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検索対象: 現代日本の文学 19 中野重治集
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1. 現代日本の文学 19 中野重治集

目にみえて仕合せそうに眺めている。しかし彼女の上に、 きいた。彼のていねいさはさつばりしていて、ねばっこい 合宿の一員でもあった息子が京都へ連れて行かれてからあていねいさに弱い安吉にはいつも助かった。 はんらん と、息子のいた時分には見られなかった別の生活がちらり「叛乱は芸術ですか ? 」と彼はいきなりいった、「叛乱は と姿を見せることのあるのに安吉は気づいていた。り ~ 0 芸術だと = ンゲルスがい 0 てるそうですが、芸術ですか ? てん 点かとも思われたが、元気のいい大学生たち、その賑やかどういう意味で芸術なんです ? 」 な笑い声が、かれらの出はらったあと、息子につながっ頬ばったまま安吉にはてんでわからなかった。 「わかりませんネ。わからない て、網をたぐるように母親の胸に集まってくるさまが何か の時安吉に思われる。ほかの連中にしても、気づいている「山添君はネ、芸術といってもそれや技術のことだろうつ にはちがいなかったが、ただそのことを口に出しては誰もていうんですがネ。技術かなア ? 技術ですかね工 ? 」 いっていなかった。 「技術じやアないでしようネ。」何の根拠もない安吉にも、 「ちょっとはいっても、 そう思われることは確かにそう思われた。 お互いの部屋へはひと声かけてはいって行くことができ「どっちかといえアやつばり芸術でしよう。」 たが、いくらか奥まったおばさんの部屋へは、用事もなか 「やつばり芸術ですか : : : どうして芸術なんです ? 」 いなかふう ったがそれはできなかった。田舎風の家具のようなものが やはりそれは、新人会へはいるまでは経験したことのな そこにあり、衣類用のつづらのようなものも片隅に置いてかった、合宿へはいってはじめて日常生活として経験する ある。茶ぶ台の上へ蜥緘はがきを持 0 てぎて書いていたおようにな 0 たいつもの問われ方だ 0 た。安吉との関係で ばさんが、何かにひっかかったらしく途中で書ぎやめて、 は、特に内垣にこの問い方が目立った。安吉にそれは快感 封緘と鉛筆とを持って隠れるようにしてはいって行く暗いのようなものでもあった。 めの彼女の部屋 : : : そのおばさんの姿も、寝そべっている いったい安吉は、大学へはいってまもなく新人会という ぎ 今の安吉からは遠かった。 団体のあるのを知った。高等学校でいっしょだった連中で ら むついさっき、まだ安吉がもぐもぐ口を動かしているとこそこへはいっているものがあり、安吉にもしきりにはいれ うちがき ろへ、さきにすました秀才の内垣が本をかかえてやってきとすすめていたが、二年ほどもぐずついていた揚句、この てふいに質問した。 ごろになって、これという自覚したきっかけもなしにふら 「片ロ君、ちょっといいですか ? 」と彼はていねいな口をふらとそこへはいったのは、彼の場合、直接のきっかけが あみ かたすみ ほお

