事を少し訊いた後で、何時から京都へ来たか、そして何のめて居た。 為に、と言うような要らざる事まで訊き出した。謙作はな「兎に角、身体を一つ拝見しましよう」医者が言った。 るべくそう言う話を避ける為めに医者よりも一、ト足先に歩看護婦は障子を閉めてから、赤児を受取り、少さい蒲団 いた。小さい医者はそれに遅れまいと息を切りながら、つに寝せて、何枚も重ねてある着物の前を開いた。 のど いて来た。 「それでよろしい」医者は近寄って、胸から腹、咽、それ 医者の診断は結局不得要領だ 0 た。医者は襁褓に着いてから足までに調べ、二つ三つ打診をしてから、自身で はうたい 、そお したはら 居る粘液から、矢張り一種の消化不良だろうと言った。その緒の繃帯を解ぎ、大ぎな年寄らしい手で下腹を押して して泣いても、なるべく乳を飲まさぬようにと言うような見た。赤児は火のつくように泣いた。 注意をして、間もなく帰って行った。 「一寸背中の方を出して下さい」 よじゅう みんな 赤児は夜中泣きとおした。 少なくとも皆にはそう感看護婦は袖の肩から赤児のいやに力を入れて屈げている ぜられる程によく泣いた。泣き疲れて、時々は眠りもした 小さな手を一つずつ出して、裸の赤児を医者の方に背中を みんな が、皆も一緒にうとうととすると、直ぐ又泣き声に覚まさ向け、横にした。赤児は両手を担ぎ、両足を縮めて、カ一 れた。夜の明けるのが待たれた。 杯に無闇と泣いた。腹を波打た亡ながら泣く、其声が謙作 しら ようやそと 慚く戸外が白み始めると、謙作は直ぐ家を出たが、いっ には胸にこたえた。直子は怒ったような妙に可愛い眼をし も電話を借りる家はまだ寝静まっていた。彼は馳けて北野て黙ってそれらを見て居た。 まで行き、其所の自働電話で、医師の自宅にかけ、病院医者は町嚀に背中を調べた。そして尻から一寸ばかり上 おやゅび なお に出る前に来て貰いたいと言う事を頼んだ。 に拇指の腹程の赤い所を見附けると、尚注意深く其所を見 一時間程して医師は来た。半白の房々としたロ髭を持て居たが、やがてこごんだ儘、顔だけ謙作の方へ向け、 路 0 た大柄な人で、前夜の見す・ほらしい医者とは見るから何「これです」と言 0 た。 あいさっ 行 となく頼りになった。医者は挨拶もそこそこに赤児の今ま「何ですか」 夜 での経過に就いて色々ねた。赤児は丁度乳を飲んで泣止「丹毒です」 暗 んで居る時だったが、医者が一寸手を当てると直ぐ泣「 : ・ しばら ぎ出した。医者は手を離し、泣いている赤児を凝っと暫く直子は眼を閉じ、そして急に両手で顔を被うと寝返りし あつも 見て居た。其顔を又直子は寝たまま上眼使いに凝っと見詰て彼方を向いて了った。 き そこ っ うち くちひけ し かっ ひら おお いっすん
きりでいる。今まで乳を飲むと、飲んで居る内に眠くなっ吐いた。食塩水は股に射した。赤児の体は其何方を射す しま て眠って了う児が、 殊に夜は、間に乳で一度起きる外時でも全く無感覚になって了った。それでも死ぬまいとす いつもよく眠って居る児が、こうして死に抵抗し、努力しる何かの強い意志が何も知らない赤児に働いている事は明 ているのを見ると如何にもいたいたしかった。 かに見られた。こうなるともう医術の力は「知れたもの」 この 「あー、あー、あー」赤児は初めて大きく啼いた。自分はになっていた。此小さい赤児自身の死に対する一生懸命な 努力が或る時間続くか、続かないかにあった。 ( そう東京 直ぐ医者の顔を見た。 そのあいだどこ うなず の医者自身が言った ) 其間に何所かで折り合いがつけば助 「ええ」と医者は首肯いた。 かりますと言った。 も非常に喜んで呉れた。 「これが連続するとしめたものです」と医者が言った。自腸を洗う事にした。我孫子の医者が助手になって、再三 ふく 分は涙ぐんだ。