武吉 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 18 石川淳集
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1. 現代日本の文学 18 石川淳集

線での努力がつづけられるに応じて、下の線にうつる形はの理由もなくそれを単に芸術への古風な執著だと思いこん ますます濃く、・ほくがそれについて無意識でしかありえなでしまったようすで、とたんに相手をいささか甘く見くび いような行為のかたまりが刻刻に充満し、腐敗し、日日のる軽はずみを禁じえなかったのであろうか、やがて、つい こうそく 生活を梗塞してしまうのです。それを、・ほくは地上に於けこちらから沈黙を破って出ると、それはし・せん柔和な声音 になっていた。 る結果といいました。もっと正確にいえば、それは・ほくが 「きみが尊敬すべき芸術家であることは、よく承知してい 現世に於てわが身に受けとめねばならぬ報いなのです。こ のおそるべき結果は意外な形相で・ほくをおびやかし、酷烈る。きみの努力が地上で錯乱する結果になろうとは、むし な復讐を打ちつけながら、ぼくをうんざりさせ、逆上さろ美しい宿命なのだろう。それにしても、はなはだ幼稚な あほう せ、阿呆にさせ、気ちがいにさせます。この復讐が実際に注意だが、無意識だから無責任でもいいというわけには どんなものであるかは、、 カりにあなたがいかに巧妙な釣り 出しをかけたとしても、・ほくはそれを語る恥辱に椹えませ「無責任」しかりつけるように烈しく、大介はさけびかえ ん。一方、・ほくの努力は : : : ああ、また遠いところへ飛びした。「おまけに、芸術家の無責任 : : : ああ、 しい加減に 出しそうですな。まず、前置はこのへんで打切にしましよして下さい。だれが芸術家のはなしなんそしてるのです。 う。そして、遅ればせですが、ただいまの貴問のほうへ、 ( そこで、ちょっと休止して、すぐ平静な調子にもどっ 御希望どおり率直に、はっきり向き直ることにいたしました。 ) いや、ごめん下さい。あなたがどう思おうと、・ほく よ .- っ - 0 」 がそのへんまでおりて行く必要はありませんでした。た ・こ、・まくみずから現世の報いを覚吾しているというところ そういって、今にも申し開きをはじめそうな恰好で、大ナを 介はきりりとした顔をまっすぐに上げた。武吉は待った。 に、責任感の旺盛なるゆえんをみとめていただきたい。げ しかし大介はなかなか口を切ろうとせず、それはあたまのんに御質問を受けた『自選作品』の件はぼくの責任の取り えら 中でことばを撰んでいるようでもあったが、じつは急にしはじめにほかなりません。今日まで、ぼくがこの地上でか ゃべるのがいやになったのだというふうにも見えた。だく振舞わざるをえなかった無意識の行為、ともすれば世間 が、奇妙なことに、武吉のほうでは今興奮がしずまって来をさわがし他人をそこなうに終ったそれらの行為の結果に つき、今やぼくはわが身に責任を取ることに決したので たらしく、明るい影が片頬のふくらみに浮んでさえいた。 どうやら、大介の「目的」ということばを聞いたとき、何す。かなり長いあいだ、・ほくは閑静なアトリエの中に自分

