微笑が浮かんだのを、平中は世にも恨めしそうに横眼で見 瞳を挙げてしきりにキョロキョロするのであった。 左大臣の席からはずっと離れた遙かな末座に、別にもう ひそ 一人、矢張此の御簾のあたりへ密かな視線を注いでいる男「いや、そんなことはございませんが、 があるのを、北の方は疾うから意識していたが、それは云と、強いて苦しそうな愛想笑いを洩らして云った。 もらろん う迄もなく平中であった。女房たちは勿論それに気が付い「でも可笑しいですね、酒がちっとも行かんようじゃない やさおとこ ていたのであるが、今の場合北の方にかって、此の優男ですか、もっと飲み給えもっと飲み給え」 の尊をするのを差控えながら、心の中では左大臣と比較し「十分戴いているのでございます」 わいだん どらら て、孰方がより美男子であるかを批判していたでもあろ「そんなら一つ、得意の猥談でも聴かせ給え」 かっ ねやともしび う。北の方は、嘗て幾夜となくうす暗い閨の燈火のはため「御、御冗談を仰っしやっては、・ かたがた く蔭に、夫の大納言の眼をかすめて此の男の抱擁に身をゆ「あツははははは、どうですか方々」 だねたおぼえはあるが、こう云う晴れの席上で、歴々の人と、時平は一座を見廻して、平中を指さしながら、 じん のろけ すこぶ 人の間に伍している彼を見るのは始めてであった。 : 、 力さ「此の人は猥談と惚気話が頗る得意なんですが、一席ここ しもの平中もこういう座敷では、堂々たる時平の貫禄に押でやって貰おうじゃないですか」 と要り・ 、らんとう されて、別人のように貧弱に見え、蘭燈なまめかしき帳の「ようよう ! 」 「謹聴謹聴 ! 」 奥で逢う時のような力がない。それに今宵は誰も彼もが はず はしゃ 羽目を外して燥いでいるのに、どう云うわけか平中はひとと、皆が拍手したが、平中は泣き出しそうな顔をして、 り沈んで、自分だけは酒が甘くないと云いたげな様子をし「御勘弁を御勘弁を」 ているのであった。 と、頻りに首を振るのであった。時平はいよいよ意地悪な と、時平がそれに眼をつけて、 笑いを露骨に示して、いつも私に聴かしてくれるのに、な 「佐殿」 ぜ此の席ではやれないのか、聞かれて困る人でもいるの すば と、遠く隔たった席から呼んだ。 か、どうしてもやらないなら、私が素ッ葉抜くがよいか、 ひろう 「あなたは今日は妙に萎げておられるね。何か仔細がある此の間のあの話を、代りに披露してやるそ、などと云って んですか」 脅迫する。平中はいよいよべそを掻いて、拝まんばかりの 時平の顔にいたずら好きな子供がするような、意地悪な恰好をして、 やはり しき
と、国経は次の間に控えている筈の老女を呼んだ。これはと、少し調子を変えて云った。 めのと むかし北の方の乳人をしたことのある、四十あまりになる「今朝眼がさめたら、わしはひとりで寝ている。 女で、嘗て讃岐介の妻になり任国へ下って暮すうちに、夫「はい」 うえ 「これはどう云うことなのか。上は何処へ行かれたのか」 に死なれたので北の方の縁を頼って来、ここ数年来大納言 「はい、 家に奉公をしているのであるが、大納言にすれば年の若い 北の方を娘のように思うところから、どうかした折には此「はいでは分らん。いったいどう云う訳なのだ。 の女房を娘の母親のように思い、夫婦間のことは勿論、家「昨夜のことを、お・ほえておいでにならないのでございま ばんたん しようか」 事万端の相談をしたりするのであった。 ・ : 上はもう此の 「今少しずつ思い出しているのだが、・ 「もうお眼ざめでいらっしゃいますか」 まくらもと やかた ・ : あれは夢ではなかった と、讃岐はそう云って枕許に畏まったが、国経は顔を夜着館におられないのだろうか。 わしは左大臣がお帰りになろうとする のだろうか。 の襟に埋めたまま、 のを、無理にお引き止めした。そうしたら左大臣が、箏の 「うむ」 ことと馬だけでは物足らぬ、もっと立派な引出物をせい と一と言、不機嫌に答えた。 