たった。もしかしたらそれは、正確には覚えないが、「蒼てそれは、事件と一直線で結びつけられる性質のものでは ないにちがいないが : い馬」を安吉が感動して読んだころだったろうか ? つい そうかん このあいだ、安吉は、「第二インタナショナルの崩壊」の しかし吉川は、安吉の問いをはずしてしきりに近親相姦 翻訳賃の一部を辰野のところで受けとってきたが、そのとというところへ話を持って行きたがった。 き辰野は、初心者への激励という心持ちからだったろう「どんなもんですかネ ? あの謹厳な先生がーーー叔父さん ども ですよ。 なんてっててっちゃんをときふせたんですか か、わりに正確だといっていつもの吃りで安吉を賞めた。 あやま ちょうどそのとき、「芽生え」のてつ子がちがったものにネ ? しかも一度つきりの過ちというんじゃ劜いんです なって東京に出てきたのだ。どうかしたらそれは、辰野がよ ! 」 ちがったのよりも安吉がちがったのよりももっとずっとち安吉には、吉川の言葉が作家の不倫を非難しているよう がったものになってだという気が安吉にする。何となし安にはどうしても聞えなかった。どうやら吉川は、いきさっ 吉には、安吉などのタッチでぎない地点での問題のせし を目に見える形で安吉の前に描ぎ出したいのらしい。 それ で、彼女の上京はあったのだろうと空想されてならない。 を好奇心でたのしみたいのらしい。そのことにたいする安 すきみ いっか村山が、人のいないところで、「マルクス主義研究』吉の興味の動きを隙見したいのらしくて、「それだから君 にのった永野の論文をどう見るか、安吉に鎌をかけるようは変な目で見られるんだよ。」という言葉が安吉の頭に浮 かんだ。 にして質問したことがあった。あんな方面に彼女の上京は 吉川たちが、京都生活でいくらかでも知りあっていると 関係しているのだろう。善光寺坂を下りてきた彼女が、安 いう心安だてからそれはきていたかも知れなかった。しか 吉たちの向って行く清水町合宿からの帰りだということ は、どこへの帰りかはわからぬが確かに明らかだった。事しそういう面が、いま安吉の頭に浮かんだ形でたしかに吉 件公判の近づきにつれて、いろんな人間が東京、京都を往川にあって、そのことが合宿でも二三度も問題になってい たのだった。 復しているが、彼女のことは全く安吉に知らされていなか ら セッルメントへ出かけて行く渡辺などを見かけると、つ むったし、それと思いあたるほどの話さえ安占は断片も聞い い吉川の口から軽薄な言葉が飛びだしてしまう。つい飛び ていなかった。ずっと内側の方の圏で彼女は動いているの 四だろう。それにしても、どんないきさつであの「芽生え」だしたのだということがわきで見ていてよくわかった。 べっぴん のヘロインがそんな風に変化して行ったのだろう ? 決し「セッルメントへは目白から別嬪さんが来るんでしよう、 けん あお
現代日本の文学 19 中野重治集 全 60 巻 昭和 45 年 12 月 1 日初版発行 昭和 57 年 10 月 1 日 26 版発行 著者中野重治 発行者古岡滉 発行所鑾査学習研究社 東京都大田区上池台 4 ー 40 ー 5 〒 145 振替東京 8 ー 142930 電話東京 ( 720 ) 1111 ( 大代表 ) 印刷大日本印刷株式会社 暁印刷株式会社 製本文勇堂製本工業株式会社 本文用紙三菱製紙株式会社 表紙クロス東洋クロス株式会社 製函永井紙器印刷株式会社 * この本に関するお問合せやミスなどがありましたら , 文書は , 東京都大田区上池台 4 丁目 40 番 5 号 ( 〒 145 ) 学研お客さま相談センター現代日本の文学係へ , 電話は , 東京 ( 03 ) 7 加ー 1111 へお願いします。 OShigeharu Nakano 1970 Printed in Japan ISBN4 ー 05 ー 050229 ー 1 C0393 本書内容の無断複写を禁す
