をうげぎいく 沿いの敷石を踏みけって渡った。 吉のいう Mandarin 風な、象牙細工か焼物かのような表 「もしかしたら」とそれが安吉の頭に思いうかんだ、「語面に出た光沢がない。それは、その言葉を使うのがはばか 学の話を聞いてたせいかも知れないナ。そのせいで、平井られる気がするが、見す・ほらしいという言であらわされ にたいする同情のようなものがおれの中に出来てたかも知るものだった。女は痩せてもいた。 れない けれども、何ということだろうーそしてあれがあのて そのとき「ちょっと : : : 」といって吉川が安吉の袖を控っ子だとして、何でそれを吉川がーー吉川なんかがーーー知 えるようにした。 っているのだろう ? 小 説のモデルという意味にちがいな いが、「上京してきたんだナ。」というのは、てつ子が京都 「ほら : : : 」と吉川が、突きだした顎のさきのロでいってに住んでいて、吉川たちがそこで知合ってやってきたとい そっちへその顎を振った、「いま渡るあの女、あれ、てつうことを意味してるのだろうか ? あの名高い作品の女主 ちゃんですよ。」 人公、小説でてつ子という名になっているその女の本物 「てっちゃん ? 」 が、いま藍染橋停留所の電車道を渡っていて、それを女と 「ほら、「芽生え』の女主人公ですよ。てっちゃん : : : 上反対の方向へ渡りながら、安吉が吉川から教えられてふり 何にしてもて 返っている : : : 本名は何というのだろう ? 京してきたんだナ。」 ト一ろ・し」っ ひとごと っ子と吉川との振合いは唐突にすぎる。 しまいは独り言のようにいったが女は安吉にもすぐわか った。二人と反対の方に渡ろうとしている一団、その最後知合いといっても浅い程度のものだったのか、吉川は女 のところにくつついて、女は彼女一人だけで、下駄で渡っに言葉をかけようとはしなかった。ひろい善光寺坂をの・ほ ている。黄色っ・ほく・ほけたタ方の薄日に射されて、女は三りながら吉川は話したが、それは、それを知らなかったの うかっ 十ばかりに見え、羽織の両袖を胸のところで抱くようにしが安吉の迂濶とも思えぬほど安吉には意外な物語だった。 どんな因縁からだったか、吉川が三高で社会科学研究会 て、あお黄色い顔をして銀眼鏡をかけている。遠目にも化 粧していないのがわかり、皮膚の色が貧しくやつれてるらへはいったころは、もう彼女は大学関係のグループの合宿 こり・ しいのが埃っ・ほくわかる。長い時間をかけて荒らされて女にいてその世話を引きうけていた。それは、清水町の合宿で の皮膚はあんな風になるのだ。同じ黄色っ・ほさでも、横浜の佐伯の母親のような位置でもあったが、彼女自身研究者 で見送った村野教授のものなどとは質がちがっている。安グループの一人でもあって、ポストは彼女の実践の場なの
うに思えてくる。「仕方ないじゃないか : : : 」という気が 正軒そのものが、今ではなくなってしまったかも知れない する。その匂いを外へ押して出したくなってくる・ おれたちは象のところへ行った。まだ大した人だかりは 「どうしてるんだネ ? 」というところを、「どうしてるん ですか ? 」という言葉がおれの口から出る。 していない。それでもみな感に入って眺めている。蜜柑を 「横浜よ。今日は皆さんとごいっしょに遊びにきたんで投げるものがある。鼻がとどかない。すると鼻で、蜜柑の す。皆さん、お元気 ? 」 向うの壁に息を吹きつけて、その返し風で蜜柑を手前へこ 前の「皆さん」が連れの男たちで、後の「皆さん」がろがらせ、そこで鼻で取ってロへほうりこむ。藁をくれる 『土くれ』の連中を指していただろう。「じゃ、また : : : 」と、鼻で束にして巻いて、両の肩にばさつばさっと打ちっ とおれたちは両方でいったが、住所を知らせあったわけでけて、いくらか柔らかくして鼻の下のロへほうりこむ。お わらし」と・こや もなく、それなりに受けとってのそれは自然な応対だつれたちが子供のとぎ、村の藁仕事小舎でやったのとすこし た。そういうものだ。「あれ、誰ですか ? 