げり 所へ起って行った。少し不痢だった。出て来ると妻は同じ事実を書く場合自分にはよく散漫に色々な出来事を並べ わざ 所に坐ったまま、ポカンとしていた。自分は其所から故とたくなる悪い誘惑があった。色々な事が憶い出される。あ れもこれもと言う風にそれが書きたくなる。実際それらは 少し離れた所に妻の方を背にして又ごろりと横になった。 かたっし わき 妻は赤児を傍に寝かして寄って来た。そして自分の腰を揉れも多少の因果関係を持っていた。然しそれを片端から もうとした。自分は黙って其手を払いのけた。 書いて行く事は出来なかった。書けば必ずそれらの合わせ 目に不充分な所が出来て不愉快になる。自分は書きたくな 「何故 ? 」と情けない声をした。 * たく る出来を巧みに捨てて行く努力をしなければならなかっ 「兎も角、触らないでくれ」 「何を怒っていらっしやるの ? 」と言う。 「こう言う時お前のような奴と一緒にいるのは、独り身の父との不和を書こうとすると殊に此困難を余計に感じ よっにど た。不和の出来事は余りに多かった。 時より余程不愉快だ」 ごと 暫くすると妻が泣き出した。 それから前にも書いた如く、それを書く事で父に対する しえん こう言う時自分はジリジリする程意地悪くなる。自分で私怨を晴すような事は仕たくないという考が筆の進みを中 自分を制しきれなくなる。然し一方妻の乳が止まられると中に邪魔をした。所が実際は私怨を含んでいる自分が自分 厄飛だという気があった。去年の赤児に対し、死んだとい の中にあったのである。然し、それが全体ではなかった。他 うより自分の不注意で殺したというような気がどうかする方に心から父に同情している自分が一緒に住んでいた。の どん とする自分は今度の赤児には出来るだけ注意深く扱ってやみならず丁度十一年前父が「これからは如何な事があって こ ろうと言う気が中々強かった。自分はいい加減の所で我慢も決して彼奴の為めには涙は溢れない」と人に言ったと言 う。そして父がそう言い出した前に自分が父に対して現わ 解其晩医者を呼んだ。 した或る態度を憶うと自分は毎時そッとした。父として子 二日程寝た。 からこんな態度をとられた人間がこれまで何人あろう。自 分が父として子にそんな態度を取られた場合を想像しても 和 堪えられない気がした。父がそう言ったと聞いた時に父の 身体が直ると又十月の雑誌に出すべき仕事にかからねば言う事は無理でないと思った。そして自分も孤独を感じた。 あかさま っ ならなかった。「夢想家」を書ぎ直す事にした。 然し父が今明ら様に自分に就いて言っている不快はそれ ひとみ こ 0 ちょうど この
たんぼみち で小さい棺を担いで御ってくれた。田圃路から町の方へ坂分には出来なかったのである。腹は立つが、不徹底は毎時 うち を登って行く途中に町の知っている家のお婆さんが草花を其所から起って来た。此事は自分の創作する上にも毎時邪 沢山持って見送りに出て居てくれた。其花は棺の上に乗せ魔をした。自分は此五六年間父との不和を材料とした長篇 て貰った。 を何遍計画したか知れない。然し毎時それは失敗に終っ 産後の七十五日の経っていない妻は自家に残る事にした。自分の根気の薄い事も一つの原因であったにしろ、又 しえん それで父に私怨をはらすような事はしたくないというこだ さくぶつ 其朝赤坂の叔父から、棺は赤坂へ運ぶようと言う電報がわる気も一つだったにしろ、それよりも其作物の発表が生 来た。父が麻布の家へ運ぶ事を拒んだのだと思った。自分む実際の悲劇を考えると、自分の気分は必ず薄暗くなって は腹から不愉快を感じた。自分にはこういう考があった。 行った。殊に祖母との関係の上に批げる 暗い影を想う時 みんな 若し皆に父と自分との関係に赤児を利用する気がなかった に、自分は堪らない気がした。三年程前松江にいた時自分 ら、赤児は死なずに済んだのだ。素より自分が気が進まな はその悲劇を出来るだけ避けたい要求から長篇に次のよう なコムボジションをした事があった。