かばん 弁でない言葉でいった。 角に入れ、両わきの鞄や上へのせられるものを防ぐために ありったけの持ちものをまわりへ詰めこんだ。 「片口さん知っていらっしゃいますか ? 」 しいえ、知りません。」と安吉は答えた。 お寺を出たあと、晩飯に一ばい飲んだせいか本の類を読 「あの方は知っていらっしやるそうですよ。」 む気はしなかった。うつらうつらとしながら彼は東京の空 を考えた。「東京、東京、なんぞその名の美しくしてかな 「はあ : たてまち小んぶつや しきや : : : 」そういうことを、彼の今はきらいになってし 「竪町の乾物屋さんの : : : 」 まったある詩人が書いたことがあった。その東京を彼には 「あ、そうそう : ・ : こ さりげなく答えたものの安吉は驚いていた。彼女は、安三度たずねた記憶があった。 吉と同じ姓の片ロ英男の、彼を二階から駈け降りさせた京第一回は中学を卒業した年の春のことだった。その夏高 都の娘の次ぎの恋人だった。彼女について、英男は安吉に等学校を受けることにしていた安吉は、東京の学校へ受験 三度か四度話したことがあったが、あげくに彼は乾物屋のに行くクラスメートがあるのを幸い、試験にたいする度胸 二階へ引越して行った。当時安吉は英男の態度を本人自身をつくるためと称して高等商業の試験を受けることにし に非難したりした。その頃の彼女はおよそこの町に似合わた。まだ生きていた兄が、それもいいが、落ちて出鼻をく ぬけばけばしい化などをしていた。英男との間のこともじかれるといけないから止してはどうかといったが安吉は 相対ずくの質のわるい火遊びとしか安吉には思えなかっきかなかった。そしてまんまと落第したことには異存なか ったが、英語に出たある言葉についてきいた言葉は彼を驚 た。何という変りようだろう。お寺の娘があれを知ってい るのかどうかわからなかったが、どっちにしろ、あんなに かした。それは人に媚びるという意味の言葉で、東京の中 よさそうなお母さんになっている以上は、いわば英男を非学生は、ラヴレターなそを書くせいで習わなくても知って いるというのであった。今となっては、それがはたしてど 難した安吉自身さえ許されたようではないかという感じが 安吉をとらえた。 んな言葉だったか、・ とう綴ってあったのかも忘れてしまっ ていた。 夕方の上野行き急行はかなりこみ合っていた。安吉は大第二回は高等学校二年の時だった。浦井の兄が東京に家 ぎな蕗の束をもてあましていろいろと工夫しなければならを持っていて、夏の間そこに浦井がいるのを知っていた安 あみだな なかった。しまいに彼は、縛った根のほうを奥に網棚へ直吉が、北海道の旅行の途中訪問がてら立ち寄ったのであっ ふき たち
つけた瞬間包みを担いでげ込みそうになるのを彼は我慢もいい、病気も汽車に乗れぬほどではあるまい、家のこと ーしこ 0 でいろいろ話もあるということだった。勉次は迷った。彼 いそろム・ノ 彼はタミノが居候をしている彼女の女友達の部屋へつれは一方でタミノの顔をまともに見られなかった。他方でい ラック建てア・ハート て行かれた。・ハ の四畳半の一室だつま東京を離れることに危険を感じた。タミ / に話すと、彼 た。彼よりも早く外へ出ていたものを人れて五六人の客が なは「帰ってきたいんでしよう ? ってらっしゃいよ。」 はんばっ 帰った後で、タミ / とツネの前で彼は手をついて頭をドげという。そういうロ調に彼は反撥を感じた。