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検索対象: 現代日本の文学 19 中野重治集
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1. 現代日本の文学 19 中野重治集

旗第少ツ罩从婦旗戦 上野自治会館でのプロレタリア文化団体共催の「『戦新婚時代の重治夫妻。 旗』のタベ」で、警官監視のもとで「『戦旗』につい 東京・田端の自宅で ( 昭和 6 年 7 月 ) ( 昭和 5 年 ) ての希望」と題して講演 ゆずらざるをえないほどであった。何よりも人手が 欲しい農業を営んでいながら、婿養子夫婦は袞に、 孫たちは中学校から高等学校へ、ということであれ いうことアな ば、「これで、百姓一方でやれれや、 いんしやけれど。」というお祖父さんの愚痴も無理か らぬことで、そうとすれば、中野家の行く末に関し て祖父と父との間に暗黙の ~ 曷藤はあったはすだが、 やがて中野重治の眼には、二人は同型の敬愛すべき 存在として見えてくる。その結びつきを象徴するの が、『むらぎも』の冒頭の部分に出てくる例の高麗人 形である。そしてその父親を通して中野重治が得た ものに、もナ一つ、朝鮮への感覚があげられなけれ ばならない。伊藤博文がハルピンで朝鮮の若者に射 殺されたこと、日韓合併が成就したこと、それらの 政治的事件を少年は学校で教えられる。しかし少年 別な姿の朝鮮を知る機会を持っていた。 一時帰 宅していた父親の口から、日韓合併の実態と、植民 地における日本人の荒廃ぶりを、少年は知る。それ と同時に、朝鮮の土地を求めて村を出てゆく小作人 がふえたため、「頭分」の家が窮地に追いこまれつつ あるらしいことも、お祖母さんたちの話から察して 。直に自分の生活と結びつき、響いてくる朝鮮、 々とでもそれを知「ていたことが、多分中野重治 423

2. 現代日本の文学 19 中野重治集

0 散歩中の重治夫妻銀座にて ( 昭和 12 年頃 ) 伊豆大島にて後列右端が重治 ( 昭和 11 年 11 月 ) あげてきていた室生犀星の知遇を得ることになった。 大正十三年の四月、東大文学部独文科に入学した あて 際、中野重治は佐藤春夫宛の紹介状を室生犀星から 貰って行ったようである。『歌のわかれ』の片ロ安 吉が訪ねた藤堂高雄とは、佐藤春夫のことであろ う。とすれば、文字通りの「歌のわかれ」以前に、かれ は佐藤春夫的なノンシャランな芸術態度との別れを 体験したはすで、その上で、「彼は袖を振るようにし てうつむいて急ぎながら、なんとなくこれで短歌と もお別れだという気がしてきてならなかった。短歌 とのお別れということは、このさい彼には短歌的な ものとの別れということでもあった。 ( 略 ) 彼は兇暴 なものに立ちむかってゆきたいといはじめていた。」 という、「歌のわかれ」の自覚に達したのである ただし、自伝的事実との関係で言えば、この最後 の「兇暴なもの」を間ちにプロレタリア解放運動と 結びつけるのは、少しばかり無理がある。大学入学 おおまちとく の翌年の大正十四年の一月に中野重治は、大間知篤 しんの・ 三、中井精一、中平解、内方新之丞、深田久弥とい 「た人たちと、同人誌「像」を創刊している。『中 野重治詩集』でほ、「浦島太郎」から「浪」までの作品 が、「裸像」期のもので、ある異性への恋情をモチー フとするそれらの詩篇の中に、「兇暴なもの」の予感 ぞう 427

3. 現代日本の文学 19 中野重治集

こ、 7 さ 「おんさんはあちこちと釣 中野家の横を流れる小 って歩く。良平の家の横手の川へもくる」と「梨の花」 う一句を刻んだ、妹の中野鈴子さんの碑がひっそりと 立っている。中野鈴子さんは昭和三十三年にここで亡 くなったのである。たしかにここが中野さんの生家で あることに間違いはないのに、わたしにはまだ、何か 狐につままれたような釈然としない気持がある。糸の 切れた凧のような頼りない気持で、屋敷のまわりをぶ らぶら歩いていると、前の路地の角で一人のお百姓に 出くわした。声をかけて立話しする。話しているうち に、その人は、中野さんの地所の管理を委されている 中島藤作さんという人であることがわかる。中島さん の説明によると、そこの屋敷うちには以前大きな家と 立派な土蔵が二棟あったが、福井地震で完全につぶれ てしまった、そしていまの家は鈴子さんが建てた仮り 住いたということである。また中野さんの家はこの一 本田でもいちばん古いといっていい家柄であること、 この部落の戸数は四十あまりで、中野さんの家と、むか し当主が貴族院議員をしていた家 ( つまり『梨の花』 の林家である ) を除いた外はみな農家であること、こ の部落にはだから店屋など一軒もないこと、買物には みな丸岡に行くこと、中野重治さんも子供の頃はそこ のあぜ道を通ってよく酒を買いにやらされたものだと いうことなどを中島藤作さんは話してくれた。最後に、 裏の欅の木があんまり大きくなりすぎて、陽当りが悪

