かば そうしつ だ昏れずにいた。そして大きな樺の木の、枯れ枝と枯れ枝此の喪失に堪えるのがおれの使命だと云う事でもはっきり とがさし交しながら薄明るい空に生じさせている細かい網分かってさえ居れば、おれは一生懸命にそれに堪えて見せ 目が、不意とまた何か忘れていた昔の日の事を思い出させるのだが。 ああ、それにしても今此のおれの身体を気 そうにした。なぜか彼にはわからなかったが、それはこのちがいのようにさせている熱と悪寒との繰り返しだけは、 ひとふし 世ならぬ優しい歌の一節のように彼を一瞬慰めた。彼は暫本当にやり切れないなあ。・ くうっとりとした眼つきでその枝の網目を見上げていたそのとき漸く森が切れて、枯れ枯れな桑畑の向うに、火 やますそ が、再び背中を曲げて歩き出した時にはもうそれを忘れるの山裾に半ば傾いた村の全体が見え出した。家々からはタ ともなく忘れていた。しかし彼の方でもうそれを考えなく炊の煙が何事もなさそうに上がっていた。およう達の家か はとん なってしまってからも、その記憶は相変らず、殆ど肩でい らもそれが一すじ立ち昇っているのが見られた。明は何か あえ きをしながら、喘ぎ喘ぎ歩いている彼を何かしら慰め通しほっとした気持ちになって、自分の身体中が異様に熱くな ていた。「このまんま死んで行ったら、さそ好い気持ちだ ったり寒気がしたりし続けているのも暫く忘れながら、そ おさな ろうな。」彼はふとそんな事を考えた。「しかし、お前はもの静かなタ景色を眺めた。彼が急に思いがけず自分の穉い っと生きなければならんそ」と彼は半ば自分をいたわるよ頃死んだ母のなんとなくけた顔を・ほんやりと思い浮・ヘ うに独り言ちた。「どうして生きなければならないんだ、 た。さっき森の中で一本の樺の枝の網目が彼にこっそりと むな こんなに孤独で ? こんなに空しくって ? 」何者かの声がその粗描をほのめかしただけで、それきり立ち消えてしま 彼に問うた。「それがおれの連命だとしたらしようがない」 っていた何かの影が、そんな殆ど記憶にも残っていない位 と彼は殆ど無心に答えた。「おれはとうとう自分の求めてのとうの昔に死んだ母の顔らしかった事に明はそのときは いるものが一体何であるのかすら分からない内に、何もかじめて気がついた。 あたか 子 も失ってしまった見たいだ。そうして恰も空つ。ほになった 穂自分を見る事を怖れるかのように、暗黒に向って飛び立っ 菜夕方の蝙蝠のように、とうとうこんな冬の旅に無我夢中に連日の旅の疲れに痛めつけられた身体を牡丹屋に托した なって飛び出して来てしまったおれは、一体何を此の旅で日から、明は心の弛みが出たのか、どっと床に就ききりに こもろ あてにしていたのか ? 今までの所では、おれは此の旅でなった。村には医者がいなかったので、小諸の町からでも は只おれの永久に失ったものを確かめただけではないか。招ぼうかと云うのを固辞して、明はただ自分に残されたカ そびよう くわばたけ ぼたん
がいと 4 ・ ることもないように思われるのだった。 原の冬の日々だった。白い毛の外套に身を包んだ彼女は、 自分の足の下で、凍えた草のひび割れる音をきくような事「一体、わたしはもう一生を終えてしまったのかしら ? 」 もあった。それでもときおりは、もう牛や馬の影の見えなと彼女はぎよっとして考えた。「誰かわたしにこれから何 あきら い牧場の中へはいって、あの半ば立ち枯れた古い木の見えをしたらいいか、それともこの儘何もかも詮めてしまうほ るところまで、冷い風に髪をなぶられながら行った。そのかはないのか、教えて呉れる者はいないのかしら ? : : : 」 こずえ 一方の梢にはまだ枯葉が数枚残り、透明な冬空の唯一の汚 ふる 点となった儘、自らの衰弱のためにもう顫えが止まらなく或日、菜穂子はそんなとりとめのない考えから着護婦に しばら なったように絶えず顫えているのを暫く見上げていた。