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検索対象: 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集
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1. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

314 えりもとか 「今までそんなことおっしやった」 そうに襟元を掻き合わせた。その様子で、真知子は本当は 「いいましたとも、今日だってあの新しいほうのになさい いくら残っているかを母は勘定したのであること、そうし っていったのに」 て今日の支出が予定額よりも超過したのであることを知っ 「どちらだって同じよ」 た。真知子はわざと反対の側を向き、よりかかりに背中を 「ほら、そういうことを」 びったりつけて外を眺めた。 歩きながら母が人の中で怒っているのが真知子にはおか暮れかけて、まだ電燈がっかなかった。この節、この時 しかった。たとい母の気に入った帽子を持っていて、そこ 刻になるとよく降りる、凍ったような層の厚い靄が、行く まるまげ でかぶり直したとしても、誰か知った若奥さんの丸髷でも手の道路をくろずんだ灰色に・ほかした。その中を彼らの自 このつぎ見つけ出したら、今の帽子よりいっそうひどくそ動車は、仲間の円タクや、青・ ( スや、満員の電車とともに れはけなされたであろう。 競争であわただしく記けた。 幸いにも、未亡人をもう一度ヒステリにするような相手「こんなことで今日もすんでしまう」 には出逢わないうちに、彼らはどうにか買い物をすまし 真知子は、ふと思った。それは単に米子を訪ねることの た。地下室の受取り場に下りた時、未亡人のコートのポケできなかった残念さであった。・ : カその気持ちは、すぐそ ットから木札が二十枚近く出た。そこでも彼らはまたおさのあとからつぎのもっと意味のある感慨にまで延長した。 れたり揉まれたりした。かさばる物は大部分届けに廻した「こんなことで今年すんでしまう」 すだ にかかわらず、なお数個の紙包みが手に残った。 彼らは須田町の通りに出ようとしていた。両側の歳暮大 「自動車にしましようね」 売出しで飾り立てた店には、軒並みに赤、緑、黄色のセル 真知子は自分でそれにきめて命じた。未亡人も今日はガロイドでできた、細長い支那ふうのランタンが吊されてい ソリンの匂を我慢できないとは主張しなかった。が、動き た。灯が入っていないので、なにかの殻のように、それが はじめると、 靄の中で列になっていた。真知子はその一つ一つの色と形 「細かいのがあったかしら」 をぼんやり眼で追った。 そうひとり言につぶやき、夫のものであった、古風な印彼女はもう二週間たたないで一つ加わるはずの年齢に対 のぞ 伝の金入れを取り出した。開けて、覗いて見て、ばちんとしては、少しもセンチメンタルでなかった。それよりも真 いわせて閉じ、早々にもとの懐へしまい込なと、うそ寒によく生活した意識なしに年を送ることの無為と空虚が、 におい ふところ 、や つる

2. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

てくれたが、汽車からはみえなかった。雨の降る中で、 今日が最後とかいう o 型蒸気機関車をカメラにおさ めようとして待ちかまえている人たちを、沿線に多く みた。今日は倶知安町で、高山亮一一、武井静夫の両君 昔の狩太、今のニセコを訪ねる。今日も雨が 降り、蝦夷富十といわれる後方羊蹄山の英姿はみられ そ、つもない 有島武郎が明治三十四年七月二十四日供知安町に着 いたときに、その夜、一泊した x x 旅館は三浦屋旅館 であったと、武井君は考証する。今は三浦屋菓子舗に 変っている。倶知安から尻別川に沿うて、四十分にし てニセコ町に入り、昔の有島農場に出かける。「有島」 あざな は字々となって残っている。カシュンべッ川を渡ると、 みずばしよう 広大な農場への入口をしめす標柱がある水芭 ~ 焦が生 ゆきど ' え、白色の花穂か出て、雪解を告げている。時々、雨 雲か明るくなり、 遠くに山々がほんやりとみえる高原 地帯という気かする。『カインの末裔』の舞台であり 見渡すかぎりの原野はよく開拓されているか、まだ雄 大な蝦夷地を思わせる風土の特色は生きている。 、やてる 小高い丘を二十七段登ると、弥照神社かある。有島 武が建てた社で、十五坪ばかりあって、炉を切り の集会所にもちいられた。武郎が、大正十一年七月十 小作人を集めて、農場解放の趣旨を話したとこ しりべっ まっえ、 狩太共生農場 ( 旧有島農場 ) の入口付近

3. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

倉子はずるい、探るような眼を彼の方へ向けた。その主姉を恨んでいた。それくらいなら自分も先に帰るのであっ 要な客の動作については、彼女は常に誰よりも神経過敏で たと思った。真知子は田口夫人の当てこすりや、彼女が関 あった。・ : カ直接それに触れるかわりに、ふだんほど冴えについていった侮蔑の言葉を忘れえなかったとともに、そ ちょうしようてき ざえしない彼の血色を心配するようにいった。 の関と結びついて発展した話題に対する人々の嘲笑的な 「あのう、なんなら、お熱いお茶でも、もう一ついかがで態度に反感を持っていた。自分自身にはたぶん大まじめで ございますか、河井さん」 あり、実際関の同情者であったはずの山瀬に対してさえ、 ゆる 「いや、結構です」彼はきわめて何気なく答えた。 真知子は赦しがたい怒りを感じていた。彼が一番いけなか 「もしお風邪でも召しては大変でございますわ」倉子はな ったのだと考えた。関をこんな場所に引っ張って来た無思 おそれでやめようとせず、柘植夫人まで誘いかけた。「ね慮と軽率、その沚によけいな閲歴の暴露ーー彼を廊下に見 え、奥様、今日は近ごろになくお寒い日でございましたも出だした瞬間の嬉しくないことはなかった驚きや、いっし こう - 」っ ょに・フラームスを聴いていた間の無意識なたのしい恍惚感 柘植夫人も非常に寒い日であったという言葉で応じ、こは、彼女から消えていた。真知子はただ今夜のことが彼に んな天気が続けば彼の母夫人は近いうちに熱私の方〈行かと 0 てどんなに迷惑な忍従であ 0 たか、それのみを思 0 れることと思うと付け加えたのをぎつかけに、そこにある た。でも、あのひとが帰らないでお茶の時まで残っていた 河井家の有名な別荘や、付近の避寒地のことが新たに話しとして、そうしてあんな話を聞かされたとして、それでも 出された。ことに倉子と柘植夫人が、なによりその話をおおとなしく忍んで聴いたであろうか。 が、それに対し もしろそうに話したのは、本当におもしろか 0 たというよて自分で決定を与えないうち、すぐ前を、人々にややおく り、それによって今までのろくでもない社会主義の議論をれて歩いていた河井から話しかけられた。河井は非常に前 子押しのけ、河井や多喜子に少しでも多く話させようとした から関を彼女が知っていたのかと尋ねた。真知子はほんの 知にすぎなかった。で、第二部がはじまりかけ、楽屋に気が一と月前知ったばかりだと答えた。 かりのある富美子が、多喜子をせき立てて椅子から離れる「いっか上野でお目にかかった時、いっしょにいましたで 真 まで、彼らの秘密な努力は続いた。 しよう、あの友だちの家で」 「そういえば、今夜関さんに紹介されると、上野でお見か 真知子は階段を下りながら、とうとう姿を見せなかったけしたことを思い出しましたよ」 ふべっ

4. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

284 であろう。 そのあとの、しばらくぶりの、静かな留守「あんた、今日義兄さんと丸善へ行くんだって」 をたのしみたいと彼女は思ったのであった。 真知子はびつくりした。姉の様子で、なにか二人だけで 真知子のような性情で、長い間孤独に暮らし馴れたもの話したいのだとは察していたが、その質問は何によって生 にとっては、どんな肉親の間でもこの感情を取り除くわけじたかわからなかった。彼女はそんな約束もなければ、そ には行かなかった。またそれによって、彼女がみね子のこんなつもりもないと答えた。 の上なしの善良さに対して持っている同情や、小さい姪に 「でも義兄さんはあんたを連れてって、なにか書物を探し 対する明白な愛情ーーーこの脆弱い甘ったれ子は、彼女を時 てあげるんだっていってよ。もちろん自分も買う本もある 時手こずらせたにもかかわらずーーを傷つけることにはなんだけれど」 らなかった。山瀬自身に対してさえ、上の姉の辰子が彼を 電車の中での山瀬の言葉がふと思い出された。が、それ ばかにしているようなしかたは、真知子はしていなかった。 は彼だけの考えで、真知子には関係のない話であった。そ よけいなお講義をはじめさえしなければ、彼は正直な、策略んなことになってたまるものか。ーー彼女は今朝からの秘 のない、善人のひとりなのだと考えることを知っていた。密な願望が、思いもよらぬ結果に逆転しそうなのにほとん そろ 珍しくみんなで揃った朝の食卓で、真知子は自分の待つど恐れをきながら、今日はそれどころではないといい張 ていた話が話し出されるかどうか聴き耳を立てた。しかしった。 きげん 「 / ートの整理だって、ほら、こんなにたまってるのよ」 みね子は、その日特別に機嫌のわるい娘をすかすのと、小 「それぐらい、帰ったってできるでしよう」みね子は、妹 さい匙で食べものを口に入れてやるのが急がしかったし、 たいせき 山瀬は山瀬で、庭先の大の監督で、食事の間も立ったり坐が示そうとした机の上の堆積には多くの注意を払おうとも しないで、どうか自分のために行ってくれまいかと頼ん ったりばかりしていた。 食後、女中のあとかたづけを手伝っていた所を真知子はだ。「こんなこと、ほかの人には話されないんだけれど、 姉から呼ばれた。 今日はまあちゃんがいっしょだって聞いたんで私いい幸い 「まあちゃん、ちょいと」 だともっているのよ。だってね、あのひと欲しい書物だ 行くと、すぐ用事をいおうとはしないで、みね子はひとと、あとのことなんかなんにも考えないで買う癖があるん り先に立って真知子の部屋へはいって行き、それから出しですもの。今度だって丸善に寄ったたんびに買って来てる 抜けに尋ねた。 わ。そりや学者に書物がたいせつなことは私だって知って ひょわ さが

5. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

が知れなかったのは米子だったといい返した。二人はこのこにあった。あの時無理に弾かされて、先に弾いた二人よ 悪口の交換が楽しかった。 りももっとりつばにできたとしても、今これらの子供たち 壁にかかった、たぶん寄付らしい、他の道具類とは不似のために、となりのメリャス機械の伴奏で弾くほど愉快で 合いにハイカラなクックウ時計が二時を打った。真知子ははなかったことを信じた。 子供たちにもうおもちやをかたづけなければならない時の子供たちが帰ってしまうと、真知子はーという富豪の しゅうしゅう 来たのを注意した。これで「さようなら」の歌をうたえ有名な洋画の蒐集を主として、半月ばかり前から上野で ば、彼らは帰れるのであった。 催されている展覧会が、今日で終わる話をした。 「私に弾かしてくれない」 「よかったら、いっしょに行ってみない」 真知子はふとそういう気になった。部屋の隅のオルガン 「行きたいけれど」何か思案する時の癖で、米子は白い長 あご の方へ行きかけた米子はよろこんで譲った。子供たちにめな顎を傾け、ひとり言のようにいった。義務としては幼 も、今日は先生のお友だちが弾いてくれるのだから、いっ稚園だけでよかったが、夕方まで託児所の仕事を手伝って じようす もより上手にしましようというようなことをいい聞かせ、 彼らの輪の中に交じって、さようなら、皆さま、さような「あんたもまだ」 ら、ごきげんよう、という別れの言葉をうたいながら、お 真知子は一度は行ってみたこと、何度見に行ってもいし そろ 辞儀し合った。 くらいりつばな画が揃っていること、今日来たのも半分は 真知子は歌に合わせ、単純な音譜を何遍も繰り返して弾誘い出すためであったことを打ち明けた。米子が画の好き いた。ひどい楽器であったが、オルガンの持っ哀愁と、子なことは真知子は知っていた。 供らの可な肉声が、見すぼらしい小さい群の合唱である「どうしても都合わるければだけれど、 あれを見ない 子だけ、もの悲しい、なごやかな柔らぎを与えた。彼女は弾のは惜しいわ」 知きながら、まわりの有様とはまるで別なことを思い浮か・ヘ「何時まで」 真ていた。粥条のゆるい、こわれた鞴のような音を立てる楽「たしか五時よ、でもすぐ暗くなるから早いほうがいい 器のかわりに、一月前の園遊会の晩、富美子と多喜子とでの」 リストのデュエットを弾いたすばらしいペヒシュタイン製二人はめいめいの手頸をのそいた。やがて三時に近かっ のグランド・ビアノやぜいたくな広間や、着飾った客がそた。米子はあちらの様子を見た上にするといい、真知子を ふいご てくび

6. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

にでも手に入るものだとは彼女には信じられなかった。反 に入った家を建てさせるために、急いで結婚しなければな はるつばめ らないなんて、そんなこつけいな話ってあるかしら。建て対に、春燕の飛ぶのを見て急いでネルを着はじめるよう な、また十二時の時計にうながされて、胃の腑がすかなく たけりや、私なんかに関係なく、いつだって建ててよ」 「そうは行きません。あんたや母さんのために建てる家じてもすいても昼の食卓に坐らされるような、いわば慣例に ゃなし、よけいなものがいるうちにむだなことをするものすぎない一つの儀式を境界として、突然特定したある存在 が自分の存在に結びつき、話すことも、笑うことも、考え か」 ることも、食べることも、眠ることも、一人の相手を意識 「そういうふうに取るのは、お母様のひがみじゃない」 「そんな考えをしておるから、あんたは母さんに同情がなすることなしには許されないという奇妙な生活の中で、真 お父さまはあれだけしつかりした気性だけの幸福や、自然なのびやかな楽しさがありえようとは思わ いのです。 に、なかなか扱いにくいところのあ 0 た人だ 0 たし、くれなか 0 た。真知子には、結婚する婦人たちはみんな布る なれば亡くなったで、今日まで一日だって母さんには苦労べき冒険者に見えたとともに、自分が結婚に対してこんな の絶えた日はありやしない。それだのに、あんたって人考え方しか持たないのは、まだ誰をも愛したことがないか らだ、ということも知っていた。といって、誰を愛すれば は、ひとの気も知らないでーー」 「そんな話を聞かされると、私なおと結婚しようなんて思よいのであろう。真知子は決してそんな人には出逢わなか った。彼女が今日まで結婚しないで来たのは明らかにそれ わなくてよ。お母様だって、私を無理にどこかへやって、 が理由の一つではあったが、そのために神経質になるほど 同じような苦しみをさせたくはないはずでしよう」 「それは別問題ですよ。母さんが苦労したって、あんたま愚かではなかったし、知識に対する欲望も十分彼女を落ち で結婚してしあわせになれないって法はないんだから。そ着かした。今日のような話の後でさえ、真知子はふだんと 子れどころじゃない。今までにだってあんたがその気なら、変わらない平静さで、学校に行き、帰るとノートの整理を したり、参考書を読んだり、演習の下調べをしたりし、タ 知どんな幸福な結婚でもできたのじゃありませんか」 方からは一人の女中に手伝って、大ぎして晩の料理をこ 「もうたくさんよ、お母様」 このへだたりを、真知子は同時に立ち上がり、さっさとしらえたりすることがでぎた。それをまた何の屈託もなく お腹いつばい食・ヘることも。 部屋を出て行くことでやっと有効にした。 幸福な結婚というものが、母のいうようにそう容易に誰しかし、食後の風呂でいい気持ちにあたたまり、大タオ なか おおさわ

7. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

かかった。自動車の衝突した場合、正面にまっすぐかけてむーーそれに近かった。 「もう何時かしら」 いる客は危険だ、となにかに書いてあったのを思い出した からであった。 米子は身を起こし、枕もとの薬瓶の盆に載せた時計を取 てくび りあげた。真知子も手頸をのそいたが、これは衝突の時か 「どうかしたの」 らと見えて三時四十分で止まっていた。 「したくするんなら手伝うわ」 部屋に入って寝床に近づくと、米子は枕の上から訊い こ 0 「小峰さんが来てくれるはずだから、それを待ってともっ たな・こころ 「変わってる」坐りながら、真知子は両手の掌で顔を撫てるんだけれど」 ぜた。 / 彼女は衝突のことだけを話した。米子の輪のついた「小烽さんって」 たて ひたい 本所のモスリン工場に働いている婦人で、このごろ仕事 眼は、驚きで竪に拡がった。額に薄いかすり傷がついてい るといっこ 0 のほうで親しくしている人だということだけ簡単に話しな 「やつばし今日退院なさるー がら、米子はそれでも起きて着換えをした。常はめったに いわれて、急にひりつく気のする皮膚をそこだけ伸縮さ寄りつかない看護婦もかわるがわる顔を出した。退院のよ せながら、真知子はたずねた。 ろこびを述べるために。それからまた真知子の今日の盛装 かげぐち について蔭ロの材料を探すために。最初の晩玄関でぶつつ 米子はそのつもりだと答えた。 かった、高い、不愛想な看護婦は、狡猾な意図を露骨にあ 「それでだいじようぶ」 のそ らわした顔をドアに覗けた。 「さっきは起きてたけれど、寒いから寝てるだけよ」 ゅうひ 「あんたのことだから黙って退院してやしないかともっ 窓ガラスにあったタ陽が寒くかげりかけた。毎日そのこ しようこう 子て、大急ぎで廻って来たところなの」 ろになると、どの病室からも伝わって来る昇汞の激しい臭 知彼女は病院へは出直すつもりであった。施療室の見舞い気とともに、台所の相変わらずの晩食の焼き魚が匂いはじ 客として、今日のはでな服装がいかに不適当であるかが顧めた。小峰はまだ来なかった。したくのできた米子は、畳 真 ふとん 慮された。にもかかわらず、目白からまっすぐに駈けつけんで積みあげた布団にもたれ、廊下に足音がするたびに戸 おそ 3 たのは、、 しったとおり退院の間に合わないのを怖れたのみの方を振り向いた。 ではなかった。苦しい煙のうず巻きから他の部屋へ駈け込「待たなきゃいけないの」 まくら くすりびん こうかっ たた

8. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

母様にお願いして、先方にもそのとおり返事をしていただれで落ちついて今日の御馳走を食べており、本気にき、 あおざ くから。な・せ黙ってるの、真知子。いえないのかい」 落担しておるのは、片面サロメチールだらけにして青褪め くちびる 真知子は彼女の戦術を守った。唇を一つの線にして黙ている彼女の母ひとりきりであることを。 りつづけた。拒絶の理由を、河井にいったとおり正直にそ きちが こで発表しようとは思わなかった。もし発表したとして気狂い病院の塀に、痩せた遅い桜が一本咲いていた。勾 も、今一つの持って行きにくい返事よりも、数倍持って行配の急な、どこか土蔵の感じを持つ病舎の屋根の片側に、 きにくい返事にそれはなったであろう。 タ陽があった。気狂いは黙っていた。道には青い草が萌 え、の樹木は春の若い樹脂の香を放った。 明け日の客には、ちょうど風邪を引いていた芝の辰子ねずみの薄い春着になっていっそう細っそり見える真知 と、関西方面に出張中の、ひとりではない証拠の上がって子は、通りからその裏道へ出ると、やがてちょっと判の爪 さき かげ いる上村のほかには、おもな親類がほとんど皆集まった。先で立ち留まるようにし、帽子の黒い翳の中で眼を張っ 彼らは着いて十五分とたたないうち、昨日のできごとをひた。十数日前、二度とは踏まないと思って駈け下りた、今 とり残らず知っていた。花見の趣向で配られた桜の模様の日もその決心を捨てるか捨てないかを思い悩んだ坂道が、 くび 手ぬぐいを帯にはさんだり、頸に巻いたりしながら、彼らついに前にあった。 はなにか不幸の悔みでも述べる調子でかわるがわる未亡人真知子はポケットを上からっかんだ。たてに二つに折ら を慰めた。田口夫人は一時間半真知子を室に隔離し、彼れて入 0 たはがき、それには、今日の四時すぎ来てもらい 女の結婚哲学を説いた。おしまいには面と向かって悪口をたいという意味を三行書いてあっただけで、彼女の拒絶や 、真知子のような娘は見たことも聞いたこともないと都合は顧慮されたあともなかった。初め読んだ時には真知 っこ 0 力すぐ拾われた。結局その坂道が 子は畳に放り出した。・ : . し / ついに前にあった。 それらのすべてにかかわらず、ひそかな共通の現象を真 知子は見遁さなかった。すべての客は、ことにすべての女そして間もなく、その家のげた戸が。 あね 客は、仲人役の田口夫人すら、また嫂の堯子すら、極端に真知子は山吹のしんに似たベルに指を当てた。いつもほ いえばあの気のよい富美子すら、真知子が河井と結婚しなど素っ気なくではなかったが、今日だけはそのくらいあっ いのを残念がるよりよろこんでおり、ほっとしており、そてもよいと思ったほど想よくも迎えられなかった。 みのが

9. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

は、彼女の感覚に快い麻痺を与えた。 く持ちこたえていた平静を、彼の意外な出方で、乱された 「どうしたんです」そのまま下ろされようとした椅子から真知子は、前に立ち塞がった。「御自分のなすったこと考 せいいつばいの勢いで振りきり、撥ね除くと、関の蒼く性えてごらんになったら。 それで平気にそんなことおっ 的に笑っていた顔が、はじめて驚きに変じた。「なにを怒しゃれるんなら、悪者です」 ってるんです」 「自分のことを善人だとも思ってやしないが、悪者だとい それに答えず、彼のに直立した真知子は、乾燥した重う意味は」彼女が激してるだけ落ちつき、不思議にずうず い声でいった。「関さん二日前のお約束で今夜伺ったんうしくは見えないで、彼はつづけた。「少なくとも君に対 だと思わないでください。それを取り消しに来たんです」してどんな悪いことを僕がしたんです。君は僕を好きだと いった。僕を踏み台にして・フルジョアジーの圏を飛び越え まゆ まぶた ちち 彼の濃い眉が、瞼の上で縮んだ。 ようとした。僕も君は好きだ。君の飛躍に手を貸そうとし 「あなたはまだ米子さんとお逢いしないんですか」 た。それだけだ」 「もっとも親切な人のすることだとおっしやるつもりな ろうばい 同じ短い間のあと、関のその眉を動かさないで、狼狽すら、ついでに、もう少し親切に、米子さんのことも話して るより腹立たしげに訊いた。 くださるはずですわ」 「君は逢ったんですね」 「じや大庭について、君が何か僕に訊きましたかね。 「ええ」 訊かれたらたぶん隠さなかったでしようよ」 こうん 「いつです」 この逆襲は、無防備な急所を衝いた。彼女の昻然とあげ 「今日午後」 ていた頭がたれ、眼は暗い床に落ちた。意識下の回避でそ 子「それでお互いに何もかもしゃべり合ったというんですれはあったか。米子のことなぞ思い出しもしなかったほ ふん」 どっちにしろ、訊き 知か。 ど、それほど夢中であったのか。 低い鼻音とともに、県の左の肩を聳やかし、くるりと後もせぬ告白までさせようとする考え方は、歴史であ 0 た。 真 を真知子に向けて、彼は電燈のある机の方へ去ろうとし「この機会に、僕の気持ちをはっきりさせて置くのもいい かげ ぷじよく めいりよう た。蔭になった黒い背中が、海辱をいっそう明瞭にした。 かもしれない。どうです。まあ掛けたら」言葉とともに彼 「そんないい方を、あんたがしてよろしいんですか」危うは近づいて肩に手を置き、もう一度彼女を椅子に落ちつけ あお っ けん

10. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

ゆいいつうぎよ ることにしている唯一の防禦法であった。そこへ廊下の障とは知っていてもなぜ困るのか、またどの程度困るかは 子が開いて、女中が風呂の沸いたことを知らせに来たつい 十分に飲み込めなかったくらいですから。いつでした でに、一通の手紙を置いて行った。 か、亡くなった父の話をしたことがありましたね。この 「あんた、先にどう」 父の政治運動や、彼の義務だと信じて行なった地方的な 「お母様、はいって」 公共事業や、その他持ち前の寛大と弱い意志を利用され 手紙は米子からであった。切手が二枚賰ってあった。め たために生じたおびただしい負債が、兄を今日の悲境に おとしい ったにそんなことは米子にはなかったから心待ちの便りを 陥れた一半の原因なのです。私がここに一半という言 手にした満足よりはあたりまえの手紙ではないと思う不安葉を使って、な・せすべてのといわないかおわかりになっ 、出て行った のほうが強かった。で、母がロ小言をいいしし て。それは特別の負債や欠損がなくても、現在の田舎の のをうわの空で聞きながら、封を切った。彼女の / ートの地主の窮乏は、少なくとも窮乏の運命は、ほとんど全般 ように正確な細字でみたされた洋罫紙が五、六枚畳み込ま的なものになっているからです。彼らは田地や山林は持 れてあった。何より気になっていた退学のことは、一・ヘー っているかもしれないが、金は持っていません。したが ジで分明になった。 って小作米が唯一の収入で、それによってすべての税金 この決心をするまでには、私もかなり迷ったのでを払い、用水や灌漑の諸設備をし、たいてい係累の多い すが、やはり思いきってよすことにきめました。直接のむだな費用のかさむ一家の生活を支持するとともに、家 理由は、兄から学資を貰いたくないためです。というよ についたいわゆる格式と品位を守って行かねばならない り、毎月四、五十円の金を私のために割いてくれていた のです。もし何かの必要が生じて、その田畑や山林を担 ことが、兄にとってどんなに苦しかったかを、今度こそ保に銀行から金を借りようとしても、よほどよい手蔓で 子痛切に知ったからです。こう書くと、私がいつも貧乏話もない限り容易にできず、また連よくできたところでそ 知をする時示す、あの半分疑ったようなあなたの顔がここ の不動産はあるべき価値の十分の一にも評価されない 真からでもはっきり見えます。衰えたといっても年に二千上、それに対してうんと高い利子を支払わされるという 俵以上からの小作米を取る地主の家が、どうしてそう貧結果になります。私の家の例をあげてみても、全収入の 乏なのかあなたには理解されないのです。こういう私自 ほとんど八割をこういう利子のために兄は取られている 身だって、兄からこの夏くわしい話を聞くまでは、困る のです。非常に巧妙な、もしくは非常に勤勉な、今一歩 けいし か・ん力い てづる