物惜しみをするなと仰せになった。そこでわしはあの命よ 「いかがでいらっしゃいますか、御気分は」 ・ : あれは夢 りも大切な人を、引出物として差上げた。・ 「頭痛がして、胸がむかむかする。わしは二日酔いをした ではなかったのだろうか」 ようだ。 「ほんとうに、お夢であったらようございますものを。 「何そお薬を持って参りましようか」 「昨夜は大分過したらしいが、どのくらい飲んだであろう 母 不意に、何だか鼻をすするような音がしたので、国経が のか」 ・ : あんなにお顔を上げてみると、讃岐は袖で面を隠して、じっと俯向い 滋「さあ、どのくらい召上りましたやら。 ているのであった。 酔い遊ばしたのを、ついぞ見たことはございません」 「それでは、夢ではなかったのか。 「そうか、そんなに酔っておったか」 はばか 「憚りながら、何・ほう酔うていらっしやったにしまして 国経はそこで顔を出して、 も、どうしてあんな物狂おしい真似をなさいましたか。・ 「讃岐」 かっ すご はず うつむ
くたわいのないものなので、どう云う訳か、そんな大事の云う折にしつかり見覚えて置きたかったので、抱かれなが あおむ 日のことを、まるきり彼は思い出すことが出来ないのであら仰向いて見たが、残念なことには部屋が暗いのと、額か おお ずし る。彼の記憶は古い映画のフィルムのようにきれぎれで、 ら垂れたゆたかな髪が輪郭を覆い隠しているので、厨子の 前後につながりのない場面場面が、或るものはぼんやり中にある御仏を拝むようで、心ゆくまで見きわめたことは と、或るものは怪しいほどくつきりと、映像をとどめてい なかった。母のようにみめかたちのすぐれた人は稀である るのであるが、それらの数々の映像のうちで、今もしばしと云うことは、女房たちが噂するのを聞いて知っていたの やかた わたどのこうらん ば浮かんで来るのは、本院の館の、とある渡殿の勾欄のもで、うつくしいと云うのはこう云う顔のことなのかと思っ せんざい とくしん とにうずくまって、所在なさそうに前栽のけしきを眺めててはいたが、ほんとうにそうと得心が行っていたのではな いる自分の童姿であった。 かった。ただ母の衣には、何と云うものか特別に甘い匂の 彼はその渡殿の向うにある寝殿に、母が住んでいることする香が薫きしめてあったので、じっと無言で抱きしめら を知っており、自分はその母に会うためにそこで待たされれている間が好い気持であった。そして家に帰ってから てのひら ていたのであったが、いつも、やや久しく待っていると讃も、なお一一三日はその移り香が頬や掌や袂などに沁み着 こちら 岐が出て来て、此方へ入らっしゃいと云う合図をした。母いていたので、母が自分の身に付き添うているように思え はしちか おもや はめったに端近いあたりへ姿を現わすことはなく、母屋のた。 奥の方の一と間に垂れ籠めていて、彼が行くと必ず膝の上幼年の彼が母をほんとうに美しいと感じたのは、あの、 に載せて頭を撫で、頬ずりをしてくれるので、 平中に撼まえられて腕に歌を書かれた時のことであった。 ほころ 「お母さま」 あれは渡殿の軒に近く紅梅が綻びていたことを思うと、或 たいのや と云うと、 る春の日のことであったのは間違いないが、彼が西の対屋 すのこ めのわらわ 「和子ー の簀子のところで、二三人の女童を相手に遊んでいると、 と云って、ぎゅっと抱きしめてくれるのであった。だが、大人の男がニコニコしながら傍へ寄って来て、 それだけで、一と言一一た言やさしい言葉はかけてくれたけ「もし、 ・ : もうお母さまにお会いになったんですか」 れども、しみじみとした話などを聞かしてくれることがなと、そう云って彼の肩へ手を置いたので、滋幹は、 かったのは、まだ何を話しても理解の行かない年頃だった「まだ、 からであろうか。彼はたまにしか会えない母の顔を、そうと云おうとしたけれども、そんなことを云ってよいかどう
