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検索対象: 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集
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1. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

きれい 女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわ綺麗に掃除をさせた。そして古藤を正座に据えて小ざっぱ さけす ざふとん ず、番頭と眼を見合わせて、蔑んだらしい笑いを漏らしてりした座布団に坐ると、につこり徴笑みながら、 案内に立った。 「これなら半日くらい我慢がでぎましよう」 ぎしぎしと板ぎしみのする真黒な狭い階子段を上って、 と言った。 西に突き当たった六畳ほどの狭い部屋に案内して、突っ立「健はどんな所でも平気なんですがね」 ったままで荒つぼく二人を不思議そうに女中は見比べるの古藤はこう答えて、葉子の徴笑を追いながら安心したら えりもと だった。油じみた襟元を思い出させるような、西に出窓のしく、 うすぎたな ある薄汚い部屋の中を女中をひっくるめて睨み廻しながら「気分はもうなおりましたね」 古藤は、 と付け加えた。 どこ そと 「ええ」 「外部よりひどい : : : 何処かよそにしましようか」 と葉子を見返った。葉子はそれには耳も仮さずに、思慮 と葉子は何げなく微笑を続けようとしたが、その瞬間に きじよ 深い貴女のような物腰で女中の方に向いて言った。 っと思い返して眉をひそめた。葉子には仮病を続ける必要 となり 「隣室も明いていますか : : : そう。夜までは何処も明いてがあったのをつい忘れようとしたのだった。それで、 どうを・ いる : : : そう。お前さんがここの世話をしておいで ? 「ですけれどまだこんななんですの。こら動悸が」 * ふうつ ) びとえもの なら余の部屋も序に見せておもらいしましようかしらん」 と言いながら、地味な風通の単衣物の中にかくれた華や けいべっ じゅばんそで 女中はもう葉子には軽蔑の色は見せなかった。そして心 かな襦袢の袖をひらめかして、右手をカなげに前に出し あし ふすま おぼ 得顔に次の部屋との間の襖を開ける間に、葉子は手早く大た。そしてそれと同時に呼吸をぐっとつめて、心臓と覚し きな銀貨を紙に包んで、 いあたりに烈しく力をこめた。古藤はすき通るように白い みやくどころ 「少し加減が悪いし、またいろいろお世話になるだろうか手頸をしばらく撫で廻していたが、脈所に探りあてると急 ら」 に驚いて眼を見張った。 と言いながら、それを女中に渡した。そしてずっと並ん「どうしたんです、え、ひどく不規則じゃありませんか だ五つの部屋を一つ一つ見て廻って、掛軸、花瓶、団扇さ ・ : 痛むのは頭ばかりですか」 こびようぶ なか し、小屏風、机というようなものを、自分の好みに任せて「、 しいえ、お腹も痛みはじめたんですの」 あてがわれた部屋のとすっかり取りかえて、隅から隅まで「どんな風に」 はしごだん かびんうちわ てくび ほえ はな

2. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

たけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちば。私はとにかく赤坂学院が一番だと何処までも思っとる も今申したとおり塾に入れてしまいますし、この後はこれだけです」 と言 0 てたいして御厄飛はかけないつもりでございます。 と言いながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじ 赤の他人の古藤さんにこんな事を願 0 てはほんとにすみままじと眺めた。葉子は貞世を抱いたまましゃんと胸をそら せんけれども、木村の親友でいらっしやるのですから、近して眼の前の壁の方に顔を向けていた。たとえばばらばら い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏籖を背負い込んだと投げられるつぶてを避けようともせずに突っ立つ人のよ 、り . ア」 0 と思召して、どうか二人を見てやって下さいましな。いい でしよう。こう親類の前ではっきり申しておぎますから、 古藤は何か自分一人で ~ 0 点したと思うと、堅く腕組みを ちっとも御遠慮なさらずに、 いいとお思いになったようにしてこれも自分の前の眼八分の所をじっと見詰めた。 なさって下さいまし。あちらへ着いたら私またきっとどう 一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間で そう」う とも致しますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけま一番早く機嫌を直して相好を変えたのは五十川女史だっ せんから。いかが、引ぎ受けて下さいまして ? 」 た。子供を相手にして腹を立てた、それを年甲斐ないとで じたく 古藤は少し躊躇する風で五十川女史を見やりながら、 も思ったように、気を変えてきさくに立ち支度をしなが うかが 「あなたは先刻赤坂学院の方がいいと仰有るように伺ってら、 、とま いますが、葉子さんの言われるとおりにして差支えないの「皆さんいかが、もうお暇に致しましたら : : : お別れする ですか。念のために伺っておきたいのですが」 前にもう一度お祈りをして」 と尋ねた。葉子はまたあんな余計な事を言うと思いなが「お祈りを私のようなもののためになさって下さるのは御 らいらいらした。五十川女史は日頃の円滑な人ずれのした無用に願います」 女調子に似ず、何かにひどく蜥した様子で、 葉子は穉らぎかけた人々の気分には更に頓着なく、壁に 「私は亡くなった親佐さんのお考えはこうもあろうかと思向けていた眼を貞世に落として、いつの間にか寝入ったそ る つやつや った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いと仰の人の艷々した顔を撫でさすりながらきつばりと言い放っ 有るなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さた。 んは堅い昔風な信仰を持った方ですから、田島さんの塾は人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞 よろ 前から嫌いでね : : : 宜しゅうございましよう、そうなされ世がいつの間にか膝の上に寝てしまったのを口実にして人 さしつか

3. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

を恐る恐る伝って行くと、果てしもなく現われ出る人の顔び寄せてやる。あ、定子のことなら木村は承知の上だった きものすそなが まばゅ の一番奥に、赤い衣物を裾長に着て、眩いほどに輝ぎ渡っのに。それにしても木村が赤い衣物などを着ているのはあ た男の姿が見え出した。葉子の心の周囲にそれまで響いてんまりおかしい : : : 」ふと葉子はもう一度赤い衣物の男を いた音楽は、その瞬間ばったり静まってしまって、耳の底見た。事務長の顔が赤い衣物の上に似合わしく乗ってい じゃくまく がかーんとするほど空恐ろしい寂寞の中に、船の舳の方でた。葉子はぎよっとした。そしてその顔をもっとはっきり 氷をたたき破るような寒い時の音が聞こえた。「カンカ見詰めたいために重い重い臉を強いて押し開く努力をし ン、カンカン、カーン」 。葉子は何時の鐘だと考えてた。 こげちゃいろ 見ることもしないで、そこに現われた男の顔を見分けよう見ると葉子の前にはまさしく、角燈を持って焦茶色のマ としたが、木村に似た容貌がお・ほろに浮かんで来るだけで、 ントを着た事務長が立っていた。そして、 どう見直して見てもはっきりした事はもどかしいほどわか「どうなさったんだ今頃こんな所に、 : 今夜はどうかし らなかった。木村であるはずはないんだがと葉子はいらい ている : : : 岡さん、あなたの仲間がもう一人ここにいます おっと らしながら思った。「木村は私の良人ではないか。その木よ」 村が赤い衣物を着ているという法があるものか。 ・ : 可哀と言いながら事務長は魂を得たように動き始めて、後ろ ひとめ そうに、木村はサン・フランシスコから今頃はシャトルのの方を振り返った。事務長の後ろには、食堂で葉子と一目 こうふん 方に来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っているだろ顔を見合わすと、震えんばかりに昻奮して顔を得上げない うに、私はこんな事をしてここで赤い衣物を着た男なんそでいた上品な彼の青年が、真青な顔をして物に怯じたよう を見詰めている。千秋の思いで待っ ? それはそうだろに慎ましく立っていた。 う。けれども私が木村の妻になってしまったが最後、千秋眼はまざまざと開いていたけれども葉子はまだ夢心地だ 女の思いで私を待ったりした木村がどんな良人に変わるかはった。事務長のいるのに気付いた瞬間からまた聞こえ出し はとう る知れきっている。憎いのは男だ : : : 木村でも倉地でも : ・ た波濤の音は、前のように音楽的な所は少しもなく、ただ ものくるお 或また事務長なんそを思い出している。そうだ、米国に着い物狂しい騒音となって船に迫っていた。しかし葉子は今の たらもう少し落ち着いて考えた生き方をしよう。木村だっ境界が本当に現実の境界なのか、先刻不思議な音楽的な錯 あっち て打てば響くくらいはする男だ。 : : : 彼地に行ってまとま覚にひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分なが った金ができたら、なんと言ってもかまわない、定子を呼ら少しも見界がっかないくらいぼんやりしていた。そして へさき みさかい まっさお

4. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまの方に階子段を降りて行こうとした。 ま軽くうなずいた。 「どこにお出でです」 船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与後ろから、葉子の頭から爪先までを小さなものででもあ えるほどに速力を早めて走り出した。葉子は船員から眼をるように、 一目に籠めて見やりながら、その船員はこう尋 移して海の方を見渡して見たが、自分の側に一人の男が立ねた。葉子は、 っているという、強い意識から起こって来る不安はどうし「船室まで参りますの」 もくろみ ても消すことができなかった。葉子にしてはそれは不思議と答えない訳には行かなかった。その声は葉子の目論見 な経験だった。こっちから何か物を言いかけて、この苦しに反し , て恐ろしくしとやかな響ぎを立てていた。するとそ おおまた い圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何の男は大股で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、 ひとりたび か物を言ったらきっとひどい不自然な物の言い方になるに「船室ならば永田さんからのお話もありましたし、お独旅 むとんちゃく そば 決まっている。そうかと言ってその船員には無頓着にもうのようでしたから、医務室の傍に移しておきました。御覧 になった前の部屋より少し窮屈かもしれませんが、何かに 一度前のような幻想に身を任せようとしても駄目だった。 神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼ 1 っと煙った霧雨の御便利ですよ。御案内しましよう」 彼方さえ見透せそうに眼がはっきりして、さきほどのおっ と言いながら葉子をすり抜けて先に立った。何か醇な シガ あんしゅう かぶさるような暗愁は、いつの間にかはかない出来心の仕酒のしみと葉巻煙草との匂いが、この男固有の膚の匂いで 業としか考えられなかった。その船員は若無んに衣嚢のでもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしん 中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックどしんと狭い階子段を踏みしめながら降りて行くその男の しながら、時々思い出したように顔を引いて眉を顰めなが太いから広い肩のあたりをじ 0 と見やりながらその後に えり おやゅびつめ 女ら、襟の折り返しについた汚点を、拇指の爪でごしごしと続いた。 、、、なら る削っては弾いていた。 二十四五脚の椅子が食卓に背を向けてずらっと列べてあ 或葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しる食堂の中ほどから、横丁のような暗い廊下をちょっとは いると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈な真鍮の札がか く働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく 0 大股ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船かっていて、その向かいの左の戸には「 N 。 . 一 2 早月葉子 員から遠ざかろうとして、つと手欄から離れて自分の船室殿」と白墨で書いた漆りの札が下が 0 ていた。船員はっ かなた おおまた しみ し はしどだん にお

5. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

とたたみかけた。 つけた。古藤の眼は何かにしているように輝いてい こ 0 「それはお薬にこれを少しいただいたからでしようよ」 シャンべン と三鞭酒を指した。 「僕は飲みません」 正面からはね返された古藤は黙ってしまった。しかし葉 「おや何故」 子も勢いに乗って追い迫るような事はしなかった。矢頃を 「飲みたくないから飲まないんです」 かど したて この角ばった返答は男を手もなくあやし慣れている葉子計ってから語気をかえてずっと下手になって、 「妙にお思いになったでしようね。悪うございましたね。 にも意外だった。それでその後の言葉を如何継ごうかと、 ためら ちょっと躊って古藤の顔を見やっていると、古藤はたたみこんな所に来ていて、お酒なんか飲むのは本当に悪いと思 かけて口をぎった。 ったんですけれども、気分がふさいで来ると、私にはこれ さっき 「永田ってのはあれはあなたの知人ですか。思い切って尊より外にお薬はないんですもの。先刻のように苦しくなっ 大な人間ですね。君のような人間から金を受け取る理由はて来ると私はいつでも湯を紲めにして浴 0 てから、お酒を ないが、とにかくあずかっておいて、いずれ直接あなたに飲み過ぎるくらい飲んで寝るんですの。そうすると」 と言って、ちょっと言いよどんで見せて、 手紙で言ってあげるから、早く帰れって言うんです、頭か ら。失敬な奴だ」 「十分か二十分ぐっすり寝入るんですのよ : : : 痛みも何も 葉子はこの言葉に乗じて気まずい心持ちを変えようと思忘れてしまっていい心持ちに : それから急に頭がかっ まっしぐら った。そして驀地に何か言いだそうとすると、古藤はおっと痛んで来ますの。そしてそれと一緒に気が減刄り出し かぶせるように言葉を続けて、 て、もうもう如何していいかわからなくなって、子供のよ 「あなたは一体まだ腹が痛むんですか」 うに泣きつづけると、その中にまた眠たくなって一寝入り ときつばり言って堅く坐り直した。しかしその時に葉子しますのよ。そうするとその後はいくらかさつばりするん の陣立てはすでにでき上がっていた。初めの微笑みをそのです。 : : : 父や母が死んでしまってから、頼みもしないの ひとちから ままに、 に親類たちから余計な世話をやかれたり、他人力なんぞを 「ええ、少しはよくなりましてよ」 的にせずに妹二人を育てて行かなければならないと思った たんべいきゅう ひとさま と言った。古藤は短兵急に、 りすると、私のような、他人様と違って風変わりな、 「それにしてもなかなか元気ですね」 そら、五本の骨でしよう」 どうつ どう やごろ

6. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

いかと思案していた。 かられて、顔を伝 0 て幾筋となく流れ落ちた。葉子は、 その涙の一雫が気まぐれにも、俯向いた男の鼻の先に宿 0 「今始めて事務長から聞いたんですが、あなたが病気だ 0 たと言ってましたが、一体どこが悪かったんです。さそ困 て、落ちそうで落ちないのを見やっていた。 ったでしようね。そんな事とはちっとも知らずに、今が今 「ずいぶんいろいろと苦労なすったろうと思って、気が気 まで、祝福された、輝くようなあなたを迎えられるとばか ではなかったんですけれども、私の方も御承知のとおりで しよう。今度こっちに来るにつけても、それは困って、あり思っていたんです。あなたは本当に試練の受けつづけと りったけのものを払ったりして、ようやく間に合わせたく言うもんですね。どこでした悪いのは」 葉子は、不用意にも女を捕えてじかづけに病気の種類を らいだったもんですから : : : 」 なお言おうとするのを木村はにわしく打ち消すように遮聞きただす男の心の粗雑さを忌みながら、当たらずさわら ず、前からあった胄病が、船の中で食物と気候との変わっ こう たために、だんだん嵩じて来て起きられなくなったよう 「それは十分わかっています」 つくろ しずく、、、 と顔を上げた拍子に涙の雫がぼたりと鼻の先からズボンに言い繕った。木村は痛ましそうに眉を寄せながら聞いて の上に落ちたのを見た。葉子は、泣いたために妙に脹れぼ ったく赤くなって、てらてらと光る木村の鼻の先が急に気葉子はもうこんな程々な会話冫。 こま堪えきれなくなって来 になり出して、悪いとは知りながらも、ともするとそこへ た。木村の顔を見るにつけて思い出される仙台時代や、母 ばかり眼が行った。 の死というような事にもかなり悩まされるのをつらく思っ どう 木村は何から如何話し出していいかわからない様子だっ た。で、話の調子を変えるために強いていくらか快活を装 こ 0 「それはそうとこちらの事業はいかが」 女「私の電報をビクトリヤで受け取ったでしようね」 る などともてれ隠しのように言った。葉子は受け取った覚と仕事とか様子とか言う代わりに、わざと事業という言 葉をつかってこう尋ねた。 えもない癖にいい加減に、 或 木村の顔付は見る見る変わった。そして胸のポッケット 「ええ、ありがとうございました」 のぞ いっとき と答えておいた。そして一時も早くこんな尉気づまるよに覗かせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出し のが すべ うに圧迫して来る二人の間の心のもつれから逃れる術はなて、器用に片手でそれをふわりと丸めておいて、ちんと鼻

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144 の方に近づいて行った。それを事務長もどうすることもでいうような少ししゃあしゃあした無邪気な顔付で、首をか ぎなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげて後れしげながら夫人を見守った。 こわくてき椴え 毛をかき上げながら顔中を蠱惑的な微笑みにして挨拶し「航海中はとにかく私葉子さんのお世話をお頼まれ申して にお た。田川博士の頬には逸早くそれに応ずる物やさしい表情いるんですからね」 始めはしとやかに落ち付いて言うつもりらしかったが、 が浮か・ほうとしていた。 それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人は 「あなたはずいぶんな乱暴をなさる方ですのね」 いきなり震えを帯びた冷やかな言葉が田川夫人から葉子仕舞いには激動から息気をさえはずましていた。その瞬間 ひとみ ようしゃ に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的に火のような夫人の瞳と、皮肉に落ち付き払った葉子の瞳 ばったり出っ喰わして小・せり合いをしたが、また同 な調子で震えていた。田川博士はこの咄嗟の気まずい場面とが、 つくろ を繕うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめよ時に蹴返すように離れて事務長の方に振り向けられた。 「御もっともです」 うとするらしか 0 たが、夫人の悪意はせき立 0 てるばか あぶ りだった。しかし夫人はロに出してはもうなんにも言わな事務長は虻に当惑した熊のような顔付で、柄にもない謹 っこ 0 慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情 女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなに返って、 んという事なく、事務長と自分との間に今朝起こったばか「私も事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任 りの出来事を、輪郭だけではあるとしても田川夫人が感付があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりです いているなと直覚した。ただ一言ではあったけれども、そが」 れは検疫官とトランプを弄った事を責めるだけにしては、 ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出し 激し過ぎ、悪意が罩められ過ぎていることを直覚した。今た。 の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。た あいきよう かが早月さんに一度か二度愛嬌を言うていただいて、それ 対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のように使われてい るのを直覚した。葉子の心の隅から隅までを、溜飲の下がで検疫の時間が一一時間から違うのですもの。いつでもここ こおど るような小気味よさが小躍りしつつ走せめぐった。葉子はで四時間の以上も無駄をせにゃならんのですて」 やつぎばや 田川夫人がますますせき込んで、矢継早にまくしかけよ 何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうと いちはや すみ とっさ おく あいさっ

