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検索対象: 現代日本の文学 18 石川淳集
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1. 現代日本の文学 18 石川淳集

郎は峰にの・ほり、林をくぐり、知りつくした山の道を駆けめ 三郎は目をつぶった。そして、目の中に、夢みるよう ぐって、見えぬ影を追いながら、ついに谷におりた。するに、白蛇の水におどるすがたを見た。やがて、目をあけて と、かなたの谷のながれに、月の光を照りかえして、白く見ると、そこにはすでに母はなく、白蛇もなく、ただ澄み かがやくものの立すがたを見た。三郎はまちかにしのび寄とおった浅瀬の水がながれていた。 った。それは母ではなかった。ながれの浅瀬に立って、素浅瀬を見おろすところに、崖の道がつづいていた。三郎 はだかの、若いうつくしいおとめがそここ 冫いた。このようはそこをもどりかけた。そのとき、道のほとりの茂みのか なおとめは、ついそこの山に見かけなかった。とたんに、 げに、なにやらうごめくものがあった。茂みをわけて、奥 三郎は母のことをわすれて、水を蹴って、おとめに迫っをすかして見て、 た。おとめは声はたてず、しかしカづよくあらがう。三郎「次郎か。」 はカまさって、おとめを腕に抱きしめて、あわやこれを犯次郎はそこに一頭の黄牛とともにいた。その牝牛とかさ そうとした。 なりあって、異様なからだっきであった。 「三郎。」 「次郎。何のざまじゃ。」 ことばとともに、母がそここ、 冫した。三郎はおののいて、 あざ笑う声がそれにこたえた。 腕をはなして飛びすさった。 「たった今、おぬしがおふくろを相手にたわけていたこと 「母であったか。これは何としたことじゃ。母よ。なにとを、おれもしておるまでじゃよ。」 てこれに。」 とたんに、三郎の手に斧がうなった。斧は気合するど 「さだめの期が来たのじゃ。ふもとの里に丘がうまれたとく、次郎黄牛もろとも、胴体四つに断ち割った。すると、 ぎは、別れを告げるときであった。今が別れじゃ。このさその割れ散った胴の一つに声があって、 起だめに、あらがうすべは無い。」 「たわけ。うぬが一類の血筋に、のちの世かけて末なが 三郎は息をのんだ。 執念ぶかく生きのこるのは、このおれの血と知らぬ 「母よ。ふたたびもどらぬか。」 か。うぬら、みなくたばれ。おれの血はうぬが孫子の代ま 「ならぬ。三郎、そなたは鮎と夫婦のちぎりをせよ。末なで、そのまた孫子の代までもくたばらぬそ。」 のろい がく栄えるであろ。さらば。目をつぶれ。わがすがたを見呪の声はやがてあかっき近い風に消えた。 芻 るな。」 三郎が岩の城にもどったとき、夜はすでにあけていた。

