412 たといってもいいのです」 ちも、不自然とは思っておりません」 「では、思想そのものは」膝の上で、彫りのある洋銀の小 「しかしーー」 「もっと申しましようか」真知子の感情は炎症を起こしてさいライターをおもちゃにしていた真知子は、がちゃと くろめ いた。痛い局部にメスを当てないではいられない潔癖が、 卓にそれを返し、しずかな黒瞳で見あげた。「私に怖れ 一種むごい快味と交ざり合った。「その人と結婚するため、も不安も感じないように、それに対してなんにも感じない 私は家を飛び出したのです。結婚とともに実行運動の仲間とおっしやるつもりでしようか」 入りをするつもりでした。あるできごとが私を追い立てな「それより、生ずべきものが生じつつある、という気持ち かったら、今もその人といっしょにあなた方を敵にして、 のほうが強いのですね。個人の力や、権威ではどうするこ ひょっとしたらあなたの一門の工場か会社で、直接戦ってともできない、たとえば若い地球が氷河に蔽われた時のよ いたかもしれませんわ。 こうお話すれば、その人が誰うな」 であったかもたぶんおわかりになるはずです」 「その氷河があなたの持ちものをみんなおしつぶす日が来 河井の顔に再び新鮮な輝きがあった。真知子の思いがけても。 そう落ちついていらっしやられて。あなた方の ない告白は、彼をいったん驚かしあとはかえって深まった地帯が、一番ひどく荒らされるはずですが」 情感で包み、希望を新たにさえさせた。少しも関心を持と「しかし私の仕事までおしつぶしはしないだろうと思いま うとしない相手に、これほどのことを彼女が話す気になるす。どんな社会でも、自分たちの過去ははっきりさせる願 2 ) づ、つ、刀 望を捨てないでしようから。こんな偉そうなことはいって 言葉のきれるのを待ち、彼はきつばりいった。それはすも」 にわき べて過ぎたことだ。したがって婚約者が誰であったにして 日光が庭樹のしずくの間から、にわかに澄剌と輝き、額 も、自分には関係がないし、また彼女の思想的傾向こっ 冫いに直射した。彼はまぶしく細めた眼で、なにかしめやかな おそ ても、怖れや不安を感じはしない。 感情を追うようにちょっと黙ってから、「その運命をすな 「地上の問題は、私たちのような仕事と違って、少しまじおに受け取れるかどうか、その時にならなければわかりま めに研究しようとすれば当然その思想に突きあたるのでしせん。存外見苦しいあわて方をしそうな気もいたします ようし、それを乗り切ることは現在では容易ではないのでね。正直なところは、当分何事も起こらないで、やりかけ すから、あなたがそのほうへ深入りをなさろうとした気持のものを落ちついて続けて行ければ、それが私にはしあわ テープル はつらっ
かもしれないが、寒い国の人らしくなめらかな白い皮膚「ストックから持って来るわ」 と、鳶色がかった表情的な眼をした、米子のややしやくれ米子はそんな冗談をいい、窓の横の狭いドアをあけて、 た小さい顔を見守った。やつばしなんでもないんだわ。で画家のよけいな家具が詰め込まれてある物置きに取りに行 った。入れ違えに関が入って来た。彼はそこにひとりきり なけりや逢ってみたらなんていうはずはないから。 いちべっ 「タ方まではいらっしゃれない」 見だした真知子に対し、冷然と一瞥を投げ、軽く頭を下 げただけで、立っていた。真知子もいっしょにお辞儀し た。彼がなんともいわなかったから、自分でも離れた椅子 「いやなひと、何を・ほんやり考えているの」 かたわら 米子がおかしがって笑い出したので、真知子もてれ隠しの傍に同じように立ち、同じように黙っていた。奇妙な がいぼう にいっしょに笑みながら、 いってみたかった。関さんとあ初対面であった。かっ関の外貌は、彼女が米子から得た知 いかにうちとけた間識によって・ほんやり想像していたものとはかなり違ってい んたのことを疑ってみたのだと。 柄でも、すっかりなくならない女らしい慎しみが、それをた。少なくとも紺の背広のびったり身についた、中肉のか そうはく ロ留めした。関が訪ねて来たのは、簡単なタ食のあとで真っこうのいい身体つき、額と眼に特長のある蒼白の容貌に 知子がやがて帰ろうとし、米子も買物がてら停留所まで送は、東北の寒村の水車場の息子らしいところや、事件の後 ろうとした時であった。彼は客ならばまた来るからといつは労働者の間で暮らしているのだという人のようなところ て、引っ返そうとした。米子は真知子の名前をいって上がは見えなかった。文学をやってもきっとできたのだわ、こ ることを勧めた。 