えて居るのだ。自分で勝手な夢を織り出す能力を持って居ての平面が、駄菓子を貪るいたずらッ子のっぺたのよう るのだ。己は夢の中で自分の恋人に会う事が出来るかも知に垢でよごれて、天井の低い、息苦しい室内に一年中鬱積 れない。成ろうことなら、己はいつまでも斯うやって眠っして居る湿っぽい悪臭は、共処に起居する人間の骨の髄ま たままで生きて居たい。・ で腐らせそうに蒸し暑く匂って居る。若し此の部屋にたっ しかし章三郎は、そう思った瞬間にばっちり眠をあいてた一つしかない彼の窓から、僅かにもせよ蒼穹の一部分が あたか しまった。恰も子供が息を吹き過ぎてシャポン玉を壊して見えなかったら、章三郎はとうに気が狂って死にはしなか しまったような、取り留めのない悲しみを覚えながら、一 ったかと危ぶまれる。どう考えても、此れが万物の霊長を こくう 、い、、もの 旦虚空へ飛び散った幻の姿を取り返すべく、彼はあわてて以て誇って居る高尚な生物の棲息する所とは信・せられなか つぶ もう一遍眼を潰って見たが、美女も白鳥も遂に再び彼を訪った。 、たな けれども章三郎よ、、、 をし力に人間の世が穢くっても、自分 れて来そうもなかった。 かく 彼はものうげに身を起して、窓際に頬杖をつきつつ、夢が兎に角足を著けて生きて居る大地から全く飛び離れて、 とぎばなし しようたい の中に現れた幻の正体かと想われる五月の空の雲のきれぎお伽噺の子供のように架空的な天国へ昇ってしまったり、 あお そう、ゆう れを仰ぎ視た。夏らしく晴れ渡った蒼穹には勇ましい南風・夢幻的な楽園へ救われて行ったりしようとは望まなかっ が充ち充ちて、ところどころに浮游する雲の塊を忙しそうた。土から生えた植物が、何処までも土に根をひろげて生 を享楽して行くように、彼も亦現実の世に執着しつつどう に北へ北へと押し流して居る。 「夢だの空だのはあれ程美観に富んで居るのに、どうしてにかして楽みを求め出したかった。そうして共れが、彼に 、たな は必ずしも不可能の事とは思われなかった。自分が今住ん 己の住んで居る世の中は、こんなに穢いのであろう。」 ろうこう そう考えると章三郎は、いよいよ今見た幻の世界が恋いで居る陋巻のあばら屋の周囲にこそ、あらゆる醜悪や陰鬱 しくなって、遣る瀬なさが胸に溢れた。 や悲運が付き纒わって居るものの、人間の世の凡べてが此 彼の住んで居る家ーーーー日本橋の八丁堀の、せせこましれ程に暗く冷たい物であろうとは信ぜられない。寧ろ反対 ごうしゃ い路次の裏長屋にある此の二階の一室には、西の窓から望に、思う存分の富と健康とを獲得して、王侯に等しい豪奢 はる まれるあの壮快な空を除いて、外に何一つ美感を起させるな生活を営み得る身分になれたなら、此の世は遙かに天国 ふすま 物はないのである。四畳半の畳と云い、押し入れの襖と云や夢幻の境より楽しく美しく感ぜられるに違いない。今逆 かんばう 、牢獄の檻房に似た壁と云い、四方を仕切って居る凡べ境に沈んで居る彼が、そんな身分に転じようとするのは、 ほおづえ いそカ こわ まっ むさほ くる むし
つらあ 面当てがましく正午近くまで寝坊をしたり三日も四日も家してくれる者はないのだそ。己はもう、死ぬまで親父の顔 1 を明けたりする。 を見る事が出来ないのだそ。子供の時分に己を抱いて寝 おれこ 「そんなに親父が嫌ならば、なぜ己は此の家を飛び出してて、己にお乳を飲ませてくれたお袋にも、もう会う時はな しまわないんだろう。一番親父と大暄嘩をして、きれいさ いのだそ。」 かんどう ひょうろう つばり勘当されて、永遠に関係を絶ってしまわないんだろ ここまで考えを押し詰めて来ると、彼はそそろに漂浪の う。こんな薄穢い長屋に居るより、愉快なところは世間に心細さを感ずるのであった。そうして再び、親父といがみ ろうおく 沢山あるじゃないか。たとえ放浪生活をして、どんな境涯合う為めに八丁堀の陋屋へ舞い戻った。 に落魄しても、まだ今よりは幸福じゃないか。」 