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検索対象: 現代日本の文学 19 中野重治集
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1. 現代日本の文学 19 中野重治集

第 ~ を 第第第新 を一、ツ 旧制第四高等学校 ( 現石川県立郷土資料館 ) 。森と丘と川にかこまれ、「歌 のわかれ」前半の高い抒情は、この町、この学舎の中で奏でられた 35

2. 現代日本の文学 19 中野重治集

上一本田にあった重治の 生家。昭和 23 年の福井地震 によって全壊した 左明治 40 年 3 月。右から 重治、祖父中野治兵衛、従 兄水野帰一 ( 坪田新太郎 ) 父母のもとで育てられることとなっこ。 オこれ以後、 福井の中学校に入るまでの生活は、『孫とおばば』 8 ( 原題「梨の花」 ) や、その発展型たる『梨の花』な こさ どに、巨組に描かれている。 このころ兄の耕一は、すでに中学校の寄宿舎に入 っていた。このことは、息子に高等教育過程を歩ま せうる家柄がはば限られていた当時の村にあって、 中野家がどういう位置を占めていたか、ある程度語 っている。現に『梨の花』でも、少年の家が、村で も四五軒しか数えられない「かしらぶん」 ( 頭分 ) 属していたことが暗示されている。このばあいの頭 分とは、大地主たる大家を別格として、その次の 階層を形成しているところの、余裕ある田畑を小作 に出せる程度の自作農の家格、ということである。 そしてこの中野家で息子の将来に関して強い意志を 示したのは、おそらく父親であった。再び『梨の花』 によれば、父親の実家は村のなかでも一種の開明的 ~ / 去な知的雰囲気を持「て【たらしく、その家の出の父 親が専売局に勤め、叫には朝鮮総督府臨時土地調査 局の書記として役人生活も続けたのも、明らかに息 子に高等教育をつける現金収入の道をってのこと であった。 長男は中学校から名古屋市の第八高等学校へと進

3. 現代日本の文学 19 中野重治集

190 ゆいぶつろん 「それは困る。弁証法的唯物論のことがほんとに問題なの 「何で哲学をやりたいのか ? 」 だ。立場がかたまらなければビラ一つ出せぬのだ。」 「退学事件以後動揺がある。それを乗りきるには哲学的に 立場をはつぎりさせて押しぎるよりない。実は自分ら自身「そうかナ ? そうとばかりも思わぬが。しかし、じゃ ア、それで行こう。」 その点不安なのだ。学校でも宗教熱が一種流行している。 明日の午後からということにして打合せたあと、かれら 宿命論と決定論とを決定的に破っておかねばならぬのだ。」 を送り出して部屋に戻った安吉は弱ったことになったと思 「しかし学校内外の仕事はやらぬのか ? 」 うほかはなかった 0 「それは無論やる。一時切れた労働組合とのつながりも恢 ふく 「つまりは、松沢たちが退学させられちまったことの一つ 復しはじめた。」 の結果でもあるのだろう。」 「警察はどんな具合だ。」 「非常に傾向がわるい。前には、学校はやかましくいって東京神田の何とか館という宿屋の一室が安吉に見えてき も警察は手を出さなかった。手を出そうとしても学校の方た。治安維持法以来、文部省の学校行政に変化が生じてき た。学生社会科学連合会員の検挙以来はいっそうそれが締 でびしやっとはねつけた。それが、事件以来かわった。警 かないわ 察からの干渉が、学校がわで合法的に黙認されるようになまってきている。そこへ今年の春、大野から金石へかけて った。それでも、学校のなかまでははいってこない。町での海で海軍の小規模な演習があり、それが金沢の町にも海 しげき うるさくするのを、学校で知ってても、学校がわが見て見軍のデモンストレーションとしてかかってきた。刺戟され た高等学校の連中が、松沢たちを先頭に立てて反戦ビラを ぬふりするようになったのだ。あまり外を出歩かぬ方がい 賰りまわるという行動に出た。これをきっかけに警察が高 い。あまり出歩かぬようにしてくれ。」 「この暑いのにそうも行かぬだろう。一日中ここにこもっ等学校へはいってぎた。うしろに帝国海軍が控えていたた め、校長も生徒課もたじたじとなって、松沢たち二人を退 てるわけにも行くまい。」 「それはそうだが、外と連絡してやるというのが連中の気学、四人ほどを停学にした。処分をした谷口校長はその足 で東京の全国高等学校長会議へ出てきて神田に泊まってい にくわぬのだ。東京から来たというのがいちばんわるい。 る。 事件以来やっと再建へ漕ぎつけた矢さきなのだから。」 「それじや気をつけよう。しかし哲学のことはよく知らぬ新人会としても、同じ高等学校出のものとしても、この のだが : : : 」 校長に陳情をしようということになった。ほんとうのおと

