た。夫の死後どうにかして在来の慣例をくずさぬこと、そ多喜子は高島田に結っていた。 つづみ れによっていわゆる家の格を守ろうとすることを生活の目「河井さんの新年のおの会に、このひとが何か打たせて 標としている母にとって、自分の言葉が無情すぎることは いただくとかって申しますのでね」 真知子にもわかっていた。しかしむだ事はもうたいがいで「それは、それは」 よさせたほうがいいのだと彼女は信じた。それだけの余裕「どうせ歯入れ屋さんでしようが、とにかく、ああいった たた は未亡人にはなかった。真知子は今日金入れに畳み込まれ場合は日本髪のほうがよさそうだと思いまして結わせて見 た何枚かの紙幣にこもっている母の苦心を、誰よりもよくましたのですが、なんですか、ちっともまだかっこうがっ 知っていた。むしろ、彼女よりほかに知るものはなかっ かなくて」 た。子供といっしょに、大まで連れてのんきに客になって「、 しいえ、よくお似合いになりますよ。本当にお楽しみで いる姉夫婦さえもおそらく。 ましてそんなところを母ございますわ」 と歩いていれば、よそ目には金に不自由のない親子が、新未亡人の最後の付け加えには、お世辞だけでない実感が ふいちょう 年用のぜいたくな敷き物でもあさっていると見えたかもしこもっていた。多喜子の高島田は、彼女の母が吹聴したよ れないことが、自嘲的な恥を彼女に感じさせた。 うに鼓の会の下準備のみではなく、予想されている河井と 数分の後、未亡人は実際絨毯の一つも買いに来たようの結婚の日の、晴れの装いの用意でもあったであろうか な、少なくともさっきの見苦しい買い物はした覚えもないら。 ようなお上品ぶりをよそおっていた。彼女は多喜子とほか彼らは別れると、未亡人は娘に訊いた。 に若い女中を連れた柘植夫人に出逢った。 「多喜子さんは一」 「なんという人でございましよう」 「来年でしよう。富美子さんとひとっ違いだとかいってた 子「気の弱いものは、何を買おうたって寄りつかれないくら から」 いでございますわ」 未亡人は重いため息をした。それから、多喜子の年齢が 知 こういうやりとりについで、二人の母親はお互いに相手自分たちになんの関係があるだろうというふうにすまして 方の娘を賞め合った。柘植夫人は真知子の洋服が非常によ いる真知子を、尻目にきびしく吟味するように眺めてか く似合うということを、未亡人はまた多喜子の美しい髪のら、急に彼女の帽子のわるロをいい出した。 っ 0 できばえ 出来栄を。 「型が変たし、色もよくないよ」 しりめ
のごとく、その小さいまるい眼を特別なしかたでまたたか 話をさえぎった。高いノックの先触れで入って来たのは、 せて、真知子を見た。しかしこういう階級の婦人たちに習 三日に一遍きっと帰っている富美子であった。 慣的に与えられている社交性から、未亡人を除外して話す 「いらっしゃいまし」 椅子のまだずっと手前から、富美子は威勢よく声をかけことはできなかったので、富美子は彼らが三越で出逢った くのを多喜子に聞いたというようなことからはじめた。 た。が、真知子だけではなかったから、卓のそばに近づ と、彼女自身としてはせいいつばいのおとなしやかな態度「日本髪結ってらしたでしよう、多喜子さん」 で、歳暮の贈り物の礼を述べ、余儀ない来客で母がしばら「ええ」 「よくお似合いになっていましたよ」未亡人はその時褒め く失礼をするからどうかゆっくりしてほしい、と頼んだ。 「あんまりごぶさたをいたしていましたのでね」未亡人もたとおりの言葉で褒めた。 同じ礼儀を尽くすために椅子から立ち上がりながら、「今 「あの時は、私もごいっしょに行くはずになっていたので ごあいさっ すけれど」それだけは未亡人に対して、そのあとは真知子 日はほんのちょっと暮れの御挨拶にと思って」 「あら、ちょっとなんて、そいじゃっまりませんわ、叔母のほうへ、富美子はいった。