しいえ、それだけは誤解よ、真知子さん。今日の話は河「なんですって、真知子、もう一遍いってごらん」 井さんのお母様の一存に出たことで、河井さんにはないし百遍でもいってやれた。真知子は我慢した。すでに額の 筋も青く張り、涙声で鼻を詰まらせている母をそれ以上ヒ よらしいの」 なおわけがわからなくなった。真知子の無言の質問に対ステリにしないために。同時にまた、母娘の正面衝突を内 心おもしろがらないではなく見ている嫂に対して。が、 し、嫂は聞いただけを伝えた。 むすこ 河井の母は、息子の対象が自分のひそかに期待していた子は義母の味方としての立ち場を捨てないで、真知子に慎 ものよりは意外な相手にあったことを、母らしい愛と敏感重な考慮を促した。 「お母様もあれほど残念がっていらっしやるんだし、誰だ で見出だした。結局、母もまた息子の択んだものをよろこ って今度の話だけは惜しいんですから、もう少し考えてみ んで択ぼうとした。ところが最近彼はすっかり失望しきっ ている。理由は母にも話そうとしない、もし真知子に彼らることになすったら」 の知らない婚約でもあったのであろうか。この憂慮が母を「本人に直接断わっといて、そのお母様から話があったか 迫き立てた。で、田口夫人によってそれを確かめるとともら考え直すなんて、そんな変なことをお嫂様にだっておで きになる」 に、内々の申込みを依頼した。 「でも田口の母としては、なんとかあなたの返事を持って 「あのお母様が昨日、それも夜になって目白へいらしたの だって。母なんか驚いてたのよ、真知子さんはなんてしあ行かなきゃならないわけよ。まさか、御本人にお断わりを いたしてあるそうでございますって、いわれもしないでし わせな方だろうって、ねえ、お母様」 よう」 、え、このひとはどんなしあわせが来ようとみんなこ ・こうじよう にが うして取り遁すのですよ。強情のわからず屋ですから」二「そういっていただくのがいっとう簡単ですわ」 この言葉が母の興奮を沸騰点にした。これも少し怒った 子度と近づこうとは思われない幸運であるだけ、未亡人は娘 知の無思慮があきらめかねるらしかった。「だいち、そんな嫂の無言の協力で、いつもこういう場面の最後に繰り返さ じんもん 真大事な話を自分でか 0 てに断わっちまうなんて、そんな出れる訊問が始ま 0 た。これほどの相手の何が不足なのか、 どこが気に入らないのか。「その年になって、あんたもた すぎたことを平気にしてーー」 「だってお母様、私だけのそれは問題で、ほかの人には関だだの、結婚したくないのっていうんじゃないだろうか 係のないことじゃない」 ら、ちゃんと筋道の立った理由をいってごらん。田口の叔 えら おやこ ひたい
140 むしば かり違えば、生そのものを蝕むべき男というものに、求めた。その結果二人の間には第三者から想像もでぎないよう ずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。 な反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘 肉慾のを鳴らして集まって来る男たちに対して、 ( そのお蔭で曲折の面白さと醜さとを加えた。しかしなんと言 う言う男たちが集まって来るのは本当は葉子自身がふり撒っても母は母だった。正面からは葉子のする事為す事に批 てん く香のためだとは気付いていて ) 葉子は冷笑しながら蜘蛛点を打ちながらも、心の底で一番よく葉子を理解してくれ たに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななっか のように網を張った。近づくものは一人残らずその美しい よっであみ 四手網にからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になしみを覚えるのだった。 ようりよく じよろうぐも 母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じ っていた。ただあの妖力ある女郎蜘蛛のように、生きてい たい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてた。そして始終張りつめた心持ちと、失望から湧き出る快 それに近づきもし得ないで罵り騒ぐ人たちを、自分の生活活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に どこ とは関係のない木か石ででもあるように冷然と尻目にかけ歓楽を求めて歩いたが、何処からともなく不意に襲って来 る不安は葉子を底知れぬ悒鬱の沼に落とした。自分は荒 ながぎ 葉子は本当を言うと、必要に従うという外に何をすれば磯に一本流れよった流木ではない。