見ていた赤児の顔が見えなくなった。自分それをやって見た。一度小さくなった腹は何時か又脹らん よ、 だまま、何度洗っても小さくならなかった。多少血の気を 「康子を呼んでやろうか」とに相談した。 見せた脣も今は土色になって、ひきつって絶えず震えてい 「直ぐ呼んで上げ給え」とは賛成した。医者も賛成し こ 0 四時頃だった。東京の医者は待たせてある自動車で一度 えん ちょっと 自分は土間の細い縁に腰かけて居た常を >" の家へ直ぐ迎東京にかえると言い出した。自分達は一寸不愉快を感じ とて いにやった。 た。然しそれはもう迚も助からない事を言っているのだと 思った。自分は何も言う気がしなかった。然し自分は「危 険な御病人でもあるのですか」と訊いた。医者は「、、 し赤児は遂に助からなかった。一時頃漸く着いた東京そうではないのです」と答えた。と我孫子の医者とが露 の医者も出来るだけの事をしてくれたが、・ とうする事も出骨に不愉快な顔をしてもっと残るよう言ってくれた。そし ちょうレ一 来なかった。段々悪くなると、医者はカンフル注射と食塩て丁度東京に用のあったが、其自動車で、其医者の友達 注射とを二十分或いは十分おきに絶えずした。カンフルはの小児科の医者を頼みに行ってくれる事になった。頼みに 胸に射した。仕舞には小さい胸に射す場所がなくなった程行く先の医者は >A も知っている人だった。 ばんそうこうは そと 一杯に絆創膏が貼られて了った。赤児はカンフル臭い息を 戸外は白々と明けて来た。 す うち こ 0 くちびる しらじら
「それは数ある中では何ともいえませんからな」 らすように言い置いて帰ったのです。今日は直接こちらへ 謙作と外科医とがこんな事を話し合った翌日、赤児は発 伺うつもりでしたからね」こんな正直な事を言われても、 とうとう 謙作は今はそれに不快を感ずる事も出来なかった。彼は今病後一ト月で到頭死んで了った。赤児は苦みに生れて来た は、もう死ぬと決ったものなら、少しでも早く苦痛から逃ようなものだった。 すス がれさせたいという気さえしていた。然し此考は赤児が生葬式、その他、簡単に運ばれた。総ては矢張り氏の世 きよう生きようとする意志を現わす時に僭越な済まない考話になるより仕方なかった。謙作達は今後どれだけ此地に だとも思われた。然し医者達も迚六ヶしい事を明瞭に言落ちついて居るか分らなかったし、墓にして、仕舞いに無 えんぼとけ ってい、彼自身見ても何所に希望を繋いでいいか、分らな縁仏のようにするのも厭だったので、骨はその儘、石本の い程ひどい様子を見ると、赤児の尚生きよう生きようとす菩撼所にな 0 て居る花園のと言う寺に預か 0 て貰う 事にしこ。 る意志が彼には堪らない気がした。 赤児の死で一番こたえたのは何と言っても直子だった。 「死ぬに決った病人でも、死に切るまでは死なさないよう さわ なかなか にしなければならないんですか。生きてる事が非常な苦痛その上、産後肥立たぬ内に動いた事が障り、身体が却々回 復しなかった。謙作は未だ一度も直子の実家へ行って居な になってる場合でも」 「仏蘭西と独逸で考が違います。仏蘭西では権威ある医者かったし、神経痛で寝ている伯母の見舞いを兼ね、一一人で が何人か立会 0 て、家族の者もそれを希望した場合、薬で敦賀〈行き、それから、、代、粟津、山津、あの その儘永久に眠らす事が許されているのです。所が独逸で辺の温泉廻りをして見てもいいと思った。然し直子の健康 はそれが許されてないんです。医者としては最後の一秒まがそれを許さなかった。それに、直子は心臓も少し悪く まぶた し、顔にむくみが来て、眼瞼が人相の変る程、腫れ上がっ で病気と戦わねばならぬと言う考なんです」 どちら 路 「日本は何方です」 ていた。