有島武郎 - みる会図書館


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1. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

現イに日本の文学 有島武 野上物く生子 文学紀行Ⅱ瀬沼茂樹 評伝的解説Ⅱ安川定男 監修委員編集委員 伊藤整足立巻一 井上靖奥野腱男 川端康成尾崎秀樹 三島由紀夫 北杜夫 有島武郎集 或る女 ( 前編 ) カインの末裔 小さき者へ 宣言一つ 野上弥生子集 真知子 有島武郎 野上弥生子 2 6 4 6 0 8-1 0 0 2 I S B N 4 ー 0 5 - 0 5 0 21 8-6 C 0 3 9 5 北海道ニセコ町・旧有島農場よりニセコ連山を望む 学研

2. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

有島武郎集目次 有島武郎文学紀行 道南の五月 或る女 ( 前編 ) カインの末裔 さき者へ 宣言 注解 有島武郎文学アル・ハム 評伝的解説 瀬沼茂樹一七 紅野敏郎四三 = 当九 四四九 安川定男四四九 五三

3. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

「有島武郎文学アルバみ 有島武郎は明治十一年 ( 一八七八 ) 三月 時四日、東京小石川水道町に父、母幸の さつま 教長男として生まれた。父は薩摩の出身で 幻大蔵省の官吏となり、関税局長兼横浜税 関長を経て国債局長にまで昇進したが、 時の大蔵大臣と政治上の意見で衝突して 学 大退官、以後は実業界に入って敏腕をふる い巨万の富をなした。武郎には四人の弟 学 と二人の妺があり、なかでも生馬と英夫 国 ( 里見弴 ) はともに芸術家として大成し、 今なお健在なのは人も知るとおりである 武郎は学習院中等科を経て札幌農学校 に進み、そこで級友森本厚吉の影響下に キリスト教に入信、内村鑑三を師と仰ぎ、 内村から後継者と目されるほどの熱烈真 評伝的解説〈有島武郎〉 安川定男 とん ゆき しん 449

4. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

で情死を遂げた。享年満四十五歳 『宣言一つ』における立論の片寄りや欠陥を指摘する ことはむしろやさしいか、その立論の根底には、有島 が思想的には社会主義運動、革命運動を是とし、かっ 思想と実生活との完全な一致を求めながら、しかも自 らの出身階級ゆえにそのキャップをいかんともするこ とができなかったところに生まれたあくまで良、い的な 悩みがあり、いわゆる主義者や主義芸術家たちが、有島 が良心的に苦しんだ切実な問題をす通りして、革命運 動、労働運動の指導者をもって自ら任している態度に 対するあきたらなさか、有島をしてこのような宣言を 発せしめたのであって、その点を踏まえすにただ有島 うんぬん 余りにも潔癖に過ぎる考え方から生まれた判断の片寄の立論の誤りだけを云々することは、有島の投げかけ りや、余りに結論を急ぎ過ぎたところがあり、論理的 Ⅲ題に十分に答えることにはならない。それは当時 にあってもそうだったし、現在においても同様だと思 には隙き間の多い立論になっている。そこで広津和郎、 さ力、としひこ 界利彦、片上伸その他から反論が提出され、論争が繰われる り返されたが、有島は自説を改めす、一方では親譲り の財産の放棄、北海道の有島農場の解放などによって プルジョワ的生活の改造を試みはしたものの、の旦一言 一つ』で示した自らの作家、知識人としての役割りに 対する絶望的認識からついに脱却できすに、次第に虚 無感を深め、最後のカ作『星座』も中断したまま、翌 大正十一一年六月九日、人妻波多野秋子と軽井沢の別荘 晩年の武郎 ※本編の写真資料に関し、有島生馬氏、木田文子 氏、日本近代文学館、有島記念館、岩内郷土館 等のご協力をいただいた。

5. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

女学生時代の弥生子 カ 央 中 目 列 、ら ・カ 前 時 の 業 卒 校 学 弥生子は明治十八年 ( 一八八五 ) 五月六日、大分県 うすき 瀧北海部郡臼杵町一二一三番地 ( 現臼杵市大字臼杵五〇 明 番地 ) に、小手川角一二郎の長女として生まれた。戸 杵子 臼生籍名ャエ。小手川家はヤ工の祖父、初代角三郎の代か ら臼杵で酒造業を営み、父の二代目角三郎から味噌、 のかぎり他に見いだせない。 さすがは彼女の作品を多 年にわたって読んで来た人、そして彼女と親交のある 人の、作家としての彼女にたいする深い理解に立った 知己の言であると思われる。作家、野上弥生子につい ていかに千万言を費やそうとも、帰するところは要す るに、その語の包括しうる最大限の意味での「良識」 の主張と表現という点にこそ、彼女の文学の最大の特 質かあると同時に、その限界もあるというべきであろ 、フ。「限界」とい、つことばは一女易に使、つべきことばで はないけれども、あえてここに持ち出したのは、「良 識」の限界を打ち破ろうとして悪戦苦闘の末に挫折し た有島武郎の場合とっき合わせたとき、その点が問題 として浮かびあがらざるをえないからである。以下そ のことを念頭におきながら、野上弥生子の経歴と業績 をたどってみたい。 きたあまべ

6. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

有島武郎集

7. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

てくれたが、汽車からはみえなかった。雨の降る中で、 今日が最後とかいう o 型蒸気機関車をカメラにおさ めようとして待ちかまえている人たちを、沿線に多く みた。今日は倶知安町で、高山亮一一、武井静夫の両君 昔の狩太、今のニセコを訪ねる。今日も雨が 降り、蝦夷富十といわれる後方羊蹄山の英姿はみられ そ、つもない 有島武郎が明治三十四年七月二十四日供知安町に着 いたときに、その夜、一泊した x x 旅館は三浦屋旅館 であったと、武井君は考証する。今は三浦屋菓子舗に 変っている。倶知安から尻別川に沿うて、四十分にし てニセコ町に入り、昔の有島農場に出かける。「有島」 あざな は字々となって残っている。カシュンべッ川を渡ると、 みずばしよう 広大な農場への入口をしめす標柱がある水芭 ~ 焦が生 ゆきど ' え、白色の花穂か出て、雪解を告げている。時々、雨 雲か明るくなり、 遠くに山々がほんやりとみえる高原 地帯という気かする。『カインの末裔』の舞台であり 見渡すかぎりの原野はよく開拓されているか、まだ雄 大な蝦夷地を思わせる風土の特色は生きている。 、やてる 小高い丘を二十七段登ると、弥照神社かある。有島 武が建てた社で、十五坪ばかりあって、炉を切り の集会所にもちいられた。武郎が、大正十一年七月十 小作人を集めて、農場解放の趣旨を話したとこ しりべっ まっえ、 狩太共生農場 ( 旧有島農場 ) の入口付近

8. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

一まな新聳顰をに第第物 ろである。農場解放については、最近、武郎の心事を そんたく いろいろにけ度し、批判かおこなわれているか、とに じようと かく私有財産を無償で譲渡した事実は、大きな時代的 意義をもっていることを否定できない。やはり田 5 想表 現として思いきった処置にはちかいないからである 弥照神社の少し先に「農場解放記念碑」が建っている。 「父有島武開拓之子武郎解放之」 二一一口 と、二行に書き、「大正十三年春弟壬生馬誌」と己 されている。この記念碑の建設については、警察署の認 可がなかなかにおりす、武郎の歿後、一年近くかか ている。このことは、時代にとって、農場解放が衝撃 的事件であったことを反証している。記念碑から指呼 の間に「有島記念会館」が建ち、農場関係の文書が保 存されている 場る 農せ 記念会館に入ると、二階に記念室があり、天気が好 岡わ ければ、雄大な後方羊蹄山が眼の前に美しい偉容をみ 松思 せるはすである武井君が発見したように、記念会館 るや に保存されている武郎の原稿には、「狩太共生農団記 ト乍人 念碑文」とあって、「農園」とは書いていない / イ 今も に与えた告別の言葉が記されている。実は、この碑文 町務 の事や碑銘が警察の許可を得られす、前記のように改めら コ昜 セ電れた。農団の精神である「相互扶助」が武郎筆の扁額四 ニ島 になって、掲げられている窓から見おろすと、焼酎

9. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

道南の五月 有島武郎文学紀行 瀬沼茂樹 、第 札幌市の時計台・旧札幌農学校演武場

10. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

三級に編入、寄宿舎にはいり、土、日曜日ごとに横浜に帰る。 明治ニ十一年 ( 一八八八 ) 十歳 皇太子明宮嘉仁 ( 後の大正天皇 ) の学友に選ばれ、毎土曜日、吹上 御殿に伺候。 明治ニ十ニ年 ( 一八八九 ) 十一歳 明治十一年 ( 一八七八 ) 一一月十一日、森有礼暗殺され、強い感銘をうける。この頃から海軍 三月四日、東京市小石川区水道町五十一一番地に有島武の長男として軍人たらんとする志望をすて、農業に従事したいという欲求を持ち 生まる。武郎には、愛・壬生馬 ( 生馬 ) ・シマ・隆三・英夫 ( 里見始める。 弴 ) ・行郎、以上六人の弗妹があった。武は薩摩国平佐郷の出身で、 明治ニ十三年 ( 一八九〇 ) 十一一歳 島津氏の一支族、北郷久新の家臣有島宇兵衛兼合の長男。母、幸は九月、学習院中等科に進学。 十三歳 陸中国盛岡の南部藩、江戸留守居役山内七五郎英邦の三女。武は維明治ニ十四年 ( 一八九一 ) 新後、大蔵省租税寮に出仕、当時、関税局少書記官。 一月、「少年文学」創刊、愛読者となる。七月、武、国債局長とな 明治十四年 ( 一八八一 ) 三歳り、麹町永田町の官舎にはいる。武郎は寄宿舎にとどまる。同級生 武、関税局権大書記官に進み、この頃、神田区表神保町十番地に住に松平保男・塩谷温・長与又郎らがいた。 む。武郎は湯島三丁目の東京女子師範学校付属幼稚園にはいる。 明治ニ十六年 ( 一八九三年 ) 十五歳 明治十五年 ( 一八八一 l) 四歳五月、武、大蔵大臣渡辺国武と政治上の意見の衝突から国債局長を 六月、武、関税局長心得兼横浜税関長となって赴任、一家そろって辞職、鎌倉材木座に隠棲。武郎と愛は東京に残り、外祖母山内静の 横浜月岡町 ( 現、中区老松町 ) の税関長官舎に移る。 世話をうける。この秀抜な女丈夫の感化は著るしかった。 明治十六年 ( 一八八 = l) 五歳 明治一一十七年 ( 一八九四 ) 十六歳 三月から妹、愛とともに山手居留地七十四番のアメリカ人牧師ギュ七月、武、松方正義の推薦で、島津公爵の家扶名義で十五銀行世話 リックの家庭に通い、英語会話を学ぶ。 役となり、実業界にはいる。十二月、村上浪六の影響で、由井ケ浜 譜明治十七年 ( 一八八四 ) 六歳兵六の筆名で「慶長武士」を書く。 八月から愛とともに山手居留地百一一十番の横浜英和学校 ( 初めプリ 明治ニ十八年 ( 一八九五 ) 十七歳 年テン女学校、今日の成美学園 ) に通う。 学習院教授白鳥倉吉が牛込弁天町に開いた私塾に、岩倉具張らとと 明治ニ十年 ( 一八八七 ) 九歳もにはいる。この頃から病気のためしばしば休学し成績が下降す 五月、学習完入学準備のため、横浜英和学校を退いて、花咲町六丁る。文学書を耽読し、増田英一を知る。五月、「此孤墳」、九月、 目の自牧学舎という寺子屋式の学校に通う。九月、学習院予備科第「斬魔剣」を勁隼生の筆名で書く。十一月、武、日本郵船監査役、 有島武郎年譜