おのずから目におなじ色がきらめいた。三郎のほうでは、 い・ほれ、おさらばじゃ。」 追えば追いついて打っことはできた。しかし、石別はそやつばりそれを受けとめることを知らなかった。このと くす こに立ったまま、うつろの目をあげて樟の梢におちかかるき、そこには兄妹ではなくて、男女がいた。その目の色は タ闇の色を見つめた。その梢には、大ガラスのむれも今ははなはだ恋の色に似ていた。 はね 城に住む五人の男女は他の男女を見ることがなかった。 数すくなく、鳴く音かすかにしおたれた翅をちぢめた。 ところで、太郎はといえば、これのみはゆらぐけはいもその中で、三郎がもっとも好きなのは母であった。ちかご 見せず、峰にすさぶ嵐の音には係りなく、岩の城の一ところ、その母のようすがどうもいぶかしい。おもえば、ふも ろに岩そのままの腰を据えていた。そして、手のはたらきとの里に小さい丘がうまれた日から、なにということな く、母のそぶりは変って来たようであった。ついそこにい はいよいよ妙をつくして、材あれば器おのずから成り、幻 術きわまって自然のかくれたるこころを形式に打ち出しる母がふっと見えなくなる。にわかに遠くに行ってしまっ た。そういっても、里のしなじなはすでに往来のたよりをたように、いや、消えうせてしまったようにさえ見えた。 絶たれている。こちらの側からも器のすべり出て行く道はしかし、見直すと、母はたしかにそこにいる。いや、たし 無かった。つくったしなじなを、どうするか。それは太郎かにいるというよりも、まだいるというけはいであった。 の考えるにおよばぬことであった。器はただ壁に積まれ床三郎はそのことが気になった。ときどき、夜中に目をさま に散って、あとからまた際限なく数を増して行った。山にして、母の寝ているのをたしかめなくては気がすまぬよう にさえなった。 木のあるかぎり、手は休むということを知らない。太郎は ある夜ふけに、三郎は眠の中にどきりとして目をさまし ひとり黙黙として業をつづけた。手がはたらいていると き、ことばを発する要もなかった。太郎のいる一ところた。母はそこにいなかった。起きあがって、あたりを見ま ここにいなければ、行くとこ は、まわりに神繩を張ったように、ちかづきがたい気合がわしたが、どこにもいない。 ろは外よりほかにない。他のものは知らずに寝ている。三 あった。 郎は足音をしのばせて、ひそかに外に出た。敵の山をかな その太郎にしても、おりにふれて、鮎がそばにちかづい たときには、鮎を見る目にほのかな光がはしった。露のきたにひかえた山の夜。念のために、斧は手にさげた。 らめくような目の色であった。鮎はそれを受けとめること外は月あかあかと照って、樟の上枝の、葉のそよぎまで を知らなかった。そして、その鮎が三郎を見るときには、隈なく見わけられた。ちかくには、母のすがたは無い。三 かみなわ くま
大給商店と看板をかけた絨毯問屋の、そこの社長室の椅のときで、そのおりろくにことばも交さなかったのだか 子に、小助の現在の位置があった。祖父の代から予約されら、「小助さん」はどうもなれなれしすぎるようであり、 ていたその硬い革張の椅子は小助にとっていかなるソファ またいくらかこちらを・ハ力にしているようでもあったが、 よりも居ごこちよく安定しているように見えた。煉瓦づく相手の声はやさしいながらに電話ロの向うから圧しかか 0 りの厚い壁で並木道から仕切られて、階下にこそひとの出て来る力があった。電話はみじかく切れた。それが切れる 入はあったが、二階の奥の社長室にまではい 0 て来る客はまえに、相手はこちらの都合を無視して十五分のちにうか すくない。倉庫に積みこんである世界じゅうのさまざまな がうといった。小助はほとんど無言をもってそれにこたえ 高貴な絨毯のしずもりが、遠くから陰にこもった気合をこ た。すなわち、面会を承諾したということにひとしかっ せいひっ こにったえて来て、この椅子の年輪に静謐の値をあたえる た。用件は何とも判らない。