北の方がなお気を付けて見ていると、左大臣はさっきか のね」 ながしめ お側の女房たちがそっと袖を引き合って溜息を洩らしたら時々ちらちらと御簾の方へ流眄を使う。それも最初は遠 ぬす のは、北の方の同感を求めるためであったらしいが、北の慮がちな眼つきで、こっそり偸むように視線を投げ、すぐ また 方は眼顔でそれをたしなめて、ただ吸い寄せられるように又しらを切っていたが、酔いがすすむに従ってその眼づか 御簾の方へ体を擦りつけていた。北の方が先ず驚いたの し力にも様子ありげな、色気たっぷりな いが大胆になり、、、 は、主人の国経が常になく酔態をさらけ出し、だらしない表情をたたえて見るのであった。 ろれつ かど 恰好で何か呂律の廻らない濁声を挙げていることであった 我が門を い。だが此の方 とさんかうさん練る男 が、左大臣もそれに劣らず酔っているらし ざま はさすがに夫の大納言のような見つともない態はしていな よしこさるらしゃ こらら あちら 。大納言は坐っていても彼方へよろよろ此方へよろよろ よしこさるらしゃ わがかどを し、眼がどろんとして何を見ているのやら分らないが、左 これは催馬楽の「我門乎」の文句であるが、左大臣はこ 大臣は居ずまいも正しく、しゃんとしていて、酔っても威れを謡いながら、「よしこさるらしや」の繰り返しのとこ 容を崩さない。それでいて絶えず杯に満を引いて、いくらろへ来ると、一段と声に力をこめて唱えた。そして訴える うち まな うた さいばら あお でも酒を呷っている。管絃の合間合間に皆が催馬楽を謡うような眼ざしを、臆するところなく真っ直ぐ御簾の裡へ注 のであるが、左大臣の声の美しさと節廻しの巧さには、誰いだ。北の方は、自分が左大臣を隙見していることを、左 但し、これは北大臣が知っているかどうか半ば疑問にしていたのであった も及ぶ者がないように感ぜられる。 あか さよう の方や付添いの女房たちが左様に感じた迄であって、時平が、今は疑う余地もないと思うと、自分の顔が俄かに赧く が果して音曲の才を備えていたかどうか、別段それを証拠なるのを感じた。現に左大臣の装東に薫きしめてある香の の立てるような記録があるのではない。が、時平の弟の兼平匂が、此の御簾のうちへかぐわしく匂って来るのを見れ た、もの くないきよう ば、彼女の衣の薫物の香も左大臣の席へ匂っているに違い 滋は琵琶の上手で、琵琶宮内卿と云われた人であったこと、 せがれ * はくがのさんみ ない。事に依るとあの屏風の畳まれたのも、誰かが左大臣 少忰の敦忠も管絃の名手で、博雅三位に劣らない人であった こと、などを思い合わせると、或に時平にも多少その方面の意を酌んで、わざとあんな風に動かしたのであるかも知 まんざら の天分があったかも知れず、満更これらの婦人たちの心れない。それかあらぬか、左大臣は御簾のうちにある北の 方の顔を、何とかして見届けようとする如く、探るような 目ではなかったでもあろうか。 だみごえ にわ
にわか と、俄に上座から席を移して、平中の前へ膝をすり寄せ「いえ、 ・ : どう致しまして」 「いかん、いかん、隠してもちゃんと種が上っています」 来たな、と思って平中が胸をどきっかせていると、時平二人の間にこんなエ合な問答が交されるのはそう珍しい はニャニヤ薄笑いを浮かべて、 ことではなかった。いつも時平が冷やかしにかかると、最 「いや、突然つかぬことをお聞きするようだけれど、あ初のうちは存じませんの一点張りで、しらを切る平中なの * そち の、帥の大納言の北の方な ? : : ・ : : 」 であるが、だんだん深く問い詰めると、結局「知らないで 「はあ、はあ」 もない」と云うような所へ落ちる。それから又問い詰めて ふみや 平中はそう云って、まだ薄笑いの消えやらぬ時平の顔を行くと、「文の遣り取りだけはした」となり、「一度逢った 不思議そうに視つめた。 ことがある」となり、「実は五六度、 : 」となり、し なにか 「あの北の方を、あなたは知っておられるであろうな」 まいには何も彼も白状する。