ません。然し回避かも知れませんが、自分がそういう風に着を強くする事が出来ます。それが僕にとって唯一の血路 うちか して生れた人間だという事を余り大きく考えまいと思ってです。其処に頼って打克つより仕方ありません。それが一 います。いやです。それは恐しい事かも知れません。然し挙両得の道です。 それは僕の知った事ではありません。僕には関係のない事帰京の事、もう少し延ばします。然し此先き余りに参る がらです。責任の持ちょうのない事です。そう考えます。場合あれば、そう我慢はしません。君にもお栄さんにも随 そう考えるより仕方ありません。そしてそれが正当な考え分会いたくなる事あります。弱音を吹けば弱音は幾らもあ 方だと思います。 ります。然しもう少し落ちつく考です。仕事の収穫が余り そんな風にして自分が生れたという事は不愉快な事で少な過ぎます。然し帰るべき時が来ればなるべく素直に帰 、まさら す。し更にそういう意識で苦しんだ所で何にもなりまります。 のろ それから創作に自家の事の出る事、心配されるお気持、 せん。無益で馬鹿気ています。そして僕はそれを呪われた ものとも考えません。肺病を遺伝される方が余程呪われた同感出来ます。それは何かの形で出ない事はないかも知れ たた 事です。君は愛子さんとの事でそれが祟ったといわれますません。然し不愉快な結果を生ずる事には出来るだけ注意 が、あれは何方かと言えば、僕が断られる原因を知る事がしますっ 咲子妙子によろしく。 出来なかった所に、変な暗い苦みがあったのです。原因が お栄さんも余り心配しないよう願います。 分っていれば、あれ程に弱らずに済んだのです。然し、そ それからお栄さんの事はもう少し考えさして頂きます。 ういって君を責める気ではありません。君の打明けられな いお気持よく分りました。少しも無理とは考えません。殊然しお栄さんにはっきり断る意志あれば止むを得ません このまま に父上想いの君としては当り前の事です。そして僕は今度が、僕としてはもう一度、申出をするか、此盡断念する の機会に又それを繰返さず、打明けて下さった事を心からか、此事もう少し考えたく思います。 書ぎ終ると、彼は完全に今は自分を取りもどしたように 感謝して居ます。君が打明けて下さらなければ、僕はまだ まだ知らずにいなければならなかったのです。しかも知ら感じた。彼は立って柱に懸けて置いた手鏡を取って、自分 ぬままに其事は不思議な重苦しいものとして、僕の頭に被の顔を見た。少し青い顔をしていたが、其処には日頃の自 こうふん むし いかぶさっていたかも知れません。どうか僕の事は心配し分が居た。亢奮から寧ろ生き生きした顔だった。何という ないで頂きます。僕は知ったが為めに一層仕事に対する執事なし彼は微笑した。そして「いよいよ俺は独りだ」と思 おお
148 て、こう弓 弓いか自分でも歯がゆくなる。 分でやったらいいだろう」と変に冷たく言い切った父が、 そこ 其処で仕方がない。俺は俺の希望を正直に書く。出来る時か彼には浸み込んで居た。そして其時はそれを可成り おもき 事なら、どうかお栄さんの事を念い断ってくれ。これは前不快に感じたが、段々には彼は「それもいい」という風に の手紙にも書いた通り、必ずしも父上を本位にしていうの考えるようになった。それ故、今度の場合でも父が不快を もちろん ではない。その事は何故かお前の将来を暗いものとして思感ずる事は勿論予期していたが、それ程に怒り、それ程に なお わせる。そして尚出来る事なら、此機会に思い切ってお栄命令的な態度を執ると言う事は考えていなかったから、何 あと みんな さんと別れてくれ。これは後になれば皆にいい事だったととなく腹が立って仕方なかった。 いう風になると思う。それはお前の意地としては、中々承彼は信行に対しても余りいい感じがしなかった。事の決 知しにくい事とは思う。が、それを若しお前が承知して呉まらぬ内に義母に話したという事も、義母に相談する必要 れれば吾々皆が助かる事だ。俺は俺の過失に重ねて、こんはないのだから、雑談以上の事でなかったに違いないと思 な虫のいい事をいえた義理でない事をよく知っている。 