2. 現代日本の文学 18 石川淳集

おのずから目におなじ色がきらめいた。三郎のほうでは、 い・ほれ、おさらばじゃ。」 追えば追いついて打っことはできた。しかし、石別はそやつばりそれを受けとめることを知らなかった。このと くす こに立ったまま、うつろの目をあげて樟の梢におちかかるき、そこには兄妹ではなくて、男女がいた。その目の色は タ闇の色を見つめた。その梢には、大ガラスのむれも今ははなはだ恋の色に似ていた。 はね 城に住む五人の男女は他の男女を見ることがなかった。 数すくなく、鳴く音かすかにしおたれた翅をちぢめた。 ところで、太郎はといえば、これのみはゆらぐけはいもその中で、三郎がもっとも好きなのは母であった。ちかご 見せず、峰にすさぶ嵐の音には係りなく、岩の城の一ところ、その母のようすがどうもいぶかしい。おもえば、ふも ろに岩そのままの腰を据えていた。そして、手のはたらきとの里に小さい丘がうまれた日から、なにということな く、母のそぶりは変って来たようであった。ついそこにい はいよいよ妙をつくして、材あれば器おのずから成り、幻 術きわまって自然のかくれたるこころを形式に打ち出しる母がふっと見えなくなる。にわかに遠くに行ってしまっ た。そういっても、里のしなじなはすでに往来のたよりをたように、いや、消えうせてしまったようにさえ見えた。 絶たれている。こちらの側からも器のすべり出て行く道はしかし、見直すと、母はたしかにそこにいる。いや、たし 無かった。つくったしなじなを、どうするか。それは太郎かにいるというよりも、まだいるというけはいであった。 の考えるにおよばぬことであった。器はただ壁に積まれ床三郎はそのことが気になった。ときどき、夜中に目をさま に散って、あとからまた際限なく数を増して行った。山にして、母の寝ているのをたしかめなくては気がすまぬよう にさえなった。 木のあるかぎり、手は休むということを知らない。太郎は ある夜ふけに、三郎は眠の中にどきりとして目をさまし ひとり黙黙として業をつづけた。手がはたらいていると き、ことばを発する要もなかった。太郎のいる一ところた。母はそこにいなかった。起きあがって、あたりを見ま ここにいなければ、行くとこ は、まわりに神繩を張ったように、ちかづきがたい気合がわしたが、どこにもいない。 ろは外よりほかにない。他のものは知らずに寝ている。三 あった。 郎は足音をしのばせて、ひそかに外に出た。敵の山をかな その太郎にしても、おりにふれて、鮎がそばにちかづい たときには、鮎を見る目にほのかな光がはしった。露のきたにひかえた山の夜。念のために、斧は手にさげた。 らめくような目の色であった。鮎はそれを受けとめること外は月あかあかと照って、樟の上枝の、葉のそよぎまで を知らなかった。そして、その鮎が三郎を見るときには、隈なく見わけられた。ちかくには、母のすがたは無い。三 かみなわ くま

3. 現代日本の文学 18 石川淳集

石別はたくわえの酒が尽きようとしていることを知っあった。こいつはおそらく夜陰に里にのしび出て、ものを た。山の木木が日ましに枯れて行くとき、木の実だけがひ盗んで食っているのだろう。しまりのないくちびるに、よ とりみのるはずもなかった。酒はいっか一しずくもあまさだれが泡をふいた。そのとき、石別はあるうたがいをもっ ず尽きるにちがいない。笑うことさえわすれなくてはなら た。山に住む身として、おそろしいうたがいであった。 ぬときが迫ったようであった。 「次郎。うぬ、よもや里の火で焚いたものまで、盗んで食 おとろえは木木のことだけではない。草も虫も、鳥けも っておるのではあるまいな。」 のも、谷のながれの小さい魚まで、およそこの山にあるか ぶちのめされたように、次郎はよたよたとあとにさがっ ぎりのものは今はみな尽きるにちかかった。げんに、この ようたがいではな た。うすら笑いは消えていた。うたがい冫 城にあっても、毎日の食とすべきものはどれも「残すく かった。石別ははげしくあびせかけた。 な」になって来た。他のどこに食をもとめるところがあろ「けがれを知れ。山の火と里の火とは、きびしいけじめが うか。そういえば、ちかごろは、かの岩穴のまえの無言のあるそ。里の火で焚いたものを食らえば、里のものになっ 取引はとぎれがちで、これもまったく絶えようとしてい たも同然じゃ。うぬ、山にそむくか。道はずれめ。」 た。里のしなじなはいつのまにか通い路をさえぎられて、 次郎はもう父の手のとどかぬかなたに逃げのいていた。 もはやこのところにとどいては来なかった。 そして、ほど遠いところから、ふりかえって、おそれげも くす ある日、タぐれに、石別は峰からおりて来てかの樟の木なくわめいた。 のほとりにかかったとき、ふとそこに次郎のすがたを見か「山でも里でも、食えるところでおれは食う。火のけじめ けた。こいつはもう久しく岩穴に這いこんで来ることをしなんぞとは、せまい料簡じゃのう。その料簡同様せまい岩 穴には、もうあきあきした。おぬしたちとは、こっちから なくなっていた。 縁を切ろう。うえ死の附合まではせぬことじゃ。おれはお 起「次郎。ちかごろなにをしておる。」 次郎はくちびるをゆがめて、なおさらみにくく、うすられのおもうまま、山にも入る、里にも出る。この山がほろ 笑いをうかべた。胴体はますますはちきれるほど肥えふくびたなら、さっさと里におりて、ぬくぬくとくらすだけよ。 えいよう らんでいる。答はなくても、なにをしているか知れた。そわが身ひとつの栄耀しゃ。どこの火で焚いたものでも、腹 いつばいに盗んで食うさ。ひとの焚く火を気に病むことが の胴体から、くちびるからいうべからざる臭気を発してい た。鶏犬牛馬のたぐいか、山にはいないけもののにおいであるものか。おれの行くところに、堺のけじめは無い。お さ力し