そ呼び醒まされた。 れから彼女はおもわず深い溜息をつき療養所へ戻って来「御面会の方がいらしっていますけれど : : : 」石護婦は彼 女に笑を含んだ目で同意を求め、それから扉の外へ「どう 十二月になってからは、曇った、底冷えのする日ばかりそ」と声をかけた。 続いた。この冬になってから、山々が何日も続いて雪雲に扉の外から、急に聞き馴れない、烈しい咳きの声が聞え われていることはあ 0 ても、山麓にはまだ一度も雪は訪出した。菜穂子は誰だろうと不安そうに待っていた。やが れずにいた。それが気圧を重くるしくし、療養所の患者達て彼女は戸口に立った、背の高い、痩せ細った青年の姿を の気をめいらせていた。菜穂子ももう散歩に出る元気はな認めた。 かった。終日、開け放した寒い病室の真ん中の寝台にもぐ「まあ、明さん。」菜穂子は何か咎めるようなきびしい目 り込んだ儘、毛布から目だけ出して、顔じゅうに痛いようつきで、思いがけない都築明のはいって来るのを迎えた。 うろた たの な外気を感じながら、暖炉が愉しそうに音を立てている何明は戸口に立った儘、そんな彼女の目つきに狼狽えたよ じぎ しゃちこば 処かの小さな気持ちのいい料理店の匂だとか、其処を出てうな様子で、鯱張ったお辞儀をした。それから相手の視 から町裏の程よく落葉の散らばった並木道をそぞろ歩きす線を避けるように病室の中を大きな眼をして見廻わしなが る一時の快さなどを心に浮べて、そんななんでもないけれら、外套を脱ごうとして再び烈しく咳き入っていた。 ども、いかにも張り合いのある生活がまだ自分にも残され寝台に寝た儘、菜穂子は見かねたように言った。「寒し ているように考えられたり、又時とすると、自分の前途にから、着たままでいらっしゃい。」 はもう何んにも無いような気がしたりした。何一つ期待す明はそう云われると、素直に半分脱ぎかけた外套を再び こ 0 だんろ
あの気の毒な旧家の人達、ーー足の不自由な主人や、老母 九 や、おようや、その病身の娘など : 六月にはいってから、二十分の散歩を許されるようにな 早苗はその日もとうとう自分の話を持ち出せなかった。 日が暮れかかって来たので、明だけを其処に残して、早苗った菜穂子は、気分のいい日などには、よく山麓の牧場の 方まで一人でぶらっきに行った。 は心残りそうに一人で先に帰って行った。 はるかなた 明は早苗をいつものように素気なく帰した後、暫くして牧場は遙か彼方まで拡がっていた。地平線のあたりに から彼女がきようは何んとなく心残りのような様子をしては、木立の群れが不規則な間隔を置いては紫色に近い影を のづら いたのを思い出すと、急に自分も立ち上って、村道を帰っ落していた。そんな野面の果てには、十数匹の牛と馬が一 あかまっ しょになって、彼処此処と移りながら草を食べていた。菜 て行く彼女の後姿の見える赭松の下まで行って見た。 かがや すると、その夕日に赫いた村道を早苗が途中で一しょに穂子は、その牧場をぐるりと取り巻いた牧柵に沿って歩き なったらしい例の自転車を手にした若い巡査と離れたり近ながら、最初はとりとめもない考えをそこいらに飛んでい づいたりしながら歩いて行く姿が、だんだん小さくなりなる黄いろい蝶のようにさまよわせていた。そのうちに次第 がら、いつまでも見えていた。 に考えがいつもと同じものになって来るのだった。 「お前はそうやって本来のお前のところへ帰って行こうと「ああ、なぜ私はこんな結婚をしたのだろう ? 」菜穂子は している : : ・・」と明はひとり心に思 0 た。「おれは飃ろ前そう考え出すと、何処でも構わず草の上へ腰を下ろしてし ねが からそうなる事を希ってさえいた。