4. 現代日本の文学 19 中野重治集

右魚を料理する世田谷の自 宅にて ( 昭和三十年 ) 上苦難の思い出がある豊多摩 刑務所を背景に右から立野信 之、重治、左端は壺井繁治 事態がそういうものであった以上、昭和三年にプロ 芸が前芸と合同したということは、けつきよく中野重 治にしてみれば、前芸派の党従属的発想体質を背負い 込まされたのと、おなじことでしかなかった。こ、つし て起ったのが、蔵原惟人や林房雄 ( 旧前芸派 ) と中野 重治 ( 旧プロ芸派 ) との間の芸術大衆化論争であった が、私の知るかぎりで言えば、中野重治が芸術運動と 党との関係を容認する立場を明らかにしたのは、昭和 四年四月の「我々は前進しよう」 ( 戦旗 ) が最初であっ た。それ以前の中野重治は、頑固に、芸術運動を党 ( 支 持 ) 員獲得の下部組織とする考え方を拒否し、自ら党 という言葉を用いることさえ避けている。その意味で 私たちは、若き日の中野重治こそ最も過激な政治闘争 至上主義者であったというふうな定説を、今、改める 必要があろう。 ただ中野重治のばあい、かれが党従属的発想を頑固 に拒んできた理由として、ほとんどア・プリオリにプ ロレタリアートを普遍的 ( 価値的 ) 存在と見なす観念を 抱き、そのプロレタリアー トに直接するところに芸術 の感動が得られると考えていた点が、指摘されねばな らない。そのうえ中野重治のプロレタリアート像は、 深く農村に根ざしていた。農民はただ近代的な都市工 場労働者と結びつくことによってのみ革命的存在とな 438

5. 現代日本の文学 19 中野重治集

み方は全身的であった。そこに室生犀星と強く触れあ ほどくりかえしたりするよ、つな日々がつつき、ひとか うものかあったにちかいない。 どの文学少年になったわけであった。」 ( 「濫読のあと」 ) なっか さらに聖書の「雅歌」の一節に感動したこと、佐藤中野さんは、高校生として過した金沢のことを懐し く回想した文章はほとんど書いていない。四高出身の 春夫の『殉情詩集』、永井荷風の『珊瑚集』、啄木、牧水、 白秋、高村光大郎、ニーチェの『ツアラッストラかく文学者のほとんどが、一種の郷愁に似た気持をもって 語りき』、ホイットマンを読み、茂吉の『童馬漫語』を金沢のことを書くのが常なのにくらべると、中野さん そっけ 「身うちのしびれるような思いで」読んだと中野さんの金沢への対し方はいくらか素気ないほどである。も は書いている。そして、最後に室生犀星だ。「室生犀星ちろん、『歌のわかれ』は金沢における青春を抒情した を知ったのもそのころである。『愛の詩集』、『第二愛の美しい小説である。わたしなども、あの作品を通して、 詩集』、『抒情小曲集』などは、私にとって壮年期老年香林坊などという町の名を覚え、実地に見たことのな い金沢郊外の風景などのイメージをしたたか頭に墅き 期に至るまでときどきにくり返し読まれるものだろ、フ こまれたものだ。しかし、この小説以外に中野さんが A 」田じ、つ」 中野さんが室生犀星その人と知り合うのは、大正十金沢について直接書いたものは、「金沢の食いもの」と 二年の秋で、関東大震災ののち犀星が東京を引きあげ いう昭和十八年に書かれた小文くらいしかわたしは知 て郷里金沢に住みつくことになった直後である。このらない 犀星との出会いは、中野さんの文学経歴にとって決定「金沢の思い出の一つはそこの食いものである。金沢 へ行くまでの私は御馳走らしいものを食っていなかっ 的な意味をもったように田 5 われる。旧制高校に入って、 ざいしょ し た。私の在所へんは土地の痩せたところではない。 濫読がはしまるのは何も中野さんひとりに限ったこと ではない。 しかし、濫読家の高校生の誰もが、自ら詩かし百姓だから、一般に御馳走らしいものを食わす、 いたりはしない。高校生の中野調理にむくばりして飯・を食うということ力ない。それ を圭日いたり、小説を圭日 さんは、勉強などほっほりだして、日夜めちやめちゃが金沢へ行って、いろいろと手をかけてうまくした食 いものを日常にはじめて食ったのである」 な監読に耽っていたために、二度も落第したのであろ て中野さんは、金沢ではしめて味を知った食い うが、それだけに、短歌や詩や小説や芸術への打ちこ続い

