134 に稲荷ずしをつくっている彼女。思いついて、そこへ麻のでもあった。 実を入れたことだけでかがやいてしまっている彼女の顔。 少年は読みはじめた。 あらおけ どしゃ降りで雨もりがはじまり、洗面器だの洗い桶だのを「 Es zog einmal eine grosse Karawane durch die 「 6 ・ ぞうきん 持ってかけつけて、そのとき、とばっちり防ぎに雑巾を投 ste ・ : げ入れたことで一人で心持ちよくなっているこの女。 安吉は自分の本の文字を見ていた。 「物事にいそしめるという能力が彼女にはあるのだ。そし「わるい発音だナ : : : 」と彼は思った、「これは直らない てそれが生活なのだ。おれのは思弁だ。」 方だろう。ツオーグといっている。で舌が上にくつつか むだ 何か食った太田は大急ぎでまた出て行った。「思弁だとない 。でもだ。いっても無駄な方だろう・ : : こ 考えることがすでに思弁だ。」と思いながら安吉は太田の しかし相手は案外とどこおりなく一節をしまいまで読ん ・こ 0 おいていった教科書を取りあげた。 「しかしさっき村山がいったのは、趣味が悪いということ「じゃ、ちょっと訳してみて下さい。」 じゃなくって、つまり趣味のわるいものを珮してるとい 「むかし、むかし : : : 」と相手がはじめた、「一隊の大き ったんじゃなくって、そんなものを愛玩することそのことな隊商が、沙漠をわたっておりました : ・ : こ が悪趣味だといったんだろうか ? そうは思えなかったが 「おや ? 」と安吉は文字から目をはなした。誰だったか童 : そんなこと、いえるはずもないが : ・ : こ 話作家の一人が、ちょうどそんな風な、調子のついた文章 Wilhelm Hauff: M chen ーーーこれならば予習しなくつで童話を書いていたはずだ。「むかし、むかし、一隊の大 てもたろう : : : きな隊商が、沙漠をわたっておりました : ・ : こ 安吉の頭に疑問の影が浮かんだ。そんなことがあるだろ それが昨日のことだった。そのちょっとしたことで、家うか ? あんな読み方をする人間が、こんなしゃれた日本 庭教師についている生徒というものをはじめて見、家庭教訳をするということがありうるものだろうか ? 師そのものをもーーー代理というおかしな形としてはじめて「ここのエスというのは何ですか ? つまり文法上いって 味わってみる。このことを、おもしろいことのように不思ですネ : : : 」 議なことのように思いながら安吉は「読んでみて下さい。」訳がすんだところでそんなことを安吉は訊いてみた。 と相手にいった。どんな風にやるか、見当をつけたいため、 尸し方がまずかったらしく、安吉が何度にも問いを説明 さばく
ことを話してもわからん。頭からわかろうとせんのじやか いたしね。野島先生の話じゃ、高畑君は頭は悪るないとい ら手がつけられん。それで妙なもんで、わかることもあるんうことじゃ。しかしちっとも勉強せんてんじゃ。試験の答 じゃね。それが一ペんわかってもすぐけろっと忘れてしま案を見ても、自分の好きな問題しか書かん、好きなことな きら うんじゃ。そうしてお父つあんの教育の仕方が悪いからだら先生の知らんようなことまで書いてある、厭いな問題は というんじやろがいねして。」孫蔵は、がぶっとあおって少しくらい知ってても書かぬ。ただ我儘なんじゃ。あの時 乾してある勉次についだ、「うらの教育方針は決して悪るやお前にもちょっと言うておいた。しかしお父つあんは落 い悪いは知らんがまちごうてはいぬつもりなんじ第についちゃ何もいわなんだ。よそじや入学試験で二度落 ゃ。耕太があの通りじやろう。嫁がほしいといえば田舎芸ちる人もある。入学試験で二度落ちるよりやはいって落ち かね 者じやろう。それやアあんな嫁は、鉦太鼓で探したってあた方がまだしもましと思うて黙っていた。こんなこた言う るもんじゃないさ。