4. 現代日本の文学 18 石川淳集

「ふむ、かの先王最期のいくさのおりに、なんじ、卦は吉の岩穴はもはや尋常の岩穴ではない。いまだに成長をやめ ら . らな、 と申したな。このたびは、トにもおよばず、はばかるとこない岩は大きく、きびしく、奥ふかぶかと磐石の堅めをも ろなく凶と申せ。神はわが身にある。わしは勝ってかえるって、それは城であった。石別とその一類のすべての力は ぞ。兵はことごとくわが手に召しつれる。なんじは婦女と今この城にこもった。 がいじん もどもに宮にとどまっておれ。凱陣のあかっきには、なん この城の中で、石別の暗い顔に赤みがさすのは、木の実 じ、舌を抜かれても異存はあるまい。むだごとはたたく舌でつくった酒を酌むときであった。瓶をささげて、さかず なき口から吐け。」 きに酒をつぐのは、末のむすめである。 すなわち、宝剣を秘庫より取って、国中の精兵をしたが「鮎。」 え、武はまっさきに馬をすすめて、かなたの山に駆けむか その名を呼んで、さかずきを手にしたとき、石別はまだ 笑うことをわすれなかった。わが子ながら、はなやかにそ だったおとめをそこに見た。夜はふかくても、おとめのい るところよ、、 をしつもそこだけあかるく、ともしびが照っ た。 いしわけ これよりさき、石別がはじめて峰のいただきに季節なら ある夜、石別はつねよりもさかずきの数をかさねて、さ ぬ枯葉を見た日から、木木はなお日ましにあさましく枯れらに一杯を望んだ。 て行き、やがてほとんど峰のなかばまでも、はだかの黒い 「鮎。ついでくれぬか。」 はじめて、おとめの顔にかすかな当惑の影がさした。た 枝が風にうなりながら、わずかにまだゆるがぬ根元を踏み うながされても、 こたえた。そして、石別は次第に沈みがちになって、峰にめらって、ことばを発しようとしない。 はの・ほっても木木のおとろえを救いようもなく、夜は妻と瓶をとろうとしなかった。 「どうした。」 語ちうこともわすれて、暗い顔つきを岩壁にそむけた。三 郎はしかしこころ猛く、かなたにそびえる山に対してひるすると、かたわらから、おとめに代って、その母が答え まぬいきおいは示したが、それとても、すすんで敵を打った。むしろきかれることをはばかるに似たつぶやきであっ 手だてのえられぬままに、しばらく岩穴にひそんで、ふた たび斧とともに立つおりをねらうほかなかった。ただ、こ「残すくなになったれば : 五 たけ かめ