の人なら。・ーー真知子は考えた。でもなんていばってるん だろう。ひとがいるのに一匹いるような顔もしないんだ 半分開いた部屋のドアを隔て、真知子は一種矛盾した心 理で二人の話し声を聞いていた。今日あれだけの話題になもの。ーーー少しくやしかったので、真知子は自分でも負け 子った彼を見たくないことはなかった。それでいて上がらずないですましていようと思った。一脚の小さい籐椅子を 知に帰ってくれればよいと念ずる気持ちが一方にあった。彼えて米子が引っ返して来るまで、それに成功した。 しかし、関の真知子に対するそっけなさは、三人になっ 真女は耳をすました。やはり上がって行くことになったらし がいとう く、暗い入り口の板の間で外套でも脱ぐけはいがしているた後でもたいして変わりはなかった。たぶん誰にでもこん 間に、米子が先触れに戻って来た。部屋には椅子が二つしなふうなのだ。真知子はそう思おうとした、また当然そう よ、つこ 0 カ / カ十ー 思っていいくらい彼は寡黙で、よけいなことはなんにもい とびいろ ひたい
んじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とが交る交る眼の そう思って手欄から身を乗り出す瞬間、体中の力は腹か 前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛を透して寒ら胸元に集まって、背は思わずも激しく波打った。その後 はもう夢のようだった。 さがしんしんと頭の中に滲みこむのが、初めの中は珍しく しび しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハン しい気持ちだったが、やがて痺れるような頭痛に変わって ひそ : と急に、どこをどう潜んで来たともしれなケチでロもとを拭いながら、頼りなくあたりを見廻した。 行った。・ とうふう い、いやな淋しさが盗風のように葉子を襲った。船に乗っ甲板の上も波の上のように荒涼として人気がなかった。明 てから春の草のように萌え出した元気はぼ 0 きりと心を留るく灯の光の漏れていた眼窓は残らずカーテンでわれて こめかみ められてしまった。顳類がじんじんと痛み出して、泣きっ暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心 文ぎけ かれの後に似た不愉快な睡気の中に、胸をついて嘔気さえのゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみはまた急によせ返 催して来た。葉子はててあたりを見廻したが、もうそこして来た。葉子はもう一度手欄に乗り出してほろほろと熱 いらには散歩の人足も絶えていた。けれども葉子は船室にい涙をこぼした。たとえば高くつるした大石を切って落と 帰る気力もなく、右手でしつかりとを押えて、手欄に顔したように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみと なって胸を打った。物心を覚えてから二十五の今日まで、 を伏せながら念じるように眼をつぶって見たが、言いよう のない淋しさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を張りつめ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思 むな はつわり 懐妊していた時の絜しい悪阻の苦痛を思い出した。それはわれるその悲しい快さ。葉子はその空しい哀感にひたりな 折から痛ましい回想だ 0 た。・ : : ・定子・ : : ・葉子はもうそのがら、重ねた両手の上にを乗せて手欄によりかかったま しもと まぎ 笞には堪えないというように頭を振って、気を紛らすためま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血 とめど に眠を開いて、留度なく動く波の戯れを見ようとしたが、 を起こした額は死人のように冷えきって、泣きながらも葉 女一眼見るやぐらぐらと眩暈を感じて一たまりもなくまた突子はどうかするとふっと引き入れられるように、仮睡に陥 るつ伏してしまった。深い悲しい溜息が思わず出るのを留めろうとした。そしてははっと何かに驚かされたように眠を ようとしても甲斐がなかった。「船に酔ったのだ」と思っ開くと、また底の知れぬ哀感がどこからともなく襲い入っ 或 おうかん た時には、もう体中は不快な嘔感のためにわなわなと震えた。悲しい快さ。葉子は小学校に通っている時分でも、泣 ていた。 きたい時には、人前では歯を食いしばっていて、人のいな 「嘔けばいい」 い所まで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは かわわ とお
たけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちば。私はとにかく赤坂学院が一番だと何処までも思っとる も今申したとおり塾に入れてしまいますし、この後はこれだけです」 と言 0 てたいして御厄飛はかけないつもりでございます。 と言いながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじ 赤の他人の古藤さんにこんな事を願 0 てはほんとにすみままじと眺めた。葉子は貞世を抱いたまましゃんと胸をそら せんけれども、木村の親友でいらっしやるのですから、近して眼の前の壁の方に顔を向けていた。たとえばばらばら い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏籖を背負い込んだと投げられるつぶてを避けようともせずに突っ立つ人のよ 、り . ア」 0 と思召して、どうか二人を見てやって下さいましな。いい でしよう。こう親類の前ではっきり申しておぎますから、 古藤は何か自分一人で ~ 0 点したと思うと、堅く腕組みを ちっとも御遠慮なさらずに、 いいとお思いになったようにしてこれも自分の前の眼八分の所をじっと見詰めた。 なさって下さいまし。あちらへ着いたら私またきっとどう 一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間で そう」う とも致しますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけま一番早く機嫌を直して相好を変えたのは五十川女史だっ せんから。いかが、引ぎ受けて下さいまして ? 」 た。子供を相手にして腹を立てた、それを年甲斐ないとで じたく 古藤は少し躊躇する風で五十川女史を見やりながら、 も思ったように、気を変えてきさくに立ち支度をしなが うかが 「あなたは先刻赤坂学院の方がいいと仰有るように伺ってら、 、とま いますが、葉子さんの言われるとおりにして差支えないの「皆さんいかが、もうお暇に致しましたら : : : お別れする ですか。念のために伺っておきたいのですが」 前にもう一度お祈りをして」 と尋ねた。葉子はまたあんな余計な事を言うと思いなが「お祈りを私のようなもののためになさって下さるのは御 らいらいらした。五十川女史は日頃の円滑な人ずれのした無用に願います」 女調子に似ず、何かにひどく蜥した様子で、 葉子は穉らぎかけた人々の気分には更に頓着なく、壁に 「私は亡くなった親佐さんのお考えはこうもあろうかと思向けていた眼を貞世に落として、いつの間にか寝入ったそ る つやつや った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いと仰の人の艷々した顔を撫でさすりながらきつばりと言い放っ 有るなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さた。 んは堅い昔風な信仰を持った方ですから、田島さんの塾は人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞 よろ 前から嫌いでね : : : 宜しゅうございましよう、そうなされ世がいつの間にか膝の上に寝てしまったのを口実にして人 さしつか
234 ばあ こおんな 供給に相違ない婆やと小婢を使って暮らしている二十一の 二人は連れ立って、いわれたものを見るために並んで歩細君でも、結婚したとなれば人並みにこんなことをいうの いて行った。言葉のとおり菊はみごとであった。しかし客を教えられるのであろうか。でも田口の娘たちの中では、 は花壇の前よりは、広い庭のそこここに設けられた模擬店この気のよい、そばかすのある、小さい富美子が真知子は かれんたんせい の方へ熱心に集まっていた。この無邪気な心理の働き方わりに好きであったから、相手の可憐な歎声を無視しない は、ことは違うが、案内者の富美子の上にも同じく作用しように気をつけた。 ていた。