雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる 雨は羽らのあつい頬にきえる 君らのくろい影は改札口をよぎる 君らの白いモスソは歩廊のにひるがえる シグナルは色をかえる 君らは乗りこむ 君らは出発する 君らは去る さようなら辛 さようなら金 さようなら李 さようなら女の李 行ってあのかたい厚いなめらかな氷をたたきわれ ながく堰かれていた水をしてほとばしらしめよ 日本・フロレタリアートの後だて前だて さようなら 報復の歓喜に泣きわらう日まで はお いよいよ今日から いよいよ今日からこの一坪で生活だ 石守がうしろで戸をしめる しめろしめろ錠をおろせ ぐるりと見まわす部屋の隅にはオマルの使器 壁に高窓に鉄格子 たた おやもう隣りから叩いてくる 叩きかえすぞ隣りの同志 叩くぞ叩くぞ 壁を叩くのは俺の自由 隣りへ伝えるのは壁の自由 俺の自由はうばえても 隣りへったえる壁の自由はうばえまい さあていよいよ今日からこの一坪で生活だ この一坪で俺さまの仕事の継続だ 足音ぬすんで覗きたければ覗け お前がこっそり覗いているうちに 俺さまの心は成長する 俺さまの心は年輪をきざむ のそ すみ
た。沢田のところを出てから安吉はワンタンを晩飯に食っ 「そばをくれ : ・ : こ ていた。そして電車賃だけ残してーー・電車で帰らぬことが それをこさえるところを見ているのがいつも安吉にはた せん どんぶり わかっていてやはり彼はそうした。 シ、ウマイを一皿のしい。杉葉を栓にした瓶をさかさにすると丼のなかへ ねぎ 食った。いま安吉は、ズボンのポケットに十銭白銅一枚だ下地が落ちてくる。葱に縦に切れ目を入れておいて今度は きざ け残っているのを知っていた。どうしてもそこに、白山と小口からちょんちょんと刻んで行く。そばを入れた目ざる 肴町とのあいだの、一一本の電車道をつなぐあのの胴のよを釜につけて、急に引きあげて振 0 て湯を切るしぐさ。う かつおふし うになった通りに、湯気があちこちして屋台が出ていなけしろの小引出しから鰹節のかいたのを出してふりかけ、ま やきのり ればならない : た別の小引出しから焼海苔の切ったのを出してのせ、また たけのこ わりばし 根津のごろた石の多い坂はとっくに通りすぎていた。何別の入れものから茶色の筍ようのものを割箸でつまんで とかいう薬学専門学校のところも通りすぎていた。何があ入れ、ままごと用のような小さな板の上で、ふちを赤く染 るか知らぬなりに勝手知ったという感じの道をどんどん歩めた焼豚を削るようにして殺ぎおとしてそれを一枚か二枚 きぬけて行って、本郷の電車道へ出た彼は頭を低くするよ入れーーーそれを入れるか入れぬかで十銭のと十五銭のとが うにして目あての通りへ急いだ。 別れる。 割箸でなかのそばを解きほぐすようにして、 とう・、らし 彼は胴の通りへ折れた。屋台は、やはり湯気を動かしてプリキ罐入りの唐判子をそえて「へえ、おまちどおさま 灯をともしていた。電車道は両方ともがらんとして、安吉 」といってさし出されるまでの湯気のなかでの一幕。 に見える限りは一つも人通りがなく、屋台の横丁は屋台以「へ、おまちどおさま : : : 」といって出されたのを左手に 外はま 0 くらくなって眠 k っていた。屋台は通りのまんな取って、右手の箸を口へ持 0 て行 0 て歯で割ろうとして安 かへ出ている。灯のとどく範囲だけ・ほうっと見えてそれな吉はふいと不安になった。そういえば、・ほんやり眺めてい , も り闇のなかへ消えて行く湯気。屋台のおやじの使うごく軽て、「あ、豚を入れるナ : : : 」と思ったはずだった。 ぎ いうちわの音。屋台全体がいかにも粗末にできていること「おじさん、これ十銭かい ? 」と安吉は丼を中途半端にし ら たままで訊いた。 むがいかにも屋台を生きたものにする。湯気のあったかさ、 湯気の幕をくぐりぬけて顔をつつこむ一種のよろこばしさ「いえ、十五銭いただきます。」 で安吉は湯気のなかへ顔をつつこんだ。 「そうか : : : 」 「へえ、いらっしゃい。」 あしたの朝めしまで、このすき腹はそのままだナという かん びん