あるもんじゃないけどして、世の中っ たこたないが、小遣いだって分相応に渡してある。いい家 てアそういうもんじゃないがいねして。まあ仕方ない。死のこた知らんざ。それがじゃ、私らの知ってる家じや小遣 んだおじもああ言いなさるこっちゃし、金をこさえてもろ帳をつけさしてるのがある。よそは万そういう風じゃ。 うたわけじゃ。そしたらどうじゃいして。一年もせずに赤お父つあんアそういうこたあまり好まんからそんなこたせ つるが ん。お父つあんらア教育がないから学問のこたアわからん 喇じやろ。それもウラジオじゃ。お前も敦賀まで来たが、 あの通りじゃ。しかしお父つあんは泣かれもせんがいねしが、しかしとにかくそういう調子でやってきた。それをお て。村のものアみんなお気の毒なっていうじやろ。しかしつ母さんらアみんなお父つあんの方針が悪いようにいうん 中にや腿で喜んでるものもあるんじゃ。それやお前らア知じゃ。何でもかでもうらに押しつけさいすれや気が休まる らん。百姓ってもなそんなもんじゃない。なんか人に困っように出来てるんじやさかい仕方ないがいのして。そうし くど 家たことがあれや、我が身が得したようにしてうるしがるんて口説くんじゃ。お父つあんア神経衰弱になってしもた。 のじゃ。先祖代表じやからして仕方がない。お父つあんにはそれやお前にもいうた通りじゃ。いうは易けれど、それや たま 寸それがわかる。わかったからって仕方がないがいねして。 とてもとても椹ったもんじゃないんじゃその。お前もいう お前がどうじゃ。せつかく高等学校にはいれたと思や落第し、お寺詣りなんかもさしようというても行こうとせん。 じゃ。それも二度じゃ、お父つあん野島先生に聞きに行っそれや、クマも悪るないんじゃ。三座ある説教のうちきっ た。あれや、兄さんの方アうらも昔兵隊でちょっと知ってと一座は共産党の悪口なんじゃ。共産党のことも何にも知 わかまま
風景が好きだなア。こんなのは非常に好きだ : : : 」 ・ : 」安吉は何度も頭を振ったがそれがさっきから出てぎ 並んで歩いている斎藤へ「ふん、ふん : : : 」と言いながていた。「おれたちお互いが才能のあるなしを言い合うの ら、子供時分からのことを一瞬に思いだして安吉は下流へならいい。先輩格の人間が、おれなりを捕えて、あんな風 かけての風景を今さらに眺めた。二人は、立石の方から向にけしかけるみたようにして、つまり、人の卑小な点にす 島がわの方へ、 中川放水路と大きい荒川放水路と両方にまりついて行くようにして激励するってことの卑しさを自分 たがった四ッ木橋を渡ってもう一度小石川まで帰ろうとしで知っていて、それでも押しのけてやったのだかもあの人 ていた。 のことならわからんゾ。しかしそれだから、つまりあの人 かなえ それはひと口にただ・ほゃあっとして際限のない光景だつの芭蕉論がおもしろくなくなるのだナ。そこで斎藤鼎の竺 た。堤防がどこまでもそのものとして続いている。冬枯れ蕉論が、学問がないかもしれぬのに葛飾のよりもおもしろ の草の残りが風に吹かれている。立石から平井へかけて、 く打ってくることになるのだナ。第一斎藤鼎なら、決して さっき立ちょった新小岩も入れて、がさついていながらばあんなこといわないし、第一気がっかぬだろう。一 らっとした家々の屋根がみんな堤防よりも低かった。それ「しかし、お前はどうなるんだ ? 」という考えが続いて出 が風景全体に錯覚を起しそうな拡がりの感覚をあたえる。 てきて安吉は逃れようとした、「何でお前は、葛飾が自分 二つの放水路が平行に走っていて、ある大量の水を下流へを卑しくしたからといってー、ー場所柄でないといった心持 っちに引きずられて、お前自身をまで卑しくしちまったの やはり平行に絶えず連んでいるというこっちの意識がい かゆ そう拡がりの感覚を強める。こういう風景を見ずに安吉は だ ? ああいわれて、嬉しくも痒くもなくてその反対だっ 育ってきたのだった。 