津村 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集
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1. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

ろう。私はそれから一一年程立って、或る日彼からの手紙の父母を失って、親の顔を知らない人間でないと、 ( し」ら・ヂ、い 端に祖母が亡くなったと云う知らせを読んだ時、いずれ近と、津村が云うのである。 ) 到底理解されないかと思う。 じようるり いくた ごりようにんさん いうちに、あの「御料人様」と云う言葉にふさわしい上方君も御承知の通り、大阪には、浄瑠璃と、生田流の箏曲 じうた 風な嫁でも迎えて、彼もいよいよ島の内の旦那衆になり切と、地唄と、此の三つの固有な音楽がある。自分は特に音 楽好きと云う程でもないが、しかし矢張土地の風習でそう ることだろうと、想像していた次第であった。 云うものに親しむ時が多かったから、自然と耳について、 そんな事情で、その後津村は一一三度上京したけれども、 学校を出てからゆっくり話し合う機会を得たのは、今度が知らず識らず影響を受けている点が少くない。取り分け未 ひさしぶり 始めてなのである。そして私は、此の久振で遇う友の様子だに想い出すのは、自分が四つか五つの折、島の内の家の が、大体想像の通りであったのを感じた。男も女も学生生奥の間で、色の白い眼元のすずしい上品な町方の女房と、 けんぎよう にわ その、 活を卒えて家庭の人になると、俄かに営養が良くなったよ盲人の検校とが琴と三味線を合わせていた、 うに色が白く、肉づきが豊かになり、体質に変化が起るも或る一日の情景である。自分はその時琴を弾いていた上品 おも、洋リ のだが、津村の人柄にも何処か大阪のぼんちらしいおっとな婦人の姿こそ、自分の記憶の中にある唯一の母の俤で りした円みが出来、まだ抜け切れない書生言葉のうちにもあるような気がするけれども、果してそれが母であったか なま 前から多少そうであったどうかは明かでない。後年祖母の話に依ると、その婦人は 上方訛りのアクセントが、 が、前よりは一層顕著にーーーー交るのである。と、こう書恐らく祖母であったろう、母はそれより少し前に亡くなっ いたら大凡そ読者も津村と云う人間の外貌を会得されるでた筈であると云う。が、自分は又その時検校とその婦人が 弾いていたのは生田流の「狐喰」と云う曲であったことを あろう。 さてその岩の上で、津村が突然語り出した初音の鼓と彼不思議に覚えているのである。思うに自分の家では祖母を まっ それから又、彼が今度の旅行を始め、姉や妹が皆その検校の弟子であったし、その後も折 蔦自身に纒わる因縁、 折狐喰の曲を繰り返し聴いたことがあるから、始終印象が ことば 野思い立つに至った動機、彼の胸に秘めていた目的、 そのいきさつは相当長いものになるが、以下成るべくは簡新たにされていたのであろう。ところでその曲の詞と云う のは、 略に、彼の言葉の意味を伝えることにしよう。 いたはしや母上は、花の姿に引き替へて合しほるゝ露 の床の内合智慧の鏡も掻き曇る、法師にまみえ給ひっゝ 自分の此の心持は大阪人でないと、又自分のように早く かみがた そうきよく

2. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

トげむしゃ の川原に湯が湧いていた。が、試みに手を入れると、ほん れるのが例であったが、いつも影武者が二人お供してい ひなたみず 2 て、どれが王様か見分けがっかない。討手の者がたまたまの日向水ほどのぬくもりしかなく百姓の女たちがその湯で せっせと大根を洗っているのである。 共処を通り合わせた村の老婆に尋ねると、老婆は、「あの、 口から白い息を吐いていらっしやるのが王様だ」と教え「夏でなければ此の温泉へは沁れません。今頃這入るに みしるしあ た。そのために討手は襲いかかって王の御首を挙げることは、あれ、あすこにある湯槽へ汲み取って、別に沸かすの が出来たが、老婆の子孫にはその後代々不具の子供が生れです」 と、女たちはそう云って、川原に捨ててある鉄砲風呂を指 ると云う話。 はらまんだいら 私は午後一時頃に八幡平の小屋に行き着き、弁当箱を開した。 きながらそれらの伝説を手帳に控えた。八幡平から隠し平ちょうど私がその鉄砲風呂の方を振り返ったとき、吊り さら かえ までは往復史に三里弱であったが、此の路は却って朝の路橋の上から、 みやがた よりは歩きよかった。しかしいかに南朝の宮方が人目を避「おーい」 けておられたとしても、あの谷の奥は余りにも不便すぎと呼んだ者があった。見ると、津村が、多分お和佐さんで こらら る。「逃れ来て身をおくやまの柴の戸に月と心をあはせてあろう。娘を一人うしろに連れて此方へ渡って来るのであ あそこ ぞすむ」と云う北山宮の御歌は、まさか彼処でお詠みになる。二人の重みで吊り橋が微かに揺れ、下駄の音がコ きんこ ったとは考えられない。要するに三の公は史実よりも伝説ン、コーンと、谷に響いた。 の地ではないであろうか。 その日、私と案内者とは八幡平の山男の家に泊めて貰っ私の計画した歴史小説は、やや材料負けの形でとうとう て、兎の肉を御馳走になったりした。そして、その明くる書けずにしまったが、此の時に見た橋の上のお和佐さんが 日、再び昨日の路を二の股へ戻り、案内者と別れてひとり今の津村夫人であることは云う迄もない。だからあの旅行 じようしゅびもたら しおは 入の波へ出て来た私は、ここから柏木までは僅か一里の道は、私よりも津村に取って上首尾を齎した訳である。 程だと聞いていたけれど、ここには川の縁に温泉が湧いて いると云うので、その湯へ浸りに川のほとりへ行ってみ た。二の股川を合わせた吉野川が幾らか幅の広い溪流にな った所に吊り橋が懸っていて、それを渡ると、すぐ橋の下 ひか ゅぶね

3. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

庭の稲荷の祠については守り神として代々祭って来たの 一一人はあたりが薄暗くなるのも忘れて、その岩の上に休 幻であるから、若夫婦たちもその手紙にあるものに相違ない んでいたが、津村の長い物語が一段落へ来た時に、私が尋 ことを確かめてくれた。尤も現在では家族の内に狐を使うねた。 者はいない。由松が子供の頃、お祖父さんがよくそんなこ 「ーーー何か、その伯母さんに用事でも出来たのかい ? 」 とをしたと云うを聞いたが、「白狐の命婦之進」とやら「いや、今の話には、まだちょっと云い残したことがある はいつの代にか姿を現わさないようになり、祠のうしろにんだよ。 ある椎の木の蔭にむかし狐が棲んでいた穴が残っているば眼の下の岩に砕けつつある早瀬の白い泡が、ようよう見 たそがれ かりで、そこへ案内をされた津村は、穴の入口に今は淋し分けられる程の黄昏ではあったが、私は津村がそう云いな しめなわ あか く注連繩が渡してあるのを見た。 がら微かに顔を赧くしたのを、もののけはいで悟ることが 以上の話は、津村の祖母が亡くなった年のことで出来た。 あるから、宮滝の岩の上で彼が私に語った時からは又一一三 その、始めて伯母の家の垣根の外に立った時に、 さかのば 年前に溯る事実である。そして彼が此の間中から私への中で紙をすいていた十七八の娘があったと云っただろ 通信に「国栖の親戚」と書いて来たのは、此のおりと婆さう ? 」 んの家を指すのであった。と云うのは、何と云ってもおり「ふむ」 と婆さんは津村に取って母方の伯母であり、彼女の家は母「その娘と云うのはね、実はもう一人の伯母、ーーー亡く の実家に違いないのだから、そののち彼は改めて此の家となったおえい婆さんの孫なんだそうだ。それがちょうどあ 親類の付き合いを始めた。そればかりでなく、生計の援助の時分昆布の家へ手伝いに来ていたんだ」 もしてやって、伯母のために離れを建て増したり、紙すき私の推察した通り、津村の声は次第に極まり悪そうな調 の工場を拡げたりした。そのお蔭で昆布の家は、ささやか子になっていた。 しゅこうぎよう な手工業ではあるけれども、目立って手広く仕事をするよ「さっきも云ったように、その女の児は丸出しの田舎娘で うになったの・である。 決して美人でも何でもない。あの寒中にそんな水仕事をす しお るんだから、手足も無細工で、荒れ放題に荒れている。け その六入の波 れども僕は、大方あの手紙の文句、『ひゞあかぎれに指の あれに暗示を受けた さきちぎれるよふにて』と云う 「で、今度の旅行の目的と云うのは ?

4. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

じようろう 乳母であり母である上﨟の婦人を配したところは、表面親「だがそれだけではないんだよ」 子の情愛を扱ったものに違いないけれども、その蔭に淡いと、津村はそこまで語って来て、早や暮れかかって来た対 少年の恋が暗示されていなくもない。少くとも三吉の方か岸の菜摘の里の森影を眺めながら、 ら見れば、いかめしい大名の奥御殿に住む姫君と母とは、等「自分は今度、ほんとうに初音の鼓に惹き寄せられて此の しく思慕の対象になり得る。それが葛の葉の芝居では、父吉野まで来たようなものなんだよ」 と子とが同じ心になって一人の母を慕うのであるが、此のと、そう云って、その・ほんちらしい人の好い眼もとに、何 場合、母が狐であると云う仕組みは、一層見る人の空想をか私には意味の分らない笑いを浮かべた。 す 甘くする。自分はいつも、もしあの芝居のように自分の母 その五国栖 が狐であってくれたらばと思って、どんなに安倍の童子を うらや 羨んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もう此さて此れからは私が間接に津村の話を取り次ぐとしょ の世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのでう。 あるなら、いっか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。 そう云う訳で、津村が吉野と云う土地に特別のなっかし 母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感さを感ずるのは、一つは千本桜の芝居の影響に依るのであ みらゆき るが、一つには、母は大和の人だと云うことをかねがね聞 じを抱くであろう。が、千本桜の道行になると、母 いていたからであった。が、大和の何処から貰われて来た 狐ーーー美女ーーー恋人ー・ーーーと云う連想がもっと密接で ある。ここでは親も狐、子も狐であって、而も静と忠信狐のか、その実家は現存しているのか等のことは、久しく謎 とは主従の如く書いてありながら、矢張見た眼は恋人同士に包まれていた。津村は祖母の生前に出来るだけ母の経歴 みらゆき の道行と映ずるようにエまれている。そのせいか自分は最を調べておきたいと思って、いろいろ尋ねたけれども、祖 蔦も此の舞踊劇を見ることを好んだ。そして自分を忠信狐に母は何分にも忘れてしまったと云うことで、はかばかしい 野なそらえ、親狐の皮で張られた鼓の音に惹かされて、吉野答は得られなかった。親類の誰彼、伯父伯母などに聞いて さとかた 山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想みても、母の里方については、不思議に知っている者がな おんしゅうかい 像した。自分はせめて舞を習って、温習会の舞台の上ででかった。・せんたい津村家は旧家であるから、あたりまえな ら二代も三代も前からの縁者が出入りしている筈である 8 も忠信になりたいと、そんなことを考えた程であった。 が、母は実は、大和からすぐ彼の父に嫁いだのでなく、幼 たく しか

5. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

めいぶん の中へ進んだ。そしてさっきから庭先で紙を乾していた此に名聞を重んずる旧家で、そんな所へ娘を勤めに出したこ とを成るべく隠していたのであろう。それで娘が奉公中は の家の主婦らしい二十四五の婦人の前へ寄って行った。 もちろん とう 主婦は彼から来意を聞かされても、あまりその理由が唐勿論のこと、立派な家の嫁になった後までも、一つには娘 しまららぎ とっ 突なのでく遅疑する様子であったが、証拠の手紙を出しの耻、一つには自分たちの耻と思って、あまり往き来をし て見せると、だんだん納得が行ったらしく、「わたしではなかったのであろう。又、実際にその頃の色里の勤め奉公 いったん は、芸妓、遊女、茶屋女、その他何であるにしろ、一旦身 分りませんから、年寄に会って下さい」と、母家の奥にい かっこう た六十恰好の老媼を呼んだ。それがあの手紙にある「おり売りの証文に判をついた以上、きれいに親許と縁を切るの いわゆるくいや、 が習慣であり、その後の娘は所謂「喰焼奉公人」として、 と」 津村の母の姉に当る婦人だったのである。 此の老媼は彼の熱心な質問の前にオドオドしながら、もどう云う風に成り行こうとも、実家はそれに係り合う権利 う消えかかった記憶の糸を手繰り手繰り歯の抜けたロからがなかったでもあろう。しかし姿さんのお・ほろげな記憶に 少しずつ語った。中には全く忘れていて答えられないこ依ると、妹が津村家へ縁づいてから、彼女の母は一度か二 と、記憶ちがいと思われること、遠慮して云わないこと、度、大阪へ会いに行ったことがあるらしく、今では大家の ごりようにんさま 前後矛盾していること、何かもぐもぐと云うには云っても御料人様に出世した結構ずくめの娘の身の上を驚異を以て 、くら問い返しても要領語っていた折があった。そして彼女にも是非大阪へ出て来 息の洩れる声が聴き取りにくく、し こと こらら を掴めなかったことなどが沢山あって、半分以上は此方がるようにと言づてを聞いたけれども、そんな所へ見す・ほら 想像で補うより外はなかったが、兎に角そう云う風にしてしい姿で上れる筈もなし、妹の方もあれなり故郷を訪れた でも津村が知り得た事柄は、母に関する一一十年来の彼の疑ことがなかったので、彼女はついそ成人してからの妹と云 問を解くに足りた。母が大阪へやられたのは、たしか慶応うものを知らずにいるうち、やがてその旦那様が死に、妹 葛頃だったと婆さんは云うのだけれども、ことし六十七になが死に、彼女の方の両親も死に、もうそれからは猶更津村 野る婆さんが十四五歳、母が十一二歳の時だったそうである家との交通が絶えてしまった。 津村の母のことを おりと婆さんはその肉親の妹、 吉から、明治以後であることは云う迄もない。それゆえ母は 僅か二三年、多くも四年ほど新町に奉公しただけで、直き呼ぶのに「あなた様のお袋さま、と云う廻りくどい言葉を くらぶり に津村家へ嫁いだことになる。おりと婆さんのロ吻から察用いた。それは津村への礼儀からでもあったろうが、事に するのに、昆布の家は当時窮迫こそしていたものの、相当依ると妹の名を忘れているのかも知れなか 0 た。「おえい

6. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

212 って書いていることである。津村はこれに依って、母の生連想であるような気がした。 家が紙すきを業としていたのを知り得た。それから母の家しかし老婆の手紙について津村が最も奇しい因縁を感じ 族の中に、姉か妹であるらしい「おりと」と云う婦人のあたことが外にあった。と云うのは、此の婦人、 彼の ほか ることが分った。雌その外に「おえい」と云う婦人も見え母方の祖母にあたる人は、その文の中に狐のことをしきり て、「おえいは日々雪のつもる山に葛をほりに行き候みなに説いているのである。「 : : : ・ : ずいぶん / 、これからは びやくこみやうぶのしん してかせぎためろぎん出来候へば共身にあいに参り候たの御屋しろの稲荷さまと白狐の命婦之進とをまいにち / \ あ しみいてくれられよ」とあって、「子をおもふおやの心はさ / 、は拝むべし左候へばそちの知ておる通りとゝさんが やみ故にくらがり峠のかたそごひしき」と、最後に和歌がよべば狐のあのよふにそばへくるよふになるもみないっし 記されていた。 ・ : 」とか、「それゆへこの度のなんも んの有る故なり・ : まゐらせそろ そのおんうら 此の歌の中にある「くらがり峠」と云う所は、大阪からまったく白狐さまのお蔭とそんじ、 2 是からは其御内の 大和へ越える街道にあって、汽車がなかった時代には皆そ武運長久あしきやまいなきょふのきとう毎日 / \ 致し なさるべく 、随分 / \ と信心可被成 : : : ・ : 」とか、そんなことが書 の峠を越えたのである。峠の頂上に何とか云う寺があり、 そこがほととぎすの名所になっていたから、津村も一度中いてあるのを見ると、祖母の夫婦は余程稲荷の信仰に凝り 学時代に行ったことがあったが、たしか六月頃の或る夜固まっていたことが分る。察するところ「御屋しろの稲荷 の、まだ明けきらぬうちに山へかかって、寺で一と休みしさま」と云うのは、屋敷のうちに小さなでも建てて勧進 ていると、暁の四時か五時頃だったろう、障子の外がほんしてあったのではないか。そしてその稲荷のお使いである しら のり白み初めたと思ったら、何処かうしろの山の方で、不「命婦之進ーと云う白狐も、何処かその祠の近くに巣を作 意に一と声ほととぎすが啼いた。するとつづいて、その同っていたのではないか。「そちの知ておる通りとさんが しまよべば狐のあのよふにそばへくるよふになるも」とあるの じ鳥か、別なほととぎすか、二た声も三声も、 いには珍しくもなくなった程啼きしきった。津村は此の歌は、本当にその白狐が祖父の声に応じて穴から姿を現わす を読むと、ふと、あの時は何でもなく聞いたほととぎすののか、それとも祖母になり祖父自身になり魂が乗り移るの 声が、急にたまらなくなっかしいものに想い出された。そか明かでないが、祖父なる人は狐を自由に呼び出すことが して昔の人があの鳥の啼く音を故人の魂になそらえて、 出来、狐は又此の老夫婦の蔭に付添い、一家の運命を支配 もっと 「蜀魂」と云い「不如帰ーと云ったのが、いかにも尤もなしていたように思える。 あや かんじん

7. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

った。津村が語ったところでは、此の昆布氏も可なりの旧つ、溪流から湧き出でる温泉と云う、打って付けの道具立 えんかく 家で、南朝の遺臣の血統と多少の縁故がある筈であった。 てが加わったのである。しかし私は、遠隔の地にいて調べ 私は、「入の波」と書いて「シオノハ」と読むこと、「三のられるだけの事は調べてしまった訳であるから、もしあの 公」は「サンノコ」であることなどを、此の家へ尋ねて始時分に津村の勧誘がなかったら、まさかあんな山奥まで出 めて知った。なお昆布氏の報告に依ると、国栖から入の波かけはしなかったであろう。此れだけ材料が集まっていれ とうさ ごしやとうげ までは、五社峠の峻嶮を越えて六里に余る道程であり、そば、実地を蹈査しないでも、あとは自分の空想で行ける。 かえ れから三の公へは、峡谷のロもと迄が二里、一番奥の、昔又その方が却って勝手のよいこともあるのだが、「折角の もっと 自天王がいらしったと云う地点までは、四里以上ある。尤機会だから来て見てはどうか」と津村からそう云って来た もそれも、そう聞いているだけで、国栖あたりからでものは、たしかその年の十月の末か、十一月の初旬であっ そんな上流地方へ出かける人はめったにない。ただ川を下た。津村は例の国栖の親戚を訪う用がある、それで、三の いかだし はらまんだいら って来る筏師の話では、谷の奥の八幡平と云う凹地に炭焼公までは行けまいけれども、まあ国栖の近所を一と通り歩 きの部落が五六軒あって、それから又五十丁行ったどんづ いて、大体の地勢や風俗を見ておいたら、きっと参考にな かくだいら まりの隠し平と云う所に、たしかに王の御殿の跡と云われることがあろう。何も南朝の歴史に限ったことはない、土 るものがあり、神璽を奉安したと云う岩窟もある。が、谷地が土地だから、それからそれと変った材料が得られる の入り口から四里の間と云うものは、全く路らしい路のなし、二つや三つの小説の種は大丈夫見つかる。兎に角無駄 い恐ろしい絶壁の連続であるから、大峰修行の山伏などでにはならないから、そこは大いに職業意識を働かせたらど うだ。ちょうど今は季候もよし、旅行には持って来いだ。 も、容易に其処までは入り込まない。普通柏木辺の人は、 しおは ゅあ あそこ 入の波の川の縁に湧いている温泉へ浴みに行って、彼処か花の吉野と云うけれども、秋もなかなか悪くはないぜ。 さぐ と云うのであった。 ら引き返して来る。その実谷の奥を探れば無数の温泉が溪 みようじんたき 流の中に噴き出で、明神が滝を始めとして幾すじとなく飛で、大そう前置きが長くなったが、こんな事情で急に私 ばく もっと 瀑が懸っているのであるが、その絶景を知っている者は山は出かける気になった。尤も津村の云うような「職業意 男か炭焼きばかりであると云う。 識」も手伝っていたが、正直のところ、まあ漫然たる行楽 此の筏師の話は、一層私の小説の世界を豊富にしてくれの方が主であったのである。 た。すでに好都合な条件が揃っているところへ、又もう一 さん

8. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

は日々雪のふる山に葛をほりに行き候 . とあるその「おえた。そしてその隙に近所で昼食をしたためて来てから、自 ほこりうずたかかさば い」と云う人を尋ねると、それが総領娘で、一一番目がおり分も若夫婦に手を貸して、埃の堆い嵩張った荷物を明る と、末娘が津村の母のおすみであった。が、或る事情からい縁先へ運び出した。 長女のおえいが他家へ縁づき、おりとが養子を迎えて昆布どうしてこんな物が此の家に伝わっていたのであろう、 色褪せた覆いの油単を払うと、下から現れたのは、 の跡を継いだ。そして今ではそのおえいもおりとの夫も亡 まきえ * ほんけん くなって、此の家は息子の由松の代になり、さっき庭先で古びてこそいるが立派な蒔絵の本間の琴であった。蒔絵の こう わた 津村に応待した婦人がその由松の嫁であった。そう云う訳模様は、甲を除いた殆ど全部に行き亙っていて、両側の そりはし すみよし ぞんじよう で、おりとの母が存生の頃はすみ女に関する書類や手紙な「磯」は住吉の景色であるらしく、片側に鳥居と反橋とが そなれのまっ ども少しは保存してあった筈だが、もはや三代を経た今日松林の中に配してあり、片側に高燈籠と磯馴松と浜辺の波 りゅうかくしぶろく が描いてある。「海ーから「竜角。「四分六」のあたりには となっては、殆ど此れと云う品も残っていない。 おぎぬの かしわば と、おりと婆さんはそう語ってから、ふと思い出したよう無数の千鳥が飛んでいて、「荻布ーのある方、「柏葉」の下 に五色の雲と天人の姿が透いて見える。そしてそれらの蒔 に、立って仏壇の扉を開いて、位の傍に飾ってあった一 葉の写真を持って来て示した。それは津村も見覚えのあ絵や絵の具の色は、桐の木地が時代を帯びて黒ずんでいる る、母が晩年に撮影した手札型の胸像で、彼もその複写のために、一層上品な光を沈ませて眠を射るのである。津村 は油単の塵を拭って、改めてその染め模様を調べた。地質 一枚を自分のアルバムに所蔵しているものであった。 は多分塩瀬であろう、表は上の方へ紅地に白く八重梅の紋 「そう、そう、あなた様のお袋さまの物は、 と、おりと婆さんはそれから又何かを思い出した様子で付を抜き、下の方に唐美人が高楼に坐して琴を弾じている図 にじふごげんをげつやにだんずれば がある。楼の柱の両側に「二十五絃弾月夜」「不堪清 け加えた。 れん ずしてかへってとび、たらん 「此の写真の外に、琴が一面ございました。此れは大阪の怨却飛来」と、一対の聯が懸っている。裏は月に雁の かたわら 娘の形見だと申して、母が大切にしておりましたが、久し列を現わした傍に「雲みちによそへる琴の柱をはつらな る雁とおもひける哉ーと云う文字が読めた。 く出しても見ませぬので、どうなっておりますやら、 しかしそれにしても、八重梅は津村家の紋でないのであ 津村は、一一階の物置きを捜したらあるだろうと云うそのるが、養家の浦門家の紋か、或はひょっとすると、新町の やかた 琴を見せて貰うために、畑へ出ていた由松の帰りを待っ館の紋ではなかったのであろうか。そして津村家へ嫁ぐに しおぜ す、

9. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

せいか、最初に一と眼水の中に漬かっている赤い手を見た君の観察を聞きたかったんだ。何しろ境遇があまり違い過 時から、妙にその娘が気に入ったんだ。それに、そう云えぎるから、その娘を貰ったとしても果して幸福に行けるか おも ば期う、何処か面ざしが写真で見る母の顔に共通なところどうか、多少その点に不安心がないこともない、僕は大丈 がある。育ちが育ちだから、女中タイプなのは仕方がない夫と云う自信は持っているんだが」 もた が、研きように依ったらもっと母らしくなるかも知れな私は兎に角津村を促してその岩の上から腰を擡げた。そ くるま して、宮滝で俥を雇って、その晩泊めて貰うことにぎめて はつね 「成る程、ではそれが君の初音の鼓か」 あった国栖の昆布家へ着いた時は、すっかり夜になってい 「ああ、そうなんだよ。 どうだろう、君、僕はそのた。私の見たおりと婆さんや家族たちの印象、住居の様 娘を嫁に貰いたいと思うんだが、 子、製紙の現場等は、書き出すと長くもなるし、前の話と お和佐と云うのが、その娘の名であった。おえい婆さん重複もするから、ここには略すことにしよう。ただ二つ三 の娘のおもとと云う人が市田なにがしと云う柏木付近の農っ覚えていることを云えば、当時あの辺はまだ電燈が来て 家へ縁づいて、そこで生れた児なのである。が、生家の暮いないで、大きな炉を囲みながらランプの下で家族達と話 やまが らし向きが思わしくないので、尋常小学を卒えてから五条をしたのが、いかにも山家らしかったこと。炉には樫、 くぬぎ の町へ下女奉公に出たりしていた。それが十七の歳に ( 実櫟、桑などをくべたが、桑が一番火の保ちがよく、熱も柔 おびただ 家の方が手が足りないので暇を貰って家に帰り、そののちかだと云うので、その切り株を夥しく燃やして、とても ずっと農事の助けをしているのだが、冬になると仕事がな都会では思い及ばぬ贅沢さに驚かされたこと。炉の上の槊 くなるところから、昆布の家へ紙すきの手伝いにやらされや屋根裏が、かっかっと燃え上る火に、塗りたてのコール る。ことしももう直き来る筈だけれど、多分まだ来ていなタ 1 のように真っ黒くてらてら光っていたこと。そして最 くまのさば 葛いであろう。それよりも津村は、先ずおりと伯母さんや由後に、夜食の膳に載っていた熊野鯖と云うものが非常に美 野松夫婦に意中を打ち明けて、その結果に依っては、至急に味であったこと。それは熊野浦で獲れた鯖を、笹の葉に刺 吉呼び寄せて貰うなり、訪ねて行くなりしようと思うと云うして山越しで売りに来るのであるが、途中、五六日か一週 のである。 間程のあいだに、自然に風化されて乾物になる、時には狐 さら 四「じゃあ、巧く行くと僕もお和佐さんに会える訳だね」 にその鯖の身を浚われることがある、と云う話を聞いたこ などである。 「うん、今度の旅行に君を誘ったのも、是非会って貰って、と。 みが かし

