いなく、たとえばその翌日なども、夜更けて父がしめやか 行をしているのである、と、そう語ったのであった。 「そんならお父さまは、ああ云うものを見にいらっしやるに戸を開けて出るけはいを、滋幹はそれと気づいていたけ れども、父も滋幹を連れて行こうとはしなかったし、滋幹 のは今夜が始めてではないんですね」 父の長話が一段落へ来た時に滋幹が尋ねると、父はいかも、再び父の跡を付けようとは思わなかった。 とら がんぜ うなず にもそうだと云うように頷いて見せた。父はもう数箇月もそれにしても、父があの時まだ頑是ない幼童を捉えてあ おりおり 前から、折々月の明かな夜を選んで、家の者たちの寝静まんな風に自分の心境を語ったのは、どう云うつもりだった った時刻をうかがい、何処と限ったことはなく、野末の墓のか、滋幹は後になってもいぶかしく思う折があったが、 場などへ忍んで行ってひとしきり観念を凝らしてから、明彼は実に生涯にただ一度、父と一一人きりでそんなにも長い もっと け方にこっそり戻っていたのであった。 時間を話し合った訳であった。尤も「話し合う」と云って 「そうしてお父さまは、もう迷いがお晴れになったんでしも大部分は父がしゃべり、滋幹は聞かされていたのであっ て、父の言葉の調子は、最初は何となく重々しく、少年の ようか」 心を圧するような沈鬱味を帯びていたけれども、語り進む 滋幹がそう云うと、 に従って、訴えてでもいるような云い方になり、しまいに と云って、父は立ち止まって、遠い山の端の月の方へ眼をは滋幹の思いなしか、泣きごえを出しているようにも聞え た。そして滋幹は子供心に、相手が幼童であることをも忘れ やりながらほっと息をした。 「なかなか晴れるどころではない。不浄観を成就すると云て取り乱しているような父が、とても観念を成就すること たやす などは出来ないであろう、恐らくいくら修行をしても徒労 うことは、ロで云うような容易いものではないんだよ」 母それきり父は、滋幹の方から話しかけても相手にならに終るのではあるまいか、と云うような危惧を抱いたので のず、何かしら考に囚われている様子で、家に着くまで殆どあった。彼は、恋しい人の面影を追うて日夜懊悩している 父が、苦しさの余り救いを仏の道に求めた経路には同情が 滋一語を発しなかった。 将 父のあとについて滋幹がそう云う夜歩きの供をしたの出来たし、そう云う父を傷ましいとも気の毒とも思わない 少 は、その一と夜だけであった。父は前から人目を忍んで時ではいられなかったが、でも、ありていに云うと、父が折 時そんなことをしていたと云うのであるから、恐らくその角美しい母の印象をそのまま大切に保存しようと努めない 以後に於いても、なお幾度かさまよい出たことがあるに違で、それをことさら忌まわしい路上の屍骸に擬したりし のずえ
たわむ これ以上は書く訳に行かないと云う停止線がある。だからに無断でああ云う戯れをしたのではないのかも知れない 私は、決して虚偽は書かないが、真実のすべてを書きはし実は私はあれから暫く合歓亭へ近づかなかったが、半月ほ おもんばか ない。父のため、母のため、私自身のため、等々を慮つど経て又母の乳を吸いに行ったことが一二度あった。父が 不在の時もあったし、在宅中の時もあったが、いずれにし て、その一部分を書かずにおくこともあるかも知れない。 真実のすべてを語らないことは即ち虚偽を語ることであても父が母のそう云う行為を知らないでいた筈はないし、 る、と云う人があるなら、それはその人の解釈のしようで、母も父に隠れてしていた筈はない。父は自分の死後のこと を慮って、母と私との結び着きをより一層密接にさせ、父 敢てそれに反対はしない 父の体の状態について、加藤氏が私に打ち明けてくれたの歿後は私を父同様に思うように母に論し、母もそれに異 談話は、私に止めどもなくさまざまな、に奇怪と云って存がなか 0 たのではあるまいか。私はこれ以上のことは云 カ武を芹生へ遣ったことなども、そう考えると もいい妄想を描かせた。父が自分の不幸な運命を悟った時えない。