月が自然のままでなくて人工を加えたことなんかが間題なんじゃないのだ。何であの場で、 られてることで別の種の自然感覚をそそる。徳川末期のあきなり一撃をくらわさなかったんだ ? それでこそっつま る画家たちが、子供つ。ほい惑覚で透視画法を取りいれて構しさだ。何で、あんな人を ! ーあれはほんとうの好意だっ 図をした。そんなのの素朴な見本のようで先細りに堤防が たのだからーー黙って心で侮蔑して、みすみすその人が低 延びている。上いつばいにあかるい曇天が垂れている。そくなるのに任しちまったんだ ? 同罪じゃないか ? 相被 うそ れがそのままで葛節伸太郎のこないだのことを安吉に思い 止ロじゃないか ? しかも向うは、嘘からでも真を出そうと ださせた。 して知っててしたのだったかも知れぬのじゃないか ? そ 「しかしあれは知っててやったのだったかもわからんナれを、お前は : : : つまり向うは、侮蔑されてもとわかってい たていし ふべっ
「あれ、悪くないじゃないですか : : : 」 仕方で刺戟するようなやり方で話したのだったかも知れな 「あ、駄目だ、駄目だ、駄目だ。どうしたっても説明でぎかった。確かにそんなせいがあっただろう。しかしそれば ない方のあの冂だ : : : 」という考えが安吉に走りだした。 かりではない。芸術はそんなものではない。元の語り手が たお 「決して労働者は泣きごとをいわない。誤解のなかに仆れどんな調子で話したろうと、生みだされたものの調子は芸 ることも敢えていとわない。そこをあの少年がどっと泣き術家その人のものだ。それが安吉を滅入らせた。佐伯は解 たした。忍びに忍んできたものが、正しかったと証明され釈者としてそこに立っていた。泣きだした少年は道具に使 たんですからネ : ・ いじらしいじゃないですか ? 」 われたなりわきへ放りだされていた。どうかしたら、そこ 「いじらしいんだ。しかしそれは少年がなんだ。小説がじ から脱け出そうと佐伯がしてるらしい彼の初期の作品の方 ゃないんだ。この男は、解釈を雄弁にやってのけて自分でが好もしく純粋に見えてくる。それは若々しい大学生心理 酔っぱらってるんだ。この男にどうしても馴染めないできを書いていた。子供を苦労して育てようとする貧乏な母親 たのもそのへんに原因があったのだ : : : 」 とその子との愛情を描いていた。センチメンタルなもので 矢のようにそういう考えが頭のなかを流れて、しかし斎さえそこでは新鮮でしなやかだった。 藤の言葉が返事を求めてるのではなかったから安吉は黙っ 「そう書いてあるからそうだというんなら文学なんてほん ていた。そして黙っていることが、安吉を、口実を何か探とに気楽なもんなんだがなア : : : 」という考えが、自分は さねばならぬようにそわそわと急きたてた。 無能力なのかも知れぬゾという疑惑に結びついて安吉のな 佐伯の「不思議な涙」を安吉は読んでいた。「あれだナかを流れて行く。 : こと思って、ほてるような思いで安吉は黒っ。ほい活字「僕は西南地方の人間だから知ってるんだが、あんなの を追って新聞を読んだのだった。そして「何という不思議は、どうしてもまずいんだよ。ったないんだよ。」と説明 はお な涙だろう。」という結びまで読んできて、頬が冷たくなぬきで土井が言い張ったのがそんなところをいっていたの ぎ るのに気づいて顔をあげて目をやるところを探したのだっ かも知れなかった。あのときおれは、土井にたいして佐伯 ら こ 0 を弁護しようとした。何ものからも弁護されるべきものが むナ それはどうしようもないことだった。それでも安吉は、 確かに佐伯にあったのだ。今でもある。しかしまた、おれ それが他人から聞いた話を、急きたてられて新聞ものにしは、徹底的に田口に引かれていた。今でもそうだ。その田 たせいだろうとも考えた。安吉自身、佐伯をそんな解釈のロと佐伯とを土井は対立させようとした。それをそうさせ しげき