われる点で、全くそれは要らざる事だった。そして、信行 が、俺の希望を正直に現わせばこういうよりない。重ねは自分に同情して居るように言いながら、結局は父の気持 重ね俺はお前に済まぬ気がしている。 を絶対にしている処が気に入らなかった。 此手紙もっと、ずっと前に出せたのだが、続け様にいや然し謙作にも信行の気持、同情出来ない事はなかった。 な事を聴かす事も恐れたし、それに、俺も いいたくない事同情しなければ、いけないという気持すらあった。が、同 を書かねばならぬので、つい今まで延ばして了った。俺は時に其処まで同情したら、自分の方はどうするのか ? と そのご ふくよしちょう もうしい 其後、気にしながら未だ福吉町へも行かない。そして父上いう気がした。それに信行は自分がお栄に申出でをした事 しゆっしよう ともあの晩以来何だか会うのがいやで、会わぬよう避けてだけを話したらしく書いて居るが、自分に自分の出生を打 うんぬん いる。云々。 明けた事を話したか話さないか、まるで書いていない。此 ようや おわ ちょっと ただ 謙作は漸く、この彼には不快な手紙を読み了った。そし事も彼は一寸不快に感じた。それは勿論話したのだ。只自 けいきょ て矢張り彼は何よりも父の怒りに対する怒りで一杯になっ身の軽挙を幾つも言いたくない気持から、それが書けなか なお た。しかも彼は自分の怒りが必ずしも正しいとは考えなか ったに違いないと彼は思った。其処まで話したとすれば尚 った。同様に父の怒りも正しいとは考えられなかった。 の事、自分の事は自分だけで処理さすよう徹底的に父を納 かく 兎に角彼は腹が立った。愛子の事に、「そう言う事は自得させるがいいのだ。三千円に執着しているような所も、 と みんな この そこ と
もちろん あの時俺はお前が少しもそれを知らずに一人苦しんでい に書いて独逸へ送られたという事だ。勿論離婚を覚悟して だ。然し父上からは、総てを赦すという返事が来た。そしるのを見て、これは苦しくても知らさねばならぬという気 て其手紙が来ると間もなく自家の祖父上は一人自家を出持にもなった。今言わなければ屹度後でお前に怨まれると どこ も思った。然し一方では実に知らしたくなかった。姑息と て、何処かへ行って了われたのだそうだ。 ただ のろ いえば姑息な気持だ。それを知ったお前が、只でも苦しん 俺はお前がそういう呪われた運命のもとに生れたと聴い きよう たま た時、随分驚きもし、暗い気持にもなった。そして同じ同でいる上に又それで苦しむ事も堪らなかった。それから亡 胞でどうしてお前だけが別に扱われているのかという漠然き母上のそういう事を暴露する事もつらかった。其上に一 とした子供からの疑問も解けた。そして俺は此事はお前も番俺に問題だったのはお前が小説家である以上、若し知れ さく、もっ きっと ば、そして其事で苦しめば尚の事、屹度それがお前の作物 屹度今は知っているに違いないと考えていた。長い間には に出て来ない筈はないと思ったからだ。こういうとお前の 何かでお栄さんがそれを知らさない事はあるまいと思った し、それでなくてもお前自身そういう疑問を起したかも知仕事に姆何にも理解がないと思うだろうが、俺としては今 ようや れないと考えていた。所が愛子さんの事で、お前が全くそ更に母上のそういう過失を世間に知らして、今、漸く老境 れを知らずにいる事を知って実は俺も不思議に感じたのへ入られようとする父上に又新しく苦痛を与える事が如何 だ。俺は今日お栄さんと会って此事でも感心した。お栄さにも堪えられなかったのだ。父上が独逸で其事を知られて んは父上との約束を守ってお前に話さなかったのだ。「可からの苦しみ、そして其苦しみから卒業されるまでの苦し でそんな事、言えませんわ」とお栄さんは言 0 ていらみは恐らく想像以上に違いない。其古傷を再び腿にす ある ほんとう る、これは考えても堪らない事だ。これは全く俺の弱い所 れた。或いはそれが本統かも知れない。然しれにしろ、 としつき しやペ から来た考かも知れない。実際俺は段々年寄って行かれる 此長い年月、遂に饒舌らなかったという事は普通の女には がた 路 父上をどう言う事ででも苦しめるのは非常にこわいのだ。 