5. 現代日本の文学 18 石川淳集

までには至らなかったが、その行状ほとんどかの晩年の父「おおかた、かなたの山に住むばけもののしわざでもあろ 王とおなじ穴に落ちて、宮の中には狂暴の風が吹き抜けうか。夜あけの薄くらがりに、牛の十倍ほども大きいあや た。武は矢をはなって牛を射ることを好んだ。猛牛にたたしのやつが牛を小脇にかかえて、のつしのつしとかなたに かいをいどむ。国中の牛の美なるものはみな狩り出され去って行く影を、見かけたものがあるという。王のお耳に て、野の一ところに追いこめられた。 は入れられぬが、ちかごろはこの国のほうが敵のばけもの かわや ある日、武は酒間に立って厠にの・ほった。厠は川のほとのためになにか盗まれるようになった。」 りにあって、水の上に張り出されている。武はそこにはい 武は厠の戸を蹴はなして外に出た。しかし、そこにはひ って、ふと目の下の水を見た。水のおもてに、くれないのとの影も見えなかった。なにもののはなし声であったの 一点が浮いて、見るまにばっとひろがった。血であった。 か、声もまた消えていた。 それは川上からながれて来たものか、あるいはおのれの身武は足音あらく宴席にもどって来た。そして、出逢がし からしたたったものか、いずれとも知れなかったが、浮いらに、ものもいわず、宮女の一人を斬りすてた。 た血はま・ほろしのようにたちまちながれ去って、水のせせ「荒玉をよべ。」 らぎが鳴った。武はわれにもなく目のさきがくらめいた。 もはや師とはいわなかった。妃の父がそこにあらわれ 見るまじき不吉なものを見たようであった。 そのとき、厠の外にひとのはなし声がきこえた。 「荒玉。かの霊峰がいまだ天にいかりの火を吐かぬのは、 「黄牛が逃げたぞ。」 地に宝剣をふるって応ずるものがおらねばこそじゃ。神と めうし 柵にかこった牛の中の、もっともみごとな牝牛のことに王と通じて一でなくては、この世の不思議は見られぬもの よ。なんじの吐きちらすむだごとに、あったらひまどっ ちがいなかった。それはたくましい仔をうませるために、 た。わしこそ霊峰の加護をせきたてて、今よりただちにか 起殺さずに飼っていたものである。 「いや、盗まれたらしい。」 の敵の山を攻めるぞ。」 「またぞろか。」 荒玉は眉もうごかさず、 「うむ。夜の闇にまぎれて、牛ばかりでなく、馬、鶏、犬「王が益なきいくさを好まれるなら、好める道にすすまれ よ。ただ、、 しくさの門出には、神慮をうらなうが定法じ のたぐいまでも、ちよくちよく盗まれる。」 「盗んだやつは。」

6. 現代日本の文学 18 石川淳集

空に切りひらいて行った。三七二十一日めには、それはまれらの神、今あらたにこの国土に立って、山のいただきは さに山であった。さすがにまだこちらの峰をしのぐには至天にもそびえたそ。この地に久しい古き神のごとき、やが らないが、高さといい大きさといい、炎をふくほどの力をてわれらの神の威徳にしたがうことまのあたり。かの岩穴 にたむろする化鳥どもとて、もはや羽ばたきもなるまい 内に秘めて、早くも峨峨たる威容をととのえて来た。しか も、こちらの峰が一寸伸びれば、さきは一尺も高くなる。 ここもと 両山たがいに貫祿をせりあううちに、二十一日を越えるこ荒玉は爰元にうまれ出た大山のもとにあって、祭祀おこ とさらに七日、かなたの大山は武者ぶるいして雲を突き抜たりなく、ただ山霊の日日にあらぶることをねがった。そ け、今は高低いずれがまさるともわかちがたく、あらたにもそも、この山の成ったのは、荒玉のはかりごとより発し うまれ出た山霊の気合、はばからず天に迫った。石別父たものである。ここに、王のいる宮の中に、先王以来ふか 子、ロには出さなくても、畏怖はこころにつのった。やがく秘められた白玉一顆があった。この白玉、径三尺、岩ば くま て、ついに黙しきれぬときが来た。この峰をおおう木木のしる清水よりも隈なく透きとおって、昼は天日に映じて五 中に、かの山に面したところは、木の葉いっとなく枯れは彩の変化にかがやき、夜は月光を吸って星辰のたたずまい じめて、その季節でもないのに、黄葉はざわざわと風に舞をうっす。またこれを闇に置けば、この光は万人のこころ い狂った。異変であった。 を照りやぶる。もと異域の産、この土にわたってのちは、 しず 「敵じゃ。」 国の鎮めの宝珠とあおがれた。このもの、その体に於て神 石別はかの山をにらんで、指さしてさけんだ。その指さにほかならない。荒玉はまず川のほとりに地を相して、も けがれ きには、斧を打ちおろすような力がこもった。 ろもろの穢をはらい、かの神を秘庫より移して、このとこ 「敵なる神じゃ。」 ろにむかえた。そして、白玉を地にしずもらせて、その上 起 に盛りあげるに丹土をもってした。これを祭ること一日一 * ゅう 夜、あけがたに木綿つけ鳥の鳴くころ、盛土はたちまち長 四 じて丘となった。ときに、武の妃みごもる。胎中の子はす 山にも敵はある。山の敵は山である。そして、神のいな なわち荒玉の孫である。子のそだつにつれて、丘は早くも 四いような山は無い 山となり、子のいまだうまれぬさきに、すでにしてそこに 「されば、山を討つには山、神をおさえるには神じゃ。わ大山の成るのを見た。 せいしん