小助は都合に依って逢うこと とともに、チーズのカビのようなにおいをおまけに附けを拒否する権利があったはずである。そして、そうするに た。どっしりした古風なデスクのそばに、これだけはあた十分の理由があるようにさえおもった。しかし、理由とは らしい小型のデスクが据えてあって、そこに秘書の形原廉なにか。それはあるようで、じつは無かった。なにより 子が配置されていたが、このたった一つの生きた道具はわも、逢って見ようという危険な好奇心があった。い や、当 ずかに外部の季節を知らせる植物に似た。小助はあまり口人の好奇心以上に、す・ヘての拒否を無効ならしめるよう をきかない。したがって、廉子も多くしゃべることをしな な、声をかけられたのが百年目だというような関係の網が い。ときどきほかの声がはいって来るのは電話であ 0 た。すでに電話口からこの室内に懸けわたされてしまったのだ 今かか 0 て来た電話に、廉子が出て「クチキさん」と告げろう。ふだん交渉は無かったにしろ、小助はいつも久太に た。取引先には無い苗字であった。用件は「直接に」とい ついてさまざまのことをいやになるほど聞かされ知らされ う。小助が代って受話器をとると、いきなり「小助さんでていた。小助のみではなく、世間のたれにでも、久太のう すか」と来た。どの電話でも大給の苗字をいうか社長といわさは口から耳に耳からロにと、鳥のように飛びまわっ 虹うかするが、名で呼ばれたのははじめてであった。相手はて、おもしろいほどひろく知れわたっていた。たしかに、 「朽木 : : : 朽木久太です」とはっきりいった。この名が通これはどこに出しても通る名ではある。新聞の三面記事 ちまた らぬはずはないというほどの調子にきこえた。おもえば、 に、暴露雑誌のすつばぬきに、巷のはなしのたねに、つい 成人した久太の顔を見かけたのは数年前朽木老人の告別式に = 、ース映画にも引出され、ラジオのクイズにまで使わ
お国のひとびとが幽玄に於て何を解されるか、わたくし控えていたが、そういう大介こそ一そうあやしく、測りが 躙は知りません。また、かくてわたくしが幽玄を解しえたとたく、ひとびとはかえってそのロをぎかないということで も申しません。ただ、花笠氏にして、どこに根拠をもたれはらはらして、もしひょっとそれが口をきき出せばどうな るにしろ、いま幽玄が無いと主張されるならば、この遠州るか、その不穏な作用を予感すると同時に打ち消しつつ、 の棚を象徴とするところのものの名は何であるか、うかがむりに明るく浮き立とうと努めているていで、中に、リイ いたく存ずるのです、もちろん、聰明なる花笠氏はそのヘ ピナ夫人の隣席にあって、敬子はひとり顔色蒼ざめ、武吉 んのことは百も承知で、しかるうえに創見を示されたのでのことばも博士のことばもうつろに聞きそらして、瞳をま あろうと察せられますが : : : そのまえに、あるいは諸君はっすぐ大介のほうに射つけながら、ちょうど磁石から電流 わたくしに対して、かの至りがたき茶碗の寂の上に、またを感応するためにおこされるべき運動を待ち受けている針 桂離宮につき民衆的といったことばの上に、ここでふたた金のような、今にもびりつとするばかりの、硬い金属的な び説明を立ちもどらせるよう要求されるかも知れません。姿勢を張り通していた。どうしたわけか、そこに、おそら く初対面の大介と敬子とのあいだに、あるつながりが見て しかし 取られた。隠微な、直接な、ことばの媒介が無いところで しかし、博士はつづけることができなかった。また、武気がっかぬままにふれ合おうとする関係。人情の綾の外に 吉が応酬するひまもなかった。とたんに、座の一隅から偶然すれすれに置かれて、もうほんの一揺れでつい交流に 入りこむべき二つのたましいの切迫 : : : だが、今ぶしつけ 「ふん」と音高く、おそろしく嘲笑的な鼻息がひびいた。 そして、ひとびとはふりむくまでもなく、それが盛大介よな鼻息がひびくや、ひとびとはおどろくよりもまず、もは りほかのものでないこと、かならず何事かがおこるであろや避けがたい災禍を早く通り越させてしまうために、はっ と揃って顔を伏せ、敬子も刹那に眼をしばたたき、そして うことを、もう覚悟していたらしいけはいと見えた。