一一月まで、「虹」を文学界に連載。六月、「黄金伝説」 ( 河出文庫 ) 稿、「紫苑物語」を「中央公論ーに発表。九月、「まぼろし車を を河出書房より刊行。九月、小説集「鳴神」、「石川淳・坂口安吾・「新潮ーに発表。十月、「近松」 ( 野沢喜左衛門節附浄瑠璃放送台本 ) 太宰治集」 ( 現代日本文学全集 ) を、ともに筑摩書房より刊行。十を「文学界」に発表、小説集「紫苑物語」を講談社より刊行。十一 月、「坂口安吾との往復書簡 , を「新潮」に、十一一月、「大歳の餅」月、「い業平」 ( 若手落語会ロ演台本 ) を「新潮」に発表。 五十八歳 を「別冊文藝春秋 , に発表。 昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 五十六歳一月、「鰐」を「文学界」に発表。三月、「紫苑物語」により第七回 昭和三十年 ( 一九五五 ) 一月、「前身」を「新潮」に、「しぐれ歌仙」 ( 一回で中絶 ) を「群芸術選奨文部大臣賞を受賞。同月、アナトオル・フランス「赤い百 像ーに発表、「虹」を講談社より刊行。一一月、「坂口安吾を悼む」合」訳 ( 角川文庫 ) を角川書店より刊行。四月より十月まで、「白 ( 談話筆記 ) を「別冊文藝春秋」に掲載。三月、「愛の妖精」を「文頭吟」を「中央公論」に七回連載。五月、小説集「紫苑物語」 ( 新 藝」に発表。四月、「狼」を「新潮」に発表、「伊藤整・石川淳集」潮文庫 ) を新潮社より刊行。五月より十月まで、「新釈古事記ー神 ( 昭和文学全集 ) を角川書店より刊行。五月、「犯人」を「中央公神ー」を「総合」に連載 ( 雑誌廃刊のため六回で中絶 ) 。六月、「京 論」に発表。六月、「安部公房君鐫印ーを「どれい狩り」俳優座公伝頓死ーを「新潮」に発表。十月、「諸国畸人伝」を筑摩書房より 演プログラムに、「ホテル気質」を「文藝春秋ーに寄稿、「鷹・墹刊行。十一月、「古画評判・烏鷺覚賢奥儀」を「芸術新潮」に発表、 瑚」を講談社より刊行。八月、「すだれ越し」を「新潮」に発表。「白頭吟」を「中央公論 , より刊行。 五十九歳 九月、「落花」を「新潮」に発表、「一虚一盈ーを翌十月にかけて昭和三十三年 ( 一九五八 ) 「東京新聞」に六回連載。十月、「文学大概」 ( 角川文庫 ) を角川書三月、「八幡縁起」を「中央公論ーに発表。四月、「今はむかし」を 店より刊行。十二月、小説集「落花」を新潮社より刊行。十一一月よ「別冊文藝春秋」に発表、「日本語と漢語」を「東京新聞」に三回連 り三十一一年六月まで、「諸国畸人伝ーと題して、「小林如泥」「算所載。七月、「修羅」を「中央公論」に発表。八月、「蜃気楼」を「別 の熊九郎」「駿府の安鶴」「都々一坊扇歌」「細谷風翁」「井月」「鈴冊文藝春秋」に発表、小説集「修羅」を中央公論社より刊行。十 木牧之」「阿波のデコ忠」「武田石翁ー「坂口五峯」の十篇を「別冊月、「遊船」を「声」に発表。十一月、「家宝拝見・文化焼底割釜」 文藝春秋 , に断続連載。 を「芸術新潮」に発表。十二月、「かくしごと」を「別冊文藝春秋」 五十七歳に発表、「蜀山断片」を岩波書店版「日本古典文学大系」第五十七 譜昭和三十一年 ( 一九五六 ) 一月、「夢の見本市」を「新潮」に発表、「新釈雨月物語」を講談社巻附録に、「六世歌右衛門」を講談社刊「六世中村歌右衛門」に寄 年より刊行。一一月、「灰色のマント」を「中央公論」に発表、「普賢」稿。 六十歳 ( 角川文庫 ) を角川書店より刊行。四月より五月にかけて、「人生 / 昭和三十四年 ( 一九五九 ) ート」を「サンデー毎日」に四回連載。六月、「安吾のゐる風景」一月、「霊薬十一一神丹」を「新潮」に発表。二月、「怪異石仏供養」 恥 を「文学界ーに発表。七月、「墓とホテルと・ : ・ : 」を「新潮」に寄を「別冊文藝春秋」に、「南画大体」を新潮社版「日本文化研究」