10. 現代日本の文学 7 谷崎潤一郎集

「そんなものを持っている家があるのかい」 」と、謡曲ではそこへ くともなく女の来り候ひて、 ぎいごム 「あると云うことだ」 静の亡霊が現じて、「あまりに罪業の程悲しく候へば、一 くだり 日経書いて賜はれ」と云う。後に舞いの件になって、「げ「ほんとうに狐の皮で張ってあるのか」 みよしの 今三吉野の「そいつは僕も見ないんだから請け合えない。兎に角由緒 に耻かしゃ我ながら、昔忘れぬ心とて、 河の名の、菜摘の女と思ふなよ」などとあるから、菜摘ののある家だと云うことは確かだそうだ」 おんな 地が静に由縁のあることは、伝説としても相当に根拠があ「やつばりそれも釣瓶鮨屋と同じようなものじゃないか でたらめ るらしく、まんざら出鱈目ではないかも知れない。大和名な。謡曲に『一一人静』があるんで、誰か昔のいたずら者が 所図会などにも、「菜摘の里に花籠の水とて名水あり、又考え付いたことなんだろう」 あと 「そうかも知れないが、しかし僕はちょっとその鼓に興味 静御前がしばらく住みし屋敷趾あり」とあるのを見れば、 その云い伝えが古くからあったことであろう。鼓を持ってがあるんだ。是非その大谷と云う家を訪ねて、初音の鼓を とうから僕はそう思っていたんだ いる家は、今は大谷姓を名のっているけれども、昔は村国見ておきたい。 の庄司と云って、その家の旧記に依ると、文治年中、義経が、今度の旅行も、それが目的の一つなんだよ」 し J ろ・わ・ゅろ・ と静御前とが吉野へ落ちた時、そこに逗留していたことが津村はそんなことを云って、何か訳があるらしかった きさ 、うたたねの橋、が、「いずれ後で話をする」と、その時はそう云ったきり あると云われる。なお付近には象の小 はつね 柴橋等の名所もあって、遊覧かたがた初音の鼓を見せてもであった。 いえじゅうだい らいに行く者もあるが、家重代の宝だと云うので、然るべ その三初音の鼓 き紹介者から前日に頼みでもしなければ、無闇な者には見 せてくれない。それで津村は、実はそのつもりで国栖の親上市から宮滝まで、道は相変らず吉野川の流れを右に取 たけなわ 戚から話しておいて貰ったから、多分今日あたりは待ってって進む。山が次第に深まるに連れて秋はいよいよ闌に くぬぎ なる。われわれはしばしば櫟林の中に這入って、一面に散 いる筈だと云うのである。 こ 「じゃあ、あの、親狐の皮で張ってあるんで、静御前がそり敷く落葉の上をかさかさ音を立てながら行った。此の かっ へんかえで ただのぶぎつね の妓を。ほんと鳴らすと、忠信狐が姿を現わすと云う、あれ辺、楓が割合いに少く、且一と所にかたまっていないけれ はぜやまうるし ども、紅葉は今が真っ盛りで、蔦、櫨、山漆などが、杉の なんだね」 くれない 木の多い峰の此処彼処に点々として、最も濃い紅から最 「うん、そう、芝居ではそうなっている」 ゆかり むやみ かみいら