・」コユ : コ三丘知ー工由 . 囲 - ー」 はコ : の 0 ー第を第を瀇′ : 料物 ”きい て言い古されたことではあるにせよ、やはりここに指 摘しておかなければならぬであろ、つ 「随筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくるこ とにあった。美容術の秘訣、けだしここにきわまる し , 、 三日も本を読まなければ、なるほど士大夫失格だろう。 人相もまた変らざることをえない」 ( 『夷斎筆談』「面 図貌について」 ) と氏は書いている。石川氏が士大夫をも ってみすから任じているのかどうかはしばらく措き、 隈氏が戦争中に留していたという江戸の風狂詩人から 学んだ、少なくともこれは氏自身の美容術でもあるに ち力いなし さればこそ、晩年の荷風の身辺に書物が ほとんど見当らなかったことを、氏は烈々たる語調で 難することもできたのであった。この、本を読むとい うこと、すなわち学問あるいは教養の下地があるとい うことも、現下の日本の無学者揃いの文壇においては、 まことに稀有に属する特質なのである。 私は、石川淳氏が今日のわが国で、もっとも醇乎オ る日本語の伝統の保持者であると言った。が、ここで 急いでつけ加えておかねばならないのは、氏がオール ド・ジェネレーションの生き残りのような、時代遅れ の審美学や教養体験や士大夫意識にしがみついている、 古めかしい伝統主義者では全くないということだ。伝 石統といい教養といし それらは石川淳氏の場合、つね 466
大正 4 年刊森鵰外訳 の「諸国物語」扉この 頃漱石の「倫敦塔」や鵰 外訳「即興詩人」「諸国 物語」を愛読する。 明治 45 年入学の本郷京華中学 ( 当時 ) に未来に向って開かれているということに田 5 いをいた すべきであろう。氏は好んで「精神の運動」というこ とを口にする。運動の相の下に眺められた文化こそ真 の文化であって、精神においても文化においても、停 滞は最大の敵なのである。学問も教養も、固定した形 式を打破し、精神の柔軟性を得るためのものでなけれ ば何の意味もないのである。「俳皆化とは、一般に固 定した形式を柔軟にはぐすことをいう。これをほぐす ためには、精神は位置から運動のほうに乗り出さなく てはならない。」 ( 『夷斎清言』「狂歌百鬼夜行」 ) れが石川淳氏の信条であり、この信条は、単にその文 学的方法の次元のみにとどまらす、その生活面におい ても、またその世界観においても、ひとしく適用され なければならない性質のものなのだ。言葉を換えれば、 あの有名な「ペンとともに考える」という、若き日の 氏がアランから学んだ散文精神は、そのまま氏の倫理 であり同時にまた氏の思想でもあるということであ ろ、つ このように、石川淳氏をして同時代の多くの文学者 から劃然と区別せしめる所以のものは、ます第一に、 その熾烈な方法意識であると言って差支えあるまい 描写でもなく、造型でもなく、 分析でもない小説なる ものの方法とは何か。心理だとか人間像だとかい
だっきも大きからず、気性もはげしからず、あまり壮健で はなかったとったえられる。おもいを学芸にひそめて、そ ういえば勤王熱に浮かされたけはいは無い。おそらく一箇 の有識の君子人であった。米山は医のかたわら、門生に漢さて、書画のはなしになる。 籍を講じた。細谷塾である。その講義日は一と六の日には およそ実物を示さずに書画を論ずることは、無理である 経書、三と八の日には史書ときまっていたよしを、故新海のみならず、はなしが通じにくい。しかし、わたしは今そ 竹太郎氏がしるしている。新海氏は明治元年に細谷氏とおの愚をあえてする。見たこともない食物のはなしさえ世に なじところの山形の十日町にうまれ、年少にして細谷塾におこなわれているではないか。わたしの感じたままを語っ 入り、したしく米山の教を受けたひとである。 