7. 現代日本の文学 18 石川淳集

よ、つこ 0 十ーカネノ ある朝、三郎は峰のいただきに立 0 て、なにげなくかな「一夜のうちに、丘がうまれお 0 た。山のタネが吹き出た たの空をながめたとき、おやと目をみはった。はるか麓のと見た。」 方にあたって、一つの小さい丘が見えた。ついきのうまで そういってしまうと、三郎はほかにいうことばが見つか は見えなかったものである。丘とはいっても草のみどりのらなかった。父もまた黙した。太郎はそのはなしは耳にも あいだに、ほんのすこし土が盛りあがったぐらいのもので入らぬふぜいで、一心不乱にロクロにかかりきっていた。 あった。尋常の目ならばつい見おとしてしまうだろう。しすると、隅のほうに、ひそかな声がおこって、 かすみ かし、三郎の目は霞にまぎれる小鳥の影さえ見のがしたこ「期が来たのであろ。」 とはなかった。そこに、一夜のうちに、丘はうまれて 母のつぶやきであった。いや、そうつぶやいたように、 た。すでにうまれた以上、それは成長することしか知らな声はきこえた。期とはなにか。ぼつりと一言。あとはひっ いにちがいない。ふっと、目にとげが刺したようであっそりして、それなりであった。 た。三郎はすぐ木のほうに向き直って、斧をふるいはじめ あくる朝、石別は三郎とともに峰のいただきにの・ほっ た。それでも、目の中のとげがちくちくするとでもいった た。ちかごろ斧はこの若いむすこにあずけたままになって ふうに、ともすれば手もとがゆるみがちになった。げん いて、石別みずから木を伐りに出ることはめったにない。 に、みずから気がっかずに、ときどき手をやすめて、いっ この朝は木を伐るためではなくて、かのハレモノがこころ かまた丘のほうに目をそらしていた。伐りたおした木の数にかかっていたことはあきらかであった。丘は麓のかなた 遠くにみとめられた。三郎の目はそれがきのうよりもいく は、きようは常よりもすくなかった。 日くれに、岩穴にかえって来て、三郎はたれに告げるとらかせい高くなっていることをたしかめた。父も子も、そ もなくこういっこ。 の丘のことについて口に出してはなにもいわなかった。し かし、石別はそののち朝ごとに峰の上に来ては立ちつづけ 「かなたの麓の土にハレモノができたようじゃ。」 そのことばは揣らずもこの山の臓腑の中にハレモノのよた。 うに出た。父がききとがめて、 七日めに、丘はすでに小山と見えた。成長は日ごと夜ご とにやまない。若竹のようにぐんぐん伸びあがって、その 「何という。」 いきおいは次第に増すばかり、すさまじいまでのけしきを 麓にひらけた国のようすは、どうも気にならぬものでは はか ムもと

