210 のか、又実際それ程歩きたくないのか、 「今日変えましよう」 「もう本統に充分ですわ」とよく言った。 「若し謙さんにお仕事でもあるなら、別に借りてもいし 「明日ひる通る。間に合うよう」こういうお才からの電報 今どうなの ? 」 さたや よくじっ 「何にも仕てません」謙作はお栄のこう言う言葉をどう解が翌日来た。自然奈良行きも大阪行きも沙汰止みになっ していいか分らなかった。単に言ってるだけの意味のものて、其日はお栄の買物に謙作も一緒について歩いた。 ていしやじよう よくじっ か、もっと考えて言っているのか見当がっかなか 0 た。その翌日二人は時間を早めに停車場へ行った。 しれにしろ、彼は別に困らなかった。前夜の彼の苦しみ「多分三等だろうと思うの」こう言ってお栄は下関までの とん を知っていて言ってるとしても、お栄に対し、彼は殆ど恥汽車賃を謙作に渡した。 かしいと言う気は起こらなかった。それは恥知らずの気持「あの人だけですか ? 」 むし すべ ではなかった。総てを赦していて呉れるだろうと言う寧ろ「岐阜から、こどもを連れて来るでしよう」 「子供があるんですか ? 」 安心からであった。若しそれがお栄に知られたとしても、 その為め、お栄は怒りもせず、又自分を軽蔑しもしないだ「本統の子供の事じゃ、ないの : ・ : こお栄は仕方なしに苦笑 した。「ーーー京都からも一緒になるのがあるかも知れない」 ろうと言う気がはっきりしていたからであった。 まぶた ちょっと 年のよく分らない脊の低い、眼臉のたるんだ一人の女が 「彼方に、もう一つ、一寸した小さい座敷があるんです。 さっき 崋美ななりをし、大きな男の人形を抱いて、先刻から、そ 今夜から其所へいらっしゃい」 「そうしましようーー昨日行 0 た所は大概此所から見えるの辺をうろついていた。それに二人の遜だか見送りだかの 女がついていた。謙作は何という事なし、それが京都から のね」 いわゆる、、、 あらしやま まわ かえりきんかくじ 昼から二人は嵐山へ行った。帰途、金閣寺の方へ廻ろうの所謂こどもに違いないと思った。 みんな など言っていたのだが、お栄がもう沢山だといい、時間も皆がプラットフォームに出ている所に下りの汽車がつい た。三等客車の、一つからお才と也の二人の若い女が顔を 少しおそくなって、その儘帰った。 あした 「明日は奈良へ行きましよう。それから電車で大阪へ廻っ出していた。そして、眼瞼のたるんだ女は五十余りの女に れん 手を惹かれながらその方へ急いでいた。お栄がこういう連 てもいい」 しばら 謙作は暫く会えないと思うと、こう言う機会に出来るだ中の一人になる事は謙作には一寸堪らない気がした。彼は ひとあしさ け色々な所へ案内したい気になるのだ。然しお栄は遠慮な見知らぬ二人の見送人と一緒に三等客車の窓の前に一足退 むこう ゆる じゅう はんとう たま
「腹は立つよ。然しそんな事をしたって、結果が何にもなへやり、時々はそれを止めなどしながら段々と岸壁を離れ らないと分っていれば怒る気もしなくなる」 て行った。三人は時々徴笑しながら手を振り合っていた。 そのうち 「そうかな。それはその方が本統かも知れないが、僕なら其内謙作はそうして両方でいつまでもいつまでも見送って さだ 中々それでは落ちつけないな」 いるのが苦しくなった。船の方向が定まり船尾が岸壁を三 「然し追求すれば、するだけ不愉快になりそうだからね」四十間離れた処で彼はロの中で「じゃあ」と言いながら頭 はじめゆる 「それが分っていても、初から赦す気にはなれない」 を下げ、具合悪いような気持を無理に二人へ背を向けて自 のんき 「其処は俺が呑気に出来ているからかも知れないよ」 分の室へ下りて来た。 一時間程して二人は其処を出た。銀座まで歩いて、其処四人入りの小さい室だが、に客がないので、彼は一人 らくだ そこ より で信行は駱駝の襟巻を買って、謙作への餞別とした。 でそれを占める事が出来た。