まず勉次に納 た。しかし、何を、なぜ謝まるのかはいえなかった。 得させ、タミノには勉次からいわせようとしている父のむ ア・ハートは一方が軒並みの木賃宿につづき、ラジオ、 を知りつつ彼は帰ることにした。タミノとツネとが見送り 煤、夜昼ひっきりなしの人、 六月にはいってからのむしにきた。「高畑孫蔵の・ハ力、 / 力」と小ー尸ていうタミノの 暑さで、寝ている勉次は朝から汗をかいた。帰ったあくる声を耳にはさんで勉次は車室へひっこんだ。 日彼は知合いの医者にからだを参せ、血液検査をしてもら あくる日の昼彼は五年ぶりで母を見た。隣りや前の家々 せ洋すい あいさっ った。後者は陰性が出てあとは脊髄液をしらべればい、 しこへ挨拶して帰ってくると新聞記者が四人来ていた。「どこ とになった。 で聞いてきなすったいね ? 」と間う孫蔵に、一人が「それ アートの狭い部屋がますます苦しくなって、彼は大森や商売ですさかい : : : 」といった。家中あけっ放しで勉次 の友達の家へ行った。ある日夕ミノが手紙をよこして話をは仕方なく会った。転向したというのは本当か ? 事実な ら動機は ? 今後の方は ? 事実である、動はいろい したいといってきた。彼は非常に不安のまま彼女に会い 今度の経過を手短かに話し、今後の心組みについて説明しろある、当面病気を直すことだと答えた。彼は嘘をつきた のか た。しかしごま化したという意識からは逃れられなかっくなかったと同時に、そのうちの特にある一人に反撥を感 なっとく じてそれに挑発されたくなかった。一人がさっさと切り上 た。タミノはある曖昧さを残したまま納得した。 ある日父から上京の電報がきた。東京にいる彼の恩人がげて立っと後の三人も立った。勉次は最初に立った一人が きとく 死にかけてその死に目に会いにきたのだった。病人は危篤勉次をいたわってるように感じたが、そのことに惨めさを に落ちてかえって持ち直した。二夜泊ってから、父は勉次感じた。すべてがよくわからぬらしい母に彼は何でもない に一しょにちょっと帰省せよと言い出した。母も五年会っといった。 かむ 畑で孫蔵の声がして、カンカン帽を冠ってゆかたを着た ていない、親類どももむ配している、暑い東京より病気に あいまい かっ
分があるということぐらいはまだしものことだった。理窟失業者に食券を出すというんだからいいこっちゃないか しゃべ やっかい のことならば我慢ができた。きゃあきゃあしたお喋りが、 そんなにひがむな、といった説明を切りぬけるのが厄介だ 新聞記者の筆にのってはしゃいで廻っているといった空ということと、両方入りまじった気持ちで、合同の連中は始 気、それと、それが配られてくる争議団がわの現状、きままったばかりの「市従」へ目をやった。天皇の死んだ翌る 日に、駆りたてられ駆りたてられしてきてやむなくストラ った本部と研事務所と以外ではどんな集会も禁止されて、 ある男の父親が死んで、その父親は前々から寝ついていたイキに出たということがあれほど一般に行きわたっていた のだったが、親一人子一人の息子が争議団へ詰めきってい東京市従業員四百五十名のストライキが、四日目の二十九 きざ たことと、争議解決の萌しがなかなか見えなくって、暮れ日に、「東京市従業員争議完全に解決す」という活字で、 の手当、病人の世話も行きとどかなかったことからの死だ新聞の隅で書かれてけりをつけられたのだった。 ったから、理窟では間接でも、気持ちでは直接の儀牲者と「気の毒だナ。気の毒だナ。気の毒だナ : : : 」 ついこのあいだ、互いに激励者を送りあってきた仲では して受けとられて、葬式には、各班、代表を出して争議団 として参加しようということになったのだったがそれさえそんな言葉でだけやっと合同の連中の気持ちがあらわせ 禁止されてしまったような空気と、自然に対比されてくるた。 