・、、 が去年の秋であったとすると、その時父の歳が四十四歳、理解出来る。私は父や母に対して途方もない推測をしたよ 母の歳が卅一歳、私の歳が十九歳である。卅一歳と云うけうであるが、この事はなお後段に、父が自ら死の床に於い れども、母は見たところ廿六七歳の若さで、私とは姉弟のて語るであろう。 ようにしか見えなかった。ふと私は、去年乳母が暇を取る母が父の命数の限られていることをはっきりと知ったの ただす 時、糺の森の参道を歩きながら私に洩らした今の母の前半はいつのことか、父は自分がそのことを悟ると同時に母に 生の物語を思い起した。あの時乳母は「旦那さんには内証も知らせたのであるか、その点は私には分らない。しかしい でござりますけど」と云っていたが、或はあれは、父が乳っそや合歓亭で、母が「前のお母さん」と云う語を使った 母に命じて殊史に云わせたのではあるまいか。父は今後何時は、不用意に使った如くであって実は故意に使ったので 橋かの場合に、私の頭の中でつながっている生みの母とままはないかと思える。いや、五月に武を生み落す以前に、母 母との連絡を、ここらで一応断ち切っておいた方がいいとは父から父の運命を聞かされていたに違いあるまい。そし 夢考える理由があ 0 たのではないか。私は又、この間の合歓て夫婦は互に先の先までを見通した上で、あからさまには 亭での出来事をも思い起した。あれもあの時は偶然のよう語り合わずとも暗黙の諒解のもとに、武を里子に出したの ではないか。ただ不思議なのは、数箇月後に迫っている筈 に思えたけれども、ああ云うことが偶然起り得るように、 前から父が計画していたのではないか。少くとも母は、父の父との別れについて、母が私のいる前ではそんなに悲歎 あえ ことさら
「和子もお母さんに会いたいだろうね」 の手を執って、父の部屋の前まで引っ張って行き、さあ、 と、障子を開けて無理に中へ押し込んだことがあった。もと、しんみりした、同感を求めるような口調で云った。滋 とから痩せていた父は、一層痩せて眼が落ち窪み、銀色の幹は父の容貌を、それほど仔細に見たことはなかったので たま をぼうぼうと生やして、今まで臥ていたのが起きたとこあるが、眠のふちには眼やにが溜り、前歯があらかた脱け しわが おおかみ かっこう ろらしく、狼のような恰好をして枕もとにすわっていた落ちていて、そのうえ声が皺嗄れているので、何を云うの が、その眼でジロリと見られた途端に、滋幹は体がすくんか、ちょっとは聞き取りにくかった。それに、父はそんな で、ロもとに出かかっていたお父さま、と云う声が、咽喉風に云うのだけれども、その顔は笑ってもいなければ泣い いらず しゅうしん てもいなかった。ただもう一途な、執心の強い生真面目な の奥に痞えた。 こらら たがい 親子はしばらく、互に眼で探りを入れながら見合ってい表情で、じっと此方の眼の中を視すえているので、滋幹は たが、でもそのうちに、滋幹の心を圧していた恐怖感が次又気味悪くなって来て、 第に和らいで、或る云い知れぬ甘いなっかしい感覚に代っ「うん」 うなず た。それが何に原因するのか滋幹にも最初は分らなかったと、頷いたきり立っていた。すると父はだんだん深く眉根 たもの が、間もなく彼は、あの、母が常に薫きしめていた薫物のを寄せて、 あちら 香が、此の部屋の中に満ち満ちていることに気づいた。そ「もうよい、彼方へおいで」 して、よく見ると、父がすわっているあたりに、むかし母と、不機嫌そうに云い切った。 うちき ひとえ が身に着けていた袿や、単衣や、小袖や、さまざまな衣裳そんなことがあってから、又滋幹は当分父の傍へ寄り着 いたことはなかった。お父さまは今日もお内にいらっしゃ が取りちらかしてあるのであった。と、突然父が、 「和子はこれを覚えているかね」 いますよ、と云われると、却って父の部屋の方へは行かな ほとん いようにしたくらいであったが、父は一日閉じ籠って、殆 のと云いながら、鉄の棒のようにコチコチした腕を伸ばし えり ど姿を見せないのであった。たまたま部屋の前を通り過ぎ 滋て、花やかな一枚の衣の衿をつまんだ。 うかが 少滋幹が傍へ寄ると、父はその衣を両手で捧げるようにしる時、耳をすまして中の様子を窺「ても、生きているのか て滋幹の前へ突き出したが、次にはそれに自分の顔を押し死んでいるのか、コトリとの音も聞えなかったが、恐らく ようや 7 あてて長い間身動きもせずにいた。それから漸く顔を上げ此の間のように、母の衣裳の数々を取り出して、そのなま ると、 めかしいかおりの中に埋まっているのであろうと、滋幹は しさい かえ