とい うのは、今夜はいつもとは勝手のちがった大介であった。大介はすっくり立ち上って、華やかな灯の色にわるびれぬ ここにあらわれたときから全然しらふで、席に就いてもグようすで座中を見おろし、むしろ陰鬱に、声音たしかに、 ラスに手をふれようともせず、つれの碧眼紳士がしゃべり こういい出していた。 たがるのをひややかに見て、一座のざわめきをよそに、か「諸君、どうかお静かに。もうたくさんです。現実解釈と らだが透き徹ってしまうかのごとくひっそり、ものうげに か象徴談義とか、そんなあほなはなしは願い下げにしたい そろ せつな あや ひとみ
りがとう』と、率直に御好意を受けておけばよいのかも知 の袴折目正しく改まったよそおいであった・ れん。だが、それにはきみのほうでも率直に、態度を明ら シャンべノ 特別に誂えたと思われる凝った料理に、三鞭酒が抜かれかにしてもらいたいものだ。いったいこの寄贈とは、どん て、この白昼の宴会は派手な、向う見ずな、だが気味のわな意味なのか。たとえばきみは自分がすでに抛棄したも るいほどしめやかなけしきの中に進行しつつ、 いっか季節の、きみの飛行にはもはや邪魔な重量でしかないものを無 と土地とを超え、そこにあるものみなが一度にどこか時計償でわたしに下げわたし、そしてわたしはその美しい死体 のない世界へ飛び移ったように、かるがると酔が高められとともにきみの恩恵までおまけに頂戴して、末長く管理保 しようよう た瀝に主客を逍遙させた。ところで、対話は初め何とっか存の役目を引ぎ受けるということだと解釈してもよろしい ゅうらよう ず悠暢な調子ではこばれて行ったにも係らず、それが中途のか。いや、そのまえにきいておきたいが、そもそもきみ がみずから選ぶとは、きみにして自分の手で自分の作品を でふと変って、あたかも喧嘩腰の口調になってしまうとい うことがおこった。ただし、そのことは決して殺伐な色合取り上げるとは、どういうことか。また、きよう突飛にも で席をにごしたわけではなく、かえってぜいたくにもいさ催された、季節はずれの、どうやら見物がいないらしい展 きようえん さか悲愁の味をきかせて、上品な酒の泡を掻き立てたので覧会とは何か。そして、この大げさな饗宴、ときならぬ華 わか あったが、いずれにしろ、そんなもつれを生じたきっかけやかな祝祭 : : : しかも、この席に列する光栄を頒たれるべ く、お見出しに預った仕合せ者はわたし一人きりだ。まる は、平常豪酒の、癖はよいはずの武吉がこのときどうした むじな のか、愉しそうにはなしつづけていた大介のことば、かので、わたしは初めからきみの忠実な荷担者、一つ穴の貉と 「自選作品」の全部を武吉の本邸の美術館に寄贈しようときめられているようだな。きみが傑出した主人公で、わた しい出したそのことばじりをいきなり引ったくって、何かしがおひとよしの相談役でと : : : そんな古典劇の真似は願 我慢のならぬていで、びたりとテイプルにグラスの音をひい下げにしたい。さあ、われわれのあいだではもう歯に衣 びかせながら、こう切りかえしたからだ。 を著せずにものをいってもいい時分だ。すべてこれらのこ 「待ちたまえ。きみの作品 : : : まだ拝見していないが、きとをはっきり説明してくれたまえ。すでにここに招待を受 みみずから選び、ぎよう展覧に供されるという作品を、とけた以上、わたしはこの質問を発する権利をみとめられて くにわたしに、わたしの貧弱な美術館をにぎわすために提いるものと考える。」 いつもに似ず興奮して詰め寄った武吉の面前で、大介は 供しようと申し出られる : : : たしかに、わたしはただ「あ はかま あつら