「しかしおれたちは違うそ ! それにしても、空気を破る 形でそれがあるということだけでそれは手ひどい侮蔑だっ ことを考えねばならん : ・ : こ た。人間として踏みつけにされた、されているという思い ようしゃ つまりはそこから、今日の安吉の長屋五郎訪問も出てき のなかで、政府、東京市、会社がわは容赦なく残酷に手を 打った。天皇が死んだとなると、東京市と東京府とがグルていた。ストライキのはじめ頃は、景気をつけるためと家 になって、その日のうちに、恩賜財団慶福会の金一万二千族慰安のためとで、あちこち場所を見つけて連動会をした 円を、失業労働者延べ三万人に日に四十銭の割りで食券にり芝居をしたりをかなりにやった。さいわい芝居の方ば、 マルクス主義芸術会の任那なんかとも関係のあるカ・ハン して渡すことに決定して大きく新聞で発表したのだった。 しくさかきえんじよう 「やりやがるなア、ちきしよう ! そいっても、この手のが熟心にはたらいてくれた。カ ' ハン座の軸の楙円乗は、安 そうりよ 吉はまだ知りあわなかったが、僧侶出の社会主義者だっ やつア説明が面倒だからなア : : : 」 ストライキ労働者にはほとんど生理的にくる感覚、これた。新人会、社会文芸研究会、マルクス主義芸術会、新聞 がいちばん卑劣な直接のストライキ破りだということと、 や雑誌や文学関係のゴシッ・フ、「土くれ』の仲間うちの雑 ぶべっ りくっ
「アインシュタインを聴きに行ったんです。試験は僕の分 上は聞き出さなかった。 だけすましておいたんですよ。」 「じゃ、東京へでも行くんですか ? 」 「いいなア : ・ : こと金之助は高い声を出した。 「え、東京へ行きます。」 がんじよう 「いや、よかないですよ。僕のほうのような学校、みんな 「からだは頑丈ですか ? 」 一人ずつ行ったんですからね。命令ですよ : : : 聴いたって 「頑丈です。盲腸炎がこまるんですけど : : : 」 「盲腸がわるいんですか ? 」といって沢村は顏を輝かしわかりやしないんだ : : : むろん僕だってわからなかったで すよ。」 た、「まだ切らないんですね ? 」 「それでどんなふうなんです、アインシュタイン : 「ええ。」 「そうですか。僕もやりましてね。切りましたよ。それや安吉も金之助も相対性理論については知らなかった。し かしこの人の人なつつこさや高い叡智についての話、彼の ア痛かったですよ。」 うわさ 彼は声を大きくして顔をしかめて笑った。そして菓子を髪を夫人がつんでやるのだという噂ばなしなどは知ってい た。彼らは、天地ほどもちがうこの碩学のなかに、貧しい 持ってきた細君が「ふふ」と笑ったのヘちょっと眼をやっ 彼らと人間的に共通した点をさえの・ほせ気味で感じていた 「僕のは危なかったんです。田舎から両親が出てきますしのだった。 : ・非常にいい人ですね : : : 」 ね。泣きましたよ。そしたらこの先生が、はずかしいから「どうって : 「非常にいい人」という言葉を沢村は嘆息するようにい 泣くのだけはやめてくれっていうんです。」 た。それはそっくり二人の心に受け入れられた。 「だってあんまり声が大きいんですもの。」 いくら聞かせて下さい 「はずかしいも糞もあるもんか。僕は危険だってこともよ「どんなふうにお話しなさるの ? っていっても聞かせないんですよ。」と細君は金之助たち れく知ってたんですからね。痛いんだから、どうせ死ぬんな のほうへ訴えた。 から、泣かずに死ぬなんてつまらんと思ったですよ。」 : ・・ : ドイツ語でしゃべって、日本の学者 「どんなふうって の「ほんとにはずかしかったわ。」 が通訳するのさ。」 四人は声を出して笑った。 「だから、どんなふうに ? 」 「それで、東京は何だったんです ? 今やつばり試験だっ 「いったってわからないよ。ドイツ語だよ。」 たんでしよう ? 」と金之助が訊いた。 くそ っ