打ち明けていえば、三ところにも作ってある花壇「私また、あんたなんか毎日ひますぎて困ってらっしやる をいちいち見て廻って、父の受け売りの菊作りの説明をさんだともってたわ」 せられるよりは、もっと当面の、話したくてたまらない話「あら、どうして」富美子は驚いた嬉しそうな声で叫ん を富美子は持っていた。で、一番手近な一つを三分の一見だ。「それどこじゃないのよ。それだのに、誰にでもそん てしまわないうち、そんなものはうっちゃって、大事な話なふうに思われてるからくやしくなっちまうわ。だって、 題のほうへ近づいた。 宅ひとりにだってとても手がかかるんですもの。ひとつは 「ーーーでも真知子さんはいいわ」富美子はこういうふうで寝坊するからいけないのよ。私だってそりや九時前には起 はじめた。 きられないけれど、あの人ったら、それよかどうしても三 おそ 「なにが」 十分は遅いでしよう。それからやっと起きて来たともう おおさわ 「いつまでものんきで、好きなこと御勉強できるのですもと、さあ顔だ、頭だ、着替えだって家じゅう大騒ぎさせ て、それで化下一つ自分ではこうとはしないんだから、憎 「あんただって、なさろうと思えばなんだっておできにならしいってないの」 るじゃないの」 しかし留守の間は十分ひまなはずだ、と真知子がひと言 「だめ。 ほんとにだめよ。家を持っちまっちゃ。いちはさんだのに対して、富美子は決してそうでない訳を十近 んち忙しくって」 く並べた。まず小鳥の世話と、一匹のベルシア猫の手入れ 真知子はもう少しで笑い出しそうになった。父の病院にと、その猫の毛と同じくらいきれいにウェープさせるため 勤務している養子同様の夫を持ち、同じく父に供給されたにはかなり時間のかかる自分の髪結いと、訪問と接客と、 けいこ 田園都市の文化住宅に二人だけで住み、これも同じく父の料理と編み物と、今でも一週に二度ずつ稽古に通っている かみゆ ねこ
芝居だのとは違うってことさえわかればいいのだから。よ「あてつけ」 く見てごらんなさい。どこの御夫婦もはじめみんな好きに「そんなつもりじゃなかったのよ」 なって、あの人でなければならないって結婚したのだかど「どちらだっていいわ。でもね、私が厭でしかたがないの うだか。よしんばそうやっていっしょになった人たちだつに着てる着物を脱げないんだとは考えないでちょうだい。 て、半年もたてばけんかするんじゃありませんか」 だいち私は、上村がいくら蕩したからって私を嫌 0 てし 「したっていいんじゃない。そんなけんかならはじめからてるとは思わないんだから。あの人は生まれつきの浮気者 きら 嫌いな人とするのとは別なんだもの」 よ。遊ぶのが好ぎなんだわ。ただそれだけよ」 「じゃあんたはどう。竹尾さんが嫌いで嫁かないってよ辰子はたしかに愛情をもってこの批評をし、同時に着物 り、嫌いだかなんだか本当にはまだわからないんでしょ に対してぜいたくな選択をするのは金持ちの特権であると 同じ意味において、結婚も離婚も財産があり、帰っても親 やっかい それに相違なかった。しかし好きになれようとは思われ兄弟の厄介にならずにすむ人でない限り、自由な考え方は なかった。真知子がすぐ返事をしなかったので、辰子は続できないはずだといった。 けた。 「そんな境遇の女なんてめったにありはしないでしよう。 「たいして気に入らない着物だって、季節になって代わりいわばみんな裸ですもの。相応な着物なら我慢するのがい がなけりや、着てみたっていいじゃありませんか」 いのだし、また着た以上脱ぐのは損よ」 「だけど、身につかなかったらどうするの。あとで脱ぐく「それがお姉さんの哲学」 らいならはじめから着ないほうがりこうだわ」 「じゃ、まあちゃんなら」 一生脱ぐこともできなければ、安心して着ていることも「裸のまま、働くわ」 ぞうげば 子できない人がいくらあるかしれない、 ふんー としいかけ真知子は 辰子の象矛彫りのような鼻が笑った。「澹 知口をつぐんだ。な夫との関係だけでい 0 ても、着心地行り言葉ね、それが、この節の若い人たちの。でもね、今 の世間で女が働いて食・ヘるってことはロでいうほど景気の 真のよい着物を着ているのではないはずの姉に対して、 すぎたのを後悔した。 しいものじゃないわ、きっと」 これまで家の中で流していた涙を、家の外に流しに行 辰子には妹の無意識な突撃を微笑で受けるだけの余裕が あった。 く、ただそれだけの相違にすぎないと辰子は主張した。真 しばい