中々出来難い事だ。 こと ととの 行 今になっていうが、愛子さんとの事も、調わない原因は然し同時にお前にも非常に済まない気でいた。殊にお前 暗全く其処にあったのだ。先方のお母さんは一方お前に同情のような仕事をする者に、其者の持って生れた運命を故意 していながら、いざとなると、其処までは出来なかったらに知らさずにいるというのは悪い事に違いない。愛子さん しい。これは然し慣習に従って考えるああいう人としてはの事があった時にもお前がどうしても愛子さんを貰いた 仕方がない。 、と言い張ったら、出来るだけの事をして掛合って見 ゆる
141 暗夜行路 総てが夢のような気がした。それよりも先ず、自分と言自分を見失った程でした。然し一ト寝入りして今はもうそ うものがーー・今までの自分と言うものが、霧のように遠のれを取りもどして居ます。君が言いにくい事を打明けて下 はんとう き、消えて行くのを感じた。 さった事は本統にありがたく思いました。 あの母がどうしてそんな事をしたか ? これが打撃だっ 母上の事、今は何も書きたくありません。然しそういう た。其結果として自分が生れたのだ。其事なしに自分の存事の母上にあったというのは何より淋しい気をさす事でし もつ上 在は考えられない。それはわかって居た。・ : カそう思う事た。尤もそれで母上を責める気は毛頭ありません。僕には で彼は母のした事を是認出来なかった。あの下品な、いじ母上が此上なく不幸な人だったという事きり今は考えられ とりえ けた、何一つ取柄のない祖父、これと母と。此結びつきはません。 けが 如何にも醜く、穢らわしかった。母の為めに穢らわしかっ父上に対しては、多分、この事を知ったが為めに僕は一層 ばく娶ん 父上に感謝しなければならぬのだろうと言う気が漠然して 彼はたまらなく母がいじらしくなった。彼は母の胸へ抱います。実際父上がこれまで僕にして下さった事は普通の きついて行くような心持で、 人間には出来ない事だったに違いありません。それを感謝 「お母さん」と声を出して言ったりした。 しなければならぬと思っています。そして父上がこの事か くるし ら受けられた永いお苦みに就いても想像はっきます。随分 恐しい事だったに違いありません。只僕としては、これか 気持にも身体にも異常な疲労が来た。彼はもう何も考えら先、父上とどういう関係をとるか、これを疑問にしてい られなかった。彼はそれから二時間ばかり、ぐっすりと眠ます。父上に御苦痛を与える事なしに、矢張り今度を機会 っこ 0 として、無理のない処まで関係をはっきり落ちつける方が いいように考えます。 四時頃眼を覚ました。其時は気紛も身体も殆ど日頃の彼 になっていた。彼は顔を洗って、少時、縁へしやがんで、 然し君との関係は別です。それから出来る事なら、咲子 ・ほんやり前の景色を眺めていた。其内彼はお栄や信行が心や妙子との関係も別だと言いたい気が実に強くしていま 配して居るだろう事を想い出した。そして早速返事を出すす。 事にした。 自分に就いては、どうか余り心配しないで頂きます。一 お手紙拝見しました。一時はかなり参りました。日頃の時は随分まいりましたし、今後もまいる事があるかも知れ さび
・・まろ・え そして、然し此事は父上や義母上や、其他本郷の人達に もちろん は不愉快な事であるのは勿論だが、愛子さんとの場合彼は此の二つの手紙を書き終ると、却 0 て変な気落ちを には父上はそういう事は自身やるようと言うお考だった感じた。これで自分のそう言う運命も決って了ったと思う さび から、改めて誰にも相談はしないつもりです。相談する事と淋しい心持になった。然しもう其事を迷う気はしなかっ で、思わぬ邪魔が入っても面白くないし、それに若し此事た。そして、其時はもう夜も十二時過ぎていたが、此手紙 なお の為めに今後本郷へ出入りを差し止められるような事があを未だ投函しないという事で尚迷うようでは不愉快だとい よようえ ちょうちん ていしやじよう っても、それは父上や義母上としては無理ない事だから、 う気持から、提灯をつけ、それから彼は停車場まで、それ 僕は素直な心持でそれをお受けするつもりです。