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180 ぶん吟味したつもりでしたけれども、船に来てから見てい る中にすぐ倦きてしまいましたの。それに田川の奥さんの 洋服姿を見たら、我慢にも日本で買ったものをかぶったりその晩、事務長が仕事を終えてから葉子の部屋に来る と、葉子は何か気に障えた風をしてろくろくもてなしもし 着たりする気にはなれませんわ」 たな そう言ってる中に木村は棚から箱をおろして中を覗いてなかった。 影たカ 「とうとう形がついた。十九日の朝の十時だよ出航は」 「なるほど型はちっと古いようですね。だが品はこれなら と言う事務長の快活な言葉に返事もしなかった。男は怪 げん 訝な顔付で見やっている。 こっちでも上の部ですぜ」 「だからいやですわ。流行おくれとなると値段の張ったも「悪党」 のほど見つともないんですもの」 としばらくしてから、葉子は一言これだけ言って事務長 にら しばらくしてから、 を睨めた。 「なんだ ? 」 「でもあのお金はあなた御入用ですわね」 あわ 木村は慌てて弁解的に、 と尻上がりに言って事務長は笑っていた。 しいえ、あれはどの道あなたに上げるつもりでいたんで「あなた見たいな残酷な人間は私始めて見た。木村を御覧 すから : : : 」 なさい可哀そうに。あんなに手ひどくしなくったって : と言うのを葉子は耳にも入れない風で、 恐ろしい人ってあなたの事ね」 「ほんとに馬鹿ね私は : : : 思いやりもなんにもない事を申「何 ? 」 上げてしまって、どうしましようねえ。 ・ : もう私どんな とまた事務長は尻上がりに大きな声で言って寝床に近づ いて来た。 事があってもそのお金だけは頂きませんことよ。こう言っ たら誰がなんと言ったって駄目よ」 「知りません」 きざ ときつばり言いきってしまった。木村はもとより一度言 と葉子はなお怒って見せようとしたが、いかにも刻みの い出したら後へは引かない葉子の日頃の性分を知り抜いて荒い、単純な、他意のない男の顔を見ると、体のどこかが くちびるあたり いた。で、言わず語らずの中に、その金は品物にして持っ揺られる気がして来て、わざと引き締めて見せた唇の辺 ひそ て帰らすより外に道のない事を観念したらしかった。 から思わずも笑いの影が潜み出た。 かた

