上・府立ー中時代明治 37 年頃 左上・同時代左端潤一郎 己者として山形へ赴任するはすだった折の送別会 中央和服潤一郎明治 43 年 一三ロ 一高朶寮同室生記念写真左端潤一郎 東大御殿山にて・明治四十五年
明治三十八年 ( 一九〇五 ) 二十歳 三月、府立一中を卒業し、九月、第一高等学校英法科に入学。 明治四十年 ( 一九〇七 ) 一一十一一歳 六月、初恋の相手の小間使への手紙が発見され北村家を出る。伯父 や小学時代からの親友笹沼源之助の補助を受けながら学業を続けた が、文学で身を立てる決意を固め、英文科に転じる。 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 一一十三歳 明治十九年 ( 一八八六 ) かきがら 七月一一十四日、東京市日本橋区蠣殻町二丁目十四番地 ( 現中央区日七月、第一高等学校卒業、東京帝国大学国文科に入学。 せ、 一一十四歳 本橋芳町 ) に、父倉五郎、母関の次男として生まれる。長男は夭明治四十ニ年 ( 一九〇九 ) 折。家は米穀取引所の気配を印刷する谷崎活版所を経営、後に父は史劇「誕生」を書き「帝国文学」へ送ったが没となる。短篇「一 米仲買人となる。江戸の名残りを止める下町の少年時代は初期の文日」を「早稲田文学」に掲載を図ったが実現せず、失望のため、強 びたち 度の神経衰弱となり、常陸の助川に転地。 学活動に少なからぬ影響を与えている。 明治四十三年 ( 一九一〇 ) 一一十五歳 明治ニ十五年 ( 一八九一 I) 七歳 九月、日本橋区阪本小学校に入学。はにかみやで乳母の付添がなくこの頃、山形の新聞記者の就職口を求めたこともある。九月、小山 ては通学できず、一学年の進級には落第。一一年では首席で進級。内薫、和辻哲郎、後藤末雄、木村荘太らと同人雑誌「新思潮」 ( 第 明治三十四年 ( 一九〇一 ) 十六歳二次 ) を創刊。同月、月謝滞納のため論旨退学。「新思潮」に「象」 三月、阪本小学校高等科全科を卒業。担任の稲葉清吉先生の感化は「刺青」「麒麟」などを発表、一部に才能を認められる。 二十六歳 大きく「文学開眼は稲葉先生による」と後に述懐している。小学生明治四十四年 ( 一九一一 ) 時代の生活環境が「少年」「小さな王国」「神童」などにあざやかに描一月、戯曲「信西ーを、六月、「少年」を、九月、「幇間」を「ス・ハ ル」に、十月、「颶風」 ( 発禁 ) を「三田文学」に発表。十一月、「三 き出されている。そのころ父が事業に失敗し、経済的困窮から中学 への進学は困難であったが、本人の懇願と担任教師の勧告、親類の田文学」誌上で、永井荷風の激賞を受け、文壇的地位を確立。同月 譜援助などにより、東京府立第一中学校 ( 現日比谷高校 ) に進学する。「秘密 , を「中央公論」に発表、十二月、短篇集「刺青」を籾山書 明治三十五年 ( 一九〇一 l) 十七歳店から刊行。 一一十七歳 年六月、家の生活はいよいよ苦しく退学を迫られたが、教師の紹介で明治四十五年・大正元年 ( 一九一 ll) 築地精養軒主人北村氏の住込み家庭教師となる。成績優秀のため九二月、「悪魔」を「中央公論」に発表。四月、京都に遊ぶ。神経衰 昭月、一一年級を超えて三年に進む。文芸部委員として、学友会雑誌に弱再発し、強迫観念に苦しむ。同月、「朱雀日記」を「大阪毎日新 あつもの 「道徳的観念と美的観念」などの論文を発表。 聞」「東京日日新聞」に、七月、「羹」を「東京日日新聞 , に連載。