2. 現代日本の文学 19 中野重治集

273 むらぎも 法皇の知ったこっちゃあるまいが : 、・ : 」 るということがあるだろうか ? そろそろ夕方になって、めし食いに出ようというので安 一人の芸者が安吉に思い出された。二年くらいも前だっ たろう。ある日安吉が斎藤鼎のところにいた。そこへ、斎吉にもいっしょにこいということになった。四人は神明町 藤の若いときからの詩の仲間で、斎藤が小説作家になってへ出て、電車道を北に切れて粗末な作りの家へあがった。 「二業地というのかナ ? 三業地というのかナ ? 」と考え からも詩だけ書いている、偏屈で世ばなれしたようなとこ ろのある荻野信がきた。塵一つ落ちてない畳の上で三人はて、二ならばこれとこれ、三ならばこれとこれとこれとか 馬鹿話をした。そこへ、詩人で美術批評家を兼ねた、斎藤・と思っているところへ芸者がやってきた。お神さんの卑下 荻野と傾向のちがった大久保昇がやってきた。彼は俑のよしたような釈明からすると、名指した人間がいなくって、 しし加減な代りだが我慢をしろというのりしかった。四人 うなものを取り出してーーーしかし安吉は俑というものをよ うなぎ は酒を少し飲んで鰻のめしを食った。 く知らなかった。またそれは西洋のものに見えた。 「君はこんなものが好きだから : : : 」といってそれを斎藤そのうち大久保が芸者の一人をつかまえて悪くふざけ出 にやった。それから画帖のようなものを出して荻野の前にした。荻野が青年論を安吉にふきかけてきた。そこへ一方 出した。荻野はそれを開けてみて、軽い鼻笑いでそれを斎の芸者が口を出した。その口からすると、彼女は「年」 藤へ手で押した。斎藤は黙って安吉にまわした。それは好という言葉を知っていないのだった。そんな芸者もある。 色画帖といったもので、西洋の絵や彫刻を写真にして貼っ雨森の姉はやはり芸者なんかでないのかも知れない。しか しどういう人たちだろう ? 大阪からきた「虎ちゃん」と てあった。彫リ 亥の方がよく、絵の方は粗末で下品だった。 いう男なども、どういう育ちで、そんな人々を生み出した 「こんな絵を一度も見ずに育っ方が本当の意味でエロチッ たど クに育てるなア : ・ : こと思って安吉は下隅の文字を辿っ生活の層はどんな風にどこに横たわっているのだろう ? こ 0 Vaticano つまりそこに、芸術的にすぐれて、同時「今晩は : ・ : こといって安吉は事務所の玄関をあけた。彼 いう に極端に = ロチックないくつかの彫刻が美術館にあるのらは両手の手の平と甲とを外套でごしごしとこすった。どこ かゆ しい。写真の年代がないから、今あるかないかはわからぬも痒くはない。 ローマ法皇「お帰んなさい。」といっておくの椅子から雨森が腰を浮 がそれはあるのだろう。売り出すはずはない。 庁というものが、不思議な側面から・ほゃあっとして見えてかした。二畳の畳敷きで、上から電燈が下がり、粗末なテ 1 プルの脚のあわいから瀬戸火鉢が見え、雨森は、それを きた。「奥ぶかいものだナ。」と安吉は思った。「むろん、 かなえ

3. 現代日本の文学 19 中野重治集

だんこ な話ができるようになった。そして十日か二週間、すこし の原則を断乎として実行することである。これらの原則に 反対する争いを、レーニンは、わらうべく投げすてるべきも飲まずにいて、それを取りかえすほど大酒をのんで、後 『ロシャ風 = ヒリズム』『貴族的無政府主義』と呼んでいた悔と卑アとで吐きそうにな 0 てこそこそと夜おそく合宿の 玄関をあけるのだった。 * あお 内垣が今かかえている大判の本は、芸術だとか技術だと してみると、彼の愛読した「蒼い馬」の主人公や作者な かいうことの書いてあるその本ではないらしかった。たど んかは、「わらうべく投げすてるべき」ものなのか ? ただしが 安吉のまごっいたのはそんなことでの無知でだけではな たどしい、但書きのいくつもついたような安吉の解釈を、 かった。ときどき酒をのまずにいられぬことが彼をいっそ「はア : : : はア : : : 」といって聞いている内垣が、安吉に うまごっかせた。合宿の連中は一人として酒をのまなかつは気の毒をしているようで重荷だった。安吉はもっといく た。佐伯哲夫が一人だけのんでいただろう。しかし今は、 つも但書きをつけねばならなかった。 彼は独房で煙草も吸わずにいるにちがいない。安吉はこそ「つまりこうですか ? 」といって、開けた本の頁へ指を入 こそと隠れてのんだ。しかしある日、やはり内垣が、そのれて、それを閉じて内垣は腰のうしろへまわした。「技術 というのは手続きですネ。はじめにプランができて、それ ときも何かの本をかかえたなりで安吉に訊いた。 「片ロ君、酒はほんとにうまいですか ? 」 を具体化する順序がきまって、それをその通り順々に運ん 第一がで 「うまいです。」と安吉はしようことなしに答えた。 で行けばいい。 第一のつぎに第二をやればいい。 「どんな風にうまいんです ? 」 きたからといって、第二が第二でなくなるということはな 内垣には、酒がうまくて飲むという人間が、不思議な習 、。すなわちあらかじめ決定されていることが肉づけられ 性をもった何かの動物のようにーーーしかしその習性が別にるだけだ。芸術はこれと異なる。プランはある。しかしそ 、も 人に害はあたえない。 不思議に見えるらしかった。内れが実現されはじめるや否や、それは新しいものをつくり 垣の澄んだ目を見ていると、酒をのむこと、むしろ酒が好だす。いちおう第一段、第二段とありはするが、それは予 ら むきだ、うまいということがすでに下等なことのように安吉定の終了という形をとらない。その点で手続き実現の性格 に感じられた。今では安吉にも、のまずにいることがそれが異なる。第一段の実現があたらしい条件となって、ある まじめ ほど苦痛ではない。真面目な話にかぎってシラフでは切り程度予見されていた第二段が第二段でありえなくなり、全 つるぎ だせなかった松本や鶴来とも、このごろは酒なしに真面目く異なった第二段があらわれざるをえなくなることがあ