しかしその流木よりも いいのかわからなかった。 自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯葉ではな さび い。しかしその枯葉より自分はうら淋しい。こんな生活よ 葉子に取っては、葉子の心持ちを少しも理解していない 社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の眼から見り外にする生活はないのかしらん。一体どこに自分の生活 どんよくせんみん た親類という一群れはただ貪慾な賤民としか思えなかつをじっと見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はし た。父は憐れむべく影の薄い一人の男性に過ぎなかった。 みじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はい 、、。それだ 母はーー母は一番葉子の身近にいたと言ってしし つでも失敗だった。葉子はこうした淋しさに促されて、乳 きゅうてき け葉子は母と両立し得ない仇敵のような感じを持った。母母の家を尋ねたり、突然大塚の内田に遇いに行ったりして ひとしお むな は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、 見るが、そこを出て来る時にはただ一入の心の空しさが それを取り扱う術は知らなかった。葉子の性格が母の備え残るばかりだった。葉子は思い余ってまた淫らな満足を求 た型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以めるために男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉 きようまん 上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかっ子の眼の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は驕慢な女王のよ こ 0 ののし か しりめ
の話なんかあんまりしないでちょうだいね」 母は羽織の紐を結んでいた手をとめ、眼の隅で娘をふり 返った。 「なんだってそんなこというんです」 「自分のことひとの家で問題にされるのは、だって厭で しよう」 オしか、問題にならないような娘なら、いくら 「結構じゃよ、 頼んだって問題にしてくれやしないんだから」 「頼むなんて。 じゃ、なにを頼むの。厭なことだわ。 誰がそんな。ーーー見つともないからよしてちょうだい。恥 じゃありませんか」 わなわなする怒りで、真知子は納戸の板戸のうしろに、 結婚問題について、母がこのごろ急にあせり出したの突っ立ったまま、母を睨んだ。娘のこの興奮は、未亡人が みのが を、真知子は見遁さなかった。 一度はまじめに話し合わなければならないと考えていたこ 父の死後、ことにふたりの姉たちがかたづいてからは、 とに、ちょうど機会を与えた。 未亡人らしく小石川の古い家に引っ込んでいた母が、口実「ちょっとお坐りなさい」この言葉で、そこだけ板敷きに をつくっては彼女をひとなかへ連れ出そうとしたり、自分なって、薄べりの敷かれた、かたい床に、未亡人は自分で たす でも気軽くつきあい先を訪ねたりするのは、そのためであ先にびったり坐った。「母さんがこうして気をもんでるの 子った。専門学校を出て、なお大学の講義まで聴いている、を、なにかよけいなおせつかいでもしてるようにあんたは ふたっき 知才能のある、独立の考えを持った、美しい娘にとっては、 思ってるんですか。考えてごらん。あと二月たてば幾つに 忍ぶことのできないそれは屈辱であった。 なるのだか」 真 おびや ある日。 しかし七十日たらずの後に二十四になることが、母を脅 四「ねえ、お母様」外出のしたくをしている母に対し、真知かしているほど娘を脅かしてはいなかった。 ふきげん 子はわざと隠さない不機嫌でぶつつかった。「よそで、私「年のことなんかよくってよ、幾つだって、そんなものに 真知子 にら なんど