或る陰気な顔をした いのを折れて赤児の東京行きを承知した事は悔いても悔い ても足りない気がしたが、今はもう仕方がなかった。今は青年が自分の所へ訪ねて来る。それは松江の新聞に其頃続 せめて死んだ者に対して出来るだけの事をしてやりたかっき物を書いている青年だった。其青年が届けてくれる続物 た。所が父は麻布の家へ連れて行く事を拒んだ上に赤児のを読む。それは父との不和を書いたものだった。其内続物 そうそぼ みんな こうふん 小さい叔母共や曽祖母に、「皆も赤坂へ行く事はない」とが途中で急に新聞に出なくなる。青年が亢奮してやって来 言ったと言う事を聴いて、自分は腹の底から腹を立てた。 る。それは青年の父が、青年が偽名で出していたにかかわ 自分に対する怒りを其儘に赤児に移して現わされた場合、 らず気がついて、東京から人を寄越して新聞社に金をやっ 解前々夜から前日の朝までジリジリとせまって来た不自然なて連載させなくしたと言うのだ。それから色々気持の悪い 死、それにあるだけのカで抵抗しつつ遂に死んで了った赤出来事が其青年と父との間に起って来る。それを第三者と ぎようし 和児の様子を凝視していた自分にはそれは中々思い返す事のして自分が書いて行く。自棄に近い共青年が腹立ちから父 出来ない不愉快だった。総ては麻布の家との関係の不徹底に不愉快な交渉をつけて行く。父は絶対に此青年を自家の そのた から来ていると思った。自分は腹立たしかった。然しそれ 門から入れまいとする。其他色々そう言う場合父と自分と じゅんし を徹底させる為めに阻母との関係をそれに徇死さす事は自の間に実際起り得る不愉快な事を書いて、自分はそれを露 こ 0 そのまま た
「まあいい」謙作は不愉快そうに言う。「あなたはそれで差迫 0 てどうという事もなか 0 たから、出掛けるにも気持 いよ。然しこっちまで一緒にそんな気になるのは御免に踏みきりがっかなかった。 だ。実際仕方がないじゃあないか」 直子が出来、お栄に対する彼の気持も幾らか変化したの は事実だった。・ : カ少年時代から世話になった関係を想 「それより僕は近頃お栄さんの事が少し心配になって来た 、又、一時的にしろお栄への一種の心持ー、ー今から思え んだ。此方には全で便りを寄越さないし、前の関係から言ば病的とも感ぜられるが、兎に角結婚まで申込 - んだ事を考 って信さんに任せ「きりというわけには行かないから、そえると、差迫 0 た事がないとしても、こう愚図愚図・ほっ の内一度朝鮮へ行って来ようと思うんだ」 て置く事が、如何にも自分の冷淡からのよう思われ、心苦 うなず しばらく 直子は一寸点頭いたまま、返事をしなかった。少時してしかった。 あるひ 謙作は、 或日、鎌倉の信行から書留で手紙が届いた。それに信行 つるが 「その間、あなたは敦賀へ行っていないか」と言った。 宛のお栄の手紙が同封してあった。 な・き′」と 「泣言でも、 しいに行くようでいやあね」 不愉快な出来事から、最近、警部の家を出て、今は表記 あき 「泣言を言って来ればいいじゃよ、 十ーし、カ」 の宿で暮らして居ります。私もほとほと自分の馬鹿には呆 「それがいやなの。貴方にならいいけど、実家の者にもそれました。此年になり、生活の方針たたず、その都度お手 れは言いたくないの」 頼りするのは本統にお恥かしい次第ですが、仏に身寄りも 「何故。 : 一緒に行ってあなただけ置いて来よう」 なく、偶々力になって貰えると思ったお才さんは私が思っ 「いいえ、結構。どうせ、十日か半月位なら仙と二人でおたような人でなく、どうしても、又お願いするよりムいま 留守番しててよ。あんまり淋しいようだったら、その時勝せん。 くわ 手に一人で出かけるわ」 精しい事情はここで申上げません。又申上げられるよう 行 うち 「それが出来れば一番いい。家で悲観しているようだと、 夜 な事でもムいません。私は一日も早く内地に帰りたく、今 暗こっちも旅へ出て気が楽でないからね」 はその心で一杯でムいます。 なかなか 然しこんな事を言いながら謙作は却々出かけられなかっ こんな意味だった。つまり宿の払いと旅費を送って貰い ひど た。西は厳島より先を知らなか 0 た。それで城までが甚たいと言うのだ。謙作は読みながら、信行の手紙にも一寸 く大旅行のよう思われ、億劫だった。一つはお栄の方にも書いてあったように、前には大連で盗難に会い、直ぐ帰る いつくしま まる せん また たまたま