かほどまでに自分の心を拘東して居る親と云うものの、 しゆっぱん なおさら 彼は期う云う決心を定めて、既に幾度も出奔を企てて居因縁の深さを知れば知るだけ、彼は尚史其の因縁を呪い且 しき うと た。古本を売り払ったり、友達から金を借りたり、僅かの恐れた。頻りに親を疎んじながら、遂に親の手を離れられ 旅費を都合して、ふらりと家を抜け出したまま十日も一一十ない自分の意志の弱さを怒った。 日も処々方々をうろっき廻る事があった。けれども十日な り二十日なりの後、結局彼は東京へ帰って来ずには居られ「おい、章一一一郎、起きねえか、起きねえか。」 なお 、な、かっ 420 親父は猶も連呼しながら、続けざまに彼の臀部を足で蹴 「自分の体なんそどうにでもなるがいい。 己には親も友達飛ばした。 もないんた。」 「また昼寝なんそして居やがる。 : ・それにまあ何だ此 ぎま そう思っては見るものの、彼にはやつばり自分を生んだの態は ! 蓄音機でも何でも出せば出しッ放しにして、片 親の家が、よしやどれ程むさくろしくとも、どれ程不愉快付けもしやがらねえで、 ・ : 使ったら使ったで、ちゃん に充ち充ちて居ても、最後の落ち着き場所であった。自分と元の通りにして置かねえか ! 」 あくび の生れた土を慕い、自分の育った家を恋うる盲目的な本能章三郎はどろんとした眼を天井へ向けて、憎げな欠伸を ぶったお が、常に心の何処か知らに潜んで居て、漂泊の門出に勇むして見せながら、まだ睡そうに打倒れて居た。其の癖意識 ひる 血気を怯ませた。 はとうにハッキリして居るのだが、こんな場合に素直に起 「己は生涯、もう此の家へ帰って来ることが出来ないのだきるのが嫌さに、わざと意地悪く振る舞ってやった。 ぞ。何処の野の末、山の奥で朽ち果てようとも、己を看病「起きろってば起きねえか、こん畜生 ! 」 でんぶ
かたず 一座は哲人の教えを聴かされて居るように、堅唾を呑ん 騒ぎがしたのだ。・ 兄は心で斯う云って、熟柿臭い酒の匂を、重い溜息と一で耳を澄ました。その言葉こそ、今肉体から離れて行こう とする霊魂の、断末魔の声であった。それが終ると、次第 緒に洩らした。 「ねえお父つあん、もう一遍芳川さんに注射して貰いましに病人は息を引き取った。 「なんだなあ、病人と云う者はよく死ぬ時にシャックリを よ、つ . か 0 」 するけれど、此の子はちっともしなかったなあ。芝居なん と、母が云った。 おんな しいがどうせ同じぞでもシャックリをして見せるもんだが : 「そうよなあ、して貰うなら貰っても、 事じゃねえか。章三郎も帰って来たし、みんな揃って居る父は不審そうに臨終の様子を眺めて云った。死んだ体は tJ うらよく んだから心残りはありゃあしめえ。無理な事をして生かしまだ微かに動いて居た。もくもくと肩の筋肉を強直させ て、唇の間から、葉牡丹のように色の褪せた舌を垂らした。 て置くだけ、却って当人が可哀そうだ。」 不意に、母親がだらしのない、大きな声でわいわいと泣 こう云った父の口元には、ひッつりのような笑いが見え くわ こ 0 きかけたが、父親に激しくたしなめられて袂を口に咬えな 遣る瀬ない、呼吸の詰まるような苦しい時が、無言の儘がら、屍骸の傍に打ち俯してしまった。 一時間ばかり過ぎて行った。突然、病人の唇は蛞蝓の蠢く んど ) ような緩やかな蠕動を起した。 うん 「かあちゃん、・ : ・あたい糞こがしたいんだけれど、此それから二た月程過ぎて、章三郎は或る短篇の創作を文 壇に発表した。彼の書く物は、当時世間に流行して居る自 のまましてもいいかい。」 然主義の小説とは、全く傾向を異にして居た。それは彼の み「ああいいともいいとも、その儘おしよ。」 ほうれつ 悲母は我が子の最後の我が儘を、快く聴き入れてやった。頭に酵する怪しい悪夢を材料にした、甘美にして芳烈な 者暫くの間、病人は ( ッキリ意識を回復して、左右の人々る芸術であ 0 た。 端にぼつりぼつりと言葉をかけた。 「あああ、あたいはほんとに詰まらないな。十五や十六で あたい : だけど私は苦しくも何ともな 死んでしまうなんて、 。死ぬなんてこんなに楽な事なのか知ら・ ゆる とっ かえ じゅくし まま なめくじうごめ よっこう