おれは云って見ればおまった。そして彼女はもっと外の生き方はなかったものか 前を失うためにのみお前を求めたようなものだ。いま、おと考えた。「な・せあの時あんな風な抜きさしならないよう 前に去られる事はおれには余りにも切な過ぎる。だが、そな気持になって、まるでそれが唯一の避難所でもあるかの ように、こんな結婚の中に逃げ込んだのだろう ? 」彼女は 子の切実さこそおれには入用なのだ。・ とっさ 穂そんな咄嗟の考えがいかにも彼に気に入ったように、明結婚の式を挙げた当時の事を思い出した。彼女は式場の入 菜はもう意を決したような面持ちで、赭松に手をかけた儘、ロに新夫の圭介と並んで立ちながら、自分達のところへ祝 、を述べに来る若い男達に会釈していた。この男達とだっ 夕日を背に浴びた早苗と巡査の姿が遂に見えなくなるまでし 見送っていた。二人は相変らず自転車を中にして互に近づて自分は結婚できたのだと思いながら、そしてその故に反 って、自分と並んで立っている、自分より背の低い位の夫 いたり離れたりしながら歩いていた。 こだち
でふり返って見た。すると、その人は又、タ焼した空と黄もう何台となく電車をやり過していた。しかし人を待って ばんだ雑木林とを背景にして、さっきと同じような少し気いるような様子でもなかった。その間、圭介がその不動に ふさ 近い姿勢を崩したのは、さっき誰かが自分の背後でひどく の鬱いだ様子で、向うむきに佇んでいた。 ・。」明はそう考え咳き入っているのに思わずびつくりしてその方をふり向い 「何か寂しそうだったな、あの人は : た時だけだった。それは背の高い、痩せぎすな未知の青年 ながら駅を出た。 「菜穂子さんでもどうかしたのではないかな ? ひょっとだったが、そんなひどい咳を聞いたのははじめてだった。 この前見たときそんな気がし圭介はそれから自分の妻がよく明け方になるとそれに稍近 すると病気かも知れない。 とっ い咳ぎ方で咳いていたのを思い出した。それからも電車が た。それにしても、あの時はもっと取っき悪い人のように 見えたが、案外好い人らしいな。何しろ、おれと来たら、何台か通り過ぎた後、突然、中央線の長い列車が地響きを 何処か寂しそうなところのない人間は全然取っけないからさせながら素通りして行った。圭介ははっとしたような顔 なあ。 を上げ、まるで食い入るような眼つきで自分の前を通り過 せき 明は自分の下宿に帰ると、咳の発作を怖れてすぐには服ぎる客車を一台一台見つめた。彼はもし見られたら、その を脱ぎ換えようともしないで、西を向いた窓に腰かけた客車内の人達の顔を一人一人見たそうだった。彼等は数時 なんろく 儘、事によると菜穂子さんは何処かずっと此の西の方にあ間の後には八ヶ岳の南麓を通過し、彼の妻のいる療養所の ふしあわ る、遠い場所で、自分なんその思い設けないような不為合赤い屋根を車窓から見ようとおもえば見ることも出来るの せな暮らし方でもしているのではないかと考えながら、生だ。・ れて初めてそちらへ目をやるように、タ焼けした空や黄ば黒川圭介は根が単純な男だったので、一度自分の妻がい ふしあわ んだ木々の梢などを眺めていた。空の色はそのうちに変りかにも不為合せそうだと思い込んでからは、そうと彼に思 子始めた。明はその色の変化を見ているうちに、急にたまらい込ませた現在の儘の別居生活が続いているかぎりは、そ の考えが容易に彼を立ち去りそうもなかった。 穂ないほど悪寒を感じ出した。 ひとっき 彼が山の療養所を訪れてから、一月の余になって、社の 黒川圭介は、その時もまださっきと同じ考え事をしてい用事などでいろいろと忙しい思いをし、それから何もかも 忘れ去るような秋らしい気持ちのいい日が続き出してから るような様子で、タ焼けした西空に向いながら、プラット フォ 1 ムの端にぼんやりと突立っていた。彼はさっきからも、まるで菜穂子を見舞ったのは、つい此の間の事のよう おかん