2. 現代日本の文学 18 石川淳集

しかし、せきこんだ求婚者が夢中でア・ハートに駆けつけれず、ただ事件が小さかったためと推されるが、その新聞 に出ないということがかえってさまざまの臆説をうむたね 燗たとき、そこに待ち受けていたものはただ「留守 , という 受附の挨拶でしかなかった。けさ、ちょうど出かけようととなって、早耳自慢の、いわゆる裏面の消息通の間に針小 するまぎわの花笠武吉にかけた電話で、クラウス博士の変棒大に伝えられ、ユダヤ人問題とか、利害問題とか、さて 事を知り、すぐ武吉と打ち合せて、敬子がいっしょに熱海は恋の遺恨とか、まことしやかな取沙汰が一ころおこなわ れていたようである。もっとも重大らしくひびいたのは身 へ立ったことは、アパ 1 トの知るところではなかった。 と・ほと・ほと、夜風に気抜して、灯の暗い町を引ぎかえ許保証のふたしかな被害者に対し、加害者が経歴正しい某 へきがん し、金吾が家の近くまで来たとき、後からどぎつい光を投碧眼紳士で、暴行は多分に政治的な意味をもっていたとい げて、一一台の自動車がすり抜けた。窓硝子の明りの中に浮う説で、それゆえに事件がうやむやに葬られたのだと、こ いたひとびとの顔に、おやと、見直すひまもなく、車は走れは思わせぶりなゴシップであるが、もちろん真偽はお・ほ り去った。金吾は足を早めた。車はずっと向うの、たしかっかない。また、後に判明したところによると中条兵作が にリイビナ家にちがいない門の前にとまって、ひとびとを八月四五日ごろ例の伊豆の旅館に博士一行の紹介および保 そこにおろして、もううごき出して行った。金吾はいそい証を取消す旨の唐突な手紙を出したという事実があったの で駆けつけて、門をくぐろうとすると、足もとに小さく丸に起因するのか、暴漢とは某美術商の手先に使われた不良 ふん込ゅうから まったものが落ちていた。今たれかが落したものか、なに外人で、金銭上の紛糾に搦まるいやがらせだともされた げなく拾い上げると、指にねばりついて、ぶんと異様なに が、兵作がそれほどの悪党であるかどうかはともかく、そ おいがした。虫の死骸がたまっている門燈の下に寄って、 んな芝居が打てるような行動敏活な人物でないことは明 こつけい 煤ぼけた灯に透かして見ると、くちゃくちゃになった麻のらかなのだから、これまた信をおぎがたい。一番滑稽なの けいしゅう いんぎん ハンカチーフに赤黒く、血が・ヘっとりしみついていた。 は、かねて博士がロシャ人の某閨秀画家とひそかに慇懃を 通じていたために、それとさとった画家の夫が暴行沙汰に およんだのだというスキャンダルで、これはさしずめアル ダノフをさすものと解するほかないが、あの平和的な大男 クラウス博士の遭難事件は当時どの新聞にも出なかったを知る限りのひとびとは笑って聞き流すばかりだろう。ア ことで、それは鋭敏なジャ 1 ナリストの手抜かりとも思わルダノフについては、かの露独国境に従軍した戦線の三週

3. 現代日本の文学 18 石川淳集

容赦なく灼きつける太陽の下にあって、堤の土は白くそのころ、便宜荘の店の奥で、ティ・フルに頬杖をつき、 ほこりを吹き、みじかい草はばさばさに乾いて斜面にみだ兵作はむっとした風態で壁を睨んでいた。 れ、崖下にまであえぎ伏して、そこの青い水の色でほっと渋谷からタクシイで、忘れたように四谷見附へはまわら もらざお 息づいていた。黐竿を持った子供のむれが遠くに駆けまわず、すぐ銀座へ、てんぶら屋で飯を食い、そこを出ると汁 っているほか、通りかかるひとの影もなかった。敬子は太粉屋で氷あずきを食い、それからまた裏通の菓子屋でシ、 くうねった松の木の陰に坐って、草に足を伸ばし、純白のラブダアネを落した珈琲をゆっくり飲んで、やっと店に著 さっ べレをぬいで、颯と頭を振りながら、「ああ、海へ行きた いたばかりであった。ふだんでもおどろく・ヘき食慾をもっ いなあ。」とさけんだ。ならんで坐って、一一人ともしばらた兵作がとくに屈託のある場合には、その屈託を圧しつぶ いらか く黙っていた。からりと晴れた空を劃して、離宮の甍がずすほど狂おしく雑多なものを食いちらし、ふくらんだ分量 っしり日光を呼吸していた。ときどき、向う岸に、すいたで脊骨を曲げて、いったい何を考えているのか、いっか茫 小さい電車が愉しげなひびきを立ててトンネルを出はいりとしてしまうのが常であった。しかし、今、そんな兵作の 眼の前にこびりついて離れないものは、先刻窓枠の中でま やがて「あの : : : 」といい淀んで、金吾はたちまち早ロざまざと、烈日に照らし出された敬子の顔にほかならなか にしゃべり出した。「あの、ぼく、今一つ彫ってるんです。った。 ぼたん 牡丹を浮彫にしようと思うんです。板は桜を使ってます。 昔、神戸の一色家の客間に、厚いモロッコ革のアル・ハム 肌の味がおもしろく出るだろうと思ってます。ぼくの処女が一冊置いてあった。それに収められた写真の多くは一色 作なんです。便宜荘で陳列して下さるというんですが、そ夫妻と花笠武吉で、いずれも旅行とみえ、海岸や溪谷や丘 れ、あなたにささげちゃいけないでしようか。・ほく、あな陵や寺院やとりどりの背景に、三人が二人すっ三種の組合 ひのき たにささげます。一生懸命に彫ります。もしかしたら、檜せでうっしあったと推されるものが大小何枚となく拠みこ を使っても、 しいかも知れません。檜で、彩色してみたらまれていた。中に大型の一枚、これはたれがうっしたのか ・ : それもおもしろいかな。いや、やつばり桜で、彩色し岩鼻に三人ならんで明るく笑っているのは、裏に記してあ ないほうがいいかな。あなたはどっちがいいと思いまする通り場所は「六甲山にて」で、日附によると夫妻の新婚 : そうですね、・ほく、やつばり桜にしましよう・・・・ : 」 後まもなく武吉が遊びがてら訪ねてきたおりらしく、それ ならば当時この二人の青年はまだ三十歳にはなっていず、 ほおづえ