そして時平が驚くことは、当 いちおうわた 「あの北の方・ : : : : でございますか」 時世間に評判されている女たちの中で、平中が一往渡りを ほとん 「そんなにおけなさらずと、知っておられるなら知ってつけていない者は殆ど一人もないのであった。で、今夜も いると、正直に云って下さるがよい」 時平に詰め寄られると、次第に云うことがしどろもどろ 平中がどぎまぎしている様子を見て、時平は一層膝をすに、ロの先では否定しながら顔つきでは肯定し始めたので すめた。 あったが、時平が猶も追究すると、 「不意にこんなことを云い出して、変にお思いかも知れな「実は何でございます、あの北の方に仕えておりました女 じっこん いが、あの北の方は世に稀な美人だと云うがあるが本当房に、少々ばかり昵懇の者がございましてな」 かな ? : : なあ、これ、お恍けなさるなと云うのに。・ と、おもむろに口を割り出した。 「ふん、ふん」 「いえ、恍けてなんそおりは致しません」 「その者から聞いたのでございますが、あの北の方は並び はたら 懸念していた侍従の君のことではなくて、思いも寄らぬない器量のお人で、年はようよう一一十歳ばかりでいらっし 人のことが問題になっているのだと分ると、平中は先ずほやる。 っとした。 「ふん、ふん、それくらいは私も聞いていますよ」 「これ、知っておられるのであろうな」 「ところが、何分大納言殿はあの通りの老人であられます こ 0 なお
「ですが、もうわたしなどは何を着ようと差支えない。あ 「やつばり長生きはするものですね」 と、或る晩老人は、北の方のゆたかな頬に皺だらけな顔をなたこそあの綿や錦を召して下さいー 「それでもだ臣は、殿がお風邪を召さぬようにと仰 0 しゃ 擦りつけて云った。 「わたしはあなたのような人を妻に持って、自分の幸福はって、下されましたものを、 もう十分だと思っていましたのに、そのうえ近頃は左大臣低い声でしかものを云わない北の方は、耳の遠い老人に : ほ分らせることが困難なので、自然夫に対しては言葉数が少 のようなお人から、斯ように優しくして戴ける。 ほとん んとうに、人はいつどんな時にどんな好運にありつくか分く、分けても閨に這入ってからは殆ど無言で通すので、此 かわ らないものです」 の夫婦の間では寝物語が交されることはめったになく、大 老人は、北の方が黙ってうなずいたのを自分の額で感じ概老人の方がひとりでしゃべりつづけるのであった。そし うなじ ながら、一層つよく顔を擦り着け、両手で項を抱きかかえて北の方はただうなずくか、たまに一と言か二た言、老人 はた みみたぶ るようにして彼女の髪を長い間愛撫した。二三年前まではの耳の端ヘロを寄せて、唇が耳朶へ触れるくらいにして云 うのであった。 そうでもなかったのであるが、最近になって老人はだんだ しつよう ん愛し方が執拗になり、冬の間は毎夜北の方を片時も離さ「いいや、わたしは何も要りはしない。何も彼もあなたに ・ : わたしには此の人さえあれば : ず、一と晩じゅう少しの隙間も出来ないようにびったり体進ぜます。 を喰っ着けて寝る。そこへ持って来て、左大臣が好意を示そう云って老人は又自分の顔を妻の顔から遠ざけなが ら、妻の額の上にかかる髪の毛を掻きのけ、その目鼻だち すようになってからは、その感激のせいでつい酒を過し、 酩酊してから床に這入るので、なおさらしつッこく手足にヘ燈火のあかりがほんのり当るようにした。こう云う時、 ゆが から いつも北の方は老人の節くれだった歪んだ指がわななきな 絡み着くようにする。それにもう一つ、此の老人の癖は、 ねや がら髪をいじくったり頬をさすったりするのを感じつつ、 閨の中の暗いのを厭うて、なるべく燈火をあかるくしたが るのであった。と云うのは、老人は北の方を手を以て愛撫おとなしく老人のするままになって眼を閉じているのであ するだけでは足らず、ときどき一二尺の距離に我が顔を退る。それは顔の上にさす明りの晴れがましさを避けるた むさば いて、彼女の美貌を讃嘆するように眺め入ることが好きなめ、と云うよりは、老人の貪るような瞳の凝視を避けるた ので、そのためにはあたりを明るくしておくことが必要なめ、と云った方が適当であるかも知れない。八十に近い老 かよう のであった。 人に斯様な熱情があることは、不思議と云えば不思議であ しわ