潮思新 風立 荷確 のを 載位 谷崎測一郎氏の作品 掲地 学 明治代の文第に彙て日まで第人手を下す事の出来な加っ一々、まは事を 下さ ~ 、しな第った高術の「【方面セ第拓しま新は谷崎物一朝第である。 第を、宅芸、ま谷第第一》第民は夏代の第作家第第一人持ってるない特第っ 0 分は氏の , 品 ~ 論評する第を第み震つ「今Ⅱまで ( を表 - されな氏の。 作第に自す 5 き、の【を料記してをか ) '0 もれは刊した物思物第ニ第 イ第第キ第所載小第「少当物第九第載小、物朝セあ 8 物し ( を第第す ) べき作品を積タ表第れるに物ない第れもをを表され「た第 地の【作品第 ~ け一つ見る代有の家え - らえ ( えま物差支をで一物を 治文 明論 第響第第第を = 一田文學 第を第 第月壹 関係文芸誌明治 43 年 ~ 44 年。「三田文学」 は荷風の論文の載った明治 44 年 11 月号 「悪魔」大正 2 年 1 月扨山書店刊 423
そび 聳えているので今いう急な坂路は寺の境内からその高台へ つづく斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍しい 樹木の繁った場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平 らにしたささやかな空地に建っていた。光誉春琴恵照禅定 尼、と、墓石の表面に法名を記し裏面に俗名鵙屋琴、号春 ようねん 琴、明治十九年十月十四日歿、行年五拾八歳とあって、側 これをたつる 面に、門人華佐助建之と刻してある。琴女は生涯鵙屋姓 を名のっていたけれども「門人」温井検校と事実上の夫婦 生活をいとなんでいたので期く鵙屋家の墓地と離れたとこ ろへ別に一基を選んだのであろうか。寺男の話では鵙屋の 家はとうに没落してしまい近年は稀に一族の者がお参りに ほとん 来るだけであるがそれも琴女の墓を訪うことは殆どないの どしようまら もずやこと 春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生でこれが鵙屋さんの身内のお方のものであろうとは思わな したでらまら れで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土かったという。すると此の仏さまは無縁になっているので 宗の某寺にある。先巡通りかかりにお墓参りをする気になすかというと、いえ無縁という訳ではありませぬ萩の茶屋 り立ち寄って案内を乞うと「鵙屋さんの墓所はこちらでごの方に住んでおられる七十恰好の老婦人が年に一一一度お参 ざいます」といって寺男が本堂のうしろの方へ連れて行りに来られます、そのお方は此のお墓へお参りをされて、 むら った。見ると一と叢の椿の木かげに鵙屋家代々の墓が数基それから、それ、此処に小さなお墓があるでしようと、そ ことじよ 抄ならんでいるのであったが琴女の墓らしいものはそのあたの墓の左脇にある別な墓を指し示しながらきっとそのあと こうげ 琴りには見あたらなかった。むかし鵙屋家の娘にしかじかので此のお墓へも香華を手向けて行かれますお経料などもそ 春人があ「た筈ですがその人のはというと暫く考えていてのお方がお上げになりますという。寺男が示した今の小さ 「それならあれにありますのがそれかも分りませぬ」と東な墓標の前へ行って見ると石の大きさは琴女の墓の半分く 側の急な坂路になっている段々の上へ連れて行く。知ってらいである。表面に真誉琴台正道信士と刻し裏面に俗名温 くたま の通り下寺町の東側のうしろには蛩国魂神社のある高台が井佐助、号琴台、鵙屋春琴門人、明治四十年十月十四日 春琴抄 たむ まれ