370 そいつらのいるのは煙のような遠方で お前はその方角を指さすことさえできない そいつらを呼びよせようにも のどふえ お前の息は短いしお前の咽喉笛はもう紅くはない そしてそいつらはどれもこれも みんな些細なめめしい記憶なのではないか そんなものにいつまでもかかり合っていようものなら お前の感情は間もなく古びてしまうだろう そうだこんなものにかかり合っているうちには・ ただそいつらはどれもこれも そしてそのためにの言葉は粗くなってくるのだ 見たまえ かな これは繊維の農かな哀しい日本紙の手ざわりだ そしてこれには無邪な少年の笑いの祝福が匂っている 美しい日曜の朝に君の部屋の掃除をして この清浄な白いふさふさでもって 君は君の書物や机のあたりを払いたまえ 君の心にふりかかって来る煤とほこりとを払いたまえ そしてしとやかな言葉づかいで静かな半日を憩みたまえ 噴水のように すす にお かわの きん めめしいけれど金の色をした記憶なのだ それが金の色をしているというばかりにおれは 胸を疼一かしたりしていまだに棄てきれないでいるのだ 日本の冬の夜は酒の糟売りが来て寒い そしておれの皮膚は彼自身の淋しさを感じる こんな骨身にこたえる寒い夜には この馬鹿らしい記憶なぞはしぶきに散らして 夜の噴水のように・ほろ・ほ それを琴にしてせめてもおれは歌がうたいたい 厠のなかにはものうい秋の陽がたまっていて 女はどこにいるのか消息もなかった はえ 黒い一匹の蠅がいてうろうろしていたが 最後におれの下腹のあたりに取りついた おれは手をあげてそれを払ったが おれは腹が立って悲しかった さび
220 っていうけれど、話はあんなでも、あれは弱いってもんじ ゃないよ。君自身感心してたじゃよ、 チーし、刀 ? 」 「それや感心しましたがネ。しかし弱いなア。在りし良か りし日へのノスタルジャですよ。第一、何ですか、あの こつけい 日によっては二往復することもあるいつもの坂道を、安題 ? 『亀ちゃん』、滑稽小説じゃないですか ? 」 「題 ? そんなことないサ。そうだネ : : : じゃ、どうだ 占は肩をならべて吉川と藍染橋の方へでていった。 「そんなことはないサ : ・ : ・」と安吉は吉川を反駁した。吉ネ ? 」考えながら、安吉はずるそうに吉川へ横目をした、 Ⅱは、ただついでというので、そこへ、今がそこからの帰「「亀とその移動する家族、一とでもしたら ? 題なんか何で りのその会合へ顔を出したのにすぎなかった。彼は文学をもないサ : : : 」 専門にやろうとしているものではなかった。彼は合宿でも「『亀とその移動する家族』 ? うまいなア : : : 」 吉川は「やりきれぬー」という目をして安吉を見たが、 いちばんの弱気たった。彼は今年高等学校から出てきてい て、何年生ということのない大学でも、一年生と三年生とそれはさっきの集まりで、平井が、集まりの性質を勘ちが いして発表した小品の読後感の問題の続きだった。集まり の差といったものはあったから、自然それが安吉を気軽に しているのでもあった。また結局のところ、こっちが押しは、社会文芸研究会をこれからどうやって行くかを討議す るための、つまり運動そのものを問題とする小人数のもの て行けば文学がわかるということが吉川の弱味をなしてい た。「おばさん」の問題にしても、かえってそんなところだったが、久しぶりに出てぎた平井が、いつもの、文芸そ から、母親を息子の佐伯に返すことに彼も合宿会議で賛成のものを取りあっかう集まりと思って最近の小品をそこで 朗読したのだった。自分の作品を集まりで朗読するなど した一人だった。 は、一種の見栄もあって誰もしなかったが、平井にかぎつ 「しかし弱いですよ。」 てんいむう それが何だね ? 何てったって美しいよ。」安てそれをやることが時々あり、彼にかぎって、天衣無縫と いった無邪気さとしてまわりからも受け入れられていた。 吉の頭に「何といっても」という辰野隆吉の論文の癖が思 いうかんだ。「何といっても」といった言葉が論文の言葉小品は、平井自身の幼年時代の回想といったたちのものた として出てきて、それが、それなりに効き目を持つのを安った。 「今になって考えても、結局それがどんな家族だったかと 吉は辰野の評淪ではじめて経験したのだった。「君は弱い かめ