そして登喜子との事が既にそれであった。彼は自分に盛 つが如何にも慶太郎のやりそうな事と思われる点で、段々 ただ それ程には思わなくなった。只一番こたえたのは愛子の母上がって来た感情を殺す事を恐れながら、扨て近づこうと その の気持であった。日頃其好意を信じ切って居ただけに、此して、それが最初の気持には全で徹しない或る落着きへ来 なお 結果になると、其好意とは全体如何言うものだったかが彼ると、それでも尚、突き進もうと言う気には如何してもな しな には全く解らなくなった。断られるまでも何か好意らしい れなかった。其処で彼の感情も一緒に或る程度に萎びて了 ものを見せられたら彼はまだ満足出来た。所が、それらしう。 いものも全で見せられずに彼は突き放された。彼は不思議 な気がした。 あきら し、「世の中はこんなものだ」こう簡単に諦める事も謙作が二度目に登喜子と会ってから二三日しての事であ ちょうど 出来なかった。若しそう簡単に片付けられたら、彼はまだ った。其日は丁度十四五年前に死んだ親しい友の命日で、 そのぼさん ら * そめい しも楽だった。・ : カこれが出来ないだけに彼は一層暗い気彼は其頃の親しかった友達等と染井に其墓参に出掛けた。 すがもていしやじよう 持になった。 墓参を済まして巣鴨の停車場へ帰って来たのはもう日暮 はっきり にぎや 彼は書いて見る事で多少でも此事がらを明瞭さす事が出れだった。 , 彼等はそれから賑かな処へ出て、一緒に食事を はす 来るだろうと考えた。そして書いたが、矢張り或る所までする筈だったが、此電車で上野の方へ廻るか、市内電車で す 来ると、どうしても理解出来ないものに行き当った。 直ぐ銀座の方へ出て了うかで、説が二つに分れた。謙作は 人の心は信じられないものだと言う、ー俗悪な不愉快な考何と言う事なしに、上野の方へ出たい気がして居た。上野 が知らず知らず、自分の心に根を下ろして行くのを感ずるから登喜子のいる方へ行くと言う程の気はなかったが、只 と、彼はいやな気持になった。それには近頃段々面白くな何となく、その方へ心が惹かれるのだ。 くなって来た阪ロとの関係もあずかって力をなして居た。 然し結局銀座へ出る事になった。そして銀座まで来ると すべ 然しこう傾いて行く考に総て人生の観方をゆだねる気は今度は又、食事をする場所で説が分れた。皆は昔からの子 彼になかった。これは一時の心の病気た、彼はそう考えよ供らしい我儘を出し合った。それが面白くもあった。近頃 れんじゅう うとした。・ : カそれにしろ、新たに同じような失望を重ね仏蘭西人が開いた西洋料理屋へ行こうと言う連中と、うま そうな事には不知、用心深くなっていた。寧ろ臆病になっ い肉屋へ行こうという連中とで、中々ゆずり合わなかっ て居た。 まる どう みかた この フランス こ 0 わいまま みんな どう
はす その事ではよく祖母に怒った。怒っても祖母は「はばかりをかけていいかわからない祖母を見た。顎の容易に外れる さら でなければ出ないから仕方ない」と言って無理に立って行事で胸を打たれた自分は更に祖母の粗相を見た。自分の恐 ったりした。然し祖母も段々に無理は言わなくなった。病れて居た事がいよいよ来たのではないかと言う恐怖を感じ 室におかわを入れる事もそれ程厭がらなくなった。それに そそう しろ、知らずに粗相するような事は自分はこれまで一度も母が不愉快な顔をして帰って来た。そして縁側から自分 知らなかった。 に手招きをした。自分は起って行った。