6. 現代日本の文学 19 中野重治集

) 重第ル〈ム、 著者近影昭和 45 年 11 月 23 日 評伝的解説 とりまく人々 中野重治は明治三十五年一月二十五日、福 いつばんてん 井県坂井郡村一本田に生れた。父中野藤 作、母とらの次男で、十歳年上の兄耕一がい 父の藤作は、もとおなし村の青池太左衛門 という人の次男として生れ、中野治兵衛、み わの間に生れた娘とらと結婚、中野家の養子 となった人である。この人は初め福井裁判所 の雇となり、のち大蔵省煙草専売局に勤めた。 そんなわけで中野重治は、煙草専売局秦野煙 草収納所という父の勤務先の関係により、し ばらく父母と三人で暮したが、四歳のとき妹 いちだ 鈴子 ( 後に、一田アキという筆名でプロレタ リア詩を発表した ) が生れ、かっ父親の勤務れ 先が鹿児島に変ったため、一本田に帰り、祖 亀井秀雄

7. 現代日本の文学 19 中野重治集

ト系の文学者を除名、それに代って中野重治たちのマ 中野重治は金沢時代に室生犀星の知遇を得たのであ ル芸が参加、かれは中央委員に選ばれ、プロ連も日本 たが、かれを通して窪川鶴次郎が紹介され、次に窪 プロレタリア芸術連盟 ( プロ芸 ) と改称される、といっ 川鶴次郎が当時まだ第四高等学校の学生であった太田 た具合に、すでにかれは慌しい芸術運動の渦中に飛び 辰夫を紹介した。宮木喜久雄は紹介状なしで、いきな り犀星の家を訪ねてきたという。西沢隆二は佐藤春夫込んでいたのであった。そうした中野重治の動きが「驢 馬」の休刊と無関係でなかったとすれば、ちょうどこ の、堀辰雄は芥川龍之介の紹介で、犀星を訪ねてきた。 のときの中野重治は、「裸像」解散当時の大間知篤三と こうして室生犀星の所に集った青年たちの出した雑誌 が、驢馬」であった。これは昭和三年五月の第十一一号おなし立場に立っていたことになる。 ところで昭和二年一月の「文藝春秋」で、芥川龍之 まで続き、その末期には佐多稲子 ( 田島いね子 ) も参 加したが、実はこの雑誌は昭和一一年三月の第十号が出介は、最近の批評家たちはいわゆるプルジョア作家に てから、約一年間の休刊状態に入「ている。そして中社会意識を持てと主張しているが、むしろ自分はプロ レタリア作家も詩的精神を持ってもらいたいと考えて 野重治の「驢馬」における活動も、実質的にはその第 いる、そして自分の希望が無駄でなかった証拠に、最 十号までで終っている。かれの『詩集』でいえば、「煙 草屋」から「彼が書き残した言葉」までが「驢馬」時近の中野重治の詩など、「どこか今迄に類少い、生ぬき の美を具えて居る。」 ( 文芸雑談 ) と語っていた。そう 代の作品で、「北見の海岸」「夜明け前のさよなら」「歌」 いう新しい希望を中野重治に繋いでいた芥川龍之介に 「機関車」などの代表作をたどってゆくならば、まさ しくかれが「兇暴なもの」へ立ち向いはしめていた様とって、当時の中野重治の激しい生き方には、危惧を によじっ 覚えずにはいられなかったのであろ、つ。そこでかれは 子が、如実に理解できるであろう。 「驢馬」の同人 ( 多分、堀辰雄 ) を通じて中野重治に 中野重治が第十号で実質的に「驢馬」から手を引い たのは、一つには、この昭和一一年の三月に東大を卒業会いたがり、さて、「君が、文学を止めるとかやらんと かいってるってのはあれや本当ですか ? 」といった会 したことが原因であったかもしれない。しかしそれよ り数ヶ月前、大正十五年の十一月に日本プロレタリア話が、二人の間で交されることになった。 これは此細なことのようであるが、『むらぎも』の重 文芸連盟 ( プロ連 ) の第二回大会が開かれ、アナーキス

