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検索対象: 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集
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1. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

わきま 真を見ると、かっと気がのぼせて前後の弁えもなく、それの時の倉地はもうふだんの倉地ではなくなっていた。今朝 を引ったくると共に両手にあらん限りの方を罩めて、人殺写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が しでもするような気負いでずたずたに引き裂いた。そして目ざめていた。怒った野獣に見る狂暴な、防ぎようのない あらし とお 揉みくたになった写真の屑を男の胸も透れと投げつける力が嵐のように男の五体をさいなむらしく、倉地はそのカ と、写真の中 0 たその所に噛みつきもしかねまじき狂乱のの下に呻きもがきながら、葉子に地みかか 0 た。 姿とな 0 て、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身「またを馬鹿にしやがるな」 を退いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとし という言葉が喰いしばった歯の間から雷のように葉子の がむしやら たが、葉子は我にもなく我武者羅にすり入って、男の胸に顔耳を打った。 うちょうてんこうふん ああこの言葉ー・このむき出しな有頂天な昻奮した言葉 を伏せた。そして両手で肩の服地を爪も立てよとみなが ら、しばらく歯を喰いしばって震えている中に、それがだこそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だっ んだんすすり泣きに変わって行って、仕舞にはさめざめとたのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くと共に、心の 声を立てて泣きはじめた。そしてしばらくは葉子の絶望的隅に軽い余裕のできたのを感じて自分というものがどこか もた な泣き声ばかりが部屋の中の静かさをかき乱して響いていの隅に頭を擡げかけたのを覚えた。倉地の取った態度に対 して作為のある応対ができそうにさえなかった。葉子は前 突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでもどおりすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう しずく 触れたように驚いて飛び退いた。倉地に泣きながらすがり偽りの滴すら交っていた。 付いた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬか「いやです放して」 こう言った言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉 は知れきっていたのに、優しい言葉でもかけて貰えるかの あき 女如く振舞った自分の矛盾に呆れて、恐ろしさに両手で顔をだった。しかし倉地は反対に葉子の一語一語に酔いしれて いながら部屋の隅に退って行った。倉地はすぐ近寄って見えた。 る 「誰が離すか」 来た。葉子は猫に見込まれた金糸雀のように悶えしなが ら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いす事務長の言葉はみじめにもかすれ戦いていた。葉子はど がって、葉子の二の腕を捕えてカまかせに引き寄せた。葉んどん失った所を取り返して行くように思った。その癖そ 子も本気に有らん限りの力を出してさからった。しかしその態度は反対にますます頼りなげなやる瀬ないものになっ 」 0 おのの

2. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

134 わきま 前後の弁えもなく、ほとんど無意識に部屋にはいると、同ように、 「用は後で言います。まあおかけなさい」 時にばたんと音をさせて戸を閉めてしまった。 と言ってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はその もうすべては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から 起き上が 0 たらしい事務長は、荒い棒縞のネルの袖一枚言いなり放題になるより仕方がなかった。「お前は結局は を着たままで、眼のはれ・ほったい顔をして、小山のような ここに坐るようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来 すてばち 大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をを予知しきっているのが葉子の心を一種捨鉢なものにし みとお ぎっと見守っていた。遠の昔に心の中は見透しきっているた。「坐ってやるものか」という習慣的な男に対する反抗 むとん ような、それでいて言葉もろくろく交わさないほどに無頓心はただ訳もなくひしがれていた。葉子はつかっかと進み 着に見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくは言よって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。 しす い出すべき言葉もなかった。あせる気を押し鎮め押し鎮この一つの挙動がーーこのなんでもない一つの挙動が急 っと め、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようと勉めたに葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで が、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐらぐらとなっ今まで失いかけていたものを自分の方にたぐり戻した。そ て、無意味だと自分でさえ思われるような徴笑を漏らす愚して事務長を流し眼に見やって、ちょっとほほえんだその かさをどうすることもできなかった。倉地は葉子がその朝微笑には、先刻の微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ず おそ その部屋に来るのを前からちゃんと知り抜いてでもいたよることができた。葉子の性格の深みから湧き出る怖ろしい あいさっ 自然さがまとまった姿を現わし始めた。 うに落ち付き払って、朝の挨拶もせずに、 「何御用でいらっしゃいます」 「さ、おかけなさい。ここが楽だ」 といつものとおり少し見下ろした親しみのある言葉をかそのわざとらしい造り声の中にかすかな親しみをこめて さか ながいす けて、昼間は長椅子代わりに使う寝台の座を少し譲って待見せた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいて賢しげ くちびる っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまに締まりのいい二つの唇にふさわしいものとなってい こ 0 ま、 「今日船が検疫所に着くんです、今日の午後に。処が検疫 「何か御用がおありになるそうでございますが : : : 」 固くなりながら言って、ああまた見え透く事を言ってし医がこれなんだ」 まったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかける事務長は朋輩にでも打ち明けるように、大きな食指を とお ひそ

3. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

144 の方に近づいて行った。それを事務長もどうすることもでいうような少ししゃあしゃあした無邪気な顔付で、首をか ぎなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげて後れしげながら夫人を見守った。 こわくてき椴え 毛をかき上げながら顔中を蠱惑的な微笑みにして挨拶し「航海中はとにかく私葉子さんのお世話をお頼まれ申して にお た。田川博士の頬には逸早くそれに応ずる物やさしい表情いるんですからね」 始めはしとやかに落ち付いて言うつもりらしかったが、 が浮か・ほうとしていた。 それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人は 「あなたはずいぶんな乱暴をなさる方ですのね」 いきなり震えを帯びた冷やかな言葉が田川夫人から葉子仕舞いには激動から息気をさえはずましていた。その瞬間 ひとみ ようしゃ に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的に火のような夫人の瞳と、皮肉に落ち付き払った葉子の瞳 ばったり出っ喰わして小・せり合いをしたが、また同 な調子で震えていた。田川博士はこの咄嗟の気まずい場面とが、 つくろ を繕うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめよ時に蹴返すように離れて事務長の方に振り向けられた。 「御もっともです」 うとするらしか 0 たが、夫人の悪意はせき立 0 てるばか あぶ りだった。しかし夫人はロに出してはもうなんにも言わな事務長は虻に当惑した熊のような顔付で、柄にもない謹 っこ 0 慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情 女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなに返って、 んという事なく、事務長と自分との間に今朝起こったばか「私も事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任 りの出来事を、輪郭だけではあるとしても田川夫人が感付があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりです いているなと直覚した。ただ一言ではあったけれども、そが」 れは検疫官とトランプを弄った事を責めるだけにしては、 ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出し 激し過ぎ、悪意が罩められ過ぎていることを直覚した。今た。 の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。た あいきよう かが早月さんに一度か二度愛嬌を言うていただいて、それ 対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のように使われてい るのを直覚した。葉子の心の隅から隅までを、溜飲の下がで検疫の時間が一一時間から違うのですもの。いつでもここ こおど るような小気味よさが小躍りしつつ走せめぐった。葉子はで四時間の以上も無駄をせにゃならんのですて」 やつぎばや 田川夫人がますますせき込んで、矢継早にまくしかけよ 何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうと いちはや すみ とっさ おく あいさっ

4. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

をきかっしよくとびら んじよう 言葉は、看護婦たちの顔が示した合図を真知子に理解させ赤褐色の扉、厚い壁、頑丈な格子窓、そうして鎖ーーこれ た。おそらくこの部屋も普通の病室ではないのであろう。 らの幻影から自由にあとを続けることはできなかった。 と、一日何十円もの入院料を支払い、看護婦はもちろん医と、乾燥した、意地の悪い徴笑が、関の彫刻的な顔をゆ 員たちからまでちやほやされている田口の病院の金持ちのがめた。彼は相手の陥った、十分理解されうる沈黙を救お 患者や、ホテルのように快適な病室が、それとこれとのあうとはせず、かえって自分も黙って、その表情を変えない まりに著しい対比がーー同じ病気をしても、あるものにはで、彼女を眺めた。 完備したぜいたくなペッドがあり、あるものには最も貧弱 関の無慈悲なこの凝視には、三月前米子の家ではじめて な一つさえ容易に与えられない事実が、なにか新しい発見った夜から真知子はもう馴れていた。同時にそれは、彼 めいり・よら・ のごとく真知子を刺激した。 の考えていることを言葉が表わす以上に明瞭にするもので そこにただ一つ家具らしいものとして置かれてある、 あるのを知っていた。あなたは忘れていたんですね。 さい瀬戸引きの薬鑵のかかった火鉢を中にして、彼女は黙僕が未決囚であることを。そうして今急に気がついてお嬢 った。しかしそのあとでロを開いた時には、別なことを問さんらしく震えてるんですね。 くちびる 題にした。 「なんなら」酷薄に堅く閉じていた唇を、彼はしずかに 「京都からは、いつごろお帰りになって」 動かした。「さっきお願いしたことは取り消しましよう」 「はっきりしないんです」関は言葉を切り、でもすぐと無「そんな必要はありません」真知子は強くはじぎ返した。 造作に付け加えた。「実は、僕らの三回目の公判が近く開「あなたに迷惑を及・ほすようなことが生じた場合ーー」 かれるはずなんです」 「病気の米子さんを友だちとして私が世話することと、あ 真知子は衝動的にまっすぐに関を見つめた。彼の冷静になた方の思想や運動と関係はないはずですもの」 子対し、自分も落ちつきを装おうと努めながら、彼女は小さ「関係のないところにも何らかの関係を見出だそうとする せき 知い咳でかすれる声を調節した。 のが、当局のやり方です」 「なら、向こうのほうがまちがってるんだから、かまわな 真「米子さんは、そのこと知っていますの」 「知っています」 いでおけばいいのですわ」 「もし急に帰っていらっしゃれなければ」 「できますか、あなたに」 いいかけて、その言葉の持つ重要性のため圧せられた。 「できないとお思いになるの」 やかん ひばち

5. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

「そうおっしやられてみると、なるほど外観だけはいくらとっては感情上忍びないものがあるわけだという意味を、 くらめ か似てるようですが」 真知子が少し驚き、見張った、漑ききした黒瞳で、大胆 ぢやわん くちびる 彼は小間使の配った紅茶茶碗を取り上げ、しずかに唇に彼の顔をうち守ったほどの強い口調で続けた。いっ逢っ にあてながら、しかし内容を思うと、自分の蒐集などは種てもしずかに落ち着いて、性格的に激しい興奮を感じえな 類が違うだけでなく、価値において比べものにならない貧いかのごとく見えた彼が、この場合にあらわした情熱は真 弱なものだといった。 知子にはもの珍しかった。 「まあしかたがないのです。僕のような金のないものには山瀬は河井の意見に共鳴して、彼が金の不足を訴えたこ 初めから無理な仕事なんですから」 とに対する自分の抗議は忘れてしまった。そうしてそれに 「河井さんにそういう言葉を伺うのははなはだ奇怪だと思っいてなお自分の考えを付加するため、話の段落をうずう いますね。酒屋の主人から酒の飲めない不平を聞かされるずして待っていた。で、河井の言葉がちょっと途ぎれた隙 うけざら ようなものでーーこ山瀬は異議よりはそこにはさんだ自分に、彼はロに持って行きかけた茶碗を中途で受皿に戻し、 の洒落について彼女の同意を求めた。「ねえ、真知子さん」勇敢に突入した。 「いや、奇怪じゃありません」いつになく真知子の返事を自分はこれでも官吏の端くれだから、政府を非難する権 待とうともしないで、河井は続けた。「あなたは一冊の書利は持たないのであるが、と前置きしてから、彼は当局者 物も金の心配なしには買えないということをさっきおっしの冷淡と、社会や金持ちが知識の探求に無理解なために、 やったが、その点私だって違いはないのです。参考品を買日本の学界と学徒がーー・そこに「われわれ」という言葉を こうむ うくらいならそれもまあどうにかなるとして、組織的に何插むのを忘れなかった いかに多くの損失を蒙っている か大がかりな発掘でもやりたいという野心を持てば、私のかを論じた。とりわけ金持ちの悪口をうんといい、彼らは 子自由になる程度の金ではとうてい追っつかないんですから無知で、いばることばかりが好きで、私欲とぜいたくの目 知ね。そこへ行くと、外国の政府や富豪の仕事はうらやまし的以外に金の使いみちを知っているものはほとんどいない のだといった。 真いのです」 河井は英国が最近エジプトに続けている発掘や、米国の 「どうかして一人だけでもいいから、学問に対して正当な もうこ 学者が蒙古に試みた同じ計画をあげ、本来ならアジアの土理解を持った金持ちがあってくれるとおおいに助かるんで 地を外国人の鍬で掘り返されることは、日本の考古学者にすが」そそっかしい山瀬は、それらの言葉で河井自身をも くわ はさ すき

6. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

そうとした言葉は、物の見事に遮られてしまった。葉子はすわ。その中に、あ、叔父さん、箸をおつけになるように 古藤にそれだけの事を言うと、今度は当の敵とも言うべき皆様に仰有って下さいまし」 ぶっちょうづら 五十川女史に振り向いて、 叔父が慌ててロの締まりをして仏頂面に立ち返って、何 とんちゃく 「小母さま、今日途中でそれはおかしな事がありましたのか言おうとすると、葉子はまたそれには頓着なく五十川女 よ。こうなんですの」 史の方に向いて、 あわ と言いながら男女を併せて八人ほど居列んだ親類たちに 「あのお肩の凝りはすっかりお治りになりまして」 ずっと眼を配って、 と言ったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔 「車で駈け通ったんですから前も後もよくは解らないんで父の言い出そうとする言葉は気まずくも鉢合わせになっ ひろこうじ て、二人は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底の方に すけれども、大時計の角の所を広小路に出ようとしたら、 ひそ その角に大変な人だかりですの。なんだと思って見て見ま気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているよ うな不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の すとね。禁酒会の大道演説で、大きな旗が一一三本立ってい ・こしら て、急拵えのテープルに突っ立って、夢中になって演説し中で身構えをしていた。五十川女史の側に坐って、神経質 らしく眉をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいま ている人があるんですの。それだけなら何も別に珍らしい という事はないんですけれども、その演説をしている人しげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれ が : : : 誰だとお思いになって : : : 山脇さんですの」 ない様子でちょっと居住いをなおすと、ぎくしやくした調 一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の子でロを切った。 そばだ せとぎわ 言葉に耳を欹てていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父「葉子さん、あなたもいよいよ身の堅まる瀬戸際まで漕ぎ はもう白痴のように口を開けたままで薄笑いを漏らしなが付けたんだが : : : 」 すき 葉子は隙を見せたら切り返すからと言わんばかりな緊張 女ら葉子を見つめていた。 くびすじ 「それがまたね、いつものとおりに金時のように頸筋までした、同時に物を物ともしない風でその男の眼を迎えた。 る さっき 真赤ですの。『諸君』とかなんとか言って大手を振り立て「なにしろ私共早月家の親類に取ってはこんな目出度い事 て饒舌 0 ているのを、朧の禁酒会員たちは呆に取られはまずない。ないにはないがこれからがあなたに頼み所 て、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人だ。どうぞ一つ私共の顔を立てて、今度こそは立派な奥さ がわいわいと面白が 0 てたか 0 ているのも全くも 0 ともでんにな 0 ておもらいしたいがです。木村君は私もよく さえぎ いなら わか おっしゃ あわ はち

7. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

「わかりましたわかりました」 務長を思い浮かべた。男というものの女に与える力をいま 合点しながらつぶやいた。 さらに強く感じた。ここに事務長がいてくれたらどんなに 葉子は 6 生え際の短い毛を引 0 張 0 ては指に巻いて上自分の勇気は加わ 0 たろう。しかし : : : どうにでもなれ。 眼で眺めながら、皮肉な微笑を唇のあたりに浮かばして、 どうかしてこの大事な瀬戸を漕ぎぬけなければ浮かぶ瀬は どう むんにん 「おわかりになった ? ふん、如何ですかね」 ない。葉子はそれた謀反人の心で木村の ca 「 ess を受く そらうそぶ と空嘯いた。 べき身構え心構えを案じていた。 木村は何を思ったかひどく感傷的な態度になっていた。 「私が悪かった。私はどこまでもあなたを信ずるつもりで いながら、他人の言葉に多少とも信用をかけようとしてい 船が着いたその晩、田川夫妻は見舞の言葉も別れの言葉 たのが悪かったのです。 : : : 考えて下さい、私は親類や友も残さずに、大勢の出迎え人に囲まれて堂々と威儀を整え 人のす・ヘての反対をおかしてここまで来ているのです。もて上陸してしまった。その余の人々の中にはわざわざ葉子 うあなたなしには私の生涯は無意味です。私を信じて下さの部屋を訪れて来たものが数人はあったけれども、葉子は 。きっと十年を期して男になって見せますから : ・ : ・もし いかにも親しみをこめた別れの言葉を与えはしたが、後ま あなたの愛が私から離れなければならんような事があったで心に残る人とては一人もいなかった。その晩事務長が来 ら : : : 私はそんな事を思うに堪えない : : : 葉子さん」 て、狭っこい boudoir のような船室で晩くまでしめじめ 木村はこう言いながら眼を輝かしてすり寄って来た。葉と打ち語った間に、葉子はふと二度ほど岡の事を思ってい 子はその思いつめたらしい態度に一種の恐怖を感ずるほどた。あんなに自分を慕っていはしたが岡も上陸してしまえ だ 0 た。男の誇りも何も忘れ果て、捨て果てて、葉子の前ば、詮なくボストンの方に旅立っ用意をするだろう。そ 女に誓を立てている木村を、うまうま偽っているのだと思うしてやがて自分の事もいっとはなしに忘れてしまうだろ ると、葉子はさすがに針で突くような痛みを鋭く深く良心のう。それにしてもなんという上品な美しい青年だったろ 一隅に感・せずにはいられなか 0 た。しかしそれよりもそのう。こんな事をふと思 0 たのもしかしので、その追憶 或 せば たた 瞬間に葉子の胸を押しひしぐように狭めたものは、底のな は心の戸を敲いたと思うとはかなくもどこかに消えてしま ものすご い物凄い不安だった。木村とはどうしても連れ添う心はなった。今はただ木村という邪魔な考えが、もやもやと胸の い。その木村に : : : 葉子は溺れた人が岸辺を望むように事中に立ち迷うばかりで、その奥には事務長の打ち勝ちがた おぼ おそ

8. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

にそれをしないまでも、その心の奥にはかかる態度が動く残された、過去に属する無能者である。彼等がもし「自分 かす ようになっている。その動き方はまだ幽かだ。それ故世人達は何事も出来ないから哲学や芸術をいじくっている。ど 一般は固よりのこと、一番早くその事実に気付かねばならうかそっと邪魔にならない所に自分達をいさしてくれ』と いうのなら、それは許されない限りでもない。しかしなが ぬ学者思想家達自身すら、心付かずにいるように見える。 ごびゅう しかし心付かなかったら、これは大きな誤謬だといわなけら、彼等が十分の自覚と自信をもって哲学なり、芸術なり かす ればならない。その動き方は未だ幽かであろうとも、そのにたずさわっていると主張するなら、彼等は全く自分の立 方向に労働者の働きはじめたということは、それは日本に場を知らないものだ」という意味を言われたのを記憶す 取 0 ては最近に発した姆魲なる事実よりも重大な事業る。私はその時、素直に氏の言葉を受け取ることが出来な だ。魲故なら、それは当然起らねばならなかったことが起かった。そしてこういう意味の言葉をも 0 て答えた。「も きペんこば りはじめたからだ。如何なる詭弁もむことの出来ない事し哲学者なり芸術家なりが、過去に属する低能者なら、労 実の成り行きがそのあるべき道筋を辿りはじめたからだ。働者の生活をしていない学者思想家もまた同様だ。それは さえぎと 国家の権威も学問の威光もこれを遮り停めることは出来な要するに五十歩百歩の差に過ぎない」。この私の言葉に対 いだろう。在来の生活様式がこの事実によってどれ程の混して河上氏はいった、「それはそうだ。だから私は社会問 乱に陥ろうとも、それだといって、当然現わるべくして現題研究者として敢えて最上の生活にあるとは思わない。私 われ出たこの事実をもみ消すことはもう出来ないだろう。 は矢張り何者かに申訳をしながら、自分の仕事に従事して はじめ かって河上肇氏と始めて対面した時 ( これから述べる話いるのだ。・ : ・ : 私は元来芸術に対しては深い愛着を持って いる。芸術上の仕事をしたら自分としてはさぞ愉快だろう 柄は個人的なものだから、ここに公言するのは或は失当か も知れないが、ここでは普通の礼儀をしばらく顧みないこと思うことさえある。しかしながら自分の内部的要求は私 とにする ) 、氏の言葉の中に「現代において哲学とか芸術をして違った道を採らしている」と。これでここに必要な こと とかにかかわりを持ち、殊に自分が哲学者であるとか、芸二人の会話の大体はほぼ尽きているのだが、その後また河 こたっ 術家であるとかいうことに誇りをさえ持っている人に対し上氏に対面した時、氏は笑いながら「或る人は私が炬燵に ては自分は侮蔑を感じないではいられない。彼等は現代があたりながら物をいっていると評するそうだが、全くそれ 如何なる時代であるかを知らないでいる。知っていながらに違いない。あなたもストーヴにあたりながら物をいって しゅこう 哲学や芸術に没頭しているとすれば、彼等は現代から取りる方だろう」と言われたので、私もそれを全く首肯した。 ぷべっ あるい ほど

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そがわ 五十川が親類中に賛成さして、晴れがましくも私をみんな かでお嫁入りもできまいといわれれば、私立派に木村の妻 の前に引き出しておいて、罪人にでも言うように宣告してになって御覧に入れます。その代わり木村が少しつらいだ しまったのです。私が一口でも言おうとすれば、五十川のけ。 ゆいごん 言うには母の遺言ですって。死人にロなし。ほんとに木村こんな事をあなたの前で言ってはさそ気を悪くなさるで おっしゃ はあなたが仰有ったような人間ね。仙台であんな事があっしようが、真直なあなただと思いますから、私もその気で たでしよう。あの時知事の奥さんはじめ母の方はなんとか何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。私の性質や境 しようが娘の方は保証ができないと仰有ったんですとさ」遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいる みなぎ 言い知らぬ侮蔑の色が葉子の顔に漲った。 私がこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮な 「ところが木村は自分の考えを押し通しもしないで、おめく仰有って下さい おめと新聞には母だけの名を出してあの広告をしたんですああいやだったこと。義一さん、私こんな事はおくびに の。 も出さずに今の今までしつかり胸にしまって我慢していた どう 母だけがいい人になれば誰だって私を : : : そうでしょのですけれども、今日は如何したんでしよう、なんだか遠 あげく う。その挙句に木村はしゃあしゃあと私を妻にしたいんでい旅にでも出たような淋しい気になってしまって : : : 」 ゅづる うつむ すって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。ま 弓弦を切って放したように言葉を消して葉子は俯向いて あね物の譬えがですわ。それとも言葉ではなんと言ってもしまった。日は何時の間にかとつぶりと暮れていた。じめ 無駄だから、実行的に私の潔白を立ててやろうとでも言うじめと降り続く秋雨に湿った夜風が細々と通って来て、湿 、、あお んでしようか」 気でたるんだ障子紙をそっと煽って通った。古藤は葉子の げつこう かんだか そう言って激昻しきった葉子は噛み捨てるように甲高く顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽 はほと笑った。 子などを眺め廻して、なんと返答をしていいのか、言うべ 「一体私はちょっとした事で好き嫌いのできる悪い質なんき事は腹にあるけれども言葉には現わせない風だった。部 ですからね。と言って私はあなたのような生一本でもあり屋は息気しいほどしんとなった。 ませんのよ。 葉子は自分の言葉から、その時の有様から、妙にやる瀬 母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地道ない淋しい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩 に暮らさなければ母の名誉を汚すことになる。妹だって裸でも抱きすくめて欲しいような頼りなさを感じた。そして たと ぶべっ たち じち まっすぐ さび たよ

10. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

とたたみかけた。 つけた。古藤の眼は何かにしているように輝いてい こ 0 「それはお薬にこれを少しいただいたからでしようよ」 シャンべン と三鞭酒を指した。 「僕は飲みません」 正面からはね返された古藤は黙ってしまった。しかし葉 「おや何故」 子も勢いに乗って追い迫るような事はしなかった。矢頃を 「飲みたくないから飲まないんです」 かど したて この角ばった返答は男を手もなくあやし慣れている葉子計ってから語気をかえてずっと下手になって、 「妙にお思いになったでしようね。悪うございましたね。 にも意外だった。それでその後の言葉を如何継ごうかと、 ためら ちょっと躊って古藤の顔を見やっていると、古藤はたたみこんな所に来ていて、お酒なんか飲むのは本当に悪いと思 かけて口をぎった。 ったんですけれども、気分がふさいで来ると、私にはこれ さっき 「永田ってのはあれはあなたの知人ですか。思い切って尊より外にお薬はないんですもの。先刻のように苦しくなっ 大な人間ですね。君のような人間から金を受け取る理由はて来ると私はいつでも湯を紲めにして浴 0 てから、お酒を ないが、とにかくあずかっておいて、いずれ直接あなたに飲み過ぎるくらい飲んで寝るんですの。そうすると」 と言って、ちょっと言いよどんで見せて、 手紙で言ってあげるから、早く帰れって言うんです、頭か ら。失敬な奴だ」 「十分か二十分ぐっすり寝入るんですのよ : : : 痛みも何も 葉子はこの言葉に乗じて気まずい心持ちを変えようと思忘れてしまっていい心持ちに : それから急に頭がかっ まっしぐら った。そして驀地に何か言いだそうとすると、古藤はおっと痛んで来ますの。そしてそれと一緒に気が減刄り出し かぶせるように言葉を続けて、 て、もうもう如何していいかわからなくなって、子供のよ 「あなたは一体まだ腹が痛むんですか」 うに泣きつづけると、その中にまた眠たくなって一寝入り ときつばり言って堅く坐り直した。しかしその時に葉子しますのよ。そうするとその後はいくらかさつばりするん の陣立てはすでにでき上がっていた。初めの微笑みをそのです。 : : : 父や母が死んでしまってから、頼みもしないの ひとちから ままに、 に親類たちから余計な世話をやかれたり、他人力なんぞを 「ええ、少しはよくなりましてよ」 的にせずに妹二人を育てて行かなければならないと思った たんべいきゅう ひとさま と言った。古藤は短兵急に、 りすると、私のような、他人様と違って風変わりな、 「それにしてもなかなか元気ですね」 そら、五本の骨でしよう」 どうつ どう やごろ