4. 現代日本の文学 19 中野重治集

「地震のとき、ヨシワラ・メーチヘンがたくさん死んだても話せそうにないからでもある。忍術なぞ出てきたらそ れきりという思いがする。「いや、いや。日本映画が映画 幻というのは本当か ? 」とその蝦蟇のようなのが訊く。 「ほんとうだ。」 として上等かどうかが問題じゃないのだ。わるいナ : : : 」 と思うが同時にチャン・ハラなそは隠しこい 「いたましい ! 」という顔をしたその男が、「お、あれは だんだんするうちに、救援会の仕事がうまく運ばぬらし . ・た ? 」レ」ノ \ 0 車は京橋へんを走ってるらしく、二三軒、焼け残った蔵いことに安吉も気づいてきた。リーン ( ルト自身、思いあ かっこう ぐねたような恰好でやはりそんなようなことを口に出す。 造りの店屋が塊まっているのが見えた。 「むかしの店屋だ。」 一方安吉の方も、いつまでも通弁にかかってはいられな Menschlich schön 一 : い。佐伯が帰ってから、マルクス主義芸術研究会の方も何 てもと かと忙しくなってきた。また佐伯が、おばさんを手許へ引 「何て日本語でいうんだろう ? 」と安吉が君う。そういう き取りたがってもいる。すでに彼は、合宿を引きはらって menschlich の日本語がない : 郊外に館の世話で一軒借りて移っている。いずれは公判に 三人は芝居へはいった。二流どころの役者がやってい る。 しても、学連件は学連事件として、それなりに新しい規 模で学生たちが動き出してもいる。合宿では、おばさんに 「あれは何だ ? 何をやってるんだ ? 」 それを安吉は知らない。・フログラムも買ってある。それ行かれては困るじゃないかといって佐伯の要求を拒んでい を見ても安占にわからない。筋書きを読んでみたが、もとるが、下心には、おばさんは合宿のもの、共同のものとい もとが知らぬのだから訳しようがない。交占はひたすらご う書生風に気楽な考えがある。しかし結局は、息子のとこ ま化してなるべく早く外へ連れ出した。 へ帰さねばならぬだろう。しかしおばさん自身も、間には かっ′ - う・こや 汚い活動小舎があって、毒々しさまって弱っているらしい。 労働者街を歩いて行く。 ある日安占は、リーンハルトの希望もあって上野博物館 いチャン・ハラものの絵石板があげてある。 だんこん 「映画を見よう。東京の労働彗街でどんな映画をやってるヘ連れだって行った。黒い門柱の弾痕を見せて維新戦争の か見たいものだ。」 話なそをしたが、せめて英語の解説書を売っていないかと だるま かんのんぞう いわれて売っていないのに弱り、陳列に達磨や観音像があ 「止そう、止そう。あれらはつまらぬのだ : : : 」 しり 出来ばえが恥かしいのでもある。国定忠治の話なそ、とるのに全く説明通訳に弱り、美術見物が尻切れとん・ほにな くら