「御覧にならなかった、外山 さま」富美子はもう生地の、子供つぼい遠慮のない調子にさんの室内装飾展が六階にあったの」 なりながら、「めずらしく真知子さんもごいっしよなんで外山は倉子夫人につきまとっている画家の名前であっ すもの。今日はゆっくりなすってくださらなきや厭ですた。真知子は気がっかなかった。 「外山さんがそんなことなさるの」 わ。 ねえ、 しいんでしよう」 これは真知子に向けていわれたので、そうしてはいられ「このごろは画よりか熱心なくらい。おかげでこの部屋も どう。少しけばけばしす ないと彼女は答えた。実際未亡人よりも真知子のほうが気模様替えさせられたんだわ。 忙しかった。昨日米子のもらした退院のことが心にかかつぎてやしないこと。でもこの壁紙なんか外山さんとても得 ていた。できたら朝のうち様子を見に行きたいと思いなが意なの。自分で描いてわざわざ刷らせたんですもの」 そういえば前よりはまたいっそうりつばになったと未亡 ら果たされなかった。 「だって、帰しはしないからいいわ。ほんとうにいろんな人は調子を合わせたが、真知子は批評はロに出さないで、 はじめてその部屋を見廻した時とは別な感じで、いわれた お話があるのよ」 こげちゃ ばらいろ 富美子はこの言葉になにかの暗示を持たせようとするか壁紙の、薔薇色の地に焦茶で分離派ふうの模様を出した奇
352 子供たちはよく風邪を引くし、主人のレウマチもぐあいが「連れて来たって子供の世話ぐらいが関の山ですよ。堯子 わるいから、三月になれば講義を切り上げてすぐ帰る予定さんが自分でする人じゃないから」 たす だ、ということを知らせて来たのであった。 未亡人はびしゃんと押入れの唐紙を閉め、改まって訊ね 「この月といっても一週間とないんだからね、よっ・ほど手こ。 廻しよくやらなけりや」 「それで、あんたの学校は何日から休みになるんです」 まず植木屋を呼ぶことから、家の内外のちょいちょいし「何日って、先生によってまちまちだわ」 た修繕、大掃除、それから山瀬たちに着よごされた布団の ーから伝えられた、聴講生廃止の問題を真知子は思い 整理。未亡人が数え立てたそれらの準備は、赴任先から帰出していたが、今は話したくなかった。 むすこ る息子を待つよりは、誰かもっと珍しい家の客でも迎える「とにかく、お兄さまが帰っていらっしやる間は、人の出 かのごとく見えた。事実未亡人にとっては、その義理ある入りも多くなって、何かにうるさいんだから、そのつもり くぎ 息子は、誰よりも大事な客であったし、彼の妻にしても気で気をつけなくちゃ」母は前もって釘を打って置くという 楽に追い使われる嫁ではなかった。 調子でそれをいった。「ことに堯子さんに対しては、あん さ 未亡人はまた、こんな時頼む前の女中の名前をいい、 たのこの節の、変な片意地を出しちゃいけませんよ。なん っそく知らせてやるようにと娘に命じた。 でもお姉さまお姉さまってふうでやってくれなけりや、困 「そういえば、この間どこかへ引っ越したといって来ているのは母さんなんだから。い、 しね。子供じゃなし、あんた たね」 だってそのくらいのことはわかってるはずだ」 なおいっそうはっきりわかっているのは、この春休の 未亡人は後むき、押入の小鑪笥を探しはじめた。通知の はがきがすぐには見つからなかった。それでも、派出婦な 間、はでで、社交好きな、本質からも外形からも田口夫人 んかでは不経済で使い悪いとい 、ひきだしを一つ一つ開の分身である嫂のために、忠実な小間使の役を努めなけれ けたり閉めたりした。 ばならないということであった。 真知子は母の気持ちがわかっているだけ、熱心な準備が玄関の・ヘルが鳴った。それ以上、母の前にいるのを怖れ かえって卑屈らしく、厭であった。で、はがきはどこか にかけていた真知子はすぐ立ち上がった。廊下に出て、表座 あるし、そうあわてなくも、女中は北海道から連れて来る敷の後になる板の間を抜け、左に曲がれば玄関であった。 ひざ だろうといわずにはいられなかった。 彼女は洋服の膝を突き、つつましく障子に手をかけた。 だんす ふとん あね おそ
