一 Meine schöne gnädige Frau ( トイツ語 ) 美しきわが奥方よ お ein ョ alig ( ドイツ語 ) 一回こっきりの。 唾玉集明治三十九年春陽堂より刊行された本。後藤宙外、伊 原青々園が諸家を訪れて聞いた作家苦心談が集められている。 全 ドッペる落第する。学生用語。ドイツ語の doppelt より きたもの。 歌のわかれ 発春藤村の青舂を描いた最初の自伝小説。「破戒」のあと、 話メーチヘン Mädchen ( ドイツ語 ) 娘。旧制高校生は日常 明治四十一年に発表されたもの。 生活でもよくドイツ語を使ったりした。 発外がハルトマン : 鷁外はドイツで哲学者のハルトマン ーベ Liebe ( ドイツ語 ) 愛人。 の美学を学び、わが国に移値した。 癸ウエルテルゲーテの作品「若きウエルテルの悩み」をさす。会ドラマツルギー Dramaturgie ( ドイツ語 ) 劇竹法。 当時の高校生の間ではよく読まれた。 穴 Heute habe ich•• ( ドイツ語 ) 今日、私は : : : の意。 ・・うっ 関根正二とか : 関根も村山も、ともに大正時代に夭折し九一おえ板敷の居間。福井・石川県の方言。 いけん ・、山によ、 た天才的な画家。関根には、敬虔な宗教的ムート 九一どうだす栗や欅の大きな梁のこと。 前衛的なデカダンの要素があった。 九一さんまい墓地のこと。 五八香林坊金沢の中心地にある繁華街。 空繩入れ検地のこと。 六 0 Bahnwärter Thiel ハウ・フトマンの小説「踏切番のティー 一一五元興寺の僧の : ・ 「万葉集」に収められている「白珠は人 に知らえず知らずともよし知らずとも吾し知れらば知らずとも 会地震に : : : 関東大震災の際、社会主義者や朝鮮人、及びそ よし」をさす れに似たような人が官権のカで殺されたことをさす。 むらぎも ど Auf Wiedersehen ( ドイツ巴さようなら。 解ど lch danke ( ドイツ語 ) ありがとう。 一天むらぎも元来は、「心」にかかる枕詞。「群肝」と書いたり する。ここでは、時代を同じくした青年群像、というような意 主あたじけねえけちくさいことをやや軽蔑的にい 注 味に使われている。当初は「卒業」という題で構想されてもい たという。 七一一マイヨール Aristide MailIol ( 1861 ~ 1944 ) ロダンととも に有名なフランスの彫刻家。 一 8 治安維持法国体の変、私有則産制の否定を目的とした結 社や行為に対しては、この治安維持法を適用してきびしく取り 当 0. Gott hilfeeee ( ドイツ語 ) 神よ、お救い下され。 注解 発 しトたま
がモデルとなっている。 ぎわめてストイックなのが特 一 0 一一 Gegen den Strom ( ドイツ語 ) 時流に抵抗して、の意。 一一五八夥沢計七関東大震災のとき、亀戸署で虐殺された大正期の 三一責付当時使われていた籤判所の用語。拘甯をやめて、被告 労働文学の中心人物 ( 1898 ~ 一 923 ) 。とくに労働劇団の設立者と 人を知人にあずけること。 して瞥名。遺稿集に「一つの先駆ーがある。 三三く ( ) 「 zwanzig years ( 独・英語併用 ) 一一十年前。 一さ戸事件の集亀戸事件の殉難者たちの記録を集めて「種 三孫中山孫文 ( 】 866 ~ 一 925 ) 。中国の政治家で、三民主義を唱 蒔く人」の別冊「種蒔き雑記」として刊行したものをさす。 えた。 一一至 f 「 emd ( ドイツ語 ) 縁の無いこと。 三五 intim ( ドイツ語 ) 観密なこと。 