5. 現代日本の文学 19 中野重治集

412 一一月、第一回衆議院議員渟通選挙に香川県で立候補した労働農民党間行される。十二月、保釈出所する。 一一十九歳 の大山郁夫の応援に行き、高松で逮捕され、三月はじめ香川県を追昭和六年 ( 一九三一 ) 放され東京に帰る。三月十五日、いわゆる三・一五件で淀橋のプ二月、市外落合町上落合四八一に転居。夏、日本共産党に入党。十 、労農芸術家連月、ナップ出版部で準備されてきた『中野重治詩集』が製本中、警 ロ芸合宿から検東され、まもなく釈放される。」 盟から分かれてできた前衛芸術家同盟 ( 前芸 ) と日本ゾロレタリア察によって押収、発行を禁止された。十一月、日本プロレタリア文 化連盟 ( コップ ) 成立、中央協議員に選ばれる。 芸術連盟とが合流、全日本無産者芸術連盟 ( ナツ・フ ) 結成。四月、 その創立大会で常任中央委員に選ばれ、五月、機関誌「戦旗」の創昭和七年 ( 一九三一 l) 二月、コツ・フが「大衆の友」を創刊、編集に加わる。四月、コップ ー説、詩、評論を書く。六月、「い 刊と編集にたずさわり、後、小 わゆる芸術の大衆化論の誤りについて」を発表、十一月まで蔵原惟にたいする弾圧がきびしくなり、多くの作家同盟員と前後して逮捕 人と「芸術大衆化論争」をつづける。十二月、全日本無産者芸術連される。夏、豊多摩刑務所に収容され、治安維持法違反の容疑で取 盟 ( ナップ ) 改組、全日本無産者芸術団体協議会 ( 略称同じくナッり調・ヘられる。以後、昭和九年五月まで獄中。十一月、味はまを死 去。 ・フ ) となる。 三十一歳 昭和八年 ( 一九三一一 D 一一十七歳 昭和四年 ( 一九一一九 ) 二月、日本プロレタリア作家同盟 ( ナルプ ) 創立大会。中央委員、二月、豊多摩刑務所面会室で妻から小林多喜一一の殺されたのを知ら あわせてナップ中央協議員に選ばれる。九月、評論集『芸術に関すされる。この年後半、共産主義運動の指導者たちのあいだに「転向」 る走り書的覚え書』を改造社より刊行。夏衍訳日本新写実派作品集の生じたこと、検事局がこれを発展させつつあることを知る。 三十一一歳 昭和九年 ( 一九三四 ) 『初春的風』 ( 上海・大江書鋪刊 ) に「春さきの風」が収められる。 十月、「芸術に政治的価値なんてものはない」を「新潮」に発表、三月、上海の現代書房より尹庚訳『中野重治集』刊行。五月、東京 控訴院法廷で日本共産党員であったことを認め、共産主義連動から 「芸術的価値論争」に参加。 二十八歳身を退くことを約束し、懲役二年執行猶予五年の判決を受けて出 昭和五年 ( 一九三〇 ) 四月、原政野 ( 原泉 ) と結婚、市外滝野川町田端四四五に住む。五所。妻のいた四谷区永住町一に住む。九月、「村の話」を「帝国大 月、日本・フロレタリア作家同盟主催「『戦旗』防衛三千円基金募集の学新聞」に発表。十一月、「イデオロギー的批評を望む」を「文学 : ・、小林多喜二らと関評論」に、「多少の改良」を「改造」に発表。小説「第一章」を書 ための講演会」で江口渙、片岡鉄兵、大宅羽一 西をまわる。帰ったところを、日本共産党への活動資金提供のかどく。十二月、淀橋区柏木五ノ一一三〇に転居。 三十三歳 昭和十年 ( 一九三五 ) により治安持法違反容疑で逮捕、豊多摩刑務所に収容、起訴され る。その間六月、最初の小説集『鉄の話』が戦旗社より、十一月、一月、『レ】ニンのゴオリキーへの手紙』を改訳、岩波文庫の一冊 小説・詩・評論・随筆の選集「夜明け前のさよなら』が改造社よりとして刊行。四月、「鈴木・都山・八十島」を「文芸」に、五具