「よし、かえってやる。そのまえに組子をかえせ。組子はれてしまうおかげで、ぼくたちは藁でもっかむように、わ どこにいる。」 ずかに恋愛を主張する権利をつかむのです。」 答は葉巻のけむりの中に吹きかえされた。 途方にくれて立った小助の顔はいっか蒼ざめた色にかわ 「知りませんねえ。またホ 1 ルかどこかで、おどっているった。反対に、音彦のほうはようやく血の気をとりもどし のじゃないですか。」 たけはいで、もう亡霊のようにではなく、どっかりソファ 遠くの・ハンドがかすかにきこえて来るようであった。そに腰をおろし、絨毯の上にせつかちな靴音を鳴らして、横 のかすかな音のほうに駆け出そうとする小助のうしろか合から久太のことばに割りこんで来た。 ら、久太の声が引きとめた。 「朽木さん。およしなさい、ばかばかしい。空理空論、な 「行ってみてもむだでしよう。あなたの力がものをいう界にをいっておられるのですか。・ほくの耳にはとんと通じな 隈からは、組子はいつでも逃げて行くでしよう。げんに、 い。・ほくはちっとも判らないという権利を主張しますよ。 あなたがここにおいでになるので、組子は・ほくのそばにも力なんそは薬にしたくも無いということは御同様だが、た 寄って来られない。迷惑しているのは、・ほくたちのほうでだ現在ふところにあるかぎりの現金をもって、なにが買え るか買えないかということは体験に依って知っています 「なにが迷惑だ。」 ね。買うといえば、女を買うほかになにがあるのですか。 「そう。もし説明を強要されるとしたら、あなたの側からところで、・ほくはまだ相手の品物を見ないで買った体験は の・ほくたちに対する不正の侵害です。しかし、そういって無い。今度はじめて、目をつぶって、勘でぶつかります。 みたところで、説明にも何にもなりはしない。説明という見ずで買いましよう、その女を。」 やつはもともとつよいカの作用ですからね。こいつはかな「なにをいい出すのです。」 らずわるいもの不正なものにきまっています。・ほくたちの 「はっきりしているじゃありませんか。・ほくは婉曲法はも 結合にはじつに一点のつよいところも無い。ぼくたち、組ちいませんよ。その組子さんとかいう御婦人、いや、品物 かな、まだ手にとって拝見したことはないが、・ ほくが買い 虹子と・ほくとは人間の弱さに於てしか結合されていないとい うことを、何度いったらお判り下さるのですか。・ほくたちます。今おはなしをうけたまわっていると、この品物の所 はなにごとをも主張する力がありません。ただあなたの側有者はいったいだれなのか、あなたのものともっかず、大 からの侵害に依って、この結合が恋愛という恰好に造型さ給さんのものともっかず、つまりそれがばくのものになっ わら
の・ほろうとしていた。その腹のぬくもりが、し 、っそあわれ出して、おどろくべき速さでそこに地図を描いた。 に、膝にこたえた。国助は皿にのこったものを小犬に投げ「あしたの朝、ここに行ってみたまえ。」 てやって、くらがりに灯をともすように、たばこを出してそれが運河のほとりの家であった。相手はみじかいこと マッチをすろうとした。しかし、箱の中にはたった一本、ばで地図を説明して、国助の呑みこんだようすを見てとる いや、一本の半分の、先刻すいかけた残り、さきの黒くなと、すぐその紙きれにマッチの火をつけて、灰皿の中に燃 ったやっしか無かった。それは国助の現状を絵に描いたよしてしまった。そのとき、国助が相手の名をぎくと、ケイ うであった。仕事が無い。仕事はどこにあるのか。いったと答えた。そして、くだんの家にたずねるべき人物の名は いどのような仕事をこの世の中に見つけるべきか。そう考イ 1 だといった。イ 1 にたのめば住込にもなれるというこ えて行くさきが途中で黒くなって、考の半分だけがふとことであった。国助は何となくケイは慶という字におもった が、相手はティ・フルの上に、ビールの泡の中に、指でと ろにくすぶっているというに似た。 書いて見せた。すると、イ 1 はたぶんなのだろう。は 「仕事が無いのか。」 だしぬけに、そういう声がきこえた。ついテイプルの向たちまち立ちあがって、自分の勘定をはらって、さっさと う側に、鳥打帽を深くかぶって、痩せぎすの、若いのか年外に出て行ってしまった。