月、「岩野泡鳴」を「近代日本文学研究 ( 大正文学作家論上 ) 」 ( 小居。 学館刊 ) に発表。 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 四十九歳 昭和十九年 ( 一九四四 ) 四十五歳一月、小説集「佳人」を思索社より刊行。一一月、「変化雑載」を「表 一一月、「義真記」を桜井書店より刊行。四月、「岡本かの子」を「近現」に発表。小説集「処女懐胎」を角川書店より刊行。三月、「昼 代日本文学研究 ( 昭和文学作家論上 ) 」 ( 小学館刊 ) に発表。八月、霞」を「新潮」に、「野ざらし」を「文藝春秋」に発表。四月、世 「歴史小説について」を「新潮」に発表。 田谷区北沢一一丁目に転居。五月、小説集「無尽燈」を文藝春秋新社よ 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 四十六歳り刊行。六月、「雙美人」を「人間」に発表。七月、「太宰治昇天」 三月、「明月珠」を「三田文学」のために執筆したが、空襲によりを「新潮」に寄稿。九月、「最後の晩餐」を「文藝春秋 , に発表、 同誌編集所焼失して発表不能となる ( 翌一一十一年発表 ) 。このころ「石川淳著作集」全六巻を全国書房より刊行しはじめる ( 四巻刊行 麻布簟笥町に住んでいたが、五月、空襲によって被災、船橋市に転後中絶 ) 。十一月、「森外」を角川書店より刊行。 居。以来一一年あまりその地の寓居にとどまる。 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 五十歳 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 四十七歳一月、「かれらの酒杯」を「新潮 , に連載 ( 一一月に完結 ) 、「華厳」 三月、「黄金伝説」を「中央公論」に、四月、「明月珠、を「三田文を「表現」に連載 ( 雑誌廃刊のため八月で中絶 ) 、小説集「焼跡の 学」に、五月、「寒露ーを「新潮」に、六月、「窮菴売ト」を「太イエス」 ( 新潮文庫 ) を新潮社より刊行。三月、「懸想文売」を「作 平」に、七月、「無尽燈」を「文藝春秋」に、十月、「焼跡のイエ 品」に、五月、「藤衣」を「別冊文藝春秋」に、同月、「い堯舜」 ス」を「新潮。に発表。十一月、小説集「黄金伝説」を中央公論よを「別冊読物時事」に、六月、「い李白」を「小説新潮 . に発表。 り刊行。十一一月、「普賢」 ( 昭和名作選集 ) を新潮社より刊行。「燃七月、小説集「最後の晩餐」を新潮社より刊行。同月、港区芝高輪 える棘」を「別冊文藝春秋」に発表。 南町に転居。八月、「善財」を「新潮」に発表。十一月、「夷斎雑 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 四十八歳談」 ( 談話筆記 ) を「近代文学」に掲載、「片しぐれ」を「文藝春 一月、「かよひ小町」を「中央公論」に発表。二月、「白描」を中央秋」に発表。 公論社より刊行。四月、「いすかのはし」を「人間」に、六月、「雪昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 五十一歳 譜のイヴ」を「別冊文藝春秋」に、八月、「しのぶ恋」を「改造 , に 一月、「鳳凰ーを「別冊文藝春秋」に、「野守鏡」を「群像 _, に、 発表。同月、「文学大概」 ( 増補版 ) を中央公論社より刊行。九月、「錦木」を「改造文芸」に発表。三月、「影ふたっ」を「文学界」 年「外に関する対話」を「森外研究」 ( 長谷川書房刊 ) に寄稿。同に、四月、「夜は夜もすがら」を「群像」に、五月、「南枝向日」を 月、「処女懐胎 . を「人間」に連載、十一一月に完結。十一月、小説「新潮」に、「滝のうぐひす」を「別冊文藝春秋」に発表。同月、 集「かよひ小町」を中央公論社より刊行。十一一月、「梅」を「別「坂口安吾・織田作之助・太宰治・石川淳集」 ( 現代日本小説大系 ) 冊文藝春秋」に発表。この年の秋より、世田谷区北沢一丁目に転を河出書房より刊行。六月、「い和唐内」を「小説新潮」に発表、
第一一巻に発表。五月、「狐の生肝」を「新潮」に発表、小説集「霊一月、「横綱の弁ーを「酒」に寄稿、「おあいにくさま」を「中央公 薬十二神丹」および「石川淳集」 ( 新選現代日本文学全集 ) を筑摩論」に発表。一一月、新潮社版日本文学全集「森外」に解説「森 書房より刊行。六月、上田秋成没後百五十年記念講演会において外の作品について」を寄稿。一一月、「石川淳全集」を筑摩書房より 「秋成私論」を講演。七月、「敗荷落日」を「新潮」に発表、「独立刊行しはじめる。翌年十二月全十巻完結。四月、編「文壇よ の精神について」を「東京新聞」に三回連載。七月と十月の一一回、もやま話」 ( 青蛙書房刊 ) に放送対談「石川淳の巻」を収録、「越天 「影ーを「中央公論文芸特集 , に連載。八月、「獅子のファルス」を楽」を「小説中央公論」に発表。五月、多年にわたる作家業績によ 「新潮」に発表、「秋成私論」 ( 講演会速記による ) を「文学」に掲り第十七回芸術院賞を受賞。