べものを考えるように私が結婚を考えるとしても、決してわ」 あなた方の階級に相手を求めようとは思わないってことだ 河井は、なにかの偏見を彼の母に対して彼女は持ってい けは」 るらしい、自分はとにかくとして、母が彼女に誤解される かげ 河井は蔭になった方の額を手でおおい、肱を椅子のもたのは今の彼には最もつらいことだといった。 「誤解なんて、そんな」真知子は反射的に取り戻したまじ せから離さなかった。そのままの姿勢で、真知子を見ない めさで、言葉がもらした以上の感情を浮かべた、彼の半分 で彼は訊いた。 「複数の意味においてそれはおっしやるんですか、また私明るく半分暗い顔を見まもった。「あなたのりつばな点を 知っていると同じに、お母様のよいところも私にはわかっ という特定の単数をお指しになるのですか」 「どちらでも同じ。でもはっきりさせるために、単数にしているつもりですわ。お逢いするまで考えていたより、ず いってしまって急いで訂正っと気持ちのよい方だともってるくらいですもの」 てもよろしいわ、 「それだけの好意が持っていただけるならーー , 一 した。「やつばし複数」 、え、それとお母様ゃあなたの住まっていらっしやる 「あなたは単数ではないのですもの。あなたと結婚するの世界が、あの環境や生活が私に縁がないのとは別ですわ」 は、あなたのお母様と結婚することなのですもの。想像も「私のことはどうにでもなるわけですが、しかし母のああ こんちゅう あれはなにかの昆虫が、その いうふうな暮らし方は、 できませんわ」 「あなたに対する母の深い敬意を知っていただけたら、た特殊な習性で生きているようなものです。母自身の責任で もなければ、ぜいたくでもない、ただ最も自然なのだと考 ぶんそういうふうにばかりはおっしやらないだろうと思い ます」他の場合で、他の相手であったなら、怒りとして表えてみてくださらないでしようか。実際また人が性情や好 わされたかもしれないくらい重圧な感情を見せ、河井はい みで、それそれ気に入った暮らし方をするのは一つの自由 った。「母はずいぶんあなたを好きになっています。もっ なのですから」 とお親しくなることを望んでいるのです」 「そんな自由を、この世の中の人がおっしやるようにみん あんす 「もっとよく研究するためにーーー」真知子はほてった杏子 . な持ってるとお思いになって」 いろはお なるべくそっとして置こうとしたものが、真知子の内側 色の頬で新鮮に笑った。「あなたが今夜のようなお話をな さくれつ ぼう娶ん さろうとする決心のついた順序が、はっきりわかりますに炸裂した。河井が茫然として、母に似た高貴な、もの静 びたい ひじ
362 しこ 0 「しかし能の持っている特徴は」河井は二人の会話をなめ 真知子は急いで窓際から退いた。瞬間の幻覚が、雑誌の つな 写真で見た、鉱山のストライキを取り扱った映画の一場面らかに繋ごうとするように、「若い、新しい鑑賞家によっ であったのがはっきりわかっていながら、今に同じものて、いっそうよく理解されるようになるでしようし、また が、土工の働いていた道から、前庭を横ぎり、不意に侵入そうなることによって、能が新しい生命を取り返すのだと 思いますね」 して来そうな危懼を捨てえなかった。 「理解はしても、鑑賞する余裕は、普通の人には今では持 「おひとりでいらっしゃいましたの」 てないのではないでしようか」 河井の母が、河井と連れ立って帰って来た。いわれたと「気持ちの意味でおっしやるのですか、それは」 おり、真知子はひとりで先に席に着いていた。舞台はまだ「物質的の意味からいっても、同じことですわ」 から 0 ぽであ 0 たが、楽屋の方では次の準備らしくが冴と、河井は識謔的に母の同意を求めつつい 0 た。一般の えた音を立てはじめた。 能の観覧料は、芝居の三等の場代より高くはないのだと。 しやっきよう 河井の母は、今度の「石橋』の獅子は真知子にも非常それはそうであるかもしれなかった。しかし芝居の三等席 ミリオネーアや、ないしその家族が におもしろいに相違ないと話しかけながら、東洋ふうのもには、公爵や伯爵や、 のうげな、静かなまなざしを彼女に据えた。「でも、真知うろついてはいないはずだ、と真知子は報いたかった。河 子さんは、お能のような古風なものは、あんまりお好きで井だけであったなら平気でいったであろう。が、一一人の話 をおもしろがるように、おおらかに微笑して聞いている彼 はいらっしやらないのでございましようね」 きら 彼女は困った。好き嫌いがいえるほど能を知らなかつの母のため、謹慎した。 た。好きにはなれないとしても、河井の母の言葉のように富美子と多喜子が、母と姉の先に立って、やっと帰って それが古風な芸術であるためではなか 0 た。で、彼女は答来た。舞台には紅白の出丹の花を飾 0 た、畳一枚ほどの、 どんすおお 緞子で覆われた台が運び出された。 えるかわり問し返した。 「どうしてでございますか」 「あなたのように新しい学問をなすった方には、のんきす て・こた コーヒー挽きは二円七十銭であった。真知子は紙包みの ぎて、手応えがないようにお思いになりますでしようと思