の話なんかあんまりしないでちょうだいね」 母は羽織の紐を結んでいた手をとめ、眼の隅で娘をふり 返った。 「なんだってそんなこというんです」 「自分のことひとの家で問題にされるのは、だって厭で しよう」 オしか、問題にならないような娘なら、いくら 「結構じゃよ、 頼んだって問題にしてくれやしないんだから」 「頼むなんて。 じゃ、なにを頼むの。厭なことだわ。 誰がそんな。ーーー見つともないからよしてちょうだい。恥 じゃありませんか」 わなわなする怒りで、真知子は納戸の板戸のうしろに、 結婚問題について、母がこのごろ急にあせり出したの突っ立ったまま、母を睨んだ。娘のこの興奮は、未亡人が みのが を、真知子は見遁さなかった。 一度はまじめに話し合わなければならないと考えていたこ 父の死後、ことにふたりの姉たちがかたづいてからは、 とに、ちょうど機会を与えた。 未亡人らしく小石川の古い家に引っ込んでいた母が、口実「ちょっとお坐りなさい」この言葉で、そこだけ板敷きに をつくっては彼女をひとなかへ連れ出そうとしたり、自分なって、薄べりの敷かれた、かたい床に、未亡人は自分で たす でも気軽くつきあい先を訪ねたりするのは、そのためであ先にびったり坐った。「母さんがこうして気をもんでるの 子った。専門学校を出て、なお大学の講義まで聴いている、を、なにかよけいなおせつかいでもしてるようにあんたは ふたっき 知才能のある、独立の考えを持った、美しい娘にとっては、 思ってるんですか。考えてごらん。あと二月たてば幾つに 忍ぶことのできないそれは屈辱であった。 なるのだか」 真 おびや ある日。 しかし七十日たらずの後に二十四になることが、母を脅 四「ねえ、お母様」外出のしたくをしている母に対し、真知かしているほど娘を脅かしてはいなかった。 ふきげん 子はわざと隠さない不機嫌でぶつつかった。「よそで、私「年のことなんかよくってよ、幾つだって、そんなものに 真知子 にら なんど
318 ころへ行く人ってないわ、ねえ」 からーー笑い声を立てた。 真知子は姉の話しかけに対して何とか答えなければなら未亡人は、外国に行くとすれば、いつごろ出発の予定 なかった。・ : カちょうど口に入っていたもので邪魔されてで、いつまでいることに決定したかを尋ねた。「昨晩の話 いる間に、顕職にあった官吏の未亡人として、おかみの仕だとたしか二年でしたね」 事の確実さと頼もしさを、またそれのもたらす名誉と特権「それがどうも二年いられそうにないのです。 z ーさんは を、最もよく知っていた母が、代わって返事した。 なるたけ早く戻ってくれなくちゃ困ると今日話していまし 「ほらね、お母様だって考えは同じですわ。ですから私、たから、まあ来年の四月時分立っとして、長くて一年半ぐ 今度でも台湾が暑いの遠いのって決して考えないつもりらいだろうと思います」 よ。お兄さんだって、そういえば北海道なんですもの。 未亡人は彼の答えに満足した。半年の節約は、北海道に どっちかってば暑いのは寒いよりか暮らしいいし、植対する物質的な気兼ねにも、同じ期間の短縮を生じさせる 民地俸はつくのだし、その上すぐ洋行がでぎて、それで不はずであったから。 