一宍八 ミニアツール Miniatur ( ドイツ語 ) 細密襾 毛叫スキャップ scab ( 英語 ) ストライキに非協力なもの。 三六 Millionär ( ドイツ語 ) 百万長者。 三六 Billionär ( ドイツ語 ) 億万長者。 一石六コロンタイ Aleksandra Mikhailovna Ko = on 竃一 ( 1872 ~ = ) 52 ) ソビエトの婦人政治家。「赤い恋」の作者としてとくに 三七 Zwei Dinne 「 ( ドイツ語 ) 一一長分の食事。 よく加られている。 三七 Dekan ( ドイツ語 ) 文科大学の学長。 一一七八飾伸太郎室生犀星とともに「驢馬」のうしろ立てになっ 三七 Arbeiterviertel ( ドイツ語 ) 労働者の町。 てくれてもいた芥川龍之介がモデル。 三八ヨシワラ・メーチヘン吉原の遊翻の女性たち。 三 ^ Menschlich Schön ( ドイツ語 ) あたたかく、美しい。 一一分マル廿ス主義「人口論」などで著名なマルサス ( イギリス 一三六『芽生え』の女主人公島崎藤村の「所生」の女性こま子。 の古典派の経済学者 ) の主張。貧困対策として禁欲をすすめた。 藤村の姪である。 一一九 0 ・フリオリテート P 「一。 r 一【誉 ( ドイツ語 ) 優先権。 一弖レスポスの愛女同士の同性愛。レス・ホス島 ( 地中海の東部 ) パンド Pfand ( ドイツ語 ) 抵当。 の風習よりぎたもの。 レクラム RecIam ドイツの有名な出版社。ここより出して = 表現派とか : いるレクラム文庫を範として岩波文庫が生まれた。 第一次世界大戦後の芸術として、ヨー パでは、この種の表現派、未来派、超現実主義、構成派などの三一八コルビュジェ「 Corbusie 「 ( 一 887 ~ 1965 ) スイスの建築 解 家。都市計画についても権威があった。 前衛の視点に立ち、既成の権威や既成のリアリズムを打ち破る 風潮が勃興し、それが日本にも波及、たとえば、イタリアの前 春さきの風 注 衛派の画家キリコ、ドイツの表現派の戯曲家カイザ 1 などは、 日本でもさかんにもてはやされた。 三一言三月十五日昭和三年三月十五日には、関係者の一斎検挙が 行なわれた。 品五御不例ここでは大正天皇が病気になられたことをさす。 一出口の芸術「海に生くる人々」を書いた文戦派の葉山嘉樹哥び記事解禁当時は報道するのにさしさわりがあると認めた事
140 ものは必ずすぐ元のところへ差しこむのにちがいなかっ文学方面のものを中心にして入れたがっている。世界大戦 ぐんばっ ばくろ た。頁を折ったり、箸を挾んだり、いきなり何かを、筆ででのドイツ軍閥の内部腐敗の暴露ものなそも、写真と公式 でも鉛筆ででもペンででも書きこんだりする安吉のやり方文書とを豊富に入れたものが大分はいっている。ヘルミニ はここでは決してやられていないにちがいなかった。カー ア・ツーア・ミューレンという作家の。フロレタリア童話の テンごしに庭の木が見おろされた。読んだり書いたりが好絵入り本なそもはいっている。エルンスト・トルラーその き勝手にできるという意味での質素、清潔、便利がそこに他のドラマもはいっている。ドイツからはゲォルゲ・グロ スの新画集もはいってきた。それからケーテ・コルヴィッ あった。 マルクス主義芸術会をどうするかということで沢田は彼ッという、これは女の画家だが、それのすばらしい画集が はいってきた。もっともマルクス主義者ではないから、小 の意見を話した。研究研究とだけでは仕方があるまいでは : ロシャ ないかと彼はいった。創作と運動とに結びつくのでなけれ・フルジョア的な暗さからまぬがれてはいないが : ば、理論的研究は解釈論ですんでしまうだろう。