」と吉川が訊く。 も違わない。 おれは説明してきかせた。ところで不思議なことが起っ そのとき、気がついておれがはっとした。おれは顔をそ し子ーし た。吉川は、あの女とおれとのあいだに特殊な交渉か何かむけた。目をあいて見る。やはり見ていにくい。、 があったのだろうという。そうでないことをいってきかせひとは、あれが見ていられるのだろうか ? 目をそらせた けた ても、吉川には呑みこめぬらしい。無関係な人間のあいだ くなる方が、桁はずれに好色なのだろうか ? 鼻のつけ根 に生じる、人生の道づれというのとはちがった意味での淡の下で、象のロが、かわゆく、しかし女陰のように見え したくちびる い一つの友情。友情といっては言い過ぎになるほどの人生る。下脣が , ーーっまるところ下脣だろう。 ーー頂点を下 での触れあい。それを吉川は理解しないのらしい。おれは に三角につ・ほまって、二辺に拠まれて縦にロが開く。灰色 いやになった。そういう吉川の弱さが少しうとましくなっ の毛のない皮膚のあいだに、白味の勝ったうすあかい粘膜 た時になって、それでも吉川がやっといくらか呑みこんだ構造がひらかれる。ものを食うたびに、その構造が構造と らしくて辛うじておれは助かった。 して動く : それからおれたちは動物園にはいった。相かわらずの匂おれは吉川には話さなかった。それは、そうとは思わぬ いだ。これがおれには堪らない。ところがここでも不思議が、おれ自身の何か欠陥といったものにもとづくのかも知 なことが起った。あの堪らぬ匂いが、今日はわがもののよれぬ。 かろ にお わら みかん
206 めにむくむく動いている。それを少しも疑っていない。そるので、おれ自身は使わぬがその見当でごまかし的に聞い のことをこの日本女たちがまた疑っていない。おれがそれている。何の頭文字にあたるのだろうか ? 頭でいろいろ を疑ぐったところで、そんなものは完全に黙殺されて、自の組合せを考えてみても、・となるのはおれには見つ かみふぶき 動車隊は紙吹雪のなかを歓迎に歓迎ですすんで行く。事実からない。 その通りにしてすすんで行った。群衆はそれが電車道を曲宀ロ川は、おれとはちがった意味で合宿でのぶおとこだ。 あご はうたい がって見えなくなるまで見送っていた。そのことでかれらそれにからだが弱い。しよっちゅう首に繃帯を巻いて、顎 せき は事実として幸福らしかった。女給たちは後をも見ずに店をつき出してこほんこほん咳をしたりなどしている。いっ 店へ帰って行く。そのときまでおれも立って見ていたわけかおれに、「片ロ君は将来作家になるんですか ? 」と貳、 ・こっこ 0 事ー↓ / た。おれは「そうだ。」と答えた。「 いいなア : : : 何をやる か決まっていて。」と彼がいった。「君だって何かやるんだ ( 女給たちそのほかには、事実として幸福を一つ享けるとろう ? 」とおれがいった。「それやそうだけど。」と彼がい いうことがあった。選手団が去ったあと、彼女らは幸福に った、「何をやるかわからないんですよ。」 コ習、 0 、 されたものとして、いくらか豊富にされて店へ帰って行っ彼は気も弓し しつか吉川の寝てるところへ来て、これ た。おれはそうでなかった。おれは貧しげに、豊富にされも今年山口高等学校からきた渡辺が、何だか吉川にやれと ん ないで立っていた。これはつまらぬ。その対比が出るとい いって承知させようとしておそくまで頑ばっていた。「じ や、吉川君、やってくれますね ? 」「いや、やらないよ。 断わりますよ。」「どうしてですか ? 」「どうして ? : ・ : ・僕 だちょう 象と駝鳥 は厭やだよ。」「どうして厭ゃなんですか ? 」「どうして厭 昨夜吉川と二人で思いついて、今朝早く起きて上野公園やって : : : 厭やだから厭やですよ。」「理由なしに厭ゃなん に散歩に行った。吉川は今年大学へきたが、三高のときかですか ? 何か理由があるでしよう ? 」「それアあるさ。」 らやっていてまっすぐに新人会へはいってぎた一人だ。社「何です ? どういう理由です ? 」わぎで聞いていて歯が 会科学研究会のことをかれらはよく「アール・エス」とい ゆくなるような調子で二人はやっていたが、結局「かなわ 正確にそのことをいうのかどうか知らぬがほかにもんワ : : : 」といって吉川は承知させられたらしかった。朝 の公園は人影がまばらで、朝日のさすなかをおれたちはい 「・」をつかうものは大分ある。通用してしまってい