六月、「一冊の本」を「朝日新聞」に 載。十一月、「裸婦変相」を「新潮」に発表、「思想は食へるもの寄稿。七月、「ことばに手を出すな」を「新潮」に発表。九月、俳 か」を「近代日本思想史講座」 ( 筑摩書房刊 ) 月報 3 に寄稿、小説優座上演台本「おまへの敵はおまへだ」を「群像」に発表、ついで 集「影」を中央公論社より刊行。十一一月、「にせ神父」を「別冊文筑摩書房より刊行。公演プログラムに「挨拶」を寄稿。同月より十 藝春秋」に発表。 月にかけて、同台本は東京・新潟・名古屋・大阪・神戸・岐阜の各 昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 六十一歳地で上演された。十月、「京都ぶらぶら」を「きようと」秋号に寄 一月、「初芝居三ッ物」を文学座公演「熱帯樹」プログラムに寄稿、稿。十月より翌年九月まで、「夷斎遊戯ーと題して、「芝居」「宇野 「ほととぎす」を「新潮」に、「大徳寺」を「声」に発表。二月、浩一一」「十日の旅」「画譚難肋について」「細香女史」「ドガと鳥鍋 「五十音図について」を筑摩書房版「古典日本文学全集 , 第三十四と」「即興」「読まれそこなひの本」「武林無想庵ー「スカ・ ( ン」「小 、といふ字のつくもの」「文学賞ーの十一一篇を「文学界ーに連載。十 巻付録に寄稿、「自由について」を「東京新聞」に三回連載。三月 一月、「わが小説」を「朝日新聞」に寄稿。十二月、「二人権兵衛。 「蕪村風雅」を「俳句」に、四月、「遠くから見たアルべール・カミ こを「中央公論」に発表。五月、「戦中遺文」を「新潮」に発表、を「別冊文藝春秋」に発表。 六十三歳 「新釈古事記ー神々ー」を筑摩書房版「古典日本文学全集」第一巻昭和三十七年 ( 一九六一 l) に収録刊行。六月、「夷斎饒舌」を筑摩書房より刊行。七月、「喜寿五月、「自転車とカボチャと」を「中野重治全集」 ( 筑摩書房刊 ) 第 と 童女」を「小説中央公論」に発表。八月、「寄酒祝」を吉川幸次郎十巻月報に寄稿。五月より十月まで、「レス・ノン・ヴェル・ハ 「知非集」付録に寄稿。九月、「政治についての架空演舌」を「新題して、「車」「禅」「道具」「居所」「型」「アメリカ村」の六篇を 潮」に発表、「新釈雨月物語」「新釈春雨物語」を筑摩書房版「古典「世界ーに連載。七月、芥川賞選考委員となる。 日本文学全集」第二十八巻に収録刊行、巻末に「秋成私論」のほか昭和三十八年 ( 一九六 = I) 六十四歳 「樊嗜下の部分について」を併載。十月、「死後の花嫁」を「小説中一月、「金鶏ーを「世界」に発表。同月、「荒魂。を「新潮」に連載 央公論」に、十一一月、「ばけの皮」を「別冊文藝春秋」に発表。 しはじめる。十六回にて三十九年五月完結。三月、「夷斎遊戯」を 昭和三十六年 ( 一九六一 ) 六十一一歳筑摩書房より刊行、渋谷区代々木上原に転居。八月、「わが万太郎」
「篠船」を「文学界」に連載 ( 七月完結 ) 、「処女懐胎」 ( 新潮文庫 ) 昭和ニ十七年 ( 一九五一 D 五十三歳 を新潮社より刊行。九月、「」列子」を「別冊小説新潮」に発表。一月、「夢の殺人」を「群像」に、「蜜蜂の冒険」を「文藝、に発 十月、「梟」を「別冊文藝春秋」に、「妖女」を「群像」に発表。同表。三月、「首尾 . を「群像ーに、「石濤」を「草月」に発表。四 月より翌年八月まで、「夷斎筆談」と題して、「面貌について」「娯月、「他人の自由」を「別冊文藝春秋」に発表、「夷斎筆談」を新潮 楽について」「沈黙について」「恋愛について」「権力について」「権社より刊行。六月より一一回にわたり「歌仙」を「群像」に連載。八 力について ( 承前 ) 」「風景について」「技術について」「悪運につい月、「乞食王子」を「文藝」に発表。九月より翌年八月まで、「夷斎 て」「仕事について」「仕事について ( 承前 ) 」の十一篇を「新潮 , 清言」と題して、「蝦夷日記」「狂歌百鬼夜狂 , 「畸人」「ワビ」「花」 に連載。十一月、「望楼」を「中央公論文藝特集ーに、十二月、「珍味船」「髪」「袋草紙」「和歌押韻」「東坡禅喜」「和訓」「譜」の 「毳い管仲」を「小説公園 , に発表。この年、「ニセモノ記」を「作十二篇を「文学界」に連載。十月、小林秀雄との対談「現代文学の 品」第五号に、「森外集上巻」 ( 新潮社刊 ) に「解説」を寄稿。諸問題」を「群像」に掲載、「蜘婀」を「別冊文藝春秋」に発表、 昭和ニ十六年 ( 一九五一年 ) 五十一一歳「夷斎俚言」を文藝春秋社より刊行。