長 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集
366件見つかりました。

1. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

るほどしか乗っていなかった。真知子は一定のリズムで閑りがあったんですもの。学校があるからだめーー・・・・つて」辰 つりかわ らしく躍っている、呆皮のセルロイドの、しらじらとつめ子は意地意く誇張した冗談で付け加えた。「それでよくず たい輪の列を眺めながら、それらの乗客が、どこに何の用うずうしく出て来られたものね」 * えんか 事で行ぎつつあるにしても、自分よりはずっとしあわせな真知子も姉の調子をはずさないで応じた。「急に燕窩が 時間をこれから過ごすに相違ないような気がした。 食べたくなったのよ」 目的の場所は、居留地あとの横町にあった。上村のひい 「ほら、こういうわがまま屋さんだからかなわない」 とうろうつぼれんごしようせき きの家で、支那ふうの燈籠や壺や聯や呉昌碩の画で飾られ「結構じゃないの、ねえ、まあちゃん」弓子は軽快に引ぎ * しゆくしんのうちゅうじん た奥の広間は、粛親王の厨人であったという北京生まれの受けながら、「お嬢さんの間にできるだけわがままをさし 老人の料理の味とともに真知子には親しかった。それにわてもらったほうがいいんだわ。い くらしたくもされない時 りに早く着いたから、今日の世話役を引き受けた姉の辰子が来るのだから」 と、正客の弓子が来ていたほかには、気立ての優しい、み「ところで」向こうの際の火鋓の前に、さ 0 きから伯母 んなに好かれている父方の伯が見えていただけであっと二人しきりに何か話し込んでいる母の方を、辰子はちら た。この年寄りが母にとってちょうどよい話し相手であっと警戒的に見やってから、「そのお嬢さんの間が、このお たと等しく、弓子は親類うちの同じ年ごろの婦人たちの中嬢さんにはあまり長すぎるというので母さん大頭痛なの では姉と合い口であり、自分に対しても好意を持ってくれよ。それにこのお嬢さんったら相変わらずでー・、・・」 ているのを知っていた。 「いやお姉さん、よしてよ、そんなこと」 真知子は途中とはいくらか違った軽い気持ちで、二人の 「なぜさ、弓子さんに隠すことはないじゃありませんか」 したんいす 間の紫檀の椅子にかけた。 でも、彼女の説得で真知子の結婚忌避病が少しでも減退 子「でも、まあちゃんに逢えてよかったこと」弓子は無地御するならば、なによりの置き土産だろうといった。「母や 知召に包んだ細長い脚を、着馴れた洋服の時のように右を上私のいうことなんか、てんで受けつけやしないのよ」 ひざか、え にして重ね、組み合わせた左右の手でその膝をながら、 「まさか。ーーー・私のまあちゃんがそんなわからず屋じゃな 真 辰子の話では彼女は今日は来ないかもしれないということ いわ、ねえ」 であったから失望していたと話した。 真知子は、母はとにかくとして姉までが、このごろ無条 「だって、今朝の電話ではちゃんともったいぶったお断わ件に結婚させたがっていることの不平を述べた。 おど みやげ

2. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

282 「アキルや、 これらの騒ぎは主人の安眠を妨 アキルや、ーーきいちゃんのアキルや」はしゃいだ吠え立て。 これより先、犬はすでに廊下のガラス戸の外に駈けつけ害する点においては、結局喜久子の泣き声と変わりはなか ていた。彼はその長く引っ張った甘え泣ぎによって、小さった。みね子はやがて寝室の方から出て来た夫を見ると、 い女主人が眼を覚ましたこと、そして自分の存在を必要とはじめてそれに気がついたようにいう。 することを知っていた。 「いけないアキルねえ、おまえさんがあんまりぎ廻るか 「さあ、アキルがいますよ。 いい子のお嬢ちゃま、おらごらん、とうとお父様をおこしてしまった」 早うって来ましたよ。 四、五日の経験で、この姉夫婦とこれから一と月あまり くっぬぎ 実際アキルはまず一番にこの挨拶をするため、沓脱の上暮らすためには、どんな態度を取るのが最もかしこいかを びんしよう きつね にのぼり、ガラス戸の腰板から約一尺のところに彼の狐に敏捷に判断した真知子は、これらの騒ぎにもなるたけ関係 似たとがった顔と二つの前脚をあらわす。効果はてきめんしないで、ひとり先に急いで食事をした。したくがでぎる うれ であった。小さい娘の涙はたちまち嬉しげな笑顔に変ずとまた急いで学校へ出掛けた。山瀬と連れにならないため る。そのかわり常にきれいに拭かれているガラス板が、犬であった。真知子はたった一と朝でそれに懲りた。 の足跡で泥だらけにされてしまう。 その時も真知子のほうが先に家を出たのであったが、五 もし暖かに晴れた朝で、廊下が開け放たれている場合に分と間がなかったから山瀬の長い脚ですぐ追っつかれた。 は、縁側が同じ災いを蒙 0 た。みね子は母の潔癖を知 0 て見ると、彼のばいズボンから上衣のうしろにかけて、 いるので、沓脱から上には侵入させまいとしてりつけぼろぼろの土でよごされていた。彼は歩き歩き手ではたき る。しかしふざけ好きな小大にとっては、主人の威嚇は励ながら、アキルの悪ふざけについて怒っていた。真知子も ましであった。彼は叱られたり、逐われたりすればするほそれには同感であったが、彼のむきになっているふうがお くりいろ おど ど痩せた栗色の身体で躍り上がり、鋭い、突き出たロを開 かしかったのと、自分までいっしょになって悪口をいうの けて吠え、截られた短い尻つぼを、それ自身一つの独立しは小大に気の毒な気がしたので、わざと、アキル自身の偉 い名前からすれば、彼が勇敢すぎるのもしかたがないだろ た生物のように振り立てながら、未亡人が掃いたばかりの うという意味を述べた。 霜の庭を斤け廻った。 鶸せき 新たな叱責と、新たな跳躍。・ー・・・それをいっそうおもし「そういわれりやおおいにそのとおりですよ。なにしろア キルですからね」 ろがる小さい娘のきいきいした叫び。ーーー・続く、性急な、 あいさっ こ

3. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

「しかし若い生徒を薫陶するのはなかなか愉快なもんです毎朝、茶の間の時計が六時半を打っころ、彼らの小さい かん じようきげん よ」彼は妻の賞讃でいっそう上機嫌になりながら、「だか娘の喜久子は癇ずった、けたたましい泣き声でぎまって眼 ら生徒主事という役目には、私は十分な満足を持っているを覚ます。 のです。生徒が左傾するとか赤くなるとかいったところ「ほら。母さん、きいちゃんが起きたようだよ」 ひばち で、要するに読書の中毒にすぎないんですからね。有害な受持ちの庭掃除をすまして、この時分は馴れた火鉢の前 書物は絶対に禁止する、そのかわり適当な穏健な読みものでひとりしずかに朝の茶を飲んでいる未亡人が、こういっ を選んでやる。 それさえ注意すればまちがいの起こるて洗面場か、でなければつぎの化粧部屋にいる彼女の母を はずはないのです。幸いにして私は、まあここだけの話で呼び立てる。するとみね子は、楊枝を使いかけていても、 すが、たいがいのものは自分で目を通しているから権威を髪を織いかけていても、そのまま飛び出し、赤いネルの寝 もって選択でぎるわけでして、ーー校長のごときも、その巻きにくるまった、まだびいびい泣いている娘を、着換え の着物といっしよくたにえて、茶の間へ連れて来る。こ 点で非常に調法だといってよろこんでいられるんです」 「それは全くよ、お母様」みね子も急いで夫の言葉を裏書れは、火の気のない寝室よりそこのほうが着換えをさせる きした。「校長さんは誰よりも山瀬を信用して、ことに書のに便利なためではなかった。 みね子は泣く娘の機嫌をとりながらいう。 物のことだと何でも宅の意見を聞くんですって。ですから 「そんな声して泣くんじゃないのよ、きいちゃん。お父様 私、まあちゃんなんぞでも、今度は義兄さんがわりに長く おそ いるんだから、その間いろいろ教わっておくといいと思う がめめ覚ましますよ。ぎいちゃんのお父様は晩くまで勉強 の。きっとためになってよ」 なさるんだから、朝だけはゆっくり寝せておいてあげなけ しし子だから、さあ 未亡人もそれはなにより好都合だろうといった。真知子れば身体に毒よ。そうでしよう、ね。、、 子は大事な勉強を邪魔してはならないから、教わるにしても泣きゃんでー・・・・・」 知着手中の彼の論文が完成してからにしたいといった。 平生からあんまり丈夫でない上に、長い汽車の旅で神経 ちゃだな 的になった娘は、母の慰撫や、祖母が茶棚から取り出した 真 しつよう これまでのひっそりした親娘ふたりの、印刷のように正お菓子の甲斐もなく、なお執拗に泣きつづける。こういう 確であった生活と並んで、今一つの別な、風変わりの、や場合の唯一の救いは小大のアキルであった。みね子は半分 や騒表しい生活が曾根家にはじまった。 子守唄のような調子を作って高く呼ぶ。 くんとう

4. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

ふくれさせた。 のぞき込んでいた。 しとま 「苦しそうな声出してたから。一時間半眠ってよ。疲れて それをぶちまける暇はなかった。食事が運ばれて来た。 ん みすおけ たのね」 黒塗りの高い膳。二時間前同じ運び手で運ばれた水桶と相 真知子は小布団をずらし、縁側に出た。庭の土蔵に反射通ずる威厳をもって、古典的な膳は、二人の膝を圧して粛 している黄色い光線が眼にしみた。明け方か、日暮れかち然と並んだ。 よっとわからない、昼寝のあとの変に子供つ。ほい混乱で、 ひざ ひばち ぼんやりしていると、米子は火鉢のそばから笑い、やがて入って来た二人を、病人は左の膝だけで坐った床から、 かんべき あおじろひたい 癇癖家らしく生え上がった蒼白い額で、うわ目にじろりと 御飯だといった。 「おなかすいたでしよう」 見た。灰色の毛布が投出した片一方の脚の上にあった。誰 「ここ」 もついていなかった。 つごう 「そのほうが都合がいいんだって」が、食事がすんだら兄高い天井から、電燈が。ほっつり、コードの長い垂下線の が逢いたがっているということを伝えながら、「足が不自端にぶら下がっていた。鈍い十六燭光と安物の皿型の笠、 あいさっ すす 由で挨拶に出られないから、失礼だけどもあちらへいらし煤けながら昔の重々しさを失っていない唐紙や、厚い、ま あね てほしいって。え、神経痛。ひとつは嫂の問題や、社会的っ黒な壁の間で、その不調和が、ある以上に荒涼とわびし かんしやく に苦しくなった立ち場が病気にさせてるのよ。だから癇癪げに部屋をさせた。 ばかり起こしてるの。何かいっても気にしないでね」 真知子はていねいに見舞いの言葉を述べた。 せきれい 鶺鴒らしい小鳥が池に下りていた。突き出た白い尾を振「たいしたことはないのですが。 どう , もこ、ついら - 失礼 り、タ影の伸びた苔の縁でなにか気しくあさ 0 ているのななりで」府せた、長い頬を礼譲的にかすかに皺ませ、彼 子から、真知子は眼を離さなかった。米子の兄を見舞うことは彼女の兄に逢ったことがあると話した。「博士はもう御 知は、客として当然の礼儀であった。とはいえそんなお義理記憶はないでしようが、ちょうど洋行なさる前です。研究 真を果たすために、もしくば彼の家庭生活に関する内証話に所のほうへうかがって」 あずかるために、わざわざこの家を訪ねたのであったろう 林檎についた新しい虫のことで、なにか調べてもらった か。ーー、・話したいことほど容易にロにしない米子の粘液性のだそうだ、と米子が言葉を添えた。 が、いつも感じさせる親愛な腹立ちで、この時も真知子を「そう」真知子は素っ気なく答えた。はじめての人に逢う こぶとん さら

5. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

芝居だのとは違うってことさえわかればいいのだから。よ「あてつけ」 く見てごらんなさい。どこの御夫婦もはじめみんな好きに「そんなつもりじゃなかったのよ」 なって、あの人でなければならないって結婚したのだかど「どちらだっていいわ。でもね、私が厭でしかたがないの うだか。よしんばそうやっていっしょになった人たちだつに着てる着物を脱げないんだとは考えないでちょうだい。 て、半年もたてばけんかするんじゃありませんか」 だいち私は、上村がいくら蕩したからって私を嫌 0 てし 「したっていいんじゃない。そんなけんかならはじめからてるとは思わないんだから。あの人は生まれつきの浮気者 きら 嫌いな人とするのとは別なんだもの」 よ。遊ぶのが好ぎなんだわ。ただそれだけよ」 「じゃあんたはどう。竹尾さんが嫌いで嫁かないってよ辰子はたしかに愛情をもってこの批評をし、同時に着物 り、嫌いだかなんだか本当にはまだわからないんでしょ に対してぜいたくな選択をするのは金持ちの特権であると 同じ意味において、結婚も離婚も財産があり、帰っても親 やっかい それに相違なかった。しかし好きになれようとは思われ兄弟の厄介にならずにすむ人でない限り、自由な考え方は なかった。真知子がすぐ返事をしなかったので、辰子は続できないはずだといった。 けた。 「そんな境遇の女なんてめったにありはしないでしよう。 「たいして気に入らない着物だって、季節になって代わりいわばみんな裸ですもの。相応な着物なら我慢するのがい がなけりや、着てみたっていいじゃありませんか」 いのだし、また着た以上脱ぐのは損よ」 「だけど、身につかなかったらどうするの。あとで脱ぐく「それがお姉さんの哲学」 らいならはじめから着ないほうがりこうだわ」 「じゃ、まあちゃんなら」 一生脱ぐこともできなければ、安心して着ていることも「裸のまま、働くわ」 ぞうげば 子できない人がいくらあるかしれない、 ふんー としいかけ真知子は 辰子の象矛彫りのような鼻が笑った。「澹 知口をつぐんだ。な夫との関係だけでい 0 ても、着心地行り言葉ね、それが、この節の若い人たちの。でもね、今 の世間で女が働いて食・ヘるってことはロでいうほど景気の 真のよい着物を着ているのではないはずの姉に対して、 すぎたのを後悔した。 しいものじゃないわ、きっと」 これまで家の中で流していた涙を、家の外に流しに行 辰子には妹の無意識な突撃を微笑で受けるだけの余裕が あった。 く、ただそれだけの相違にすぎないと辰子は主張した。真 しばい

6. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

倉子は未亡人とは反対の浮き浮きした、ことに真知子にわ。お母様」 それに対し、未亡人はその着物を着せるについてもひと は珍しい打ち解けようを示した。 「真知子さん、こんなひとのいいなりになっていらした争いしたくらいで、自分たちのいうことなそすなおにきい ら」倉子は自分の左に腰かけさした彼女と右側の娘をかわてくれる彼女でないといった。人に向かっては容易に愚痴 るがわる眺めていった。「それこそ、どんなところへ引っをこ・ほさなかった母だけに、その打ち明けは真知子を驚か くろめ まっげ した。彼女は睫毛のそりかえった長い黒瞳で、母を咎め 張って行かれるかしれませんよ」 「まさか、ねえ」向き合った真知子の方へまるい顎をしやた。倉子はそんなはずはないと調停した。 くって見せ、それから富美子は母に話しかけた。「お母様、「真知子さんのような、学問のおありになる、わかったお そむ 嬢さんが、お母様のおっしやりつけを背くなんて、そんな」 真知子さんも私と同じ意見よ」 「しいえ、よくけんかいたしますの」 「何が同じ意見です」 真知子はなにかに突き出されていった。「着物のことな 「指輪を貰うんなら、誰でも新しい内のほうがいいにちが んか干渉されるの私厭なんですから」 いないって。 ねえ、おっしやったわね」 だいきら 「私も大嫌いよ、着物のこといわれるの」 富美子は再びまるい顎で向こう側の承認を求めた。 「ほら、このとおりですから」倉子は娘の外交を誰より笑「なんですねえ」向こう側から、セーヴルの模様つきの茶 わん いながら、この手でよくいろんなものを取られてしまうの碗を手にしつつ賛成した娘に、よけいなことだという顔を だとこ・ほした。「・ー、・指輪なんか数多くはいらないような見せておいて、倉子は今までよりはずっと重々しく真知子 ものの、人中へ出ますとそうもまいりませんしね。時節にの方へ向き変えた。「着物なんかのことはまあそれだけと そむ ととの 応じて相当ななりや装飾を調えるのは、身分を守る上からして、他のもっと大事なことではお母様のお考えに背いた もたいせつなことで、決してぜいたくではないと信じておりはなさらないはずですわ。ねえ、そうでございましよう」 「なんのお話でしよう、それ」 り・亠 , よ 0 そう申せば、今日の真知子さんは本当にな んておりつばなんでございましよう。お洋服ももちろん結倉子はすぐ応じようとして、彼女の母に対し無言の承認 ひたいたて を求めた。未亡人は蒼い筋の目立って来た額を竪に下げ 構ですけれど、それとこれではまたお品が違いますもの。 た、どうか遠慮なくおっしやってくださいまし。 つも今日のような 身うちのものの正直な註文を申せば、い じんもん お嬢様らしいお嬢様でいらしていただきとうございます予期した訊問がはじまった。彼女はどうして関のような あお とカ ちゃ

7. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

やがて畔邏が一一つになる所で笠井は立ち停 0 た。 と、そこに居合せた男が一緒に行ってやるから待てととめ 「この道をな、こう行くと左手にさえて小屋が見えようが た。そう言われて見ると彼は自分の小屋が何処にあるのか の。な」 を知らなかった。 「それじゃ帳場さん何分しゅう頼むがに、塩柧よう親方仁右衛門は黒い地平線をすかし見ながら、耳に手を置き の方にも言うてな。広岡さん、それじや行く・ヘえかの。何添えて笠井の言葉を聞き漏らすまいとした。それほど寒し んとまあ児の痛ましくさかぶぞい。じゃまあおやすみ」風は激しい音で募 0 ていた。笠井はくどくどとそこに行き 彼は器用に小腰をかがめて古い手提鞄と帽子とを取り上着く注意を繰り返して、仕舞に金がるなら川森の保証で げた。裾をからげて砲兵の古ルをはいている様子は小作人少し位は融通すると付け加えるのを忘れなか 0 た。しかし * さやと というよりも雑穀屋の鞘取りだった。 仁右衛門は小屋の所在がれると後は聞いていなか 0 た。 戸を開けて外に出ると事務所のポンポン時計が六時を打餓えと寒さがひしひしと応え出してがたがた身をふるわし あいさっ った。びゅうびゅうと風は吹き募っていた。赤坊の泣くのながら、挨拶一つせずにさっさと別れて歩き出した。 玉蜀黍殻といたどりの茎で囲いをした二間半四方程の小 に困じ果てて妻はぼつりと寂しそうに玉黍魅の雪囲いの くらげ 屋が、前のめりにかしいで、海月のような低い勾配の小山 影に立っていた。 しいまま 足場が悪いから気を付けろと言いながら彼の男は先きにの半腹に立っていた。物の饐えた香と堆肥の香が恣にた おおなみ あみちはい 立って国道から畦道に這入って行った。大濤のようなうねだよっていた。小屋の中にはどんな野獣が潜んでいるかも りを見せた収穫後の畑地は、広く遠く荒涼として拡がって知れないような気味悪さがあった。赤坊の泣ぎ続ける暗闇 いた。眠を遮るものは葉を落した防風林の細長い木立だけの中で仁右衛門が馬の背からどすんと重いものを地面に卸 うっせき やせうま ことさ 裔だ 0 た。ぎらぎらと瞬く無数の星は空の地を殊更ら寒く暗す音がした。痩馬は荷が軽くなると、鬱積した怒りを一時 にぶちまけるように嘶いた。遙かの遠くでそれに応えた馬 末いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小 があった。後は風だけが吹きすさんだ。 ン作人で、天理教の世話人もしているのだと言って聞かせた イ 夫婦はかじかんだ手で荷物を提げながら小屋に這入っ りした。 カ た。長く火の気は絶えていても、吹きさらしから這入ると 七町も八町も歩いたと思うのに赤坊はまだ泣きやまなか 訂った。縊り殺されそうな泣き声が反響もなく風に吹きちぎさすがに気持よく暖かった。二人は真暗な中を手さぐりで ふるむしろわら 有り合せの古蓆や藁をよせ集めて、どっかと腰を据えた。 られて遠く流れて行った。 くび またた たいひ

8. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

404 ない手紙に、真知子はかえって語るべき多くを持っているぎれば米子の村に向かって立ちたかった。山瀬が帰ったあ みつき とでは、この姉に残すような簡単な説明では訪ねて行かれ 彼女を、また三月前のできごとにもゆがみを残していない そうに思えなかった。 彼女の友情を、感じた。 が、話し出すと、みね子は正直な、それだけ無意識な身 真知子はあり合わせのレースで、姪のためにこしらえて いる帽子をもう一度針の下に置きながら考えた。それにしがってをいって引き留めた。 「山瀬の帰って来るのがわかってるんだから、無理に明日 ても誰が自分のことを米子に伝えたろう。 それにお客さまがいっしょだとすれ そこへみね子が、隣市の夏季講習会に講師として出張し立たなくたって。 ている山瀬が、明日は帰って来るという知らせを持って入ば、まあちゃんいてくれたほうが助かるんだもの。ー・・・・・校 長さんの奥さんにこの間お逢いした時も、あなたのことい って来た。 「ー - ーでも、これどなたのことかしら、ねえ 。非常に珍しってうらやましがっていらしたのよ。あんないいお妹さん がいらしてればあなたは楽隠居ができるって。あの奥さん い人に宿で偶然出逢ったっていうの」 お子さんがないから、きいちゃんに世話の焼けることはわ 「そんなこと書いてあって」 からないのよ。でもその他のことじゃ、全く私まあちゃん 「ほら読んでごらんなさい」 ざぶとん そういえば夏座布団 会場の中学校をコロタイプ版であらわした絵はがきが押のおかげで楽をしてるわけねえ。 しつけられた。いわれたとおりの文字があった。のみならのカヴァ、洗ったきりじゃなかった。明日いるかもしれな いから、ふみに手伝ってアイロンかけててちょうだいよ。 ず、山瀬はその人をどうかして誘って来ようと苦心してい こ 0 ふみや、ふみや。 「東京の古いお友達だわ。もしかしたらーさんかもしれどこでもいる場所から、動かないで、せいいつばいの高 ないともうの。暮れに逢った時、この夏は社用でこちらのい声で、みね子はいつも女中を呼ぶ。返事のないのは、だ 方へ来なさるようなこといってらしたから。きっとそうるい八月の午後の居眠りである。が、気のよい主婦は怒る よ。こんな時いつも私が当てるもんだから、山瀬がそれはかわり、小さい娘に眠っている耳を引っ張らせる楽しみで にこにこして、二人でそっと足音を忍ばせて女中部屋に行 驚くの。見てらっしゃい。明日も連れてらっしゃれば さんだわ」 ・温泉での不意な、数日間真知子を夢中にした高度 真知子は姉の不思議な能力を試験するより、その前にで

9. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

なま 「子爵、失礼ですが、大いに危険思想ですね」 かに怠け者であるか ことに報酬の十分でない場合にお 「まあ、待ちたまえ」はしゃいでまぜ返しかけた洋画家を いてーーショウに劣らず確信していた。 制し、子はもの馴れた口調で、もし彼の考えどおりにロ 「だからそのイギリスが、ポルセヴィキの陰謀以上に注意 シアが改善されたら、地上に一つの理想国が出現するはずしているのは」この言葉で、子爵は最も仲のわるいポルド だといった。「しかし理想国は一人じやできない。 こ AJ に ウイン内閣とショウをいっしょにしていった。「ロシアが ロシアの場合は、六千万人の農民が基礎で、それもめいめあの怠けものの農民に、今年は小麦をいくら作らせること い儲けすぎちゃいけないというのだから事がむずかしいでができるか、ということなんで。その生産の姆でロシア すよ。日本の百姓だって、そんな制限をされて骨折って働の運命は決定するといってもいいのですよ」 くものはないですからね」 「幹部連の内輪揉めなんそも、原因はそこいらのむずかし あいづち 「お説のとおりです」さっきからぜひ一言はさもうと待ちい産業政策にあるらしいようですね」田口もそばから合槌 構えていた山瀬が、洋画家に先んじられまいとして急いでを打った。 賛成の意を表した。「全くのところ、人の利己心を無視し「決してほかじゃないのです。で、わしはこう思ってい た点に、ポルセヴィキの大なる弱点があるのです。御存じる。ソヴィエト・ロシアを本当に支配しているのはレ = ズ と思いますがイギリスの・ハーナ ード・ショウーーあのひとムじゃない。ただ小麦だとーーーこそれだけいいたかった子 が「フェイビアン・トラクト』の中でマルクスを評した言爵は、望みを果たすと再びウイスキの小さいコップを取り 上げ、愉快らしく河井を名前で呼びかけた。「どうですね 葉に子爵と同じ意味のことを申していますが」 めがね 彼はここでちょっときり、ずり下がった眼鏡を鼻柱のも輝彦さん、この観察は」 それに対して河井は、適当な返事を怠りはしなかった。 との位置に戻し、マルクスには労働の概念はあるが人性の こうさん 概念がない。人類共通の希望は、恒産を得て労働しないでが、調子の受け方は、いつもに似合わずぶまで、まずかっ た。彼は本当は子爵の言葉も、そのほかの人が話していた もすむようになることだ、だから彼は一種のドン・キホー あんしよう テだ、という奇警な引例をした。 覚えていた暗誦がちことも初めほどよく聞いていなかったように見えた。とい うより、その間彼を捕えていたなにかのもっと大事な思惟 ようど当たった小学生のような得意さで。 子爵は・ハーナ ード・ショウも、「フェイビアン・トラク が、聞いていたように装わなければならない社交上の技巧 を忘れさしたかのごとくであった。 ト」も知らなかった。・ : カ支配階級の一人として人間がい てるひこ