132 像の部分図の下書きといったところにそれが見える。つま吉は知っていた。おばさんのいちばん幸福な瞬間の笑い声 り大勢がおそわれて、大勢が逮捕されて、それを画家が目 ・ : そんなときの彼女は、筒つぼの腕をあげて、それ以上 へきが で見たのだったろう。それからクリスチアニア大学の壁画幸福に見えるのを遠慮するかのように両手でロのハタを囲 の下絵が出てきた。そこでも労働と生活とが正面に出てい ってしまう。合宿のかれらは青年らしくよく食った。合宿 る。何というちがいかー実物はまだ見ていないが、大講としての会計は彼らを満足させなかった。何を菜にして小 びる そな 堂の小杉未醒の絵はとてもこんな風ではなかったはずだ。昼を食うか ? 太田の発案でトロロコンプを具えることに わん かつおふし でも、あれは、どこでその写真を見たのだったろう ? あして、何もないときは、トロロコンプを椀に入れて、鰹節 しようゆ すこでは、水がめを頭にのせた娘が肥えてみち足りた顔をと葱のきざんだのとを入れて、それに塩と醤油を入れて熱 していた。ここでは、人相も構図も忍苦の表情で欠乏をう湯をそそいだだけでかれらは二三杯も冷めしをかきこん ったえている。そして、これこそが順直なプロセスなのだ。そのトロロコンプを、太田がいちばんによく食ってし だ。「異端」と見えたものはここへとたどって行くのだ。 よっちゅうトロロコンプ、トロロコン・フという。おばさんが そしてそのことが、いくらか甘やかし気味に彼自身のコー昆布の罐を出してきたらしく、太田がカまかせにかしつか スを肯定してくれるもののようにも彼に見えたのだっしっと鰹節をかく音がする。安吉は、その音が音に似げなく 牧歌的な思いにひき入れるを不思議に思った。あたりに物 音のないせいの上、おばさんと太田とが、ものを食うとい 「ごはん、もうないんでしようネ ? 」 うことのために余念なく身を入れているのがわかるせいと ドタドタと降りて行った太田とおばさんとの問答が下か らぎこえてきた。 安吉は解釈した。いったいおばさんが、食事をつくって青年 たちに食わせるのを楽しんでいる様子には、安吉を感動さ 「おひるあがらんとおっしやってでしたから : : : 」 せるような何かがあった。はじめ安吉は、佐伯哲夫が彼女 「何かありますか ? 」 の息子だということさえ知らずにいた。何かの研究会で、 「クサヤがありますよ。」 連中が「おばさん」といって呼ぶこの人を、佐伯が「おっ 「トロロコンプありませんか ? 」 「うッほっほ : : : 」という声があがってきて安吉も笑顔をかさん : : : 」と呼ぶのを見て彼ははじめてそれに気づいた した。それが、「トロロコンプを、わたしが、切らしておくのだった。誰から聞いたとなしに知ったかぎりでは、彼女 もんですか : : : 」といった意味の笑い声だということを安は若くて子供一人あって後家になり、そのときを境に家産 えがお こんぶ ねぎ かん
