京都黒谷 ( 「暗夜行路」 ) それを基準に前後の年代をたどってみるとこういう計 算が成り立つのである。 ところが大正六、七年ごろの時刻表には、作中の列 車にするものがない。謙作の乗るべき午後の列車 を選ぶとすれば、京都駅発四時十分、花園駅発四時三 十三分の城崎行しかない。 つまり、 「暗夜行路」のこの部分は、理屈からは大 正の中期にあたるが、書かれたのは昭和二年で、作者 は筆を執る時その年の鉄道時刻表を確かめて「三時三 十六分」「五時三十二分」と書き入れたのだろうと想 像される。 きの 城崎 私の乗った急行「丹波三号」は、京都を出ると古い 小さな花園の駅を通過して、間もなく保津峡にかかっ 季節はちがうが「暗夜行路」に、 「山から亀岡までの保津川の景色は美しか「た」「青 ふち わず 亠月とした淵」「ー 月からきりたった山々の上に愛宕が僅 かにその頂を見せていた」 と書いてある通りの、美しい車窓風景である。 ふくちゃま 謙作の旅では、綾部、福知山、それから和田山へ来 てようやく夏の日が暮れたとあり、京都から和田山ま 左京都銀閣寺付近で花を売る人 さき
謙作がお栄と食事をした京都瓢亭 ( 「暗夜行路」 ) 右京都清水の音羽の滝 ( 「暗夜行路」 ) まで書 くとして、汽車の時間がたいへんはっきり、 いてある。 ほんとうにそのころ、こんな列車が山陰本線を走っ ていただろうか ? 興味を覚えて調べてみると、「当 時」の意味の取りようにもよるが、昭和二年七月号の 時刻表に、三時三十六分発鳥取行「二〇九」列車、五 時三十二分発城崎行「二一一」列車というのがあった。 どちらも蒸気機関車に引っぱられた各駅停車の普通列 車で、この時山陰線には急行や準急というものはな 作者はこんなことも決しておろそかには書いてい ないと思って、私は妙なところで感心した。 ただし、謙作は花園駅から乗ることになっているが、 右の時刻は二つとも京都駅発のものである。 それからついでにもう一つ、この些事を追究して行 くと、作者の錯覚としたらちょっと面白いある事実に も行きあたる 「暗夜行路」の大山の場面は、理詰めでいえば大正六 年又は七年の夏である。何故そうなるかというと、「後 ( 一一篇」の「第 = 一」に、京都深草の兵場で墜落たモラ ン・ソルニエという飛行機と「という飛行士の 話が出て来る。これはフランスからモラン・ソルニエ 機をたすさえて帰朝し、大正四年の一月京都で墜死し た荻田常三郎をモデルにしていると考えられるので、
キ第、、 : ら躡 : 、リい ー叮をい , 南禅寺の裏から疏水を導き、乂そ たんほ れを黒谷に近く田圃を流し返して ある人工の流れについて二人は帰 って行った。 ( 「暗夜行路」 ) 右謙作と直子が結婚する五日 前に訪れた京都の南褝寺裏疏水 水は高架の樋を伝って流れる。 上松虫鈴虫の寺・京都安楽寺 ( 「暗夜行路」 )
第いをイを第 な不幸におそわれ、気持がすさんで来る。自分のすさ んだ心と生活とを何とか立て直そうとして、「今度は 何も彼も卒業して人間が変って帰って来たい」と家族 に言い残し、一人大山へ旅に出て行くところが、「暗 夜行路」後篇の一つの山、終末への導入部になってい ある夏の午後、謙作は婆アやに人力車をよばせて、 : しび 大きなスーツケースを両足の間に立て、暑い西陽を受 きがさ けながら衣笠の自宅から山陰線花園の駅に向う。 私もこのあたりから今度の旅をはしめることにした。 