8. 現代日本の文学 18 石川淳集

男子三人、そだつにつれて、どれも大きいとはいって郎は外に、それも山のあちこちかけて、木立くさむらのき も、からだのかたちにめいめい相違があらわれて来た。太らいなく、のしのし這いまわって、昼は茂みにはしるけも 郎はいつも岩穴の中にあって、岩の部分のようにゆるがのを打ち、夜はねぐらにねむる鳥をおそい、地虫のたぐい ず、常住背をかがめたきり、堅い甲羅に苔むすまで、さだに至るまで、手づかみにむさぼり食って飽きることを知ら めの座にうずくまっていた。うまれおちて以来、これはっ なかった。這いまわる。そういっても足は立って、谷をわ いそその場から立ったというためしが無い。いや、立とう たり木によじることはできたが、ただその足がきわめてみ としても、足は石の床につくりつけられたにひとしく、そじ かいために、い つも山の腹の上を這っているようにしか もそも足というものがあろうとも見えなかった。不断に燃見えない。その代りに、手は長きに過ぎ、胴はふくれあま らんだ える獣油のともしびはそのすがたをあかあかとうっし出しって、まるまるとせり出した太鼓腹の中には、懶惰の水が て、なまぐさいにおいとともに、鎖につながれた怪物に似だぶだぶ鳴り、すべての貪慾のかたまりがおくびに出るま た影が岩穴の壁にねっとりしみこんだ。そういっても、こで詰めこまれていた。このもの、たまに岩穴に這いもどっ の据置の怪物に於て、わずかにうごくものがあった。手でても、外から薪一本もちこんで来るではなく、まして内の ある。木の根のふしよりも荒い手は、しかし見かけによら細工にまちがっても手をはたらかせるではなく、いたずら ず、休みなくこまめにうごいて、いうことをきかぬはずのに場ふさげに寝そべるばかりで、およそこいつがなにかの 木ぎれを自在にあっかい、これに細工をほどこして、意の役に立っことは世にあろうともおもわれなかった。 ままに変化の術をつくした。手のはたらくところに皿も椀さて、三郎はふたりの兄には似ず、総身すこやかにそだ おじか もほとんどおのずからうまれ出る。細工のたくみなことに って、山から谷に飛びめぐるに、足はやきこと牡鹿をあざ あらしし かけては、太郎の手は早くも父の石別の手にまさると見えむき、手はたくましくカみちて、いかれる荒猪をも一拳に 起た。この太郎というもの、あるいはかのロクロとならべとりひしいだ。あかっきには、峰にの・ほって木を伐る。そ て、石別の妻が工房にうみつけた道具の一つか。いや、道の黒木の丸太は岩穴に、すなわち山の臓腑の中にぶちこま 具どころか、これこそ技の神妙がそこに生けるかたちをとれて、太郎の手がこれを消化し、器のかたちに変えて、里 ったもののようであった。 に吐き出す。石別が一本の木をたおすあいだに、三郎は十 これとちがって、次郎はといえば、そのすがたを岩穴の本たおした。力の筋は父より継いで、さらにすぐれた。し 中に見かけることはめったになかった。晴にも雨にも、次たがって、父の斧はいっか三郎の手にわたることになっ

9. 現代日本の文学 18 石川淳集

くらせたもう日のことを申されるか。」 って、風上より火をはなち、どっと攻め入れば、兄はのが 荒玉は答えず、ただ不興のけしきをなお濃くした。たち れるところなく、その妻子もろとも火中にほろんだ。 「世に生きてかいなきともがら、神慮にかなわず、最期はまち史生はさとった。かの文中、新王の徳をたたえるに急 みなかくのごとし。今より、わが世をひらぎ、追っては山なるあまり、荒玉の功をしるすにことば足らぬきらいが無 いでもなかった。そして、他日の盛事とは、かならずしも のなかにまで国をつくるそ。」 武は王位に即いて、あらたに宮をきずき、荒玉のむすめ新王の威のますますふるうことをさすのではなくて、おそ 玉姫を納れて妃とした。そして、史生に命じて、事の次第らく荒玉は別にふかく期するところがあるのだろう。そこ を記録にとどめさせた。記録の文はすこぶる美辞をつらねに、この王妃の父の秘めたるこころの底に突きあたったよ うであった。そのとき、荒玉の目に、するどくひとの肺腑 て、新王の徳をたたえるに急であった。 後日に、その文のことにつき、史生はわるいうわさをきを刺す光がほとばしった。史生はおもて蒼ざめて、おのの き、ひれ伏し、あとずさりに席をさがった。 いた。うわさに依れば、荒玉によろこばぬ色があると その夜ふけ、道のほとりに、血まみれのしかばねが一つ う。史生は荒玉のもとにまいって、おそるおそるいうに 月に照らし出された。史生であった。背は剣をもって刺さ 「つたなき文、至らぬところあれば、つつしんで罪を乞われていたが、それがなにもののしわざとも知れず、ついに 知れぬなりにおわった。 なくてはなりませぬ。」 荒玉、不興げにうそぶいて、 「至らぬのではない。今日の盛事をしるすのに、文は小ざ かしくも至りえて、ことば美なるに過ぎたようじゃ。なん じ、もつばら新王におもねるか、文の妙、すでにその極を山の一日は里の暦のごとくではない。太郎、次郎、三 つくした。他日さらに上越す盛事がおこったとき、これを郎、いずれも日ごとに大きくそだって、四番目にうまれた 子は、これは女の、いたいけではあったが、やがて花の色 認めるに何のことばをもってするつもりか。」 いしわけ 史生はそういう師傅のこころを解しかねたが、ふと新王のにおい出るべきけはいを見せた。石別一類、岩穴の木地 屋のいとなみは、四季とどこおりなく、ロクロのまわるま のさきに発したことばをおもい出て、 「他日の盛事とは、王威ほどなく山のかなたにおよび国つまにつづけられた。