せつかくの仕事のロではある をとっているのか判らないような人物がじっとこちらを見が、残されたものが紙きれの燃がらとビールの泡では、ど うもこころもとなく、国助はあまり宛にもせずに、夜ふけ ていた。 の刻限をはかって下宿屋にもどった。そして、部屋にはい 「え。」 って、上著を脱ごうとすると、あ、そこに先刻の小犬がい 「きみは仕事をさがしているんじゃないのか。」 た。うつかり抱いたままで来たのか、それとも茫としたす 「そういえば、まあそうです。」 きにしのびこまれたのか、ふわふわと軽く、上著の内がく 「どういう仕事だ。」 しに足を突っこんで、小犬は眠っていた。国助はこの生き 「それがはっきりしないんです。」 麌「いや、どういう仕事なら、さしあたりできそうにおもたお荷物といっしょに狭いペッドに寝るほかなかった。け さ目をさますと、小犬はさきに起きて、腹の上に乗って、 「そうですね。たばこに関係のある仕事だったら : : : 」 玩具の小犬のような丸い目をあけて、こちらの顔をしげし とたんに、相手はポケットから小さな紙きれと鉛筆とをげと見まもっていた。あきらかに、それはほんものの生き
に、ただ朽葉に似たものが地にのこった。そのけむりの色た。もちろん、・ほくは無際限にいい気になるという当然の の、白く散ったあとに、あたりはほのあかるく、風もいっ権利をフルに行使した。すなわち、俗なことばでいえば、 かしずまって、見あげれば星の影うすく、あかっきの空が・ほくはひとの錯覚のキンタマをつかんではなさなかった。 ほどなく晴れようとしていた。ひとびとのすがたも今はおこれはひとからどれほどお礼をいわれてもいわれすぎると おかた見わけられて、男も女もみな顔をほてらせながら、 いうことはない。せつかくの錯覚を註文以上に実証して、 足をふみ、歌をうたい、波をうってどよめいた。 人生観の幅をひろげてやるという恩恵をあたえたのは、こ 「どうです、諸君。」 のぼくだからね。もっとも、ほんものの札でも、・ほく発行 久太は・ハルコンから乗り出してさけんだ。 の紙きれでも、その価値のあるかなきかについては、じっ 「どういうことになりましたか。くさった木の葉のようなは似たようなものだということは、げんに諸君がこの場で もの。じつにたったそれだけですね。しかし、それがまた見とどけたとおりだ。 : 諸君はかって無かったものに火をつ じつに・ほくの全財産だ。ひとが勝手にあると錯覚していたけて焼くという著想をみごとに実現して見せてくれた。こ ぼくの所有は、たったそれだけなのだ。ほんの一つかみのれは・ほくのほうからお礼をいわなくちゃならない。錯覚の 燃えがら。それが・ほくの金庫の中にありえたものの全部キンタマの、はかない燃えがらがここにある。朽木金融機 だ。ぼくの金庫はおよそひとが錯覚しえたかぎりの途方も関の葬式のために、諸君が贈ってくれた花輪とでもいうも なく莫大な財宝をもっていつもいつばいだった。すなわのだろうね。この燃えがら、いや、花輪をして、せめて最 ち、その中みはいつもみごとにからつ。ほだった。それが・ほ後の光をはなたしめてもよさそうだな。」 くのおそるべき金力の明白すぎる秘密だ。というのは、ひ いうより早く、久太の手からきらきらした小さいものが ほうらっ との放埒な錯覚のあらんかぎりを、・ほくは・ほくの無尽蔵の飛んで、かの朽葉に似たものの上に落ちた。アメティスト 力の実体として、あくまでも濫用することができたからの指輪にちがいなかった。とたんに、一むらの青い炎がそ だ。現金を欲したときには、・ほくはほしいままにゼロのい こに立ちの・ほり、ものすごいまでに強烈な光をはなちなが ら、噴水のように高くふきあがって、いかなる花火よりも 虹くつもくっ附いた数字を紙きれに書きつければよかった。 すると、たちまちそれだけの現金が・ほくの金庫の中にあっはなやかに、宙に火の子の傘をひろげた。そして、ひとび た。いや、ひとがその紙きれに信用という不思議なしろもとがあっとふりあおぐまでもなく、炎はつい消えて、あと のをおまけにくっ附けて、現金以上にものをいわせてくれには朽葉に似たものも指輪も、なに一つ影をとどめず、す