彼は其処へ置いてある、凭か まるいす かりのない小さい丸椅子に腰を下ろしたが、扨て何をする か、別にする事もなかった。落つかない気持で、立上る かばん くさり と、ペッドの下から小さい旅行鞄を引き出し、時計の鎖に かぎ ついた鍵でそれを開けて見たりした。今頃二人がどうして いるか、それが気になった。 またかんまん 彼は又甲梗へ出て行った。案の外、船は進んでいて、も けんさく 冬にしては珍らしく長閑な日だった。謙作の乗った船はう人々の顔は分らなかった。然し群集を離れて、左の方に 時か岸壁を離れて居た。下には群集に混 0 てお栄と宮本二人立っていゑそれがそうらしか 0 た。つぼめた日傘を ぎようぎよう とが立って居た。彼は神戸で降りるのに見送りは仰々しい斜にかざしているのはお栄に違いなかった。彼は手を挙げ むこう おおぎよう 路 からと止めたが、船が見たいからとお栄は宮本に頼んで連て見た。直ぐ彼方でも応じた。宮本が大業に帽子を振る 行 れて来て貰ったのだ。鐘が鳴って見送人が船から降りねばと、お栄も一緒に日傘を細かく動かしていた。顔が見えな 暗ならぬ時に、お栄は「体を大切にね」とか「お便りは始いと謙作も気軽な気持で ( ンケチが振れた。そして船が石 ちょっと 終して下さいよ」とか言った。謙作は一寸感傷的な気持に堤の間へかかる頃には二人の姿も全く見えなくなった。薄 けむり ひろ なった。 い霧だか烟だか港一杯に拡がっていて、船が進むにつれ、 船は一方の推進機で水を後ろへ、もう一つのでそれを前の方は段々・ほんやりと霞んで行った。そして一寸傍見を えりまき のどか せんべっ てい しつ おもいはか さ
段何気なく美しい人を見る時とは、もっと深い何かで惹きか、そして全体これはどう言う気持なのか、と思った。確 そのひと つけられ、彼の胸は波立った。それはそれ程に其人が美しかに通り一遍の気持ではなかった。 しよしんもの あした かったと言うのとも異う。彼は自分ながら初心者らしい心彼は今日もう一度通って置かねば、明日はもう其所に居 持になって、もうその方を見られなかった。そして少し息ないだろうと思った。で、自身玄関の下駄を庭へ廻し、再 くさはらみち 苦しいような幸福感に捕えられながら其前を通り過ぎた。 び暗い草原道へ出て行った。其時は既に暮れ切ってはいた こうじんばしした にぎ 荒神橋の下まで行 0 て引き返した。彼は遠くから注意しが、河原は 0 て涼みの人達で賑わ 0 た。彼は多少気がひ た。その人は縁へ立って、流れをへだてた河原の人を見下けながらその方へ歩いて行った。 ろして話して居た。河原の人は年とったいつもの女の人女の人は年とった方の人と縁へ坐って涼んでいた。部屋 で、言う事はわからなかったが、何か言って二人が一緒にには蚊帳が釣られ、その上に明かるい電燈が下がって居 なら うしろ 身を反らして笑うと、若い人の声だけが朗らかに彼の所また。並んで川の方を向いている二人の顔は光りを背後から で響いて来た。其快活な響に思わず彼は微笑する気持へ誘受けているので見られない代りに、此方はそれを真正面に われた。間もなく年とった人は川べりの方へ歩いて行っ 受けねばならぬので、余り見る事が出来なかった。女の人 ゆかたぶかっこ ) た。湯上りらしく団扇を片手に持って居る。そして若い方は湯上りらしく白い浴衣を不恰好に角張らして着ていた。 の人は土鍋のふたをとって中へ入って行った。 そして其角張った不恰好さも亦彼には悪くなかった。二人 その人はたすきがけで働くにしてはいい着物を着て居は団扇を使いながら、しんみりと話込んで居た。 まるたばし る。其日特別に手伝いに来たらしく謙作には察せられた。 荒神橋まで得ってあがり、今度は対岸を丸太橋の方へ引 そして働き方もいそいそとそれに興味を持っているようなきかえして来た。遠く影絵のように二人の姿が眺められ まま」と 所が、何か小娘の飯事遊びの働きかたに似て見えた。 たもと ちょうど 彼が前まで来た時に又其女の人は縁へ出て来た。