て、すでに風翁米山の作を見たひとの鑑賞にうったえ、の 大正十四年九月、新海氏は細谷父子の書画のいくばくかちにこれを見るであろうひとの裁定を待ちたい。 を図版に集録して、これを大塚巧芸社から刊行した。すな 風翁の書画には、師とさだまるものはほとんどいなかっ わち、風翁遺墨、附米山画存、一冊である。なお編者はこ たようである。書は董其昌を習ったときくが、その墨蹟を れに添えるに風翁先生小伝と題する一文をもってしてい 見るに、董氏の筆意には似ない。好んで草行の大字を書い る。 ている。まあへタな禅坊主の字のようなものとおもえばよ わたしのここに記述するところは、右の新海氏の筆に成 い。おおくは一気に書きながされたもののごとく、ときに る小伝に負うほかに、今日の山形市の諸名士の教示に俟っ判読にくるしむような字もある。意あまってカたらず、ど ものである。ただ臆断のあやまりはもとよりわたしの責に うも珍重しがたい。大字の中でまず見るべきものは、山形 帰する。わたしは松坂一一郎氏の斡旋に依って、市村利兵衛の一貫清水 ( ィッカンスズ。地名 ) にある豊水神の碑であ 伝氏邸、大久保伝蔵氏邸、吉福一郎氏邸、細谷家、および山る。こころをこめて書いたとったえられるが、風翁として 人デラ 畸寺の立石寺をおとずれて、細谷父子の遺墨をまのあたりに はこれが精いつばいというところだろう。文久元年辛酉八 月に係る。ちなみに、この一貫清水とはむかし二つの水路 諸たしかめることをえた。ときに、紅の花はすでに散って、 蔵王の道に掛たばこを見る季節であった。 を一つにして灌漑の便をはかった場所で、そこに茶店があ 一貫出しても惜しくな って、清水がふき出ていたという。 いというので、この地名があるときく。なお十竹亭匡直碑 リュウシャクジ
統などといった観念を解く鍵を、具体的に提供してく達し得る、稀有なる自由の境地であるにちがいない れるのではあるまいか、と私は考える。ちなみに、「レ 「芸術家とは、芸術にいそしむ人間のことではなくて、 ス・ノン・ヴェルヾ とはラテン語で、「言葉にあら芸術観念から自分を解放するように生活する人間のこ とだよ。制度の悪に対しては、芸術家は生活に於てそれ す、物なり」といったはどの意味である に抵抗しなくてはならぬという必至の不幸をもつね 石川淳氏の本を読むたびに、私がいつも新鮮な驚き を味わわされるのは、あらためて言うまでもないことそうでなくては、おそらく精神は芸術観念に於て固定 することのほ、つにかたむいて行くだろ、つ。しかし、こ ながら、氏の精神の若々しさと強靫さのためである。 こでもまた芸術は芸術家の永遠の敵ということになる 氏は精神について語るが、氏はど精神主義者から遠い かな。ただ今日いかなる芸術家がよく生活の場に於て ひとはめすらしい。また氏は物質について語るが、氏ほ ど唯物田 5 想に亠毋されていないひとは見たことかない このことばを発しうるのか知らない。」 ( 『夷斎俚言』「芸 これは、齢七十をすぎて、今なお最前衛と肩をならべ、術家の永遠の敵」 ) 豊かな作品を次々に発表しているひとにして初めて到 石川淳の自気作品 昭和 45 年松坂に本居宣長を取材する。 代十人の作第き 左昭和 45 年中央公論社刊『天馬賦 右昭和 46 年二見書房刊の自選作品集