十一月、「アルプスの少女」を 一一月、「演技」を「文藝春秋」に、三月、「さらば垣」を「文学界」「文藝、に発表。十一一月、「処女懐胎・白描」 ( 現代日本名作選 ) を に、「常陸帯」を「別冊文藝春秋」に、四月、「ジイドむかしばな筑摩書房より刊行。 昭和ニ十八年 ( 一九五三 ) し」を「文学界」に発表。五月、「安部公房著「壁」序」を寄稿。 五十四歳 六月、「末の松山」を「群像」に、「小公子」を「文藝ーに、「ファ一一月、杉並区清水町に転居。三月、「鷹」を「群像」に、四月、「白 ルス」を「中央公論文藝特集」に発表。七月より三回にわたり「合鳥物語」を「文藝ーに発表。四月より翌年八月まで、「新釈雨月物 ちぎり 縁奇縁ーを「別冊文藝春秋」に連載。八月より翌年八月まで、「夷語」と題して、「吉備津の釜」「仏法僧」「夢応の鯉魚」「菊花の約」 斎俚言」と題して、「乱世雑談」「芝居ぎらひ」「論争ばやり」「中間「浅茅が宿」「白峯」「青頭巾」「貧福論」「蛇性の婬」の九篇を「別 物とは何か」「金銭談」「模倣の効用」「孤独と抵抗」「芸術家の永遠冊文藝春秋」に連載。六月、日本フランス文学会公開講演会で「リ レケ」を講演、アナトオル・フランス「赤い百合」訳 ( 三笠文庫 ) の敵」「芸術家の人間条件」「歌う明日のために」「フィルムあれこノ れ」「ニヒルと政治」「革命とは何か」の十三篇を「文学界」に連を三笠書房より刊行。七月、「森鵐外」 ( 角川文庫 ) を角川書店よ り、九月、小説集「騰」を講談社より刊行。十一月、「蜩瑚」を「群 載。九月、永井荷風「澤東綺譚」 ( 角川文庫 ) に「解説」を寄稿、 「白描」 ( 角川文庫 ) を角川書店より刊行。十一月、「毳い清盛」を像」に発表。十一一月、小説集「墹瑚」を講談社より刊行。 「オール讀物」に発表。十一一月、「春の葬式」を「別冊文藝春秋」に昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 五十五歳 発表、ジイド「背徳者」訳 ( 新潮文庫 ) を新潮社より、「坂口安吾・ 一一月、「だから、いはないことちゃないー社会時評とは何かー」を 石川淳・田畑修一郎・北条民雄・中島敦・田中英光集」 ( 現代日本「文藝春秋」に発表。三月、「鳴神」を「新潮」に、「家なき子」を 小説大系 ) を河出書房より刊行。 「文藝」に発表。四月、「夷斎清言」を新潮社より刊行。五月より十
を「新潮」に寄稿、アンケート 「石川淳氏への質問」の答を「文より刊行・十月、「ウンの全集ー直言曲言ー」 ( 談話筆記 ) を「朝日 芸」に掲載。九月、「ゆう女始末」を「世界」に発表。十一月、小 新聞」に寄稿。十一月、「詩的回想断片」を「新潮」に寄稿。 説集「喜寿童女」を筑摩書房より、「石川淳集」 ( 日本文学全集 ) を昭和四十ニ年 ( 一九六七 ) 六十八歳 新潮社より刊行。年末、芸術院会員となる。 一月、「大みそかのタ , を「東京新聞」に寄稿、「鏡の中 , を「新 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 六十五歳潮」に発表、「石川淳・坂口安吾集」 ( 日本現代文学全集 ) を講談社 一月、「不幸でなさすぎる」を「中央公論」に、「京劇雑感」を「読より刊行。一一月、坂口三千代「クラクラ日記」 ( 文藝春秋社刊 ) に 売新聞」に寄稿。二月、コ一十七歳の達観 , を幸田露伴「有福詩人」序文を寄稿、「至福千年」を岩波書店より刊行。同月、川端康成、 俳優座公演・ハンフレットに、「双璧」を「福永武彦・安部公房集」安部公房、三島由紀夫とともに、「中国文化大革命に関し、学問芸 ( 集 ~ 窪版新日本文学全集 ) 月報に寄稿。三月、「渡辺崋山」 ( 筑摩術の自律性を擁護するアビール」を表明。四月、千田是也演出のた 叢書 ) を筑摩書房より刊行。六月、「わが友三好達治 . を「新潮 [ めの上演台本「一目見て憎め」を「中央公論」に発表。五月、川端 に発表。七月、「靴みがきの一日」を「世界」に発表、「荒魂」を新康成、安部公房、三島由紀夫との座談会「われわれはな・せ声明を出 潮社より刊行。八月、ソビエト作家同盟の招待により、安部公房、したか」を「中央公論ーに掲載、「ゼロックスーを「図書」に寄稿、 江川卓、木村浩とともに訪ソ、ついで東独、チェコ巡遊後、一カ月八月、「石川淳」 ( 「日本の文学」第六十巻 ) を中央公論社より刊行、 ・ ( リに滞在、十月末帰国。十一月、太宰治賞選考委員となる。十一一同付録に安部公房との対談「石川淳の人と文学」を掲載。