10. 現代日本の文学 8 有島武郎 野上弥生子集

、え、わからなくなったんです。何もかも。・・ー、・わか「アキルやアキルや。ー - ・・・ー吠えるんじゃありません。郵使 屋さんじゃないか。 ってるのは、あんたに随いて行けないってことだけ」 ほんとうにおまえは、このせつ見 「そうか、 じゃ」左の眼だけ心持ちすがめた、そうす境がなくなっちまったよ。ねえ、きいちゃん、いけないア る時、変に魅惑的になる視線で、二秒彼は真知子を見つキルだことねえ」 みね子は娘と玄関に立って大を啌る。彼女一流の決して め、手を放ち、一種軽快にいった。「さようなら」 「ーーー・さようなら」 効力のない叱り方で。ーーー大はだらりと舌を出し、横目で くびす した 高い踵を返すような歩調で、真知子は判下だけの足を急主人の方を見い見い、なお表に向かって吠え立てる。 ばく懸ん いで戸の方へ向けた。漠然とした危険の予覚。ーーそれ以今度はそのふうをおかしがって笑い、それからやっと土間 カ玄関を出よに抛り込まれた封書と絵はがきを拾う。 上彼といる怖ろしさが彼女を駆り立てた。・ : これは真知子叔母さまの うとして、突き当たりの帽子台の上に無造作に置かれてた「おや、お父さまからよ。 白い紙包みにはじめて気がついた。彼女の注文は忘られてね。さあ、いい子だからきいちゃんが持ってっておあげな なかった。そこまでは十分達しない燈光が、一方のらつばさい、手紙ですって」 かん 型にあいたロから、群がり、押し込められた内側の花を、 癇の強い、泣き虫の、甘ったれも、機嫌のよい時にはそ それそれの色と形において照らした。ほのかな香気。 んな使いができた。彼女はいわれたとおり、封書の方を暑 におい 花の匂は、すでに彼女に親しかった、関の若い男らしい 中休暇前から来ている若い叔母に渡すため、よちょち奥の 精悍な、しめっぽい体臭をふと感じさせた。 部屋にけて行った。 二十分の後、真知子はもう一度下車した駅から汽車に乗真知子は北国らしく軒を深くした窓下のミシン台で、そ った。彼女は眼を泣きはらしていた。なお拭いても拭いてれを受け取った。兄の病気で郷里の家に帰っているという いなかもの 子も涙が出た。隣にかけていたかみさんが、田舎者の率直な米子からの、思いがけない便りであった。なにかの伝手 が、真知子の遠くない所在を彼女に知らしたらしかった。 知同情から、なにか不幸なことで旅するのか、と問いかけた 真ほど。ーー彼女はうなずいた。そうして ( ンカチをあてた三時間の汽車と二十分の自動車は村の入り口まで連れて来 顔を窓に押しつけ、今度は大っぴらに泣きつづけた。 るであろう。一日前に電報を貰えば駅まで迎いに出る。も う長くはいないと思うので、どちらにしても折り返し返事 九 を待っている。 ただこれだけの、他になんにも触れて せいかん おそ ほう