10. 現代日本の文学 18 石川淳集

「王位のあらそいは、王の命数尽きたのちにこそ。」 「その命数を賭けて、王の物狂いはいつまでつづくもの 「吉。」 じつは、卦は凶と出ていた。すでに、吉凶に係らず、王 ふもと 王の剣のひらめくにつれて、斬られたもののしかばねはは性急に馬をあおって山の麓に迫った。武は兵をひきいて 朝夕となく野に捨てられ、草ことごとく血に染めば、空に父につづく。その兄は宮にとどまって留守をあずかる。こ は大ガラスのむれ、くろぐろと舞い下って、たちまちこのれ荒玉の策略とうかがわれた。 えじ、 餌食をおそった。さきのいくさののち、何年ぶりのときな 岩は今ふりあおぐほどに高く、樟もまた空ざまにたくま きようえん らぬ饗宴に、まっくろなやつらは翅に雲をおこし、くちばしく生いしげつて、梢の葉ごもりには大ガラスども、はる しに虹を吐き、大声あけてよろこび歌った。その声は野にか下に寄手を見くだしつつ、不敵のつらを風にさらしてい みち、里にひびき、ついにさしも遠い王の耳までつんざい た。王は馬上にいらって、もはや岩も見ず、山も見ず、か の化鳥をこそと、剣を抜いて切りあげれば、刀尖はむなし 「不吉な化鳥どもじゃ。一羽のこらず打ちおとせ。」 く宙にながれて、ただ木の葉はらはら、その葉をあびる くら * まんど おこり 万弩ひとしく発したが、一羽も落ちない。黒いむれは弓と、たちまち瘧をふるって、鞍にたまらず、どうと落ち たす 矢をあざわらって、空たかく翅をならべて舞いもどる。兵 た。武は父を扶けおこして、兵を引く。しりそいて宮にか くす ども、そのあとを追って行けば、すべてかの樟の梢に羽音 えろうとするに、道なかばにして、王は大熱往来、あらぬ をしずめて、そこにそそり立っ岩は犯しがたい鉄壁であっ ことを口ばしりもだえながらに死んだ。ときに、軍中に流 た。引けば、また来る。追えば、また去る。それが去った言がはしった。 むほん のちにも、血をふくんだ鳴音はながく耳の底にのこって、 「兄のみこ、謀叛。」 起王は夜もねむれず、狂おしく、 「新王すでに立って、宮にあるぞ。」 「かの樟を根こぎにせよ。かの岩を打ち砕け。」 兵のみだれるよりも早く、武は父の佩びた剣をとって、 八ふりあげた剣は山の方をさした。揣らずも、王は山との叱咤していうには、 たたかいに追いつめられたようであった。しかし、軍をお「宝剣われにあり、まことの王はここにあるぞ。宮の中に こすにあたっては、まず事の吉凶をうらなう。荒玉すなわ いて乱をはかるものはにせの王じゃ。かの賊を討て。」 おじか ち牡鹿の肩の骨を焼き、その割目を見て、判じていうに すなわち、一気に宮に押し寄せ、備ととのわぬ不意をう はね