6. 現代日本の文学 19 中野重治集

左北海道に小林多喜二の 母セキさん ( 中央 ) を訪ねて。 後列右から三人め重治、そ の左二人め関鑑子 ( 昭和二十一年七月 ) 下第一回全日本民主主義 文化会議で報告する重治 ( 昭和二十二年七月 ) 一→ 全日民 供 提 くらはらこれひと 蔵原惟人、山田清三郎たちは労農芸術家連盟 ( 労芸 ) 共を結成、プロ芸に残った中野重治、鹿地亘、谷一、久 板栄二郎、千田是也たちは機関誌「プロレタリア芸術」 を創刊して、対立した。ところが労芸は同年の十一月 に再び分裂し、労芸に残った青野季吉、葉山嘉樹、里 島伝治たちに対して、脱退した林房雄、蔵原惟人、田 ロ憲一、山田清三郎、村山知義たちは前衛芸術家同盟 これが ( 前芸 ) を結成、機関誌「前衛」を創刊した。 ていりつ いわゆる三派鼎立時代である。中野重治の「新聞にの った写真」以後の詩は、主としてこの期間の「プロレ 六、ミ制の当兀全 タリア芸術」及び「無産者新聞」に発表されたもので 文化巫 2 わ叩時物 ある 企治のための物》をわをの手え だが、この三派鼎立時代は半年と続かなかった。そ れは昭和三年一月に蔵原惟人が「無産階級芸術運動の 新段階」 ( 前衛 ) なる論文で統一組織の結成を提唱し、 三月十三日には日本左翼文芸家総連合の総会を開くと す刊 ころまで漕ぎつけていたことにもよるが、その二日後 〇・ 0 第⑨の にいわゆる三・一五事件が起り、この全国的弾圧をき つかけとしてプロ芸と前芸が合同、全日本無産者芸術 一一 ) ・@獗000 ッ 日本文の匙 連盟 ( ナソプ ) が結成されたためである。中野重治は 常任委員に選ばれ、四月に創刊された機関誌「戦旗」 評論集『日本文学の諸問題』の編集にたすさわることになった。 新生社刊・昭和二十一年『春さきの風』 ( 昭和三年八月 ) と『鉄の話』 ( 昭和四年 433

7. 現代日本の文学 19 中野重治集

なければならなかった。そういう中野重治の芸術観が、 地を作ってしまうためである。そして第三に、意識性 他のプロレタリア芸術運動家との間にどんな緊張を生 Ⅱ前衛性Ⅱ社会主義文芸という等式から、文学とは意 んだか、およそ次のようになる。 識 ( イデオロギー ) の形象化であるという定義が出来 大正十五年九月に青野季吉が「自然生長と目的意識」上ってしまうからである。昭和二年四月に「文芸戦線」 ( 文芸戦線 ) を発表して、わが国のプロレタリア文学同人に推薦されながら、中野重治がこれを断ったとい うのも、これらの批判点があったからにほかならない 運動に一転換をもたらしたことは、よく知られている。 ただ、目的意識を植えつけるという言葉の解釈をめぐ 芸術の役割を、中野重治のように大衆の感情的組織 って理論的な混乱が生れたため、昭和二年二月に林房 と考えるか、青野季吉や林房雄のごとく意識性を注入 雄が文芸戦線社説として「社会主義文芸運動」を発表、 する大衆指導 ( 獲得 ) と考えるか、論点はきわめて微 「自然成長性とは無意識性の意味であり目的意識性と 妙であったけれども、結果的にはこの相違がプロ芸の だから目的意識生の目的 は意識性の意味である。 分裂を生んだのである。しかもプロ芸を脱退した青野 と言う字句には特殊な意味はよ、。 オし」「無産者運動に於 季吉と田口憲一が、昭和二年七月に発表した労芸「綱 ける大衆の行動は無意識的であり、自然生長的である。 領」をみても、かれらの基本的な考え方は変らなかっ 前衛の行動は意識的であり目的的である。」「社会主義 たばかりか、かえって、「意識過程の闘争 ( 芸術運動 ) 文芸運動は前衛の運動である。」という内容の定義づけ も、当然、党に於てなされねばならぬ、換言すれば、 を行った。しかしこれに対して中野重治は、全面的に この意識過程を擘ら対象とする闘争の機関を、党の組 反対した。それというのも、ます第一に、前衛 " 意識織の中に設けなければならないのである。」といった具 的、大衆は無意識的という規定は暗黙のうちに大衆蔑 合に、はっきりと党の指導性が確認されてしまってい 視を含み、指導と被指導の関係においてしかとらえら た。それ故、この党従属的発想に関するかぎり、次に れていないからである。次いで第二に、目的意識性と 起った労芸派の分裂は何ら変りはなかったわけで、要 いう言葉から目的を抜き去ることにより、意識羅日前 するに労芸は労農党を選び、前芸はコミンテルン ( 日 衛性という等式を作りあげて、安直に芸術運動家を前 非合法共産党 ) を選ぶといったように、上位機関の選 衛に仕立ててしまい、結局は芸術運動の党従属化の下択をめぐっての分裂にすぎなかったのである。 436