母は小声で、 ばあ ごようす 母は女中に湯を持って来さして身体の下の方を叮嚀に浄「お祖母さんもネ、此御様子ならもう心配はありませんか ら、今日はどうかこれで帰って下さい。ねえ、どうか気を めた。そしてそれをしている時にの女中が来て母に、 ござ 悪くしないで」と言った。自分はムッとして黙っていた。 「旦那様がお呼びでムいます」と言った。 自分は母が「此様子なら心配はない」と言っている気持が 始末を済ますと母は其所を起って往った。 八十二にしては祖母は珍らしいカのある生々したまなざ理解出来なかった。母は又、 「こう言う御病気の中で若しお父さんと衝突でもするよう しを持っていた。身体は此四五年段がついて弱ったように 思っても、其まなざしを見る時に自分は未だ未だという安な事があると、それこそ、何よりの不孝になるのですか ら」と言った。 心を持つ事が出来た。声にも祖母は一種の力を持ってい た。離れた所にいる女中や、孫達に坐った儘に何か命じた「お父さんと僕との関係と、僕とお祖母さんとの関係とは りする、其時は中々強い声を出した。それを聴く時自分は全然別なものに僕は考えているんです。それはお母さんも こうふん 何時も或る愉快な気持を感じた。実際自分は祖母の死を恐認めて下さるでしよう ? 」自分は少し亢奮して言った。 れた。祖母の死の場に起る父との不愉快な出来事を想像し「ええ。それはよく解っています」 それ 解ても、それは恐しかった。然し夫より兎に角祖母にはもっ 「そんならお父さんにもそれを認めて頂きましよう。若し と生きていて貰いたかった。自分は前に挙げた良人と妻と認めて下さらなくても僕のする事は同じですけれど、兎も おだや 和女中懐姙との話で妻の祖母が大病になる事を書く場合に角出来るだけ穏かにお父さんに手紙を書いて願って見まし も、其祖母の年を祖母より二つ年上にして、そして其大病よう」 えんぎ が直る事を書いた。自分は何となく縁起を善くして置かな「それが、よござんすよ。心から穏かにね」 いと気が済まなかった。然し今自分は眼の前に何所に望み「そんならいっそ今お会いして来ましようか。お書斎です からだした かく どこ ていねい こ 0 わか
すくいだ がうまく行った時は彼はわけもない満足を覚えながら帰っ に人類を救出そうという無意識的な意志であると考えてい た。当時の彼の眼には見るもの聞くもの総てがそう言う無て来るが、どうしても、うまく行かない時は意地になって 意識的な人間の意志の現われとしか感ぜられなかった。男根気よく投げた。 あせ 彼は大山の生活には大体満足していたが、ただ寺の食事 という男、総てその為め焦っているとしか思えなかった。 いらだ あせ には閉ロした。彼は出掛けに食料品を送る事を断った位 そして第一に彼自身、その仕事に対する執着から苛立ち焦 で、粗食は覚悟していたが、其所まで予期出来なかったの る自分の気持をそう解するよりはなかったのである。 体るに今、彼はそれが全く変って居た。仕事に対する執は米の質が極端に悪い事だった。彼はそれまで米の質など 着も、その為め苛立っ気持もありながら、一方遂に人類が余り気にする方ではなかったが、食うに堪えない米で我慢 地球と共に滅びて了うものならば、喜んでそれも甘受出来していると、不知減食する結果になり身体が弱ってくるよ る気持になっていた。彼は仏教の事は何も知らなかったうに思われた。 が、涅槃とかお楽とかいう境地には不思議な力が感寺のムさんは好人物で彼の世話をよくした。山独活の奈 らづけ ぜられた。 良漬を作る事が得意で、それだけはうまかった。 りんざいろく 彼は信行に貰った臨済録など少しずつ読んで見たが、よ鳥取へ嫁入った寺の娘が赤児を連れて来ていた。十七八 く分らぬなりに、気分はよくなった。鳥取で求めて来た高の美しい娘だった。座敷へは余り入って来なかったが、彼 僧伝は通俗な読物ではあったが、が也上人を訪の窓の下へ来てよく話した。 「やや児のような者にやや児が出来てどうもなりません」 ねての問答を読みながら彼は涙を流した。 