きられて来た。そして . 一方では反自然主義的な漱石、鵰 お ( 最下級の料理用酒 ) をがぶがぶ飲む情景が描かれ ている。この絶望的な時期に、そういう苦しい体験を自外さらには鏡花の伝統をひく芸術至上主義、耽美主義、 そして人道主義的な白樺派が出現して来る。四十三年 然主義作家、私小説作家のごとく直接に書かず、「象」 には鵰外の「青年」、漱石の「月、 尸」荷風の「冷笑」が 「刺青」「麒麟」「少年」「幇間」など、自然主義文学全盛 ノノ」創刊につぎ、「白樺」「三田 期の当時の文壇では殆んど認められる可能生のない耽書かれ、前年の「スヾレ 文学」が発刊され、有島武郎が「或る女」を書き、武 美的な芸術至上主義的な小説をのみ書き続けた谷崎の 作家根陸は見事である。この逆境に屈しない負けし魂者小路実篤が「お目出たき人」を発表する。そういう と、自己の文学への自矜があ「てこそ、近代日本文学中に、谷崎潤一郎は今までどの文学者もよう書き得な かった、道徳や習など無視した、肉体の美しさ、官 史上画期的な文豪大谷崎が生まれたと言えよう。 能の陶酔こそ至上であると大胆に主張した「刺青」を 明治の末年にあたる四十年代は、日露戦争の勝利に よる国民的な自信とようやくあらわになった国内の矛持って登場したのだ。まさに登場すべき時期に谷崎潤 一郎は期待以上の新鮮な衝撃をもって登場したのだ。 盾とが錯綜する曲り角の時代であった。特に谷崎が「刺 その画期的な試みは、たちまち文学青年の間で反自然 青」を発表した明治四十三年は藤村の「家」、花袋の 主義の新星として注目された。 「縁」、秋声の「足跡」、泡鳴の「放浪」、長塚節の「土」 など文学史上に今も残る作品が書かれ自然主義文学が しかしこのような今までの自然主義文学と全く異な この年の六月幸徳秋水らが大る、価値観を転倒させた大胆な革命的と言える文学や 絶頂期に達すると共に、 逆事件で検挙され、無政府主義社会主義者さらには文作家が、すぐに既成文壇に認められるわけはない。谷 学者への当局の苛烈な思想的弾圧がはしまり、石川啄崎が貧窮の生活の中、背水の陣をしき、全力を傾けて 木が「時代閉塞の現状」を書き自然主義文学の限界を書いた「誕生」「象」「刺青」「麒麟」「信西」「彷徨」「少年」 批判し、幸徳事件を転機に自然主義も平面描写や私小 「幇間」らの作品は、文壇やジャーナリズムから無視 説へと政治や社会から絶縁、変質しかっての現実暴露 黙殺される。彼はいらだち神経衰弱が悪化し、もんも のヴァイタリティを失ないはしめ、その生真面目では んの日々を送った。 そういう絶望的状况のさなか、「三田文学」明治四 あるが泥臭く、田舎臭い書生的な非芸術性、暗さがあ 436
293 春琴抄 は晩年に及び嗣子も妻妾もなく門弟達に看護されつつ明治 しようつき 四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の祥月命日に八十三 歳と云う高齢で死んだ察する所一一十一年も孤独で生きてい た間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げ 鮮かにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話 * がざん てんしゅん を天竜寺の峩山和尚が聞いて、転瞬の間に外を断じ醜を 美に回した禅機を賞し達人の所為に庶幾しと云ったと云う しゅこう が読者諸賢は首肯せらるるや否や
て御身の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬ傍一一人の盲人の間を斡旋して手曳きとも付かぬ一種の連 けだ ほのじろ と、春琴の顔のありかと思われる仄白い円光の射して来る絡係りを勤めた蓋し一人は俄盲目一人は幼少からの盲目と うれ 方へ盲いた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉しうは云え箸の上げ下しにも自分の手を使わず贅沢に馴れて来 ぜひとも 思うそえ、私は誰の恨みを受けて此のような目に遭うたのた婦人の事故是非共そう云う役目を勤める第三者の介在が か知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外の必要であり成るべく気の置けない少女を雇うことにしてい じってい たがてる女が採用されてからは実体な所が気に入られ大い 人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをよう ます こそ察してくれました。