るが、実はさしもに頑健を誇った此の老人も、一二年此の五十以上も歳の違う夫に添わされた我が身の悲運を、それ ようや ほどにも自覚していないように見えるのが不思議で、何か かた漸く体力が衰え始め、何よりも性生活の上に争われな い証拠が見え出して来たので、それを自覚する老人は、一自分が世間知らずの妻を欺しているような気がするばかり もっと つには遣る瀬なさの余り変に懊れているのでもあった。尤でなく、妻の犠牲の上に自分の幸福が築かれていると云う も彼の場合、その遣る瀬なさは、自分の悦楽が思うように意識があるからなのであるが、内心にそう云う訝しみを蔵 叶えられないと云うよりは、此の若い妻に申訳ないと云うしつつ眺めると、ひとしお此の顔が神秘に満ち、謎のよう に見えて来るのである。老人は、自分がこれほどの宝物を 気持から来る方が多いのではあったが、・ 独り占めにしていること、世にこれほどの美女がいること 「いいえ、そんなお心づかいはなさらないで、 を知っているのは自分だけで、当人さえもそれをはっきり 老人がその胸中を率直に打ち明けて、あなたに済まない と思っている、と云う風に詑び言めかして云うと、北の方とは知っていないらしいことを思うと、何となく得意の念 はしずかに頭を振って、 0 て夫を気の毒がるのが常であの禁じ難いものがあり、どうかすると、此のような妻を持 った。お年を召せばそれが当り前なのであるから、何も気っているのを誰かに見せて、自慢してやりたい衝動をさえ ひるがえ になさることはない、その当り前の生理に背いて無理なこ感じるのであった。又飜って思うのに、もし此の人がロ よろ みず とをなさるのこそ、お体のために宜しくない、そんなことで云う通りのことを考えているのであったら、 せっせい より、殿が摂生をお守りなされて一年でも多く長寿を保つからの性的不満などは意に介せず、ひたすらに老いたる夫 て下さる方が私もうれしい、と、北の方はそう云う意味にの命長かれとのみ願っているのが本心であるなら、 その有難い志に対して自分は何を報いたらよいのか、自分 取れることを云う。 かたじけな は此の後、ただ此の顔を眺めるだけで満足しつつ死んで行 「そう云って下さるのは忝いが」 の老人は、そんなエ合に北の方から優しい言葉で慰められきもしようけれども、此の若い人の肉体を、自分と共に朽 滋ると、一層北の方の心根がいとおしくなるのであ 0 た。そち果てさせてしまうのは余りにも不憫であり惜しくもあ 将 して、又しても眼をつぶ 0 てしま 0 た北の方の顔を見守りる。で、両手の間にその宝物をし 0 かりと挾んで視つめて 少 るといっそ自分のようなものは一日も早く消えてなく を、ったい此の人は心の奥でどんなことい ながら思うことよ、、 を考えているのだろうか、と云うことであった。それと云なって、此の人を自由にさせてやりたいと云う怪しい気持 にもなるのであった。 うのも、此の人がこんなにもすぐれた器量を持ちながら、 こうべ そむ だま あや