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右魚を料理する世田谷の自 宅にて ( 昭和三十年 ) 上苦難の思い出がある豊多摩 刑務所を背景に右から立野信 之、重治、左端は壺井繁治 事態がそういうものであった以上、昭和三年にプロ 芸が前芸と合同したということは、けつきよく中野重 治にしてみれば、前芸派の党従属的発想体質を背負い 込まされたのと、おなじことでしかなかった。こ、つし て起ったのが、蔵原惟人や林房雄 ( 旧前芸派 ) と中野 重治 ( 旧プロ芸派 ) との間の芸術大衆化論争であった が、私の知るかぎりで言えば、中野重治が芸術運動と 党との関係を容認する立場を明らかにしたのは、昭和 四年四月の「我々は前進しよう」 ( 戦旗 ) が最初であっ た。それ以前の中野重治は、頑固に、芸術運動を党 ( 支 持 ) 員獲得の下部組織とする考え方を拒否し、自ら党 という言葉を用いることさえ避けている。その意味で 私たちは、若き日の中野重治こそ最も過激な政治闘争 至上主義者であったというふうな定説を、今、改める 必要があろう。 ただ中野重治のばあい、かれが党従属的発想を頑固 に拒んできた理由として、ほとんどア・プリオリにプ ロレタリアートを普遍的 ( 価値的 ) 存在と見なす観念を 抱き、そのプロレタリアー トに直接するところに芸術 の感動が得られると考えていた点が、指摘されねばな らない。そのうえ中野重治のプロレタリアート像は、 深く農村に根ざしていた。農民はただ近代的な都市工 場労働者と結びつくことによってのみ革命的存在とな 438

9. 現代日本の文学 19 中野重治集

140 ものは必ずすぐ元のところへ差しこむのにちがいなかっ文学方面のものを中心にして入れたがっている。世界大戦 ぐんばっ ばくろ た。頁を折ったり、箸を挾んだり、いきなり何かを、筆ででのドイツ軍閥の内部腐敗の暴露ものなそも、写真と公式 でも鉛筆ででもペンででも書きこんだりする安吉のやり方文書とを豊富に入れたものが大分はいっている。ヘルミニ はここでは決してやられていないにちがいなかった。カー ア・ツーア・ミューレンという作家の。フロレタリア童話の テンごしに庭の木が見おろされた。読んだり書いたりが好絵入り本なそもはいっている。エルンスト・トルラーその き勝手にできるという意味での質素、清潔、便利がそこに他のドラマもはいっている。ドイツからはゲォルゲ・グロ スの新画集もはいってきた。それからケーテ・コルヴィッ あった。 マルクス主義芸術会をどうするかということで沢田は彼ッという、これは女の画家だが、それのすばらしい画集が はいってきた。もっともマルクス主義者ではないから、小 の意見を話した。研究研究とだけでは仕方があるまいでは : ロシャ ないかと彼はいった。創作と運動とに結びつくのでなけれ・フルジョア的な暗さからまぬがれてはいないが : ば、理論的研究は解釈論ですんでしまうだろう。大学の社ものもさかんにドイツ訳されてはいっている。おれたちの 会文学研究会とも、大学外のプロレタリア文学団体とも、会にロシャ語をやるのがいないのは残念だが、これも外国 語学校や早稲田大学の方で見つかるはずだ。それまではド 築地小劇場そのほかの急進小劇団とも、美術の方の新しい ィッ訳からの重訳も大事だろう。君なんかも少しゃれ。医 グルー。フともつながりをつくって行かねばならぬだろう。 おいおいには『無産者新聞』にも文学よみものを提供する科の伊能が、レーニンの序文つきの『クーゲルマンへの手 ようにしたい。佐伯がいなくなって手がないのだから、こ紙』をドイツ訳からやったはずだ。これは佐伯の名でもう れからは安吉にももうすこし身を入れてやってもらいたいまもなく出る : ものだがどうだ ? 「何で、また、伊能で出さないんだネ ? 」と安吉は訊い 」 0 「むろん、それはやるよ。」と安吉は請けあった。 それから童話や少年文学の方にも目をむける必要がある「何でだかネ : : : まア、佐伯の方がポビュラーだからだろ だろう。ドイツへんでは、表現派よりもっと新しくて堅実う。医科の連中の、くせでもあるんだネ。」 な動きが表に出てきたという話だ。そのへんのことは館が さっきの老女がそこへ茶の盆を運んできた。安吉も沢田 知っている。館はこのごろドイツ本の輸入をやりはじめも茶碗を口へもって行った。「つまりあの程度のことで、 た。商売だからには何でも扱うが、館本人としては芸術・連中はポ。ヒュラーだなんてことを受けとってるのだナ : はしはさ ちやわん のう