彼は少橋の袂から、彼は東山廻りの電車に乗った。丁度涼み客 こ ままぎおん し堅くなったが、自分でもなるべく何気ない気持になっての出盛る頃で電車は込んでいた。彼は立った儘、祗園の石 通り過ぎた。後ろから見られるような気がして身体が窮屈段下まで行って、其所で降りた。 であった。 彼は自分の心が、常になく落ちつき、和らぎ、澄み渡 びた 彼は宿へ帰ってからも落ちつけなか 0 た。しそれは矢 り、そして幸福に浸って居る事を感じた。そして今、込み 張り幸福な気持だった。そしてそれをどうしたらいいの合った電車の中でも、自分の動作が知らず知らず落ちっ うちわ かいかっ ちが とら 0 こ 0 いっぺん かどば こっち
もせずにさっさと出て来た。直子一人閉ロしていた。それ 宗六の家が陰気にじめじめしているに反し、宗六から出 もくせん でも直子が何か言ってお辞儀をすると、若者も「いや」とて新しく一家をなした木仙の家に行くと総てが変に生き生 言って、町嚀に頭を下げた。 きしている事が感ぜられた。彼は親みを持った宗六の家で そろ 「まあ、両方お短気さんなのねえ」と日傘を開きながら小買う物がなく、矢張り木仙へ来て返しの品々を揃える事が 走りに追って来た直子が笑った。 出来た。店一杯に品物を置いた中に坐って、一人で茶をつ 「然し彼奴、割りに気持のいい奴だ」謙作は苦笑しながらぎ、客の応対をしている二代木仙は如何にも町気のある人 言った。若者の怒るのも無理ない気もしたし、自分が一緒物らしかった。 にむかっ腹を立てた事も少し気まりが悪かった。 彼は赤絵の振出しを幾つか買う事にした。其箱だけは今 けんか 「喧嘩してほめてちや仕方がないわ。あんないい家、惜し病床にいると言う初代が書いた。 うち いわ」 一一人が其家を出た時には既に日暮れ近く、寒い風が道に 「幾ら惜しくても、もう追いっかない」 吹いていた。謙作には其寒さがこたえた。 「今度はね、黙ってて、入ってから勝手に直すのよ。そん「早く何所かで飯を食わないと風邪をひきそうだ」彼はこ ちゅうもん えり な、初めつから色々註文をするから怒って了いますわ」 んな事を言って二重まわしの襟を立てた。 いわいもの きっと 其日はもう貸家探しをやめ、二人は祝物の返しの品を買「屹度仙が支度をして待ってますわ」 うち いに行く事にした。五条坂の有名な陶工の家を一軒一軒寄「どうだか ? 」 ろくべえせいふうそうろく うち って見た。六兵衛、清風、宗六、 ーー・宗六の家の多分宗六 / 「そう ? そんなに平時そとであがっていらしたの ? 」 と言う人だろうと思う、至極質素な身なりをした未だ割り「そうでもないが、出掛けた時間がおそかったから、そと あかだまこうごう に若い人が親切に参考品という先々代宗六の赤玉の香合なで食って来ると思ってるだろうよ」 路 どを見せて呉れた。初代宗六は伊勢の亀山から出た人で、 なだらかな五条坂を二人はこんな事を言いながら下りて 行 謙作の母方の叔母が¥いた先が此陶工の近い親類である行 0 た。五条の橋はかけ更えで細い仮橋が並べてかけてあ 夜 暗所から、その叔母は京都では何時も此家に宿るというようる。二人はそれを渡って行った。 な話を前に聞いていた。彼はそう言う心持からも此人には「これが五条の橋なの ? 」 したし 或る親みを感じた。然し何故か彼は自分が其叔母の既であ「うむ」 る事を言う気はしなかった。 「伯父愈老 6 さんがさんのお世話で、五条の橋杭の ていねい ひら うち どこ にじゅう