大学の社ものもさかんにドイツ訳されてはいっている。おれたちの 会文学研究会とも、大学外のプロレタリア文学団体とも、会にロシャ語をやるのがいないのは残念だが、これも外国 語学校や早稲田大学の方で見つかるはずだ。それまではド 築地小劇場そのほかの急進小劇団とも、美術の方の新しい ィッ訳からの重訳も大事だろう。君なんかも少しゃれ。医 グルー。フともつながりをつくって行かねばならぬだろう。 おいおいには『無産者新聞』にも文学よみものを提供する科の伊能が、レーニンの序文つきの『クーゲルマンへの手 ようにしたい。佐伯がいなくなって手がないのだから、こ紙』をドイツ訳からやったはずだ。これは佐伯の名でもう れからは安吉にももうすこし身を入れてやってもらいたいまもなく出る : ものだがどうだ ? 「何で、また、伊能で出さないんだネ ? 」と安吉は訊い 」 0 「むろん、それはやるよ。」と安吉は請けあった。 それから童話や少年文学の方にも目をむける必要がある「何でだかネ : : : まア、佐伯の方がポビュラーだからだろ だろう。ドイツへんでは、表現派よりもっと新しくて堅実う。医科の連中の、くせでもあるんだネ。」 な動きが表に出てきたという話だ。そのへんのことは館が さっきの老女がそこへ茶の盆を運んできた。安吉も沢田 知っている。館はこのごろドイツ本の輸入をやりはじめも茶碗を口へもって行った。「つまりあの程度のことで、 た。商売だからには何でも扱うが、館本人としては芸術・連中はポ。ヒュラーだなんてことを受けとってるのだナ : はしはさ ちやわん のう
「ルテーツィア」だののなかから、社会主義、共産主義、た。高等学校へはいってはじめてドイツ語を習ったと おそ 革命的人間主義に利用されそうな文章を引きぬいて、それき、安吉はそれを木村から教わった。安吉が二年になった くさり を鎖のようにくつつけているのに過ぎなかった。鎖が錆びとき、木村はドイツ紹学に出かけて行った。そのあいだに て、ぎちぎち鳴るような気さえしても彼は構わなかった。安吉は二度落第して三年生になった。そこへ足かけ五年目 詩は「シュレジャの織ェ」一つにしか触れなかった。論文の安吉のクラスへ留学から帰った木村がまたドイツ語をや はドイツ語で書かねばならなかったから、彼はできるかぎりにくることになった。木村は安吉を覚えていて、最初の しものだけれど、君 り地の文章を短くした。間接話法はいっさい使わぬことに時間に、「知った人にまた会うのはい、 うれ して全部直接話法にした。そうでなければ 引用部分のの場合は、「また会えて嬉しい』ともちょっと言いにくい 文章と地の文の文章とのひどい違いが、し 、くら目をつぶるネ : ・ : ・」といって笑った。それが皮肉でなくて、また会え つもりになってもそこから逃げきれるものでなかった。彼て嬉しいということのこの人らしい素直な言い方だという ちゅう は、手紙集二冊のなかの「当時の」註をこすく使った。 ことは安吉にも教室にもわかっていた。 「「ハン・フルク毎日新聞』何月何日号の記事」などを見てき「木村さん : : : 」と呼びかけて安吉が立ちどまった。そこ たように引用して、しかしそれが逆にいっそう論文をひどに木村がいた。 あきら 、ゾ。出かけるところで いものにするに違いないことはもう諦めることにして ほんとに偶然だナ。幸さきがいし 危かったナ : ただ二十単位以上受けておくということが問題だった。 「ほう : ・ : ・」といって木村が立ちどまった、「やってます 彼は二三の教授を頭において、出来いかんにかかわらず、 か ? 」 受けて答案さえ出せば必ず単位をくれるということに前も それが何だかは安吉によくわからなかった。新人会のこ って話をつけていた。