真冬の説くところを聞きもあえず、貞光、大口あいてか「なんじ、われらの奉ずる石の手を拝したことがあろう らからと笑っていうには、 な。今なお岩屋の奥に安置してあるぞ。」 「おい・ほれのくりごと、とりとめもない夢がたりじゃ。正「石の手。うな、岩のかけらか。たわいもない。かのもの 史ほろびたというロの下から、まことそらごと、仔細らしが何とした。」 くなにをいうやら。そのいにしえとはなにか、おれは見も「これそ先祖よりったわる木地屋の秘宝。かの手を木に置 せず、知りもせぬ。おぬしとても、見とどけたとはいえまけば、たちどころに生きてはたらく。神妙まのあたりじ いな。おれがこの目で見て知ったといえるのは、今じゃ。 ゃ。大神のわれらに示しおかれた道、ここにありと信・せ げんに目に見える世のすがたじゃよ。その今のことを、およ。」 ぬしはとんと知らぬらしい。この岩屋にとじこもったきり「その生きてはたらくさまを、まことに見たものがある では、さもあろうか。八幡がいつわりの神とは、よくもぬか。」 かした。見よ。およそ四方の山山に、われら八幡をいっき「信ぜぬものには見えぬのじゃ。」 祭って、大前ひろく宮をいとなむ。この山にはいまだ宮が真冬、声をはげましていえば、貞光、太刀の柄をたたい 無い。おぬしがっかえるという大神とやらは、われら一類て、 のためにいかなる利生を示したぞ。おぬしら、世をせば 「おれがまことに信ずるのは、太刀とったときにこそ、手 め、肩をほそくして、この岩の中にちちまるばかりじゃ。 は生けるかいあってはたらくということじゃ。このカの筋 椀皿の細工も年ごとにと・ほしくなるというではないか。わはまさに先祖より引いたものとお・ほえるぞ。おれのみなら れら一類のおとろえを見すてる神が頼みの神か。あてにもず、諸国の源氏の中にも、われら一類、いずれも武勇にか ならぬ夢がたりの神を去って、今の霊験おそるべき神を頼けておくれはとらぬ。むかしがたりといえば、先祖に一人 起め。おつつけ、おれの手柄をもってこの山にも八幡の宮をのつわものあって、岩屋を蹴ゃぶったと語りったえるでは 立てて見しよう。われらの運をひらくのは、おぬしではな ないか。末孫のめんめん、功名手柄をのそんで、岩屋にと どまらぬも道理かな。これをもって見ても、われらの大神 八くて、このおれとおもえ。」 「八幡がわれらの神とは、何の由来あっていうぞ。」 はいにしえより八幡大神なることうたがい無いわ。」 「名なしの神がわれらの神とは、何の拠りどころがある真冬、立ちあがって、 そ。しるしがあるか。あるなら見せい。」 「いかにせん。もはやなんじとともに語るすべなし。とく しさい
突き出されたように、ひとり片隅の席に、グラスをまえに やがて、廉子が音彦の席にもどって来た。酔に染まった じ 0 としているだけで、たれとも口をきかず、たれにも相顔に、ひきしま 0 た鼻のさきが蒼じろく冴えた。 手にされず、廉子の飛び舞うけしきをすら見るでもなく見「ねえ、たいへんなことになったわ。」 ないでもなく、なにか考えこんでいるようでもあり、なに 「なんだ。」 も考えていないようでもあり、 いったいな・せここにこうし「久太が夜会をやっているのよ。あなたのお宅、もとのお ていなくてはならないのか当人にも見当のつけかねる恰好屋敷で。」 であった。 「それがどうした。」 クラ・フの奥の部屋には宴会もあるようすで、ひとの出入「そこで大給さんが卒倒したというの。あの方、どうまち しげく、酒場も夜ふけてなおにぎわっていたが、そこに、 がっても卒倒なんそなさるような方じゃないわ。」 わっと飛びこんで来たやつがあった。 「ふむ。」 「おい、怪事件がおこったそ。怪文書、いや、怪写真もの「奥さんもどうかなさったらしいわ。」 「だれの女房だ。」 ひとびとにむかって、事ありげに手を振りながらわめい 「大給さんの奥さんよ。それに久太がからんでいるんです たのは、上著の襟に代議士の・ハッジをつけた中年の男であって。