わずら 足をいっちゃもったいないのよ」 「どうせ半年やそこいら長くいたって同じだから、旅で患 「そうです。正直にいうと僕はその洋行がなにより楽しみったりしないうち、なりたけ早く帰って来たほうがよござ さう なんです。北海道の兄さんとか、河井さんとかの連中とはんすよ」未亡人は半分の真情と半分の詐謀で付け加えた。 違って、僕なんぞはこういう機会でもなければ留学するわ「僕もそのつもりなんです。昔のように三、四年も留学期 けには行かないんですから。で、ああいう植民地の新しい 間を貰うのとは違って、一年半じやどこの大学に入ってみ 大学が、内地から誰か引き抜こうとする場合には、一番にるにしても、まとまった勉強はできないんですからね。そ 洋行を条件にするんです。それに今いう植民地俸の五割増の点は初めから希望を持たないで、そのかわりヨーロツ・ハ しを考えると、誰でちょっと誘惑されますからね。やりじゅうをのんきに旅行してみようと考えているんです」 方が大いに巧妙ですよ。こちらの弱点をちゃんとっかんで「最初どこへいらっしやるの」 ちやわん 来るんだから」 真知子は誰よりも先にお茶になったので、熱い茶碗をさ 山瀬は酔いのために助長された善良さで、自分のかかつます間訊いてみた。 たおとしあなを自分であけすけに分解して見せながら、愉「もちろんドイツです。ドイツだけには一番長くいるつも 快そうにーー・実際それは愉快なおとしあなに相違なかった りです。フライ・フルクにも行って、逢えたらフッサールに
って時にやっときまって、立つ前の日に式を挙げたのだか人のもの馴れた手つぎさえも。 おじよく ら騒ぎってなかったの。かわいらしいいい奥さんだわ。で真知子はどうかして自分をその汚辱から救い出そうとす もね、竹尾さんはあんまり気に入っちゃいないの。だつることで一生懸命になった。来月の音楽会にまちがいなく て」彼女は意味のある眼つぎをして見せながら、「竹尾さ行くという約束が、写真を富美子の手で送り返してもらう んずっと前から、あんたを貰いたがってたのよ」 約束と交換的にやっと成立した。 この打ち明けは、真知子には何らの興味をも与えなかっすぐ近所にいる上村の同族の家へ顔出しをして行くとい かどぐち た。彼女はただ、竹尾は園遊会の晩までは自分を知らない う辰子と門ロで別れてから、未亡人と真知子は、電車通り はずだといった。 の方をさして歩いた。大部分は自動車であったし、そうで 「そりやそうよ。でも写真で知ってるわ」 ないものは母娘でそんな話をして残っていた間に帰ったの 「写真」 で、他に連れ立つような人もいなかった。 おだ 「いやなひと、母さまのとこにあんたの写真来てるじゃな築地の裏町は、午後になってようやく和やかにれた日 いの」 射しの中で、嘘のようにひっそりしていた。二人はどちら はす どろぼう 真知子の全身の血は羞かしさで沸騰した。おまえは泥棒からも話さなかった。黒いコートを着て、同じ黒の薄手の えりもと だといわれてもそれほどまでに赤くはならなかったであろショールに襟元を包んだ未亡人は、行く時の元気を失って う。自分の見本が商品の引き札のように到るところの家々 いた。真知子によく似た、やや広い額の上には、平生はあま しわ に振り撒かれ、ひたすら結婚の愛顧と取引きが待たれてい り目立たない皺が深く現われ、それを横ぎって一本の静脈 るというのは、彼女には想像するに忍びないことであつが斜めに青く浮き出していた。人中に出て疲れたり、なに かんしやく た。母がそんなことまでしていようとは思いもかけなかっか癇を起こしたりしている時のこれはしるしであった。 ナカ日本の風習として珍しくない手段であった。田口 ついに未亡人は、田口夫人の今日の素振りに気がついた 知夫人の居間に飾った大きな写真帖の中には、花嫁の新しい かと聞いた。 きげん 真候補者がいつも何枚かずつ保管されているのを真知子自身「あのひとの機嫌買いなら、今にはじまったことでもない も知っていた。同時にまた希望者に対して、一人一人の地じゃないの」 ようぼう 5 位や持参金や、写真よりははるかにすぐれている容貌を説真知子はこの問題をなりたけ軽く取り扱うことによっ 明しながら、トランプをする時のように並べて見せる、夫て、つづく話を避けようとした。未亡人はその手には乗ら うそ
