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検索対象: 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集
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1. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

8 りして、とかく回想に耽りやすい日送りをしている時だ 0 て膝の上の ( ンケチの包みを押えながら、ア駄の先をじ 0 ぶじよく と見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱で もしているように葉子には思えた。古藤が隣座にいるのさ めいそう え、一種の苦痛だった。その瞑想的な無邪気な態度が、葉 しゅうね その木部の眼は執念くもっきまつわった。しかし葉子は子の内部的経験や苦悶と少しも縁が続いていないで、二人 こんりんざ、 そっちを見向こうともしなかった。そして二等の切符でもの間には金輪際理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特 かまわないから何故一等に乗らなかったのだろう。こうい 別に毛色の変わった自分の境界に、そっと窺い寄ろうとす たんてい う事がきっとあると思ったからこそ、乗り込む時もそう言る探偵をこの青年に見出すように思って、その五分刈りに くす おうとしたのだのに、気が利かないっちゃないと思うと、 した地蔵頭までが顧みるにも足りない木の屑かなんぞのよ うに見えた。 近頃になく起きぬけかり冴え冴えしていた気分が、沈みか かげ けた秋の日のように陰ったり減入ったりし出して、冷たい 痩せた木部の小さな輝いた眼は、依然として葉子を見詰 血がポンプにでもかけられたように脳の透間という透間をめていた。 かたく閉ざした。たまらなくなって向かいの窓から景色で何故木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今 も見ようとすると、そこにはシェード が下ろしてあって、 でも自分を女とあなどっている。ちっ・ほけな才力を今でも くちびる 例の四十三四の男が厚い唇をゆるく開けたままで、馬鹿頼んでいる。女よりも浅ましい熱情を鼻にかけて、今でも さしで な顔をしながらまじまじと葉子を見やっていた。葉子はむ自分の連命に差出がましく立ち入ろうとしている。あの自 こび っとしてその男の額から鼻にかけたあたりを、遠慮もなく信のない臆病な男に自分はさっき媚を見せようとしたの はっし むちう 発矢と眼で鞭った。商人は、本当に複たれた人が泣き出すだ。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えよう まなじり 前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議とした特別の好意を眦をかえして退けたのだ。 そむ な顔のゆがめ方をして、さすがに顔を背けてしまった。そ痩せた木部の小さな眼は依然として葉子を見つめてい の意気地のない様子がまた葉子の心をいらいらさせた。右た。 に眼を移せば三四人先に木部がいた。その鋭い小さな眼は この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っ 依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかていた二人の中年の紳士の口から起こった。その笑い声と げつこう りに激昻した神経を両手に集めて、その両手を握り合わせ葉子となんの関係もないことは葉子にもわかりきってい こ 0 すきま ふる うカカ

2. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

て、一一人の妹と共に給仕に立った。そして強いられるまま多望な青年だと讚めそやしたり、公衆の前で自分の子とも かな ののし に、ケー・ヘル博士から罵られたヴァイオリンの一手も奏で弟ともっかぬ態度で木部をもてあっかったりするのを見る みな ! ひとめ たりした。木部の全霊はただ一Ⅱでこの美しい才気の漲りと、葉子は胸の中でせせら笑った。そして心を許して木部 あふ 溢れた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議に好意を見せ始めた。木部の熱意が見る見る抑えがたく募 り出したのはもちろんの事である。 にこの小柄な青年に興味を感じた。そして運命は不思議な いたすら 悪戯をするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌かの六月の夜が過ぎてからほどもなく木部と葉子とは恋 大才風に蒼白い滑らかなという言葉で見られねばならぬような間柄になっていた。 骨細な、顔の造作の整った : か歩くこっ 皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗な割合に下顎骨の発達こういう場合葉子がどれほど恋の場面を技巧化し芸術化す まで何処か葉子のそれに似ていたから、自意識のるに巧みであったかはいうに及ばない。木部は寝ても起ぎ 極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見付け出したようにても夢の中にあるように見えた。二十五というその頃ま 思って、一種の好奇心を挑発せられずにはいなかった。木で、熱心な信者で、清教徒風の誇りを唯一の立場としてい 部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかき抱いて、葉子はた木部がこの初恋においてどれほど真剣になっていたかは また才走 0 た頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗想像することができる。葉子は思いもかけず木部の火のよ えん うな情熱に焼かれようとする自分を見出すことがしばしば 宴はさりげなく終りを告げた。 はてんこう ・こっこ 0 木部の記者としての評判は破天荒といってもよかった。 いやしく その中に二人の間柄はすぐ葉子の母に感づかれた。葉子 苟も文学を解するものは木部を知らないものはなかっ た。人々は木部が成熟した思想を提げて世の中に出て来るに対してかねてからある事では一種の敵意を持 0 てさえい 時のしさを噂し合 0 た。殊に日清戦役という、その当るように見えるその母が、この事件に対して嫉妬とも思わ 女時の日本にしては絶大な背景を背負 0 ているので、この年れるほど厳重な故障を持ち出したのは、不思議でないとい 少記者はある人々からは英雄の一人とさえして崇拝されうべぎ境を通り越していた。世故に慣れき 0 て、落ち付き る た。この木部がたびたび葉子の家を訪れるようになった。払った中年の婦人が、心の底の動揺に刺戟されてたくらみ ざんぎやくわるだくみ 或 その感傷的な、同時に何処か大望に燃え立ったようなこの出すと見える残虐な譎計は、年若い二人の急所をそろそろ はらわた う、が 青年の活気は、家中の人々の心を捕えないではおかなか 0 といよ 0 て、腸も通れと突き刺してくる。それを払い た。殊に葉子の母が前から木部を知っていて、非常に有為かねて木部が命限りに藻掻くのを見ると、葉子の心に純粋 ねまそ おさ

3. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

た。木部はだんだん監視の眼をもって葉子の一挙一動を注が、すべては全く無益だった。一旦木部から離れた葉子の 心は、何者も触れた事のない処女のそれのようにさえ見え 意するようになって来た。同棲してから半カ月もたたない 中に、木部はややもすると高圧的に葉子の自山を束縛するた。 ぶんべん ような態度を取るようになった。木部の愛情は骨に沁みるそれから普通の期間を過ぎて葉子は木部の子を分娩した ほど知り抜きながら、鈍っていた葉子の批判力はまた磨きが、もとよりその事を木部に知らせなかったばかりでな 母にさえある他の男によって生んだ子だと告白した。 をかけられた。その鋭くなった批判力で見ると、自分と似 寄った姿なり性格なりを木部に見出すという事は、自然が実際葉子はその後、母にその告白を信じさすほどの生活を めざと 巧妙な皮肉をやっているようなものだった。自分もあんなあえてしていたのだった。しかし母は眼敏くもその赤坊に キリスト 事を想い、あんな事を言うのかと思うと、葉子の自尊心は木部の面影を探り出して、基督信徒にあるまじき悪意をこ きすっ の憐れな赤坊に加えようとした。赤坊は女中部屋に連ばれ 思う存分に傷けられた。 外の原因もある。しかしこれだけで十分だった。二人が たまま、祖母の膝には一度も乗らなかった。意地の弱い葉 しっそう 一緒になってから二カ月目に、葉子は突然失踪して、父の子の父だけは孫の可愛さからそっと赤坊を葉子の乳母の家 親友で、いわゆる物事のよく解る高山という医者の病室にに引き取るようにしてやった。そしてそのみじめな赤坊は 閉じ籠らしてもらって、三日ばかりは食う物も食わずに、 乳母の手一つに育てられて定子という六歳の童女になっ くや 浅ましくも男のために眼のくらんだ自分の不覚を泣ぎ悔んた。 だ。木部が狂気のようになって、ようやく葉子の隠れ場所その後葉子の父は死んだ。母も死んだ。木部は葉子と別 きようらん を見つけて会いに来た時は、葉子は冷静な態度でしらじられてから、狂瀾のような生活に身を任せた。衆議院議員の ため しく面会した。そして「あなたの将来のお為にきっとなり候補に立っても見たり、純文学に指を染めても見たり、旅 女ませんから」と何気なげに言 0 て退けた。木部がその言葉僧のような放浪生活も送 0 たり、妻を持ち子を成し、酒に に骨を刺すような諷刺を見出しかねているのを見ると、葉耽り、雑誌の発行も企てた。そしてそのすべてに一々不満 そろ る を感ずるばかりだった。そして葉子が久し振りで汽車の中 子は白く揃った美しい歯を見せて声を出して笑った。 ゆいしょ 葉子と木部との間柄はこんな他愛もない場面を区切りにで出遇った今は、妻子を里に返してしまって、ある由緒あ してはかなくも破れてしまった。木部はあらんかぎりの手る堂上華族の寄食者となって、これといってする仕事も 段を用いて、なためたり、すかしたり、強迫までして見たなく、胸の中だけにはいろいろな空想を浮かべたり消した みが いったん

4. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

の看板を見迎え見送っていた。処々に火が燃えるようにそ三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。 の石板は眼に映って木部の姿はまたお・ほろになって行っ しかもその最後から、凉しい色合のイン・ハネスを羽織っ た。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が経巻を持った木部が続くのを感付いて、葉子の心臓は思わずはっと処 * ちゅうじようとう ているのがあった。その胸に書かれた「中将湯」という女の血を盛ったように時めいた。木部が葉子の前まで来て 文字を、何気なしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生すれすれにその側を通り抜けようとした時、二人の眼はも 児の定子のことを思い出した。そしてその父なる木部の姿う一度しみじみと出遇った。木部の眼は好意を込めた微笑 よ、 かかる乱雑なの中心とな 0 て、またまざまざと焼に浸されて、葉子の出ようによ 0 ては、すぐにも物を言い くちびる きつくように現われ出た。 出しそうに唇さえ震えていた。葉子も今まで続けていた その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の眼で見つめ回想の惰力に引かされて、思わず微笑みかけたのであった ひげ つばめがえ ている中に、だんだんとその鼻の下から髭が消え失せて行 が、その瞬間燕返しに、見も知りもせぬ路傍の人に与える ひとみ きよまん って、輝く眸の色は優しい肉感的な温みを持ち出して来ような、冷酷な驕慢な光をその眸から射出したので、木部 むな た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三の徴笑は哀れにも枝を離れた枯葉のように、二人の間を空 十男の皮膚の光沢は、神経的な青年の蒼白い膚の色とな 0 しくひらめいて消えてしま 0 た。葉子は木部のあわて坊を て、黒く光った軟かい頭の毛が際立って白い額を撫でてい見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よく酬い る。それさえがはっきり見え始めた。列車はすでに川崎停得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなっ た。木部は痩せたその右肩を癖のように怒らしながら、急 車場の。フラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中で かっぽ は、汽車が止まりきる前に仕事をし遂さねばならぬというぎ足に闊歩して改札ロの所に近づいたが、切符を懐中から みなぎ 風に、今見たばかりの木部の姿がどんどん若ゃいで行っ出すために立ち止まった時、深い悲しみの色を眉の間に漲 そば た。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人の傍にらしながら、振り返ってじっと葉子の横顔に眼を注いだ。 いちべっ ・ノっ - り でもいるように恍惚とした顔付で、思わず識らず左手を上葉子はそれを知りながらもとより侮蔑の一瞥をも与えなか げて 小指をやさしく折り曲げてー、ー軟かい鬢の後れ毛った。 をかき上げていた。これは葉子が人の注意を牽こうとする木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子 の眼がじっとその後姿を逐いかけた。木部が見えなくなっ 時にはいつでもする姿態である。 この時、繰戸がけたたましく開いたと思うと、中から二た後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そ おお びんおく ひとみ ぶべっ

5. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

8 すてみ な同情と、男に対する無条件的な捨身な態度が生まれ始めの裏を返して見た事だった。葉子を確実に占領したという おとしあな 意識に裏書きされた木部は、今までおくびにも葉子に見せ た。葉子は自分で造り出した自分の穽に他愛もなく酔い 始めた。葉子はこんな眼もくらむような晴れ晴れしいものなか 0 た第々しい弱点を露骨に現わし始めた。後ろから見 を見たことがなかった。女の本能が生まれて始めて芽をふた木部は葉子には取り所のない平凡な気の弱い精力の足り ない男に過ぎなかった。筆一本握ることもせずに朝から晩 き始めた。そして解剖刀のような日頃の批判力は鉛のよう に 0 てしま 0 た。葉子の母が暴力では及ばないのを悟っまで葉子に膠着し、感傷的な癖に恐ろしく我儘で、今日今 て、すかしつなだめつ、良人までを道具につかったり、木日の生活にさえ事欠きながら、万事を葉子の肩になげかけ 部の尊信する牧師を方便にしたりして、あらん限りの智カてそれが当然な事でもあるような鈍感なお坊っちゃん染み を 0 た裳柔策も、なんの甲蛩もなく、冷静な思慮深い作た生活のしかたが葉子の鋭い神経をいらいらさせ出した。 戦計画を根気よく続ければ続けるほど、葉子は木部を後ろ始めの中は葉子もそれを木部の詩人らしい無邪気さからだ けなげ にかばいながら、健気にもか弱い女の手一つで戦った。そと思って見た。そしてせっせせっせと世話女房らしく切り して木部の全身全霊を爪の先想いの果てまで自分のものに廻す事に興味をつないで見た。しかし心の底の恐ろしく物 しなければ、死んでも死ねない様子が見えたので、母もと質的な葉子にどうしてこんな辛抱がいつまでも続こうぞ。 カカ うとう我を折った。そして五カ月の恐ろしい試練の後に、 結婚前までは葉子の方から迫って見たにも係わらず、崇高 両親の立ち会わない小さな結婚の式が、秋のある午後、木と見えるまでに極端な潔癖屋だった彼であったのに、思い と どんらんろうれつ 部の下宿の一間で執り行われた。そして母に対する勝利のもかけぬ貪婪な陋劣な情慾の持ち主で、しかもその欲求を ふんどりひん 分捕品として、木部は葉子一人のものとなった。 貧弱な体質で表わそうとするのに出喰わすと、葉子は今ま 木部はすぐ葉山に小さな隠れ家の様な家を見付け出しで自分でも気がっかずにいた自分を鏡で見せつけられたよ て、二人は睦まじくそこに移り住むことになった。葉子のうな不快を感ぜずにはいられなかった。夕食を済ますと葉 恋はしかしながらそろそろと冷え始めるのに二週間以上を子はいつでも不満と失望とでいらいらしながら夜を迎えね 要しなかった。彼女は競争すべからぬ関係の競争者に対しばならなかった。木部の葉子に対する愛着が募れば募るほ て見に勝利を得てしまった。日清戦争というものの光もど、葉子は一生が暗くなりまさるように思った。こうして 太陽が西に沈むたびごとに減じて行った。それらはそれと死ぬために生まれて来たのではないはずだ。そう葉子はく どうせい して一番葉子を失望させたのは同棲後始めて男というものさくさしながら思い始めた。その心持ちがまた木部に響い むつ おっと でつく

6. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

く迎えてでもいるように、青年に対してことさら親しげな「また何か考えていらっしやるのね」 葉子は痩せた木部にこれ見よがしという物腰で華やかに 態度を見せた。 品川を過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉言った。 おもむ 子はきびしく自分を見据える眼を眉のあたりに感じて徐ろ 古藤はあまりはずんだ葉子の声にひかされて、まんじり にその方を見かえった。それは葉子が思ったとおり、新聞とその顔を見守った 9 その青年の単純な明らさまな心に、 きペこきよう にが に見入っているかの痩せた男だった。男の名は木部孤節と自分の笑顔の奥の苦い渋い色が見抜かれはしないかと、葉 言った。葉子が車内に足を踏み入れた時、誰よりも先に葉子は思わずたじろいだほどだった。 かげ 子に眼をつけたのはこの男であったが、誰よりも先に眼を「なんにも考えていやしないが、蔭になった崕の色が、余 きれい 外らしたのもこの男で、すぐ新聞を目八分にさし上げて、 り綺麗だもんで : : : 紫に見えるでしよう。もう秋がかって それに読み入って素知らぬふりをしたのに葉子は気がつい来たんですよ」 ていた。そして葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めた頃青年は何も思っていはしなかったのだ。 になって、彼は本気に葉子を見詰め始めたのだ。葉子は「本当にね」 あらかじ せつな 予めこの刹那に対する態度を決めていたから慌ても騒ぎ葉子は単純に応じて、もう一度ちらっと木部を見た。痩 もしなかった。眼を鈴のように大きく張って、親しい媚びせた木部の眼は前と同じに鋭く輝いていた。葉子は正面に うなす ゅううつけわ の色を浮かべながら、黙ったままで軽く点頭こうと、少し向き直ると共に、その男の眸の下で、悒鬱な険しい色を引 みなぎ 肩と顔とをそっちにひねって、心持ち上向き加減になったきしめたロのあたりに漲らした。木部はそれを見て自分の 時、稲妻のように彼女の心に響いたのは、男がその好意に態度を後悔すべきはずである。 応じて微笑みかわす様子のないという事だった。実際男の ひときわ 女一文字眉は深くひそんで、その両眼は一際鋭さを増して見 ちょう えた。それを見て取ると葉子の心の中はかっとなったが、 葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋の的だった。それは丁 笑みかまけた眸はそのままで、するすると男の顔を通り越度日清戦争が終局を告げて、国民一般は誰れ彼れの差別な して、左側の古藤の血気のいい頬のあたりに落ちた。古藤く、この戦争に関係のあった事柄人物やに事実以上の好 がけ は繰戸のガラス越しに、切割りの崕を眺めてつくねんとし奇心をそそられていた頃であったが、木部は二十五という ていた。 若い齢で、ある大新聞社の従軍記者になって支那に渡り、 ひとみ ひとみ はな

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のすべてを打ち捨ててただ眼の前の恥かしき思いに漂うばやりたいほど自分が可愛ゆくもあった。そして木部と別れ かりなる根なし草の身となり果てまいらせ候を事もなげにて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだ おぼ され溺れて、心中でもする人のような、恋に身をまかせる 見やり給うが恨めしく恨めしく死」 しゃ わか となんのくふうもなく、よく意味も解らないで一瀉千里心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。 に書き流して来たが、「死」という字に来ると、葉子はペ やがて酔いつぶれた人のようにを擡げた時は、疾に日 はな ンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのま がかげつて部屋の中には華やかに電燈がともっていた。 もてあそ まを事務長に言ってやるのは、思い存分自分を弄・ヘと言 いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉 ってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱子ははっと思った。その時葉子の部屋の戸にどたりと突き いたす 暴に徒ら書きで汚していた。 あたった人の気配がして、「早月さん」と濁って塩がれた たかだか と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受け つむり 来た。葉子は我にもなく頭を上げて、しばらく聞き耳を立て、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋の隅に逃げか ててから、そっと戸口に歩み寄ったが、後はそれなりまたくれた。そして体中を耳のようにしていた。 「早月さんお願いだ。ちょっと開けて下さい」 静かになった。 葉子は恥かしげに座に戻 0 た。そして紙の上に思い出す葉子は手早く小机の上の紙を屑になげてて、ファウ ままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いて見たンテン・べンを物蔭に放りこんだ。そしてせかせかとあた あわ 、、、ひじ りを見廻したが、慌てながら眼窓のカ 1 テンを閉めきっ りしながら、ずきんずきんと痛む頭をぎゅっと肘をついた た。そしてまた立ちすくんだ。自分の心の恐ろしさにまど 片手で押えてなんと言うこともなく考えつづけた。 念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地のいながら。 女心さえ攤めば後は自分の意地一つだ。そうだ。念が届かな外部ではで続けさまに戸を敲いている。葉子はそ すそ るければ : : : 念が届かなければ : : : 届かなければあらゆるもわそわと裾前をかき合わせて、肩越しに鏡を見やりながら 或のに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。涙を拭いて眉を撫でつけた。 「早月さん " こ どうして : : : 私はどうして : : : けれども : : : 葉子はい つの間にか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなお葉子はややしばしとつおいっ躊躇していたが、とうとう ぼこな思いが潜んでいたかと思うと、抱いて撫でさすって決心して、何か慌てくさって、鍵をがちがちやりながら戸 ひそ

8. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

た。しかし彼女はそれを聞くと、もう慾にも我慢がしきれのことなんそは忘れてしまって、手欄に臂をついたまま放 なくなった。そして右の手を深々と帯の間にさし込んだま心して、晩夏の景色をつつむ引き締まった空気に顔をなぶ らした。木部のことも思わない。緑や藍や黄色の外、これ ま立ち上がりざま、 といって輪郭のはつぎりした自然の姿も眼に映らない。た 「汽車に酔ったんでしようかしらん、頭痛がするの」 、、、、くりど そよそよびん と捨てるように古藤に言い残して、いぎなり繰戸を開けだ涼しい風が習々と鬢の毛をそよがして通るのを快いと思 っていた。汽車は目まぐるしいほどの快速力で走ってい てデッキに出た。 こんとん た。葉子の心はただ渾沌と暗く固まった物の周りを飽きる 大分高くなった日の光がばっと大森田圃に照り渡って、 こともなく幾度も幾度も左から右に、右から左に廻ってい 海が笑いながら光るのが、並木の向こうに広すぎるくらい た。こうして葉子に取っては永い時間が過ぎ去ったと思わ 一どきに眼にはいるので、軽い瞑眩さえ覚えるほどだっ た。鉄の手欄にすがって振り向くと、古藤が続いて出て来れる頃、突然頭の中を引っ掻きまわすような激しい音を立 たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色が明らさまてて、汽車は六郷川の鉄橋を渡り始めた。葉子は思わずぎ よっとして夢からさめたように前を見ると、釣橋の鉄材が に現われていた。 くもで 蛛手になって上を下へと飛び既るので、葉子は思わずデッ 「ひどく痛むんですか」 キのパンネルに身を退いて、両袖で顔を抑えて物を念じる 「ええかなりひどく」 よら - にしこ 0 と答えたが面倒だと思って、 まっげ 「いいからはいっていて下さい。大袈裟に見えるといやでそうやって気を静めようと眼をつぶっている中に、睫を 通し袖を通して木部の顔と殊にその輝く小さな両眼とがま すから、大丈夫なかありませんとも : : : 」 ざまざと想像に浮かび上がって来た。葉子の神経は磁石に と言い足した。古藤は強いてとめようとはしなかった。 吸い寄せられた砂鉄のように、堅くこの一つの幻像の上に 女そして、 「それじやはいっているが本当に危のうござんすよ : : : 用集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態 る に返った。停車場に近づいた汽車はだんだんと歩度をゆる があったら呼んで下さいよ」 すなお めていた。田圃のここかしこに、俗悪な色で塗り立てた大 とだけ言って素直にはいって行った。 きな広告石板が連ねて建ててあった。葉子は袖を顔から放 「 Simpleton 一」 一つ一つそ 葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤して、気持ちの悪い幻像を払いのけるように、 おおげさ たんほ おさ

9. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍らしくはきはきでき願はたしかに叶ったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろ るし、若いに似合わぬ物のわかった仁だ。こんなことまでう。後の事は私共がたしかに引き受けたから心配は無用に 比較に持ち出すのは如何か知らないが、木部氏のような実して、身をしめて妹さん方のしめしにもなるほどの奮発を 行力の伴わない夢想家は、私などは初めから不賛成だっ頼みます : : : ええと、財産の方の処分は私と田中さんとで た。今度のはじたい段が違う。葉子さんが木部氏の所から間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、五 そがわ 逃げ帰って来た時には、私もけしからんと言った実は一人十川さん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷 いかが だが、今になって見ると葉子さんはさすがに眼が高かっ惑ですが。如何でしよう皆さん ( そう言って彼は一座を見 た。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村と渡した。あらかじめ申し合わせができていたらしく、一同 うなす いう仁なりや、立派に成功して、第一流の実業家に成り上は待ち設けたように点頭いて見せた ) 如何じやろう葉子さ がるにぎまっている。これからはなんと言っても信用と金ん」 だ。官界に出ないのなら、如何しても実業界に行かなけれ葉子は乞食の歎願を聞く女王のような心持ちで、 8 局 てきしん ばうそだ。擲身報国は官吏たるものの一特権だが、木村さ長といわれるこの男の言う事を聞いていたが、財産のこと まじめ んのような真面凵な信者にしこたま金を造って貰わんじなどは如何でもいいとして、妹たちのことが話題に上ると きつもん や、神の道を日本に伝え拡げるにしてからが容易な事じや共に、五十川女史を向こうに廻して詰問のような対話を始 ありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記めた。なんといっても五十川攵史はその晩そこに集まった 者の修業をすると口癖のように妙な事を言ったもんだが人々の中では一番年配でもあったし、一番憚られているの ( ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるよ がんじよう くは余りしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこうな頑丈な骨組みで、がっしりと正座に居直って、葉子を に余裕をつけるつもりが、みんなに起こったのだろうけれ子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心は はや ども、葉子に取ってはそれがそうは響かなかった。その心逸り熱した。 わがまま 、え、我儘だとばかりお思いになっては困ります。私 持ちは解っても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとす「いし る彼等の浅はかさがぐ 0 と 0 た ) 新聞記者はともかは御承知のような生まれでございますし、これまでもたび くも : : : じゃない、そんなものになられては困りきるが たび御心配かけて来て居りますから、人様同様に見ていた ( ここで一座はまた訳もなく馬鹿らしく笑った ) 米国行のだこうとはこれつばかりも思っては居りません」 どう じん

10. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

さび 目茶苦茶になったんですって。母の写真を前に置いとい と淋しく笑った。 あき 「それですものどうそ堪忍して頂戴。思いきり泣きたい時て、私はそんな事までする人間ですの。お呆れになったで しようね。いやな奴でしよう。あなたのような方から御覧 でも知らん顔をして笑って通していると、こんな私見たい な気まぐれ者になるんです。気まぐれでもしなければ生きになったら、さぞいやな気がなさいましようねえ」 て行けなくなるんです。男の方にはこの心持ちはおわかり「ええ」 と古藤は眼も動かさずにぶつきらぼうに答えた。 にはならないかもしれないけれども」 こう言ってる中に葉子は、ふと木部との恋がはかなく破「それでもあなた」 と葉子はなさそうに半ば起き上が 0 て、 れた時の、我にもなく身に沁み渡る淋しみや、死ぬまで日 蔭者であらねばならぬ私生子の定子の事や、計らずも今日「外面だけで人のする事をなんとか仰有るのは少し残酷で しん おもかげ しいえね」 まのあたり見た木部の、心からやつれた面影などを思い起すわ。 さえぎ と古藤の何か言い出そうとするのを遮って、今度はぎつ こした。そして更に、母の死んだ夜、日頃は見向きもしな かった親類たちが寄り集まって来て、早月家には毛の末ほと坐り直った。 ひとさま ども同情のない心で、早月家の善後策について、さも重大「私は泣き事を言って他人様にも泣いて頂こうなんて、そ らしく勝手気儘な事を親切ごかしにしやべり散らすのを聞んな事はこれんばかりも思やしませんとも : : : なるなら何 かされた時、如何にでもなれという気にな 0 て、れ抜い処かに大のような大きな力の強い人がいて、その人が真 た事が、自分にさえ悲しい思い出となって、葉子の頭の中剣に怒って、葉子のような人非人はこうしてやるぞと言っ くだ を矢のように早くひらめき通った。葉子の顔には人に譲って、私を押えつけて心臓でも頭でも摧けて飛んでしまうほ てはいない自信の色が現われ始めた。 ど折檻をしてくれたらと思うんですの。どの人もどの人も しよなぬか ししカ 、、い加減に怒ったり、 女「母の初七日の時もね、私はたて続けにビールを何杯飲みちゃんと自分を忘れないで なま ましたろう。なんでも瓶がそこいらにごろごろ転がりまし減に泣いたりしているんですからねえ。なんだってこう生 る た。そして仕舞いには何がなんだか夢中になって、宅に出温いんでしよう。 入りするお医者さんの膝を枕に、泣寝入りに寝入って、夜義一さん ( 葉子が古藤をこう名で呼んだのはこの時が始 おっしゃ しん なか 中をあなた二時間の余も寝続けてしまいましたわ。親類のめてだった ) あなたが今朝、心の正直ななんとかだと仰有 人たちはそれを見ると一人帰りニ人帰りして、相談も何もった木村に縁づくようになったのも、その晩のことです。 かんにん さっきけ ぬる ) わっら せつかん にんびにん おっしゃ