というよを出しに行った。 うな事を書いた。 返事の来るまでが不安であった。直ぐ返事を書くとして びつくり 恐らくお栄さんは吃驚する事でしよう。然し其処を君かも間が三日かかる。然し何かと愚図愚図していれば五日位 らよく理解の行くよう話して頂きたく思います。そして此はかかるに違いないと思った。此五日間の不安な気持が今 事に関しては君にもお考があると思いますが同時に僕の性から想いやられた。彼はお栄に、「強くなれ、恐れるな」 質も知っていて下さるのだから、甚だ虫のいい事ですが、 と書きながら、自身時々弱々しい気持に堕ちる事を歯がゆ 兎に角僕の心持をそのままにお栄さんに伝えて頂く事をおく思った。信行に対しても、自分の性質は知っていて呉れ 願いします。と書いた。 るのだからと、他人の考では動かされないからという気勢 彼は此手紙の他にお栄にも書いた。 を見せながら、おだに二つの反対な気持が、自身の中でぶ 大変御無沙汰しています。御変りない事と思います。つかり合うのを腹立たしくも情なくも感じた。 くわ すべのふ ・ : 僕は此手紙で何にも書きません。精しい事は総て信さ実際彼には同じ位の強さで二つの反対した気持があっ んの方へ書きました。それはこれと同時に出しますから、 た。此事がうまく行って呉れれま、 をししという気持と、うま よくじっ 行 恐らく此手紙を御覧になった翌日には信さんが行って色々く行かないで呉れ、というような気持と。方が彼の本統 はす 暗お話する筈です。そしてそれはあなたを吃驚さす事です。の気持かよく分らなかった。何方にしろ決定すれば、彼は 然しどうか只驚いていずに、よく僕の心持を汲んで静かにそれに順応した気持になれるのだった。然しそうはつぎり っー 考えて下さい。そして臆病にならぬよう、何者も恐れぬよ決定しない内は、変にこういう反対した二つの気持に悩ま 、此事にお願いして置きます。彼はこんな風に書いされる。それは癖で、又一種の病気だ 0 た。そして、結局 ではい よ かえ
じようだん 一一三日すると石本が来た。石本は何の冊味らしい冗談も此行違いを作 0 たのである。謙作はそれを考え考えに言 言わなかった。それはよかったが、そして直ぐ実際の話をい出さなかった。その事を先ず第一に言うという事が余り 始めた時に、 に自分らしい気がして厭だった。実際それは余りに彼らし むろんむこ・う くわ けっ・ヘき 「無論彼方の事も精しく訊くつもりだが、此方の事も出来い潔癖に見えたろう。それ故、彼は判ば無意識に、半ば意 るだけ精しく話して置く方がいいだろうね」と石本が言っ識しつっそれを言わなかった。そして此事が大森の家で信 こ 0 行と石本とお栄との間で話された時に、お栄は何よりもそ たま 「そうして呉れ玉え」謙作は石本が「此方の事」というのれを言う事に反対した。反対の理由は簡単で、はっきりし は何の程度までをいうのか不安心に思った。多分、総てをて居た。然し石本はどうしても先ずそれを言わねばならぬ 言って呉れるのだろうとは思ったが、自分さえ近く知ったと主張した。それでなければ自分は間に入れないと言っ しゆっしよう ほんとう 自分の出生を、本統によく石本も知っているかしら ? た。こう石本のいう理由もはっきりしていた。勿論それは それが疑われた。で、彼は「つまり僕の出生の事も言って謙作も同じ考であったが、石本は「何故謙作が此事を第一 もちろん 呉れるんだね」と言った。彼がこういった心持は、勿論そに信行に言わなかったろう ? 」これを疑問にしたらしかっ れを言って呉れなければ : : : というつもりだったが、石本た。行違いは此所から発していた。然し幸に謙作はそれに にはそれが反対に響いた。「出生の事も言 0 て了うのか」余り拘せずに津ませた。此事はそれだけで済んだ。 ふやちょう うち こう謙作が弱音を出したようにとった。石本は一寸いやな石本は麩屋町の行きつけの家へ宿を取っていた。そして 顔をした。そしてその事は隠さず打明けねばならぬという二時から宿で cn 氏と会う筈になっているからと、間もなく 事をくどくどと言い出した。 