その平和がいかによそよそしいものであろうとも、彼女に母はすぐ目を醒ました。そうすると彼女はもう眠れなくな とっては恰好の避難所であった。少くとも当時の彼女にはるらしかった。しかし、圭介や他のものの物音で目を醒ま そう思えた。・ : カその翌年の秋、菜穂子の結婚から深い心したようなときは、必ずすぐまた、眠ってしまうらしかっ の手を負うたように見えた彼女の母の、三村夫人が突然た。そんな事が又、菜穂子には何もかも分かって、一々心 こた きようしんしよう 狭心症で亡くなってしまうと、急に菜穂子は自分の結婚に応えるのだった。 ごと 生活がこれまでのような落ち著きを失い出したのを感じ菜穂子は、そう云う事毎に、他家へ身を寄せていて、自 た。静かに、今のままのよそよそしい生活に堪えていよう分のしたい事は何ひとつ出来ずにいる者にありがちな胸を という気力がなくなったのではなく、そのように自己を佯刺されるような気持を絶えず経験しなければならなかっ せんぶく それが結婚する前から彼女の内に潜伏していたら ってまで、それに堪えている理由が少しも無くなってしまた。 こう ったように思えたのだ。 しい病気をだんだん亢じさせて行った。菜穂子は目に見え うち 菜穂子は、それでも最初のうちは、何かを慚っと堪えるて痩せ出した。そして同時に、彼女の裡にいっか涌いて来 ような様子をしながらも、いままでどおり何んの事もなさた結婚前の既に失われた自分自身に対する一種の郷愁のよ そうに暮らしていた。夫の圭介は、相変らず、晩飯後も茶うなものは反対にいよいよ募るばかりだった。しかし、彼 の間を離れず、この頃は大抵母とばかり暮し向きの話など女はまだ自分でもそれに気づかぬように出来るだけ堪えに けんがい をしながら、何時間も過していた。そしていつも話の圏外椹えて行こうと決心しているらしく見えた。 むとんじゃく 三月の或暮方、菜穂子は用事のため夫と一しょに銀座に に置きざりにされている菜穂子には殆ど無頓著そうに見え おさななじみ たが、圭介の母は女だけに、そう言う菜穂子の落ち著かな出たとき、ふと雑沓の中で、幼馴染の都築明らしい、何か こう打ち沈んだ、その癖相変らず人懐しそうな、背の高い い様子に時までも気づかないでいるような事はなかっ 子た。彼女の嫁がいまのままの生活に何か不満そうにし出し姿を見かけた。向うでははじめから気がついていたようだ が、こちらはそれが明である事を漸っと思い出したのは、 穂ている事が、 ( 彼女にはな・せか分からなかったが ) しまい 菜には自分たちの一家の空気をも重苦しいものにさせかねなもうすれちがって大ぶ立ってからの事だった。ふり返って 見たときは、もう明の背の高い姿は人波の中に消えてい い事を何よりも怖れ出していた。 菊 この頃は夜なかなどに、菜穂子がいつまでも眠れないでた。 せき かいこう つい咳などをしたりすると、隣りの部屋に寝ている圭介の それは菜穂子にとっては、何んでもない邂逅のように見 つの
「無理をして身を既してはつまらん」しかし所長は思い 三村菜穂子が結婚したのは、今から三年前の冬、彼女の Ⅷの外の事を言った。 二十五のときだった。 ふた 「一月でも二月でも、休暇を上げるから田舎へ行って来て結婚した相手の男、黒川圭介は、彼女より十も年上で、 はどうだ ? 」 高商出身の、或商事会社に勤務している、世間並に出来上 「実はそれよりもー・ーー」と明は少し言いにくそうに言いか った男だった。圭介は長いこと独身で、もう十年も後家を まぎ びとなっこ ある けたが、急に彼独特の人懐そうな笑顔に紛らわせた。