医者はその方からも、温泉行は以っての外だと言 行 「日本はまあ独逸と同じ考なんですが、考と言うより医学った。 夜 暗が大体独逸をとってるからでしようが、それはまあ何方に直子は毎日病院通いに日を送って居た。 も考え方の根拠はありますわな」 謙作は久しく離れて居る創作の仕事に邏り、それに没頭 5 「医者の判断が例外なしに誤らないという事が確かなら、 したい気持になったが、未だ何かしら重苦しい疲労が彼の 仏蘭西流も賛成ですがね : ・ : こ 心身を遠巻きにして居るのが感ぜられ、そう没頭は出来な どこ とて この せんえっ どちら にか
なお ん」医者は尚赤児の頭を挙げ下げして見せて、 「灌腸もやって置きましよう」そう言いながら又医者は次 の間に起って行った。何故か自分もそれについて起って行 「こうして、顎が胸に着くようでないといけません。 けいれん 大分痙攣を起して居ます」医者は尚手を見た。両方とも堅った。 自分は医者はもう見離して居ると思った。然しそれでも く握りしめて居た。医者はそれを黙って自分に見せた。 医者は次の間から真中に穴のある反射鏡を取って来て蠍訊いて見た。医者は返事に困って居た。そして言いにくそ 燭の光りで赤児の眼を見た。 「どうですか」と自分は言った。 「大分困難なようです」と答えた。 「瞳孔は開いて居ますね」 自分も灌腸の手伝いをした。すると氷を取りに行った使 どう が何所にも氷はありません、と言って帰って来た。医者 「心臓は如何ですか」 よ、 医者は其所に投出して置いた聴診器を取上げて聴いた。 耳からそれを取りながら、 「半左衛門所へ往って見たか ? 」と訊いた。 「心臓は未だ大丈夫なようです」と言った。そして医者は「半左衛門とこにもありません」と答えた。 その くちひげ よくする癖で其たれ下がっているロ鬚の先をド脣の端で「停車場前の菓子屋にあるがな。其自転車を借りて自分で すく 往って来よう」と自分は言った。 ロへ掬い込みながら考えて居た。医者は、 自分は東京の医者も呼ばなければならぬと思った。自分 「兎に角カンフルを一本射して置きましようか」と言っ うち あざぷ すしたく た。医者は直ぐ支度をして来た。赤児の小さい乳の側をアは紙と筆を借りて其小児科の医者と麻布の家とへの電文を あか ルコールを湿した綿でよく拭ってから、其所を摘み上げる書くと医者の自転車で急いで停車場へ向かった。灯りなし しようとっ いっすん と、一寸余りある針を横に深くさし込んだ。赤児には全くで暗い町を急ぐ時、こういう時落ち着かないと衝突なぞを 感覚がないらしく見えた。薬は静かに射された。医者は針するぞ、と言うような事を考えた。 はす 氷は菓子屋にもなかった。前日の嵐で沼向うから来る筈 を抜くと指で跡をおさえ、其手の甲に着けて置いたゴム紲 どこ のが来なかったから、今日は何処にもありますまいと言っ 創膏を其所にはった。 た。自分は当惑した。 医者は道具を片づけながら、 上野発は九時が終列車だった。で、自分は医者への電報 「頭を冷して見ましよう」と言った。医者は家の彗に氷を きとく しげき 取らしにやった。 に「赤児危篤、此所の医者は脳の刺戟と言う、自動車にて したくちびる ろう ていしやば どこ けんさ殳んとこ かんちょう あらし
って来た。 「早くて十一時半ですか」と医者が言った。 「子から芥子をはったら如何かと言って来たがね。親類「昨日の荒れで水がどうかな」と又自分が言った。 はっきり にそれで助かった児があるんだ」と手紙を見ながらが言医者は胸の芥子をそっとして見た。明瞭した輪郭で其 所だけ赤くなって居た。 「やって頂きましようか」と自分は医者の方を見た。 「利いて来ました」こう言って医者は又枕元へ廻って立膝 あ 「やりましよう」 をした儘、赤児の頭を挙げ下げして見た。 びん 医者は平たい瓶の芥子を皿にあけてそれを練った。