十一月、 月、渋谷区初台一一の九 ( 現住居 ) に移転。 「革命家の夢」を「朝日新聞」に寄稿。十一一月、解説「詩人の肖像」 昭和四十年 ( 一九六五 ) 六十六歳を「三好達治」 ( 中央公論社版「日本の詩歌」 ) に寄稿、中野重治、 一月、「至福千年」を「世界」に連載しはじめる。一一十一回にて四吉川幸次郎との鼎談「伝統と反発」を講座「中国」 ( 筑摩書房刊 ) Ⅱ 十一年十月完結。三月より八月まで、「西游日録」を「展望」に六に掲載、「一目見て憎め」を中央公論社より刊行。 回連載。五月、「宗達雑感」を「日本文化史」 ( 筑摩書房刊 ) 5 付録昭和四十三年 ( 一九六八 ) 六十九歳 に寄稿。十月、「西游日録」を筑摩書房より刊行。十一月、「所感一月、「一目見て憎め」俳優座によって東京で公演、「読み癖」を ( ルオー遺作展から ) 」を「読売新聞ーに寄稿。 「きようと」に、「めぐりめぐって」を「東京新聞」に、「無法書話」 譜昭和四十一年 ( 一九六六 ) 六十七歳を講座「中国」 ( 筑摩書房刊 ) > に寄稿、「魔界仏界」を「太陽」に 一月、「倫敦塔その他」を岩波書店版「漱石全集」月報 2 に寄稿、発表。一一月、「「中国の孝道」を読む」を「図書」に寄稿。四月、新 年ドナルド・キーン著「能」 ( 英文 ) ( 講談社インターナショナル刊 ) しい「石川淳全集」全十三巻を筑摩書房より刊行しはじめる。翌四 に「序」を寄稿、「鸚鵡石」を「新潮ーに発表。一一月、「わたしの定十四年四月全巻完結。五月、貝塚茂樹との対談「「史記」の世界」 宿」を「中央公論 , に寄稿。五月、「無明」を「新潮に発表。六を「司馬遷」 ( 中央公論社版「世界の名著」 ) 付録に掲載。六月、 月、「諸国畸人伝」および「石川淳集」 ( 現代文学大系 ) を筑摩書房「永井荷風・石川淳・大江健三郎」 ( 日本短篇文学全集 ) を筑摩書房
三十九歳 い」「タルチュフ」「小人愛銭」訳を逐次刊行。八月、「偶感」を「作昭和十三年 ( 一九三八 ) 品」に、十月、カミイ = ・モオクレ = ル「ラルメの美学」訳を一月、「ルスの歌、を「文学界」に発表。この作品の反軍国調に 「新詩論」第三輯に、十一月、「「背徳者」訳文の脱字」を「作品」よって、同誌は発禁処分にあった。五月、「曾呂利咄」を「文芸汎 に、十二月、ジイド「マックス・スティルネルと個人主義」訳およ論」に発表。 四十歳 びジイド「ニイチェー訳を「思想と随想」 ( 小山書店刊 ) に、それ昭和十四年 ( 一九三九 ) 三月、「白描」を「長篇文庫」 ( 三笠書房 ) に連載、九月に完結。 ぞれ寄稿。 四十一歳 昭和十五年 ( 一九四〇 ) 昭和九年 ( 一九三四 ) 三十五歳 一一月、「ジイドの日記について」を「作品」に、六月、「 Nadja にふ三月、「短篇小説の構成」を「現代文章講座」 ( 三笠書房刊 ) 第一巻 れて」を「作品」に、七月、「モンテェニ、の「徳」について」をに、「悪文の力」を同巻月報に寄稿。五月、「文章の形式と内容」 「文体」 ( モンテーニュ研究号 ) に、十一一月、「年齢について」を「作を同講座第三巻に寄稿。六月、「白描」を三笠書房より刊行。 四十一一歳 昭和十六年 ( 一九四一 ) 品」に寄稿。 昭和十年 ( 一九三五 ) 三十六歳三月、「渡辺崋山」を三笠書房より刊行。十月、「張柏端、を「文 五月、小説処女作「佳人」を、八月、「貧窮問答」を「作品」に発庫」に、十一月、「外とリルケ」を「文庫」に発表。十一一月、「森 表。十月、「葦手 . を「作品」に連載、十一一月に完結。十月、ラミ外」を三笠書房 ( 現代叢書 ) より刊行。 四十三歳 、ズ「悩めるジャン・リュック」訳 ( 世界名作文庫 ) を春陽堂より昭和十七年 ( 一九四一 l) 刊行。 三月、「蓮酒」を「文庫」に発表。四月、雅川滉との対談「森外 ーその代表作について」を「新潮」に掲載。五月、「祈禧と祝詞と 昭和十一年 ( 一九三六 ) 三十七歳 一月、「山桜」を「文芸汎論 , に、四月、「秘仏ーを「作品」に発散文」を「現代文学」に発表。七月、「雪のはて」を「文学界」に、 表。五月、「牧野信一を悼む」を「作品」に寄稿。六月、「普賢」を「散文小史、一名、歴史小説はよせ」を「新潮ーに発表、現代語訳 「作品」に連載、九月に完結。十一一月、「古風な話」を「文芸懇話日本古典叢書「秋成・綾足集」を小学館より刊行。八月、「渡辺崋 会」 ( 横光利一編集号 ) に寄稿、「知られざる季節」を「作品」に発山」 ( 少年たちのための ) を三省堂より刊行。九月、「文学大概」を 小学館より刊行。