その一つに木村教授があってその木とかとも思ったが安吉は用件を切りだした。 村に話がまだついていないのだった。今日こそはつかまえ「聴講届は出てるんです。」 ら るゾといま彼は急いでいた。 「試験 ? 僕の ? 」 ていさ、 その口調に「はてナ ? 」となった安吉に木村が無邪気に 安吉は、体裁わるい気持ちを踏みにじるようにして気楽 いや、一昨々日だ。 いった、「すんだがナ、おととい : 8 そうな学生の流れのあいだを縫って行った。大学へ来て三 年のうち、彼はまだ一度も木村の講義を聴いていなかつまずかったネ、それや : : : 」 こ 0
110 ことではもともとなかったが、それにしても彼は、文学部安吉は不安になってまわりを見廻してみた。そしてまだ ふんいき には文学部らしい雰囲気があり、それは文学にもまつわり眠ったままの学生がちらほら見えるのにいくらか安心し こ 0 つくふうのものであろうと考えていた。しかし彼が、舟木 に手を取るようにしてもらって聴講届を出し、届けた分を こうした彼は、酒焼けのした高木博士のドイツ語と、ド 順々にひと通り聴いてみた結果はあまりにも予想とかけ離ィッ人教師のドイツ文学史と、米丸教授の西洋美術史と以 れていた。順番最後に彼は倫理を聴いてみた。これがいち外は全然きかぬことにきめてしまった。そしてそれらもま ばんみじめであった。 だ一回か二回かずっしか聴いていなかった。ドイツ人教師 はしゃべるのを見ているのが楽しかったが、講義をずんず 建築工事の音のがんがん響けてくるなかで、ドアをあけ ん筆記してゆく能力が彼にはいつのまにかなくなってい てはいってきた作田博士をひと目みた瞬間安吉は心からが つかりした。ギリシャ人がほんとうに正しかったとすればた。また美術史のほうは、幻燈入りの説明には引かれるも しようやくぼん のの、上野の美術学校まで出かけねばならぬために何とい / はいっかそういうことを何かの抄訳本で読んでい おっくう こういう容貌の人によって講義される倫理というっても億劫であった。イギリス文科のほうには女の聴講生 というものもいたが、安吉たちのドイツ文科のほうにはそ ものはありえなかった。にこにこ顔の教授の顔は「ニコニ れんそう がすり コ絣」や雑誌『ニコニコ』を安吉に聯想させた。講義は教ういう女学生も一人もいなかった。 授の笑顔以上にひどかった。講義が進むにつれて安吉は眠 りに落ちて行った。 ある日安吉は一人でおそい朝飯で食った。それはその前 何かのはずみで彼ははっとして眼をさました。 の夜、久しぶりで歌をつくって夜更かししたからであっ : つまりこれが、乃木さんのいわゆる熟慮断行という 朝飯は相変らずうまくなかった。武四郎と清七との兄 奴ですね。これ : : : 」といって教授はばらりと扇子を開く ところであった。すると安吉に、白地に石版で、乃木大将弟、そこへ二階借りの安吉を合わせて三人、まったく女手 しょたい の見なれた「熟慮断行」の文字が浮き出ているのが見えなしの所帯でうまく飯の出来る道理はなかったが、しかし つじつま た。「わたしお祭に買ってきましたが : : : 」 それでも普通の場合は辻褄が合っていた。ただ最近になっ そして教授は、ほとんどぞっとするようなやり方でにつて、武四郎に嫁を貰おうという話がはじまり、まだきまっ こりと笑った。 たわけではなかったが、何となくよそ目にも武四郎のはき やっ こ 0 せんす こ 0 よふ