は「少し曲りますね」と医者は自分の顔を見た。 あたり けいれん 其手伝いをしながら、 「痙攣も余程とれました。ロの辺に少し未だ残って居ます また ひらあ 「子に何か又いい考がついたら、直ぐ言って寄越せと言が」医者は又赤児の手の掌を開けて見せて、 って呉れ」とアやに言った。は又自分に、 「これが開くようになりました」と言った。 さだこ かえり 「康子さんは御心配なくと言って来たよ」と言った。 自分は望みを得てを顧みた。 「ありがとう」自分は心から礼を言った。 「少しよくなったようだね」 紙にしたのを鳩尾から下腹、それから背中、それから「先刻からすると余程よくな 0 たさ」とは言 0 た。 両方の足にはった。 「これで泣き声が、あーと大きく続くようになると大概大 「まあ十ですかね」と医者は掛け時計を見上げた。 丈夫ですがね」と医者が言う。 さとぼう 「そんなものですか」 「そうですか。ーー慧坊。大きく泣けー大きな声で泣い ひぶくれ 「余り長くやると火腫のようになって、あとで困ります」て見ろー」自分は力を入れて言った。 自分は少し位困っても、 しいから充分にやって貰いたいと「もう十五分ですが腹の方だけ取りましようか」と医者が 言った。 >* も賛成した。 言った。 今は東京の医者の来るのが僅かな望みだった。 「そうですね」自分はもう少し其儘にして置きたいような 「九時半に電報がついて、支度に三十分と見て、それから気がした。 みずおも 一時間半したら来ましよう」と医者が言った。 医者は鳩尾の所を剥して見せた。かなり甚く赤くなって あと しぼ 「一時間なら来るさ」とが言った。 居た。医者は細君に手拭を湯で絞らせて、剥した跡をそれ 「夜道だからな」と自分は危ぶんだ。 で拭いた。自分は皮がつるりと剥げはしまいかと言う気が その っこ 0 いたた からし したく ひら てぬぐい ひど たて 0 ざ
の時以外は全く赤児に近づけない事にして居たが、然し赤の方へ行った。 児としては、生れたての未だ何も分からない赤児ながら、 「お立合いにならないの ? 」直子は非難するような眼附を 母乳以上の母愛をも要求しないとは言えなかった。そう謙して言った。 「いやだ」謙作は顔をしかめ、首を振った。 作には思えた。そして此感情ーー、・此母愛に近い感情は也の かわいそう なかなか 看護婦では却々求められそうになかった。ーー兎に何、林「可哀想だわ、そりゃあ、可哀想ですわ」 、って言ったんだ」 のやり方が看護婦としての義務を遙かに越えていた事は謙「さんがいし おっしゃ 作達には嬉しい事だった。 「そう仰有ったかも知れないが、誰も血すじが行って居な まます 赤児の病気は益々望み少なくなって行った。今は背中全くちゃ、可哀想よ。じゃあ、お母さんに行って頂きましょ かえり うみち 体が赤く腫れ上がり、ぶくぶくと中で膿血の波打つのが分うか」直子は傍に坐っていた母を顧みた。 か 0 た。医師は同じ病院の外科医と一緒に来てそれを「はい」そう言 0 て母は直ぐ出て行った。 うけあ しめき 胖する事にした。外科医は切開の結果は請合えないと言っ謙作は又庭を病室の方へ歩いて行った。障子を〆切った ばち た。それは一か八かの手術だった。勿論その儘にして置い中からは時々医者達の低い話声と、一寸した物音がするだ ては駄目なのだが、い今、手術に堪えられたとしても、けで、勿論、声の全く潰れて了った赤児の声は聴こえて来 結局十中八九、矢張り駄目らしかった。其所までは医者もなかった。謙作は急に不安に襲われた。もう死んで了った 言わなかったが、それが本統だろうと謙作は思った、それんだ。そう思わないではいられなかった。彼はじっとして しき いられない心持で庭を往ったり来たりした。ベルが、頻り は一か八よりも、結局一か一かのものに違いなかった。 