10. 現代日本の文学 19 中野重治集

る。このものは、第一段の実行によってのみ現実の条件とて、思わぬところで相手を傷つけてしまうこともある。相 貶なる。この実行ということが芸術実現の手続きの性格だ。手の話をじっと聞いていて、最後に決定的な自分の意見を そこに動があり、創造がある。これが技術の静と異なる。 いうーーその真似にはキザっぽい気取りもみられたが、そ はんらん 叛乱があたかもそれだ。大略のイメジはある。しかしそれれでもそんな「心がけ」になれるところが、相手にみなま が実現されはじめるや否や、予見されたものとはちがったでいわせずにやつつけてしまうことに互いに快感を感じて ものが生まれうる。生まれうるというよりは、すなわち可きた今までの安吉たちの行き方よりもいいことのように見 能というよりは、むしろその方こそそこでは一般的だ。そえた。しかし内垣にはその気取りがそもそもない。彼に れは予見自身をも変革して行く。叛乱はかくて創造だ。そは、長者にして秀才なるものというところがあった。安吉 れは芸術だ。こうですネ ? 」 は二階へのぼって、ささいな幸福感のなかで机の引出しか ひざ 「うむ。ま・ : : こ らウコン木綿の小さい包みを取りだして膝の上にのせ 「大分わかってくるぞ。どうもありがとう : ・ : こ こふろしき それだけ幸福になったといった内垣の調子が安吉をも幸あぐらの膝の上で安吉はその小風呂敷をといた。なかか ねすみいろふるわた 福にした。エンゲルスのいったという元の言葉からはなれら鼠色の古綿にくるんだものが出てきた。安吉は古綿をむ てしまって、解釈だけ勝手に一人あるきしすぎた気がちら いた。なかから人形のようなものが出てきた。高さ四寸ば ろうせき ざぞう くぼ りとしたがそれは消えてしまった。内垣が、人のいうこと かりの蠍石をきざんだ坐像で、衣の襞なそは窪み一本であ を楽しむようにして聞いていて、本人にも案外なへんまでらわしている。そのつやっしたヤニ色のものを手の平にの きれいにまとめてかえしてくれるのが小さい音楽をきくよせて、それをまわすようにして安吉はためっすがめっして ばあ うに安吉にはこころいし いったい新人会の連中には、こ眺めた。まわすにしたがって、受けロの婆さんのような人 れまでの安吉たちとちがって、他人の話をしまいまで聞こ 間の表情がほんの少しずつ変って見えてくる。そのと・ほけ うとするがあ 0 た。そのうち安吉は、それがレー = ンの たようなアルカイック風なほほえみが、言いようのない安 真似だということを知ったがやはり感心した。安吉の場合らかな楽しみを安吉にあたえる。重さともいえぬその重さ は、言葉がさきに飛びだしてしまう。飛びだしてみると、 を手の平に感じることに、内垣との話から受けた一種の幸 それは、まだ形をなさぬ形で頭に浮かんだ、一瞬まえのも福感の安吉のなかでの反芻があった。安吉はこれを父から のとは違ってしまっている。感情をまじえた表現になっ貰っていた。朝鮮のどこかで、ある種の日本人が、古い朝 こ 0 もめん ひだ