も腰を押しつけていた。取れる点数を一点でもよけいにか なし安吉は、考えごとをするような顔で・フルックナーの眼 せいで、それで総平均を少しでもつりあげることが彼にはの下の緑色の部分を眺めていた。顔の皮膚に緑色の部分が 絶対に必要だった。それに、必要に迫られてその気になつあるということは、それをみつけた瞬間から安吉には驚き だった。それはいかにも西洋人臭いものだった。前のウォ てしまえば、それは案外苦しいほどのことでもなかった。 くちよく しかしできたところもできないところも入れて、このう ルフがいかにも朴直なドイツ人らしい大男だったのにたい びつこ え彼としては何とも手を加えるところは見だせなかった。して、今の・フルックナーは、痩せているうえに跛でもあっ がたんという音がして、うしろのほうの席から蜂という学た。彼はずっと以前にやはりここで教えていて、途中一度 生が安吉のわきを通って教壇へ答案を持って行った。そしドイツへ帰り、ウォルフが何年かそのあとを勤めたあとで て・フルックナーにそれを渡すと、いきなりドイツ語でご A 第またウォルフと入れ替りに去年やってきたのであった。今 の細君は、前のとは別のだという話も安吉は聞いていた Wiedersehen! 2 といってドアのほうへ出て行った。 ばあ Auf Wiedersehen 一 Hm, hm ・ が、その細君というのがやはり痩せこけた顔のあかい婆さ 教壇のプルックナーがご んで、・フルックナーの退ける時分になると学校の門の前へ と答えるのと、安吉の隣りのやはり落第生の舟木が、 「いやなことをするなア : : : 」と呟くのとが安吉には同時迎えにきて、あるとき出てきたプルックナーが、彼女に帽 あいさっ にきこえた。峰の挨拶も異常なものだったが、温厚な舟木子を取って、„lchdanke" というのをすぐ傍で見ていて妙 に思ったことがあった。二人が連れだってーーー片方は跛で の噛んで吐き出すような呟きはあきらかに落第生のいらっ 帰って行く姿は、アメリカ人教師の若いウォーカー きを含んでいた。蜂はドイツ語のよくできる男だったが、 それ以外はすっかり注意点を取っていて、今の挨拶の言葉が、やはり門へ迎えにきた色の白い肥えた細君と連れだっ とうせ落第だから、て、・ハンドのついた緑色の外套をひらひらさせて大股で帰 も、「本来自分は卒業のはずなんだが、・ 先生よ、新学期にはまた逢いましよう。」という意味の洒って行くのといい対照をなしていた。しかし跛と後妻との こぎたな 落なのにちがいなかったからだった。 老人夫婦の後つきには、小汚らしいながらにあるあわれさ があった。もはやそれは、西洋人でも人でもない「この 答案を出すものがだんだんふえていったが安吉はねばっ ていた。答案を出した生徒は、数がある程度に達したので世のもの」だった。あるどしゃ降りの日に、かったんこか もう外へは出て行かず、音のあまりしなくなったストーヴったんこと急いでやってきた・フルックナーのズボンが、片 のまわりへ集まって小声でおしやべりを始めていた。仕方方だけひどくハネをあげているのをみつけて以来、・フルツ っふや しゃ おおまた
408 締った。のちには、普通の自由主義者に対してもこの法規が適一田辺のいちばん下の弟ここでは片上伸の弟の竹内仁。阿部 用されたりした。 次郎の養主義、人格主義的な考えかたに対して鋭い批判を投 三一新人会東京帝大内にあった社会主義生団体で、赤松克麿、 げかけ、いわゆる「人格工義」論争が行なわれた。 宮崎龍介らが中心。 セッルメント Settlerne ・ヨ ( 英 ) スラム街などの実体を調 一一三カデット Kadett ( ロシア語 ) 戸シア立憲民主党の略称。 査し、その生活向上のため、授産場、託児所、教育などの社会 三一一メンシエヴィキ Mensheviki ( ロシア語 ) ・フレ ( 事業を行なうこと。社会的にめざめた学生、知識人が実践の場 中心となり、過激派と異なり、合法主義、改良亠義を唱えた。 としてこの種の活動をよく行なった。 