きに取りかかった。『土くれ』は廃刊することになってい ちがっているのにまず驚いた。違いがあまりに大きい。大 る。終刊号のために同人顔をそろえて何でも書こうというきな違いが断層的にがたんと落ちている。大儒派的な村山 ことになり、しばらく書かなかった安吉は富山以来の暇々が、奥の部屋へおそくまですっこんで、全国の高等学校か に覚え書のノートをとってぎた。去年秋ごろからのさまざら来た調子のよさそうな報告を、はた目に残酷に見えるよ ふるい まなできごとがそこに並べてある。安吉の、安吉自身処理 うな調子で篩にかけて片つばしから整理して行った。そう おおあま することのできそうにない美意識の変化といったものがそやってした彼の総報告さえ、当の場所へきてみれば大甘だ こにある。安吉の、安吉自身処理することのできそうにな ったとしか思えない。そもそもいって、学生のあいだに社 い社会意識の変化といったものがそこにある。また処理し会科学研究のグループがないというのが富山高等学校では きれそうにない美意識と社会意識との喰いちがいの変化と実情に近かった。何人かの学生がいるにはいた。安吉と森 いったものがそこにある。 とは、そのうちの一人の家で二晩ほど泊まった。大通りで 大体こんどの旅は、夏休みの帰りの途中というのに一方金物問屋をやっている人の住居の方だったが、そこの長男 では過ぎなかった。夏の休みがきて、東京から福井県に帰を中心にした二三人が、しぎりに文芸の方へ話を持って行 って行く途中を富山高等学校へ寄る。それから金沢の高等きたがるのも安吉には不安の種だった。我慢して聞いてい まね 学校へ寄る。そこでそれそれの社会科学研究会のグルー。フると、どうやらかれらは、文芸といっても芝居の真似なそ に会ってかれらから現状をじかに聞き、あたらしい実践的がやってみたいのらしい。社会科学そのものからはずし な方向でそれそれに方針をあたえて行く。そのことが休暇て、何の文芸の話が生きたものとして今あると考えるのだ まえの新人会総会で決められて、しかし仕事を帰る人間にろう ? 案の定、かれらの文芸知識というのが、高の知れ だけ任せるのはよくないから、可能なかぎり東京の人間をたもの以前であることが目の前でわかってきた。おとなし 組みにして全国へまわそうということになって、現に安吉い森は、ロを出しかねて一人できまり悪がっている。その ぎ といっしょに、森繁夫がきて富山高等学校の分をすませてうちにかれらが、かれらにかくれた同情者があるというこ む東京〈帰 0 ている。そして安吉としては、富山でも金沢へとを言い出して安吉は急に心配にな 0 てきた。中心の仕事 ところで、そのまわりに隠れた同情者が はやっていない。 きても、意外なことにぶつかって気持ちの上でいろいろと ある。どんな状態のなかで、そんなことをかれらがいって 途まどった。そして、いまだに途まどっているのだった。 いるのだろう ? とうとうかれらが、同情者の一人のある 第一に安吉は、東京で聞いてきたことがあまりに実地と あんじよう