しばらく 少時すると、もう帰ったと思った要が庭口から入って来のを感じた。三人は幾度か此遊びを繰返した。暫くし天 0 かなだらい て、二人の仲間に入り、金盥に雪を積んで来ては飯にして直子の兄が学校から帰って来て、二人は驚き、飛起きた 遊んだ。 が、直子は兄の顔をまともに見られぬような、わけの解ら 縁が解けた雪で水だらけになり、皆の手はすっかりかじぬ恥かしさを覚えた。 しま かんで了った。三人はその遊びをやめ、部屋に入り、炬燵要と直子との間では二度とこう言う事はなかった、然し にあたった。 此事は不思議に色々な記憶の中で、はっきりと直子の頭に 要は近所の児を邪魔者にし、「あんた、もうお帰り」こ残った。 それ故、直子は謙作の留守に要が不意に訪ねて来た時、 んな事を切りに言い出した。し女の児は帰らなかった。 かめすっぽん すると、要は「亀と鼈」という遊びをしようと言い、直かすかな不安を感じたが、感じる自身が不純なのだとも考 ことさら あかまがせきまるすすり え、殊更、従兄妹らしい明かるい気持で対するよう努め 子に赤間関の円硯を出して来さし、其遊びを二人に教え よくじっ た。それは硯を庭に隠して置き、子供になった女の児が硯た。翌日、水谷や久世が来て、花を始めた時にも、こうい かえ を探して来る。そして障子の外から「お母さん亀を捕りまう第三者が居て呉れる事は却っていいと思い、人妻として した」と言う。直子のお母さんが「それは亀ではありませ不都合だと言うような事は少しも考えず、自分も仲間にな どな なお すっぽん ん」と答える。其時、要が大きな声で、「鼈」と怒鳴るとって夜明かしをしたが、夜が明け、陽の光に尚、遊び続け さすが わか 言う遊びだ。二人には何の事かさつばり解らなかったが、 て居ると、流石に体力で堪えられなくなり、食事の事など それをする事にした。 総て仙に頼んで、自分だけ裏の四畳半に引き下がり、ぐっ 女の児が要の隠した硯を探している間、二人は炬燵に寝すりと寝込んで了ったのである。 ようや うち ころんでいた。そして慚く見つけ出し、それを持って来た直子が眼を覚ました時は、もう家の中は暗かった。直子 ゅどの すきま 時、要はいぎなり、「鼈」と怒鳴って飛起き、一人ではしは湯殿へ行こうとし、途中、唐紙の隙間から座敷を覗く おど やぎ、跳り上ったり、でんぐりがえしをしたりした。 と、三人は未だ一つの座蒲団を囲み、同じ遊びを続けて居 あふら この遊びは下男から教えられた。そして、その卑猥な意た。皆、眼をく・ほまし、脂の浮いた薄ぎたない顔をしてい 味は要だけには幾らか分っていたが、直子には何の事か全た。三人は一寸した事にもよく笑い、普段それ程でもない ただ あいだ こつけい く分らなかった。只、炬燵で抱合って居る間に直子は嘗て久世までがたわいなく滑稽な事を饒舌って居た。 みじま 経験しなかった不思議な気持から、頭の・ほんやりして来る直子は身仕舞いを済まし、仙と一緒に夜食の支度をし かなめ みんな その こたっ かっ みんな ちょっと た しまら っと
「お前の方の事をお栄さんに話したら大変喜んでいられた 「そうだろう。恐らく一度で僕よりよく見たらしい」 「あれは君、鳥毛飃の美人だ」突然こんな事を高井がよ。是非共というような事を切りと俺に繰返して居た。そ ほんとう 言った。この評は割りに適評であり、謙作には大変感じのれは本統に俺も嬉しい事だし、うまくやりたいもんだね」 い評であった。 信行は続けて、 「ふむ、そうかな」そういいながら謙作は自分が赤い顔を「それでね、お栄さんの方の事を先に話すと、俺はね、そ はっきり したように思った。 の事が本統にお栄さんの為めになる事かどうか、 高井は湯へいった。其間に謙作は又一寸河原へ出て見しないんだ。お栄さんという人も元々そういう空気には親 た。前まで行く気がせず、遠くからそれとなく気をつけてしんで来た人で、自分では也の堅い商売よりは幾らか自信 もあるらしいのだが、俺にはそれがあてにならないのだ。 いると、其人の姿は時々見えた。 其晩二人は新京極へ活動写真を見に行った。「真夏の夜そうかといって、それに不賛成をいって、他にどうという、 ドイツもの おそ いちず の夢」を現代化した独逸物の映画を二人は面白く思い、晩 うまい考もないとすると、一途に否定するわけにも行か ず、又案外それでうまくやって行くかも知れないとも思う くなって二人は、東三本木の宿へ帰って来た。 し。