227 むらぎも でもあった。彼女の立場は、佐伯の母親や藤堂の妹よりも覚えていない。その作は、発表当時、嫌悪の念のまじった いんうつ いっそう進んでいたといえた。要するにそれは「吉川た陰鬱な形でいわば評判になったのだった。ロやかましい批 ちからいえば「階級意識」に結びつけられたものたった。 評家にもかえって口をつぐませるようなものがその作には そしてそれが、ほかならぬ「芽生え」のヘロインの「実あった。いったい世間には、文壇について大家だとか中堅だ 物」の姿なのだった。生きた「実物」としての「芽生え」とかいう世評のようなものがあり、格づけの目安はいろい のヘロイン ろだったから誰々と決められるわけではなかったが、その 身まじゃく たしかに吉川は、「芽生え」のヘロインの「実物」とい なかで二人か三人かほどの人間が、どんな天の邪鬼からも う感じでその若いとも若くないともいえる女を見た。吉川大家と目されて文壇、世間両方を通っていた。その二三人 は、安吉に語っている今もそれを自分の弱点として認めたのうちでも、永い創作生活とかって崩れたことのないどっ が、誰かからそれを聞かされたとき「王様の耳は驢のしりとした坐り方とで、大家のうちの大家という格でこの ゆすりはら とぎばなし 耳」というお伽話のことを思いだしていた。「芽生え」の譲原宗俊が通っていた。文学的な意味のほかに道徳的な なかの話が、小説の世界のことでなくて実際の話だったと意味も加わって、彼の作品の一部はこちこちの文部省教科 しても、それを主人公たちの欠点としてだけは吉川も見て書などにも取り入れられていた。その底にはーーー安吉の感 いなかったが、それでも吉川は、卑俗な意味での「真相」じではーーー妻を失ったあと永いあいだ清潔なやもめ暮しを といった面を、心のなかでだけにしろ、相手にたいして続けて、そのなかで子供を育てながら連続して制作にいそ せんさく 演だと感じながら根ほり葉ほり詮索したくなる自分を抑えしんできたことにたいする世間的信用ということもたしか ることができなかった。誰もそれに応じるもののなかったに横たわっていた。押しも押されもせぬ大家でありなが ことが、やっとそれでも彼を救うことになった。すこしばら、どうかすると滑稽なばかりぼろを出すことのある文学 かりの触れあいで吉川は東京の大学へ来てしまったのだつ者たちのあいだで、結果として自家弁護として効いてくる こが、しかしあのときは、学生社会科学連合会の検挙直後ような語り口で何かを絶えず小出しに出しながら、一種 で、京都ではそれはひどかったのだった。 絵気な沈黙のカで一切れの・ほろも出さずにきたこの作家の 「赤い妖花、伏魔殿の女王、なんてことを京都の赤新聞が好は、それ一つで神経質な批評家に気ぎらいされただけ、 じわりとしたカでしつかりして広い読者層をつかんでい でかでかと書きたてたんですよ。」 た。そんな世間の前へ「芽生え」が発表され、それは叔 安吉は「芽生え」を読んでいたが話のこまかい筒はもう
220 っていうけれど、話はあんなでも、あれは弱いってもんじ ゃないよ。君自身感心してたじゃよ、 チーし、刀 ? 」 「それや感心しましたがネ。しかし弱いなア。在りし良か りし日へのノスタルジャですよ。第一、何ですか、あの こつけい 日によっては二往復することもあるいつもの坂道を、安題 ? 『亀ちゃん』、滑稽小説じゃないですか ? 」 「題 ? そんなことないサ。そうだネ : : : じゃ、どうだ 占は肩をならべて吉川と藍染橋の方へでていった。 「そんなことはないサ : ・ : ・」と安吉は吉川を反駁した。吉ネ ? 