私の乗「たのは、京都十一時五分発城崎行の「波 三号」というディーゼル急行であったが、謙作は「当 円時」どんな列車に乗ったのだろう ? 「暗夜行路」の中には、次のような一節がある。 たちぎわ 京 「普通の旅とは心構えが異うだけに出発際が何とな ごっこ。 なんじ 『何時でもいいんだ。どうせ一日で山までは行けな のんき いんだから : ・ : ・』彼は出来るだけ暢気らしい風をし 彼ま旅行案内を見ながら、 てこんな事を言っていた。 , ー 『三時三十六分鳥取行か。若しそれに遅れたら五時 三十二分の城崎行でも、 京都から大山まで「一日では行けない」ほど便の悪 かった当時の様子がよくうかがえるが、それはともか 左京都大徳寺 ( 「暗夜行路」 )
216 「いけない事よ」 「その時、私、京都へ行きたいの」 「俺にだけ見せろ」こういって取ろうとすると、妙子は怒 「お兄さんに連れて来て貰う一 「ええ、そのつもり。だけど何時なの ? 学校がお休みでったように、 「いやよ」と言った。 ないと駄目なのよ」 「お祝いか ? 」 「其頃かも知れないよ」 「お祝いは又別に差上げるのよ」 「なるべくそうしてね」 「お祝いの手つけか」 「妙ちゃんの都合で、そんな事決められないわ」と咲子が 言った。妙子は怒ったように黙って姉を見返して居た。咲「いい事よ、お兄様には関係のない事よ。黙っていらっし ちがだな 子は学校が休みでも妙子の京都行きは父が許す筈がないとやい」妙子は起ってそれを違い棚に載せた。 なん わざ 思って居るのだ。それは謙作にも分った。分っていながら「意地悪 ! そんならロで言え。何だ」信行は故とこう乱 ちょっと 調子を合わせ、何か話していた事が、自分で一寸気が差し暴に言った。 「妙ちゃんのお手製の物よ」と傍から咲子が口を出した。 た。で、彼も黙って了った。 : こ妙子は姉をにらん 「姉さん余計な事を言って : ・ 近くまで来ると、妙子は一人先に記けて行って了った。 むこう だ。そして京都へ帰るまでは決して開けないと言う堅い約 荷を置いて来た俥が彼方から帰って来た。 間もなく一一人が産御町の家についた時には妙子は座敷の東を謙作にさせ、漸く満足した。 真中に大きい風呂敷包みを解いている所だ 0 た。菓子折り「そんなに勿体をつけちゃ 0 て、叝 0 て可笑しいわ。それ のような物、、果物、その他シャツや襦袢の類まであこそ、開けて口惜しき玉手箱にな 0 てよ」こうい 0 て咲子 びも った。その也にもう一つ新聞紙で包み、うえを紐で厳重にはクスクスと笑い出した。 「まあ、ひどいー」妙子は眼を丸くして、眤っと姉の顔を 結わえた函ようのものがあって、妙子は想わせ振りな顔つ 見凝めていた。涙が出かかって居た。 きをしながら、それを別にし、 オんさま 「これは謙様の : ・ : 」と言った。「今お開けになっち「おい、もう直きひるだが、お前達がやるんだよ」こんな ゃあ、いけない事よ、京都へお帰りになってから見て頂事を信行がいっても怒った妙子は知らん顔をしていた。 かえりけんちょうじはんぞうぼう みんなえんがくじ 午後皆で円覚寺へ行った。その帰途建長寺の半僧坊の山 へ登った。 「どら、一寸見せろ」信行が傍から手を出して言った。 戴」 はこ そば また