1 ! 大正 12 年に住んだ本郷菊富士ホテル こで同宿の宇野浩二を知る。 ( 当時 ) 。 ( 正 15 年福岡より帰って住んだ鎌倉妙本寺。 氏の伝記的な部分に首を突っこむなどということは、 そもそもできない相談であると納得しなければならな間 、こ十っ , 刀しなし むろん、そうはいっても、石川氏のこれまでに書い たエッセイ風の短かい文章のなかに、氏の少年時代、 あるいは処女作時代を窺い知るよすがとなるような断 片的記述が、全く見当らないということではない。 とえば、氏は「幼少のみぎり、毎日のようにじいさん の部屋に呼びつけられて、机の前にすわらせられ」 論語の素読をやらされたという ( 『夷斎遊戯』「一冊 の本」 ) 。また中学生のころ、本郷三丁目から須田町 に向う電車に、たまたま森鵰外と乗り合わせ、「遠く から鵰外の横顔に見とれていた」という ( 『森鵰外』 ) 。 さらに『夷斎俚一言』のなかの「ジイドむかしばなし」 には、氏が大正十二年 ( 関東大震災の年 ) 、かぞえ年 二十五歳で、「天オのできそこないみたいな顔をして、 しかし満足な仕事はできす、はじめて翻訳の本を出し た」当時のことが、ジイドを愛読したりクローデルに 会ったりしたエピソードとともに、わすかながら触れ られている。むかしのはなしとなると、ど、つしても 自分が出て来る。いやになっちゃ、つねえ」と一三ロいなか ら、氏は青春時代の自分の素顔を、意識的に多分に戯 画化しつつ、私たちの前にちらりとしか見せないので
號別特新 ずンダ 昭和 13 年 1 月「文学界」に「マルスの歌」を発表。 の作品が反軍国調である為に同誌は発禁処分になる。 ■■ 第が第 ( て第もを : : だこの第第をに、第第したらはよいのか・◆・費・の ′第内で 0 と 0 物チに物けてるわたし 6 耳に、拠の・から第・子をれつ工鋼第 ・ね哲物たる災が下 物 ) とごを ( した物 いま、を物まし、 つれ第べ 昭和 15 年三笠書房 より刊行の『白描』 ムよ出訳ュイス 行ったのであろう。私事にわたるか禾 ( 孑一三 マンスの『さかしま』を氏にお贈りしたとき、年少の貯 はんどく ころ繙読したことがあるという意味の、氏からの返書 をいただいた記憶がある。当時の氏が「はとんど日本 一般に背をむけて、海彼の芸文を遠望する姿勢をとる ことにはなはだ急であった」 ( 『南画大体』 ) らしいこと は、福岡にいたあいだ、丸善から毎月 N R F を取りよ せて、連載中のジイドの『贋金つくり』を「待ちかね て愛読した」という後年の述懐によっても知られるだ ろう。申すまでもあるまいカ、『贋金っ が初めてロマンとみすから銘打った、彼のいわゆる純 粋小説の試みであって、「現実が作家に提出する事物 と、作家が現実を素材にして組み立てようとする事物 とのあいだの闘争」を描こうとしたものだった。 もう一つ、石川淳氏の若き日の思想的な彷徨を知る 上に、見逃すことのできないのはアナキズム、あるい は共産主義に対する関心であろう。しかしバクーニン やクロポトキンのようなアナキズムの古典的述作はと もかくとして、石川氏がマルクス・レーニン主義の文 献に身を入れて付き合ったとは、私には到底信しられ ない氏自信の語るところによれば、関東大震災の前 ンを売んだとい 1 一 = ロ 後数年間に、フランス語訳のブハ うことであるが、氏のいわゆる「ひいき役者」はブハ
石川淳文学アルバム 著者近影 昭和 46 年 5 月 る 自イし わ あ い ま じ 冢が そ い し、 い 日身後 る い る た て る て は た っ の の半葉 ス こ本 の 他 と を 、た 工 お し、 と語発のも い 私 ご も ち ッ り タ の見こ倫 た 考 、は彳ト っ イ っ セ あ 易 は 伝 : 証 禾ム . 叩 ち そ の」 : 甲 ル を一、統な と も い 日も これ る た 見 る本風 も あ がま を の お ち 冫子 い 出 保 い か 目 と に俗 、た の し周ー : 見陞持こ す か おも ぇ お て 得囲 も 氏 い と た で て の氏な く のて乱 て て は 多れ も伝小がく っ け 、れ 記説和な る も 石に で の基豊にの漢 つ石・ つ おみ洋 な 作 家 淳れ 平礎か て川 と 家にな し淳類者 でも氏た いなの にな深 醇が てら学 ま氏いの あ をの名・、る乎こ もすに 、十 つし、 - つ 、通て措作前 って味 た氏世 。と 465 評伝的解説 澁澤龍彦 一一二ロ