いとじようどよろこ こころせつ 「穢土を厭い浄土を欣ぶの心切なれば、などか往生を遂げ娘はこんな事を言って笑った。人から言われたのをその儘 真似して言っているとしか思われなか 0 た。母親一人で ざらん」 路 簡単な言葉だが、彼は恵心僧都と共に手を合せたいようしく働いているのに娘はいつも赤児を抱いてぶらぶらして 行 な気持がした。 いた。謙作は此娘に対して別に何の感情をも持たなかった あみだどうえん 暗彼は天気がよければ大概二三時間は阿弥陀堂の縁で暮らが、娘がよく窓の外へ来て立話をして行く気持には、娘な した。夕方はよく河原へ出て、夏蜜柑位の石を河原の大きがらに、既に人妻となったという事で男を恐れなくなった い石にカ一杯投げつけたりした。かあんと気持よく当っのだと思った。そして彼は直子の過失も直子が未だ若し処 て、それが更にの石から石と幾度にも瓣んで行く。それ女であったら、或いはああいう事は起らなかったのではな こう
方なくなる自分の気持も面白く感じた。 ている自分はもとより泣いた、 以上のような事が書いてあるのを私は発見した。そこで私の「母の死と新しい母」に次のような一節がある。 なる′」 なおゆき わたし は母は父が鳴子温泉で言った時とは違って、祖父母の為め 母は十七で直行と言う私の兄を生んだ。それが三つで よくねん に子供から離されている事を泣いているのだ。昔風に教育死ぬと、翌年の二月に私が生れた。それつきりで十二年 しゅうと わがまま された母は舅姑に対し、直接的な不平は言えず、私が我儘 間は私一人だった。所に、不意に此手紙 ( 祖父から片瀬 かいにん でいう事をきかないという事も父に訴えたのかも知れない の水泳場にいる私へ来た手紙で、母の懐姙した事が書い うれ が、母の本統の気持からいうと、母と私との生活がしつか てある ) が来たのである。嬉しさに私の胸はワクワクし りと結びつかない淋しさを悲しんだのではないかと思っ た。一人しかいない子供に母親として密着出来ない事は淋然しこれは私自身が如何に喜んだかという事で、母がそ しかったろう。そして、それを見ながら、どうする事も出の事をどんなに喜んだか、今度こそは本統に自分の子とし 来なかった父にも今の私は同情する気持になっている。 て育てる事が出来るだろう、祖父母の手に渡さずに済むだ 私には五人娘があり、未だ一人自家にいるが、嫁入ったろう、そういう喜びに母は震えていたかも知れない。私は ある、 四人は皆、一一人或に三人の子持ちで、その三番目の娘が今自分に弟か妹が出来るという事で、非常に喜んだが、母の すで は既に母の亡くなった年よりも二つ上になっている。私は喜びはそれどころではなかったろう。私は二十九歳の時、 母を母として考えるよりも娘に対する心持に移して考え、 「母の死と新しい母」を書いて、自分の喜びは書いたが、 かわいそう 母の淋しい気持が非常に可哀想になった。保りに娘の一人母の喜びを書く事は出来なかった。本統にそれが察しられ が母のような境遇にいる場合を考えると私は堪らない気持なかったのである。今、自分の娘達が、自分の子供を叱っ になるのだ。 たり、可愛がったりしているのを見ていると、私はそれの 線若い頃の私は母の不幸は若くて死んだ事だと割りに簡単出来なかった母の淋しい気持を察し、堪らなく可哀想にな に考えていたが、それ程に簡単なものではなかった。此る。私には孫が十二人ある。男八人、女四人で、男の方が あいだ 間、夜明け、私はひとり床の中でそんな事を考え、起き多いので、一層にそういう事を考えさせられる場合が多 て、朝の食卓で、家内や娘にその話をしていたら、急に涙 行が出て来て困った。体力の衰弱からも来るのだが、六十年母は悪阻になり、それが段々ひどくなり、私が片瀬から 前に亡くなった母親を自分の娘に移し考えて、可哀想で仕買って来た色々の土産を見ていたが、翌朝になるとそれを んとう さび ま たま この こ 0 つわり かたせ