「降りよう。」と片山がいって二人は伝通院で降り、完全ら大学は一咋年出てしまった長屋五郎を訪ねて行くところ に朝になった光のなかを寺の中門に向かって行ってつき当だった。 って右に折れた。 「どうしてるだろうナ ? 例のセンチメンタリズムが相か わらず残ってるだろうかナ ? しかし許可はしてくれるだ ろう : : : 」 七 この長屋は、金沢近くのちょっとした町の人間で、高等 学校では各務という学生などといっしょに文芸部の仕事を 一月なかば過ぎの東京は寒かった。それは非常に寒かっしていた。文学好きというよりは芸術好ぎといった、少年 た。その寒さが雪国のものとはちがっていた。雪国のに から青年になって行く年頃の地方の高等学校生徒らしく、 は、積った深い雪がそのままで人を包みこむようなところ短歌を書き、詩を書き、短篇小説を書き、絵も描くといっ たタイ・フで、家がいくらか裕福でもあるらしく、書いたも があった。東京のにはそれがなかった。何かを包むのでな くて、それは何もかもを剥いで、天の下でさらした。雪そのからするとちょっとした遊びなんかもするらしかった。 のものが降らなかった。それは寒さというのと別な何かだ安吉は短歌会で知りあって、それから学校の雑誌の仕事な った。じっさい東京では、浮浪人だったにしろ、建物の軒どをしばらくいっしょにした。 かげで、崩雪にかぶられたというのでなくて人がそっとし安吉としては、長屋とはこんな男だといって人に説明す ることが、そんな必要に出あったことはなかったが今もで たままで凍えて死ぬのだった。そのうえ今日は冷たく雨が まだ高等学校にいるうち、長屋は小さい歌集を自 降っていた。その下を、安吉は、希望と不安との入りまじきない。 った気持ちでーーそれは、希望といっては大きすぎ、不安費で出版した。その中身は取り立てていうほどのものでは といってしまっても大きすぎるのだったがーーー歩いて行っなかったが、けなしつけてしまってもいいものとも思えな かった。チェ 1 ホフの真似をした小説を書いたり、各務 た。人なっかしさの気持ちもそこにまじっていた。そこは しこう せんだぎちょう が、各務支考を頭においてしら・ヘて行ったら無関係だった 本郷千駄木町の裏通りの一つで、これから彼は、金沢で別 ことがわかったといって各務をまじえておもしろがった れたきり、同じ大学にいたときもとうとう顔を合わせずに り、一般に弱いもの、小さいもの、ユモラスなものに同情 しまった、今は築地小劇場で脚本の方の仕事をしている、 高等学校では一年上で、安吉とちがって落第しなかったかを持ったりして、安吉には人として親しめる、のがあっ かがみ
「村の家」を「経済往来」に発表。七月、評論集『論議と小品』を八月まで連載。八月、「空想家とシナリオ」を「文芸」に発表、十 現代文化社より刊行。十月、小林秀雄・林房雄らによる雑誌「文学一月まで連載。十一月、小説集『空想家とシナリオ』を改造社より 界」同人となることを求められ、辞退。村山知義、窪川鶴次郎らと別行。この年、千駄ヶ谷分室の仕事をやめる。 三十八歳 諷刺文学研究会をつくる。十一月、村山、窪川、森山啓、壺井繁治昭和十五年 ( 一九四〇 ) らとサンチ震・クラ・フをつくる。十二月、『中野治詩集』をナウ四月、小説集『汽車の焚き』を小山書店より刊行。六月、『中野重 カ社より刊行、一分削除の処置を受ける。評論集『子供と花』を治随筆抄』を筑摩書房より行。七月、「斎藤茂吉ノオト」を「日 沙羅書店より刊行。林房雄、青野季吉、江渙、平林たい子、武田本短歌」に発表、翌年末ごろまで「日本短歌」、「中央公論」、「臨床 文化」などに連載。八月、小説集「歌のわかれ」を新潮社より刊行。 麟太郎らの発起で独立作家クラ・フ結成、参する。 三十九歳 昭和十六年 ( 一れ四一 ) 三十四歳 昭和十一年 ( 一九三六 ) ー一月、父藤作、一本田で死去。十二月、太平洋戦争開始とともに 一月、「小説の書けぬ小説家」を「改造」に発表。