ンぐらいのものだったのではあるまいかたぶん、オし。 よ ) まどであろ、フ 氏は当時の日本人の無産運動の空気にふれ、フランス 直輸入のヨーロッパ知識人の思想的混迷 ( ジイドの転 向の問題など ) に敏感に反応しながらも、それ以上の 運動への接近はみすから禁じていたものと思われる。 一般に、石川淳氏の小説には、主人公が何かを求め それというのも、石川氏にとっての革命概念には、単にてさまよい、闘い、傷つき、絶望と破滅の淵に落ちこ 社会変革ばかりではなく、また小説の革命、人生のたむ瀬戸際に、新たな生命としての出発の第一歩を刻む、 えざる革命も含まれていたにちがいないからである。 といったパターンのものが多いようである。追い求め てんとう 「ところで此世とい、フやつは顛倒させることなしには るべき対象は、『普賢』を中心とする初期の小説におけ 報土と化さない。末世の地上を蓋うためには、如来がるように、 一種の聖母観念としての美女であることも まんなかで居睡りをしている有り来りの曼陀羅では納あり、また、戦後の政治的寓意小説ともいうべき『鷹』 まらん。如来おんみすから錯乱させたまえ」 ( 『普賢』 ) 『珊瑚』『鳴神』などにおけるように、地上のどこかに と氏は書いている。これは逆説でも何でもなく、全体存在すると想定された、一種のユートピアであること 革命ともいうべき氏の革命概念を端的にあらわした言もあり得る。私には、『白描』や『白頭吟』のような複 葉と受けとれる。すなわち、濛々たる闇を切りひらい雑な人間関係を配した長篇小説も、前者においては彫 て行く作家のペンの運動と、壁の前でのぎりぎりの絶刻家志望の少年鼓金吾、後者においてはアナキスト集 望から発する革命者の行動とは、石川淳氏の頭におい 団に出入りする学生尾花晋一といった、若い主人公の て、完全なアナロジーとしてびったり重なり合う性質魂と肉体の遍歴という観点から眺めるならば、やはり のものだったのだ。絶望からの跳躍、破壊による再生、同しパターンに属するものと考えて差支えないような たえざる自己否定、最低の価値が逆転して最高の価値気がする。それは一種の、きわめてラディカルな形式 には A 」い、フこレ」、 これらが石川一浮氏の小説の気におけるビルドウングスロマンと言ってもよいのであ に入りのモティーフであることを田 5 えば、そもそも「精る。 神の運動」と革命とは、同義であると言っても差支え「散文の美学は物理学よりほかには無い」 ( 「面貌につ 478
細谷風翁 さの骨をけずることを業とするものもいたそうである。 山形はむかしから大名文化というものの甘酸の味を知ら ない土地がらであった。したがって、茶の謡という沙汰に はおよばない。またあらずもがなの藩学という小言幸兵衛 の世話にもなっていない。しかし、地は米ゆたかに、すこ ぶる紅花に富む。京紅の原料はすなわちここにあった。し たがって、町の隆替は地主と金貸と紅花商との手にゆだね 出羽の山形というところは江戸の政治地図の中ではあれられた。もともと振わざる大名の政治とは別に、町には町 ども無きがごとき小藩であった。元和八年、最上氏五十一一の経営がある。山形の商人の祖先は近江から出たものがお 万石ここにほろび、わずかに城をのこしたのちは、ぐっとおいという。近江商人は敦賀から日本海沿岸を北上して、 まず仙台に入り、さらに山形に移ったようである。そこに 格がさがって、幕府はこの地に小ぶりの大名を配置した。 たとえば秋田の佐竹、庄内の酒井、米沢の上杉とかそえは紅花というあたらしい営業種目が待っていた。つかんだ や、知ものは、これを手からはなさない。商人の手はやがて旧最 て、山形のたれと、藩主の名を知るものはない。い れようがなかった。この地、幕末の水野氏に至るまで、藩上領のおちぶれた城下をつかみとるに至ったように見え る。