そがわ 五十川が親類中に賛成さして、晴れがましくも私をみんな かでお嫁入りもできまいといわれれば、私立派に木村の妻 の前に引き出しておいて、罪人にでも言うように宣告してになって御覧に入れます。その代わり木村が少しつらいだ しまったのです。私が一口でも言おうとすれば、五十川のけ。 ゆいごん 言うには母の遺言ですって。死人にロなし。ほんとに木村こんな事をあなたの前で言ってはさそ気を悪くなさるで おっしゃ はあなたが仰有ったような人間ね。仙台であんな事があっしようが、真直なあなただと思いますから、私もその気で たでしよう。あの時知事の奥さんはじめ母の方はなんとか何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。私の性質や境 しようが娘の方は保証ができないと仰有ったんですとさ」遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいる みなぎ 言い知らぬ侮蔑の色が葉子の顔に漲った。 私がこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮な 「ところが木村は自分の考えを押し通しもしないで、おめく仰有って下さい おめと新聞には母だけの名を出してあの広告をしたんですああいやだったこと。義一さん、私こんな事はおくびに の。 も出さずに今の今までしつかり胸にしまって我慢していた どう 母だけがいい人になれば誰だって私を : : : そうでしょのですけれども、今日は如何したんでしよう、なんだか遠 あげく う。その挙句に木村はしゃあしゃあと私を妻にしたいんでい旅にでも出たような淋しい気になってしまって : : : 」 ゅづる うつむ すって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。ま 弓弦を切って放したように言葉を消して葉子は俯向いて あね物の譬えがですわ。それとも言葉ではなんと言ってもしまった。日は何時の間にかとつぶりと暮れていた。じめ 無駄だから、実行的に私の潔白を立ててやろうとでも言うじめと降り続く秋雨に湿った夜風が細々と通って来て、湿 、、あお んでしようか」 気でたるんだ障子紙をそっと煽って通った。古藤は葉子の げつこう かんだか そう言って激昻しきった葉子は噛み捨てるように甲高く顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽 はほと笑った。 子などを眺め廻して、なんと返答をしていいのか、言うべ 「一体私はちょっとした事で好き嫌いのできる悪い質なんき事は腹にあるけれども言葉には現わせない風だった。部 ですからね。と言って私はあなたのような生一本でもあり屋は息気しいほどしんとなった。 ませんのよ。 葉子は自分の言葉から、その時の有様から、妙にやる瀬 母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地道ない淋しい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩 に暮らさなければ母の名誉を汚すことになる。妹だって裸でも抱きすくめて欲しいような頼りなさを感じた。そして たと ぶべっ たち じち まっすぐ さび たよ
: よくこれがあるんで困っしぐらに駈け下りて来て、危く親佐に打っ突かろうとし 「ぎゅっと錐ででももむように : ってしまうんですのよ」 てその側をすりぬけながら、何か意味の分からない事を早 まげ 古藤は静かに葉子の手を離して、大きな眼で深々と葉子口に言って走り去った。その島田髷や帯の乱れた後姿が、 ちょうろう をみつめた。 嘲弄の言葉のように眼を打っと、親佐は唇を噛みしめた 「医者を呼ばなくっても我慢ができますか」 が、足音だけはしとやかに階子段を上って、いつもに似ず 葉子は苦しげに徴笑んで見せた。 書斎の戸の前に立ち止まって、しわぶきを一つして、それ 「あなただったらきっとできないでしようよ。 : : : 慣れつから規則正しく間をおいて三度戸をノックした。 こですから堪えて見ますわ。その代わりあなた永田さん こういう事があってから五日とたたぬ中に、葉子の家庭 さっき もろ ・ : 永田さん、ね、郵船会社の支店長の : : : あすこに行っすなわち早月家は砂の上の塔のように脆くも崩れてしまっ て船の切符のことを相談して来ていただけないでしよう た。親佐は殊に冷静な底気味悪い態度で夫婦の別居を主張 にゆうわ おうし か。御迷惑ですわね。それでもそんな事まで御願いしちゃした。そして日頃の柔和に似ず、傷ついた牡牛のように元 かいふ・、 あ : : : 宜うござんす、私、車でそろそろ行きますから」 どおりの生活を恢復しようとひしめく良人や、中にはいっ 古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもていろいろ言いなそうとした親類たちの言葉を、きつばり くぎだな しりぞ こうまで我慢をするものだというような顔をして、もちろと却けてしまって、良人を釘店のだだっ広い住宅にたった ん自分が行って見ると言い張った。 