ふげんばさっえぞう 寸ばかりするすると開けて見ると、正面に普賢菩薩の絵像 が付いたのは、 じゃくねん しゅしよう 「お父さまは近頃殊勝におなりなされて、一日しずかにおを懸け、父はそれに向い合って寂然と端坐していた。滋幹 の方には後姿しか見えないのだけれども、暫くじっと窺っ 経を読んでいらっしゃいます」 ひもと と、乳人が彼に語ったことがあるからであった。思うに父ていても、父は経を読むのでも、書を繙くのでも、香を薫 もくねん は、母恋しさに駐えかねて、酒のカで紛らそうとしたのでくのでもなく、ただ黙然と坐っているだけなので、 とうてい あったが、酒では到底紛らしきれないことを感じて、仏の 「お父さまはああして何をしていらっしやるの ? 」 すが 慈悲に縋ろうとしたのであろうか。つまり、「頭陀の法をと、或る時乳人に尋ねると、 し ムじようかん 学ばざれば、前よりの心安んそ忘るべけん」と云う白詩の示「あれは、不浄観と云うことをなすっていらっしやるので 唆に従った訳なので、それは父の死ぬ一年ほど前、滋幹がす」 七つぐらいの時のことであった。その時分になると、父はと、乳人が云った。 もう狂暴性がないようになり、終日仏間にいて、冥想に耽その不浄観と云うのは大変むずかしい理窟のあることな かんきん くわ るとか、看経するとか、何処かの貴い大徳を招いて仏法のので、乳人にも委しい説明は出来ないのであったが、要す 講義を聴聞するとか、云うような日が多くなったので、乳るに、それをすると、人間のいろいろな官能的快楽が、一 しゅうび 人や女房たちは愁眉を開いて、どうやら殿も落ちついてお時の迷いに過ぎないことを悟るようになる、そして、今ま いでになった、あの御様子なら安心ですと云って喜んで いで恋しい恋しいと思っていた人も恋しくなくなり、見て美 かんば たのであったが、しかし滋幹には、そうなってからでも矢しいとか、食べておいしいとか、嗅いで芳しいとか感じた けがら 張何となく近づきにくい、薄気味の悪い父であることに変物が、実は美しくも、おいしくも、芳しくもない、汚わし りはなかった。 い物であることが分って来る。お父さまは何とかしてお母 母 あら の乳人はよく、仏間が余りひっそりしていることがあるさまのことをお諦めになろうとして、その修行をなすって いらっしやるのですよ、と云うのであった。 滋と、 将「若様、お父さまの所へいらしって、何をなすっていらっ そう云えば滋幹は、父について生涯忘れることの出来な しゃいますか、そうっと覗いて御覧遊ばせ」 い或る恐ろしい思い出を持っているのであるが、それはち ようどその前後のことであった。その頃父は幾日間も、昼 と、そう云ったので、滋幹が恐る恐る仏間の前へ行って、 っ 0 しきいぎわひぎます 閾際に跪いて、音を立てぬように障子に手をかけて、一夜の別なく静坐と沈思をつづけていて、いっ食事をし、いっ いづく のぞ すん た
かっ かった。彼に取って「母ーと云うものは、五つの時にちら た、もの その九 りと見かけた涙を湛えた顔の記憶と、あのかぐわしい薫物 しか ごもっと めのと の匂の感覚とに過ぎなかった。而もその記憶と感覚とは、 乳人は滋幹に、若様がお母さまをお慕いになるのは御尤 はぐく 四十年の間彼の頭の中で大切に育まれつつ、次第に理想的もですが、ほんとうにおいとおしいのはお父さまでござい なものに美化され、浄化されて、実物とは遙かに違ったもますよ、と云い、お父さまは淋しがっておいでですから、 のになって行ったのであった。 