帰って行った。 むこ第ノ 謙作は心外な気がした。「勿論そうだよ」「初めから其っ謙作は自分の事を彼方へ打明ける一つの方法として、自 路 もりだったのだ」こんな事を言って見ても、自分ながらそ伝的な小説を書いてもいいと考えた。然し此計画は結局此 あと じよし ついおく 行 れが後からの附け足しらしく聞こえ、不愉快な気がした。 長篇の序詞に「主人公の追憶」として掲げられた部分だけ ながだんぎ 暗そして結局石本の長談義を彼は終りまで聴いて了った。彼で中止されたが、其部分も何かしら対手に感傷的な同情を むこう は多少苛々もしたが、後で信行に言えば分る事と思い、其強いそうな気がして彼はそれを彼方へ見せる事をやめた。 ゆきちがい あと 気持の行違は到頭その儘にして了った。 そして彼は後になってそれを聴いたが、石本は謙作がその 謙作がその事を信行にはっきり言って置かなかった事が事について尾の道から信行へ出した、最初の手紙を持って はす この
192 な風に石本が思うかも知れない、と考えた。そう思うなら また 五 思ってもよろしいと彼は又考えた。結局石本も信行のよう 謙作の結婚の話は案外うまく進みそうになった。それはにそういう事が謙作に意外に早く来、そしてそれが偶然に ちょうどその たよ 信行の学校友達の山崎という医学士が丁度、其老人を診てしろ、彼自身の手に頼らねばならなくなった事を心から喜 いる博士の助手だった事から、急に色々な事がはっきりしぶ事が知れていた。それ故、謙作には何の反抗心らしいも も のも起っては来なかったばかりでなく、若し同じ事で石本 つるが いわゆる 女の人は老人の姪であると言う事、敦賀の在の所謂物持でない人に手頼らねばならぬ場合を想像すると、それが偶 うち ちの家の人であると言う事、そして、京都へは老人の見舞然にしろ石本であった事を彼は一層気持よく感じないでは いしようそのた いられなかった。 いを兼ね、冬物の衣裳其他を買う為めに出て来たのだとい うような事まで分った。 要するに自分は不幸な人間ではないと謙作は考えた。自 わがままもの それからもう一つ謙作の為めに幸った事は其老人を博分は全くの我儘者である。自分は自分の想う通りをしよう 士へ紹介して寄越した市会議員のという人が偶然にも石としている。それを人は許して呉れる。自分は自分の境遇 きゅうしん ひがしさんんぎ 本の所謂旧臣だった事である。此事は東三本木の宿で其人によって傷つけられたかも知れない、然しそれは全部では おんなあるじ の名が何気なく山崎の口から出た時に女主が「そのお方ない、それ以上に自分は人々から愛されていたのだ。こん さんやったら、石本さんの元の御家来やと思うとりますがな事を思った。 : こといったので分った。 彼は相変らず寺廻りをした。そして出入りにはよく河原 と かくぐすぐす 兎も角も愚図愚図しない方がいい こういう事で信行はの道を通 0 た。彼は又家探しもした。彼は南禅寺のの こうだいじ さら 石本に会う為めに帰って行った。謙作は自分のその事に信という所に先日高台寺で見たよりも、更に気持のいい一軒 くさぶきゃね ぐうを、よ うち 行が本気で働いて呉れるのを心で感謝した。そして石本に立ちの草葺屋根の家を見つけた。それは一人住いの寓居と このうえ 対しても、前に「君達にそういう心配はして貰いたくなしては此上なくいい家だった。結婚するとすれば少し狭ま ろうばしん うち い」とか「そういう老婆心が不愉快なのだ」とか言った自過ぎる気もしたが、それを予想して今から大きい家へ入る こと ちょっと 分が一年経たぬ内に結局その事で世話にならねばならなくのも一寸変な気がしたし、殊に貸家としてでなく建てられ なった事を彼は面白く感じた。「それ見ろ。あんな立派なた其家が彼には気に入った。で、彼はそれを借りる事に決 とうとう 口をききながら到頭あたまを下げる事になったろう」こんめた。 こ 0 たよ