それからお栄さん自身はそのお才さんにすっかり勧め 四 込まれて了って非常に乗気なので、此場合俺達が不賛成を いえばよすにはよすだろうが皿も随分するに違いない。 三日目、それは珍らしく明方から雨になり割りに涼しい す癶 朝だった。毎朝雨戸を照りつけられるので寝坊の出来なかで、俺の考としては、お栄さんの考え通りに総てして、つ そこ った謙作はよく寝て居た。其所へ夜行で来た信行がついまり、全く自由にして、若し、それで不成功だった場合、 こ 0 あとを此方でどうにでもするようにしたらいいかと思うん こと 路「おい、朝めしがまだだが貰えるかい」こんな風に挨拶よ 一と言にいえば又金の事になるが、金は本郷からの りも先に、信行がいう。 と、お前からのがあれば、それを一つにして俺でもお前で 夜 謙作は一体寝起きの不機嫌な方だったが、其日はよく眠もが保管して置く、そんな事にして置いてはどうかと思う っても居たし割りに愛想よく兄を迎える事が出来た。 んだ」 しばら 暫くして二人は雨に烟ぶる河原の景色を眺めながら朝の「全体何をするんだろう ? 」 「それが、どうも余り感心しないのだが、お才さんという 食事をした。
195 暗夜行路 げ一つ下げ、歩いて帰って来た。 た。それでも石本は、 「そうすると、家はもう見つかったんだから、君は最近急いで玄関に出迎えたお栄は何よりも、謙作の今度の話 此方へ引越して来るね」こんな風に時々謙作を話の中へ連に喜びを言った。それがもう決まったかのように喜んで居 るのが、謙作には不安心でもあったが、兎に角、そう喜ん れ出そうとした。 まるやま 其夜、氏と別れてから、謙作は石本と円山の方を散歩で呉れるお栄が嬉しかった。 お才という女は丁度東京へ出て居て、居なかった。二人 あした あさって 「僕は明後日用があるので、明日の夜行で帰るがね」と石は久しぶりで食卓に向い合い、夜の食事をした。 「一体まあ、どんな方 ? 」とお栄が言う。 本は言う。「そして cn の返事によって、一週間か十日して なん また 又来るつもりだ。それで此事には君の直接する事は何にも「どんなって : : : 」 っ・こう 「知ってる人で言ったら、まあ誰って言うような人 ? 」 ないのだから、都合で時でも帰るといいよ」 「そうね、知ってる人では一寸憶い出せないが、高井は鳥 ととの げだちびようぶ 「 t-n に総て一任してあるが、は大概うまく調うだろうと毛立屏風の美人だといってましたよ」 がっかり 言っているが、そう決め込んで駄目だと落胆するからね謙作は其為めわざわざ二階から東洋美術史稿を持ち出し あいにく て来て、その絵を見せたが、生憎と、それに出て居たの あした 「僕も明日帰る。朝の急行で帰る」こう急に謙作は言っは、何枚かある内の余り似てない一つだった。 ちが こ 0 「これとも異うな、兎に角もっといいんです」 「まあ、大変なのね」 「そんなら一緒に帰ろうか」 「うん」 こんな風に二人は其事はよく話し合ったが、然しお栄自 しばら それに決めて二人は暫くして別れ各々自分の宿の方へ帰身の方の事は何となく互にロに出しにくかった。そして余 ようや って行った。 りにそれの出ない事が変になって来た時にお栄は漸く、言 い出した。 あなたのぶ 「 : : : でもね、貴方や信さんが賛成して下すったんで、 石本とは横浜で別れ、其所で乗換え、大森へ着いた時私、本統に安心しました」 は、もう日が暮れて居たが、慣れた路で、彼は小さな手さ こんなに言った。こういわれると謙作は弱った。彼は信 こっち うち おのおの とり