十一月、「善隣の文化について」を「新潮」に発 表。この年、他に「一休咄」を「文芸汎論」に発表。 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 三十八歳表。十二月、小説集「山桜」を昭南書房より刊行。この年、他に 三月、「普賢」を版画荘より刊行。「普賢」により第四回芥川賞を受「鉄拐」の作がある。 四十四歳 賞。受賞の弁「感銘」を「文藝春秋」に寄稿。四月、「作品」誌の昭和十八年 ( 一九四三 ) 「普賢ー受賞記念号特集に感想「礼義」を寄稿。六月、「千羽鶴」を三月、「江戸人の発想法について」を「思想」に、コ一葉亭四迷」を 「近代日本文学研究 ( 明治文学作家論上 ) 」 ( 小学館刊 ) に発表。九 「若草」に、十月、「履霜」を「文藝春秋」に発表。
より刊行。七月、「ダダについて」を「朝日新聞」に寄稿。九月、を筑摩書房版「吉川幸次郎全集」第一一〇巻月報に寄稿。 七十二歳 三島由紀夫との対談「肉体の運動・精神の運動」を「文学界 , に掲昭和四十六年 ( 一九七一 ) 載。 一月、「古を結ぶ」を「海」に発表。一一月、「狂風記」を季刊誌「す 七十歳 昭和四十四年 ( 一九六九 ) ばる」」連載しは 0 る。五月、「夷斎小識」を中央公論社より、 一月、「一露」を「新潮 , に、「若菜」を「中央公論」に発表、「吉「石川淳の自選作ロ」を二見書房より刊行。 備路」を「朝日新聞 , に寄稿、「石川淳」 ( 現代日本文学館 ) を文藝 春秋より、「石川淳集」 ( 日本文学全集 ) を集英社より刊行。一一 月、「千田是也の手」を俳優座公演「アルトウロ・ウイ」・ハンフレ ットに寄稿。四月、「虎の国 [ を「文芸」に発表、吉川幸次郎との 対談「中国古典と小説」を「古典への道 ( 吉川幸次郎対談集 ) 」 ( 朝 日新聞社刊「新訂中国古典選 , 別巻 ) に収録。六月、「文学談断片」 を「海」に寄稿。七月、開高健によるインタヴュー「絶対的自由と 手と」を「文芸」に掲載。七月から九月にかけて、「天馬賦」を 「海」に連載。十一月、「タケノコの説」を安部公房「棒になった 男」公演パンフレットに寄稿、小説集「天馬賦」を中央公論社より 刊行。十二月、「無害は有害といふこと」を「朝日新聞 . に寄稿、 「文芸時評」を毎月一一回「朝日新聞」に書きはじめ、現在 ( 四十六 年六月 ) なお連載中。 七十一歳 昭和四十五年 ( 一九七〇 ) 二月、金谷治との対談「徂徠とヒューマニティー」を「荻生徂徠 集」 ( 筑摩書房刊「日本の思想」 ) 別冊に掲載。五月、「本居宣長」 ( 「日本の名著」 ) を責任編集し、これに解説「宣長略解」を附し、「宇 比山踏」訳を収めて、中央公論社より刊行、付録に中村幸彦、野口 武彦との鼎談「「物のあはれ」について」を掲載。六月、「石川淳」 ( 日本文学全集 ) を河出書房新社より刊行。七月、西脇順三郎との 対談「雑談」を「都市」に掲載。十二月、三島由紀夫との対談「破 裂のために集中する」を「中央公論」に掲載。十二月、「高志高興」
0 一履家にナ・まさしくわたしの歳響 0 中での事件にスへ当破野氏が生をてわやうと死んでしまは , とどう を第ない・わたしは牧野氏と物査のすらま ( 、まる事にもならぬ第である氏の死んだと云みことはどっで 物で第の機を得いと望みながら今はそれもしくな、よいなどと鳳を入れる■とてはない第さミその ってしまったのでおるッ氏の礎ゑしてる・ ~ らしいしことのみが鋼を打つのわたしの談んた氏の設作 い産の界など気がかりのも 0 はなかった・青しいえと「物私第」であるが・れを第にして製のは大 気ったがこれは出県合 0 文物で・資に何と愛ふべ物か・庭 0 人の・床 0 物まで・不思に病人のさは物し、夏え な言第が見あたらぬにでおる 0 は・わたし日を駅のわま第 ( さい朝、感せす、ただの第だけが宙に第 かられ、や、やの物に民・してる々めで、気 0 料いたひ、その宿第都ぐった。物いでゐる。ないけは 0 での ことのへる裕を持っ第物人の置に第い設であらる・云び橋へれ三毅られたタ第ルからしたたる画で、 うか′、まで第な問題である材上、にとで氏 0 族、 , を差そ 0 、 0 で、なく ' 第り物れた′みにに 死に毅いて物しいとか・生をて 0 て、つ製み・、の作品をつか。