340 実際俺は、彼らがそれをどこで工面したか今もって知らな紙に黒々と染め出された「義勇公ニ奉ジ」が見えた。要す いのだ。 るに俺はの・ほせ上っていた。 おまけに、明日の朝という前の晩に親父がとんでもない とうとう俺は席を進み出た。 ことを言い出した。 俺は大きなテープルに向って進んだ。 「おみね、おみきを一ばい買うてこい ! 」 幅の広い紙が延べられて、佛に非常に大きな硯と非常に お袋はまっ蒼になってすくんだ。 太い筆とがあった。 「おみきを買うてこいというがわからんかー」 俺は何べんとなく敬礼した。 あきびん お袋が酢の空瓶をドげてコソコソと出て行った。 俺は筆を取ってドッ。フリと墨を含ませた。 朝になった。 俺は慄える腕を上げた。 だんな 俺は川田の檀那と校長とにつき添われて停車場へ歩き出「義 : ・ した。 ( 校長のことは一ペんもいわなかったがこいつはた しかし筆が紙につかなかった。どうしてつけれるか ? だ馬鹿だ。 ) 白い紙の上にありありと浮き上った「義勇公ニ奉ジ」とい ふたえ 川田の檀那と校長としきりに何か言いかけた。俺の耳にう薄い鉛筆の二重文字をどうして見ずに済ませるか。 死んだ兄貴の顔。親父とお袋の顔。おみきの盃、新しい 一つもはいらなかった。俺は出征兵士みたいに沈んでい けいこ こ 0 下駄、シャッポ、。「義勇公ニ奉ジ」の毎日毎日の稽古。 大たい俺は、その日どんな風に時が経過したか少しも知そして最後にこの二重文字。この鉛筆の下書き。この最劣 らないのだ。 等のペテン。 場所は郡役所の二階だったが、どこをどうして郡役所へ 俺はぶったおれた。 行ったのやら、会場がどんなだったやら、どんな人がいた あとがどうなったか俺は知らない。要するに俺は家に帰 のやら一つも知らない。 俺の眼り前には死んだ兄貴の顔がぶら下っていた。親父 九その結果がどうなったか ? とお袋との伸び上ってる顔が見えた。お仏壇の兄貴の修牌 そな に供えたおみきの盃が見えた。入り口の下駄箱の中に脱早く切り上げよう。 その結果、お袋の姉、俺の伯母さんの予言が的中した。 いできたおろしたての下駄が見えた。それから大きな白い おれ す さお さかすき っこ 0 ふる すすり
風にオーベルマンスはいった。答えのぶざまさは安吉によた。大ぎな腕、大きな強そうな手、手の平、カがあ 0 てよ くしなう肥えた色の白い指 : : : 不自由で清潔な生活をして くわかっていた。ゲーテのある戯曲の筋が頭に出ていたが タ国人、その指や手の平や甲が、神聖な いるにちがいないト 名前が出ないのだった。 「ゲーテは「タウリスのイフィゲ = ー」を書きましたか ? 」もので同時に親しいものという風に安吉のなかで思われて くるらしかった。 「はい。彼はそれを書きました。」 「「タウリスのイフィゲニー』は戯曲ではありませんか ? 」 このこと全部を思い出しながら安吉は小石川へ急いでい 「はい。それは戯曲です。」 た。電車はごとごとといって富坂を登った。坂はまっきだ 「よろしい。」 机の上の紙綴りを右側へ移して、左手の小机からつぎの 「まにあうだろうか ? まにあう。時間はまにあうがはい 論文を取ってオーベルマンスが安吉に目配せした。安吉は れるかナ ? とつつかまるかナ ? 断じてはいるぞ。岩月 腰かけから立って、教授たちを見ずにすむように右まわり でむきをかえて教室から出て行った。 岩月や雨森やの顔が切なさのようなもので思いだされて 「お前はハイネについて書いたか ? 」といったのは、「あ くる。警戒は必ず突破できると根拠なしに安吉は思った。 のへんてこなのを書いたのはお前だったのだナ ? 」という そう見限っ合同の争議は解決させられていた。それは負けではなかっ ことだったのだろう。こんなの仕方がなし こ。しかし勝ちともいえなかった。最後に近づくにしたが てしまって、ただ卒業だというので、体裁だけ親切でととナ ざた ってそのことが新人会でも取り沙汰され、そのことで研究 のえてくれたのだろう。一つも ( ィネのことを訊かなかっ こ。問いそのものが、番待ちでいて聞いたほかの学生のと会が一度あ 0 たがそれはそれきりにな 0 た。