暗夜行路 315 かんちょう 村の医者が来たのは夜八時過ぎだった。上さんとお由と た。そしてヒマシ油と浣腸で悪いものを出して了えば、恐 いくたびそと はそれまで幾度、戸外へ出て見たか知れない。 日が暮れるらく、此熱も下がるだろうといった。下痢の事は使の者に はとん と、殆ど人通りのない所で、それが、いつもと全く変りな聞いていたので、医者はそれらを鞄の中に用意していた。 あたか ほとんききめ い静かな夜である事が、恰も不当な事ででもあるように二浣腸は殆ど利目がなかった。ヒマシ油の方が三四時間の 人には腹立たしかった。要するに二人共、親切者には違いうち利くだろうし、兎に角それまで此離れにいて見よう、 なかったが、女二人だけの所で、若し謙作に死なれでもし出た物を調べる必要もあるからと言う医者の言葉だったの しゅこう たら大変だと思うのだ。兎に角、早く医者に来て貰い、此で、寺の上さんは早速医者と使いの男へ出す、酒肴の用意 重荷を半分持って貰いたい気持で一杯だったから、提灯とをする為め、庫裏の方へ行った。 まきぎやはんわらじま 持 0 た使を先に、巻脚絆草鞋穿きといういでたちの年「何をされる方ですね」 あぐら 寄った小さな医者の着いた時には、二人の喜び方は一ト通医者は次の間へ来て胡坐をかき、其所に置いてあった既 りではなかった。 に冷えた茶を一口飲んで、お由に訊いた。 「先生が見えましたよ。もしー先生が見えましたよ」 「文学の方をされるがですわ」 まくらもと 先に一人走って来たお由が、彼の枕元に両手をつき、顔「言葉の様子では関東の人らしいな」 こうふん 「京都ですわ」 で蚊帳を押すようにして、亢奮しながら、こう叫んでも、 あ 謙作は薄く眼を開いただけで、何の返事もしなかった。然「京都 ? ほう、そうかね ? 」 し医者が入 0 て来て、容態、経過をねた時には、声は低医者とお由がこんな話をしているのを謙作はそれが自分 かったが、案外はっきりそれに答えていた。鯛の焼物 とは全で関係のない事のように聴いていた。 五六里先から、夏の盛に持って来るのだから、最初から焼「 : : : どうですやろ」小声になってお由が訊くと、医者も それが原因らしいとい いてあるのを又焼直して出す、 一緒に声を落し、 そば 「心配はない」と答えた。 う事は、側に寺の者のいる事を意識してか、少し曖昧に言 さ っていた。医者は一ト通りの診察をした後、特別に腹のあ謙作は半分覚めながら夢を見ていた。それは自分の足が おさ むやみ まわ ちこちを叮嚀に抑え、「此所は : : ? 」「此所は : : : ? 」と二本共胴体を離れ、足だけで、勝手に其辺を無闇に歩き廻 一々訊ねて痛む場所を探した。結局急性の大腸加多児で、 り、うるさくて堪らない。眼にうるさいばかりでなく、早 ろくしんがん いけな じひびき その下痢を六神丸で無理に上めたのが不可かったと診断し足でどんどん、どんどん、と地響をたてるので、八釜しく よる と こ ちょうちん たま やかま
それでも女の児の方はむつつりとした怒ったような顔をとしてこう言う人の来る場合を想像して見た。それは非常 に幸福に違いなかった。一時は他に何物をも欲求しない程 8 して見ていた。 余り赤児がもがくので、話に気を奪られていた女の人の幸福を感じそうな気さえした。 し′」く ようや 「さあ、今度おんりするのよ。君やにおんぶしてエッチャ も、漸く気がついた。そして至極軽快な首の動作で、女の ェッチャって行くのよ」美しい細君は赤児を女中におぶせ 児の方を振向いた。それは生々とした視線だった。 「おや、此人はお嬢さんのとこへ行って話し込みたいんだながらこんな事を言った。そして電車の停るのを待って降 ネ」と言って女の人は笑った。女の児は平気でむつつりとりて行った。 していた。おぶっている女中が何か鈍い調子でお愛想を言謙作は何と言う事なし、幸福を感じて居た。此幸福感は あと っこ 0 其人の印象と共に後まで、彼の心で尾をひいて居た。 こでんまちょう 女の人は連れの女中との話を其儘、打切って、今度は急二人は小伝馬町で降りると、人道を日本橋の方へ歩いて あか むしほっさ にーーー寧ろ発作的に赤児の頬だの、首筋だのへ、ぶぶぶと行った。雨に濡れた往来が街の灯りを美しく照りかえして かりばし ちが きゅう ロでお灸 ( とも少し異うが ) 日本流の接吻を無闇にした。居た。日本橋の仮橋を渡って暫くいった横丁の或る小綺麗 赤児はくすぐったそうに身もだえをして笑った。