「 立て通した母と二人きりで、大森の或坂の上にある、元銀 が、田舎へ行かれるのはいいなあ。」 行家だった父の遺して行った古い屋敷に地味に暮らしてい レ」わ・かこ 所長もそれに釣り込まれたような笑顔を見せた。 た。その屋敷を取囲んだ数本の椎の木は、植木好きだった しごと 「今の為事が為上がり次第行きたまえ。」 父をいつまでも思い出させるようなをして枝を拡げた 「ええ、大抵そうさせて貰います。実はもうそんな事は自儘、世間からこの母と子の平和な暮しを安全に守っている 分には許されないのかと思っていたのです : : : 。」 ように見えた。圭介はいつも勤め先からの帰り途、夕方、 明はそう答えながら、さ 0 き思い切 0 て所長に此事務所掀鞄えて坂を上 0 て来て、わが家の椎の木が見え出す をやめさせて下さいと言い出しかけて、それを途中で止めと、何かほっとしながら思わず足早になるのが常だった。 ひざ てしまった自分の事を考えた。今の為事をやめてしまっそして晩飯の後も、夕刊を膝の上に置いたまま、長火鉢を へだ て、さてその自分にすぐ新しい人生を踏み直す気力がある隔てて母や新妻を相手にしながら、何時間も暮し向きの話 かどうか自分自身にも分かっていない事に気がつくと、こ などをしつづけていた。ーー菜穂子は結婚した当座は、そ んどは所長の勧告に従って、暫く何処かへ行って養生してう言う張り合いのない位に静かな暮しにも格別不満らしい ようす 来よう、そうしたら自分の考えも変るだろうと、咄嗟に思 ものを感じているような様子はなかった。 ただ いついたのだった。 唯、菜穂子の昔を知っている友達たちは、なぜ彼女が結 明は一人になると、又沈鬱な顔つきになって、人の好さ婚の相手にそんな世間並の男を選んだのか、皆不思議がっ そうな所長が彼の傍を去ってゆく後姿を、何か感謝に充ちた。が、誰一人、それはその当時彼女を劫かしていた府安 た目で眺めていた。 な生から逃れるためだった事を知るものはなかった。 そして結婚してから一年近くと言うものは、菜穂子は自分 が結婚を誤たなかったと信じていられた。他人の家庭は、 ひと
るようになって来た事を、菜穂子は自分にもうとはしな夫の打ち沈んだ様子を自分の前にさまざまに思い描いた。 っこ 0 いつもそんな眼つきで彼女が見つめるとすぐ彼がそれから まな 明が訪れてから数日後の、或雪曇ったタ方、菜穂子はい顔を外らせてしまう、あの見据えるような眼ざしを、つい つも同じ灰色の蜥にはい 0 た姑の手紙を受け取ると、矢今も知らず識らずにそれ等の夫の姿〈注ぎながら : ・ っ張いつものように面倒そうに手にとらずにいたが、暫 く「そんな眼つきでおれを見ないでくれないか。」そう彼が してからひょっとしたら何か変った事でも起きたのではなとうとう堪らなくなったように彼女に向って云った、あの いかしらと思い出し、そう思うとこんどは急いで封を切っ豪雨にとじこめられた日の不安そうだった彼の様子が、急 た。が、それには此の前の手紙と殆ど変らない事しか書いに彼の他のさまざまな姿に立ち代って、彼女の心の全部を てはなくて、彼女の一瞬前に空想したように圭介も突然危占め出した。彼女はそのうちにひとりでに目をつぶり、そ 篤にはなっていなかったので、彼女は何んだか失望したよの嵐の中でのように、少し無気味な思い出し笑いのような うに見えた。それでもその手紙の走り書きのところが読みものを何んとはなしに浮・ヘていた。 にくかったし、そんなところは急いで飛ばし飛ばし読んで いたので、もう一遍最初から丁寧に読み返して見た。それ来る日も来る日も、雪曇りの曇った日が続いていた。