そんな - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集
284件見つかりました。

1. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

間よけいな口を入れないでにやにやと温順に待っていた夫にしてそこを出ると、ふた足と離れないうち誰か後から右 と並んで、楽しそうに、しかも十分奥様ぶってすまして出の肩を突いた。 て行った。 「いくら探したかしれやしない」 この言葉と姉のはでな美しい顔は、同時に真知子の目と 一杯のコーヒーと、一皿の菓子は、三分間手のつかない まま真知子の卓に載っていた。いうまでもなく彼女をそこ耳に入った。 に引き留めたものは、そんな飲み物や食べ物ではなかっ 「そんなに探して」 た。真知子はかかる場合に未婚の娘が普通感じさせられる「だって、こんな隅っこの不景気な店にいたんじゃ、わか せんう 羨望からは自由であった。かりに何か似た感情があったとりつこないじゃないの」 すれば、それは富美子の幸福な結婚そのものよりは、その「これでも、富美子さんの御案内なのよ」真知子はいい 結婚に、むしろその夫に満足しきっている、彼女自身の単がら、彼女が引き受けてくれたその役目に対して、どんな 純な欲望に対してであった。真知子は、一年ばかり前、母報酬を自分が払ったかを姉に知らせたら、きっとおもしろ じんぞうえん が急性の腎臓炎で入院していた関係から、木村をば富美子がるだろうと思った。・ : カ話さないうち、辰子は田口の奥 の夫としてより前に、病院の一医員として知っていた。ちさんに聞いたといって母の病気のことをいい出した。 ようど彼女の結婚を決定的にする第一条件であった学位が「たいしたことはないんだって」 取れたばかりのころで、彼は小さいややとがった頭を仮漆「いつもの頭痛」 はめ、た 塗りの羽目楓のようにきれいに光らせ、それも誰のよりも「ならいいけれど、お母様この節は少し弱ったわね。まあ きれいなまっ白い上っ張りをふわふわさせて、廊下を気取ちゃんもよけいな心配をさせないようにしたほうがいいの って歩きながら、こっそり看護婦にからかった。特別に親よ」 うわさ かみがたなま 密だという噂のあった、上方訛りの、眼のかわいい看護婦「お母様がよけいな心配をしたがるからいけないんだわ」 をも真知子は知っていた。 「あんなこといって」 「でもそうじゃないの」 しかしあの楽しそうな富美子にとって、こんなよけいな 回想がなんの役に立つだろう、と考えると真知子はばかば「そうじゃありませんよ」 かしかったし、くだらないことを忘れもせず覚えている自「そうですよ」 分に対しても厭な気がした。で、急いで卓の上のものを空議論の主題についてはどちらも口を出さなかった。でも さら

2. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

藤さんなどの言う事ーーー古藤さんなんぞにわかられたら人 うな人の癖に、可哀そうがられるのが嫌いらしいから」 間も末ですわーーーでもあなたはやつばり何処か私を疑って 「僕には結局葉子さんがなにがなんだかちっともわからな いらっしやるのね」 い。僕は兄が彼女を選んだ自信に驚く。しかしこうなった 以上は、兄は全力を尽くして彼女を理解してやらなければ「そうじゃない」 いけないと思う。どうか兄等の生活が最後の栄冠に至らん「そうじゃない事があるもんですか。私は、一生こうと決め たらどこまでもそれで通すのが好き。それは生きてる人間 事を神に祈る」 こんな文句が断片的に葉子の心に沁みて行 0 た。葉子はですもの、こ 0 ちの隅あっちの隅の小さな事を捕えて尨め 激しい侮蔑を小鼻に見せて、手紙を木村に戻した。木村のだてを始めたら際限はありませんさ。そんな馬鹿な事った 顔にはその手紙を読み終えた葉子の心の中を見透そうとあらありませんわ。私見たいな気な我儘者はそんな風にさ れたら窮屈で窮屈で死んでしまうでしようよ。私がこんな せるような表情が現われていた。 どう になったのも、つまり、みんなで寄ってたかって私を疑い 「こんな事を書かれてあなた如何思います」 抜いたからです。あなただってやつばりその一人かと思う 葉子は事もなげにせせら笑った。 「如何も思いはしませんわ。でも古藤さんも手紙の上ではと心細いもんですのね」 木村の眼は輝いた。 一枚がた男を上げていますわね」 木村の意気込みはしかしそんな事ではごまかされそうに「葉子さん、それは疑い過ぎというもんです」 はなかったので、葉子は面倒くさくなって少し険しい顔にそして自分が米国に来てから嘗めつくした奮闘生活もっ なった。 まりは葉子というものがあればこそできたので、もし葉子 「古藤さんの仰有る事は古藤さんの仰有る事。あなたは私がそれに同情と鼓舞とを与えてくれなかったら、その瞬間 女と約束なさった時から私を信じ私を理解して下さっていらに精も根も枯れ果ててしまうに違いないという事を繰り返 るっしやるんでしようね」 し繰返し熱心に説いた。葉子はよそよそしく聞いていた 或木村は恐ろしい力をこめて、 「うまく仰有るわ」 「それはそうですとも」 ととどめをさしておいて、しばらくしてから思い出した と答えた。 「そんならそれで何も言う事はないじゃありませんか。古ように、 ぶべっ おっしゃ

3. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

にでも手に入るものだとは彼女には信じられなかった。反 に入った家を建てさせるために、急いで結婚しなければな はるつばめ らないなんて、そんなこつけいな話ってあるかしら。建て対に、春燕の飛ぶのを見て急いでネルを着はじめるよう な、また十二時の時計にうながされて、胃の腑がすかなく たけりや、私なんかに関係なく、いつだって建ててよ」 「そうは行きません。あんたや母さんのために建てる家じてもすいても昼の食卓に坐らされるような、いわば慣例に ゃなし、よけいなものがいるうちにむだなことをするものすぎない一つの儀式を境界として、突然特定したある存在 が自分の存在に結びつき、話すことも、笑うことも、考え か」 ることも、食べることも、眠ることも、一人の相手を意識 「そういうふうに取るのは、お母様のひがみじゃない」 「そんな考えをしておるから、あんたは母さんに同情がなすることなしには許されないという奇妙な生活の中で、真 お父さまはあれだけしつかりした気性だけの幸福や、自然なのびやかな楽しさがありえようとは思わ いのです。 に、なかなか扱いにくいところのあ 0 た人だ 0 たし、くれなか 0 た。真知子には、結婚する婦人たちはみんな布る なれば亡くなったで、今日まで一日だって母さんには苦労べき冒険者に見えたとともに、自分が結婚に対してこんな の絶えた日はありやしない。それだのに、あんたって人考え方しか持たないのは、まだ誰をも愛したことがないか らだ、ということも知っていた。といって、誰を愛すれば は、ひとの気も知らないでーー」 「そんな話を聞かされると、私なおと結婚しようなんて思よいのであろう。真知子は決してそんな人には出逢わなか った。彼女が今日まで結婚しないで来たのは明らかにそれ わなくてよ。お母様だって、私を無理にどこかへやって、 が理由の一つではあったが、そのために神経質になるほど 同じような苦しみをさせたくはないはずでしよう」 「それは別問題ですよ。母さんが苦労したって、あんたま愚かではなかったし、知識に対する欲望も十分彼女を落ち で結婚してしあわせになれないって法はないんだから。そ着かした。今日のような話の後でさえ、真知子はふだんと 子れどころじゃない。今までにだってあんたがその気なら、変わらない平静さで、学校に行き、帰るとノートの整理を したり、参考書を読んだり、演習の下調べをしたりし、タ 知どんな幸福な結婚でもできたのじゃありませんか」 方からは一人の女中に手伝って、大ぎして晩の料理をこ 「もうたくさんよ、お母様」 このへだたりを、真知子は同時に立ち上がり、さっさとしらえたりすることがでぎた。それをまた何の屈託もなく お腹いつばい食・ヘることも。 部屋を出て行くことでやっと有効にした。 幸福な結婚というものが、母のいうようにそう容易に誰しかし、食後の風呂でいい気持ちにあたたまり、大タオ なか おおさわ

4. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

間、開けた関と顔を見合わせた。 今は感じさせなかった。彼女は奇妙に無感覚になってい かいふく 関は最初の驚きからすぐ恢復すると、持ち前の冷淡な表た。というより、そんなことを聞かれたり、説明したりし 情に返り、どうしてこんなところを歩いているのかを尋ねないですませたかった。そのくせ、関のことよりほかにな こわき た。真知子はそれに答えながら、彼が小腋にはさんでいるんにも考えていたのではなかった。昨日のような打ち解け 丸善の鰭の包み紙に眼を留めていた。富美子が見たとた態度のあとで、なぜ再び彼があんな冷淡を示したか、彼 いうのはやはり彼に相違ないと思った。同時に真知子は、女にはそれがわからなかった。少なくとも関は米子に対し 彼がどんな書物を買っているのか知りたい気がした。昨日てはもっと優しくふるまうのを真知子は見た。それはまた あんな話までし合った間柄で、聞かれないことはないはずどこから考えても暗さのない率直な親しさであった。その であったにかかわらず、その時の興に乗った親しげな態度他の誰に対しても、彼は真知子自身に対するほど露骨に邪 は彼には残っていなかった。前よりはいっそうそっけなく険ではなさそうに思われた。このことは今までの腹立たし さび さの代わりに、輪郭の不明な淋しさを初めて彼女の恟に値 無情に見え、取りつき場がなかった。そうして真知子がい つになく変に気おくれしている間に、 いっか彼女には見馴えた。 れたものとなった黒い縁の広い帽子に手をかけ、反対の道 の方へ静かに去った。 月が変わると、たびたび予報されていた山瀬一家の上京 が事実となった。高等学校の生徒主事として山瀬が出席し 「どなた、今のは」 停留所で落ち合うと、未亡人は一番にそれを聞いた。母なければならない会議が一週間東京で開かれた。それがす めば冬休みであった。 は道の向こう側からすべてを見ていたらしかった。 雪にでもなりそうな冷たい雨の降る朝、彼らは三つにな 子「米子さんのお国の方」 る娘と、その遊び相手のアキルと呼ぶ茶色の小さいテリア 知「なにをしている方です」 かばん みやげりんご を連れ、二つの行李と一つの鞄と、土産の林檎を詰め込ん 真「そんなこと知らないわ」 それだけではあまりに不自然であったから、真知子はほだ大きな木箱とで、ぐしょ濡れの円タクにぎっちりになっ て到着した。 7 んの一度米子の家で逢ったのだという言葉でつくろった。 とが その嘘は、さっき富美子の場合に感じたほどの気咎めをも未亡人は歓待の優しい表示で彼らを迎えた。遠く離れて

5. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

「柘植さんを避けようとするには、田口さんを避けなけれをうしろに引き、組み合わせた手で白い顎をささえた。 ばならなかったのですし、同時にそれは、あなたを避ける「私のお答えいたしましようか。結婚についてどんな考え ことであったディレンマは、あなたもおわかりくださるとを持っているーーーそうお聞きになったのね」 思います」 河井は愛情の優しい表示で、電燈の側だけ明るくした顔 ペんそ その弁疏は、真知子の若い情緒を柔軟に甘やかすかわで、うなずいた。 り、かえ 0 て彼の = ゴイズムを憎ませ、に彼らの婚約の 「この一、一一年間、たしかに月に一遍ぐらいのわりで、私 行き悩みを聞かされた時と同じ同情を、多喜子の上に感じは同じ質問を受けましたわ」相手のあらわしている感情か かいぎやく させた。 らは自由に、 いくらか謔諧な気持ちにさえ彼女はなりなが 「どんな理由があったにしても」彼女は相手の視線をはずら、「母とか、姉とか、親類の伯母とかいうような人たち し、額からネクタイの真珠へ眼を遁がしながら、容赦のな から。本当は私の意見なんかどうでもかまやしない。ただ い言葉で指摘した。「それで婚約の可能をみんなに信じさ早く結婚しなくちゃいけないってお説教がしたいのです したのは、あなたの責任ですわ。ことに多喜子さんにそれわ。私ある友だちに話しましたの。あんな人たちは、なん を信じさした以上ーーー」 だってひとの顔さえ見れば結婚を勧めるんでしよう。自分 「多喜子さんにそんな誤解を与えるような行動を、私自身たちの結婚に満足してもいないくせに。 そうしたら、 として取った覚えは毛頭ありません」 友だちがうまいことを申しましたわ。時分どぎに見えてる なか 真知子は急に大きな声で笑いたくなった。彼の無意識お客様には、自分でお腹がすいていなくとも、なにか、ぜ な、それだけ底の知れない = ゴイズムは、色盲に色の感覚ひ食べさせようとするようなものだって。それからは私 いただ が欠けていると等しく、彼のような、わがままのできる環も、まだなんにも頂きたくはございません、って断わると わいきよく 子境に生きているものの共通な、理性の歪曲によるに相違な同じくらい気軽く断わることにしていますの、まだ結婚し 知かった。したがっていかに細かく分析して見せたところたくはございませんって」 真で、彼女の感じさせようとするものを、彼が感じうるはず「しかし、いつまで同じようにお断わりになるつもりでし はなかったし、また多喜子のため真知子がそれほど骨折るようか」 必要もないわけであった。 「それは私にもわかりませんわ、将来のことまでは。で 「じゃ、そんな問題とはきり離して」彼女は腕椅子の身体も、今でも一つのことははっきり申されますわ。いっか食 ひたい うでいす

6. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

かな眼を見張ったほど性急に、彼女は畳みかけた。「決し てそうじゃありませんわ。持ってるのはあなたや、あなた「昨晩は変にしょげていらしたのね、河井さん、待ってな のお母様や、お仲間のお金持ちゃ貴族だけですわ。そんなすった間もあんなふうだったの」 「あんなふうって、変わってらしたかしら」 人たちだけ、そんな気楽なことがおっしゃれるのですわ。 でもいつまで続くでしよう。同じ自由と権利を奪われた人「まあ、気がっかなかったの。のんきな真知子さん」 たちが、奪われたものを取カ返そうとして、戦 0 ています細く尻下がりに、流行のひき方をした眉で、鏡の中の わ。それぞれ気に入 0 た暮らし方をして、それで誰を & は笑った。真知子は手伝 0 てウ = ープを直していた。雨の さんさん げない社会を作り出そうとして、首になったり、豚箱に投あとの燦々とした朝の日光が、化粧部屋の窓にあった。 げ込まれたり、学校から追い出されたりしてますわ。その真知子は彼を見ないですむように、嫂たちが帰ると先に 中で、どうしたら一万年前の人間の使ったがらくたなんぞ床につき、すぐ眠ってしまった。三十分といないで帰った 問題にしていらっしゃれるかともうと、 もちろん学問ことさえ知らなかった。 「なんでも、外国へまた出掛けたいようなことをいってら としては必要であり、りつばなことであるにしても、私の ひばち 気持ちでは、お母様のお鼓のお相手が勤まらないと同じしてよ」嫂は鏡台の横の火鉢から鏝を取って渡しながら、 うわさ しようばん に、あなたのそういう生活のお相伴をしようとは思いませ河井の噂をつづけた。「私、ですからいってあげたの、そ れもおよろしいけれど、その前に早く御結婚なさいよ、そ んわ」 求婚の拒絶というより、それは一つの宣言であった。同して奥様とごいっしょにいらっしゃいましよって」 「それがいいわ」昨夜の顛末は思い出してもいないかのよ 時に河井に向かって発せられたというより、彼の立ってい あっさく る機構、富と権力の底に圧搾された濳熱の必然的爆発にようにずるくしらばくれ、真知子は訊いてみた。「で、なん 子り、支柱の一本一本がすでに火になりつつある、どんなアて」 知トラスも担いつづけることのできない世界に対する、彼女「そのほうはごまかしちゃったの。ただ母が淋しがるから の決然たる離別であった。 弱るってこ・ほしてらしたわ。あれじゃいくら傍からお膳立 真知子は立ち上がった。いうだけいってしまった時、自てしたって、多喜子さん脈はなさそうね」 動車が門に留まった。彼女は雨の音と、炉のほのかな炭火「そうかしら」 かげ 「こんな気も私にはするの。 そこんとこ細かくかけ と、電燈の暗い翳の沈黙に彼を見捨て、部屋を出た。 にな てんまっ こて さび はた んだ

7. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

った。講座料を入れても三百円の収入しかない北海道のほ 運命を支配されちやたまらないわ」 剛「たまらないって、年はりつばにその力を持ってるのですうだって、楽ではないはずであった。この不足は、内科の からね。もしあんたがひとりで暮らすのでなかったら。著名な博士で大きな病院を持っている妻の父から容易に補 充された。同時に、どんな関係の間でも威力を失わない金 それとも一生結婚しないつもりかい」 銭の価値は、ここでもそれ自身の発揮すべきものを発揮し 真知子は返事しなかった。自分からよけいなことをいし 出したのを後悔していた。母に限らず、誰とでもこんなこた。彼らは、夫であり妻であるとともに、債権者であり債 ぼくねん かよく とを、こんな事務的な態度で話すことは我慢ならなかっ務者であった。でなくも温順で、寡慾で、悪くいえば朴念 た。で、ふだんから、細心な警戒とできうるだけの冷淡で仁で、人間の社会よりは、顕微鏡の下の世界により多くの まわ 遁げ廻っていた話題であった。それだけ未亡人は捕えた機興味を持っている夫を操縦することは、妻にとってはなん 会を放さなかった。 でもなかった。 この勢力のある、かなり美しい、年からいっても真知子 「まさかあんただって、そんなむてつぼうなことを考えて はいないだろうから、もうそろそろ別をつけてくれなけと七つしか違わない嫂は、その若さと美しさを北海道で消 りや 0 そりや当節のことだから学問もよござんすよ。耗させる気は決してなかった。適当な場合に、実家の父の できることをしとく分に損はないともって、私はそんなこ手を利用すれば、東京の大学か、それに劣らぬ地位を夫の とであんたに反対したことは一つだってない。でも、北海ために見つけるのはむずかしくはないと考えていた。また それには現在の古・ほけた陰気な邸宅を、もっと快適な当世 道の嫂さんたちや親類の人たちにしてみれば、あんたがい つまでも結婚しないのは、私が甘やかして、好き自由なまふうの様式に改築しなければならなかった。実際あんな時 代おくれの不便な家で、東京の空を描いてる彼女の楽しい ねをさしておくからだとしきや考えないんですからね」 たもと 未亡人は外出着の袂から新しいハンケチを出し、鼻をか夢を実現させることは、思いもよらなかった。にもかかわ らず、まだそのままで手をつけないでいるのは、転任が確 んだ。 北海道の大学で生物学を教えている曾根家の当主は、未定しないためばかりではなかった。その理由をよりもよ 亡人とは義理ある間柄であった。父はかなり高い地位の官く知ってると信じているのは未亡人であった。 吏であったが、金を残さなかったので、未亡人と真知子は「ばかばかしい」自然の発展から、話がそこまで及んだ やっと昔の家に住んでいるというだけの生活しかできなか時、真知子はむしろおかしがっていった。「お嫂さんに気 ねえ

8. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

ビアノの練習と。 づき、明らかにそのため彼女をしていたように、何とか 「ビアノってば」富美子は思い出したように、そこで話をさんのお嬢さんが見えたという報告をした。 転じながら、「この間の帝劇の >< ーお聴きになって」 「奥さんも」 その著名なポーランド生まれの・ヒアニストは月初めに十「うむ」 日間帝劇で演奏した。真知子は行けなかった。 「よかったわ。母さんさっきから待ってらしたのよ」富美 「まあ、惜しかったのね。私、二晩だけは行ったけれど、 子はその言葉で自分もまた同じ客を待っている熱心を正直 かたわら おしまいのショ・、 ′ンがどうしても聴きたくて、そのつもり に表わしながら、でも房にいる真知子を忘れるほど不作 で切符買っておいてもらったのよ。ところが、どうでしょ法ではなかったので、聞いた。「あんた御存じだったわね、 う。病院のほうで手の放せない患者さんができたとかっ柘植さんのお嬢さん」 て、とうとう行かずじまい。残念であきらめきれなかった「柘植さんーーこ真知子は思い出せなかった。 わ。ですから、あんな時にはーの従妹が私いつでもうら「ほら、あの子爵の。ー・ー貴族院へ出ていらっしやる」 だんな やましくなるの。旦那さん眼科でしよう。どんなことした「 いいえ」真知子はそんなお嬢さんは知らなかった。 って夜まで引っ張り出されることは決してないんですも「この春私たちの音楽会の時お逢いになったと思ったけれ の。それから見ると内科はめんどうで、気骨が折れて本当ど。 いらっしやらなかったの。どおりで。多喜子さん にいやだともってよ。そうはお思いにならない」 って、快活ないい方だわ。・ヒアノがごいっしよなもんだか 実際、一方は命の問題であり、一方はこの上なく悪く行ら、この節私のいっとう仲よしなの」 ったところで、誰かを盲目にするにすぎないのであったか富美子はこの打ち明けを無邪気な笑いでし、真知子とも ら、その訴えに対しては真知子は理論的に同意しないわけきっといい友だちになれるから、 いっしょにあちらへ行っ 子に行かなかった。と、富美子は、すっかり満足し、なおいて紹介しようといった。真知子はもう少し足を休めて、そ 知くら話しても話し足りない話題を続けるためにわりに人のこのおいしいお菓子を食べて行きたいといったので、彼ら 真少ない洋菓子のテントを選んで休もうとしていたところは別れることになった。 へ、夫の木村自身がはいって来た。医者らしく身についた「じゃ、また後でね。 お菓子もだけれど、向こうのお モーニングの胸に、接待係のしるしの赤いリポンをつけたすし、ちょっとおいしいのよ。めし上がってみてちょうだ あいさっ 木村は、真知子と形式的な挨拶を交換するとすぐ、妻に近い」富美子はそんなことをいい残し、妻がしやべっている

9. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

てるので、葉子はその老人に引ぎずられてでも行くように うな態度で、殊に水夫長は、 「御退屈でございましたろう。それでもこれであと三日にどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空 、、、、う・こめ かげ なりました。今度の航海にはしかしお蔭様で大助かりをし気は蒸れ上がるように人を襲って、蔭の中にうようよと蠢 きわ く群れの中からは太く錆びた声が投げかわされた。闇に慣 まして、昨夕から際だってよくなりましてね」 と付け加えた。 れた水夫たちの眠は矢庭に葉子の姿を引っ捕えたらしい。 葉子は一等船客の間の話題の的であったばかりでなく、 見る見る一種の奮が部屋の隅《にまでちれて、それ 上級船員の間の噂の種であったばかりでなく、この長い航が奇怪な罵りの声となって物凄く葉子に逼った。だぶだぶ 海中に、時の間にか下級船員の間にも不思議な勢力になのズボン一つで、筋くれ 0 た厚みのある毛胸に一糸もっ っていた。航海の八日目かに、ある老年の水夫がフォクスけない大男は、やおら人中から立ち上がると、ずかずか葉 くじ 、カり はさ ルで仕事をしていた時、錨の鎖に足先を挾まれて骨を挫い子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉 あなあ ぞうごん た。プロメネード・デッキで偶然それを見つけた葉子は、子の顔を孔の開くほど睨みつけて、聞くにたえない雑言を 船医より早くその場に駆けつけた。結びつこぶのように丸高々と罵って、自分の群れを笑わした。しかし葉子は死に まって、痛みのために藻掻き苦しむその老人の後に引きそかけた子にかしずく母のように、そんな事には眼もくれず そば ねやす って、水夫部屋の入口まではたくさんの船員や船客が物珍に老人の傍に引き添って、臥安いように寝床を取りなおし しそうについて来たが、そこまで行くと船員ですらが中にてやったり、枕をあてがってやったりして、なおもその場 ちゅうちょ はいるのを躊躇した。どんな秘密が潜んでいるか誰も知るを去らなかった。そんなむさ苦しい汚ない処にいて老人が 人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域ほったらかしておかれるのを見ると、葉子はなんと言う事 と見做されていただけに、その入口さえが一種人を脅かすなしに涙が後から後から流れてたまらなかった。葉子はそ 女ような薄気味悪さを持っていた。葉子はしかしその老人のこを出て無理に船医の興録をそこに引っ張って来た。そし る苦しみ藻掻く姿を見るとそんな事は手もなく忘れてしまって権威を持った人のように水夫長にはっきりした指図を ゅうゆう 或ていた。ひょっとすると邪魔物扱いにされてあの老人は殺して、始めて安心して悠々とその部屋を出た。葉子の顔に されて了うかもしれない。あんな齢までこの海上の荒々しは自分のした事に対して予供のような喜びの色が浮かんで い労働に縛られているこの人には頼りになる縁者もいない いた。水夫たちは暗い中にもそれを見遁さなかったと見え とめど のだろう。こんな思いやりが留度もなく葉子の心を襲い立る。葉子が出て行く時には一人として葉子に囃言を抛げつ こし」 うわさ おびや にら きた みのが

10. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

284 であろう。 そのあとの、しばらくぶりの、静かな留守「あんた、今日義兄さんと丸善へ行くんだって」 をたのしみたいと彼女は思ったのであった。 真知子はびつくりした。姉の様子で、なにか二人だけで 真知子のような性情で、長い間孤独に暮らし馴れたもの話したいのだとは察していたが、その質問は何によって生 にとっては、どんな肉親の間でもこの感情を取り除くわけじたかわからなかった。彼女はそんな約束もなければ、そ には行かなかった。またそれによって、彼女がみね子のこんなつもりもないと答えた。 の上なしの善良さに対して持っている同情や、小さい姪に 「でも義兄さんはあんたを連れてって、なにか書物を探し 対する明白な愛情ーーーこの脆弱い甘ったれ子は、彼女を時 てあげるんだっていってよ。もちろん自分も買う本もある 時手こずらせたにもかかわらずーーを傷つけることにはなんだけれど」 らなかった。山瀬自身に対してさえ、上の姉の辰子が彼を 電車の中での山瀬の言葉がふと思い出された。が、それ ばかにしているようなしかたは、真知子はしていなかった。 は彼だけの考えで、真知子には関係のない話であった。そ よけいなお講義をはじめさえしなければ、彼は正直な、策略んなことになってたまるものか。ーー彼女は今朝からの秘 のない、善人のひとりなのだと考えることを知っていた。密な願望が、思いもよらぬ結果に逆転しそうなのにほとん そろ 珍しくみんなで揃った朝の食卓で、真知子は自分の待つど恐れをきながら、今日はそれどころではないといい張 ていた話が話し出されるかどうか聴き耳を立てた。しかしった。 きげん 「 / ートの整理だって、ほら、こんなにたまってるのよ」 みね子は、その日特別に機嫌のわるい娘をすかすのと、小 「それぐらい、帰ったってできるでしよう」みね子は、妹 さい匙で食べものを口に入れてやるのが急がしかったし、 たいせき 山瀬は山瀬で、庭先の大の監督で、食事の間も立ったり坐が示そうとした机の上の堆積には多くの注意を払おうとも しないで、どうか自分のために行ってくれまいかと頼ん ったりばかりしていた。 食後、女中のあとかたづけを手伝っていた所を真知子はだ。「こんなこと、ほかの人には話されないんだけれど、 姉から呼ばれた。 今日はまあちゃんがいっしょだって聞いたんで私いい幸い 「まあちゃん、ちょいと」 だともっているのよ。だってね、あのひと欲しい書物だ 行くと、すぐ用事をいおうとはしないで、みね子はひとと、あとのことなんかなんにも考えないで買う癖があるん り先に立って真知子の部屋へはいって行き、それから出しですもの。今度だって丸善に寄ったたんびに買って来てる 抜けに尋ねた。 わ。そりや学者に書物がたいせつなことは私だって知って ひょわ さが