のごとく、その小さいまるい眼を特別なしかたでまたたか 話をさえぎった。高いノックの先触れで入って来たのは、 せて、真知子を見た。しかしこういう階級の婦人たちに習 三日に一遍きっと帰っている富美子であった。 慣的に与えられている社交性から、未亡人を除外して話す 「いらっしゃいまし」 椅子のまだずっと手前から、富美子は威勢よく声をかけことはできなかったので、富美子は彼らが三越で出逢った くのを多喜子に聞いたというようなことからはじめた。 た。が、真知子だけではなかったから、卓のそばに近づ と、彼女自身としてはせいいつばいのおとなしやかな態度「日本髪結ってらしたでしよう、多喜子さん」 で、歳暮の贈り物の礼を述べ、余儀ない来客で母がしばら「ええ」 「よくお似合いになっていましたよ」未亡人はその時褒め く失礼をするからどうかゆっくりしてほしい、と頼んだ。 「あんまりごぶさたをいたしていましたのでね」未亡人もたとおりの言葉で褒めた。 同じ礼儀を尽くすために椅子から立ち上がりながら、「今 「あの時は、私もごいっしょに行くはずになっていたので ごあいさっ すけれど」それだけは未亡人に対して、そのあとは真知子 日はほんのちょっと暮れの御挨拶にと思って」 「あら、ちょっとなんて、そいじゃっまりませんわ、叔母のほうへ、富美子はいった。「御覧にならなかった、外山 さま」富美子はもう生地の、子供つぼい遠慮のない調子にさんの室内装飾展が六階にあったの」 なりながら、「めずらしく真知子さんもごいっしよなんで外山は倉子夫人につきまとっている画家の名前であっ すもの。今日はゆっくりなすってくださらなきや厭ですた。真知子は気がっかなかった。 「外山さんがそんなことなさるの」 わ。 ねえ、 しいんでしよう」 これは真知子に向けていわれたので、そうしてはいられ「このごろは画よりか熱心なくらい。おかげでこの部屋も どう。少しけばけばしす ないと彼女は答えた。実際未亡人よりも真知子のほうが気模様替えさせられたんだわ。 忙しかった。昨日米子のもらした退院のことが心にかかつぎてやしないこと。でもこの壁紙なんか外山さんとても得 ていた。できたら朝のうち様子を見に行きたいと思いなが意なの。自分で描いてわざわざ刷らせたんですもの」 そういえば前よりはまたいっそうりつばになったと未亡 ら果たされなかった。 「だって、帰しはしないからいいわ。ほんとうにいろんな人は調子を合わせたが、真知子は批評はロに出さないで、 はじめてその部屋を見廻した時とは別な感じで、いわれた お話があるのよ」 こげちゃ ばらいろ 富美子はこの言葉になにかの暗示を持たせようとするか壁紙の、薔薇色の地に焦茶で分離派ふうの模様を出した奇
と応えながら葉子は始めてのようにあたりを見た。そこ破れたのと縁でもあるらしく眺められた。葉子の心は全く こんのれん には紺暖簾を所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉ふだんの落ち付ぎを失ってしまったようにわくわくして、 子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗立っても坐ってもいられないようになった。馬鹿なと思い ながら怖いものにでも追いすがられるようだった。 わして貰おうとした。 かなたらい ーっこう しばらくの間葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立 四十好の克明らしい内儀さんがわが事のように金盥に たたす おしろいけ ち去る事もしないで佇んでいたが、ふと如何にでもなれと 水を移して持って来てくれた。葉子はそれで白粉気のない すてばち 顔を思う存分に冷やした。そして少し人心地がついたのいう捨鉢な気になって元気を取り直しながら、いくらかの 礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気に で、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、 鏡がいつの間にか真一一つに破れていた。先刻けつまずいたもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら 拍子に破れたのかしらんと思って見たが、それくらいで破別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂かった。 れるはずはない。怒りに任せて胸がかっとなった時、破れ定子に会った所が如何なるものか。