4. 現代日本の文学 18 石川淳集

わめて強壮で、錯乱や発作の兆候を検出するにかたく、その死のことも、ビストルのこともみな忘れはて、今日では のうえ夫人が目下妊娠中で数ヶ月後には最初の子供を待つもうこのをお・ほえているひとがあるかどうか判らぬ。だ ているという、もつばら生命力の横溢でいそがしいほかに が、このような忘却こそ死んだ当人にとって註文どおりの は何の瑣事にもわずらわされないような、かかる血統正し首尾というべく、けだし世間は期せずして大介の術中にお い青年がある日ふと自殺するなど、世間の到底承認すべかちいったものであろうか。 らざることに属していた。事実、世間では大介の死をはな もっとも、当時ごく少数のひとびとの中には、、 ったい はだ得手勝手な所業、秩序を害する侵犯として受け取った大介のごとぎ人物にして別段痛切な事情もないのに行倒れ らしく、最初好奇心の満足でほころばせかけた笑顔をやが同然のくたばり方をするなどということがありえようか、 しか て顰めづらにかえてしまうに至り、それにさきだって中正そんな大介らしくない振舞はとても考えられぬという疑問 なジャーナリズムはこの事件を一度だけあわてて大きく取がなお打ち消しがたく残っていた。たしかに、このふてぶ り上げはしたものの、合点するにたりる原因の手がかりてしい男の息の根をとめるためには、単に精神的なものの も残さずに、売物にすべき暴露記事のたねもあたえずに、 圧力ばかりでは間にあわず、明らかに眼に見えるところ、 いわば良識に恥をかかせ放しで飛び去ったところの無礼者手にふれうるところで、肉体的なものの衝撃を必要とした むく に対して、たちまち黙殺をもって酬いるに決した模様であはずだと臆測されたにしても、あながち無理ではなかっ げんに、事件の翌日、八月一一十六日の朝刊にこそ、 た。そして、死者の最後の友人、現場の立会人である花笠 各新聞は麗麗しく三段抜の報道を掲げたが、ついそれぎり武吉はしばしばこの手の質問にぶつかる羽目に立たされた で、当夜しらふに相違なかった大介の行為を泥酔者の過失カ ・、、ジャーナリスト群の執拗なたね漁りに対してす・ヘて沈 としてのけることで鳧をつけ、この国がもった一人の芸術黙で押しきったと同様に、ここでも堅く口をとじて意見ら 家の精神などよりも、一丁のコルトの入手経路のほうがずしいものは全然洩らさなかった。それはもちろんみずから 描 っと重大だといったふうに、銃砲取締規則の強化について答えるすべを知らなかったのに依るのではあろうが、何よ りも今武吉はめまぐるしいほど雑多な配慮に忙殺されてい 白心配してみせるに終った。後に、二三の低級な婦人雑誌が ねっぞう 大介をめぐる何角関係とやらを捏造して智慧のない蒸しか たので、つまり従来両腕に抱えていた各種の用件のほか あて 行えしをくわだてたことはあったが、みな宛がはずれたよう に、さらにもう一つ死者の跡始末を、葬儀の執行とか、未 すで、こうして世間はいっか好都合に、画家のことも、そ亡人の身の振方とか、胎児の行末とか、遺産の整理とか、