一一三エス・エル C ・ P(). R) ( ロシア語 ) ロシア社会革命党。一契万世一系皇室の血統が連綿として純粋にいつまでもつづい 三三蒼い馬アナーキストの年をエ人公としたロー・フシソの小 ていること。戦前までの歴史では、よくこのように教えた。 説。この当時には、青野季吉の翻訳があった。 一契眥よんだ本この一句は、藤村の「藤村詩集」 ( 「若菜集」「一 三 : アルカイック archaique ( フランス語 ) 占風で和拙なさま 葉舟一「夏草」「落梅集」の四詩集を合わせたもの ) に付された 三五 Aufstand ( ドイツ語 ) 暴動・蜂起の意。一一一六ページの Aus 序文。「つひに新しき詩歌のときは米りぬ」ではじまる。 一七一ヒだとか : stand ( ドイツ語 ) は、ストライキの意。 ヒ ( 妃 ) 、ヒン ( 嬪 ) 、ニをギョ ( 御 ) 、チュ 一一穴築地小劇場小山内董・土方与志らが中心となり、大正十三 ウグウ ( 中宮 ) 、テンジ ( 典侍 ) 、ツポネ ( 局 ) 。いずれも宮中 年、東京築地につくった劇場。当時、若いインテリ層を多く吸 にあって、天皇の側近く仕えるゃたち。 収し、新劇運動の一大拠点となった。 一三七生社楠木正成の「七たび生まれて君国に報いん」よりき 一三一ムンク Edvard Munch ( 1863 ~ 1944 ) ノルウェーの画家ぐ た語。左派の新人会と対立した国家主義の学生団体。 版画もよくした。代表作「叫び」「思春期」「渚にての踊り」な一八六ォルガナイザー Organizer ( 英語 ) 未組織の人々のなかに い J か・り 1 も - っカカし , ( 、るように生の節れ、生の不安を追求、孤独 入って組織する人。「オルグ」する。 や別離を描いた。 一九三 Vulgarisierung ( ドイツ語 ) 卑俗的になること。 一ティアレクティッシャー 一三一クリスチアニアノルウェーの首都オスローの旧称。 : : : ドイツ語の、弁証法的唯物法 西一土くれこれは、中野重治・堀辰雄・窪川鶴次郎・西沢隆一一 と唯物史観し らが出していた同人雑誌「驢馬」をさす。「驢馬」のうしろで一毖幼年学校陸軍幼年学校。少年時代より、のちには職業軍人 彼らを見守っていたのが室生犀星である。 になろうとして入ってくる学校。ここを卒業して陸軍士官学校 一噐 Zylinderhu 【・ ( ドイツ語 ) 礼装用のシルクハットのこと。 にすすむ。 一噐新華族明治維新後、特別の功によって新たに華族のなかに 8 一一頼子のことが : ・ : ・突然に「頼子」のことが出てくる。この 加えられた人々。公卿や大名出身以外の人々が新華族になった。 前後の事情はくわしく説明されていない。「頼子」については、 に・・う -1
130 調子でそれをいっていた。鶴来なんかに話したら何という トンと降りて行ってしまった。今では安吉は、階段の昇り だろう ? 安吉の存在の仕方そのものをおかしがるだろ降りに、トントンと板を踏みながら、平の手をいろいろに しーし う。深江なんかはどんなに苦笑いするだろう ? して壁を連打して音をきくのを楽しみにしている。誰も文 あのマルクス主義芸術会の連中は、そこの一人である安吉句はいわない。 などとちがって、ハウゼンシュタインのなかのエロチック 「おい ' 片ロ・ : : こと太田は上り口へ顔を出すなり安吉を な画などを、ただの説明図としてだけ見ているのだろう見つけていった。 か ? 鉱物学教科書のなかの、方解石の割れ目模型図か何「何だ ? 」 かのように見ているのだろうか ? 「君、あした午後、暇ないか ? 」 そこへまたトントンと音がして、「あ、村山が戻ったの 「あした午後か ? 