こう云う意味を、彼の眼つきが語って居るようであっ敬服したらしく、前よりも一層信頼の度を強めた。 はず た。お鈴は計略の狙いが外れて残念に思いながら、内心彼 の不思議な智力に対する驚嘆の情が、次第次第に増して来やがて其の年の七月になって、三人の少年はそれそれの るのを覚えた。彼の女は、春之助が弟よりも自分を教える学校から、学期試験の成績を受け取った。云うまでもなく こうふん こんせつ 時に余計熱心で懇切で、張り合いのありそうな口吻を洩ら春之助は全級中の首を占めて、神童の誉れはいよいよ高 はや すのを、早くも心付いてしまった。遂には玄一の前で、 く、今迄の中学校には前例のない破天荒な優等生と持て囃 「自分の方が弟よりも話のわかる、悧巧な少女である。」とされた。既にその頃の彼の頭脳は高等学校くらいの程度に 云う事を見せびらかしてやりたい為めに、故意に頻々と高進歩して居て、試験の準備など殆んど片手間の仕事であっ 尚振った質問を春之助に試みた。一一人の間には云わず語らた。あまり学校が楽過ぎるので、四月時分からこっこっと ず師弟の情に似通った、馴れ親しみが生ずるようになっ独逸語の独学を始めたのが、今ではそろそろレクラム版の たど た。いつであったかお鈴は春之助から教わった事実が、明クラシック物を、字引きを引きながら辿り行く迄になって くる日女学校の先生に聴いて見たら違って居たと云い出ししまった。英訳のプラトン全集を熟読して非常に感奮させ られた彼は、早く原書でショオ。ヘンハウエルに親しみたい て、彼と争ったことがあった。 しようりよ おおかた 「それは大方先生の方が間違って居るのです。明日学校へと焦慮した。彼の性好はますます哲学に傾き、彼の思索は だんだん奥深い唯心論の理路に分け入った。「生きるより いらしったら、もう一遍先生に尋ねて御覧なさい。」 と、春之助はきつく云い張った。お鈴は彼の負け惜しみをも先ず疑うこと、行うよりも先ず悟ること」が必要だと彼 は思った。小学校時代にぼんやり考えて居たような、あやふ 小面憎しと感じつつ、翌日先生に再び念を押して見ると、 こんてい いったん ゃな人生観を根柢から破壊して、善も悪も神も悪魔も一旦 果して春之助の予想通りであった。 こと tJ と 悉く否定し去って、自分は充分に質疑し煩悶し、然る後 童「どうです。先生は何と云いました。」 かくぜん その晩春之助が斯う云ってると、彼女はしらじらしく貴い古えの聖者の如く廓然として大悟しなければならぬ しき むらう す と、彼は頻りに心を鞭撻った。「目下のところ、己は善人で 神済まし返って、 「やつばり先の通りでいいんだって仰っしやったわ。瀬川も悪人でもない。人に向って道徳を教うる確信もなければ しりぞ 不道徳を斥ける権威もない。此れでも己は聖人になれるだ さんの方が間違って居るのよ。」 と、嘘をついた。しかし其れ以来、彼の女は深く春之助にろうか。」そう気が付くと彼は後ろから追い立てられるよ こづらに / 、 ねら ひんびん
そひそ話が聞えるので、そのまま息を凝らしつつ耳を欹てないから、四月になって、いよいよと云う時に学校の先生 こ 0 からでも意見をして貰いましよう。ほんとうに此の頃で 『あ 「あれも今年は十三だろう。十三と云えば昔はみんな奉公は、先生までが馬鹿にされて居るんですからね。 に出したものだ。それに行く末大学迄もやらせると云うよのお子さんにはかないません。全く末恐ろしいお子さんで うな余裕のある内の子供ならいいが、なまじ中学で止めさす。ああ云う子供は非常にえらくもなれる代りに、若し慢 せるくらいなら、いっそ此処いらで奉公にやった方が当人心するとどんなに堕落するか知れないから、よくよくお気 の為めにもなる。」こう云うのは父の言葉である。春之助をつけなさいまし。』