奥さんが素はだかでおどっているというから、たい った。かの林の中の夜会で朽木久太の一撃に突きたおされしたはなしよ。」 たやつにちがいなく、その場からここにいそいで駆けつけ「女がはだかになるのに不思議は無い。」 て来たのだろう。まわりをとり巻いた男女のむれになにや「そんなこといっている場合じゃないわ。あたしすぐ行っ らしゃべり出したはなしの内容はすこし遠い音彦の席までてみるわ。あたしは大給さんの秘書ですからね。」 はったわらず、それを聞こうという気も無かったが、しか「行っても間にあうまい。」 しその文句のきれはしに朽木とか大給とかいう苗字がきこ 「いいえ、夜会はあしたの朝までつづくんですって。久太 えて来たのに、音彦もしぜん耳をそばだてた。廉子はいちにどんなわるだくみがあるか知れたものじゃない。」 はやく聞手のむれにまじっていた。聞手のあいだに問いか 音彦はちょっとだまっていたが、じろりと廉子の顔をま えす声、相槌をうつ声、さけび声、笑い声がざわざわとひともに見て、 ろがった。 「おまえ、久太に興味があるのか。」
つきそうです。それから、ロックの爪の大きさも。雛の大の日、ぼくが浮彫を叩き割った日なので、すぐ代りを志願 きさとなると、そろそろ茫として来ますが、それでも判っし、運よく許されました。しかし、・ほくのこころざしは家 たような気がします。しかし、親鳥のロックがどんなに大具にはなくて、もちろん北京征服にあるのです。この機会 きいかという段になると、想像が破裂しそうです。失礼でにどうしても現地にとどまろうと決心したのですが、それ すが、あなたの丹念な割算では、不都合にも巨大な翅を勘には・ほく自身の金銭が必要です。千円ばかりあれ・よ、 定からはみ出したというかどで、肝腎のロックは切り捨てと、いささか煩悶していました。ところがその千円があっ たのです。・ほくの家にあったのです。・ほくの亡祖父、おや られてしまうのではありませんか。われわれにとっては、 ロックこそ現実です。かならずわれわれの努力に依って在じのおやじですが、これは材木屋で、昔はよかったとはな らしむる・ヘき現実です。そのために、・ほくはまずロックのしだけ聞かされているものの、遺産など想像もしていなか 爪に飛びつこうとしているのです。十九歳の・ほくが知ってったのに、じつは千円だけおやじに残されていたというの いることはそれだけです。仕合せと、理解円満で精神が紛です。それをまた、おやじは「無いものだと思って」別に 失したなどという騒動を知らないですみます。第一、今参しておいて、長年おとなしく貧棒して来たのでした。昨夜 加しようとする事業の名について、格別心配していませになって、はじめておやじが口を割ったのに、・ほくはあき ん。たぶん、たれかがあとから北京にやって来て、事業のれました。現在あるものをどうして無いと思えるのかとい 眼鼻がついた時分に、「道徳」の看板でも立ててくれるのってきくと、「だって、おまえ、そりや無いものだと思え ばいいじゃよ でしよう。 オいか。」何にしろ、千円は今・ほくの手に引き わたされました。おやじはすこし気が弱くなったようで さて、一身上の件になります。もう御推察でしようが、 ぼくは北京へ行きます。今夜出発です。その仔細はこうです。耄碌したのでしよう。・ほくは・ほくで、おやじの無を元 す。おやじが仕事を納めている日本橋の家具問屋で、今度手にして、有のほうに取りかかります。そんなにわるい使 家具を主とするシナ工芸品部を新設することになりましい方ではないと思います。だいたい・ほくはひとが遺してお いてくれたものは尊重する性分で、たとえばあなたにいた た。向うの品物を輸入するとともに、こちらで摸造品でも 作ろうという思惑かも知れません。それで、問屋の主人が だいた「ギリシャ彫刻」にしても : 北京へ出かけるについて、信頼すべき職人を一人同行した いというので、おやじが選に当ったのですが、ちょうどそそして、その奥に、もう「金吾」ではなく、鼓金吉と威 ばうつ はね