268 「またそんなことをいい出した」 ルメントに寄ったこと、 いっしょに美術館の画を見たこ 「だって学校があるんじゃないの」 と、河井たちと出逢ったこと、それから気持ちのよいタ暮 「それで母さんだけやっておけばいし 、買い物ぐらいひとれの公園をぶらぶら歩いて来たことは話したが、その他に ささい りだってできないはずはないというのかい」未亡人はだんついてはなぜということなく話しそびれた。その些細な秘 けしき だん気色ばみながら、「ーーー・さあってば学校だ。それがど密のため、母の千渉がましい言葉に対しても、真知子はい うしたんです、小学校や女学校じゃあるまいし、一日や半つもほど単純に怒れなかった。 日休んで休めない道理はないじゃありませんか。母さんに予定の時間に家を出ると彼らはまず贈り物の買い物をす はちゃんとわかってる。そんなことはみんなあんたの口実ました。未亡人は朝とは打って変わって満足そうに見え だってことが」 た。反対に真知子は隔意のあるよそよそしい顔をしたま それに相遠なかった。 / 彼女の非社交的な気持ちは、ちょ ま、電車の中も話しかけなければものもいわなかった。母 じようきけん うど上流の下部と中流の上部に位して、・フチ・・フルジョアのだんだん上機嫌になった訳が見通せるだけいっそういま しゅうろう の標本的な退屈とこつけいと醜陋にみちている親類仲間の いましかった。買い物が案外安かったー・・、・それが半分の原 環境において、近ごろますますいちじるしくなっていた。因であった。月々きまりきった金で暮らしている、おそら 「そんなわがままが、この世間で通るものだかどうだか、 く親類じゅうで一番余裕のない未亡人の家計簿にとって よく考えてごらん」 は、こうした臨時支出の場合には、十銭の高下も大問題で 「わたし自身には理由があるのよ。わがままじゃないわ」あった。それに彼らは、十銭の代わりに五十円高くても平 「それがわがままじゃないか。どんな理由があったって、気らしく装わなければならなかった。 行きたくなけりや義理を欠いても行かない、気に入ったと 同じ理由によって、今日小石川の奥から築地まで電車で ころなら、どこへでも、夜何時まででも飛び歩いていよう運ばれて行くのだって、決して自動車代を惜しむのではな という、それでわがままでないといえますか、ひとが黙っく、ガソリンの臭気とひどい動揺が、未亡人を持病の偏頭 ていれば、いい気になってーー」 痛にするためでなければならなかった。相手のほうではま ゅうはん それは一時間半も無断で晩飯におくれた昨日の当てつけた、それを信じないでも信じるような顔をすることを知っ に相違なかった。真知子は黙って、うわ目に、母の痙攣っていた。 たこめかみを見つめた。遅い帰宅の説明として米子のセッ昨日とはまるで違った、寒い曇り日の昼の電車には数え ひきっ