れや、訳のよしあしということは世間じや知りませんから「しかし何ですナ : : : 」としばらくして安達がまた始め ネ。世間じゃ、そんなこと、問題にしやしません。小森田た。 さんのお話はよくわかりますし、あなたの訳文も、失礼な「片口さんの文章は全く立派ですなア。それやア、レーニ がら拝見しました。わたしとしては異存ありません。問題ンのいってることはむろん結構ですが、しかしまず常識で はそこで、部数と定価なのですよ。向うさんは八十銭でししよう ? これや、わたしなんかとしての無責任な感想で よう ? わたしのは一円と考えてたんですが、どうもそこすが、しかし、あなたの文章、全く名文だ。」 が : : : 一円は小森田さんにもお話ししてあるのですが、対「何をいやがるーどんな名文だったっておれにやちょう 抗上、ここは、やはり、八十銭ってことでお願いしたいのどなんだ : : : 」という気と、誤訳があるだろうナ、安達の ですよ : : : 」 ほめ言葉は、よくわからぬところを日本語の「調子」でご 安達の話は雄弁でありながら素直に安吉に聞けた。かえまかしたことの反射なのにちがいないナという気とが混じ って安吉の方が恐縮した。安達が、かけ出しの安吉を認めって安吉は返事ができなかった。 「そこで印税ですがネ : : : 」と安達が続けた。安吉は耳を て庇ってくれるようなのが安吉にうれしい。安吉としては たてた。「あなた、今すぐの方がいいでしよう ? 」 全く異存なかった。 「しかしあれは : : こという影が安吉に出てきた。高本訳「ええ、それや : : : 」と安吉は答えた。彼はたじたじとな っこ 0 は、いっか安吉も招かれた轟書院から出ている。訳者の高 本は、訳者の前書きで、織田司氏に訳稿を見ていただけて「全額いま差し上げてもいいのですが : : : 」といって安達 は徴笑した、「いま差し上げるとみんな使ってしまいなさ ありがたかったと書いている。それがそれならばそれでい どことなし、そこにけれんが感じられて安吉は落ちつるでしよう ? 百円だけお渡ししましよう 0 残額は製本で けない。・ とこが証拠とも差しだせない。しかし競争意識でき次第お渡しします。いかがです ? 」 安吉は全く異存なかった。 なく、たしかにそれが感じられる。そのことで織田が何か 書いたとも安吉は聞いていない。前に伊能が自分の訳本を「じや小切手でお渡しします。小切手でかまいませんか ? 」 佐伯名で出したことがある。何だかそんなことが、普通に 小切手というものがあることを安吉は知っていた。しか 行われていて、一々やかましくいうような人間はいないのしそれを持ったことも見たこともまだなかった。 「かまいません。」とそのなり安吉は答えた。 かも知れない。そうでないのかも知れぬが :
むらぎも 295 て : れはさっきからそこにあるのだったが、改めて彼はそれを 「いえ、そんなことありません。」と、あやふやなまま、見た。ひどく奇妙なもの : : : それは、痩せて長く伸びた、 もし何かいったのだったならばここであやまっておきたい もともと節と節とのあいだが恐ろしく長いらしい葛飾の手 気持ちで安吉はいっこ。 の指たった。それがまっ黒に、墨を薄目に濬いて流したよ あか 「そう、そんなら安心だけれど : : : 」 うに見えるほど垢たらけで伸びたり曲がったりしている。 ・ : うまん 「安心だけれど ? それ、すこし、傲慢じゃないかナ ? 