自分の事すら次の瞬間 たのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それとも明には取りとめもないものを、他人の事ー、ー・それはよし自分 日の船出の不吉を告げる何かの業かもしれない。木村とのの血を分けた大切な独子であろうともーーなどを考えるだ つじうら 行末の破減を知らせる悪い辻占かもしれない。またそう思けが馬鹿な事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻 すすりばこ えりもと うと葉子は襟元に凍った針でも刺されるように、ぞくそく紙を買って、硯箱を借りて、男恥かしい筆跡で、出発前に どう みふる とわけのわからない身慄いをした。一体自分は如何なってもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくな よろ みきわ 行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議なったから、この後とも定子を宜しく頼む。当座の費用とし したた そらおそ 自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空怖ろしくて金を少し送っておくという意味を簡単に認めて、永田か 効ううつ 心に描かれた。葉子は不安な悒鬱な眼付をして店を見廻しら送ってよこした為替の金を封入して、その店を出た。そ もた た。帳場に坐り込んだ内儀さんの膝に凭れて、七つほどのしていきなりそこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛を 少女が、じ 0 と葉子の眼を迎えて葉子を見詰めていた。痩はぐって、みに打ち付けてある鑑札にし「かり眼を通 せぎすで、痛々しいほど眼の大きな、その癖黒眼の小さしておいて、 な、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や驗の香につ「私はこれから歩いて行くから、この手紙をここ〈届けて つまれて、・ほんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡のおくれ、返事はいらないのだから : : : お金ですよ、少しど わざ こわ かわせ ひとり′」 ものう
′ ) うよく 進んで非常に強慾なやり方でもしているのでない以上、 は比較にならないほどあわれなものだ、ということを知 たんな 普通のお檀那ふうの寛闊で・ほんやり暮らして来た地主の っています。突然妙なことを聞くようですけれど、一人 家は、例外なしに似た状態に陥っているのだそうです。 の百姓が一段の田地を耕したとて、秋の収穫期にどれほ で、彼らが土地や山林を持っているということは、要すどの米が取れるかおわかりになって。平均三石とこの辺 るに所定の収入では決して支払うことのできない利子を では見積もられています。しい換えれば、一坪の土地か 課せられているというだけにすぎません。彼らは決心 らわずかに一升の米しか生じないわけになるのです。あ し、その土に対する先祖代々の権利を放棄することによ なたに限らず、都会に住んで、お米なんそ用聞きの小僧 って現在の窮状から、同時にすでに小作争議でその兆候こ、 ~ しいつけさえすればいくらでも手にはいるように考え きっこう を現わしている対耕作人との将来のめんどうな拮抗から ている人たちには・この事実は非常に驚くべきことのよ うに見えるだろうと思われます。しかも百姓は、その収 脱しようと企てます。それが彼らを救う。一。の方法なの です。そうです、買い手さえあるならば。 しかし近穫の少なくとも半分を小作料として地主に納めなければ くの地主はみんな同じ貧乏仲間です。その他の金持ちゃ ならないのです。前の例でいうと、一坪の土地からかろ 企業家は、鉱脈があるか、石油が出るか、温泉でも湧く うじて得た一升の中の五合を、完全に奪われるのです。 いなか やっかい かでない以上、こんな田舎の荷厄介な土地に、誰がいま彼らはそ . の残りのものによって何人かのロを養い、何人 からだ さら手を出すような愚かなことをするでしよう。 かの身体に着せ、肥料や種子を仕入れ、租税を納め、子供 こんな書き方をしたからといって、私の関心が自分の たちの学用品を買います。こういうふうで、彼らの支出は 生まれた階級の上にのみあって、それと当然対抗の位置昔の百姓よりもずっと複雑になっている上に、いわゆる にある小作人たちに冷淡だというような誤解は、あなた 文明の普及に伴ってその傾向は年々著しくなるばかりで だけはしないでくださるでしようね。