大切にして、慰めてお上げにならなければいけませんよ、 などとも云った。 / 彼女は別段母を悪くは云わなかったが、 滋幹の父に関する思い出は、母のそれに比べると晩く、 いっから記憶が始まっているか確かでない。が、多分その平中とのことを知っていて、彼と母との媒介をする讃岐に 時期は彼が母に会えなくなった頃からであろう。それと云対しては反感を持っていたようであった。そして、滋幹ま うのが、そうなる迄は父に接触する折がめったになく、そでがその媒介に利用されていることに気がついてからは、 やかた いよいよ讃岐を憎み出したようであったが、滋幹が母の館 れから後に父の存在が急にはっきりして来たからであっ た。彼のおぼえている父は、徹頭徹尾、恋しい人に捨てら〈行けないようにな 0 たのは、疆にそんな関係から乳人が れた、世にも気の毒な老人と云う印象に尽きるのである左様に取計らったのでもあろうか。若様がお母さまに会い が、そう云えば一体、我が子の腕にある平中の歌に一掬のにいらっしやるのは致し方がございませんが、人に頼まれ 涙を惜しまなかった母は、父と云うものをどう思っていたてお取次などをなさってはいけませんよ、と、滋幹は乳人 のであろうか、滋幹はついぞ母からそれを聞かされたことにそう云われて、恐い眼で睨まれたこともあった。 はなかった。彼は几帳のかげで母の膝に抱かれた時、自分母が亡くなってからの父は、出仕を怠っている日が多 昼間から一と間に閉じ籠って病人のようにしているこ の方からも父のことを云い出したことはなかったが、母も、 うつ しようすい お父さまはどうしていらっしやる、と云うようなことを、 とがしばしばであったし、余所目にもひどく憔悴して、鬱 うつ 嘗て一度も問うたことはなかった。それに、あの讃岐にし鬱としているように見えたので、そう云う父が子供にはひ ても、外の女房たちにしても、平中には妙に同情していたとしお薄気味悪く、近づきにくい感じがして、なかなか慰 らしいのに、国経のことは誰もあまり口にした者はなかつめに行くどころではなかったのであるが、お父さまはお優 たが、その中で乳人の衛門だけが例外であった。 しい人なのですよ、若様が行ってお上けになればどんなに お喜びになりますことか、と、乳人は云って、或る日滋幹 たた おそ こも よそめ にら
て、腐りただれた醜悪なものと思い込もうとするのには、 ようとすべきであるが、滋幹の父はそうでなかった。彼の 何か、憤りに似た反抗心の湧き上るのを禁じ得なかったの場合は、彼を捨てて行った妻そのものを取り戻すのでなけ であった。実際、彼はもう少しで、 れば、他の何者を、たといその人の血を分けた現在の我が 「お父さま、お願いです、私の大好きなお母さまを汚さな子を持「て来ようとも、決してそんなものに胡麻催された いで下さい」 り紛らされたりするのではなかった。それほど父の母を恋 と、話の途中で幾度か叫びたくな 0 たのを、辛うじて怺えうる心は純粋で、生一本であ 0 た。滋幹は、父が彼にやさ たのであった。 しく話しかけてくれた記憶を一度も持たない訳ではない そう云うことがあってから十箇月ばかりを経、明くる年が、それは必ず母のことが話題になっていた時に限り、そ の夏の終りに父は此の世を去ったのであるが、最期の折にうでない時の父と云うものは、凡そ子に対して冷淡な人で また かえり は果して色慾の世界から解しきれていたであろうか。 しかなかった。だが又滋幹は、子を顧みる暇のないほど、 かっ 嘗てあんなにも恋い焦れていたその人を、一顧の価値もな母のことで頭が一杯になっていた父であると思うと、その かっぜん い腐肉の塊であると観じて、清く、貴く、豁然と死んで行冷淡を少しも恨む気になれず、寧ろそうであってくれたこ ったであろうか。それとも少年の滋幹が予想したように、 とを嬉しくさえ感じるのであるが、何にしても、あの夜の 結局仏にも救われないで、再びいとしい人の幻に苛まれなことがあってからの父は、いよいよ子に対して冷淡にな 、滋幹のことなど全く念頭にないように見えた。