」考えながら、安吉はずるそうに吉川へ横目をした、 Ⅱは、ただついでというので、そこへ、今がそこからの帰「「亀とその移動する家族、一とでもしたら ? 題なんか何で りのその会合へ顔を出したのにすぎなかった。彼は文学をもないサ : : : 」 専門にやろうとしているものではなかった。彼は合宿でも「『亀とその移動する家族』 ? うまいなア : : : 」 吉川は「やりきれぬー」という目をして安吉を見たが、 いちばんの弱気たった。彼は今年高等学校から出てきてい て、何年生ということのない大学でも、一年生と三年生とそれはさっきの集まりで、平井が、集まりの性質を勘ちが いして発表した小品の読後感の問題の続きだった。集まり の差といったものはあったから、自然それが安吉を気軽に しているのでもあった。また結局のところ、こっちが押しは、社会文芸研究会をこれからどうやって行くかを討議す るための、つまり運動そのものを問題とする小人数のもの て行けば文学がわかるということが吉川の弱味をなしてい た。「おばさん」の問題にしても、かえってそんなところだったが、久しぶりに出てぎた平井が、いつもの、文芸そ から、母親を息子の佐伯に返すことに彼も合宿会議で賛成のものを取りあっかう集まりと思って最近の小品をそこで 朗読したのだった。自分の作品を集まりで朗読するなど した一人だった。 は、一種の見栄もあって誰もしなかったが、平井にかぎつ 「しかし弱いですよ。」 てんいむう それが何だね ? 何てったって美しいよ。」安てそれをやることが時々あり、彼にかぎって、天衣無縫と いった無邪気さとしてまわりからも受け入れられていた。 吉の頭に「何といっても」という辰野隆吉の論文の癖が思 いうかんだ。「何といっても」といった言葉が論文の言葉小品は、平井自身の幼年時代の回想といったたちのものた として出てきて、それが、それなりに効き目を持つのを安った。 「今になって考えても、結局それがどんな家族だったかと 吉は辰野の評淪ではじめて経験したのだった。「君は弱い かめ
たった。もしかしたらそれは、正確には覚えないが、「蒼てそれは、事件と一直線で結びつけられる性質のものでは ないにちがいないが : い馬」を安吉が感動して読んだころだったろうか ? つい そうかん このあいだ、安吉は、「第二インタナショナルの崩壊」の しかし吉川は、安吉の問いをはずしてしきりに近親相姦 翻訳賃の一部を辰野のところで受けとってきたが、そのとというところへ話を持って行きたがった。 き辰野は、初心者への激励という心持ちからだったろう「どんなもんですかネ ? あの謹厳な先生がーーー叔父さん ども ですよ。 なんてっててっちゃんをときふせたんですか か、わりに正確だといっていつもの吃りで安吉を賞めた。 あやま ちょうどそのとき、「芽生え」のてつ子がちがったものにネ ? しかも一度つきりの過ちというんじゃ劜いんです なって東京に出てきたのだ。どうかしたらそれは、辰野がよ ! 」 ちがったのよりも安吉がちがったのよりももっとずっとち安吉には、吉川の言葉が作家の不倫を非難しているよう がったものになってだという気が安吉にする。何となし安にはどうしても聞えなかった。どうやら吉川は、いきさっ 吉には、安吉などのタッチでぎない地点での問題のせし を目に見える形で安吉の前に描ぎ出したいのらしい。 それ で、彼女の上京はあったのだろうと空想されてならない。 を好奇心でたのしみたいのらしい。そのことにたいする安 すきみ いっか村山が、人のいないところで、「マルクス主義研究』吉の興味の動きを隙見したいのらしくて、「それだから君 にのった永野の論文をどう見るか、安吉に鎌をかけるようは変な目で見られるんだよ。」という言葉が安吉の頭に浮 かんだ。 にして質問したことがあった。あんな方面に彼女の上京は 吉川たちが、京都生活でいくらかでも知りあっていると 関係しているのだろう。善光寺坂を下りてきた彼女が、安 いう心安だてからそれはきていたかも知れなかった。