じゃ 謙作は医師が食塩注射の支度をする手伝いなどをしてに其足元に戯れついた。 しばらく 居た。然し彼は自身手術に立合う気にはなれなかった。恐少時して、障子が開いて、林が顔を出した。亢奮し切っ こわ 路 しかっこ 0 た可恐い顔をしていた。謙作を見ると、 行 「かまいませんか ? 」 「どうぞ、直ぐお乳を上げて頂きます」そう言って直ぐ又 夜 暗「ええ、かまいません」こう医師に言われ、彼は庭へ出障子を〆めて了った。 て了った。手術着を着た若い外科医が縁側でシャ・ホンと・フ「助かった」謙作は思った。彼は急いで直子の部屋に行 き、 ラッシで根気よく手を洗って居た。 間もなく皆病室へ入って行った。謙作は直子のいる部屋「オイ。直ぐお乳 : : : 」と言った。 はんとう はる っぷ
暗夜行路 315 かんちょう 村の医者が来たのは夜八時過ぎだった。上さんとお由と た。そしてヒマシ油と浣腸で悪いものを出して了えば、恐 いくたびそと はそれまで幾度、戸外へ出て見たか知れない。 日が暮れるらく、此熱も下がるだろうといった。下痢の事は使の者に はとん と、殆ど人通りのない所で、それが、いつもと全く変りな聞いていたので、医者はそれらを鞄の中に用意していた。 あたか ほとんききめ い静かな夜である事が、恰も不当な事ででもあるように二浣腸は殆ど利目がなかった。ヒマシ油の方が三四時間の 人には腹立たしかった。要するに二人共、親切者には違いうち利くだろうし、兎に角それまで此離れにいて見よう、 なかったが、女二人だけの所で、若し謙作に死なれでもし出た物を調べる必要もあるからと言う医者の言葉だったの しゅこう たら大変だと思うのだ。兎に角、早く医者に来て貰い、此で、寺の上さんは早速医者と使いの男へ出す、酒肴の用意 重荷を半分持って貰いたい気持で一杯だったから、提灯とをする為め、庫裏の方へ行った。 まきぎやはんわらじま 持 0 た使を先に、巻脚絆草鞋穿きといういでたちの年「何をされる方ですね」 あぐら 寄った小さな医者の着いた時には、二人の喜び方は一ト通医者は次の間へ来て胡坐をかき、其所に置いてあった既 りではなかった。 に冷えた茶を一口飲んで、お由に訊いた。 「先生が見えましたよ。もしー先生が見えましたよ」 「文学の方をされるがですわ」 まくらもと 先に一人走って来たお由が、彼の枕元に両手をつき、顔「言葉の様子では関東の人らしいな」 こうふん 「京都ですわ」 で蚊帳を押すようにして、亢奮しながら、こう叫んでも、 あ 謙作は薄く眼を開いただけで、何の返事もしなかった。然「京都 ? ほう、そうかね ? 」 し医者が入 0 て来て、容態、経過をねた時には、声は低医者とお由がこんな話をしているのを謙作はそれが自分 かったが、案外はっきりそれに答えていた。鯛の焼物 とは全で関係のない事のように聴いていた。 五六里先から、夏の盛に持って来るのだから、最初から焼「 : : : どうですやろ」小声になってお由が訊くと、医者も それが原因らしいとい いてあるのを又焼直して出す、 一緒に声を落し、 そば 「心配はない」と答えた。 う事は、側に寺の者のいる事を意識してか、少し曖昧に言 さ っていた。医者は一ト通りの診察をした後、特別に腹のあ謙作は半分覚めながら夢を見ていた。それは自分の足が おさ むやみ まわ ちこちを叮嚀に抑え、「此所は : : ? 」「此所は : : : ? 」と二本共胴体を離れ、足だけで、勝手に其辺を無闇に歩き廻 一々訊ねて痛む場所を探した。結局急性の大腸加多児で、 り、うるさくて堪らない。眼にうるさいばかりでなく、早 ろくしんがん いけな じひびき その下痢を六神丸で無理に上めたのが不可かったと診断し足でどんどん、どんどん、と地響をたてるので、八釜しく よる と こ ちょうちん たま やかま