あ、あり難うござり升そのお言葉に二人の信任を得てその儘長く奉公をし、春琴の死後は佐 を伺いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換えられま助に仕えて彼が検校の位を得た明治一一十三年迄側に置いて せぬお師匠様や私を悲嘆に暮れさせ不仕合わせな目に遭わ貰ったと云う。てる女が明治七年に始めて春琴の家へ来た せようとした奴は何処の何者か存じませぬがお師匠様のお時春琴は既に四十六歳遭難の後九年の歳月を経もう相当の 顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ない老婦人であった顔は仔紐があって人には見せない又見ては ます ばかりでござり升私さえ目しいになりましたらお師匠様のならぬと聞かされていたが、紋羽二重の被布を着て厚い座 あさぎねずみらりめん せつかく 御災難は無かったのも同然、折角の悪企みも水の泡になり布団の上に据わり浅黄鼠の縮緬の頭巾で鼻の一部が見える そやっ 定めし其奴は案に相違していることでござりましようほん程度に首を包み頭巾の端が眼臉の上へまで垂れ下るように わたくし に私は不仕合わせどころか此の上もなく仕合わせでござし頬やロなども隠れるようにしてあった。佐助は眼を突い ます り升卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸た時が四十一歳初老に及んでの失明はどんなにか不自由だ がすくようでござり升佐助もう何も云ゃんなと盲人の師弟ったであろうがそれでいながら痒い処へ手が届くように春 あいよう 相擁して泣いた 琴を労わり少しでも不便な思いをさせまいと努める様は端 の見る目もいじらしかった春琴も亦余人の世話では気に入 抄 〇 らず私の身の周りの事は眼明きでは勤まらない長年の習慣 禍を転じて福と化した一一人の共後の生活の模様を最もよ故佐助が一番よく知っていると云い衣裳の着付けも入浴も じようし わずら あんま 春く知っている生存者は鴫沢てる女あるのみである照女は本按摩も上厠も未だに彼を煩わした。さればてる女の役目と むし とたけ 年七十一歳春琴の家に内弟子として住み靆んだのは明治七云うのは春琴よりも寧ろ佐助の身辺の用を足すことが主で 年十一一歳の時であった。てる女は佐助に糸竹の道を習う直接春琴の体に触れたことはめったになかった食事の世話 ます その がと かたわら あっせん かゆ また
一奕 一三四高等学校の三部当時の旧制高校は、一部 ( 法文系 ) 、一一部 母を恋うる記 ( 理工農系 ) 、三部 ( 医学系 ) に分けられていた。 一三 = 肺病の妹のお富潤一郎とは十歳違いの妹園がモデル。十五一芸あの美しい錦絵のような人形町人形町は、水天宮の門前町 歳で夭逝した。 として栄えた町で、江戸時代に初めて、遊廓 ( 吉原 ) がつくら 一三七純粋持続フランスの哲学者ベルグソン Henri Louis Be ・ れたところ ( のち、明暦の大火で、浅草新吉原に移転 ) であり、 rgson ( 1859 ~ 1941 ) の思想の根本になっている時間論。 また、人形師や人形商が集まっていたといわれる。明治年間に 一三九叔父潤一郎の父方の伯父にあたる江沢久兵衛。