しか 吉たちの向って行く清水町合宿からの帰りだということ は、どこへの帰りかはわからぬが確かに明らかだった。事しそういう面が、いま安吉の頭に浮かんだ形でたしかに吉 件公判の近づきにつれて、いろんな人間が東京、京都を往川にあって、そのことが合宿でも二三度も問題になってい たのだった。 復しているが、彼女のことは全く安吉に知らされていなか ら セッルメントへ出かけて行く渡辺などを見かけると、つ むったし、それと思いあたるほどの話さえ安占は断片も聞い い吉川の口から軽薄な言葉が飛びだしてしまう。つい飛び ていなかった。ずっと内側の方の圏で彼女は動いているの 四だろう。それにしても、どんないきさつであの「芽生え」だしたのだということがわきで見ていてよくわかった。 べっぴん のヘロインがそんな風に変化して行ったのだろう ? 決し「セッルメントへは目白から別嬪さんが来るんでしよう、 けん あお
った。女でなかったことからきたかも知れなかったが、女その人へぶつかって行く。「まアいやアね ! 」というぐら しはいい方なんだ。しかしそれが何だ ! 四同士の愛ということなら許されそうな気が安吉にはした。 たま はんちゅう へなへなのス。フーンで小豆を舌の上へ連びながら、いち 男同士の愛ーー・考えるだけでそれは堪らなかった。範疇が ばん卑劣で残酷な仕方でくる圧迫のイメジが安吉から払い ちがってしまうきたなさになる。それは、男性そのものが りようしょ , 、 凌辱されている感じだった。もしそんな経験を持った少のけられなかった。 「ごらんよ、この婦人参政権運動のおばちゃんたち。この 年があって、それがやがて青年になって、その前に一人の 娘があらわれてそれが好きになったとしたら、その青年は御面相じやア、ほしくなるわね工参政権も : : : 」 ほんとうの意味で絶望的になるだろう。過去にどんなしく「何よ、あれ ? 女言葉の語尾が使えないのよ。黒い爪を じりがあったというのとも違った、本質的な無資格を感じしてるのよ。さあ、ずいとこちらへといってやったら、 じゅうたん るだろう。ひどいことだ : きなり裸足になって絨緞へあがってくるじゃないの : ・ : こ 「しかしそれよりも : : : 」と、やはりさっきの人の風態の 「くそ ! 」という言葉を頭でいっているところへ、「これ 見す・ほらしさが安吉の頭から離れなかった、「からだっき何ですか ? 」といって吉川が食いながら見ていた外国雑誌 を押してよこした。外国語が書いてある。フランス語だと がそそけ立っていただろう : : : 」 二人は坂をの・ほりつめていた。安吉が目で知らせて一一人いうことが安吉にもやっとわかる。吉川が顎でしやくった あすきや ところに馬の絵の写真があってひと目みて安吉はぎよっと はそのゆで小豆屋へはいってゆで小豆を注文した。 「ああいう顔色は人に快感をあたえないからナ。」 それは吉川の顔色でもあった。安吉自身の顔色でもあっ写真は気味のわるい絵の小さな写真だった。ひと目見 た。しかし女の場合が不幸だった。色のついた切れなそをて、しかし安吉は絵のとはちがった気味わるさを二重うつ 使って並みのおしゃれをしない。紅おしろいを使わない。 しのように感じて錯乱した。 それで血色がいいのかというとそれは悪いのだ。目の前の 「日本人の絵じゃない。しかしこれと同じのを日本人ので ことを人といっしょに無駄に楽しんでいないで、先へ先へ見たゾ : : : 」 と神経質に目をやっているように人が思う。大体いって、 左手に海が見えて、そこの海岸で白馬が一匹はねあがっ 円柱のような首をした女などのいないことが、彼らにはている。海岸というよりは波止場のとっ鼻といったところ 男も女もふくめて気に入らぬのだ。それがみなその人だ。右手の背景には板細工のような街屋並みが低く縦に続