しかま 「然し未だ広まって居ませんから、早く手当てをすれば御知れません」 かなり なおたんどく 心配なく済みましよう」こんなに医者は言 0 た。看護婦は医者は尚、丹毒は大人の病気としても可成困難な病気 黙って赤児に着物を着せて居た。 で、まして幼児では病毒と戦って仕既まで肉体がそれに堪 かく とりよせ 「急いで病院から薬を取寄ましよう」医者は縁で手を洗い えられるか否かで分れるのだから、兎に角栄養が充分でな いけない ながら言った。「近くに電話を借りられる所がありますいと不可と言う事、それには母乳に止まられる事が何より か ? 」 も恐しく、出来るなら、母親だけ赤児の泣声の聴こえぬ所 「此所の大家さんにあります。私で分る事ならかけましょ へ離して置きたいものだと言った。 舞ノ、か 2 ・」 「お母さんの方も産後そう動かす事は面白くないのです そば 「分らん事もありませんが、自分でかけましよう」 が、あの泣声を始終側で聴いて居られたら、乳は直ぐ止ま もちろん 謙作は直ぐ医者を大家へ案内した。 りますよ」そう医者は言った。「勿論泣声が聴こえなくと あなた 医者は注射液、イヒチオール、油紙、アルコール、そのも、心配されるでしようが、其所は貴方が余程上手にやら 、考え考え必要な品々を言った。 れないといけませんね。出来るだけ気を楽に持って、赤さ しようこう 「昇汞はお宅にありますか ? 」医者は振返って言った。 んの事は心配変らん、と言う風な安心を与えん事には乳は きっとと 「多分ありますまい」 屹度止まりますからな」 「それじゃあ、昇汞と、ーー誰れでもいいから自転車で大「ええ」そう答えたが、謙作にはそれが不可能な事に思わ 急ぎで持って来て呉れ。ーー衣笠園。ーーわかったね」 れた。医者が、どうにか食い止められるかも知れないと言 した 二人は帰ると、二階で薬の来るのを待った。階下では絶っている、それも信じられなかった。医者自身そう思って えず赤児の泣声がして居た。 居ないとしか考えられなかった。 はっきり 謙作は明瞭した事を訊くのが恐ろしかった。彼はそう言「幼児の丹毒と言えば普通まあ絶望的なものになって居る う不安と戦いながら、それでも矢張り訊かずには居られなんじゃないですか」謙作は弱々しい気持になってこんな事 っこ 0 、力事 / を言った。 かくなかなか 「どうでしようか」 「さあ、そうも決まりますまい。が、兎に角却々困難な病 た のうどくしよう ほうかしきえん 「せめて生後一年経って居られると余程易なのですが、気です。蜂窩織炎、それから膿毒症とまで進まれたら、こ 然し早く気が附いたから、どうか食い止められるかもれはどうも致し方ありますまいな。然しそうせん内に出来 おおや と
の所へ行くんだぞ。此方へ来ちゃ、いけないぞ」と大きると二重に面倒じゃないか。 直ぐおいでー」そう言っ い声をして言った。 すそひざ 寝間着の裾が膝まで泥水に濡れて、それが足に絡まりつ妻は尚、往来で医者を待っているらしかった。然しその 内、見えなくなった。 いた。自分はその儘急いだ。 赤児は絶えず、 「慧坊、慧坊」自分は時々そう言った。 「あーア。あーア」と弱々しい声で泣いた。身体も時よ 自分は往来と赤児とをるるに見ていた。 すゆる り何となく軽いような気がした。筋肉が総て緩んで居た。 「お上りなさいませ」と医者の細君が、土間へ下りる幅の うさぎ 狭い縁に腰かけて居る自分に言った。 死んだ兎を抱いて行くような感じがした。 「足が泥です」 「慧坊、慧坊」と自分は時々赤児の名を呼んだ。 うち 「私がお抱きしますから、足をお洗いなさいませ」と言っ 町長の小さい家が町から離れた小さい坂の下にあった。 そのを通る時自分は、「道はもう見えるから、お前医者た。自分は赤児を渡して土間続きの台所へって足を洗っ まで走って行け」と言った。