」とそれは、風呂に何十日もはいらなかった場合の病人や乞食 いう思いがちらりとした安吉に葛飾がつづけた、「それや、に見られるものだった。指の背中の、ちょうど中火になる そんなこと、わきからとやかくいうべきことじゃよ、、 オし力もところに、何かが縦にこびりついてまっ黒くなっている。 知れませんがネ。しかし僕らとしちゃ、やつばりやってつ 一本のこらず、親指までそうなることは垢以外であるはず てもらいたいナ : : : むろん僕なんかは、古いですよ : : : 」 はなかった。何だかこんな手をしてるものがあったナと安 われわれはもはや古い。思想の上でも感覚の上でも。君吉が思う。鶏の足が頭に浮かんできた。それは本当に鶏の らは両方で新しい。それだけに、 古いと自分でわかってい足そっくりだった。 るものとしてやはりそれをいっておきたいのだ。人は、持「ちょっとオ : : : 」といって飾は下へ大きな声で呼ん って生まれてきたものを大事にしなければならぬだろう。 文章で見たのとも人伝てに聞いていたのともちがって、葛「片口さんに御飯あげて下さアし 、。 ) こしにも下さアい」 かんばっ 飾の語り口が才気煥発という風でないことが安吉に重くか やはり遠いところで々の返事がした。時分どきで悪かっ ぶさってきた。葛飾は、「人は持って生まれてきたものを たナと思ったが安吉は動けなかった。さっきの女中が膳を 大事にしなければならぬだろう。」ということを、自分に 二つさげてはいってきて、炬燵から離してめいめいのわき 言い聞かせるような調子でいっていた。ありもしない責任にそれを置いた。 のようなものが背中にくくりつけられてくる。そんな責任「それ酒です。」といって蔦飾が安吉の膳のコップへ顎を はない。ないけれども、全くないのでなくて少しはあるか しやくった、「君飲むんなら飲んで下さい。僕は飲めんの も知れぬだけにいっそう重しくかかってくる : 安占から言いだすことは何もなかった。彼は炬板へ目見るとなく見て、葛飾の食事が粥のようなものなのに をやっていた。冖 彼の視野に奇妙なものがはいってきて、そ安吉は驚いた。蔦飾は、食うというよりもって呑みこん いゅ
273 むらぎも 法皇の知ったこっちゃあるまいが : 、・ : 」 るということがあるだろうか ? そろそろ夕方になって、めし食いに出ようというので安 一人の芸者が安吉に思い出された。二年くらいも前だっ たろう。ある日安吉が斎藤鼎のところにいた。そこへ、斎吉にもいっしょにこいということになった。四人は神明町 藤の若いときからの詩の仲間で、斎藤が小説作家になってへ出て、電車道を北に切れて粗末な作りの家へあがった。 「二業地というのかナ ? 三業地というのかナ ? 」と考え からも詩だけ書いている、偏屈で世ばなれしたようなとこ ろのある荻野信がきた。塵一つ落ちてない畳の上で三人はて、二ならばこれとこれ、三ならばこれとこれとこれとか 馬鹿話をした。そこへ、詩人で美術批評家を兼ねた、斎藤・と思っているところへ芸者がやってきた。お神さんの卑下 荻野と傾向のちがった大久保昇がやってきた。彼は俑のよしたような釈明からすると、名指した人間がいなくって、 しし加減な代りだが我慢をしろというのりしかった。四人 うなものを取り出してーーーしかし安吉は俑というものをよ うなぎ は酒を少し飲んで鰻のめしを食った。 く知らなかった。またそれは西洋のものに見えた。 「君はこんなものが好きだから : : : 」といってそれを斎藤そのうち大久保が芸者の一人をつかまえて悪くふざけ出 にやった。それから画帖のようなものを出して荻野の前にした。荻野が青年論を安吉にふきかけてきた。そこへ一方 出した。荻野はそれを開けてみて、軽い鼻笑いでそれを斎の芸者が口を出した。その口からすると、彼女は「年」 藤へ手で押した。斎藤は黙って安吉にまわした。それは好という言葉を知っていないのだった。