いた六たけが第らし ( 、まざまざと臨って第 家すこと物望ましかったとかムとすれば ' 第れは第にて・見まい ~ して、にはられ安白の第なの・ 、・な第の物朝であらう・はつを第っておくが、わた曾てされミゼー新ン、の物品まは「大物物食を」 しはやの物品を題して・第れたであらう牧野のどに置物絞られ作者のからだが義強っ第《・・と に大物第を鋼物しては 0 なったのだ・しし・重要なし・をどった春・と第物な物へなど・たぐ 0 を第ざ にとはこの物物のない家が大作であるか書かみ云 4 る気らだその、のが第第の 0 たましひ 0 , どこると 物・け、 ( さい・ではな、・を 0 ゃうなめにをして第しめたのであるのをキやそのやうな生■的な手 られるの物・・第だと愛 4 ことだ・第らにはつを。がか第を牧野氏に彙て見久のたしは物物とびえる をに三 " にか。新′と ( 物京したこみのやそ第めのであ。ませ 2 前日の夕方、・そ 0 やラに第れ つはたを气をに資行しなった・をれを確 0 最後た都かなタ方でのったさうですをは身の第。の風の中 のをにあやま。たかつなし・をり美第へび合へに牧野信 0 宿がっ宅わるやうに第こました・「第 な ( なっ第人に、水いおれの拶もしたかったのでなら・すこしはいいんだ」と・はにかむやろなをそ。と す・ドられないことをすにしってもいやな第にかりした改の第が、耳にをこへたやうに黒びました・ 見とをれをにしてるたが ' キまこそも , ゆっく物 れるし・わるい・も見ないで物セだらう・体 4 ・しづ 牧野信一氏をむ かにゆっく 0 とお体 4 なさいと・私にまは。の人にはを とへない第を・ 0 た第ったのです・ しかし私に、をにまを立ちませんでした・滝氏にを 石川第 いたをの死盟が・私を査めたやうでしさういム死盟 を異ををしいひをへたやうなを・この上うちひ新第を響慣をたれわたしがのわ呂第第を強 しぐで、なといム ( 物いてたからです・るのは人の第に供るにかり、その多くは身トを・、鳳の 載は立上る代 0 に ' 心の中でまを合をました・ で・第へに物がいかに狂・にれらうみただ宿まし を事べるために外へ物ると・責に物の花が自く ( 聞を第をるのみでをるが・最驫自義の町中で野 0 一 第いてのましうしら 0 山はを第の紙物を譎びて・鳳民わを・イられた時には第尾をどやされたい はまかった第かに宿やかな風彙でした・人がんだで・東費のいがイ 4 の玉のやつに口を。力を大っ 資 0 だ 4 、第 ( まん・しし人は・きういみ費・にこたかの第 ( である 0 は ' これはもう、に見す・の中 牧信追 現代文藝批家研究 ネ私の観た二・二六事件 梶井基次郎の手紙 新入學の諸君に実ふ 號月五 昭和 11 年小田原で縊死した作家牧野信一への追悼を「作品」 5 月号に寄稿。 期まで、その処女作を発表することを控えに控えてい たという事情について、多くの批評家が、あれこれと この異 推測をめぐらしているようであるたしかに、 常に長びかされた空白の期間における、若き日の石川 淳氏の内面の危機がいかなるものであったかは、私た ちにとって、もっとも興味をそそられる問題ではあろ 、つ。これについても、手かか りになるのは処女作『佳人』 さらに『貧窮問答』『葦手』そして傑作『普賢』にい いすれの作品におい たる、初期作品群以外にはない。 ても、主人公は何か文学上の仕事にとりかかろうとい う、高邁な志を内に秘めながら、薄志弱行のため、市 ちんめん せいろうこう 井陋巷のデカダン生活に沈湎しているという設定にな っている。いわば模索する作者の内面の苦闘の記録で あるが、むろん、これを現実の石川淳氏の生活の敷き 写しだなどと田 5 ったら、とんでもなしド、 、、理いを犯すこ A 」い ~ なつつ、つって、つい、つ 平面的な小説の読み方しかでき なかったところに、これまでの日本文学の救いようの ない低さがあったわけであり、石川淳氏の小説の新ら しさは、その実現された虚構の世界が、「実在世界の 仕掛の上に、人間の知的運動と釣合を保ちつつ、高度 に組み立てられ」た世界であるという点にあったので ある。作者の内面の苦闘は、みごとに様式化された作貯 ひゅ ろカ 品世界に濾過されて、一つの比喩にまで高められてい