商賈の町、遠く月山を望み、近く蔵王を擁し、冬さむ 主の小なるものを替えること十いくたびにおよんでいる。 ホソャ そうそう いずれも匆匆に移り来り、転じ去って、土地の水になじまく、夏あつい。細谷風翁とその子米山とがうまれたところ ない。天保の老中水野忠邦は失脚して浜松の封をとりあげは、ざっとかくのごとき沿革と風儀とをもった北辺の町で られ、山形五万石に移された。左遷であった。忠邦これをあった。 よろこばず、みずから一度も藩の土を踏もうとしなかっ ツオノヤトウイン た。ただ塩谷宕陰が水野氏の子をつれて山形に来たことが あったという。したしく藩政を見たものは家老水野なにが しである。家老は経費をはぶくために最上氏以来の城には風翁、山形のひと、はじめ宮城氏、幼名不詳、のち細 住まず、城のそばのあまり広からざる屋敷にいた。その跡氏を冒し、漢方の医をもって業として、わかく隆兆と称 が今日の刑務所である。藩士のくらしはまずしく、からかし、ついで玄達とあらためた。名無疑、字皆可。これは無 あざな
私は今、 『修羅』と『至福千年』の時代的背景につば天上的なヴィジョンを透視するということなのであ いて述べたけれども、これがそのまま敗戦直後のわが る。醜悪と汚穢の地上的現実が一瞬にして、高貴と栄 国にも当てはまる状況だということは、大方の読者に光の天上的現実に逆転するような、視覚のプリズムを も納日寸していただけることと田 5 、つ。時代は逆行するが、我がものにするとい、つことなのである。中世キリスト ここで石川淳氏が、敗戦の年である昭和二十年から数教の伝統には、癩病人の傷口に薔薇の花の幻影を眺め 年間にわたって、あたかも魚が水を得たように、めざるという神秘主義の伝統が早くからあったそうだが、 ましい活躍ぶりを示したことを思い出してみたい。お一般に、最低のものと最高のもの、最も卑俗なものと 最も高貴なものとのあいだの弁証法は、必すしもキリ そらく、氏の精神の運動は、すべての権威の崩れ落ちた スト教だけに限ったものではあるまい。聖性と汚穢と 乱世という背景のもとに一きわ光り輝いたのである いう二つの極は、現に多くの民族のもとで、しばしば この時期に氏が書いたのはほとんど短篇ばかりである 同じ言葉で表されているのである が、乱世の風俗世相を切り裂いて、その奧に新らしい 天地創造の神話の核を探るという作業は、たぶん短篇『焼跡のイエス』は、「ポロとデキモノとウミとおそ にふさわしい - 作業だったのにちがいない。氏の戦後の らくシラミとをもって鏤めた盛装」を身につけた浮浪 第一作である『黄金伝説』のうちに、すでにこうした児の少年の顔に、「苦患にみちたナザレのイエスの、 精神の胎動がはっきり読み取れるのである。 生きた顔にほかならない」ものを認めて、主人公であ てんと - フ こうこっ かって石川淳氏は「此世というやつは顛倒させるこ る「わたし」が「恍愡となるまでに戦」するとい、つ / ハ一↓よ、 戦奇蹟の物語である。むろん、この物語にどんなアレゴ となしには報土と化さない」と一一一口ったが、禾 ・ : フ・ 0 いワ′、り ーを読み取るのも読者の自由であろ、つが、ここで作 後の氏の光彩陸離たる短篇小説の数々は、ことごとく、 このメタフィジカルな原理の上に成り立っているよう者が意図していると思われるのは、ただ聖の観念の弁 にも田 5 われる。風俗べったりのわが国の風俗小説から、証法を現実の素材によって展開する、というだけのこ メ これはど遠いものはないのである。それは幻視と一三ロお とであったろ、つ。作名は次のよ、つに圭日いている。「 げせん わいざっ うか、イリュミナシオンと言おうか、この世の猥雑な シアはいつも下賤のものの上にあるのだそうだから、 現象の奥に、より本質的な、より高次の、あえて言えまた律法の無いものにこそ神は味方するのだそうだか 0 490