と、国経は次の間に控えている筈の老女を呼んだ。これはと、少し調子を変えて云った。 めのと むかし北の方の乳人をしたことのある、四十あまりになる「今朝眼がさめたら、わしはひとりで寝ている。 女で、嘗て讃岐介の妻になり任国へ下って暮すうちに、夫「はい」 うえ 「これはどう云うことなのか。上は何処へ行かれたのか」 に死なれたので北の方の縁を頼って来、ここ数年来大納言 「はい、 家に奉公をしているのであるが、大納言にすれば年の若い 北の方を娘のように思うところから、どうかした折には此「はいでは分らん。いったいどう云う訳なのだ。 の女房を娘の母親のように思い、夫婦間のことは勿論、家「昨夜のことを、お・ほえておいでにならないのでございま ばんたん しようか」 事万端の相談をしたりするのであった。 ・ : 上はもう此の 「今少しずつ思い出しているのだが、・ 「もうお眼ざめでいらっしゃいますか」 まくらもと やかた ・ : あれは夢ではなかった と、讃岐はそう云って枕許に畏まったが、国経は顔を夜着館におられないのだろうか。 わしは左大臣がお帰りになろうとする のだろうか。 の襟に埋めたまま、 のを、無理にお引き止めした。そうしたら左大臣が、箏の 「うむ」 ことと馬だけでは物足らぬ、もっと立派な引出物をせい と一と言、不機嫌に答えた。 物惜しみをするなと仰せになった。そこでわしはあの命よ 「いかがでいらっしゃいますか、御気分は」 ・ : あれは夢 りも大切な人を、引出物として差上げた。・ 「頭痛がして、胸がむかむかする。わしは二日酔いをした ではなかったのだろうか」 ようだ。 「ほんとうに、お夢であったらようございますものを。 「何そお薬を持って参りましようか」 「昨夜は大分過したらしいが、どのくらい飲んだであろう 母 不意に、何だか鼻をすするような音がしたので、国経が のか」 ・ : あんなにお顔を上げてみると、讃岐は袖で面を隠して、じっと俯向い 滋「さあ、どのくらい召上りましたやら。 ているのであった。 酔い遊ばしたのを、ついぞ見たことはございません」 「それでは、夢ではなかったのか。 「そうか、そんなに酔っておったか」 はばか 「憚りながら、何・ほう酔うていらっしやったにしまして 国経はそこで顔を出して、 も、どうしてあんな物狂おしい真似をなさいましたか。・ 「讃岐」 かっ すご はず うつむ
微笑が浮かんだのを、平中は世にも恨めしそうに横眼で見 瞳を挙げてしきりにキョロキョロするのであった。 左大臣の席からはずっと離れた遙かな末座に、別にもう ひそ 一人、矢張此の御簾のあたりへ密かな視線を注いでいる男「いや、そんなことはございませんが、 があるのを、北の方は疾うから意識していたが、それは云と、強いて苦しそうな愛想笑いを洩らして云った。 もらろん う迄もなく平中であった。女房たちは勿論それに気が付い「でも可笑しいですね、酒がちっとも行かんようじゃない やさおとこ ていたのであるが、今の場合北の方にかって、此の優男ですか、もっと飲み給えもっと飲み給え」 の尊をするのを差控えながら、心の中では左大臣と比較し「十分戴いているのでございます」 わいだん どらら て、孰方がより美男子であるかを批判していたでもあろ「そんなら一つ、得意の猥談でも聴かせ給え」 かっ ねやともしび う。北の方は、嘗て幾夜となくうす暗い閨の燈火のはため「御、御冗談を仰っしやっては、・ かたがた く蔭に、夫の大納言の眼をかすめて此の男の抱擁に身をゆ「あツははははは、どうですか方々」 だねたおぼえはあるが、こう云う晴れの席上で、歴々の人と、時平は一座を見廻して、平中を指さしながら、 じん のろけ すこぶ 人の間に伍している彼を見るのは始めてであった。 : 、 力さ「此の人は猥談と惚気話が頗る得意なんですが、一席ここ しもの平中もこういう座敷では、堂々たる時平の貫禄に押でやって貰おうじゃないですか」 と要り・ 、らんとう されて、別人のように貧弱に見え、蘭燈なまめかしき帳の「ようよう ! 」 「謹聴謹聴 ! 」 奥で逢う時のような力がない。それに今宵は誰も彼もが はず はしゃ 羽目を外して燥いでいるのに、どう云うわけか平中はひとと、皆が拍手したが、平中は泣き出しそうな顔をして、 り沈んで、自分だけは酒が甘くないと云いたげな様子をし「御勘弁を御勘弁を」 ているのであった。 と、頻りに首を振るのであった。時平はいよいよ意地悪な と、時平がそれに眼をつけて、 笑いを露骨に示して、いつも私に聴かしてくれるのに、な 「佐殿」 ぜ此の席ではやれないのか、聞かれて困る人でもいるの すば と、遠く隔たった席から呼んだ。 か、どうしてもやらないなら、私が素ッ葉抜くがよいか、 ひろう 「あなたは今日は妙に萎げておられるね。何か仔細がある此の間のあの話を、代りに披露してやるそ、などと云って んですか」 脅迫する。平中はいよいよべそを掻いて、拝まんばかりの 時平の顔にいたずら好きな子供がするような、意地悪な恰好をして、 やはり しき