時、過去の記憶で心を曇らす事はあるだろう。殺された自も、賢い人々だった。自分は此事だけでも本郷の父へは心 身の初児、こんな事を憶い出す事もあるだろう。が、それから感謝しなければ済まないわけだと彼は考えた。ー - ー彼 なかなか みな にしろ、それらは皆其男にとって今は純然たる過去の出来の感情は却々其処まで行かなかったけれども。 とおの 事で、その苦しかった記憶も今は段々薄らぎ遠退きつつあ彼は栄花の事を書き出した。栄花の事を書くのに彼自身 るに違いない。所が、栄花の場合、それは同じく過去の出の立場から書くと余りに材料が少なく、あっさりしすぎる 来事ではあるが、それは現在の生活と未だ少しも切り離さので、彼は栄花自身の立場から、自由に想像を入れて書く れていないのは、どうした事か。今の生活は寧ろ其出来事事にした。栄花が或時蝮のお政に会う事を書いてもいいか ちょうど こういう事は必ずしも女にかぎつも知れないと思った。それから、其頃丁度矢張り寄席芸人 からの続ぎである。 ドレ一うし た事ではないかも知れない。 一つの罪から惰性的に自暴自として出ていた、箱屋殺しの花弗お梅という女を見る事な 棄な生活を続けている男は幾らもあるだろう。が、女の場ども書いていいかも知れないと考えた。謙作は実際或時高 くら 合は男の場合に較べて更にそれが絶望的になる傾きがあ座に其女を見て、惨めな、下快な感じを受けた事がある。 る。元々女は連命に対し、盲目的で、それに惹きずられ易寧ろ罪を罪のままに押し通している女の心の張り、その方 。それ故周囲は女に対し一層寛大であっていい筈だ。子に彼は遙かに同感が起るのであった。 供の事だからというように、女だからといって赦そうとし彼はこれまで女の心持になって、書いた事はなかった。 てもいい筈だ。所が周囲は女に対して何故か特に厳格であその手慣れない事も一つの困難だったが、北海道へ行くあ る。厳格なのは未だいいとして、周囲は女が罪の報から逃たりから先が、如何にも作り物らしく、書いて行く内に段 れる事を喜ばない。罪の報として自減するのを見て当然な段自分でも気に入らなくなって来た。 事と考える。何故女の場合特にそうであるか、彼は不思議そして、彼は何という事なし気持の上からも、肉体の上 路 な気がした。 からも弱って来た。心が妙に淋しくなって行った。彼が尾 しゆっしようつ 行 彼はこんな事を想うにつけ、亡き母は未だしも幸福な女の道で自分の出生に就いて信行から手紙を貰った、其時 夜 暗だったと思わないわけに行かなくなった。母の周囲が、もの驚き、そして参り方は可成りに烈しかったが、それだけ っと愚かな人々でとり巻かれていたら母はもっともっと不にそれをはね退けよう、起き上ろうとする心の緊張は一層 幸な女になっていたに違いない。ひいては自分の存在もど強く感じられた。然し其緊張の去った今になって、丁度朽 しつき うなっていたか分らない。に芝の祖父でも、本郷の父でち腐れた土台の木に地面の湿気が自然に浸み込んで行くよ ゆる はる はな、 うめ よせ
284 謙作はそれは直子の言うように実際もう一度考えて見る ように決してお前を憎もうとは思わない。拘泥もしない。 憎んだり拘泥したりするのは何の益もない話だと言う風に必要があるかも知れないと思った。 このあいだ 「 : : : それにしても此間の事をそう言う風に解すのは迷惑 仰有って頂くと、うかがった時は大変ありがたい気もした あなた んですけど、今度のような事があると、矢彊り、貴方は憎だよ。兎に角、俺達の生活がいけないよ。そしていけなく んでいらっしやるんだ、直ぐそう私には思えて来るの。そなった原因には前の事があるかも知れないが、生活がいけ つはんとうゆる して若しそうとすればこれから先、何時本統に赦して頂けなくなってから起る事がらを一々前の事まで持って行って 考えるのは、それは矢張り本統とは思えない」 る事か、まるで望がないように思えるの」 「私は直ぐ、そうなるの。僻み根性かも知れないけど。そ 「それだから、どうしたいと言うんだ」 「どうしたいと言う事はないのよ。私、どうしたら貴方にれともう一つは貴方はお忘れになったかも知れませんが、 蝮のお政とかいう人を御覧になった話ね。