5. 現代日本の文学 18 石川淳集

ほりばた た。いつもの癖で一度四丁目の角まで来て、それから表通に折れ、急にうす暗くなっている濠端に出た。そこにたむ の西側を新橋のほうへのっそり足を踏みつけて歩いた。とろしているタクシイの列からすこし離れたところに、クラ きどきすれちがうひとに前後からどしんと突き当られるまイスラーが一台とまっていた。三人が近づくと、車内に灯 かっこう で、兵作は自分の体重であがきがっかないような恰好であがっき、運転手がおりてドアをあけた。三人が乗った。車 った。そして、赤みをおびた灰色の瞳を宙にすえて、先刻はすぐうごき出した。兵作は濠端の鉄柵のそばに立って、 から、よし、それならば、よし、それならばと心にくりかもう見えなくなった車のあとにじっと眼を光らせていた。 えしながら、それならばどうするのか判らないなりに、ひふとポケットに入れた手先が硬ばるものにあたった。手紙 じやけん とり乾いたロもとをゆがめていた。っと、兵作は足をとめだ。手紙は邪慳に引き出されて、びりびりとこまかく裂か た。つい前方に、敬子の姿を見たと思った。やはり敬子れ、てのひらの汗の中に揉みかためられた。兵作は鉄柵に だ、金吾もいっしょに。とたんに兵作は眼をみはった。倚って手を振り上げた。ばっと白い紙切れが舞い、まっく 今、敬子がはなしかけている相手は、どっしり肩をそびやろな水の上に落ちて行ったが、そのいくつかが風に吹ぎか かしたその黒服の後姿は : : : たちまち兵作は電車道に出えされて、ちらちら鋪道に散った。うぬと、兵作は飛びか て、車のみだれるあいだを数間さきへすべり抜け、また歩かって、ロの中で何かつぶやきながら、にくにくしくそれ 道にもどって、ちょうどそこにあった小さい郵便局の中にらの紙切を靴の爪先で蹴り、一つ一つ濠に蹴り落し、残ら すずりばこ はいり、いそぎのはがきを書くひとのように、硯箱の載っず落ちてしまうまでやめなかった。 ている台の上にかがみながら、外をうかがって待った。や「花笠め、花笠め。」 がて、三人が通りすぎた。はたしてというふうに、兵作は 深くあごを引いて、横眼で睨んだ。そして、すぐ外に出 五 て、三人の後から間隔を置いて、身をしのばせて歩いて行 った。そこに、敬子が腕をもたらせている相手にまごう方赤坂溜池のほうからのぼると、大きい坂小さい坂で、そ ざっとう なき花笠武吉を見出したことはもう意外ではなかった。しの上からはるかに巷の雑鬧を見おろしつつ、あたりの邸宅 かし、敬子はついそ自分に対してそんなに愉しげな親愛なの茂みに包まれておちついている麻布高台の某ホテルの一 態度を示したことはなかった。おまけに、金吾までが・ : 室が花笠武吉の東京に於ける住居であった。これまで諸方 三人は通をわたりきって、新橋のてまえ、カフェの角を右から何度も結婚のはなしをもちこまれながら、いまだに独 にら