ぎんかくじ さんじゅうさんげんどうひがしやま 翌日は朝から出て銀閣寺から三十三間堂まで東山側を四た母が又出て来て「つらい事はお察ししますが、どうか一 あらしやま 人で歩いた。其翌日は嵐山へ行った。夕方嵐山から帰って寸、京都の事をお詫びして来て下さい」と言った。自分は 四条の小さい料理屋で食事をする時、自分は妹に父の宿屋一寸まごっいた。自分は我孫子へ住むようになった時、父 ひど ろく かたがたあいさっ に電話を掛けさせた。父は甚く怒って妹に直ぐ宿屋へ帰るの部屋にそれを言い旁々挨拶に行った。父は碌に返事をし よういったと言う事だった。自分達は妹に別れて衣笠村のなかったが、自分から挨拶に行った事で京都時分と気持の し つもり 家へ帰って来た。間もなく宿屋から車夫が妹の手紙を二通変った事を下た手から示した心算でいた。それでもう其事 持って来た。一つは父のいる前で書いた、使の車夫に置いは済んだ心算でいた。 て来た荷物を渡してくれという手紙だった。一つは父に隠「お父さんはお部屋ですか」と自分は言った。 ひど れて鉛筆で走書きした、父が甚く怒っている事、そして叱「お起きになってお部屋で待っていらっしやるの」 あした まわ られた事、そして明日の朝京都は引上げて大阪へ行くとい 自分は帯の結び目を後ろへ廻して、父の部屋へ行った。 う事を書いた手紙だった。 父は机の前に机を背にしてって居た。父は、 此事があ 0 てから半年余り経 0 た。其間に自分と妻とは「貴様が此家〈出入りする事は少しも差えない。それは 京都を引払い鎌倉に住む心での下に借家したが妻の神は喜んで許す。然しきまりをつけねばならん事は弭瞭っ 経衰弱が少し甚くなったので、一週間程で又其所を出て上けたいが、・ とうだ」と言った。 あかぎさん 州の赤城山に行き、其所に四ヶ月程暮し、それから暫く又「京都の事はお気の毒な事をしたとは思って居ます。あの てがぬまはとり 旅をして十月の初めから我孫子の手賀沼の畔の今の家に落頃とはお父さんに対する感情も余程変って居ます。然しあ にとん ちついたのである。妻の神経衰弱は殆ど直った。そして妻の時私がああした事は今でも少しも悪いとは思って居ませ は懐姙した。 ん」こう答えた。 「そうか。それなら貴様は此家へ出入りする事はよして貰 解或日自分と妻とは祖母を見舞に上京した。其晩は麻布の 家へ泊る事にして自分だけ友達夫婦を訪ねて、二人の泊っおう」 こうじまち ている麹町の或宿屋へ遊びに行った。そして夜十二時頃自「そうですか」自分はお辞儀をして起って来た。自分はも うち みんな 分は麻布の家へ帰って来た。皆は寝ていたが、母と妻が起うカッとしていた。 きて来た。祖母も眼を覚まして暫く話をした。暫くして自「直ぐ帰ります」自分は祖母と母にそういって、妻に「お 分も寝間着に着更えて床に入った。すると一度寝室へ帰っ前も来るなら来い」と言って着物を着かえ出した。 かいにん うちではい た
左渡欧の途中バンコックにて 右より直哉柳宗悦 ( 後ろ向き ) 浜田庄司梅原龍三郎 ( 昭和 27 年 6 月 ) 下奈良上司海雲宅 で古陶器をみる。 ( 昭和 21 年 ) はすでに三人の女児を持つ一家になっていた。この むしゃのこうじ 年、志賀、武者小路、長与、里見氏等を生んだ雑誌 「白樺」は廃刊となり、またこの年の九月、関東大 震災があった。 志賀さんは京都には足かけ三年住んでいるが、作 品としては「暗夜行路」の一部分のほか「雨蛙」「転 生」「濠端の住まい」「冬の往来」等を発表している。 このころ、我孫子時代から志賀さんに師事していた むか 瀧井孝作氏も京都に移り住み、志賀さんの仕事に対 う姿を、次のように書いている。