常は少し急いだが走ろうとはて来た。 しなかった。 敷蒲団を二つ折りにした上に赤児は寝かされて居た。医 者の細君は赤児の額に手を当てて、「お熱はないようでご 「何故駈けないんだ」自分は少し怒った。 かつけ 「私、駈けられません」と答えた。常に脚気の病気のあるざいますね」と言った。 医者は急いで帰って来た。 事を憶い出した。それでも常は出来るだけ急いだ。 さっき ようや うち 町では人々が軒先で凉んでいた。漸く医者の家へ来た 自分は先刻からの経過と、前々日東京へ連れて往って、 しととりこうじよう が、医者は五六丁程先の糸取工場へ行って留守だった。直今日午前中帰って来てタ方まで元気にして居た事などを簡 単に話した。 解ぐ迎いをやって貰った。 又迎いをやって貰った。 あおむ 医者は仰向けに寝ている赤児の後頭の両方から二本ずつ 赤児の顔は普段と変って了った。そしてロの辺が細かく 指を入れて何遍も何遍もそれを挙げて見た。 和震えて居た。 自分は医者の顔色をた。医者は首を傾けた。その顔 自分は妻が龍と一緒に土間の入口の暗い陰に立って居る には希望は見えなかった。 のに気がついた。 しけき 「の所へ行って居なくちゃ、いけない。又頭でも変にな「熱はないようですね。こりゃあ脳の刺戟かも知れませ から こ 0
謙作は茶の間へ行って時計を止めて来た。直子は切りと「と、き、と、お」 なかなか 乳を呑まそうとしたが、赤児は却々その乳首を口に含もう「ときとお」 「そうです」 とはしなかった。 もよっと そして女は「ときとお」そう独り言をしながら奥へ入っ 「兎に角、近所の医者にでも一寸見せて置こうじゃない て行ったきり、時まで待っても出て来なかった。謙作は か。さんと言っても今からでは遠くて少し気の毒だし、 いらいら それに又直ぐ泣き止むだろうと思うし」 苛々して来た。 「どうか早くお願いします」彼は大きい声で言ったが、返 事がなかった。 「そんなら早速、俺が自分で行って来よう」 しばら 謙作は台所口から直ぐ戸外へ出た。戸外は風の少しもな暫くして女は慚く戸を開けた。 「お待たせ致しました」女は寝間着で、瘠せた脊の高い 曇った真暗な晩だった。彼は歩いたり、馳けたりしな おんまえ がら行った。近所の医者としては、彼は、五町程ある御前見すぼらしい女だった。 しもたや ただ 医者は中で着物を更えて居た。これも見るから見す・ほら 通りに仕舞屋のような格子の填まった家で、只「医」とし た軒燈を出してある家きり知らなかったので、そこへ行 0 しい小男で、年は謙作よりも少し上らしく、薄い天当を たた た。二三度叩くと戸の内から、 物欲しそうに生やして居た。医者は帯をしめながら、 「何御用」と言う女の声がした。 「どんな御様子ですか ? 」と言った。 ただむやみ 「一寸、先生に来て頂きたいのです」 「只無闇と泣き続けるだけで、原因が分らないのです」 かえ 医者は今になって、却 0 てしそうに出て来て、 「どちらはんどす」 あかん きぬがさえん 「此先の衣笠園の中です、赤坊の様子が少し変なので診て「お待たせしました」と言った。 頂きたいのです」 「こんなに晩くお願いしてーーー」 「いや。それじゃ直ぐお供致しましよう」こんな風にしぎ 「一寸、待ってお呉れやす」そう言って其儘女は奥へ入っ りと調子よく仕ようとした。少し酒に酔って居るらしかっ て行った。そして直ぐ又もどって来て、 「衣笠園のどなたはんどす ? 」と言った。 た。謙作には此医者が如何にも頼りなく思われた。気の毒 みちみち ときとう でも矢張り氏を頼めばよかったと思った。途々医者は生 「時任です」 かつけけ 「へえ ? 」 後幾日目かとか、母親に脚気の気はないかとか、そう言う どお と なか こうし そと そのまま おそ し ようや ひと