女の人はな料理屋へ二人は行った。 のどあた なお えりあし まるまげ 緒方は其家の酒を讚めながらよく飲んだ。飲むと彼は明 美しい襟足を見せ、丸髷を傾けて、尚しつつこく咽の辺り きり にもそれをした。見て居た謙作は甘ったるいような変な気瞭した気分になる。そして、初めて知った仲の町芸者と新 がして、今は真正面にそれを見ていられなくなった。彼は橋赤坂辺の芸者とを比較したりした。 さんざん そと 何気なく首を廻らして窓外を眺めた。そして此女の人は未緒方は赤坂の或る芸者との関係で散々面倒があって、今 かかえぬし だ甘ったれ方を知らぬ赤児よりも遙かに上手に甘ったれては抱主から間をせかれて居ると言う話をした。謙作は緒方 いると思った。 が其ごたごたに対し少しも逃げる態度なしに、同時にカん 若い父と、母との甘ったるい関係が、無意識に赤児対手だ気持もなしに居る所を面白く思った。共処に或る上品な はす に再現されて居るのだと思うと、謙作は妙に羞かしくもな余裕が残されて居た。こう言う話は兎もすると、聴手に幾 り、同時に余りいい気持もしなかった。然し、精神にも筋らかの反感を起させるものだが、それなしに聴けるのはそ 肉にもたるみのない、そして、何となく軽快な感じのするれが為めだ、と謙作は思った。 此女の人を謙作は美しく感じた。彼は恐る恐る自分の細君九時頃二人は其家を出た。然し何となく未だ別れる事が この そのまま うち と はっ
いらいら は半病人のように弱る一方、気持だけは変に苛々して、自直子は丁度赤児を抱上げ、片手で帯の間から蟇口を出し ている所だった。 分で自分をどうにも持ちあっかう事が多か 0 た。 或日、前からの約束で、彼は末松、お栄、直子等と宝塚「おい。早くしないか。何だって、今頃、そんな物を更え その へ遊びに行く事にした。其朝は珍しく、彼の気分も静かだているんだ」 ちょうどむこう った。丁度彼方で昼飯になるよう、九時何分かの汽車に乗「気持悪がって、泣くんですもの」 オしか。それより、皆もう外 「泣いたって野わしないじゃよ、 る事にした。 あかんぼこっち したく 出がけ、直子の支度が遅れ、彼は門の前で待ちながら幾へ出てるんだ。赤坊は此方へ出しなさい」 彼は引たくるように赤児を受取ると、半分馳けるように らか苛立つのを感じたが、此時はどうか我慢した。 しまら 末松とは七条駅で落ちあった。暫く立話をしている内にして改札ロへ向った。プラットフォームではもう発車の号 けたたま ふとわき 改札が始まった。彼は不図傍に直子とお栄の姿が見えない鈴が消魂しく鳴っていた。 あと 「一人後から来ます」切符を切らしながら振返ると、直子 事に気がつくと、 、のは馳足ともともっかぬすり足のような馳け方をして来 「使所かな」とつぶやいたが、「乗ってからやればいし むつきふろしきづつみ る。直子は馳けながら、いま更えた襁褓の風呂敷包を結ん に馬鹿な奴だ」と直ぐ腹が立って来た。 むこう 二人は便所の方へ行こうとした。其時彼方からお栄一人でいる。 いそぎあし 「もっと早く馳けろー」謙作は外聞も何も関っていられな 急足で来て、 どな ちょう ' 、い い気持で怒鳴った。 「二人の切符を頂」と言った。 「どうでもなれ」そう思いながら彼は二段ずつ跨いで・フリ 「どうしたんです。もう切符切ってるんですよ」 「どうそお先へいらして下さい。今赤ちゃんのおむつを更ッジを馳け上ったが、それを降りる時は流石に少し用心し こ 0 えてるの」 汽車は静かに動き始めた。彼は片手で赤児をしつかり抱 「何だって、今、そんな事をしてるのかな。そんなら、 あなた き〆めながら乗った。 貴女は末松と先へいって下さい」 謙作は苛立ちながら、二人の切符を末松へ渡し、その方「危い危いー」駅夫に声をかけられながら、直子が馳けて 来た。汽車は丁度人の歩く位の速さで動いていた。 へ急いだ。 「馬鹿ーお前はもう帰れ ! 」 「有料便所ですよ」背後からお栄が言った。 あるひ ひっ さすが また みんな