それどころではなす。草屋根の下に新たについた電燈も、調法ではあるが決 、私は地主が困っている以上に彼らが困っており、地してただではないのですし、もう少した 0 て雪が来ると、 主がいくらもがいてもその窮迫から遁れることができな 以前はすぐ持ち出された手製の艷の酥も、今では都会 いと等しく、彼らはいくら働いても目下の小作制度と社 から仕入れたゴムの長靴にほとんど変わっているという 会状態の下では裕福になりえないこと、同時に彼らの鍬有様です。同時にこれらのいかなる変化にもかかわらず、 と鋤の生産力は、他の電気や蒸気の機械力によるそれと 一坪の土地からは決して一升以上の米は取れないのだと かんかっ のが くわ
に : : : ひどい方ですのね。私なんにも知らないと思ってられた顔付をして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリ っしやるの。ええ、私は存じません、存じません、ほんとツ。 ( を脱ぎ落としたその白足袋の足もとから、やや乱れた 束髪までをしげしげと見上げながら、 どう 何を言うつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激「如何したんです」 こう いぶか しっと しい嫉妬が頭をぐらぐらさせるばかりに嵩じて来るのを知と訝る如く聞いた。葉子はひったくるようにさそくに返 どう っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離事をしようとしたけれども、如何してもそれができなかっ れて行く : : : そういう忌々しい予想で取り乱されていた。 た。倉地はその様子を見ると今度は真面目になった。そし 葉子は生来こんな惨めなな思いに捕えられた事がなかてロの端まで持 0 て行 0 た葉巻をそのままトレイの上に置 った。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守いて立ち上がりながら、 るほど惨めで真暗だった。この人を自分から離れさすくら「どうしたんです」 とっさ いなら殺して見せゑそう葉子は咄嗟に思いつめて見たり ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いき した。 り冷酷に、 葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事「どうもしやしません」 こら 務長に倒れかかりたい衝動を強いてじっと堪えながら、綺ということができた。二人の言葉がもつれ返ったよう 麗に整えられた寝台にようやく腰を下ろした。美妙な曲線に、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんな所に みけん のどか を長く描いて長閑に開いた眉根は痛ましく眉間に集まつはいない、葉子はこの上の圧迫には堪えられなくなって、 まっしぐら すそ て、急に痩せたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的華やかな裾を蹴乱しながら驀地に戸口の方に走り出ようと さえぎ な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装ったした。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩を遮りとめ こまた 服装までが、皮肉な反語のように小股の切れあがった痩せた。葉子は遮られて・せひなく事務卓の側に立ちすくんだ 形なその肉を痛ましくた。長い袖の下で両手の指を折が、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもな れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて常てたいヒスれ、殺すか死ぬかするのだ、そんな事を思うばかりだ 0 テリックな衝動を懸命に抑えながら、葉子はも飲みこめた。こらえにこらえていた涙を流れるに任せながら、事務 長の大きな手を肩に感じたままで、しやくり上げて恨めし ないほど狂おしくなってしまっていた。 あき 事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇な呆そうに立っていたが、手近に飾ってある事務長の家族の写 はな