三月、二・ 事件について「一市民としての感想」を「時局新聞」に発表、同紙全国的検挙が行なわれたが、東京を離れていたため、一応身柄拘東 発禁を受ける。四月、「閇二月二十九日」を「新潮」に、「独立作家をまぬかれる。 四十歳 クラ・フについて」を「改造」に発表 ) 十月、サンチョ・クラブ解散。昭和十七年 ( 一九四一 l) 十一月、評伝『 ( ィネ人生読本』を六芸社より刊行。同月、「思想二月、東京に帰る。以後、「召集」まで、漿京警視庁、のち世田谷 警察署に出頭、取調べを受ける。六月、日本文学報国会発足、小説 犯保護観察法」実施により、敗戦まで保護観察処分を受ける。 三十五歳部会・評論随部会会員となる。『斎藤茂吉ノオト』を筑搴占房よ 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) りい間何 0 一月、小説集『小説の書けぬ小説家』を竹村書店より刊行。六月、 四十一歳 「汽車の罐焚き」を「中央公論一に発表。十二月、内務省警保局に昭和十八年 ( 一九四三 ) よって、宮本百合子、戸坂潤、岡邦雄らとともに、執下禁止 ( 出版一月、『新版斎蔭茂吉 / オト』を筑摩書房より団ー。 四十二歳 昭和十九年 ( 一九四四 ) 社などへの示唆による ) の処置を受ける。 六月、「『夜行路』雑談」を「志賀直哉研究」に発表。十月、世田 三十六歳 昭和十三年 ( 一九三八 ) 一月、独作家クラ・フ解。五月、世田谷区世田谷二ノ一一七二へ谷区船橋町の武蔵金属研究所に人り、圧延伸張にとして翌年六月ま 転塒。東京市職業紹介所知識階級失業者係を通じて、東京市社会局で働く ( 、社の人々の庇護のもとに外論などを執を。 四十三歳 年調査課千駄ヶ谷分室に臨時雇となる。執筆禁止の処置ゆるみ、十一一昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 六月、「召集一を受け、二等兵として世田谷の部隊に入隊、長野県 月、「芸術上の雑文」を「浙一に是表。 小県郡東塩Ⅲ村に行く。八月、敗戦。九月、「召集」を解除され、 昭和十四年 ( 一九三九 ) 三十七歳 二月、長女卯女生まれる。四月、一・歌のわかれ」を「革新」に発表、一本田、ついで東京に帰る。十一月、日本共産党に再人党。秋田雨 加ロ
368 水の心はおとなしい故 私は月をながめ それとみずからは言い出さない 私はお前に逢いたいのである ただ私が向うの方へ行くならば 水は彼自身のしめやかな歌をうたい始めるでしよう 今日も 私はしずかなこの水辺を去りましよう 水がそれを乞うているようです 通りには今日も大勢の女がいて きらびやかな口をきいていた 夜が静かなので みんな行く先があるのか みみたぶ あかい耳朶をして手をふって むな ずんずん私はおい越された 何事も意にまかせず空しく六十になる父のかなしみが いびき ひげ このひろい東京の町にお前がいない 髭なそは白くなって鼾をかいて眠っている このひろい東京の町にお前がいないというのはつまりど大きな不幸でも来るようでしよっちゅう心配でならぬ母 ういうことなのだろう のかなしみが あんな女どもにさえおい越されて 晩にはいった風呂のせいで頬のとがりにあわれな赤味を 朝から さして 心をはりつめてはりつめ 口をあいて眠っている その母に抱かれるようにして 顔をあおくして行く先がない その母とさっき泣き泣きいさかいをした すこし正直すぎる出戻りの姉娘のかなしみが眠っている 水辺を去る みんな炬燵にはいって眠っている 向うではまだ稚いかなしみがニっ 私はこのしずかな水辺を去りましよう 一つは物ごころがっきそめて 今日は水さえも私をいとうている 一つは何やら何もわからず こたっ おさな ほお