「大正十二年の夏、 やましな 二階が三室も 京都の山科で、私は橋本基君と共に、 ある借室に住んでいて、その表二階の六畳を志賀さ あわたぐち をー第ー」んが仕事部屋にして、粟田口の宅から通って来て、 私は裏二階の三畳で机に向う例でしたが。夏の暑い 日で、志賀さんは着物も脱いで、肌しゅばんにさる また一つという姿で、書きながら興奮してくると、 二階の表ての縁側から裏二階に通う廊下の方にま で、ノッシノッシと歩きまわって、廊下を往きっ戻 りつして、それは全身炎のように燃え上っているよ うで : : : 」壮年期の志賀さんの、仕事に打込む姿が によじっ 如実にうかがえる文章であるが、志賀さんの小説制 ー上作には、遅筆で出来たものと、速筆でな「たものと 二通りあって、この瀧井氏の文章のときの作品は「雨 てん 458
康子夫人とその両親左より てのこうじすけこと 母康子父尠解由小路資承 う、だこ 大阪の三越にて撮影 ( 大正 4 年 2 月 5 日結婚 2 カ月後 ) 道日 九月説を書かないかと云ってきたのもこの年である。 志賀さんは翌年の大正三年に、武者小路実篤氏 致年 とこ かてのこうじすけこと 公 3 池正の妹にあたる勘解由小路資承の娘、康子三十 園大五歳 ) と京都で結婚し、しばらく京都に住んでい る。父直温氏はこの結婚にも反対で、志賀さんは ド ) ト・せ、、 左哉 一家を立て 自ら進んで父の家から除籍され、別に 直 て ている。 日小説の筆を断 志賀さんはこの年から約三年門 宅四 郎里っているが、その間夫妻で、京都から鎌倉、そし 四九 里 て群馬県の赤城山に移り住み、さらに各地を旅行 九子 したのち、大正五年に千葉県我孫子に落ついてい の康 阪賀る。 大志 志賀さんが再び、さかんな創作力をしめしはし めたのは大正六年からであって、「佐々木の場合」 あ力にしかきた 「城の崎にて」「好人物の夫婦」「赤西蠣太」そして 中篇「和解」を書き、さらに大正八年から九年に かけて「小僧の神様」「暗夜行路」前篇の最終部分 まなづる こきび になる「隣れな男」短篇「雪の日」「焚火」「真鶴」等、 多くの中期の名作を、この我孫子で書いている。 この集に収められている「城の崎にて」は、前 あとよ・フじよう に述べたように大正二年、後養生のためにいった 城崎温泉での見聞と心境をそのまま書いたもので あるが、思いがけない重傷と、その命びろいのあ
「暗夜行路」の旅 志賀直哉文学紀行 阿川弘之 」 7 京都発「丹波三号」 「暗夜行路」の主人公嚇僊悪は 何度か旅に出、遠くは朝鮮の京城 まで足をのばしているが、その中 で謙作の精神面に特に大きなかか わり合いを持つのは、「前篇」の 殿への旅と「後篇」の大山への 旅であろ、つ。旅とい、つよりむしろ 尾道住まい、大山滞在といった方 力いいかも知れないカ、この部分 はまた、作中もっとも見事な叙景 氏 にみちた美しい場面でもある。 この文学紀行て私は、大山と尾 る 道とを中心に、時任謙作至志賀 を 直哉氏の足跡をたどってみたい。 モ メ 謙作は尾道の旅先で自分の暗い 端出生の秘密を知り、悩み苦しんだ 濠 あと、ようやくそれから抜け出し の 城て京都で平和な結婚生活をはじめ 江 たと思うと、間もなく再び、初児 松 の死、妻のあやまちという運命的