6. 現代日本の文学 18 石川淳集

文藝列 ・を - ふを 第 - 全、第イ 昭和 26 年安部公房と 高輪南町の家にて。 昭和 25 年講演旅行のおり小諸駅前にて左 より一人おいて丹羽文雄亀井勝一郎 真杉静枝久米正雄井伏鱒二石川淳 ば花笠武吉に対する一色敬子 ) や、あるいはまた、狂 気のように鞭をふるうサディスティックな人物が出 8 てきたりするのに、注意ぶかい読者ならばお気づきで あろう。鞭について言うならば、初期の美しいコント ・ファンタスティック『山桜』のなかに、主人公の幻 の恋人である京子の夫善作が、乗馬服すがたで、緋鯉 のおどる池の水面に鞭をふるう印象的な場面があり、 戦後の名作『鷹』のなかに、キューロットに長靴をは いた秘密結社の美少女が、主人公の国助に拷問のよう あ・らわ」ー・ な鞭の愛撫を行使する場面がある。さらに近作『荒魂』 でも、鞭打ったり鞭打たれたりする男女のエロティッ クな狂宴が繰りひろげられるのをつけ加えておくべき かもしれない これらの暴力が何の象徴であるかは、 今まで私が述べてきたことから判断すれば明瞭である はすである。相対立する力とカ、エネルギーとエネル ギーが拮抗するとき、その緊張関係からたまたま物理 的な音が発したとしても驚くには当るまい。石川淳氏 さわ の愛する爽やかな鞭の響きは、疑いもなく、 精神の運 動における自己否定の反響にはかならないのである。 さて、みすから敵を欲するところの精神の運動が、 オた純粋に弁証法的に展開するだけで、そのまま一篇 の美しいロマネスクを織りなしたかのような感をいだ かしめるのが名作『紫苑物語』であろう。歌道を捨て、

7. 現代日本の文学 18 石川淳集

のが、・ハーいつばいに散って、わけの判らぬ文句をわめきないけはいしか応えなかった。花崗岩の塀をめぐって見ま わしても、植込越しに閉ざされた窓硝子がひっそり反射し 出した。 「さて」と画家はふらふらと立ち上って、「ちょっと向うているだけで、どうやら空家らしいこの建物が何なのか貼 をのそいてみますかな。」 紙一つ眼にふれず、もしや家をまちがえたのかと、近隣は 「ああ、きみ」と武吉はふと真顔になって、「今のはなしいずれも権高い邸ならびの、そのあたりをうろうろしてい るところへ、酒屋ふうの男が自転車で通りかかったのに、 ・ : 柏木の家のはなしだが : : : 」 「ああ、中条さんはそこの 「あの中条さんというのは : ・ 「え。」 「わたしが買いたいのだがね。わたしの手に落したいのうちなんだが、もう引越しましたよ。」「え。」「けさ早くす つかり引越して行きましたよ。」「どこへ。」「さあ、知りま 「では、伯父におはなしになったら : : : ぼくからも伝えてせんねえ。」一一三町離れた交番できいても、あきない店で きいてもおなじ返事にいらだたしく、暑くるしく、疲れき おきましようか。」 「どうぞ。」 った足を踏みつけて、一そう持ちおもりのして来た鞄をや けに振りながら、ともかく歩きかえした渋谷の駅から電車 「あなたの手に入れば、何かの材料になりますか。」 「いや、わたし自身だれかの手の中の材料でしかないらしに乗って、また銀座へ : : : もう一度便宜荘に寄って問い合 せると、店員のほうがあきれた顔つきで、 「へえ、そうですか。引越したんですか。店には何ともい いませんよ。そうですかねえ、どうして店に知らせないん 十 だろう。」 さて、この九日の正午ごろ、先刻便宜荘できいた道筋をもはや叩きつけるすべのない鞄といっしょに兵作への簡 ことづて たどって、炎天の下にあえぎつつ渋谷松濤の町角に、金吾単な言託をそこに残して、金吾はまだ納まりきらぬ肚の虫 がやっと中条の住居を、聞いて来たような和洋折衷の一かで手荒く扉をうしろに押し、外へ飛び出した。すでに二時 まえをたずねあてると、大きい門もくぐりも堅くしまってすぎの銀座通で、明るい巻の風に吹かれると、急に重荷を いて、剥がされたばかりとお・ほしい標札の跡が門柱になまおろした腕の軽さにほっとして、まあ一段落だ、これでよ 白く、呼鈴を押した指さきには、がらんとした内部の頼りかったのだ、今さらあの人物を相手にして不愉快な場面を