った。講座料を入れても三百円の収入しかない北海道のほ 運命を支配されちやたまらないわ」 剛「たまらないって、年はりつばにその力を持ってるのですうだって、楽ではないはずであった。この不足は、内科の からね。もしあんたがひとりで暮らすのでなかったら。著名な博士で大きな病院を持っている妻の父から容易に補 充された。同時に、どんな関係の間でも威力を失わない金 それとも一生結婚しないつもりかい」 銭の価値は、ここでもそれ自身の発揮すべきものを発揮し 真知子は返事しなかった。自分からよけいなことをいし 出したのを後悔していた。母に限らず、誰とでもこんなこた。彼らは、夫であり妻であるとともに、債権者であり債 ぼくねん かよく とを、こんな事務的な態度で話すことは我慢ならなかっ務者であった。でなくも温順で、寡慾で、悪くいえば朴念 た。で、ふだんから、細心な警戒とできうるだけの冷淡で仁で、人間の社会よりは、顕微鏡の下の世界により多くの まわ 遁げ廻っていた話題であった。それだけ未亡人は捕えた機興味を持っている夫を操縦することは、妻にとってはなん 会を放さなかった。 でもなかった。 この勢力のある、かなり美しい、年からいっても真知子 「まさかあんただって、そんなむてつぼうなことを考えて はいないだろうから、もうそろそろ別をつけてくれなけと七つしか違わない嫂は、その若さと美しさを北海道で消 りや 0 そりや当節のことだから学問もよござんすよ。耗させる気は決してなかった。適当な場合に、実家の父の できることをしとく分に損はないともって、私はそんなこ手を利用すれば、東京の大学か、それに劣らぬ地位を夫の とであんたに反対したことは一つだってない。でも、北海ために見つけるのはむずかしくはないと考えていた。また それには現在の古・ほけた陰気な邸宅を、もっと快適な当世 道の嫂さんたちや親類の人たちにしてみれば、あんたがい つまでも結婚しないのは、私が甘やかして、好き自由なまふうの様式に改築しなければならなかった。実際あんな時 代おくれの不便な家で、東京の空を描いてる彼女の楽しい ねをさしておくからだとしきや考えないんですからね」 たもと 未亡人は外出着の袂から新しいハンケチを出し、鼻をか夢を実現させることは、思いもよらなかった。にもかかわ らず、まだそのままで手をつけないでいるのは、転任が確 んだ。 北海道の大学で生物学を教えている曾根家の当主は、未定しないためばかりではなかった。その理由をよりもよ 亡人とは義理ある間柄であった。父はかなり高い地位の官く知ってると信じているのは未亡人であった。 吏であったが、金を残さなかったので、未亡人と真知子は「ばかばかしい」自然の発展から、話がそこまで及んだ やっと昔の家に住んでいるというだけの生活しかできなか時、真知子はむしろおかしがっていった。「お嫂さんに気 ねえ
312 で包んで渡す。 をよろこばすため、または受け取った家を調法させるため 「ばかばかしくて本気につとめられやしませんわ」 に選ばれたものは、正直にいって決してひと品もなかっ そういうかわりにちょうど機械人間の発声のように空虚た。七円を十円に、四円を五円に、その見せかけがなによ に叫ぶ。 りたいせつであった。 「ありがとうございます」 未亡人に限らず、そこに奮闘している大部分の客の目的 と努力は、みんなそれであるらしかった。が、そのために 「これ子さんにどうだろう」 真知子は嫌悪を割引きしようとは思わなかった。みんなの 母はえんじ色に小桜をつぶし縫いにした一筋を取り上げしている醜さを自分の最も親しいものがいっしょに平気で こ 0 しているのが我慢できない気がした。 はんえり 「いい半襟だわ」 「来年から、省けるところは省くといいのね」 たんもの 「でも、これだけ出すんならいっそ反物にしようかしら」 「そんなわけには行かないよ。しきたりってものがあるか 「どちらだって同じよ、早くきめたほうがいいわ」 「そんな無精をいい 出せば、買い物はできやしないよ」 「そのしきたりをよすのよ」 母は半襟を置き、今度はとなりの襦襷の袖をしはじめ「それがロでいうように、無造作によされるものかどうか る。