4. 現代日本の文学 19 中野重治集

った。高等学校の時分、社会的不正といったものにぶつか点が仮りにあってもだ。それは、その基本的侮蔑に結びつ おとな 0 て安吉たちが何か言おうとすると、教師や大人たちがこけてだけ問題たりうるんだよ。その同情は、基本的侮蔑の せっしよう んな風にいってそれを押さえようとしたのだったことが頭派生的部分でありうるにすぎんのだ。いいか ? 今の摂政 にうかんでくる。 は母親から生まれてるネ ? 」 「もっと社会学を学ばなくちゃ : : : 人間学を学ばなくちゃ平井が何を問おうとするのか安吉にはわからなかった。 アねえ : ・ 「つまり彼は、正当の母親から、つまり正式に皇后のか それは、世間の仕来たりをもっと覚えろというだけのこらその子として生まれてるんだ。だけどネ、父親の方は、 とらしかった。世俗は決してそんな単純なものじゃない つまり天皇の方はネ、明治天皇の皇后の胎からは生まれて よ。世俗にしたがうことにもっと慣れなさい。もそっと大いないんだよ。その明治天皇はネ、孝明天皇の皇后の胎か 人になれ : : : その発音には、社会に関する学問、人間に関らは生まれていないんだよ。そしてその孝明天皇は、仁孝 する学問という意味での学という感じがすこしも伴ってい天皇の皇后の胎からは生まれていないんだ。その仁孝天皇 なかった。平井のは別のらしいが : : : そのうえ安吉は、 は、光格天皇の皇后からは生まれていないんだ。その光格 「人間学」という言葉を生まれて初めて耳で聞くのだった。天皇は、後桃園 : : : だけど君、歴朝天皇の名、知ってるの Nin—gen—gaku•• か ? 」 「人間学って何だネ ? 」と安吉はいくぶんの不満で訊きか「知らないよ。はじめの方なら知ってるナ。ジンムー イゼー、アンネ 1 、イ 1 トク、コ 1 ショー、 えした。 「人間学 ? アントロポロギー、サ : ・ : こ 「アントロポロギーというのは少しちがってやしないか ? 「馬鹿だなア。存在しなかったんじゃないか、そんなもの あれは人類学というようなことだったろう。平井のいうの : とにかくネ、今の摂政はネ、あれはとにかく正式の母 は違った意味でらしいが : : : 」とためらっている安吉へお親だよ。あれはおれと同いどしで、おれは特別にちゃんと つかぶせて平井は歩きながら続けた。 知ってるんだ。だけどネ、今上天皇から先は、おやじも、 「皇族ってものは、それ自身で、皇族であるってことですじいさんも、ひいじいさんも : : : 」と、何か個人的な原因 でに侮蔑さるべきものなんだよ。根本的に侮蔑さるべきもでもあるかのような憎さげな調子で平井は続けた。平生ロ っそう憎々しく、めておいたのが のなんだ。よしんばかれらに、何か同情したくなるようなべたな平井だけに、い ぷべっ

