分ある金額であったから琴曲の教授などはどうでもよかった おご ふけ が奢りに耽るだけ何処かで差引をつけなければならぬ結局に違いなく弟子に対して鼻息の荒かったのも当然である。 せきせきりようりよう お鉢は奉公人に廻った。彼女の家庭では彼女一人が大名の事実春琴の門を叩く者は幾人と数える程で寂々寥々たる ような生活をし佐助以下の召使は極度の節約を強いられるものであったさればこそ小鳥道楽などに恥っている暇があ と - も ただ ため爪に火を燈すようにして暮らしたその日その日の飯のったのである但し春琴が生田流の琴に於ても三絃に於ても 減り方まで多いの少いのと云うので食事も十分には摂れな当時大阪第一流の名手であったことは決して彼女の自負の かった位であった奉公人は蔭口をきいて、お師匠様は鶯やみにあらず公平な者は皆認めていた春琴の傲慢を憎む者と いえど 雲雀の方がお前等より忠義者だと仰っしやるが忠義なのも雖も心中私かにその技を妬み或に恐れていたのである作者 無理がない、私等よりも鳥の方がずっと大事にされているの知っている老芸人に青年の頃彼女の三絃をしばしば聴い もっと と云った たという者がある尤も此の人は浄るりの三味線弾きで流儀 おのずか は自ら違うけれども近年地唄の三味線で春琴の如き微妙 どこ こちら そろばん ひそ ある、 おご

6. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

こう が昻じた結果であり音曲を以て彼女の愛を得る手段に供ししているので、思えば偶然でないのである 2 ようなどの心すらもなかったことは、彼女にさえ極力秘し でっち 〇 ていた一事を以て明かである。佐助は五六人の手代や丁稚 うんおう 共と立っと頭がっかえるような低い狭い部屋へ寝るので彼 いずれの楽器も蘊奥を極めることのむずかしさは同一で かっ 等の眠りを妨げぬことを条件として内証にしておいてくれあろうがヴァイオリンと三味線とはツボに何の印もなく且 るように頼んだ。幾ら眠 0 ても寝足りない年頃の奉公人共弾奏の度毎に絃の調子を整えてかかる必あるので一と は床に這入ると忽ちぐっすり寝入ってしまうから苦情をい通り弾けるようになる迄が容易でなく独稽には最も不向 う者はいなかったけれども佐助は皆が熟睡するのを待ってきである況んや音譜のない時代に於てをや師匠に就いても 起き上り布団を出したあとの押入の中で稽古をした。それ琴は三月三味線は三年と普通に云われる。佐助は琴のよう かさば でなくても天井裏は蒸し暑いのに押入の中の夏の夜の暑さな高価な楽器を買う金もなし第一あんな嵩張るものを担ぎ は格別であったに違いないが期うすると絃の音の外へ洩れ込む訳に行かないので三味線から始めたのであるが調子を いびき るのを防ぐことが出来、鼾ごえや寝言など外部の音響をも合わせることは最初から出来たというそれは音を聴き分け しやだん { ち もちろんつまび 遮断するに都合が好かった勿論爪弾きで携は使えなかったる生れつきの感覚が少くともコンマ以上であったことを示 燈火のない真っ暗な所で手さぐりで弾くのである。しかしすと共に、平素春琴に随行して検校の家で待っている間に 佐助はその暗闇を少しも不便に感じなかった盲目の人は常姆何に注意深く他人の稽古を聴いていたかを証するに足り またこ にこう云う闇の中にいるこいさんも亦此の闇の中で三味線る。調子の区別も曲の詞も音の高低も節廻しも総べて彼は を弾きなさるのだと思うと、自分も同じ暗黒世界に身を置耳の記憶を頼りにしなければならなかったそれ以外に頼る くことが此の上もなく楽しかった後に公然と稽古することものは何もなかった。期くして十五歳の夏から約半歳の間 を許可されてからもこいさんと同じにしなければ済まない は幸い同室の朋輩の外に誰にも知られずに済んだのであっ と云って楽器を手にする時は眼をつぶるのが癖であったったがその年の冬に至って一つの事件が起った或る夜明け方 まり眼明きでありながら盲目の春琴と同じ苦難をめようと云 0 ても冬の午前四時頃まだ真 0 暗な夜中も同然の時刻 ごりようにん かわや とし、盲人の不自由な境涯を出来るたけ体験しようとしてに、鵙屋の御寮人即ち春琴の母のしけ女がふと厠に起きて 時には盲人を羨むかの如くであった彼が後年ほんとうの盲何処からともなく洩れて来る「雪」の曲を聞いたのであ 人になったのは実に少年時代からのそういう心がけが影響る。昔は寒稽古と云って寒中夜のしらしら明けに風に吹き てだい きわ かっ

7. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

いずみどの た、いまかんがえるとそのとき歩かせられた堤というのはして、その水の上へむかしの泉殿のようなふうに床を高く 巨椋堤なのでござりまして池は巨椋の池だ 0 たのでござりつく 0 て欄杆をめぐらした座敷がっき出ておりまして五六 うたげ ます、それゆえあのみちのりは片道一里半か一一里はござり人の男女が宴をひらいておりました、欄杆の端にちかくい ましたでしよう。ですが、と、わたしはロをはさんでいつろいろとおもりものをした台が据えてありましてお神酒や た、なんのためにあんなところをあるいたのです、池水に燈明がそなえてありすすきや萩などが生けてありますので 月のうつるのをながめてあてもなしにぶらついたというわお月見の宴会をしているらしいのでござりましたが、琴を かみざ けなのですか。さればでござります、ときどき父はつつみひいているのは上座の方にいる女の人で三味線は嶋田に結 けんぎよう のうえに立ちどまってじっと池のおもてをみつめて、坊よ、 った腰元風の女中がひいておりました、それから檢校か遊 こきゅう・ よいけしきであろうと申しますので子供ごころにもなるほ芸の師匠らしい男がいてそれが胡弓をひいております、わ のそ どよいけしきだなあと思ってかんしんしながらついて参り たくしどもの覗いておりますところからはその人たちの様 ますと、とある大家の別荘のような邸のまえを通りました子はしかとわかりかねましたけれどもちょうどこちらから こきゅら・ 、んびようぶ ら琴や三味線や胡弓のおとが奥ぶかい木々のあいだから洩正面のところに金屏風がかこってありましてやはり嶋田に れてまいるのでござりました、父は門のところにたたずん結った若い女中がそのまえに立って舞い扇をひらひらさせ でしばらく耳をすましておりましてやがて何を思いっきまながら舞っておりますのが顔だちまでは見えませぬけれど したのかそのやしきの広い構えについて塀のまわりをぐるもしぐさはよく見えるのでござります、座敷の中にはまだ ぐる廻っていきますので、またわたくしもついていきますその時分は電燈が来ていなかったものかそれとも風情をそ とだんだん琴や三味線のねいろがはっきりときこえてまいえるためにわざとそうしてありましたものか燭台の灯がと りほのかな人声などもいたしまして奥庭の方へ近づいていもっていて、その穂が始終ちらちらしてみがきこんだ柱や ることが分るのでござりました、そして、もうその辺は塀欄杆や金屏風にうつっております。泉水のおもてには月が みぎわ が生垣になっておりましたので父は生垣のすこしまばらにあかるく照っていまして汀に一艘の舟がつないでありまし なっている隙間から中をのぞいてどういうわけか身うごきたのは多分その泉水は巨椋の池の水をみちびいたものなの もせずにそのままそこをはなれないものでござりますからでここからすぐに池の方へ舟で出られるようになっている わたくしも葉と葉のあいだへ顔をあててのそいてみましたのでござりましよう、で、ほどなく舞いが終りますと腰元 つきやま ら芝生や築山のあるたいそうな庭に泉水がたたえてありまどもがお銚子を持って廻ったりしておりましたが、こちら へん

8. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

ら喰いたい、天ぶら喰いたい」と悲しい音色を響かせつ共の旅を私は今しているのじゃないかとも思った。兎に角 つ、此の街道へちらほらと聞えて来るのである。カラリコ共のくらいに長い感じがした。 ロリと云う下駄の音を伴わないのが、いつもと違っている「天ぶら喰いたい、天ぶら喰いたい」 けれど、その音色だけはたしかに疑う余地がない。初めの今や其の三味線の音は間近くはっきりと聞えている。さ ばち うちは「天ぶら : : : : ・天ぶら : : : : ・」と、「天ぶら」の部らさらと洗う波の音の伴奏に連れて、冴えた撥のさば けんてき 分ばかりが明瞭であったが、少しずつ近づいて来るのであきが泉の涓滴のように、銀の鈴のように、神々しく私の胸 ろう、やがて「喰いたい」の部分の方も正しく聞き取れるに沁み入るのである。三味線を弾いている人は、疑いもな ようになった。しかし、地上には私と松の影より外に、新くうら若い女である。昔の鳥追いが被っているような編笠 うつむ 内語りらしい人影は何処にも見えない。月の光のとどく限を被って、少し俯向いて歩いている其の女の襟足が月明り りを、果から果までずっと眺め渡しても、私の外に此の街のせいもあろうけれど、驚くほど真白である。若い女でな 道を行く者は小大一匹いないのである。事に依ったら、月ければあんなに白い筈がない。時々右の袂の先からこぼれ かえ * てんじん の光があんまり明る過ぎるので、却って物が見えないのでて出る、転軫を握っている手頸も同じように白い。まだ私 はないだろうか。ーーーー私はそう思ったりした。 とは一町以上も離れているので、着ている着物の縞柄など 私がとうとう、共の三味線を弾く人影を一一一町先に認めは分らないのに、共の襟足と手頸の白さだけが、沖の波頭 たのは、あれからどのくらい過ぎた時分だったろう。共処が光るように際立っている。 たど へ辿り着くまでの長い間、私はどんなに月の光と波の音と「あ、分った。あれは事に依ると人間ではない。きっと狐 に浸されただろう。「長い間」と云っただけでは、実際共だ。狐が化けているのだ」 あしおと にわか の長さの感じを云い現わす事は出来ない。人はよく夢の中私は俄に臆病風に誘われて、成る可く跫音を立てないよ で、一一年も三年もの長い間の心持を味わう事がある。私のうに恐る恐る共の人影に付いて行った。人影は相変らず三 共の時の感じはちょうど共れに似ていた。空には月があっ味線を弾きながら、振り向きもせずにとぼと・ほと歩いてい て、路には磯馴松があって、浜には波が砕けている街道る。が、其れが若しも狐だとすれば、私がうしろから歩い を、一一年も三年も、ひょっとしたら十年も、私は歩いて行て行くのをよもや知らない筈はなかろう。知っている癖に そ、りとほ ったのかも知れない。歩きながら、私はもう此の世の人間わざと空惚けているのだろう。そう云えば何だか、あの真 ではないのかと思った。人間が死んでから長い旅に上る、 白な肌の色が、どうも人間の皮膚ではなくて、狐の毛のよ かぶ

9. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

そばまんじゅう した蕎麦饅頭だの、鼻汁で練り固めた豆炒りだのを、さも 「べらんめえ、己れは酔っ払いだぞ」 きた うずたか なら と、座敷中をよろよろ練り歩いては笑い転げる。 穢ならしそうに皿の上へ堆く盛って私達の前へ列べ、 「あツ、坊ちゃん坊ちゃん、狐ごっこをしませんか」 さあお前さん、一 「これは小便のお酒のつもりよ。 仙吉がふと面白い事を考え付いたようにこう云い出しつ召し上がれ」 かえ つばき た。私と仙吉と二人の田舎者が狐退治に出かけると、却っと、白酒の中へ痰や唾吐を吐き込んで二人にすすめる。 て女に化けた光子の狐の為めに化かされて了い、散々な目「おおおいしい、おおおいしい」 さーむらい したつづみ に会って居る所へ、侍の信一が通りかかって二人を救ったと舌鼓を打ちながら、私も仙吉も旨そうに片端から残らず 上、狐を退治てくれると云う趣向である。まだ酔っ払って喰べてしまったが、白酒と豆炒とは変に塩からい味がし こ 0 居る三人は直ぐに賛成して、其の芝居に取りかかった。 しりばしょ 先ず仙吉と私とが向う鉢巻に臀端折りで、手に手にはた「これからあたしが三味線を弾いて上げるから、一一人お皿 かぶ きを振りかざし、 を冠って踊るんだよ」 「どうも此の辺に悪い狐が出て徒らをするから、今日こそ光子がはたきを三味線の代りにして「こりやこりや」と 一番退治てくれべえ」 唄い始めると、二人は菓子皿を頭へ載せて、「よい来た、 よいやさ」と足拍子を取って踊り出した。 と云いながら登場する。向うから光子の狐がやって来て、 たちま 「もし、もし、お前様達に御馳走して上げるから、あたし共処へやって来た侍の信一が、忽ち狐の正体を見届け と一緒にいらっしゃいな」 たちま こう云って、ぼんと、一一人の肩を叩くと、忽ち私も仙吉「獣の癖に人間を欺すなどとは不届きな奴だ。ふん縛って 殺して了うからそう思え」 も化かされて了い 「あれツ、信ちゃん乱暴な事をすると聴かないよ」 「いよう、何とはあ素晴しい別嬪でねえか」 勝気な光子は負けるが嫌さに信一と取っ組み合い、お転 などと、眼を細くして光子にでれつき始める。 うんこ コ一人とも化かされてるんだから、糞を御馳走のつもりで婆の本性を現わして強情にも中々降参しない。 「仙吉、この狐を縛るんだからお前の帯をお貸し。そうし 喰べるんだよ」 こいっ 光子は面白くて堪らぬようにゲラゲラ笑いながら、自分て暴れないように一一人で此奴の足を抑えて居ろ」 ちゅうげん のロで喰いちぎった餡ころ餅だの、減茶減茶に足で蹈み潰私は此の間見た草双紙の中の、旗本の若侍が仲間と力を あん べっぴん おさ

10. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

にひそめるようになったのは失明した結果だということにで一層深く斯の道へお入りなされ、精魂を打ち込まれた なり彼女自身も自分のほんとうの天分は舞にあった、わたのかとそんじますとのことである。多分此の説の方がほん しの琴や三味線を褒める人があるのはわたしというものをとうなので彼女の真の才能は実は始めより音楽に存したの 知らないからだ眼さえ見えたら自分は決して音曲の方へはであろう舞踊の方は果してどの程度であったか疑わしく思 行かなかったのにと常に検校に述懐したという。これは半われる 面に自分の不得意な音曲でさえ此のくらいに出来るという うカカ 風に聞え彼女の驕慢な一端が窺われるが此の言葉なども多 少検校の修飾が加わっていはしないか少くとも彼女が一時音曲の道に精魂を打ち込んだとはいうものの生計の心配 ありがた の感情に任せて発した言葉を有難く肝に銘じて聴き、彼女をする身分ではないから最初はそれを職業にしようという きんきよく を偉くするために重大な意味を持たせた嫌いがありはしな程の考はなかったであろう後に彼女が琴曲の師匠として門 しぎさわ いか。前掲の萩の茶屋に住んでいる老婦人というのは鴫沢戸を構えたのは別種の事情がそこへ導いたのであり、そう * こうとう てるといい生田流の勾当で晩年の春琴と温井検校に親しく なってからでもそれで生計を立てたのではなく月々道修町 きんす 仕えた人であるが此の勾当の話を聞くに、お師匠さま〔春の本家から仕送る金子の方が比較にならぬ程多額だったの きようしゃぜいたく 琴のこと〕は舞がお上手だったそうにござりますが琴や一一一であるが、彼女の驕奢と贅沢とはそれでも支えきれなかっ しゅんしよう 味線も五つ六つの時分から春松という検校さんに手ほどきた。されば始めは格別将来の目算もなく唯好きにまかせて 、らら てんびん をしてお貰いなされそれからずっと稽古を励んでおられま一生懸命に技を研いたのであろうが天稟の才能に熱心が拍 した、それ故盲目になってから始めて音曲を習われたので車をかけたので、「十五歳の頃春琴の技大いに進みて儕輩 うらとう ひけん はないのでござります、よいお内の娘さん方は皆早くからを抽んで、同門の子弟にして実力春琴に比肩する者一人も 抄遊芸のけいこをされますのがその頃の習慣でござりました なかりき」とあるのは恐らく事実であろう。鴫沢勾当日く 琴お師匠さまは十の歳にあのむずかしい「残月」の曲を聞きお師匠さまがいつも自慢をされましたのに春松検校は随分 ます 覚えて独りで三味線にお取りなされたと申し升そうしてみ稽古が厳しいお方だったけれど、わたしは身に沁みて叱ら れば音曲の方にも生れつきの天才を備えておられたのでごれたということがなかった褒められたことの方が多かっ ざりましようなかなか凡人には真似られぬことでござりまた、私が行くとお師匠さんは必ず御自分で稽古をつけて下 すただ盲目になられてからは外に楽しみがござりませぬのされそれはそれは親切に優しく教えて下さるのでお師匠さ つか まか いくた ほか みが せいは