試験期という は格段にやさしか 0 た。やさしいなんというカテゴリーじことが学生のあいだから大事なことを閉め出していた。試 ぎ 験期、それに続く休暇期、その連続のなかでばあっと散ら ゃないや : ざる む幼稚園入学のとぎのような問答、びく 0 いて教授のロ許されるー、ーぬかごの笊をあけたような大学生群の情けな を見ている大学卒業候補生、そのおかしい馬鹿らしさが頭さ、そのなかに安吉自身くみ込まれていることが安吉に見 はんすう 燔のなかで続いて、反芻する大きな牛のロのようなものにダえるように見えた。 ・フ 0 てオーベルンスの手の恰好が安吉の目に浮かんでき伝通院前で降りた安吉はま 0 すぐ中門〈歩いて行 0 た。
やはり、印象の記憶ではどこまで行ったって怪しいナ。第 スに必然に外れて行くのである。」 もしかしたらそれは、論説の印象の記憶とは言通りに 一おれには、例の小松川署でもわかった妥協精神みたいな ものがあるし、おれ自身学生なもんだから、学生につらく いえぬものかも知れなかった。安吉自身、「これはつまり あのときおれに強く来た一点でだけの印象ということにな当ったと見える点だけを誇張して受け取りたかったのかも るだろう。あのときおれは、それを読んで、まだおれはこ知れんのだ : : : 」と今も思えた。しかしそれにしても、合 むじゅん こに矛盾を感じると思った。あの『まだ』というのがおか同の動きにどうそれが関係して行くのだろう ? うまく、 しい。あの「まだ』を自分でもう少し追跡してみねばならそっなく行けま、 電車は富坂をの・ほりきって伝通院前へ停まろうとしてい なかったのだろう。それはとにかく、あのとき連中は未決 た。右手に富坂署の玄関が見えて左手に軒の低い本屋の店 にをいったばかりだったのだから、あんな風にだけいった のでは当の学生たちに気の毒たった。おれとしてそう感じが見えてきた。 たのだ。階級的政党と学生グルー。フとを取りちがえたのは「あれ : : : 」と安吉は片山の腕のところをつついた、「あ れきせんどう しの本屋ネ。あれ礫川堂っていうんだよ。樋口一葉ネ、あの おれはいまだに学連の綱領というのを知らないが 人の妹があれをやってるんだ。」 かしそういえば、その「前衛党』の《第というのも知らな : ネ ? 」といって片山がそっちを見た。 もしそうならばそれは学生たちの誤りだっただろ「ほおう : その妹という人を安吉は一度みたことがある。写真の一 う。しかし問題は、すでに誤りそのもののなかにすら、学 生グルー・フと労働者階級との階級的結合が実現されているよりもーーあれは絵を写真にしたものだったろうか ? 大柄で立派に見えた。店には社会科学の本なそはあま ことを指摘することにあったのではないか ? 何だかあれ では、学生たちが飛びあがって、大きな労働者階級の代理りなかった。中学生や小学生相手の文房具が並んでいて、 のような顔をしていい気になっていたところをびしやりとそれがいかにもその店らしくもあったが、続けて店を覗く やられたといったようだったではないか ? むしろあすこ理由が安占には見つけられなかった。その頃はこのすぐド ら むで、学生たちがそんな量見ちがいを起さぬところまで、労の若越塾に、つまりこのおれがまだいたのだった。一葉に 働者階級の階級的政治闘争・政治活動が成長していなかっしても : : : いやおれにしても、だ。あの頃とっととこの街 たことをこそ取りたして、その点での責任と激励とを労働を過ぎながら、合同のことなどは殆んど念頭にも浮かんで 者階級全体にあたえるべきだったのではないか ? しかしはこなかったのた :