5. 現代日本の文学 19 中野重治集

「降りよう。」と片山がいって二人は伝通院で降り、完全ら大学は一咋年出てしまった長屋五郎を訪ねて行くところ に朝になった光のなかを寺の中門に向かって行ってつき当だった。 って右に折れた。 「どうしてるだろうナ ? 例のセンチメンタリズムが相か わらず残ってるだろうかナ ? しかし許可はしてくれるだ ろう : : : 」 七 この長屋は、金沢近くのちょっとした町の人間で、高等 学校では各務という学生などといっしょに文芸部の仕事を 一月なかば過ぎの東京は寒かった。それは非常に寒かっしていた。文学好きというよりは芸術好ぎといった、少年 た。その寒さが雪国のものとはちがっていた。雪国のに から青年になって行く年頃の地方の高等学校生徒らしく、 は、積った深い雪がそのままで人を包みこむようなところ短歌を書き、詩を書き、短篇小説を書き、絵も描くといっ たタイ・フで、家がいくらか裕福でもあるらしく、書いたも があった。東京のにはそれがなかった。何かを包むのでな くて、それは何もかもを剥いで、天の下でさらした。雪そのからするとちょっとした遊びなんかもするらしかった。 のものが降らなかった。それは寒さというのと別な何かだ安吉は短歌会で知りあって、それから学校の雑誌の仕事な った。じっさい東京では、浮浪人だったにしろ、建物の軒どをしばらくいっしょにした。 かげで、崩雪にかぶられたというのでなくて人がそっとし安吉としては、長屋とはこんな男だといって人に説明す ることが、そんな必要に出あったことはなかったが今もで たままで凍えて死ぬのだった。そのうえ今日は冷たく雨が まだ高等学校にいるうち、長屋は小さい歌集を自 降っていた。その下を、安吉は、希望と不安との入りまじきない。 った気持ちでーーそれは、希望といっては大きすぎ、不安費で出版した。その中身は取り立てていうほどのものでは といってしまっても大きすぎるのだったがーーー歩いて行っなかったが、けなしつけてしまってもいいものとも思えな かった。チェ 1 ホフの真似をした小説を書いたり、各務 た。人なっかしさの気持ちもそこにまじっていた。そこは しこう せんだぎちょう が、各務支考を頭においてしら・ヘて行ったら無関係だった 本郷千駄木町の裏通りの一つで、これから彼は、金沢で別 ことがわかったといって各務をまじえておもしろがった れたきり、同じ大学にいたときもとうとう顔を合わせずに り、一般に弱いもの、小さいもの、ユモラスなものに同情 しまった、今は築地小劇場で脚本の方の仕事をしている、 高等学校では一年上で、安吉とちがって落第しなかったかを持ったりして、安吉には人として親しめる、のがあっ かがみ

6. 現代日本の文学 19 中野重治集

笑いがはしける。柏木町時代書斎にて ( 昭和 10 年頃 ) 青春のたぎり 評論集『子供と花』 沙羅書店刊・昭和十年 中野重治は大正八年の三月に福井中学校を卒業し、 左・外箱右・表紙九月に金沢市の第四高等学校に入学、翌年の六月か ら雑誌部員となり、「北辰会雑誌」に短歌、詩、小説 を発表するなど、文学活動に打ち込みはじめた。 しかし二回も落第し、けつきよく大正十三年の三 月までこの町にとどまることになったのは、・文学に 熱中したということだけでなく、学校の教科目に対 する好悪が激しすぎたためでもあるらしい くまかわっるじろう く落第の結果としてかれは、川鶴次郎という知友 に恵まれ、大正十二年の関東大震災に出合って京都 大学へ転校するという事態に陥入らす、金沢に引き 大のノミをとる。昭和 10 年夏 ( 滝沢修撮影 ) かな ら脱出せんとするものの哀しさがある。再度私たち は、中野重治が「たんばの女」のような遊女への優 情に満ちた詩を書いたこと、あるいは『むらぎも』 の主人公が労働争議の応援に泊り込んでいた家の印 刷工場の夫婦の過去について、恋仲となった二人が 「村の仕来りのカのなかで」いたたまれなくなり、 東京へ出て来たのであろうという具合に、散文詩的 に美しく田 5 い描いていたことに、注亠思する必要があ ろ、つ