米穀取引所 は、露店が立ち並び、芸者の手古舞が、夜通しにぎやかだった し J いう - 。 の理事を務めたこともあり、窮迫した潤一郎一家を援助した。 大正四年、船上から投身自殺を遂げた。 一二子ふたこ織のこと。ふたこ糸 ( 二筋をより合わせて一本 一四一一閑張美濃紙を貼り重ね、その上に漆を塗った細工物。帰 とした糸 ) をたて糸、または、たて、よこ糸に用いて織った綿 化人、飛来一閑が伝えたものという。 織物。 一四一呂昇女義太夫の豊竹呂昇。明治末から大正初期にかけて、 一 ^ 三新内語り浄瑠璃の一種新内節を、三味線をつまびきながら 美貌と美声で非常に人気があった。 語って町を流して歩く。 一四五喇叭の先から当時の蓄音機には、大きな喇叭がたの器具が l< 四転軫転手ともいう。三味線の頭を貫いて糸を巻きつけると とりつけてあった。 ころで、演奏の時は、左手で持っところである。 一奕上野上野には、帝国図書館があり、学生時代、多くの人々 吉野葛 がここを利用し親しまれていた。 ( シイシ、 hashish インド産大麻の結実初期の枝の先。回一九一三種の神器皇位のしるしとして歴代の天皇が受け継いだ三 やたのかがみあめのむらくものつるぎやさかにのまがたま 教徒は、これを麻酔用、喫煙用として用いる。 つの宝物、八咫鏡、天叢雲剣、八坂瓊曲玉 ( 神璽 ) をいう。 一ど Masochist マゾヒスト。異性から虐待、苦痛を受けること一空上月記文明十年 ( 一四七八 ) 成立。赤松家の臣で自天王襲 によって性的快感を感するという変態性欲の持ち主。 撃に加わった上月満吉が記した実録。 一ど Delirium 精神錯乱。 一空赤松記天正十六年 ( 一五八八 ) 成立。僧定阿が著した歴史 一三どん正午の号砲。空砲を発して正午を知らせたことからい 書で、播磨赤松氏の興廃を記録したもの。 う。東京では丸の内に号砲の砲台が備えつけられていた。 一空南山巡狩録文化六年 ( 一八〇九 ) 成立。大草公弼撰著の南 一セ三或る短編の創作を文壇に発表した明治四十三年秋創刊した 朝の編年史。 「新思潮」 ( 第二次 ) に、潤一郎は「誕生」「象」「刺青」「麒」一空南方紀伝近世初期に著わされた南朝派の史書。 などの作品を次々と発表し、文壇にデビューした。 一空桜雲記浅羽三右衛門著。後醍醐天皇即位から、南朝の自天
になり、文学作品として充分に客観化されていないう たのは親友笹沼源之助や本家の伯父の彼の才能を惜む らみのある奇妙な印象を与える。谷崎がいわゆる実生 余りの義侠的な援助によったものである。そういう火 活を描かす、現実社会を黙殺し、この世にあらぬ耽美 の車的内情を一切学校の友人や文学イ 中間には見せす、 的な芸術世界にのめりこんだのも、この辛い口惜しい 天下の秀オ、江戸の粋な遊びを知「た通人として、谷 体験と貧乏に対する本能的な恐怖とが逆に作用してい 崎は堂々とふるま い、明治四十三年、二十四歳の時、 ると考えられる 小山内薫、和辻哲郎、木村荘太らを誘い第一一次「新田 5 この困難な状況の中で谷崎は一中を卒業し一高 ( 東潮」を主宰し創刊する。この時も親友の笹沼源之助に 大教養学部の前身 ) 英法科に進学したが、二年生の終 必す文壇に出てみせるからと真剣に訴え、多額の費用 り頃、家庭教師として住込んでいた北村家から去らね を援助してもらっている。この「新思潮」を発刊した ばならぬ事件が起った。箱根の温泉宿の娘で北村家に 九月に谷崎は授業料滞納のため、東大を諭旨退学させ 女中奉公していた福子に出したラブレターを見つけら られている。 れ、二人とも追い出されたのだ。