8. 現代日本の文学 19 中野重治集

メ■■ に治 ) 要な場面に関することであるからもう少しふれておく 隊重 と、現在の何人かの中野重治研究家の間では、この対 和面の時期は、中野重治が卒業した直後の昭和二年四月 隊四 、ら日 立ロ から、芥川龍之介が自殺した昭和二年七月までの何れ カ かの日、と推定されている。もちろん『むらぎも』は、 これまでふれてきた中野重治の青春をほほ年間に圧 に麦 立ロ′イ 縮した作品であって、事実と喰い違いがあっても何ら ( てる 不思議はない。けれども私自身は、やはり『むらぎも』 しえ と迎 に描かれたごとく、芥川龍之介との対面は昭和二年三 一等戦月以前と考えたい。その理由の一つは、芥川龍之介の けねん 懸念のなかには当然、卒業後の中野重治の身のふり方 に関する年長者としての配慮が働いていた、と思われ をそ るからである。が、そればかりでなく、すでにプロ芸 召屯 に参加する以前の大正十五年九月と、昭和二年一月の 帝国大学新聞に中野重治は、かれの非寛容宣言とも言 うべき「一つの現象」「『検察官』の上演に関連して」な た田 ) え塩 どの文章を発表していたからで、それが芥川龍之介の 迎東 を郡耳に入らなかったとは考えられない 局県 いずれにせよ中野重治は、この後、芸術運動に全身 「も県 的に飛び込み、分裂を体験する。最初の分裂は、この 昭和一一年六月のことで、プロ芸拡大中央委員会は「文 戦長 芸戦線」同人十五名の除名を決議し、逆に除名された 平し 太属輦、葉山嘉樹、村山、田口憲一、林房雄、

9. 現代日本の文学 19 中野重治集

ふるさと 城の見える故郷 佐々木基一 中野重治文学紀行 朝曲、 謇 7 夏の旅 こんどの旅の主な目的は、中野重治 たカばこ いつばん さんの生まれ故郷、福井県高椋村一本 田を訪ねることにあった。その高椋村 とい、つところカどんなところかわ たしはほとんど知らない。たぶん、そ こは島崎藤村における馬籠、石川啄木 家 生 における渋民村、長塚節における鬼怒 川べりの岡田村、室生犀星における金 重 沢のように、中野重治といえばすぐそ 本の土地のイメージが思いうかんでくる ような、そういう濃厚密接な関係を中 岡野文学とのあいだにもっている場所で はないだろう。もちろん、中野さんの 郡 井 自伝小説『梨の花』には、この村で暮 県 した幼年時代のことが詳しく書かれて 井 いる。しかしそのために高椋村が文学 福 的名所になるようなことはおそらくな れ いだろうと思う。このト説はすしも 埋 そういうふうにはこの村のことを書 雪 ていないのだ。そこにこの小説の微妙 3 てん

10. 現代日本の文学 19 中野重治集

くなったので伐ってくれないかと隣りの家で言ってい るが、近いうち中野さんがやってくるというので、相 垣談しなければならない と老人とい、つにはまだカクシ 生 ヤクとした、中野さんの小説などもよく読んでいるら の 家しいお百姓の中島藤作さんが言った。 中 この樹についてもわたしは錯覚していた。このへん 手の部落の家がみな家の周囲や庭に樹を植えるのは、風 右と雪を防ぐためだとばかりわたしは考えていた。 橋かにそういう目的もあるだろうが、本当は、これらの 氏部落には地籍内に山がないので、そのためにどの家も 一自分の庭に樹を植えるのだということを、中野さんが つまり、樹はそれぞれの家 木何かの小説に書いていた。 々 にとって大切な財産なのである。 佐 る , 刀 , 刀た 中島藤作さんと別れて、屋敷の角の小 , ー す橋のところに出てみる。そこから向うは一面の田圃で たある。八月の終りなのにもうぼつはっ稲刈りがはしま 理っている。稲架のための棒を、榛の木にしばりつける 地 仕事をしている人の姿が見える。その向うに丸岡の町 ち が西陽をうけて横たわっている。霞ヶ城ははとんど正 【供面である。その名の通り、天守は夏霞の中にうっすらと 子溶けこんでいる。 村 中野さんは明治三十五年 ( 一九〇一 l) ここで生まれ、 満四歳の頃、父の鹿児島煙草収納所への転勤を機に、そ はん