8. 現代日本の文学 18 石川淳集

しさい 内に扇子を置ぎ忘れたりして、勘吉は事の仔細が判らない辱も返して来ます。」「だって、おまえ : : : そりや返すのは 1 なりに茫として帰って来た。腑に落ちぬ態度の兵作にむか : ししが、こんなにおそく、どこへ返しに行くん ってペこペこ頭を下げすぎたような気がして、すこしくやだ。銀座の店はもうしまってるだろう。中条さんのうちて しくなって来たが、それよりもいったい息子がどうしたのえのを、おまえ知ってるのか。」 か、きのうの朝の顯末もいぶかしく思い合わされ、不安に金吾は計画を後日に延ばして、鞄を置かなければならな 胸をつまらせて、明日にも柏木の異人の家に訪ねて行ってかった。その代りに、息子の帰宅とビール一本で早くも上 みようか、いや、今夜にも : : : そう考えながら、家の前に機嫌になって来た父親を前にして、柏木での数日のこと、 著いたときにはとうに日が落ちて、狭い間ロの硝子戸が立クラウス博士のこと、明朝たずねる約束の花笠武吉のこと てこんでいる町の片隅に、吹き出した風の中で、鋪道の熱などを愉しげにはなしはじめた。ただし、敬子のことには 一言もふれずに、やがて浮彫のはなしに夢中になってしま のほと・ほりが褪めかかっていた。 内側から締まりのしてある表ロのてまえをまがって、隣った。 ひさし との庇合をくぐった露地の奥の、裏手へまわろうとする「これから、午前中は・ほくの仕事の時間にしますよ。うち と、そこの暗がりに、鞄を足もとにおろして、ひょろりとがいそがしいときには、夜も手つだいますから。」 「ああ、 しいとも。」 立っていたのが「おとうさん。」「お、おまえか。どうした 「仕事場の、こっちの端のところ、ぼくが専用に使ってい んだ。」「今帰って来たところです。」「どうかしたのか。」 いでしよう。」 「いや : : : うちにはいりましよう。蚊に食われちゃった。 「ああ、 いいとも。」 鍵、下さい。」 その夜、何か小言らしいものをいうつもりでいた勘吉 は、いざとなると、 い出しようがなかった。そして、逆 九 に自分のほうから、昼間の出来事をしゃべってしまうと、 あくる九日の朝、八時きっかりに、金吾は麻布のホテル とたんに鞄をつかんで立ち上った息子の烈しいいきおいに びつくりした。「どこへ行くんだ。」「返しに行くんです。」をたずねた。もうホームスパンではなく、少年団の服のよ 「返しに : ・ : 」「古鞄も、古洋服も、皺くちゃの五円札もちうな襟を開いた草色の上著、おなじく半ず・ほんの清潔なの しゅろ ゃんとしています。これといっしょにぼくたちに対する侮をきちんと著て、通された階下のロビイの隅、大きい棕櫚 ほうつ

9. 現代日本の文学 18 石川淳集

りくっ 態ではなく、理窟抜きで、物事にてぎばぎしたところもあクリン氏よ、あなたの堂堂たる静謐にはとてもかなわぬ。 けた る。写真技術のほかに、数字には敏感で、三桁の暗算をす きよう ( 八月七日 ) 伊豆から手紙が来た。急に引き らすらとやってのける。日本語も達者なほうで、住所ぐら いは漢字で書く。もしわたしがこの男のために何かしてやあげることになったとある。理由は明記してないが、宿屋 るとすれば、さし当りどんなことからはじめるべきか。おの待遇におもしろくないことがおこったらしい。そして、 そらく、いかなる境遇の下でも、この男に於て今のままよ「中条氏の不可解なる手紙ーという文句。どうしたのか、 りほかの恰好を想像しがたいので、その恰好にもっとも好さつばり様子が判らぬ。 ロシ今 ( 午前十一時 ) 、外出しようとしているところへ、電 都合な環境を準備してやるということが考えにくい。 ヤ人はだなどと、よく一口にいうが、当人にしてみれば報 ( 熱海発信 ) 。クラウス博士が暴漢に襲われて負傷した。 自分が謎だと思っているわけもなかろう。一度この男の周すぐ熱海病院に来てくれとある。おお、何事だ。暴漢と ろうばい 章狼狽する場面を見たいものだ。そうすれば、こちらのしは : ・ てやり方が見つかるかも知れぬ。 まったく、アルダノフにくらべれば、わたしはのべつに あわてふためいているていだ。とりわけきよう一日は会社 一日の夜から七日のきように至るあいだ、鼓金吾にとっ の用件でいつばいであった。わたしはひとのため、ひとの いったい何をしているのか。げんにてはなはだ心はやりがちな生活がはじまっていた。第一に ためとさわぎながら、 わたしが会社の重役だということはたれのためになってい浮彫で、それを捧げるべき相手が敬子のほかに、さらに花 るのか。なるほど会社が製造するところの飛行機は何もの笠武吉の有力な鑑賞が予約されたことはまだかたまらぬ仕 かであろう。しかし、重役であるわたしと工場の労働者と事を責任の重みで定著させ、かったれからともない督促で : これは陳腐な問題だ。だが、解決が・ほかされ放しになつ新参の彫り手をわくわくさせた。いっか中条兵作は少年の 視野の外へすべり出ていた。一日の便宜荘での出逢以来、 ている問題はいつまでたっても無用な屈託ではあるまい。 そして : : : もう遅い、やめよう。深夜にひとりこの手帖を金吾は突然この人物を見うしない、そして見うしない放し いじっていることが愉しくなり出したようだ。これまたわで、もうそのことがまったく考の中にはいって来なくな す、ま 気持の上でも後くされの染が残りうる隙間のないほど が身に於て禁ずべきむだ事の一つであろうか。ああ、フランり、 しみ をいひっ