谷崎にとって福子は この頃の谷崎潤一郎は「青春物語」や「異端者の悲 初恋の相手であり、お互いに真剣に愛しあい、福子は しみ」に書いているよ、つに、表面は自信ありげに振舞・ その後箱根の実家から家出までしたのだが、その恋は いながら、その内実は生の最悪の状態にあった。父 貧乏学生故に、ついに実らす福子は不幸な生涯を送っ 母をはしめ一家の貧窮の生活はもちろんのこと、可愛 んし がっていた妹園が肺結核で死の床に就いている。そ しかし谷崎にとってこの世間的に不名誉な事件は、 ういうとき、閇一郎は恋愛事件で北村家を追い出され 逆に既成道徳など無視して文学者として生きようと決 その相手福子は彼のため不幸な身の上に陥る。愛する 心するきっかけになった。この事件直後谷崎は英法科 女性に対しては常に献身的であった谷崎にとって、こ から英文科に転し、明治四十一年東大国文科に入学す の件は、いに深い傷を与えたに違いない。その苦しみ る。谷崎は世の常の立身出世を断念し、作家として生 の中で懸命に書いて「帝国文学」に投稿した戯曲「誕 きようと決意し、背水の陣をしいたのだ。家庭教師の 生」は没になる。弟精二の「追應記に、強度の神経 卩り一 1 ″田り . 口を断たれた谷崎が、貧乏生活ながら学校を続けられ 卩ーを″ド 一个民」になっこ閏・・、、 イ一良カ深夜台所でさ力し
ミラーは「鍵」のドイツ語版の序文に「谷崎潤一郎は 文学的価値については評伝の中で明らかにして行くこ 二十世紀においてもっとも男生的な唯一の現代作家で とにして、ここでは、戦前はそのオ能こそ尊敬されな ある」と絶賛し、サルトルは先年来日したとき「細雪」 がら、思想のない現代ばなれした作家と思われていた を現代日本の本質をもっともリアリスティックに描い 谷崎潤一郎が、戦後の今日にいたって体系的な思想で た作品と評価し、「広癲老人日記」を「老年のセック こそないが、日本の文学者として肉体と官能に基く強 固な思想の持主であり、その肉体の恐怖にもとづく文スと真正面から取組んだ世界最初の小説」と驚歎の言 学は既成の道徳、いや道徳そのものに対する本質的な葉を述べている。谷崎潤一郎の文学は現代ばなれどこ 批判であることがようやく理解され、谷崎文学に対すろか、世界の現代文学の最前線にいたのである。 る再評価が行われていることのみを記しておきたい。 明治末期に、このような反道徳的反倫理的なモチーフ を純文学として主張することがいかに勇気のいる行為 谷崎潤一郎は明治十九年 ( 一八八六 ) 七月二十四日、 であったか、一見順風の中に大成したと思われがちの 谷崎潤一郎も本質的には先駆者が避けることのできぬ東京市日本橋区 ( 現中央区 ) 蝣殼町で谷崎倉五郎を父 に、谷崎関を母にその次男 ( 長男は既に夭折 ) として 宿命的な認められざる文学者であったのだ。 その谷崎文学のおそるべき価値をひろく認めさせる生まれた。父も母も代々江戸の人で、谷崎潤一郎は純 卆の江戸っ子、下町育ちである。谷崎潤一郎を論しる 面をはしめ * にいたったのは、永井荷風の予言者的な評イ とし、伊藤整、十返肇、武田泰淳、三島由紀夫らの既場合、その家系や生い立ちで重要なのは祖父久右衛門 と母関である。祖父は天保二年生れで谷崎の「幼少時 成の定説化された文学常識を打ち破る世界の現代文学 代」によると、もと深川の小名木川べりの釜を製造す の動向をふまえたより広い新しい見地からの辛抱強い る釜六という店の総番頭であったが、維新の際、京橋 評論によるところが大である 谷崎潤一郎の文学は諸外国において単なるエキゾチ霊岸島の真鶴館という旅館を買い経営し、ついで蠣殼 シズムの文学としてではなく、も「とも前衛的革命的町に家を構え、谷崎活版所という印刷業を始め、近く の取引所の米相場を毎タ報じる「谷崎物価」という相 な現代文学として評価されている。たとえばヘンリ せき