ッて、此の間も先生が云って居まし の胸は、急に重い石で圧し付けられるような悩みを覚えたよ。」 おおかた 大方こうであろうとは予期して居たが、現在まざまざと た。今度は母が共れに答えた。 「ですがあれ程学問をやりたがって居るのだから、せめて共の相談を聞き込んで見ると、彼は両親を恨むよりも憫む 小学校だけでも卒業させたらどうでしようね。今奉公にや方が先へ立った。学問の貴さを悟らず、人生の意義をも解 わ・こら・ ると云ったら、なかなか承知をしますまいし、悧巧な子だせぬ、何と云う無智な、浅はかな親たちであろう。自分が けにあんまり無慈悲な親たちだなんそと、恨まれたりしち学校の先生や親たちを軽蔑するのは、決して慢心の結果で はない。自分の道徳観が、彼等の道徳観よりも遙かに進み や気持ちが悪うござんすから。」 「小学校を卒業しないたって、あの子はもう其れ以上の学過ぎて居る為めなのだ。かりに其れを慢心と名づけるなら たど あきんど 問があるんだから、商人としての教育に不足はないさ。学名付けてもよい。しかし自分の慢心は、向上の一路を辿る 校へやって置くとますます学問に凝ってしまって、気位ば助けとこそなれ、堕落の導線となろう筈はない。釈迦や基 かりが高くなって仕様がない。今夜にしたって御覧な、も督の堕落する事が不可能であると同じく、自分は絶対に堕 童う三時じゃないか。毎晩毎晩こんな夜更けまで本を読み耽落の恐れのない人間である。春之助はそう考えた。たとえ って居るようじゃ、今に体を壊してしまう。だからまあ此学校の教師や親たちが如何に反対しようとも、自分はどう の四月になって、高等一一年を済ませたら直ぐにも奉公に出しても商人などにさせられる人間ではない。自分のような 神 した方がいしし 、ずれ共の時になったら私からよくそう云天才が、商店の小僧などになろう訳がない。自分は必ず、 ってやろう。」 何とかして学問をやり通さねばならぬ。又やり通すべき運 「そうですね。今そんな事を云い出すと又何を云うか分ら命に立って居る。天が自分を捨てないならば、いかほど俗 そばだ スト あわれ キリ
とうてい、ゆう きっすい 劣って居るのではない。んや自分には、彼等の到底企及年が十六で、生粋の江戸っ子で、おまけになかなか悧巧な 娘らしいから、事に依ったら鈴木の妹より、 し難い芸術上の天才がある。 しいかも知れな おれ ひんせき 。どうだい一つ、お得意の交際術を発揮して間室の所へ 「今に見ろ、己は貴様たちに擯斥されながら、えらい仕事 見舞いに行ったら。」 をして見せるから。」 いつの間にか章三郎はむッつりと鬱ぎ込んでしまった「いくら美人でも肺病は御免蒙むるよ。病気が直ったら交 が、共の様子を気の毒だと看て取ったのか、 Z が俄かに話際術を用いるがね。」 「病気が直れば、は妹を芸者にするから、そうしたら 0 頭を転じて、慰めるように云った。 わずら に可愛がって貰おうか。実際そりゃあ好い女だよ。妹の器 「妹と云えば君の妹も長い間煩って居るそうじゃないか。 量を褒めるのもおかしいが、あんな顔だちはちょいと珍し どうだい、ちっとはいい方なのかい。」 「いや駄目だ。とても助からないんだ。もう長い事はあるいね。」 でたらめ す まい。」 章三郎は直ぐと図に乗って、こんな出鱈目をしゃべり立 ようよいゝ 妹の話で漸う息を吹き返した章三郎は、わざと心配らしてた。骨と皮ばかりに痩せ衰えて居る妹を、彼は今迄一遍 い表情を浮べて、憐れみを乞うが如く三人の顔に上眼を使も「珍しい器量」だとか「芸者にする」とか考えた覚えは ない筈である。彼は此の際、何でも一座の興がるような話 いながら、ガッカリした調子で云った。 を持ち掛けて、自分に対する友達の反感を早く忘れさせて 「何だい病気は ? 」 しまいたかった。 と、 0 が始めて、打ち解けた声で章三郎に口をきいた。 「肺病なんだよ。」 「鈴木の妹を細君にして間室の妹を妾に持つか。