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いちはやた ち切れる前、自分の希望が逸早く断たれてしまわないとどに」 うつむ うして保障する事ができよう。木村は善人だ。自分は悪人木村は返事もせずに真青になって俯向いていた。 そこに「御免なさい」と言うかと思うと、いきなり戸を だ。葉子はいつの間にか純な感情に捕えられていた。 「木村さん。あなたはきっと、仕舞にはきっと祝福をお受開けてはいって来たものがあった。木村も葉子も不意を打 いかりづな けになります・ : : ・どんな事があ 0 ても失望なさっちゃいやたれて気先をくじかれながら、見ると、日そや錨綱で足 ですよ。あなたのような善い方が不幸にばかりお遇いになを怪我した時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はと のろ びつこ る訳がありませんわ。・ : ・ : 私は生まれるときから呪われたうとう跛脚になっていた。そして水夫のような仕事には迚 女なんですもの。神、本当は神様を信ずるより : : : 信ずるも役に立たないから、幸いオークランドに小農地を持って より憎む方が似合っているんです : : : ま、聞いて : : : でとにかく暮しを立てている甥を尋ねて厄介になる事になっ ひきよう も、私卑怯はいやだから信じます : : : 神様は私見たいなもたので、礼かたがた暇乞いに来たというのだった。葉子は のをどうなさるか、しつかり眼を明いて最後まで見ていま圧くなった眼を少し恥かしげにまたたかせながら、いろい ろと慰めた。 かを、よう と言っている中に誰にともなく口惜しさが胸一杯にこみ「何ねこう老いぼれちゃ、こんな稼業をやってるがてんで うそなれど、事務長さんとポンスン ( 水夫長 ) とが可哀そ 上げて来るのだった。 「あなたはそんな信仰はないと仰有るでしようけれどもうだと言って使ってくれるで、いい気になったが罰あたっ たんだね」 でも私にはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」 と言ってきつばり思い切ったように、火のように熱く眼と言って臆病に笑った。葉子がこの老人を憐れみいたわ わきめ に溜まったまま流れずにいる涙を、ハンケチでぎゅっと押る様は傍目もいじらしかった。日本には伝言を頼むような あんぜ し拭いながら、黯然と頭を垂れた木村に、 近親さえない身だというような事を聞くたびに、葉子は泣 「もうやめましようこんなお話。こんな事を言ってると、 き出しそうな顔をして合点合点していたが、仕舞には木村 言えば言うほど先が暗くなるばかりです。ほんとに思い切の止めるのも聞かず寝床から起き上がって、木村の持って か′」 って不仕合わせな人はこんな事をつべこべと口になんそ出来た果物をありったけ籃につめて、 しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分の方から滅入っ「陸に上がればいくらもあるんだろうけれども、これを持 てしまって、私の言った事くらいでなんですねえ、男の癖ってお出で。そしてその中に果物でなくはいっているもの おっしゃ みより いとまご まっさお とて

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132 けるものがいなかった。それから水夫等は誰言うとなしに ながらその手を取って引き寄せて、互いに小さな声で軽い あね・こあねご うわさ 葉子のことを「姉御姉御」と呼んで噂するようになった。親しい会話を取り交わし始めた。 その時の事を水夫長は葉子に感謝したのだ。 と、突然岡は大きな事でも思い出した様子で、葉子の手 葉子はしんみにいろいろと病人の事を水夫長に聞きただをふりほどきながら、 した。実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんな「倉地さんがね、今日あなたにぜひ願いたい用があるって 事は思い出しもしていなかったのだ。そして水夫長に思い言ってましたよ」 出させられて見ると、急にその老水夫の事が心配になり出と言った。葉子は、 したのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みは「そう : ・ : こ たいていなくなったと水夫長がいうと葉子は始めて安心し とごく軽く受けるつもりだったが、それが思わず息気苦 あしおと て、また陸の方に眼をやった。水夫長とポーイとの跫音はしいほどの調子になっているのに気がついた。 廊下の彼方に遠ざかって消えてしまった。葉子の足もとに 「なんでしよう、私になんそ用って」 ふなばた はただかすかなエンジンの音と波が舷を打っ音とが聞こ 「なんだか私ちっとも知りませんが、話をして御覧なさ えるばかりだった。 。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」 だま 葉子はまた自分一人の心に帰ろうとしてしばらくじっと「まだあなた瞞されていらっしやるのね。あんな高慢ちき むこう ・ : でも先方で会いたいと言うの 単調な陸地に眼をやっていた。その時突然岡が立派な西洋な乱暴な人嫌いですわ。 がいとう 絹の寝衣の上に厚い外套を着て葉子の方に近づいて来たのなら会ってあげてもいいから、ここにいらっしゃいって、 を、葉子は視角の一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉あなた今すぐいらしって呼んで来て下さいましな。会いた どう ひと 子が独りでいると、どこで如何してそれを知るのか、いっ いなら会いたいようにするが好うござんすわ」 の間にか岡がきっと身近に現われるのが常なので、葉子は葉子は実際激しい言葉になっていた。 待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい徴「まだ寝ていますよ」 笑を与えてやった。 「いいから構わないから起こしておやりになればよござん 「朝はまだずいぶん冷えますね」 すわ」 と言いながら、岡は少し人に忸れた少女のように顔を赤岡は自分に親しい人を親しい人に近づける機会が到来し くしながら葉子の佛に身を寄せた。葉子は黙ってほほ笑みたのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそと駈けて行った。 かなた