新人会の新入生歓迎会だけだナ。」 ではないナ : : : 」と思ったところへ太田が顔を出した。こ 「あれア三時からだろう ? じや一つ頼まれてくれんか この階段のトントンという音が安吉には気に入っている。 ナ ? : : : 」といって太田はにやりとした。 わんきよく 足で踏んで、階段の板がみじんも彎曲しないという感じが「何だい ? 頼まれるよ。」 ちゃんとくる。ある日安吉がためしに、階段を昇りながら「家庭教師だよ。いや、出かけなくっていいんだ。むこう 横の壁を叩いてみた。するとチン : : : という音でそれが鳴 からくるんだよ。追分の合宿へくるんだ。一時から二時ま った。それは、壁自身の音ではありえなかったから、壁とで一時間、代りに見てくれないか ? 」 階段とで囲まれた立体のなかの空気の筒と、この家の構「だけど何をやるんだい ? 」 造、材木の組合せとからくるものにちがいなかったが、な「ドイツ語だ。」 にしろ、焼物を叩いたときのような音はーー・それが壁で鳴「ドイツ語か ? それやちょっと : : : 」 しかし安吉は、ドイツ語というのでたじたじとなったよ ることでーー東京生活のなかで安吉に思いもかけぬ拾いも のだった。 りも、太田が家庭教師などやっていることがよくわからな かった。太田と安吉とは同じ高等学校からきていた。高等 「ほら : : : 」といって安吉はある日太田に叩いてみせた。 学校で太田はテニスの選手をしていた。学校の成績もよ 太田はここでいちばんそんなことに興味を持っている。 く、明るい性質で腹をたてたりすることがなかったが、あ 「ほんとだネ : ・ : こ らんかん 太田は認めて、しかし壁にはさわろうともしないでトンる日太田の写真帳を見ていて、彼の家が欄干をめぐらし たた ひま
8 らっとやってみた。よく辞書にある、頁の片隅が重なって 折れてるのがない。よほどよく使っている。本当の意味で ( やはり忘れていた。あとであの辞典が何であすこにあっ 愛用してるのだろう。 たかおれは考えてみたのだった。印刷関係の組合だろう ? その翌々日集まりがあった。使いに行ったせいかおれは製本の方のやつが、ちょろりと一部持ってぎたのだったの 傍聴を許された。それは自然にそうなったという形でそうじゃよ、 オしか ? それを考えたのだったが、それにしても、 なった。問題は例の「注入」だった。そのうち議論が対立ほかのでなく植物辞典を持ってきたというのはやはり何か の形になった。例の、「階級的政治意識はただ外部からのだろう。それが、「植物」、草木の好きな奴だったにはまち み、すなわち経済闘争の埓外から、労働者の雇主にたいするがいない 関係の範囲外からのみ労働者にもたらすことができる。」 が争点になり、どうしたのか、いつも落ちついた田中がヘ デッキの女 へんば くろやなぎ んに偏頗な主張をした。ちょいと見には、それは、「範囲畔柳が知らせてくれて横浜へ村野さんを見送りに行っ 外」というのは革命的インテリゲンチャということで、革た。村野さんには三年来はがき一本書いていない。むろん たす 命的インテリゲンチャというのはすなわち新人会の大学生訪ねてはいない。高等学校では、特に二度目の落第のとき のことだという風にとれるものだった。それは反され非常に世話になった。村野さんが四十六七にもなってなぜ た。反駁は誰にも正しいと見られた。しかし田中は、ほん初めてドイツへ行くことになったのか畔柳も書いてきてい とうにどうしたのかもう一度頑ばった。榎町の青年と田中よい。病身ということもあっただろう。しかしドイツ語を とはちょうど向きあって坐ってもいた。 やると、学習院の教授になって、そろそろ五十にもなっ 榎町の青年がそのとき坐り直した。