10. 現代日本の文学 18 石川淳集

よりも、不能者よりも、もっとわるいものでございます。生的な小事件が頻発するとしても、ここに至って、ああ、 あのひとは異邦人です。これも決してものの譬ではなく すべてそれが何事であるか。第一たれでもいやというほど : おそろしい異邦人です。あのひとのからだでは、日本承知しているごとく、そんなことは世間にざらにあるはな の血よりも異邦の血のほうがずっと濃いのです。中条家のしだ。あれはこうしたほうがよかったろうになどと、ばか 血統には : : : 」 ばかしい頭痛を病んでいるひまはない。何よりも、われわ れは暫時の休息を撰ぼう。すでに夜はふけて、ひとびとが われわれは心ならずも、中条兵作について思わぬ深入をそれそれ寝床に納まり、金吾は本所の家に、敬子はアパ】 かす ぐうきょ してしまったようである。何かの縁でふと眼を掠めた影とトに、武吉は鎌倉山に、クラウス夫妻は遠く高崎の寓居 してではなく、もしこんな底の知れた人物をとくにめずらに、そして無視しがたい盛大介はどこやらに、いずれも朝 しげに取り上げてその内幕にのみ低劣な探索興味をうごか遅くまでぐっすり眠りすごすであろうけしきなので、せつ しかん したとすれば、明らかに精神の弛緩にほかならず、もとよ かく一休みできそうなはずであるのに、そのみじか夜の夢 りそれは士人の恥とするところであろう。ここで偶然先方さえたちまち破られたのは、まだ明方の、つまり十日の朝 の側から内証ばなしの押売をして来る仕儀になったのをきの五時というのに、閉ざされた柏木の家の門前で、たれか つかけに、われわれはもうこれ以上不潔な巻添を食わされがしきりにベルを押しつづけているからだ。このえたいの るのを拒絶しつつ、たとえ前後の連絡がとぎれるにもせ知れぬ訪問者を迎えるために、われわれはめんどうながら よ、中条家と、その当主とその模擬事業とは今後抛擲して リイ・ヒナ夫人とともにねむい眼をさまさなければならぬ。 かえりみないことにしよう。今逆上した主婦のロ走る通り 中条家の系図は神戸開港以来おりおり異邦人の血で書かれ ているとしても、げんに兵作の祖父すなわち鬼兵の父親が クラウス博士と同系統の外国貿易商であったとしても、兵 ・ヘルの音は眠りこけている女中よりもさきに二階のリイ 作自身も世間も有りと信じていた財産がついに無に近い正・ヒナ夫人をめざました。その寝室の窓には前夜遅くまで灯 体を暴露したとしても、こののち兵作の病気が小康とぶり がつけ放しになったままで、眠をうしなって悶悶とする人 かえしを反覆するとしても、家庭の不和がますます悪化す物のけはいが映り出ていた。この二三日ずっと気分がすぐ るとしても、便宜莊が閉鎖されるとしても、したがって派れないでいる夫人を、アルダノフは階下に避けて、これは えら もんもん