云って がら、八十翁の胸の中になお情熱の火を燃やしつつ息を引 こくう き取ったのであろうか。 滋幹は、父の内部の闘争が見れば、いつでもじっと眼の前にある虚空の一点を視詰め どう云う結末を告げたかについて確証は挙げ得ないのであたきりの人のようであった。そんな訳なので滋幹は、最後 うらや るが、しかし父の死に方が決して人の羨むような安らかなの一年間ばかりの父の精神生活について、父自身からは何 往生ではなかったことから推量して、多分あの時の自分のも聞き得なかったのであるが、でも、父が一時止めていた たしな 予想が誤まってはいなかったように思うのであった。 酒を再び嗜むようになったこと、依然として仏間に閉じ籠 あきら ふげんばきっ いったい、普通の人情からすれば、逃げ去った妻を諦めってはいたけれども、もうその壁には普賢菩薩の像が見え 、ようもん きれない夫として、その妻が彼に生んでくれた一人の男のなくなっていたこと、そして経文を読む代りこ、、 冫しつか又 子を、今少し可愛がってもよい筈であり、妻への愛情をそ白詩を吟ずるようになっていたこと、等々には心づいてい やわら の子に移すことに依って、いくらかでも切ない思いを和げたのであった。 こら
んをお拝みやすのがよろしござります。そしたらきっとお動かさずにいることもあった。 母ちゃんが夢の中い出といでやすえ。そして糺、お前賢い 七つの春から私は小学校へ通うようになり、夜な夜な父 てこず まれ なあてお云やすえ。お泣きやしたら出といでやさ致しまへや乳母を手古摺らせることは稀になったが、それだけに母 んえ」 恋いしさの念は募る一方であった。客嫌いで人づきあいの わめ 私がいっ迄も泣き喚くのに溜りかねた父は、 悪かった父は、母がいるからこそそれで満ち足りていたの せきりよう 「よしよし、そなお父ちゃんと寝よ」 であったが、母亡き後はさすがに寂寥を覚えるらしく、お と、十一一畳の間へ連れて行って、抱いて寝てくれることもりおり気晴らしにどこかへ出かけることがあった。日曜に あったが、父の男臭い匂いを嗅ぐと、母の匂いとはあまり はよく私や乳母を伴って、山端の平八へ食べに行ったり、 にも違う気味の悪さに私は少しも慰まなかった。父と寝る嵐山電車で嵯峨方面へ行ったりした。 うち よりはまだ乳母と寝る方が優しであった。 「お母ちゃんが生きてた時分、あの平八ちう家へ始終とろ きみ 「お父ちゃん気味が悪い、やつばりばあと寝るわ」 ろ食べに律たことがあんねやが、糺おぼえてるやろかな と云うと、 あ」 「そな、そこの次の間アでばあとねんねしい」 「一遍だけおぼえてるわ、うしろの川で河鹿が鳴いてたな 父がそう云うので、それからは奥座敷の次の間の八畳であ」 乳母と寝た。 「そやそや、 かっ 「お父ちゃんが気味悪いやたら、何でそんなことお「ムやす お笹を担いで大浮かれ のでござります」 ちんとろとろのとろろ汁 乳母は、私の顔は父にそっくりで、母には似ていないとちう唄、お母ちゃんが歌てたん覚えてるか」 云うのであったが、そう云われると私は又悲しかった。 「そんなん覚えてへん」 おこた かんきん 父は朝一時間、夜一時間、毎日怠らず看経した。私は父父はそんな話のついでに、ふと思いついたように云った の どくじゅ ことがあった。 夢の読誦が終りかける頃を見はからって仏前に来、十分ばか じゅず り小さな数珠をつまぐるのであったが、どうかすると、 「糺、もし死なはったお母ちゃんによう似た人がいるとし 行「お母ちゃんを拝みにおいで」 て、その人がお前のお母はんになってくれるちうたらどな と、父が手を取って引き据え、お経の始まりから終りまでいする」 たま やまばな かじか