仕事着のズボンで正てそれでも一度ドイツへ行ってきたいにはきたいのらし 式に坐ってーー彼は胴長らしく、坐り直すとにわかに大き 横浜から立つのでもあり、文部省留学生ではあって かんだか くなって映った。 い震える声を出した、「われわれ日本の労働青年は、今日しかしその気になったには、知らせが畔柳からきたという それくらいのことは十二分に知っています。われわれは一 ことが確かに関係していただろう。畔柳のすすめることな し J 九〇二年以前に生きているのではありません。」 ら、きいて間違いないからいちおう聞くというが たかすぎしんさく 高杉晋作といった感じだったが座がちょっと白けた。 いって事実は一度か二度かだがーーーおれのなかに出来てい らちがい がん
182 んでいた。しかしもう一度、彼はそれを、枕の上に顎をの鶴来たちとの長い生活からいっても、何かが出てきてそれ せてくりかえして読んだ。 で驚くということは理窟としてありえぬはずだった。また : ついてはこの手紙つき次第、これを持参して辰野隆どんな仕事にも安吉としては直ちに応じるべきであり、今 吉氏のところへ行って詳しく相談してくれないか ? 『第すぐその能力がなければ、それを今すぐとから養う仕事に 二インタナショナルの崩壊』もはじめのところは僕が訳しかれらは取りかかるべきだった。それに翻訳ということ てある。原稿は母にきいてくれればわかる。君に渡すようは、ドイツ訳からの重訳なだけにかえって楽なところがあ に、母にはこの手紙と前後して別に書いておいた。訳語そるかも知れなかった。 の他については、辰野氏はもちろんだが、太田にも相談す「しかしできるだろうか ? 金にもなるが : ・ : こ るのがいいだろうと思う。僕らの事件もまもなく片づくら安吉の頭にフリ 1 ダ・ルビナーというドイツ人の名が浮 しい形勢でもあるが、そのことの姆礒にかかわらずこの翻かんできた。よくも知らないが、知らないままで安吉はそ 訳のことは君に頼む。『第二』の方は君の名で発表してもれを女だと思って考えている。このフリーダ・ルビナ】は らいたい。 専門のようにしてレ 1 ニンをドイツ訳している。訳者の名 ども なお別になるが、辰野氏はひどい吃りだから、最初の打の出ていないのでも、彼女 ( ? ) の手になるのをずいぶん 合せのとき、君の方でそれを知っていて注意する必要があ安吉たちが使っているのでないかと思う。どんな女なのだ きつおんしゃ ろう ? 若くもない女のようにも思われるが : るだろう。一般に吃音者にあることだが、特に辰野氏は、 吃るため、自分の言葉が相手に通じかねる場合、押しき 0 検閲の印のある蜥はがきをーーどういうわけか、そん て徹底するまで説明しようとしないで、わが不徳の至すとな仕組みになってるからのことにはちがいないが、刑務所 くせ ころという風にして引っこめてしまう癖がある。氏の美点の佐伯からの手紙はすべて封緘はがきだった。ーーー寝床か でもあるが弱点でもあるだろう。言わでものことでもない らいだすようにして、机の引出しへ、一種の恋文かのよ ので、後進として辰野氏に失礼になるかも知れぬが、君のうな調子で入れて安吉はスウィッチを切った。そして「す ためにも一言しておく : ・ : こ ぐ眠れぬかも知れんナ : : : 」と思いながら目をつぶった。 運命のこういう動き方が、全く思いもかけぬものだった寝入るまでに雲のようにいろいろのことが思いうかんでく といえば安吉として嘘になる点があった。自分に飛びあがるにちがいない : あお 「それにしても、『蒼い馬』の訳者に会うのか ? 『蒼い馬』 りなところのあることは安吉自身たえず知ってきていた。 うそ りくっ ただ