一人残したまま、葉子ともに三人の娘を連れて、親佐は仙 ととの 実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調え台に立ち退いてしまった。木部の友人等が葉子の不人情を うむ かたがた、米国行きの船の切符を買うために古藤を連れてって、木部のとめるのも聴かずに、社会から葬ってしま ここに来たのだった。葉子はその頃すでに米国にいるあるえとひしめいているのを葉子は聞き知っていたから、普段 いいなすけ 女若い学士と許嫁の間柄にな 0 ていた。新橋で車夫が若奥様ならば一も二もなく父を 0 て母に楯をつくべぎ所を、素 うず と呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわ直に母のするとおりになって、葉子は母と共に仙台に埋も る たっていたからのことだった。 れに行った。母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の それは葉子が私生子を設けてからしばらく後の事だつ出た事を、できるだけ世間に知られまいとした。女子教育 くんとう た。ある冬の夜、葉子の母の親佐が何かの用でその良人のとか、家庭の薫陶とかいう事を折あるごとにロにしていた 書斎に行こうと階子段を昇りかけると、上から小間使がま親佐は、その言葉に対して虚偽という利子を払わねばなら こら はしごだん おやさ くちびるか
360 たところで、いかなるものでございましよう」倉子はよい て食堂から、一種の休憩室に役立って続いている廊下へ出 裁決者として河井の母を択んだ。「出来上がりは、違ったた時、実証された。 ものになりはいたさないかと存じますが」 写真で誰にも見覚えのある、また誰でも、旧日本におい 「新しいお装東が、いくらお金をかけても古いもののようては彼の家が主権者であったことを知っているー公爵 にまいらないと、同じわけなんでございましようね」 は、彼女の近づいたのをみると、よりかかっていた窓を離 「おっしやるとおりかと存じます」 れ、自分から進み寄った。彼は周囲の目下に示したいくら くろうと かわざとらしい気やすさとは別な、真の仲間のように話し しかし裁決者は公平なかっ玄人らしい見地から、彼らは ひながた かけた。河井の母はまた非常に礼儀深くはあったが、同時 困難な雛型を取りすぎたのだといった。 「『熊野』の着ていた唐織りなんそは、ことに当節ではまに自然な自信をもって彼の敬意を受け入れた。老女らし しに、あのく、黄白く疲れた、それでまだ十分美しい顔と、後ろに寄 ねがいたしにくうございましようから。いっこ、 むすこ そろ お流儀ではお装束でもお面でも、結構なお品が揃っていまり添うた息子に二寸とは違わないくらいの高い、彼女の黒 すのでございますね。家元も一番古いのではございますい紋服の威厳のある姿は、五分刈りの、顔の大きな、慨 いただ はそれに釣り合ってはいるが、身丈が短いので、胴だけの が、震災後にー侯爵家のものをすっかり頂いたのだそう 人間のごとく見える公爵をむしろ圧していた。 でして」 あき 「そう申せば、ー侯爵も今日は皆様でお見えのようでご真知子のとなりにいて真知子を呆れさせたー伯爵は小 ざいますね」 さい振袖の娘たちと鬼ごっこをしながら、人ごみの廊下を 「お流儀の出しものがありますと、どんな会へでも、よく駈け廻っていた。彼は追っかけて行く途中で河井の母にぶ ねえ」 っ突かりそうになり、大きな口を開けて笑い、その笑いに 負けない高い声で当日の盛会を祝した。河井の母の対し方 「よっ・ほど熱心でいらっしやるとお見えになります」 柘植夫人が河井の母を相手にはじめた侯爵の話は、同じも、公爵よりは手軽であった。彼女は、どこかの妓の会に えんきよくとが 第ノか・ん く今日の能を見に来ている他の貴族や金持ちの名前を引き来るはずの彼が来なかったのを婉曲に咎めた。彼は幇間の 出した。彼らはそのあるものを、またはその家族を、めい ように扇子でーー・・席から乗り出して前の男の肩を突っつい ひたいたた めい親しい知人としてすることができた。とりわけ、河たあの扇子で、くり込みの深い額を叩いた。 井の母がそれらの階級に占めている卓越した地位は、やが彼は柘植夫人にも田口夫人にも同じ調子で話し、同じ笑 うわさ えら ふりそで