404 たらふく すいこう 遂行出来たのである。小僧も満足し、自分も満足していい たいようにして鱈腹に食う事が出来た。 はす 茶をさしに来たかみさんに、 筈だ。人を喜ばす事は悪い事ではない。自分は当然、或喜 「もっとあがれませんか」と言われると、仙吉は赤くなっぴを感じていいわけだ。所が、どうだろう、此変に淋し て、 しいやな気持は。何故だろう。何から来るのだろう。丁 「いえ、もう」と下を向いて了 0 た。そして、しく帰り度それは人知れず悪い事をした後の気持に似通 0 て居る。 じたく 支度を始めた。 若しかしたら、自分のした事が善事だと言う変な意識が たくさん あざけ ほんとう 「それじゃあネ、又食べに来て下さいよ。お代はまだ沢山あって、それを本統の心から批判され、裏切られ、嘲られ 頂いてあるんですからネ」 て居るのが、こうした淋しい感じで感ぜられるのかしら ? 仙吉は黙って居た。 もう少し仕た事を小さく、気楽に考えていれば何でもない 「お前さん、あの旦那とは前からお馴なの ? 」 のかも知れない。自分は知らず知らずこだわって居るの 「いえ」 だ。し兎に角恥ずべき事を行 0 たというのではない。少 あるじ 「へえ : ・ : ここう言って、かみさんは、其処へ出て来た主くとも不快な感じで残らなくてもよさそうなものだ、と彼 と顔を見合せた。 は考えた。 「粋ななんだ。それにしても、小僧さん、又来て呉れな其日行く約束があ 0 たのでは待 0 て居た。そして二人 いと、此方が困るんだからネ」 は夜になってから、の家の自動車で、夫人の音楽会を ただむやみ 仙吉は下駄を穿きながら只無闇とお辞儀をした。 聴きに出掛けた。 晩くなっては帰って来た。彼の変な淋しい気持はと しま にとん 会い、夫人の力強い独唱を聴いて居る内に殆ど直って了 は小僧に別れると追いかけられるような気持で電車通った。 ちょうど はかり あんじよ ) に出ると、其処へ丁度通りかかった辻自動車を呼び止め「秤どうも恐れ入りました」細君は案の定、其小形なのを て、直ぐの家へ向った。 喜んで居た。子供はもう寝て居たが、大変喜んだ事を細君 は変に淋しい気がした。自分は先の日小僧の気の毒なは話した。 様子を見て、心から同情した。そして、出来る事なら、こ「それはそうと、先日鮨屋で見た小僧ネ、又会ったよ」 うもしてやりたいと考えて居た事を今日は偶然の機会から「まあ。何処で ? 」 さび また だい おそ どこ すしゃ この
245 暗夜行路 う言う生れたての赤児を見る機会が彼には殆どなかったか「どうしたんだろう ? 」謙作はほっとするような気持で直 らでもある。 子を見た。直子は、 つるが 敦賀の方からは誰れも出て来なかった。母はもう少し後「よかったわ」と言った。 はすおば ごぎ でなければ出られず、直ぐ飛んで来る筈の伯母は持病の神「よう夜啼きちゅう事をされるややはんがムりまっせ」と 経痛で動けずに居ると言う便りがあった。然し直子は別に仙が言った。そして仙は天井に「鬼の念仏」を張るといし といって、それを勧めた。 それを淋しがらなかった。お七夜と言う祝い日が近づき、 なかなか みんな 早く名を命けねばならなかったが、却々気に入った名が浮赤児は続いてよく眠って居た。皆は出来るだけ静かに自 ばず、結局のとの識とを取って、直謙とした分達の寝床へ還った。 もっと が、赤児には絅かめし過ぎて、気に入らなか「た。「尤謙作は独り二階の書斎に寝ながら、矢張り却々眠むれな もいつまで赤坊で居るわけでもないから」と彼はそれに決かった。そして直子も屹度眠むれずに居るだろうと思っ さんじよく めた。 た。産褥に居る直子は昼間も時々眠って居たから尚眠むれ 一週間は至極無事に過ぎ、そして八日目の夜になって、 ないに違いなかった。然し赤児を覚ます恐れから彼は降り みんな もう皆床に就いてから赤児が泣ぎ出し、どうしても、それて行く事も出来なかった。 し ! ら あいだ を止めなかった。乳首を含ませると一寸の間泣き止むが、 彼は気を更える為めに気楽な本を読んで居た。暫くする へそ した 直ぐ又泣いた。