7. 現代日本の文学 19 中野重治集

きに取りかかった。『土くれ』は廃刊することになってい ちがっているのにまず驚いた。違いがあまりに大きい。大 る。終刊号のために同人顔をそろえて何でも書こうというきな違いが断層的にがたんと落ちている。大儒派的な村山 ことになり、しばらく書かなかった安吉は富山以来の暇々が、奥の部屋へおそくまですっこんで、全国の高等学校か に覚え書のノートをとってぎた。去年秋ごろからのさまざら来た調子のよさそうな報告を、はた目に残酷に見えるよ ふるい まなできごとがそこに並べてある。安吉の、安吉自身処理 うな調子で篩にかけて片つばしから整理して行った。そう おおあま することのできそうにない美意識の変化といったものがそやってした彼の総報告さえ、当の場所へきてみれば大甘だ こにある。安吉の、安吉自身処理することのできそうにな ったとしか思えない。そもそもいって、学生のあいだに社 い社会意識の変化といったものがそこにある。また処理し会科学研究のグループがないというのが富山高等学校では きれそうにない美意識と社会意識との喰いちがいの変化と実情に近かった。何人かの学生がいるにはいた。安吉と森 いったものがそこにある。 とは、そのうちの一人の家で二晩ほど泊まった。大通りで 大体こんどの旅は、夏休みの帰りの途中というのに一方金物問屋をやっている人の住居の方だったが、そこの長男 では過ぎなかった。夏の休みがきて、東京から福井県に帰を中心にした二三人が、しぎりに文芸の方へ話を持って行 って行く途中を富山高等学校へ寄る。それから金沢の高等きたがるのも安吉には不安の種だった。我慢して聞いてい まね 学校へ寄る。そこでそれそれの社会科学研究会のグルー。フると、どうやらかれらは、文芸といっても芝居の真似なそ に会ってかれらから現状をじかに聞き、あたらしい実践的がやってみたいのらしい。社会科学そのものからはずし な方向でそれそれに方針をあたえて行く。そのことが休暇て、何の文芸の話が生きたものとして今あると考えるのだ まえの新人会総会で決められて、しかし仕事を帰る人間にろう ? 案の定、かれらの文芸知識というのが、高の知れ だけ任せるのはよくないから、可能なかぎり東京の人間をたもの以前であることが目の前でわかってきた。おとなし 組みにして全国へまわそうということになって、現に安吉い森は、ロを出しかねて一人できまり悪がっている。その ぎ といっしょに、森繁夫がきて富山高等学校の分をすませてうちにかれらが、かれらにかくれた同情者があるというこ む東京〈帰 0 ている。そして安吉としては、富山でも金沢へとを言い出して安吉は急に心配にな 0 てきた。中心の仕事 ところで、そのまわりに隠れた同情者が はやっていない。 きても、意外なことにぶつかって気持ちの上でいろいろと ある。どんな状態のなかで、そんなことをかれらがいって 途まどった。そして、いまだに途まどっているのだった。 いるのだろう ? とうとうかれらが、同情者の一人のある 第一に安吉は、東京で聞いてきたことがあまりに実地と あんじよう

8. 現代日本の文学 19 中野重治集

旗第少ツ罩从婦旗戦 上野自治会館でのプロレタリア文化団体共催の「『戦新婚時代の重治夫妻。 旗』のタベ」で、警官監視のもとで「『戦旗』につい 東京・田端の自宅で ( 昭和 6 年 7 月 ) ( 昭和 5 年 ) ての希望」と題して講演 ゆずらざるをえないほどであった。何よりも人手が 欲しい農業を営んでいながら、婿養子夫婦は袞に、 孫たちは中学校から高等学校へ、ということであれ いうことアな ば、「これで、百姓一方でやれれや、 いんしやけれど。」というお祖父さんの愚痴も無理か らぬことで、そうとすれば、中野家の行く末に関し て祖父と父との間に暗黙の ~ 曷藤はあったはすだが、 やがて中野重治の眼には、二人は同型の敬愛すべき 存在として見えてくる。その結びつきを象徴するの が、『むらぎも』の冒頭の部分に出てくる例の高麗人 形である。そしてその父親を通して中野重治が得た ものに、もナ一つ、朝鮮への感覚があげられなけれ ばならない。伊藤博文がハルピンで朝鮮の若者に射 殺されたこと、日韓合併が成就したこと、それらの 政治的事件を少年は学校で教えられる。しかし少年 別な姿の朝鮮を知る機会を持っていた。 一時帰 宅していた父親の口から、日韓合併の実態と、植民 地における日本人の荒廃ぶりを、少年は知る。それ と同時に、朝鮮の土地を求めて村を出てゆく小作人 がふえたため、「頭分」の家が窮地に追いこまれつつ あるらしいことも、お祖母さんたちの話から察して 。直に自分の生活と結びつき、響いてくる朝鮮、 々とでもそれを知「ていたことが、多分中野重治 423