102 ちょうど鹿のようだ 東京へ出てきて以来二た月の余にもなっていたが、ど うにも彼はせっせと教室へ出る気がしなかった。このくす 彼は家へ帰ってそういう詩を書いてみたが慰まなかつぶった気持ちは、彼としてどこへ故障の持ってゆきようも こ 0 ないものであった。もともと彼は、心の奥には作家として こうして今日も彼はぶらぶらと大学のほうへ歩いて行っの運命を自分の上に置いていた。しかしだからといって、 た。彼は追分のほうへ近づきつつあった。 今の今そういう仕事が自分の全部を領してしまわねばなら 突然彼は立ち止ってぎよろきよろと見廻した。彼は鼻のぬということは、一種の未練に似た気持ちからも一気には あな 孔をひろげて、鼻のまわりの空気を、むしろそのなかのあ受け入れることができなかった。では何にたいする未練な る匂いを、痩せた両肩を首根っこへ引き上げるようにしてのか ? そのことがまだ安吉自身にもはっきりしなかっ らっきよう きゅうっと吸い上げた。その一瞬で、彼はそれが薤の匂た。 せんさく いであることを認めた。するとまた別の匂いが流れてき しかし詮索してみれば、そのなかにはたしかに作家とい からな た。それをも彼は吸い上げた。たしかにそれは辛菜の匂いうものにたいする一脈の疑惑といえるものがあった。いっ だった。 たい作家とは何なのか、彼らはどういう生活の仕方をして いるのだろうか ? 彼は見廻した。彼はすぐ左手のところに野菜市場をみつ はくさ けた。キャベツや白を山のように積み上げた馬力がそこ彼は田の町にいて、東京にいる作家たちのあらゆる種 から出て行くのが見えた。白菜の肌の緑色と白とが美しく類の作品を読んでいた。毎月の雑誌に出る小説の類、それ 朝日に光 0 ていた。大きな竹籠の積まれたうしろには真らの本にな 0 たものはもちろん、随筆とか小品とかいわれ しようが な生薑の山の濡れたのが見られた。それらの匂いと味の記る雑多な雑文をも彼は文学少年らしい熱心さで読んでい た。それらの雑文のなかには、彼らの日常生活を伝える日 憶とは、今の安吉にとって全身的につうんとくるものだっ た。舌ばかりでなく彼の精神が唾をたらすようだった。彼記類から噂話までがはいっていたが、それらによれば、彼 たまねぎ なだ は玉葱を切った時か何かのようにうっすらと泪ぐんできらは朝は牛乳とパンとで軽い朝めしをすまし、それから机 に向って昼すぎまでものを書き、午後は町へ散歩に出たり 友人を訪問したりというふうであった。またたとえば、彼 あれ以来安吉はうつうっとしてくすぶっていた。あれらのとっている新聞は『読売』と『朝日』とであり、彼ら ・」 0 にお おいわけ くびね つば うわさ
ー」と髞った。 たことも眼の隅で知っていた。それは安吉が二度目にいた髪の毛を見たとき安吉は「漆のように黒い お寺の近所でもあった。彼らは、塀がわりの低い土手のあしかしそう思って見ると、「漆のように黒い」という言葉 こうしど が使いふるされているため、眼の前のこの髪の毛にたいし るまだ新しいある家の前でとまって格丘戸をあけた。 ては気の毒のような気がするのをどうしようもなかった。 「ごめんなさい。今晩は : ・ : こ をのばしていた。そして少し鼻へかかり気味の非常に 近来ふえてきた、金沢風でない安手な玄関つきあたりの ふすま 人好きのする声で快活にしやべるたちだったが、そういう 襖があいて若い女が出てきた。 ぎたな すべてが、うす汚い、痩せた、血色のあまりよくない安吉 「いらっしゃいまし。」 「や、いらっしゃい。さ、おあがり下さい。」と女のすぐらの連中にたいしてまるでちがっていた。年が半まわり以 上くらいちがうことも手伝って、彼らは沢村を「さん」づ あとから沢村があらわれた。 「さ、どうそ。まだ皆さん見えませんからここで、ここへけで呼んでいた。沢村自身も金之助たちを「さん」づけで ふうぼう はいって下さい。