出して可笑しがっておられるだろう。あの人にしたって、 た。もともと此の事の起りは、去年の冬の或る夜、彼が本 かえ 熱狂的な愛情から出た行動であることを理解しないで、却院の館に伺候した折、左大臣からあの北の方のことをいろ おれ いろ尋ねられたので、ついうつかりと、好い気になってお って己の薄情を恨んでいるだろう。 ・ : 実際、左大臣の ような人なら他にいくらでも美しい妻を求めることが出来しゃべりをしたのが始まりであることを思えば、彼は誰を おの るけれども、自分があの人を逸してしまったら、一一度と再恨むよりも、己れの浅慮を恨まねばならない。いったい彼 うぬば びこんな所へ誰が来てくれよう。それを考えたら、自分こは、「われこそは当代一の色事師である」と己惚れている そ最もあの人を必要としたのだ。自分は死んでもあの人をところへ持って来て、おっちょこちょいの癖があるので、 手放すべきではなかったのだ。・ : ・昨夜は一時の興奮にしばしば時平に巧いエ合におだてられて、泥を吐かされる 駆られて、孤独なんか恐くはないような気がしたけれどのであるが、それにしても、もしあの当時時平がああ云う も、今朝覚めてからの数時間でさえこんなに辛いのに、此暴挙に出るであろうことが予想されたら、あんなおしゃべ れからずっと此の淋しさがつづくとしたら、何として堪えりはしなかった筈であった。彼も、此の道にかけては油断 て行けるであろう。 ・ : 国経はそう思った途端に、涙がのならない左大臣が、あの北の方のことを知ったら何かい けねん しようにかえ たずらをしはしないか、と云う懸念は抱いたけれども、自 ばろ。ほろとこ・ほれて来た。老いれば小児に復ると云うが、 八十翁の大納言は、子供が母を呼ぶように大きな声で泣き分のような官位の低い軽輩と違って、まさかに朝廷の重臣 わめ である人が、そう軽々しく夜遊びに出かけ、他人の家に忍 喚きたかった。 ねやは び込んで北の方の閨へ這い寄る、と云う訳にも行くまい すけ その六 そこは一介の左兵衛佐の方が気楽だと、そう思って安心し 妻を奪われた国経が、恋慕と絶望にれつっその後なていたので、あんなエ合に、衆人環視の中に於いて堂々と きら しげもと のお三年半の歳月を生きた間のことは、後段滋幹のくだりに人妻を浚って行くような派手なことが可能であろうとは、 滋於いてやや詳細に触れる折があろう。今は暫く筆を転じ全く考え及ばなかったのであった。彼に云わせれば、妻は 将て、あの夜あの車の中へ「物をこそ」の歌を投げ入れた平夫の眼を掠め、夫は妻の眼を掠めて、無理な首尾をし、危 中の方へ叙述を移そう。 い瀬戸を渡り、こっそりと切ない逢う瀬を楽しむところに 平中も亦、国経ほどではなかったにしても、ややそれにこそ恋の面白味は存するのである。地位や権勢を利用して 似た、或る後味のほろ苦いものを嘗めさせられたのであっ他人の所有物を強奪するのでは、身も蓋もない野暮な話で、 しこう かす ごうだっ せつ ふた