んか見どころも聴きどころもわからないで、ただ舞台を眺じい接触に対し、彼がどんな態度を示すかは好奇心なしで めてるだけでございますから」 はなかった。しかし彼は、その間富美子に話しかけられて 「能はかえってそのほうがおもしろいのです。僕はいつも いた。彼女は、能がいかに高尚な芸術にしろ、痺れで人を その流で見ているのです」 悩ます間は、若いものに好かれるはずはないという意見で けいこ 「自分で、なにかお稽古いたすのがめんどうくさいもので彼を笑わせた。つづいて話が鼓からもっと共通的に力あ ございますからね」そのためこういう説を主張するらしる装束に移った。多喜子の特殊権は失われた。 、と母は楽しげな揶揄でそれをいった息子を笑い、それ堯子は、母より妹より着道楽であったから、その転換で から彼と並んでいた多喜子に話しかけた。「『熊野』の中の不参の夫をうらやんでいたのをやめた。彼女は『熊野』の 舞、おわかりになりまして」 唐織りの模様を取って丸帯を織らせたいといい出した。 はつ。きり 「なんですか、ところどころ判然いたしませんの」 「二本からですと、西陣で注文どおりに織ってくれますよ 多喜子は彼女の表わしうる一番かわいらしい笑顔で答えうでございますわ」 こ 0 「みごとなおみおびがおできになりましようね」 「大倉でございますからね。でもよく鳴りましたでしょ 「でも、色かなんか変えなければ、お姉さまにははですぎて う、ーの鼓」 よ」富美子は柘植夫人のあとから遠慮のない批評をし、も 「あんなに打てたらとおもいますわ」 しあのまま利用するなら自分たちにちょうど頃合いだとい ちゅうもん 「一年や二年のお稽古で、そんな大望をいだくなんて」柘った。「いかが、多喜子さん、姉が西陣へ註文する時、私 植夫人は、青い筋の立った手の甲を口に当て、河井の母がたちもお対にお織らせにならない」 河井を揶揄したと同じ調子で娘を咎めた。多喜子が囃子の多喜子もよろこんで賛成したにかかわらず、豪華な帯の とんざ 子知識を持ち、一人だけ河井の母とそんな話のできるのがな頒布組合は頓挫しかけた。模様だけ取っても能装束の持 知により満足なのであった。 っ古雅な色彩は容易に出しえないだろう、と田口夫人は あね 真真知子は嫂のとなりで、早く食べてしまって手持ちぶさ疑った。彼女の邪魔立てには、娘たちに対してさえ失わ たにならないように、二切れの菓子を非常に倹約して口にせない、無意識な、それだけ本能的な競争心が潜んでい 運び込みながら、堯子に聞かされた、河井の婚約の行き悩た。 みのことを思い出していた。そのため母と多喜子との睦ま「あの大事な古びが出なければ、わざわざ織らせてみまし むすこ むつ はんぶ しび ひそ
312 で包んで渡す。 をよろこばすため、または受け取った家を調法させるため 「ばかばかしくて本気につとめられやしませんわ」 に選ばれたものは、正直にいって決してひと品もなかっ そういうかわりにちょうど機械人間の発声のように空虚た。七円を十円に、四円を五円に、その見せかけがなによ に叫ぶ。 りたいせつであった。 「ありがとうございます」 未亡人に限らず、そこに奮闘している大部分の客の目的 と努力は、みんなそれであるらしかった。が、そのために 「これ子さんにどうだろう」 真知子は嫌悪を割引きしようとは思わなかった。みんなの 母はえんじ色に小桜をつぶし縫いにした一筋を取り上げしている醜さを自分の最も親しいものがいっしょに平気で こ 0 しているのが我慢できない気がした。 はんえり 「いい半襟だわ」 「来年から、省けるところは省くといいのね」 たんもの 「でも、これだけ出すんならいっそ反物にしようかしら」 「そんなわけには行かないよ。しきたりってものがあるか 「どちらだって同じよ、早くきめたほうがいいわ」 「そんな無精をいい 出せば、買い物はできやしないよ」 「そのしきたりをよすのよ」 母は半襟を置き、今度はとなりの襦襷の袖をしはじめ「それがロでいうように、無造作によされるものかどうか る。半ダスのハンカチを買うのも、これらの移動を二、三考えてごらん」 遍くり返さないではすまなかった。そうしてたまらない雑「なんでもないわ。お母様がよけいな見えを捨てる気にさ 沓だの、気分がわるくなりそうだのといいながら、未亡人えなれば」 おくめん 二人は赤く灯のついた、ガス・ストー・フの陳列場を、向 はほかの場合よりずっと精力的で、周囲に負けない臆面な こうの洋家具部の方へ抜けようとしていた。そこにはめず さで、どこにでも割り込み、なににでも手を出した。 じゅう かたわら 真知子はあとではただ母の傍についておされるのを防らしく人があまりいなかった。それに床から積み立てた絨 しやだん いだり、足を踏まれないように気をつけたりするだけで、毯が、厚い壁になって一方を遮断していたので、籠った、 しんぼう なにか相談されても いいかげんに答えた。疲れてうるさく自分たちだけのような感じが、家まで辛抱しきれないで真 なったせいもあるが、それより母の選択を支配している明知子にそれをいわせた。 白な醜い意図が、だんだん厭わしくなっていた。貰った人未亡人は娘を睨み、黒いシ第ールの下で肩をゆすぶつ ら」 けんお にら