お い : : : 」といって沢村は細君を呼ん呼んだ。そういう言葉づかいをも含めた沢村の全体の風貌 - 」と だ、「トランクあっちへ持ってってくれ。いや、ちょっとは、殊にきちんと黒の洋服を着た場合など、短歌などひね 旅行したもんですからね。東京から今朝かえったんです。 くる人間というよりもどこまでも理論物理学の教授という 今まで昼寝をしてたもんですから : : : どうです ? 炬燵はふうであった。 きらいってわけでもないでしよう ? 」 「お二人とも卒業ですね ? 」 沢村は自分からはいって安吉たちを茶の間の炬燵へ請じ「ええ : : : 」 安吉がどっちつかずに答えたのを追っかけて金之助が自 た。沢村は高等工業の物理学の教授だった。大学からすぐ 来たかと思われるような若い男で、金之助も安吉も最近の分からロを切った。 知合いだったが、東端などは彼らよりも早く知ったらしか「僕はやめたんです。」 った。高等学校の連中のやっている短歌会へ自分でやって「やめたんですって ? 」沢村はいっそうあかい顔をして聞 きて : : : その日の会には偶然安吉も金之助も出ていなかっきかえした、「やめたって退学なすったんですか ? 」 仲間にしてくれといったのが最初たったと東端が「ええ。どうせ駄目だし、いろいろ事情もあったもんです 話していた。背は高くなかったが、血色のいい金時のよう から。」 うるし 「そうですか、それやア : : : 」といったが、沢村はそれ以 な丸顔で、その上へ漆のように黒い髪の毛ーー , 最初にこの ・」 0 こたっ
179 むらぎも 方面で専門にはたらいて行くつもりらしい。そしてそういでいる。 うことが、藤堂の場合にかぎって、パトロンとしての育英「論文は書けるんだ。」と安吉は自分をなぐさめるように 会がわをあざむくものとも、成算のない無茶な冒険とも少平井に答えた、「ドイツ語で書くのが弱るけれどネ。マク しも安吉に見えなかった。痩せてあお白い彼の肉体が、将ス・ペーヤの『歴史』があるだろう ? あれのドイツ版を 来の彼の生活で破壊されてしまうかも知れぬこともーーー治藤堂が貸してくれたんだ。あれ、いろんなことが書いてあ 安維持法の制定は直接にもそれを暗示していた。ーー、彼はるからネ。あれと書簡集とでやつつけるつもりなんだよ。 意に介しないらしかった。おそらく、たった一人の妹の運実はネ、君には悪かったけど、あのとき書簡集二冊だけ取 命をさえ彼は気にしていないらしい。そしてそこに乱暴のりのけて森山に入れたんだよ : : : 」 影がない。冷酷の影がない。彼についていえば、彼は非常「何だーあれ全部じゃなかったのか ? 」 はら 「そうなんだ。」 に鋭い頭をふくめたまま肚をすえてしまっていて、そのた 泉教授と曙したあと、支払いやなんかのためまとま 0 め、世にもおとなしい姿のままで本質的に過激な人間にな ってしまっているのらしい。安吉は、安吉のような人間をた金が必要になって、安吉は平井に頼んで平井の知ってい それなりに尊重するところが藤堂にあるように何度か思っる質屋を紹介させた。それまで安吉は鶴来の教えてくれた たことがあった。そのことに安吉がいい気になったことが質屋を使っていたが、そこでは本を厭やがったし、外国本 なかったか、安吉としてはどっちとも言いきれない。 日常では最初から話にならなかった。 の接触の上で、追分と清水町との両合宿合併の研究会のと安吉一人自慢の『 ( ィネ全集』を安吉は大学前の郁文堂 きでも、安吉は言葉のやり取りの上で藤堂に引け目を感じで買っていた。それは ( ィネ死後最初の完全な全集で、ハ 、、、ノ・フルクのユリウス・カンべから出 たことはない。しかしいつも、心のなかで、文字通りたえィネに関係のふ力しノ、 ず藤堂にひけ目を感じてきた。