と、走り書きをして、小さく畳んで、不意に何処からか左ところは、今朝は自分がひとりぼっちで寝ているのであっ したがさね 大臣の車の側に現れ、下襲の尻を簾の中へ押し込むのと一た。彼も世間の老人なみに早くから眼が覚める方なので、 とり 緒に、人知れずそれを北の方の袖の下へ挿し入れたのであ夜明け方の鶏の鳴く音を聞きながら、まだすやすやと眠っ っこ 0 ている妻の顔を、ちょうど今朝ぐらいのうすら明りの中で 打ち眺めるのが常なのであるが、今朝はその顔のあるべき その五 ところに、主のない枕が空しく置いてあるばかり。 国経は、北の方を乗せた時平の車が供の人数を従えて去それより何より、いつもはしつかり北の方に纒わり着き、 から って行くのを見送ったまでは、幾分か意識がはっきりして隙間もなく手足を絡み着かせて、二つの体が一つ塊のよう えりくびわき にわ いたけれども、車の影が見えなくなると、俄かに緊張が弛になって寝ているのに、今朝は襟頸や腋の下や方々に隙間 こうらん が出来、そこをすうすうした風が通り抜けるので、これで んだせいか、内攻していた酔いが発して、勾欄のもとにく すのこ はいかさま肌寒いのも道理であった。・ たくたとくずおれてしまった。そしてそのまま簀子の板敷 たす に倒れ伏して寝入りかけたのを、女房たちが扶け起して寝今朝に限ってあの人が此処に、自分の腕の中に抱かれて 所へ連れて行き、装東を脱がしたり、床に就かしたり、枕いないのはどう云う訳か。あの人は何処へ行ったのか。 国経はそう考えると、何か奇怪な幻影のようなもの をあてがったりしたのであったが、当人は一切前後不覚 ほうムっ で、それきりぐっすりと一と息に眠った。が、およそ何時が頭の隅にこびりついていて、それが少しずつ髣髴とよみ 間ぐらい過ぎた時分か、へんに襟もとがうすら寒く、何処がえって来、朝の光が次第に明るさを増すのにつれて、そ しとね からか蓐の中へすうすう風が入り込むようなので、ふと眼の幻影もいよいよあざやかな輪郭を取って浮かび上って来 を覚ますと、もう閨の中がしらじらと暁に近いほの明るさるのを覚えた。彼は何とかしてその幻影を、酔余の揚句に になっていた。国経はそっと身ぶるいをして、なぜこう今見た一場の悪夢である、と云う風に思い做そうとして見た 朝は寒いのか、自分は何処に寝ているのか、此処はいつもが、昨日の夕方からの出来事の記憶を、一つ一つ気を落ち と思いながら、そこらあ着けてじっくりと呼び返しつつ吟味して見ると、どうやら の自分の寝所と違うのか、 いな とまり・ たりを見廻すと、眼に触れる幗や蓐や、それらに沁み着いそれは夢ではなくて事実であるらしいことが、否み難くな なじみ ている香の匂や、すべて朝ゅう馴染の深い我が家の閨であって来るのであった。 さぬき ることは疑うべくもないのであったが、一ついつもと違う「讃岐、 ねや ゆる ぬし まっ
が、少年の腕に歌を書いたとは、急の場合で紙などの持ちかし意地の悪いことにかけては一と通りでない侍従の君 かえ なおさら なび 合わせがなかったのか、紙では却って落ち散る恐れがあつが、今となっては尚更おいそれと平中に靡く筈はなかっ ほんろう いちず たからであろうか。北の方は、我が子の腕に書いてある昔た。もし平中があの時飜弄されながらも一途に熱意を失わ の男の歌を読んで、ひどく泣いたが、やがてその文字を拭ないで追い廻したら、結局試験に及第したことになって、 い取って、「うつゝにて」の返歌を、同じように腕に書き許されたのに違いないのであるが、途中で脇道へ外れたた かた 記し、「これをその方にお見せ」と云って我が子を突き遣めに、相手はすっかり機嫌を損じて一層旋毛を曲げてしま あわ きちょう ると、自分は慌てて几帳のかげに身を隠した。 、もう何を云って来ても鼻であしらって、てんで取り上 今を時めく左大臣の北の方に、こんなエ合にして平中がげないのであった。 一人の恋人は他人に奪われ、もう一人の恋人には手きび 取次を頼んだのは一度や一一度ではなかったと見えて、大和 しくはねつけられた平中が、色事師の面目にかけてもと、 物語には又別な歌が伝わっている。 わずら すくせ 必死になって侍従の君に泣きを入れたいきさつは、煩わし ゆくすゑの宿世も知らず我がむかし いのでに詳述するのを避けよう。読者は世にも自尊心の 契りしことはおもほゅや君 北の方はこれにも返歌を与えたらしいのであるが、生慨高い、男を懊らすことに特別な興味を抱く侍従の君が、再 その歌は残っていない。