半ダスのハンカチを買うのも、これらの移動を二、三考えてごらん」 遍くり返さないではすまなかった。そうしてたまらない雑「なんでもないわ。お母様がよけいな見えを捨てる気にさ 沓だの、気分がわるくなりそうだのといいながら、未亡人えなれば」 おくめん 二人は赤く灯のついた、ガス・ストー・フの陳列場を、向 はほかの場合よりずっと精力的で、周囲に負けない臆面な こうの洋家具部の方へ抜けようとしていた。そこにはめず さで、どこにでも割り込み、なににでも手を出した。 じゅう かたわら 真知子はあとではただ母の傍についておされるのを防らしく人があまりいなかった。それに床から積み立てた絨 しやだん いだり、足を踏まれないように気をつけたりするだけで、毯が、厚い壁になって一方を遮断していたので、籠った、 しんぼう なにか相談されても いいかげんに答えた。疲れてうるさく自分たちだけのような感じが、家まで辛抱しきれないで真 なったせいもあるが、それより母の選択を支配している明知子にそれをいわせた。 白な醜い意図が、だんだん厭わしくなっていた。貰った人未亡人は娘を睨み、黒いシ第ールの下で肩をゆすぶつ ら」 けんお にら
ですよ」 こから本郷の小学校に通ったのです」 「あれが英国式なのよ、たぶん」真知子はそれでかたづけ 「誠之ですの」 ようとして、「十五分間ですぐきちんと帰るところなんか、 「そう、誠之です。あなたも」 いかにも訪問のための訪問ってふうだわ」 「私も誠之」 「英国式にしろ何にしろ、あの人なら、自慢になるから」 古い小学校に対する共通の思い出が、その後の会話に一 ふじたな 種子供らしいくつろぎを与えた。彼らは校庭の古い藤棚多喜子さんはしあわせな娘だとうらやましがった末、未 や、その下の砂場や、三本の桜の木や、また特色のある年亡人は急に話を竹尾のことに転じた。財産だけはしかたが ないにしても、それを除けば竹尾だってたいしてひけは取 取った小使について話すことができた。 林町の角で別れようとして、河井はそれから真知子の家らないはずだと信じたらしかった。で、同じくらいな年配 ふうさい はどう行くかを尋ね、教授との用談には手間は取らないのか、背はどちらが高いか、また似たような風采かどうかと いうような質問が細かに発せられた。真知子は相手になら で、ついでで非常に失礼であるけれども帰りに寄ることを あいさっ 許してもらえるなら未亡人に逢って挨拶をして行きたいとないつもりでいた。が、その間に彼女の半面のふざけ好き いった。真知子は母もよろこんでお目にかかるだろうと答な気持ちがふと頭をもたげたので、竹尾は彼よりも若く見 えた。で、二人は別れた。 えるし、脊も高いし、風だってもっときれいなくらいだ 娘の知らせによって未亡人が茶菓子の用意をしたり、座といった。 敷の床のすがれた花を買って来たのに活け換えたりして待「この間はそんなことはちっともいわなかったくせに」母 っていたところへ、河井は訪ねて来た。親子を相手に十分は満足らしく、同時に真知子の変に笑っている顔を疑り深 ていちょう ほど簡単な、しかし鄭重な物腰で話し、もし折があって自く眺めながら、「それでどこがいったい不足なんです、あ 子分のほうにも彼らを迎えることができるならしあわせだ、 んたには」 知という意味を述べて帰った。 「じゃ、りつばすぎるのよ、私には」 オしか、おうようで、品があっ 「なんですって」 真「なかなかりつばな方じゃよ、 て」あとで未亡人はしきりにその噂をした。「それにロン「多喜子さんみたいな、華族のお嬢さんでも貰ってあげた ドンで兄さんと懇意にしたといって、わざわざ挨拶に寄っほうがいいのだわ」 てくれるなんて、今時の若い人にはちょっとできないこと「真知子」