9. 現代日本の文学 19 中野重治集

三月、第四高等学校を卒業。四月、東京帝国大学文学部独逸文学科 に入学。 大正十四年 ( 一九二五 ) 一一十三歳 一月、同人雑誌「裸像」を大間知篤三、深田久弥、杉山産七らとは じめる ( 五月、終刊 ) 。夏、大間知篤三、林房雄の紹介で新人会に 入会。十月、林房雄、久板栄一一郎、鹿地亘らと学内に社会文芸研究 会をつくる。 明治三十五年 ( 一九〇一 l) 大正十五年・昭和元年 ( 一九二六 ) 二十四歳 一月二十五日、福井県坂井部部療村 ( 現、丸岡町 ) 一本田第十一号一月、前年「静岡新報」の懸賞小説募集に応じた「愚かな女」が一 十三番地に父藤作、母とらの次男として生まれる。中野家は自作農等当選、賞金三十円を得た ( 選者は室生犀星 ) 。同月、共同印刷にス で小地主を兼ねていた。父が煙専売局に勤めていたので、一時神トライキがおこり、新人会から派遣されて働く。二月、社会文芸研 余川県平塚町、秦野町にいたことがある。父が鹿児島に転勤したと究会員が中心となり、千田是也、小野宮吉、山田清三郎、柳瀬正 き、五歳だった重治は一本田に帰り、祖父母のもとで育てられる。夢、佐々木孝丸、葉山嘉樹らとマルクス主義芸術研究会 ( マル芸 ) 兄は十歳年長の耕一。のちに妹鈴、はまを、美代子が生まれるをつくる。四月、窪川鶴次郎、西沢隆一「堀辰雄らと同人雑誌「驢 明治四十一年 ( 一九〇八 ) ハ歳馬」をはじめる終刊号 ( 昭和三年五月第十二号 ) をのぞき毎号、 四月、福井県坂井郡第三高椋尋常小学校に人学。のち、高椋西尋常詩、評論、翻訳を発表。十一月、日本・フロレタリア文芸連盟が日本 小学校と改称される プロレタリア芸術連盟 ( プロ芸 ) と改称、マルクス主義芸術研究会 大正三年 ( 一九一四 ) 十二歳 、連盟に参加。中央委員に選ばれる。 三月、高椋西尋小校業 ) 四月、福井県立福井中校に入、 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 二十五歳 大正八年 ( 一九一九 ) 十七歳一月、「無産者新聞」に文芸欄が設けられ、寄稿者となり、主とし 三月、福井県立福井中学校卒業。八月、兄耕一、ウラジオストックて詩を発表 ) 三月、東京帝国大学を卒業。四月、「文芸戦線」同人 譜で病死。九月、金沢市の第四高等学校文科乙類に人。 に推薦され、断わる。五月、翻訳『レーニンのゴオリキ 1 への手紙』 大正九年 ( 一九一一〇 ) 十八歳を叢文閣より刊行。」、、 一ノ月日本・フロレタリア芸術連盟が分裂、労農 年六月、四高短歌会での歌四営はじめて四高の「北辰会雜一誌」にのる。 芸術家連盟 ( 労芸 ) が発足した際、久板栄一一郎、鹿地・県佐野碩ら 在学中、短歌、詩、小説などの習作を発表。二度落第。室生星をと・フロ芸に残る。ヒ月、機関誌「フロレタリア芸術一を創刊、編集 にたずさわる。 大正十三年 ( 一九二四 ) 昭和三年 ( 一九二八 ) 一一十六歳 日 譬ロ

10. 現代日本の文学 19 中野重治集

〇 ' 四中野重治集 文学紀行Ⅱ佐々木基一 評伝的解説Ⅱ亀井秀雄 監修委員編集委員 伊藤整足立巻一 井上靖奥野健男 川端康成尾崎秀を 北杜夫 三島由紀夫 現代日本の文学 生ー、、イ 4 歌のわかれ む、らぎも 春さきの風 鉄の話 村の家 詩集 中野重治集 金沢市にある旧制第四高等学校 ( 現・県立郷土資料館 ) 。大正八年九月、重治は 文科乙類に入学、足かけ五年間をここですごした。前景の弊衣破帽・マント姿 の銅像は学制改革後建てられたもの。 きくわん車 / きくわん車 / 町と町をつなぐきくわん車 / 町と町村と村村と 町をつなぐきくわん車 / : : : 雪ぐにから来たきくわん車 / あつい国へ行くきく わん車 / : : : ま夜なかもはしるきくわん車 / たいせつなきくわん車 : 「きくわん車」「汽車」 ( 詩 ) 「汽車の新き」 ( 小説 ) 等、重治は機関車を好んで 作品に登場させた。青森駅構内にて 学研 2 6 4 61 9 ー 1 0 0 2 I S B N 4-0 5 - 0 5 0 2 2 9 -1 C 03 95