刊行。一月半ば尾道にもどる。四月「『クローディアスの日記』にイトル「亡ぎ夏目先生に捧ぐ」 ) を「黒潮」に発表。『大津順吉』を とん 就いて」を「奇蹟」に発表。五月、尾道より帰京。里見弴の「君と新潮社より刊行。七月、次女留女子出生。八月「好人物の夫婦」を 私と」に対して、「モデルの不服」を「白樺」に発表。八月「興津」「新潮」に、五日「或る親子」を「読売新聞」に発表。父との不和が を、九月「出来事」を、十月「范の犯罪」を「白樺」に発表。八月解け、十月いっきに「和解」を執筆し「黒潮」に発表した。またこ あかにしかきた の年九月「赤西蠣太の恋」を「新小説」に、「鵠沼行」を「文章世 山手線の電車にはねられ負傷し、あと養生のため城崎温泉へ行く。 わすら 十一月、城崎から尾道へ行き、中耳炎を患って帰京し、大森山王に界」に、十一月「荒絹」を「白樺」に発表。武者小路・有島武郎・ 住む。この年十一一月、夏目漱石から「東京朝日新聞」に連載小説の広津和郎らの「志賀直哉氏の印象」が「新潮」に掲載された。 三十五歳 大正七年 ( 一九一八 ) 執筆をすすめられて承諾したが、これはついに実現はみなかった。 ーナード・リーチの装幀で短編集『夜の光』を新潮社より 三十一歳一月、・ハ 大正三年 ( 一九一四 ) 四月「児を盗む話」を「白樺」に発表。六月里見弴とともに松江市刊行。三月「或る朝」を「中央文学」に発表、これは翌月春陽堂よ 末次町に移り、のち同市内中原町に転居した。この時のことはのちり刊行。菊池寛が「志賀直哉氏の作品」を「文章世界」に発表。 はうきだいせん 三十六歳 に「濠端の住まい」の中に描かれている。夏、伯耆大山に登る。九大正八年 ( 一九一九 ) 月、京都市南禅寺北の坊に移住。この後三年間創作しなかった。十一月「十一月三日午後の事」を「新潮」に発表。四月まで四谷区舟 なお さだ かでりこうじすけこと 二月、武者小路実篤の徳妹で勘解由小路資承の娘、康と結婚。父直町十一一の九里四郎方に滞在。三月『和解』を新潮社から刊行。四月 き 0 がさ 温はこの結婚に反対であった。翌年一一月、京都市外衣笠村役場に婚「流行感冒と石」を「白樺」十周年記念号に、「憐れな男」を「中央 公論」に発表。広津和郎が「志賀直哉論」を「新潮」に発表。六月、 姻届出の後、すすんで父の家から除籍、独立した。 大正四年 ( 一九一五 ) 三十 . 一一歳長男直康出生、丹毒のため三十七日で死亡。この年、里見らと「人 いがや 五月、鎌倉雪ノ下に移転。一週間後に群馬県赤城山大洞の猪谷旅館間」を創刊した。 三十七歳 大正九年 ( 一九二〇 ) に行く。主人の猪谷六合雄に建ててもらった山小屋に住む。九月、 赤城を去り、上高地・京都・奈良をめぐり、十月、手賀沼の近くの一月「或る男、其姉の死」を「大阪毎日新聞」に連載。「小僧の神 様」を「白樺」に、「謙作の追憶」を「新潮」に、「菜の花と小娘」 千葉県我孫子弁天山に移る。武者小路、柳宗悦、・ハーナー を「金の船」に発表。二月「雪の日」を「読売新聞」に掲載。三 譜チもこの地に前後して住むようになり、親交はさらに深まった。 三十三歳月、京都・須磨・九州を旅行。四月「山の生活にて」を「改造」に 大正五年 ( 一九一六 ) まなづる 年六月、長女慧子出生。生後五十六日で死亡。八月、我孫子から東京・発表。五月、三女寿々子出生。九月「真鶴」を「中央公論」に発表。 かんばやし 三十八歳 大正十年 ( 一九二一 ) 信州上林・加賀山中温泉・京都・奈良をまわり十月我孫子へ帰る。 三十四歳一月より八月まで「暗夜行路」前編を「改造」に連載。大正三年執 大正六年 ( 一九一七 ) 五月「城の崎にて」を「白樺」に、六月「佐々木の場合」 ( サ・フタ筆の「寓居」を「新潮」に発表。二月、短編集『荒絹』を春陽堂よ はる