臍を調べて見たが、どうもなく、若し虫にと階下の茶の間でポンポン時計の十二時を打つのが聴こえ す癶とりか でも刺されて居るのではないかと、着物を総て取更えてみた。そして赤児は又泣き出した。直子と看護婦と何か言っ たが、それでも泣き止まなかった。原因が分らないだけにてる声がして来た。彼は二階を降りて行った。 直子は床の上に坐って赤児を抱いて居た。赤児は出来る 変に不安を感じた。熱を計ると、少し高かった。 だけの声を出して泣いて居た。 「どうだろう、さんに来て貰おうか」 「そうね。その方がいいかも知れませんわ」直子も不安そ「時計、どうか出来なくって ? あれで眼が覚めたのよ」 うにロった 0 直子は謙作を見上げ、腹立たしそうに言った。 然し間もなく、赤児は泣き疲れたように段々声を落して「止めて置こう」 ちょうだい 行って、仕舞に泣き止んだ。そして安らかな吸をしなが「ええ、そうして頂戴。ーーーあの時計、これから使わなく らよく眠入った。 てもいいわ」と直子は言った。 や さび ちくび よる あと ひと
310 「そうして下さい」 ムさんがこう言 0 た。その姆何にも暢気な調子が謙作を一 庫裏の土間に立って、二人がこんな事を言っている所層不安にした。 そと まきぎやはんわらじば きやくふひたい に、戸外から巻脚絆に草鞋穿ぎの若い郵便脚夫が額の汗を「オフミハイケン、イサイフミ、アンシンス、ナオ」 しりもち かまち 拭きながら入って来た。彼は尻餅をつくように框に腰を下「ありがとう」謙作は郵便脚夫に礼を言い、無意識にその かえ らし、紐で結んだ一ト東の手紙を繰り、中から二三通の封電報を幾つにも畳みながら、自分の部屋へ還って来た。 書を抜きとり、其所へ置いた。 何故、そんなにドキリとしたか自分でも可笑しかった。 「どうも御苦労さん。今日あたりはえらいだろうね。お茶彼は電報の返事を全然予期しなかった事が一つ、それに手 力しいかね。水がいいかね」 紙を出して了うと、もっと早くそれを言ってやるべきだっ さら 「水を頂きましよう」 た、というような事を此二三日切りに考えていた、更に竹 「砂語水にしようか」 さんの家の快な出来事が彼の頭に浸込んでいた、その そう ひらめ 「すみません」 想が電報で一遍に彼の頭に閃いたのナ作を 三。れこしろ、虧鹿 かく 謙作は郵便脚夫が手紙の東を繰る時、一寸眼で直子の字気た想像をしたものだと彼は心に苦笑したが、「兎に角、 もちろんま を探したが、勿論未だ返事の来る筈はなかったので、 これでよし」と、彼は急に快活な気分になった。そして何 「それじゃあ、があ 0 てもなくても、なるべく明日の晩度か電報を読み返した。 と言う事にして下さい」台所へ行く上さんにこう声をか其晩、彼は蚊帳の中の寝床を月寄せ、その側に寝そべっ ひきかえ け、自分のいる離の方へ引還そうとした。 て、久しぶりに鎌倉の信行に手紙を書いた。彼は自分が此 こま′」ま 「そうそう」 山に来てからの心境について、細々と書いてみるのだが、 郵便脚夫は急に何か憶い出した風で、上着のポケットをこれまでの自分を支配していた考が余り空想的であるとこ さぐ 一つ一つ索って、皺になった電報を取出すと、「ええとろから、それから変化した考も自分の経験した通りに書い ときとう ひと ・ : 時任さんは貴方ですね」と言った。 可こも空虚な独りよがりを言っているように て行くと、 謙作はドキリとし、不意に、直子が死んだと思った。自なり、満足出来なかった。そういう事を書く方法を自分は 殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかった知らないのだとも思った。そしてそれよりも直子かお栄の どうき のだ。彼は自分の動悸を聴いた。 手紙で自分の旅立ちを知り、心配しているかも知れない信 、と思い直し、五六 「お宅からですか ? 」コツ・フを載せた盆を持って出て来た行を安心さすだけの手紙を書く方がいし ひも しわ あなた はなれ かみ ちょっと この しき そは