230 かっこう 渡辺君 ? 」 で聞かれて、小刀で突こうとしたときの津田よし子の恰好 「別嬪さん ? 別嬪さんて何ですか ? 」 の問題としてはそれは受けとられなかった。「おれだけが、 「何ですかって別嬪ですよ。美人ですよ。」 おれ自身のせいで、へんにエロチックにいやに感じるんか 「美人 ? 美人は来ますよ。それがどうしたんです ? 」 ナ ? 」ーー安吉が一人でそう思ったとき、座が一瞬やはり 「どうしたんですって : : : 」 鼻じろんでみんなが黙ったのだった。 「君は」目をきらきらさして美しい渡辺がつめよるように 今週にはいっても岩崎義夫のことがあった。今までのも うらやま する、「羨しいんですか ? 」 のとは違った、どことなし根深い調子で進有している合同 そのとき吉川が、「全く羨しいんだよ。」とかわすことが 印刷のストライキ、その調子に変化が生じたらしくて、 あご できない。貧相な顎をいっそう突ぎだしたままたじたじと『労働者運動」に初めての岩崎の論文がのった。今まで岩 なってしまう。 崎は、主に方法論のこと、日本の連動の戦略的な問題など ある日の晩飯のあと、震災のとき憲兵に殺されたアナー で「マルクス主義研究』に書いていた。直接労働組合連動 たまき キストの上杉環の話が飯台のまわりで出ていた。上杉の昔 には触れたことがなかった上、組合連動専門の雑誌といっ の愛人だった津田よし子が、このごろマルクス主義の方へた「労働者連動』には一度も書いたことがなかったから、 近づいてきたという話があるが本当のことらしい そう今度はじめて、それも具体的に合同を材料にしてそこに書 にくちよく いたということは、安吉などにも目についていた。論文の いって、そこの四五人が新人会員らしい朴直さでよろこん でいるときにやはり吉川が口を人れた。 調子は、やはり抽象的に見える。奥歯にものがはさまった 「それやネ、あのおばさんときたら大したもんですよ。熱ような感じでもある。それでも、それを中心に新人会で合 海の宿屋じやアいきなり上杉に馬乗りになってったんだか同研究会をやった。合同の組合から中田勝一という代表が きて報告をしたが、中田の話し方がおそろしく丁寧だった それはあったことに違いなかった。津田と別な愛人が上ことも強い印象として安吉に残っている。相手が大学生だ 杉にできて、怒った津田が熱海へ上杉を追って行って小刀というので、わざとそういう人間をよこしたのだったろう か何かで刺そうとしたことがずいぶん前の話としてあっ か ? 言葉をひかえ目にひかえ目にとえらんで話して行く た。しかし吉川の言葉は、事実問題としては聞かれなかっ 中田の様子には、何かよほどの困難がストライキの進行途 た。「馬乗りになってった」というのがエロチックの調子上に生じているのではないかと思わせるものがあった。 べっぴん こ
だちょう それからおれたちは鳥類のところへ行った。そして駝鳥そのことをしよっちゅう考えて、こんな風、こんな風とい うように頭のなかで描いて想像してきたということだろう のところへ行った。首を高くあげて、 Plakat=träger みた 、 ? しかしよくも人は、女連れといっしょでまで、あれ ような恰好でこっちへくる。金網のところまできて、そこカ で向きをかえて、今度は向うむぎにあっちへ行く。太い長が見ていられるもんだナ。象そのものが聖人的なだけに、 足ゅびのつけ方が、鶏や町よけいそうなる。 い脚、それが交互に動いて うしろから眺められる とちがって二段構えですすむ。 しようふ ( 「相かわらずの匂い」というのを説明しなければならぬ この鳥は、わるい娼婦のように、踵の非常に高い靴をはい だろう。つまりこれは、これまでに何度も動物園へ米てる て、腰を少しずつゆすってすすむ。下品なところのあるコ やまねこ はぎ ケテリー。 女の脚を、裏から、ふくら脛の方から見るようということだ。そのときどきに河町を見た。山猫を見た。 な気がしておれはやはり目がそむけたくなった。しかしこ猿がいろんなことをするのを見た。おっとせいやペンギン れは吉川に話した。やはり吉川は、詑・↓がしゃなりしゃなも見た。ジラフ、虎、ライオン、それそれを見ていろんな りとすすむことを認めない。おれのいうのは、こっちへ歩感想を触発された。