そんな芸者もある。 色画帖といったもので、西洋の絵や彫刻を写真にして貼っ雨森の姉はやはり芸者なんかでないのかも知れない。しか しどういう人たちだろう ? 大阪からきた「虎ちゃん」と てあった。彫リ 亥の方がよく、絵の方は粗末で下品だった。 いう男なども、どういう育ちで、そんな人々を生み出した 「こんな絵を一度も見ずに育っ方が本当の意味でエロチッ たど クに育てるなア : ・ : こと思って安吉は下隅の文字を辿っ生活の層はどんな風にどこに横たわっているのだろう ? こ 0 Vaticano つまりそこに、芸術的にすぐれて、同時「今晩は : ・ : こといって安吉は事務所の玄関をあけた。彼 いう に極端に = ロチックないくつかの彫刻が美術館にあるのらは両手の手の平と甲とを外套でごしごしとこすった。どこ かゆ しい。写真の年代がないから、今あるかないかはわからぬも痒くはない。 ローマ法皇「お帰んなさい。」といっておくの椅子から雨森が腰を浮 がそれはあるのだろう。売り出すはずはない。 庁というものが、不思議な側面から・ほゃあっとして見えてかした。二畳の畳敷きで、上から電燈が下がり、粗末なテ 1 プルの脚のあわいから瀬戸火鉢が見え、雨森は、それを きた。「奥ぶかいものだナ。」と安吉は思った。「むろん、 かなえ
きんかいしゅう て「金槐集』を写しているのであった。 そういって金之助がさし出したのは幾何画か何かの問題 「よせよせ。電気がついたぜ。」 であった。安吉は今では忘れてしまったが、円柱か何かと 六面体か何かとがぶっちがいになって、その断面がどんな 「うん。」 金之助は厚い本を閉じて受付へ返し、ノートを吸取紙でぐあいになるかというふうな問題であった。金之助は何を じようぎ おさえてペンをエ寧に拭いてからやっと立ちあがってぎ勘違いしたものか、実際定規でも立ててみれば一と目で明 らかなことが少しもわからぬのであった。 た。 「そんなことがあるもんか ? これやこっちから来るんだ 「「金槐集』を買えよ。どれだっていいじゃよ、 ↓ / しカっー」 安吉はいまさら写しものをする馬鹿らしさを説いたが金から、光線が平行に来るとしたって下のほうが大きいにぎ 之助は受けつけなかった。 まってるじゃないか ? 」 「いや、おれは写すんだ。もうあと少しなんだよ。出来あ「いや、そんなこたないんだ。下のほうが小さいんだよ。」 「だって、この図だって大きくなってるじゃないか ? 」 がったら製本屋へやって製本するんだ。」 金之助は理科に籍があったがどういうきっかけからか安「だからわからないんだよ。」 そこで二人とも笑いだしてしまったが明らかに金之助の 吉とも親しくなっていた。選科の話が駄目だったため安吉 はもう一年いることにして、もう一度下宿を変えた先が金勘違いであった。金之助にはそういうと・ほけた一面があっ 之助の下宿のすぐ近所になっていた。彼らは朝晩行き来をて、彼の郷里の町に一人の酒のみがあって、飯を食わずに して短歌の話をしたり酒をのんだりした。 酒ばかり飲んでいるが、酒は米でつくるんだからある程度 「なにしろ六面体の投影だからな。」 米の代りになるにちがいないなどということをまじめに話 「八面体だよ。」 したり、金沢の近くにある鶴来という町が彼の姓と同じだ というので急に系図をしらべたりするというようなところ れ前の学期に試験が始まって、ある朝安吉と金之助とがい みちみち かっしょに学校へでかけてゆく途中、金之助が途々ノートをがあった。 の開いてわからんわからんとくりかえすのを安吉が聞きとが「うどんを食うか ? 」 めたことがあった。 一一人は角の第屋へはいって韆ぬりの階段を登 0 た。 あな わりばし 「何がそんなにわからないんだ ? 」 そうして上り口の黒い柱に掘った孔のなかから割箸をつま み出してそれをちゃぶ台の上へほうり出して一一人ともひっ 「これがわからんのだよ。」