十三歳から十六歳まで祗園町の妓籍にあったと云うことれる。してみると、今の母の前半生の秘密を乳母から聞か もっと せつかく は、想像もしなかったことであった。尤も良家の子女としされたことは、折角の父の心づくしを無にしたようにもな て生れ、ほんの足掛け三四年の後に落籍されて大家の若奥るが、一面私はそれに依って父への感謝と、今の母への尊 様として暮らしたのであるから、その間にさまざまの教養敬の念をいよいよ強めたのであった。 乳母がいなくなってから、女中が一人殖えて四人になっ を積んだことであろうし、尋常一様の舞妓上りとは違うけ きず おうようてんびん れども、それにしてもあの鷹揚な天稟の性格を、よくも疵た。そして明くる年の正月に、私は母が身重になっている つけられることなく保って来たものと感心させられる。そことを知った。彼女が父に嫁いでからちょうど十一年目で れにあの品のいし 、昔の町家の伝統を残している言葉遣いある。前の夫との間にも子はなかったので、この年になっ はどうであろう、たとい三四年でも花柳界にいたとすれてこう云う経験を持とうとは、父も母自身も思い設けてい ば、あの社会のものの云い振が少しは出て来そうなものでなかったらしく、 おっ しゅうとしゅうとめ あるのに、木綿問屋にいた時分に夫や舅姑にやかまし「今になってこんな大きいお腹して耻しことやわ」 く仕込まれたせいでもあろうか。私の父がたまたま孤閨のとか、 ういざん せ、りよう 寂寥を歎いている時にこう云う人に魅せられたのは当然で「卅越えてからの初産は重いちうやあらしまへんか」 あったと云ってもよく、この人ならば亡くなった妻の美徳とか、母はよくそんなことを云っていた。父も母も、今日 をそのまま引き継いでくれるであろう、そしてその人の形まで子に対する愛を私一人に集注していたので、今度のこ 見である私に、母を失った悲しみを忘れさせることが出来とでいくらか私に気がねしているのかも知れなかったが、 よう、と、考えるに至ったのも自然であると云える。私はそれなら大変な思い違いで、廿年間一人息子で育って来た 父が父自身のためばかりでなく、私のためにどんなに深く私は、始めて兄弟を持っことが出来るのを、どんなに喜ん 橋考えてくれていたかを知ることが出来た。今の母を昔の母でいたか知れないのであった。父には又、昔妊娠中に亡く の鋳型に篏め、私をして二人の母を一人の母と思わせるよなった前の母の記憶があるので、そのまわしい思い出 の うにするためには、今の母その人の心掛けもさることなが が、ふとした折に心を暗くしているのかとも考えられた。 夢 しつけ ら、それは主としてなみなみならぬ父の躾の結果であった何にしても私が奇異に感じたことは、父も母も私の前で生 と云わねばならない。父は今の母と私に傾けた愛を通しれて来る子の話をしたがらない風があり、そのことに触れ て、最初の母への思慕をますます強めていたものと察せらると妙に浮かぬ顔をしている様子がだんだん分って来たこ より づか なか
へ出て行って、一一三日も帰って来ないことがしばしばだっ 折には父の両頬に涙が縷々と糸を引いていた。 たので、 制その時分、讃岐はいっからか館にいないようにな 0 てい たのであるが、思うに彼女は母が逃げ去ると間もなく、自「何処へおいでになったのでしよう」 と、乳人や女房たちが額を鳩めて相談しながら溜息をつい 分も父を見限って母の方へ身を寄せたのではあるまいか。 めのと 滋幹の記憶する限りでは、乳人の衛門が滋幹のことも父のたり、それとなく人を出して捜索させたりしていることも ことも、何くれとなく面倒を見てくれていた。どうかする珍しくなかった。滋幹もそんな時には、子供は子供なりに と彼女は、頑是ない滋幹をたしなめるのと同じ口調で父を胸を痛めたものであったが、一一三日すると、夕方にひとり たしなめたりしたが、彼女が最もやかましく云ったのは父でひょっこり帰って来たこともあり、誰も気が付かぬうち に、部屋に戻って臥ていたこともあり、人に見付けられて の飲酒のことであった。 「お年を召して、外には何もお楽しみがおありにならない連れて来られたこともあった。一度などは、都を離れた遠 のずえ よろ い野末に行き倒れていたのを捜し出されたとやらで、戻っ のでございますから、少しはお宜しうございますけれども、 た時の姿を見ると、髪は乱れ、衣は破れ、手足は泥にまみ こじき 乳人がそんな風に云うと、父はしおしおと、子供が母にれて、乞食坊主のようになっていた。