と から彼女は暫く考え深そうに目をつぶっていたが、気がっきどき何処かの山からちらちらとそれらしい白いものが風 いてタ方の検温をし、相変らず七度二分なのを確かめるに吹き飛ばされて来たりすると、 いよいよ雪だなと患者達 と、寝台に横になった儘、紙と鉛筆をとって、いかにも書の云い合っているのが聞えたが、それはそれきりになっ く事がなくて困ったような手つきで姑への返事を書き出して、依然として空は曇ったままでいた。吸いつくような寒 「きのうきようのこちらのお寒いことと云ったらさだった。こんな陰気な冬空の下を、いま頃明はあの旅び とても話になりません。しかし、療養所のお医者様たちは とらしくもない憔した姿で、見知らない村から村へと、 しんぼう こちらで冬を辛抱すればすっかり元通りの身体にしてやる恐らく彼の求めて来たものは未だ得られもせずに ( それが からと云って、お母様のおっしやるようになかなか家へは何か彼女にはわからなかったが ) 、どんな絶望の思いをし 帰してくれそうにもないのです。ほんとうにお母様のみなて歩いているだろうと、菜穂子はそんな憑かれたような姿 らず、圭介様にもさそ・ : : ・」彼女はこう書き出して、それを考えれば考えるほど自分も何か人生に対する或決意をう から暫く鉛筆の端で自分の婁れた頬を撫でながら、彼女のながされながら、その幼馴染の上を心から思いやっている こ 0
: ン立「マ られイプの ( ・、あり とリ , うとしマをナ - を 1 フ 1 才 っス人え アっマ ノ・な 「大和路・信濃路」の一節を書いた堀辰雄自筆の色紙 時、彼ははじめて「ト / 説家」となったのだと 云える。 この小説の従来の日本の小説との相違は、 人物がその「内面陸」において把えられてい ることで、つまりひとりひとりの人物が孤独 のなかで生きていることである むじゅん ところで孤独と対話とは矛盾する。その矛 盾のなかに人間の本質があるわけであるが、 『菜穂子』によるこの矛盾の表現は、時に対 話、人物の交り方を弱くしているような面も ないわけではない。 そうした面からすると、主人公、菜穂子と その幼な友達の明とは、平行したまま遂に、い の対話が成立していない。そなを人物の現代 生と見るか、小説的失敗と見るかは、議論の 分れるところだろう。 しかし、いすれにせよ、堀辰雄は青年時代 以来の彼の文学的可能性のすべてを、この作 品に投入し、そして、「菜穂子』発表のあと も、しばらくそれを最初の構想である大「菜 穂子』に拡大しようとして苦闘を続けた。し かし、それは逐に不可能であった。 『菜穂子』のなかには『聖家族』の人物たち 440
ふる と同時に、故第という感じを与える何かがあった。工 「トルストイの戦争と平和を再読してね」 キゾチックな軽井沢とはがらりと違って、浅間山さえ そして堀さんは私にナターシャの運命や、運命のな もここから眺めると江戸時代の版画を思いださせるも かで結ばれる者と結ばれないものとについてポツリポ のがある しゃべってくださるのだった。あるいはまた私 もし軽井沢を堀氏の青春讃歌の場所とするならば、 が近頃、モウリャックをすっと読み続けていますと報この追分はむしろ、彼が生涯をかけてやっと探りあて 告すると、モウリャックを読む時の注意をしてくれる た心の故郷だと一一一一口ってもあながち、間ちがいではない のだった。 だろう。彼は友人たちの四季派の詩人たちと油屋に泊 これらの話や注意を私はいつも堀家を辞したあと、 り、この村を少しずつ作品に織りこむようになってい 油屋に帰ってしつくり考えた。堀さんは全部を言わな ったが、それはこの村の亡びつつある運命に彼の心が い方だったから、一人で考えているうちに、ああ、そ動かされたからである 、フい、つ亠思味もあったのかと、ふと思いあたること力あ 「明には停車場から村までの途中の、昔と殆ど変らな : 停車場か い景色が何とも言えす寂しい気がした。 