が、文を通わすことは出来ても逢び前と同じような、或は前よりも何層倍か苛酷な試練を平 うことは許されなかったので、さしもの平中も次第に望中に課したであろうことを、そして平中が、今度は実に辛 かく みを失って匙をなげたらしく、やがて此の夫人との関係は抱強く一つ一つの試練に堪えて、兎にも角にも彼女の誇り 果敢ない終りを告げたのであったが、そうなると自然、此を満足させ、許しを得る迄に漕ぎ着けたややこしい経路 よろ かっ の好色漢の心は、再び嘗てのもう一人の恋人、あの侍従のを、宜しく想像すべきである。が、漸く平中も思いを遂げ きよう の君の方へと傾いて行った。それと云うのが、此の人も左大長い間のあこがれの的であった人と逢う瀬を楽しむ境 滋臣家の女房として、同じ本院の館のうちにいるのであるか涯になったものの、それから後も皮肉屋の女の癖は改まら いたずら 災ら、夫人の方が脈がないと極まれば、平中としては手ぶらず、ややもすれば意想外な悪戯を考え出して嬲りものに ですごすご引込む気になれず、もともと嫌いでも何でもなし、目的を果たさずに帰って行く男のあとから舌を出した べかこうをしたりすることが、三度に一度ぐらいは必 かった此の人を、せめて此の際物にしなければ自分の男が くそ 廃ってしまうように、恐らくは考えたことでもあろう。しずあるので、平中もしまいには業を煮やして、糞、忌ま忌 あいこく いろごとし ごう つむじ なぶ
のでな。・ ・ : あの方のお歳はいくつになられますか、ま「謔を云われな」 あお見受けしたところ、もう七十をずうっと越しておられ「いえ、ほんとうで。 ・ : その女房に媒を頼みまし るように存ぜられますが、 て、一度か一一度はそう云うこともございましたか知れませ 「左様、七十七か八、くらいになられはしないかな」 んが、格別打ち解ける、と云うところまでは参りませなん 「そう致しますと、北の方とは五十以上も違っておいでに なると云う訳で、それではあまりあの北の方がおいとおし「ま、そんなことはどうでもよろしい。それより私が聞き 。世に珍しい美女にお生れになりながら、選りに選ってたいのは、世評通りの美人に違いないかどうか、と云うこ おおじひいおおじ さぞ 祖父か曾祖父のような夫をお持ちなされたのでは、嘸御不となんです」 満なことがおありであろう。御自身でもそれをお歎きにな「左様でございます、それはまあ、 って、あたしのような不運なものがあるだろうかと、お側「それはまあ、どうだと云われる ? 」 の者にお洩らしなされて、人知れず泣いておいでになるこ 「どう申したらよいのでしようかな」 とがある、などと、その女房が申したり致しましてな。・ と、平中はわざと気を持たせて、ニタニタ笑いを噛み殺し かし ながら、仔細らしく首を傾げた。 「ふん、ふん、それで ? 」 ここで此の一一人が噂をしている「帥の大納言」とその北 「それで、と申す訳でもございませんけれども、そんなこの方と云うのは如何なる人であるか、と云うのに、大納言 ふゆっぐ くにつね とから、ついその、何でございます、 は藤原国経のことで、閑院左大臣冬嗣の孫に当り、権中納 ながら 「あははははは」 言長良の嫡男である。時平は此の国経の弟、長良の三男に よろ もとつね 「どうぞ宜しく御推察を、 当る基経の子であるから、彼と国経とはまさしく伯父甥の 母おおかた の「大方そんなことだろうと睨んでいたんですが、やつばり関係になるのであるが、地位から云えば故太政大臣関白基 せつけせいちゃく 経の長子であり、摂家の正嫡である時平の方が遙かに上 滋そうだったんですね」 けんしよく で、すでに左大臣の顕職にある年の若い甥は、老いぼれの 「恐れ入ります」 伯父の大納言を眼下に見下していたのであった。 「で、何度ぐらい逢っておられる ? 」 いったい国経はその頃としては大変長寿を保った人で、 「何度と申して、そうたびたびはございませなんだ。ほん 延喜八年に八十一歳を以て歿したのであるが、生来一向働 のちょっと、一度か一一度、 にら うそ そら なかだら