乳人は呆れて、 「まあ」 叱られたようにうなだれて、 と云ったきり、涙をぼろぼろ零しているばかりであった 「心配をかけて済まないな」 と云いながら、大人しく聴いているのであった。全く、老が、父も極まり悪そうに下を向いて何も云わず、こそこそ そむ 年に及んでいとしい人に背かれた父が、前から好きであっと部屋へ逃げ込んで、夜着に顔を埋めてしまった。 たしな た酒を一層嗜むようになり、それを唯一の伴侶とするに至「あんな風にしていらっしやったら、しまいにはほんとう ったのは是非もないことだけれども、その酔い方がだんだに気狂いにおなり遊ばすか、体をお損じ遊ばすか、・ じようき ん狂暴に、常戦を逸するようになって行ったので、乳人がと、乳人は蔭で云い暮らしていたが、そう云う父が、それ できあい 案じるのも無理はなかった。父は乳人にめられると、そほど溺愛していた酒を、或る時からふつつり止めてしまっ たのであった。 の時は素直に詫びるのであるが、その日のうちに直ぐもう 正体もなく酔いしれると云う有様で、詩を吟じたり、泣き滋幹は、父がどう云う動機から酒を断つに至ったのか、 かん つまびら わめ 喚いたりするくらいはまだしも、夜中にふらふらと何処かその間の事情を詳かにしないのであるが、彼がそれに気 がんぜ はんりよ あっ
と云い、その後も依然自分の方から診て貰いに来、往診にであるから、父にそれだけの覚悟があるなら、今打ち明け 3 来られることを喜ばぬ風であった。来る時は大概一人であてしまった方がよいかも知れない、と、そう考えて、父の えんきよく ったが、たまには母が付き添うて来た。加藤氏は父の病状言葉に強いて逆らわず、それを婉曲に肯定する返事をし を有りのままに母に知らせておく必要があることを考慮した。 ながら、適当な折がなくて過していたが、 以上が、加藤氏が私に告げてくれたところのすべてであ 「先生、これで私はあとどのくらい持つもんですやろかるが、なお付け加えて、この病気は最後に肺を冒すように なる場合が多いから、奥さん以外の方々も気をおつけにな と、或る日父がひょっこりと云い出したことがあった。 る方がよいとのことであった。 「何でそんなこと仰っしやるんです」 さて、これから先は、私として少々述べにくいことを述 と、加藤氏が云うと、父は薄笑いを浮かべながら、 べなければならない。 「お隠しにならいでもよろしいがな、私には最初からそう私は仮にこの物語に「夢の浮橋」と云う題を与え、しろ 云う予感がしてましたんや」 うとながら小説を書くように書き続けて来たが、上に記し ことごと 「何で ? 」 て来たところは悉く私の家庭内に起った真実の事柄のみ 「何でや分りません、動物的な直覚とでも云うのでしようで、虚偽は一つも交えてない。 : 、 カ何のためにこれを書く かな、ただ何とのうそう云う感じがありました。なあ先気になったかと問われても、私には答えられない。私は別 生、私は分ってますさ力し ~ 、、、まんまのことを云うて下さに、人に読んで貰いたいと云う気があって書くのではな し少くともこの物語は、私が生きている間は誰にも見せ 父の性格を呑み込んでいる加藤氏は、父の云うことをそないつもりであるが、もし死後に於いて何人かの眼に触れ の言葉通りに受けた。父は昔から勘の鋭い男であるから、 たとしたら、それも悪くはないであろうし、誰にも読まれ 自分の運命を疾うから予知していたのかも知れない。加藤ずに葬り去られたとしても、遺憾はない。私はただ書くこ 氏や大学の医師達の父に対するものの云い振や取り扱い振と自身に興味を抱き、過去の出来事を一つ一つ振り返って からでも、父は自分の病気の性質を察知せずにはいなかっ思い出してみることが、自分自身に楽しいのに過ぎない。 もっと わいきよく たであろう。加藤氏は、遅かれ早かれ、どうせこのことは尤も、ここに記すところのすべてが真実で、虚偽や歪曲は いささ 父自身にか、家族の一員にか打ち明けなければならないの聊かも交えてないが、そう云っても真実にも限度があり、 ぶり