しかし私がその頃、堀さんに一番、学んだことは、 らの坂道、おりからのタ焼雲を反射させている道端の 彼の絶えざる勉強態度だった。堀さんの枕元に書物の 残雪、森のかたわらに置き忘れられたように立ってい なかったのを見たことはないし、体の幾分いい冬のあ る一軒の廃屋にちかい小家、尽きない森、その森も : その森か る時は、縁側ちかくの机にきちんと坐られ、マラルメ っと半分過ぎたことを知らせる岐れ道、 の詩集をひろげておられた姿を今でもはっきり憶えて ら出た途端、旅人の眼に印象深く入って来る火の山の 裾野に一塊りになって傾いている小さな村」 この「菜穂子」の一節は終戦までの追分を知る者に はそっくりその儘の描写だとい、つ気がする。 亡びつつある村、その村の運命が堀辰雄の心を惹い たのは、一つには彼がこの頃からリルケの作品に傾倒 戦争が終るまでの追分には亡びていく部落の哀しさ ふるさと わか
124 も、それから自分自身にも言って聞かせてある。そうして異ったものになって来ているだろうーそれはそう云った おれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、お幸福に似た、しかしそれとはかなり異った、もっともっと れの詰まらない夢なんそにこんなに時間を潰し出している胸がしめつけられるように切ないものだ。こういう本当の のだ : : : 」 姿がまだ私達の生の表面にも完全に現われて来ていないも そんな私のもの言いたげな目つきに気がついたのか、病のを、このまま私はすぐ追いつめて行って、果してそれに ふさわ 人はペッドの上から、につこりともしないで、真面目に私私達の幸福の物語に相応しいような結末を見出せるであろ の方を見かえしていた。この頃いつのまにか、そんな具合うか ? なぜだか分らないけれど、私がまだはっきりさせ に、前よりかずっと長い間、もっともっとお互を締めつけることの出来ずにいる私達の生の側面には、何んとなく私 合うように目と目を見合わせているのが、私達の習慣にな達のそんな幸福に敵意をもっているようなものが潜んでい っていた。 るような気もしてならない。・ そんなことを私は何か落着かない気持で考えながら、明 十一月十七日 りを消して、もう寝入っている病人の側を通り抜けようと 私はもう二三日すれば私のノオトを書き了えられるだろして、ふと立ち止まって暗がりの中にそれだけがほの白く う。それは私達自身のこうした生活に就いて書いていれば浮いている彼女の寝顔をじ 0 と見守 0 た。その少し落ち 切りがあるまい。それをともかくも一応書き了えるためにんだ目のまわりがときどきびくびくと攣れるようだ 0 た は、私は何か結末を与えなければならないのだろうが、今が、私にはそれが何物かに脅かされてでもいるように見え もなおこうして私達の生き続けている生活にはどんな結末てならなかった。私自身の云いようもない不安がそれを唯 ふう だって与えたくはな い。いや、与えられはしないだろう。そんな風に感じさせるに過ぎないであろうか ? むし 寧ろ、私達のこうした現在のあるがままの姿でそれを終ら 十一月二十日 せるのが一番好いだろう。 現在のあるがままの姿 ? : : : 私はいま何かの物語で読ん私はこれまで書いて来たノオトをすっかり読みかえして だ「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」という言見た。私の意図したところは、これならまあどうやら自分 葉を思い出している。現在、私達の互に与え合っているもを満足させる程度には書けているように思えた。 のは、嘗て私達の互に与え合っていた幸福とはまあ何んと が、それとは別に、私はそれを読み続けている自分自身 かっ っぷ ひそ