ンぐらいのものだったのではあるまいかたぶん、オし。 よ ) まどであろ、フ 氏は当時の日本人の無産運動の空気にふれ、フランス 直輸入のヨーロッパ知識人の思想的混迷 ( ジイドの転 向の問題など ) に敏感に反応しながらも、それ以上の 運動への接近はみすから禁じていたものと思われる。 一般に、石川淳氏の小説には、主人公が何かを求め それというのも、石川氏にとっての革命概念には、単にてさまよい、闘い、傷つき、絶望と破滅の淵に落ちこ 社会変革ばかりではなく、また小説の革命、人生のたむ瀬戸際に、新たな生命としての出発の第一歩を刻む、 えざる革命も含まれていたにちがいないからである。 といったパターンのものが多いようである。追い求め てんとう 「ところで此世とい、フやつは顛倒させることなしには るべき対象は、『普賢』を中心とする初期の小説におけ 報土と化さない。末世の地上を蓋うためには、如来がるように、 一種の聖母観念としての美女であることも まんなかで居睡りをしている有り来りの曼陀羅では納あり、また、戦後の政治的寓意小説ともいうべき『鷹』 まらん。如来おんみすから錯乱させたまえ」 ( 『普賢』 ) 『珊瑚』『鳴神』などにおけるように、地上のどこかに と氏は書いている。これは逆説でも何でもなく、全体存在すると想定された、一種のユートピアであること 革命ともいうべき氏の革命概念を端的にあらわした言もあり得る。私には、『白描』や『白頭吟』のような複 葉と受けとれる。すなわち、濛々たる闇を切りひらい雑な人間関係を配した長篇小説も、前者においては彫 て行く作家のペンの運動と、壁の前でのぎりぎりの絶刻家志望の少年鼓金吾、後者においてはアナキスト集 望から発する革命者の行動とは、石川淳氏の頭におい 団に出入りする学生尾花晋一といった、若い主人公の て、完全なアナロジーとしてびったり重なり合う性質魂と肉体の遍歴という観点から眺めるならば、やはり のものだったのだ。絶望からの跳躍、破壊による再生、同しパターンに属するものと考えて差支えないような たえざる自己否定、最低の価値が逆転して最高の価値気がする。それは一種の、きわめてラディカルな形式 には A 」い、フこレ」、 これらが石川一浮氏の小説の気におけるビルドウングスロマンと言ってもよいのであ に入りのモティーフであることを田 5 えば、そもそも「精る。 神の運動」と革命とは、同義であると言っても差支え「散文の美学は物理学よりほかには無い」 ( 「面貌につ 478
ものを追放し、地上的現実と完全に切れた虚構の現実試みる若い作家たちの上に絶大な影響をおよばしはじ を成立せしめるために必要な、小説家の努力の持続をめ、その他多くのやくざな同時代作家たちの影を完全 保証するものは何か。石川淳氏によれば、それこそ散に薄れさせてしまったのも、考えてみれば、理由のな いことではなかったのである。そして今後ますます、 、文なのである。「散文は人間のことばの決定的な形式 であり、それゆえに万人の生活に通用すべき性質のも石川淳氏の地位は昭和文学史のなかで、不滅の光輝を のである ト見の限界はおのずからこの方法の中にあ放ちはじめるにちがいないと私は断言してはば . からな いのである る。この方法はそれ自身に於てエネルギーである。」 ( 「面貌について」 ) 一口に昭和十年代作家などと一 括して呼ばれるが、おそらく、石川一氏以外に誰も、 ここまで徹底的に、 小説が追究すべきものは何である さらにペンをとりつ この私の文章は、一応、型通り「評伝的解説」とい かを考え、考えつつべンをとり うタイトルで圭日かれてはいるけれども、遺感ながら、 っ考えた小説家は日本にいないのである。この場合、 小つつ私には、石川存とい、つ作宀豕を評伝的に解説するなどと ペンとともに考ごたるとい、つことは、その場で、 、った器用な真似は、とても不可能だと告白せざるを たえす新たに、方法を発明してゆくということ 得ないのである。ます第一に、私の文章は知らす識ら はかならす、小説という正体不明の文学的ジャンル すオマー ジュに斤一つくであろ、つという懸念があるそ に関する、根本的反省の危機にたえず身をさらすとい 、つ一」 A 」こ 6 : かならない。プルースト、ジイド、カフカ、 れに何より、名だたるミスティフィカトウールであり ジョイス、べケット以来、現在ではほとんど世界の常私生活上の雑事を文章にもちこむことを潔癖に避けて 識となってしまった、月 「見とは何かを問う月説の概念きた石川淳氏自身、第三者に評伝的解説の材料をあた えるかごとき、野暮な真似は一度もしていないはすだ は、すでに一九三〇年代、わが国の石川淳氏において、 と考えられるからでもある。地上的現実をすつばり切 明晰な形で提一小されていたとい、つことを思ってもみる がよい。氏が戦中戦後の文学風土の中で全く孤立して断したところに、石川淳氏の極度に自立的な作品世界 いなから、近年にいたってようやく、新らしい実験をが構築されているのであってみれば、私でなくとも、 468