あの時、貴方が 本統に赦して頂けるか、それを考えてるの」 言っていらした事が、今、大変気になって来たの」 「お前は実家に帰りたいとは思わないか」 「どんな事」 「そんな事。又どうして貴方はそんな事を仰有るの ? 」 ざんげ ただ 「懺悔と言う事は結局一遍こっきりのものだ、それで罪が 「いや、只お前が先に希望がないような事を言うから訊い て見ただけだが : : : 兎に角、お前が今日位はっきり物を言消えた気になっている人間よりは懺悔せず一人苦んで、彊 って呉れるのまド常こ、 。リ冫しい。お前が変に意固地な態度を示のある気持で居る人間の方がどれだけ気持がいいか分らな おんなぎだゅう こっち 、とそう仰有ったわ。その時、何とかいう女義太夫だか しているので、此方から話し出す事が今まで出来なかつい 芸者だかの事を言っていらした」 えいはな 「栄花か」 「それはいいけれど、私の申上げる事、どう ? 」 「お前の言う意味はよく分る。然し俺はお前を憎んでいる「そのあの時、まだ色々言っていらした。それが今にな とは自分でどうしても思えない。お前は憎んだ上に赦してって、大変私につらく憶い出されるの。貴方はお考えでは くれと言うが、憎んでいないものを今更憎むわけには行か大変寛大なんですけど、本統はそうでないんですもの。あ ないじゃよ、、 の時にも何だか貴方があんまり執拗いような気がして恐し ・ : 貴方は何時でも屹度、そう仰有る」 くなりましたわ」 直子は怨めしそうに謙作の眼を見詰めていた。 謙作は聞いているうちに腹が立って来た。 おっしゃ きっと こうでい まむし まさ ひが
3 暗夜行路 末松は俥を言いに行った。 わき 「お前はいつまで、そんな意固地な態度を続けて居るつも 謙作は直子の傍へよって行った。彼は何と言おうか、言 う言葉がなかった。何を言うにしても努力が変った。直子りなんだ。お前が俺のした事に腹を立て、あんな事をする の決して寄せつけないと言うような態度が、謙作の気持の人間と一生一緒に居る事は危険だとでも思っているんな ら、正直に言って呉れ」 自由を奪った。 「私、そんな事一寸も思っていないことよ。只腑に落ちな 「歩けるか ? 」 おっしゃ うなす いのは貴方が私の悪かった事を赦していると仰有りながら 直子は下を向いたまま点頭いた。 実は少しも赦していらっしやらないのが、つらいの。発 「頭の具合はどうなんだ」 今度は返事をしなかった。 作、発作って、私が気が利かないだけで、ああいう事をな 末松が帰って来た。 さるとはどうしても私、信じられない。お栄さんにも前の 「俥は直ぐ来る」 事、うかがって見たけれど、貴方があれ程病的な事を遊ば 謙作は直子の手から赤児を受取った。赤児は乳の呑みか した事はないらしいんですもの。お栄さんも、近頃は余程 けだったので急に烈しく泣き出した。謙作はかまわず泣き変だと言っていらっしたわ。前にはあんな人ではなかった 叫ぶまま抱いて、駅長と助役にもう一度礼を言い、一人先とも言っていらした。そんな事から考えて貴方は私を赦し へ出口の方へ歩いて行った。 ていると仰有って、実はどうしても赦せずにいらっしやる んだろうと私思いますわ。貴方は貴方が御自分でよく仰有 なお 十 るように私を憎む事で尚不幸になるのは馬鹿馬鹿しいと考 直子の怪我は大した事はなかった、腰を強く撲ってい えて、赦していらっしやるんだと思う。その方が得だと言 て、二三日は起上る事が出来なかった。謙作は一度直子とうお心持で赦そうとしていらっしやるんじゃないかと思わ 椴んとう よく話し合いたいと思いながら、直子が変に意固地になれるの。それじゃあ、私、どうしてもつまらない。本統に びら り、心を展いて呉れない為めにそれが出来なかった。 赦して頂いた事には時まで経ってもならないんですも かなめ 直子の方は彼が未だ要との事を含んでいると思い込んでの。それ位なら一度、充分に憎んだ上で赦せないものなら いらいら にんとう いるらしいのだが、謙作から言えば、苛々した上の発作赦して頂けなくても仕方がないが、それで若し本統に心か で、要との事など其場合浮ぶだけの余裕は全くなかったのら赦して頂けたら、どんなに嬉しいか分らない。今までの くるま ゆる