何しろ兄 み こう答えた彼の顔には、一度に重荷を卸したような喜び貴が兄貴だから、間室の妹も芸者になったら定めし辣腕を し ふる 悲の色が光って居た。 振うだろうなあ。あはははは。」 と云って、が晴れ晴れしく笑った。その笑い方がひどく 者「いやに君は友達の妹を気に懸ける癖があるね。」 よこあい 端 無邪気に響いたので、多少皮肉な言葉だとは感じながら、 Z が横合からロを挾んで冷やかし始めた。 異 「 : : : : ・何しろ間室の妹と云うのは、兄貴に似合わぬ美人間室を初め Z も 0 もどっと賑やかに笑い崩れた。 だそうだぜ。肺病なんそになる女は、大概昔から美人に極「己を擲ると云った彼の憤慨屋のまでが、己に向って笑 わか まって居るもんだから、見ないでも様子は判って居るさ。顔を見せるようになればもう大丈夫だ。死んでしまった鈴 ムさ おろ なぐ らつわん
312 る。と、左様に仰っしやっておいでになりまして、三箇日 「どうなさいましたの」 まっげ 老人の眼に浮かんだ涙が、自分の睫毛に伝わって来たののうちには必ず参上致すからお含み置きを願うようにと、 申し付かって参りました」 使者はそう云って帰った を感じると、北の方ははっとして眼を開けたが、 のであったが、此の申越しはいやが上にも国経を驚喜せし 「いや、何でもない、何でもない」 めた。事実、時平が此の大納言の所へ年頭の礼を述べに来 と、老人はひとりごとのように云って口を噤んだ。 そんなことがあってから数日後、はやその年も残り少なるなどと云うことは、嘗て前例がないばかりでなく、前代 になった十一一月の二十日頃に、又しても時平の許から数々未聞の事件と云っても差支えない。此の恵み深い青年の左 さらよわい の贈物が届けられた。「大納言殿も来年は更に齢を加えら大臣は、一門の年長者たるの故を以て一介の老骨に結構な うけたまわ れ、いよいよ八十路に近くなられると承るにつけても、財宝をあまたたび贈ってくれた上に、今度は自身その邸宅 がま ささ 縁につながるわれわれ共は慶賀に堪えない。これは些かなに駕を枉げると云う光栄を授けてくれるのである。 ありていに云うと国経は、先達から左大臣の測り知られぬ がら、そのおよろこびのしるしまでに差上げるのですが、 どうぞ 何卒これらの品々を御受納なされて、よき初春をお迎えに温情に対して何がな報いる道はないだろうかと、寝ても覚 なって下さい」と、使者はそう云うロ上を述べたが、なおめてもそのことを気に懸けていた矢先であった。そして、 やかた 付け足して、時平が正月の三箇日のうちに、大納言の館へ大臣の邸とは比べものにならない手狭な館ではあるけれど いっせき 年賀に見えるであろうと云う意を伝えた。「大臣が仰せらも、一タ我が方へ臨席を仰いで饗宴を催し、心の限りもて れますには、自分の伯父御にこう云う長寿の人があるのはなしをして、感謝の念の万分の一でも酌み取って貰えない 返す返すも一門の栄誉である。自分はかねがね此の伯父御であろうかと云うことも、考えないではなかったのである かっ とゆっくり酒を酌み交して、共によろこびを分ち、且は養が、なかなか大納言風情の所へなど来てくれそうな人では わきま ないので、申し出ても無駄であろう、却って身の程を弁え 生の術をも授かり、且は健康にあやからせて戴きたいと存 じながら、今日まで折がなくて過して来たので、是非近々ぬ失礼な奴と、物笑いになるだけであろう、と、そう思っ はか にその念願を遂けたいのであるが、それには此の正月がよて差控えていた際であったのに、図らずもその人が自ら望 まろら・ど い機会である。自分は毎年伯父御の邸へ年賀に参上したこんで客人になろうと云い出したのであった。 にわか とがないのを、済まなく存じていた際でもあるから、来春その翌日から国経の邸は俄に活気づき、大勢の人夫共が から改めて御挨拶に伺い、年来の無礼をも詫びたいのであ出入りし始めた。もう正月に余日もないので、大切な客人 つぐ さようお ふぜい かっ せんだって てぜま かえ