安吉のなかに、親にたいすていた。詳しいことはむろん安吉にわからなかったが、そ る側面だけはごま化して通過しようとするものがあって、れにはいっている註が何よりも安吉にはおもしろかった。 部分のごま化しは全体の正しい通過を妨げぬという風に『ハン・フルク毎日新聞』何年何月何日号にこれこれの記事 考えたがっているが、部分のごま化しがかえって全体の通がこのことに関係して出ているというようにしてその記事 がのっている。今の文学史などからは自然消滅になってし 過を破壊してしまうかも知れぬゾという怖れが、自分にた そうわ いして隠しきれず始終ちらちらするのをどうにもできないまったような小さくてつまらぬ挿話が、事件当時の大きさ おそ
る。このものは、第一段の実行によってのみ現実の条件とて、思わぬところで相手を傷つけてしまうこともある。相 貶なる。この実行ということが芸術実現の手続きの性格だ。手の話をじっと聞いていて、最後に決定的な自分の意見を そこに動があり、創造がある。これが技術の静と異なる。 いうーーその真似にはキザっぽい気取りもみられたが、そ はんらん 叛乱があたかもそれだ。大略のイメジはある。しかしそれれでもそんな「心がけ」になれるところが、相手にみなま が実現されはじめるや否や、予見されたものとはちがったでいわせずにやつつけてしまうことに互いに快感を感じて ものが生まれうる。生まれうるというよりは、すなわち可きた今までの安吉たちの行き方よりもいいことのように見 能というよりは、むしろその方こそそこでは一般的だ。そえた。しかし内垣にはその気取りがそもそもない。彼に れは予見自身をも変革して行く。叛乱はかくて創造だ。そは、長者にして秀才なるものというところがあった。安吉 れは芸術だ。こうですネ ? 」 は二階へのぼって、ささいな幸福感のなかで机の引出しか ひざ 「うむ。ま・ : : こ らウコン木綿の小さい包みを取りだして膝の上にのせ 「大分わかってくるぞ。どうもありがとう : ・ : こ こふろしき それだけ幸福になったといった内垣の調子が安吉をも幸あぐらの膝の上で安吉はその小風呂敷をといた。なかか ねすみいろふるわた 福にした。エンゲルスのいったという元の言葉からはなれら鼠色の古綿にくるんだものが出てきた。安吉は古綿をむ てしまって、解釈だけ勝手に一人あるきしすぎた気がちら いた。なかから人形のようなものが出てきた。高さ四寸ば ろうせき ざぞう くぼ りとしたがそれは消えてしまった。内垣が、人のいうこと かりの蠍石をきざんだ坐像で、衣の襞なそは窪み一本であ を楽しむようにして聞いていて、本人にも案外なへんまでらわしている。そのつやっしたヤニ色のものを手の平にの きれいにまとめてかえしてくれるのが小さい音楽をきくよせて、それをまわすようにして安吉はためっすがめっして ばあ うに安吉にはこころいし いったい新人会の連中には、こ眺めた。まわすにしたがって、受けロの婆さんのような人 れまでの安吉たちとちがって、他人の話をしまいまで聞こ 間の表情がほんの少しずつ変って見えてくる。そのと・ほけ うとするがあ 0 た。そのうち安吉は、それがレー = ンの たようなアルカイック風なほほえみが、言いようのない安 真似だということを知ったがやはり感心した。安吉の場合らかな楽しみを安吉にあたえる。重さともいえぬその重さ は、言葉がさきに飛びだしてしまう。飛びだしてみると、 を手の平に感じることに、内垣との話から受けた一種の幸 それは、まだ形をなさぬ形で頭に浮かんだ、一瞬まえのも福感の安吉のなかでの反芻があった。安吉はこれを父から のとは違ってしまっている。感情をまじえた表現になっ貰っていた。朝鮮のどこかで、ある種の日本人が、古い朝 こ 0 もめん ひだ