その記憶の連続に結びつけなければ動 へんば ふるえる いてくる駝鳥ではない。あっちへ歩いて去るときの、うし物園の記としては偏頗になる。山猫なんかには、 ろから見たその脚なのたが、吉川は行くのも米るのも同じほど感動した記憶がある。何だかこれだけでは、性的なも だという。しかしそれは、ぞくっとするほどなまめかしのにだけ皮膚が動いてるように見える。動物園へ子供づれ 見よがしの確かな恰好だ。しかし、日本で、何でデモでやってくるたくさんの人々、子供がよろこんで騒いでる ンストレーションに Plakat を使わぬのだろう ? そばで、早くもぐったりしていた若い観たち、あんな姿も しかし象のロで、何が根拠でおれはそう連想しただろ入れて描く必要があるだろう。 ) 、も う ? 見たことがあるのか ? それはない。 記憶を辿って みても、全くない。しかし全くないのに、連想がそれほど「あと五つ六つもこの手の話を書いてやろう。そして全部 ら むのなまなましさで可能だろうか ? ものの外形、品物につをひ 0 くり返して、時の順序に並べて、この半年ほどのあ いだにふりかかってきた経驗、事柄を、構造をあたえて整 いての具体的な知識なしに、生得のア。フリオリな何かで両 うとうと 8 者が結びつけられるということがありうるだろうか ? そ理してやろう。鶴来や深江にたいして、かまけて疎々しく なっていたことの釈明にもそれがなるだろう。見方といえ れはまず、まず、まず考えられぬ。それならば、おれが、 カかと
うらやま 片山の兄貴が来て一日ねころんで行った。片山は色白だ はロマンチックな意味で羨しがっていたが、ほんとに健 が、兄貴は赤黒い顔をしてる。片山はおれより背が低い康だろうか ? をししフィアンセ いったい恋人というのま、 だいひょう いなずけ が、兄貴の方は五尺八寸ぐらいある大兵だ。髭の濃いのが だの許婚だのというのは基本的におかしくはないか ? 約 似ているぐらいだ。この兄貴は幼年学校出だ。いや、退学東した間柄というのならそれは恋人だ。でなければそれだ させられたのだ。ずっと以前の話だ。何しに来たのだか知けで夫婦だろう。 いいなずけというのは無意義だ。しかし らないが、濁った目つきでいろいろ喋っていた。テロリズ恋人を持ってるのは蔆しいナ。吹田だから労働者街に住ん ムを待ってるようなこともいっていた。革命と結びつけでるのだろう。 て、子供をたくさん作れといっていたが何のことだかわか らなかった。片山の方は、兄貴を相手にするようなしない ( これはこれでいいだろう。もっと全体としてひろげて書 ような態度であしらっていた。家庭内で困りものになってき直す方がいいが。 ) いるのかも知れない。夕方になって兄弟で出て行った。そ のあとで村山が吉川をつかまえて話している。 総長問答 「片山のフィアンセがナ、吹田で『無産者新聞』売ってた太田がいっしょに来いというのでいっしょに総長のとこ らナ、紳士が来て、残り全部買って、そんなもん売らんでろへ行った。学連事件の予審終結が近づいて、一段落と同 うわさ ちゃんとする気ないかって持ちかけたそうだよ。」 時に新人会を解散させるという噂があり、文部省にたいし 「吹田って大阪ですか ? 東京・大阪わかれわかれにやって腮を決めさせておこうというのが総長訪問の目的だっ てるんですか ? 」 総長をおれは三度ほど見かけたことがある。三度とも後 「そうだ。」 びつこ 姿だった。太った大男の爺さんで、軽い跛を引く。杖で歩 「いいなア。」 ぎ 「何がいし 。古い農学博士だが、おれの言葉でいえば哲学者的汎神 ら ろん ふうぼう む片山にフィアンセがあることはおれは知らなかった。そ論者的な風貌だ。連絡してあったとみえてすぐ部屋に通さ れよりも、村山の口から出ると、フィアンセという言葉れた。 ひけ こつけい が、むしろフィアンセというものが、滑稽なものに思えて黄味がかった太い白髭。ちょっとグロテスクなところが あり、日本人ばなれした顔つきをしている。 くるのがおもしろかった。しかしどうなんだろう ? 吉川 こ 0 はんしん