そんな - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 20 堀辰雄集
311件見つかりました。

1. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

って来た。そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私ると、たったこれつきりなのか」と私はなんだか気の抜け かたま みちばた はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪のたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明 かす 上に、何処からともなく、小さな光が幽かにぼつんと落ちてりの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来 いるのに気がついた。こんなところにこんな光が、どうしナ だが、この明りの影の具合なんか、まるでおれ いぶか て射しているのだろうと訝りながら、そのどっか別荘の散の人生にそっくりじゃないか。おれは、おれの人生のまわ ばか せま らばった狭い谷じゅうを見まわして見ると、明りのついてりの明るさなんそ、たったこれつ許りだと思っているが、 いるのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずつ本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っている : 「おれはまよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいっ達がお とその谷の上方に認められるきりだった。・ あ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」とれの意識なんそ意識しないで、こうやって何気なくおれを 私は思いながら、その谷をゆっくりと昇り出した。「そう生かして置いてくれているのかも知れないのだ : : : 」 してこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の そんな思いがけない考えが、私をいつまでもその雪明り 中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がっかずのしている寒いヴェランダの上に立たせていた。 ごらん に。御覧 : : : 」と私は自分自身に向って言うように、「ほ 十二月三十日 ら、あっちにもこっちにも、殆んどこの谷じゅうを掩うよ うに、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、ど本当に静かな晩だ。私は今夜もこんなかんがえがひとり れもみんなおれの小屋の明りなのだからな。・ でにむに浮んで来るがままにさせていた。 や 漸っとその小屋まで昇りつめると、私はそのままヴェラ 「おれは人並以上に幸福でもなければ、又不幸でもないよ ンダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るまうだ。そんな幸福だとか何んだとか云うような事は、嘗っ せているのか、もう一度見て見ようとした。・ : カそうやってはあれ程おれ達をやきもきさせていたつけが、もう今じ わず ち て見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投ゃあ忘れていようと思えばすっかり忘れていられる位だ。 立 風げているに過ぎなかった。そうしてその僅かな光も小屋を反ってそんなこの頃のおれの方が余っ程幸福の状態に近い 離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りのかも知れない。まあ、どっちかと云えば、この頃のおれ とひとつになっていた。 の心は、それに似てそれよりは少し悲しそうなだけ、 「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見そうかと云ってまんざら愉しげでないこともない。・ かれやぶ かえ こ 0 「 : こ

2. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

をしめつけられるような心もちで、それに時までもじっ ってしまったが、そう、何でも五月の二つあった或年の事 うるう と見入っていた。 そんな事さえも、その日頃にはとかである。その閏五月には雨が殆ど絶え間もなしに降り続 く有りがちなのであった。 いていた。そうしてその月末から、どうしたのか、私は何 処と云うこともなしに苦しくって溜まらなかった。もうど そういう一方に、あの坊の小路の女のところでは子供がうなったって好いと思っている自分の事ではあるし、そん 生れるとか言って大騒ぎをしていたらしかったが、その頃な命をさも惜しがってでもいるようにあの方に見られたく からどう云うものか、あの方はあんまりその女のもとへははないと思って、私は痩せ我慢をしていたが、側の者たち うわさ からしやき お出にならなくなったとか云う噂だった。その女の事をがいろいろと気づかって、しきりに芥子焼なんぞという護 憎い憎いと思いつめていた時分に「いつまでも死なせずに摩なども試みさせるのだけれど、一向その効力はないのだ 置いて私の苦しみをそっくりそのまま味わせてやりたい った。 そうやって私がひどく苦しみ続けている間も、 きんしんちゅう ものだ」と思っていた通りに、すべての事がなって往きそあの方は謹慎中だからと言われて一度だって御見舞には来 おやしき うだった上、その生れたばかりの子供までが突然死んだとて下さらなかった。何でも新しい御邸をおっくりなさると 聞いた時には、「まあ何ていい気味だろう。急にそんなに かで、そちらへ毎日のようにお出になるついでに、ちょ なってしまわれて、どんな心もちがしているかしら。私のっとお立寄りになっては、「どうだ」などと車からもお下 苦しみよりかいま少し余計に苦しんでいる事だろう」などりなさらずに御言葉だけかけていらっしやるきりだった。 と考えて、本当に私は胸のうちがすつばりとした位だっそんなような或物悲しく曇ったタ暮に、私がすっかり気 こんな人らしくもない心の中まで此処に書きつけ力も衰え切っているところへ、そちらからお帰りの途中だ はす るのは、ちょっとためらわれもしたけれど、こう云うとこといわれて、あの方は蓮の実を一本人に持たせて、「もう かえ あそこ ろに反って生き生きとした人の心の姿が現われているかと暗くなったので寄らないけれど、これは彼処のだから御 も思えるので、この私と云うものをすっかり分かって貰う覧」とことづけて寄こされた。私は只「生ぎているのかど ためには、やはりそう云うものまで何もかも私はこの日記うかも分かりません程なのでーー」とだけ返事をやって、そ につけて置きたいのである。 んな蓮の実なんそは見る気にもなれずに、そのまま苦しそ うに臥したきりでいたが、そのような大そうお見事らしい むな さて、そんな事のうちに数年と云うものは空しく過ぎ去御邸だって、そのうち見せてやろうなどと仰やって下すっ こ 0 まち

3. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

びと 達は終日、雨が屋根づたいに・ハルコンの上に落ちるのを聞私はそう独り言のようにつぶやきながら、やっとその窓 い・ていた。そんな雨が漸っと霧に似だした或る早朝、私はから離れた。 窓から、・ ( ルコンの面している細長い中庭がいくぶん薄明 しかし、その日はとうとう一日中、私はなんだか病人の くなって来たようなのを・ほんやりと見おろしていた。その 時、中庭の向うの方から、一人の石護婦がそんな霧のよう顔をまともに見られずに居た。何もかも見抜いていなが な雨の中をそこここに咲き乱れている野菊やコスモスを手ら、わざと知らぬような様子をして、ときどき私の方をじっ あたり次第に採りながら、こっちへ向って近づいて来るのと病人が見ているような気さえされて、それが私を一層苦 が見えた。私はそれがあの第十七号室の付添石護婦であるしめた。こんな風にお互に分たれない不安や恐怖を抱きは せき ことを認めた。「ああ、あのいつも不快な咳ばかり聞いてじめて、二人が二人で少しずつ別々にものを考え出すなん いた患者が死んだのかも知れないなあ。」ふとそんなことと云うことは、いけないことだと思い返しては、私は早く こんな出来事は忘れてしまおうと努めながら、又いつのま を思いながら、雨に濡れたまま何んだか興奮したようにな ってまだ花を採っているその石護婦の姿を見つめているうにやらその事ばかりを頭に浮べていた。そしてしまいに ちに、私は急に心臓がしめつけられるような気がしだしは、私達がこのサナトリウムに初めて着いた雪のふる晩に た。「やつばり此処で一番重かったのはあいつだったのか病人が見たという夢、はじめはそれを聞くまいとしながら な ? が、あいつがとうとう死んでしまったとすると、こ遂に打ち負けて病人からそれを聞き出してしまったあの不 ・ああ、あんなことを院長が言ってくれなけれ吉な夢のことまで、いままでずっと忘れていたのに、ひょ ん AJ ま ? : : ・ その不思議な夢の中 つくり思い浮・ヘたりしていた。 ばよかったんだに : 私はその石護婦が大きな花束を抱えたまま・ハルコンの蔭で、病人は死骸になって棺の中に臥ていた。人々はその棺 どこ ぬ に隠れてしまってからも、うつけたように窓硝子に顔をくを担いながら、何処だか知らない野原を横切ったり、森の ち 中へはいったりした。もう死んでいる彼女はしかし、棺の つつけていた。 立 「何をそんなに見ていらっしやるの ? 」べッドから病人が中から、すっかり冬枯れた野面や、黒い樅の木などをあり ありと見たり、その上をさびしく吹いて過ぎる風の音を耳 私に問うた。 ・ : その夢から醒めてからも、彼女 8 「こんな雨の中で、さっきから花を採っている看護婦が居に聞いたりしていた、 は自分の耳がとても冷たくて、樅のざわめきがまだそれを るんだけれど、あれは誰だろうかしら ? 」 にな しがい もみ

4. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

こ 0 昇り降りしているあの跛 0 花売りのことをひょっくり思い 「まあ、こんな道あるの、私、ちっとも知らなかったわ」浮べ、あいつはまた何だってこんなあぶなっかしい坂道を 坂の中途で、友人の若い妻君がそんなことを誰にともなわざわざ選んで通るのだろうかしらと、全然いまの場合と く言ったらしいのが、もうその時はその小さな坂を降り切は何んの関係もないようなことを考え出していた。・ ってしまっていた私のところまで、手にとるように聞えて 来た。私は丁度、その友人の妻君も確か数年前にその坂道 で私の出会った少女たちの中に雑っていたことを思い出す ともなく思い出していたところだった。 その出会いは 私にはあんなにも印象深いのに、嘗ってその少女たちの一 人であった彼女の方では、 ( 恐らく他の少女たちも同様に ) そんな私との出会いのことなどは少しも気に留めていない で、すっかり忘れてしまっているのかなあと髞った。が、 一方ではまた何んだか、そんなことを言って彼女が私をか らかっているのじゃないかしら、とそんな気もされた。ひ いと彼女のロを衝いて出たらしいそんな言葉を私はひと りで気にしながら、いつまでもそっぽを向いて皆の降りて くるのを待っていると、突然、そのうちの誰かが足を滑ら して、「あっー」と小さく叫んで、坂の中途にどさりと倒 村れたらしい気配がした。見上げると、その坂の中途にまだ 転がっているらしいものがまるで花ざかりの灌木のように し 見えた。そして他のものがみんな立ち止まって、その一番 美 最後に降りてきた少女の方をふり返っているのを、私はた 9 だぽかんとして眺めながら、その場を一歩も動こうとしな いで突っ立っていた。そうして私は毎朝のようにこの坂を

5. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

「だって、何も知らないんだもの。」 ゃんがはいっていた。お龍ちゃんはとぎどき輪の中から、 八ッ手の葉かげの私の方をこわい目つきでじっと見つめて「誰にだってじき覚えられるわよ、ね、一しょにしな は、急にみんなに手を引っぱられて、一しょに 」私はとても駄目そうに、首をふっているきり っ・ほんだ。っ・ほんだ。何んの花っ・ほんだ。 ・こっこ 0 と少ししやがれたような声で歌いながら、どうでもいし お龍ちゃんは、それにもかまわずに、その遊びの手つき 事をしているように輪をつ・ほめていったりしていた。そん とこか冷淡なような感じのをしながら、一人で「ひらいた、ひらいた、ひらいたと思 な他の女の子たちとは異った、・ する、そのお龍ちゃんの様子が、どういうものか、妙に私ったら見るまにつ・ほんだ」と例の少ししやがれたような声 で歌い出していたが、私がそれに少しもついて行こうとし の心をひいた。 ないで、ただ熱心に見つづけていると、ふいと彼女は冷淡 そんなタ方のように、他の女の子たちと一しょでない な様子をして止めてしまった。 と、よくその生籬のところで、お龍ちゃんは私と二人きり が、その次ぎにみんなが又その生籬のところに来て、蓮 で遊んで行くようになった。どんなきっかけからだったか は忘れた。私はしかし、女の子の好んでするような遊びは華の花をやり出したとき、私が八ッ手の葉かげから見てい 何も知らなかったし、又気まりを悪がってその真似さえしても、お龍ちゃんはみんなと手をつなぎ合ったまま、ときど ようともしなかったので、お龍ちゃんは私が・ほかんと見てき私の方をちらっちらっと見るきりで、知らん顔をして、 みんなと遊びを続けていた。それに私だって、たとえお龍 いる前で、よく一人でお手玉を突いたり何かして遊んでい たが、それに倦きると、「又、こんどね」といって、お手ちゃんが私を仲間に誘いに来ても、なかなかその遊びに加 たもと 玉を袂に入れて帰って行った。そのあとで、私はいつも仲わろうとはしなかったろうが、それにもかかわらず、仲間 はずれにされたように、私はいかにも淋しい、うつけたよ 好く一しょに何もしないのでお龍ちゃんに嫌われはしまい うな顔をして、みんなの遊んでいるのをぼんやりと見てい かと思っこ。 或る日、お龍ちゃんが真面目そうに私にいった。 その後、大きくな 「こんどみんなが蓮華の花をするとき、一しょにおはいりそんなとぎの私の幼い顔つきを、 ってからも、ときどき何かのはずみにーー丁度そんな幼時 なさいな ? 」 の自分の場合に似て、半ば自ら好んでだが、一人きりみん 私は気まり悪そうに首をふった。 れんげ 」 0

6. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

いた。それが善いにせよ、悪いにせよ、こう云うような私そこで雷がごぼご・ほと物妻いような音を立て出した。 をそっくりそのまま受け入れてくれるのは父ばかりだと思途中でこんなタ立に出逢って、まあ、どんな思いをしてい きちょう えたが、この頃は京にいらっしやらないので、田舎の方へるだろうと道綱の上を気づかいながら、几帳のかげに小さ すぐ便りを出して置いたところ、このほどその父から「そくなって、私はじっと息をつめていた。おりおり山のずう しばら おび うしているのも好いと思う。なるべく目立たぬように、暫っと彼方に雷の落ちるらしいのが、そんなに怯えた心に くでもそうやってお勤をしている分には、気も安まるだは、すぐ目のあたりに落ちたのかと思われる位だった。 ろうから」などと書いておよこしになった。父にだって今 そんな中でもってさえ、私はいつの間にか、い っそこ の私の苦しい気もちは殆ど御わかりになっていそうにも見の儘こうして自分が死にでもしたら、せめてはそんな痛 えないながら、それなりにもそう父のようにルや 0 て下さましい最後がおりおりあの方に自分の事を思い出させ、そ るのが一番私には頼りになるのだ。それにしても、私がこのお心を充たしてくれるかも知れない などと考え出し うしているところをこの間御覧なすって帰られたぎり、まていたが、しかし私はこうしているだけでさえ怖くて怖く だ一度も御消息さえおよこしにならないなんて、まあ、あて、顔も上げられずこ、 冫いつまでも俯にしたきりにな 0 て の方は一体私がどんなになったならば、私の事をもお顧み になって下さるのだろうか。そう思うにつけ、私はこれよ やがてあたりが薄明くなり出したのに気がついて、私は りももっと深く山に入るような事があろうたって、どうしはっと何かから醒めたような気もちになりながら、そん て里へなんぞ下りるものかと、ますます思いつめて往く一なちょっとの間だけ、殆ど忘れ去っていた道綱の事を前よ 方だった。 りも一層気にし出していた。それからほどなく、道綱は心 記 日 もち蒼い顔をしたまま、無事に帰ってきた。「タ立が来そ の 或朝、道綱に無理に「魚でも召し上っていらっしゃうでしたので、いそいで帰って参りましたが・ーー・」と、途 ろい」と言いつけて、京へ立たせてやった。がタ方近くなつ中の山路でタ立に逢った有様を恐ろしそうに話した。 たく かて、もうあの子も帰 0 てくるだろうと思っていた時分、 こんどはあの方の御文を托せられて来た。「若したまた かに空が暗くなり、つめたい風が吹きはじめたかと思うま山を出られる日があったら前もって知らせてくれ。迎え と、あたりの木々の葉がさあ 0 と無気味にざわめき出しに往こう。何だかもうそちらで私の事なんぞはすっかりお た。悪いときにタ立になったなと思う間もなく、すぐもう見棄てらしいから、こちらから近寄るのはすこし怖い」な かえり かなた こわ

7. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

あいさっ ・ : ところが、一度、どうしたのか娘は顔を真 っていた。 「まあ、ご挨拶ね、 : : : 弘ちゃんにはかなわないわ。」 娘は目を伏せたまま、いままで膝にのせていた洋綴の本青にして、いきなり少年にむしゃぶりついてきた。少年は びつくりして、それつきりもう娘に手出しをしなくなっ を下に置いた。そうしてその表紙を無意味に見ている。 のぞ 説」それを少年は覗き込た。 : : : 娘がそのおばさんの家を最初に飛び出したのは、 「何を読んでいるんだい ? 小 ? それから間もないことであった。 むようにして見た、 そんな風にやっと二人が打ち解けて話し合いだした時分 「ええ、弘ちゃんも小説読むの ? 」 「僕だって小説ぐらいは読むさあ : : : それは何んの小説だに、がらりと格子のあく音がした。二人がふりむいて見る と、それは弘の母であった。 「おや、照ちゃんもいたのかい ? 」 「モオパスサンよ : : : でも、こんなのは弘ちゃんは読まな 少年は自分の母を見ると、長火鉢からすこし居退るよう い方がいいわ : : : 」 にして、障子に出来るだけびったりと体を押しつけるよう 「そんなのは知らないや : : : 僕は探偵小説の方がいい。」 にしている。お照とこんな風に差し向いで話をしていると 少年だってモオパスサンがどんな外国の作家だぐらいは こっそり聞き噛っている。しかし、わざと娘にそんな返事ころを母に見つかって、いかにも気まりが悪そうである。 「こんちは。 : ・そこの髪結さんまで来たんでちょっと寄 をしてやった。だから、少年は大した皮肉を言ってやった って見たの。・ ・ : なんだかすこし根がつまりすぎて : : : 」 つもりでいる。そうして、ふと、昔、自分が十ぐらいで、 この娘がまだ十三四でこの家に養女分でいた時分、ただもそんなことをお照はしゃあしゃあと答えながら、それが気 いちょう うこの年上の娘をいじめるのが面白くっていじめたりしてになるように結い立ての銀杏がえしへ手をやっている。 いた時のような、子供らしい残酷な心もちが、現在の自分弘の母はそっちをちらっと見て、 よみがえ 「よく結えたよ」と愛想よく言って、それから弘に向って 話の心のうちにも蘇って来るように感ずる。なんでもないこ のとに腹を立てて、この年上の娘を撲 0 たり、足にしたり「弘ちゃん、ちょ 0 と御供所までいって、お父さんを呼ん 三したが、娘の方では一度も自分にはむかって来ようとはしできておくれでないか。お花の先生がちょっとお呼びです : いったらいったきりで、ちょっとやそっと ない。ただ、少年にされるがままになっている。そこに他からって。 : ほんとに困っちまう。」 の者が居合わせても別に留めようともしない。少年はしまでは帰って来ないんだからね。 いには、ただ面白ずくでそんな風に娘をいじめるようにな それを聞くと、弘はいそいで立ち上って、まるで逃げ出 かじ

8. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ちは寝そべりながら、順番に、お互を砂の中に埋めつこしめに、今、こんなにも幸福の中に生埋めにされているー ていた。私の番だった。私は全身を生埋めにされて、やっ おっと、待てよ。今のさっきの様子では、お前は私の母 と、私の顔だけを、砂の中から出していた。お前がその細をなんだか知っていたようだそーそんな筈じゃなかった のに ? : ・ : と、私は砂の中からこっそりとみんなの様子を 部を仕上げていた。私はお前のするがままになりながら、 さっきから、向うの大きな松の木の下に、私たちの方を見うかがっている。どうやら、私の母とお前たちの家族と は、ずっと前からの知合らしい。私にはどうしてもそれが ては、笑いながら話し合っている二人の婦人のいるのを、 あざむ ・ほんやり認めていた。そのうちの海水帽をかぶった方は、分らない。 これでは、欺こうとしていた私の方が、反対 お前の母らしかった。もう一人の方は、この村では、つ いに、私の母に裏をかれていたようなものだ。突然、私は 見かけたことのない婦人に見えた。黒いパラソルをさして砂を払いのけながら、起き上る。今度はこっちで、あべこ : そこ べに、母の隠し立てを見つけてやるからいいー 「あら、たっちゃんのお母様だわ」お前は、海水着の砂をで、私はお前にそっと捜りを入れて見る。皆のしんがりに 払いながら、起き上った。 なって、家の方へ引きあげて行きながら。 「ふん : : : 」私は気のなさそうな返事をした。そうして皆「どうして僕のお母さんを知っていたの ? 」「だってあな が起き上ったのに、私一人だけ、いつまでも砂の中に埋またのお母様は運動会のとき何時もいらっしってたじゃない っていた。私は心臓をどきどきさせていた。私の隠し立ての ? そうして私のお母様といつも並んで見ていらしった が、今にもばれそうなので。そうしてそれが、砂の中からわ」私はそんなことはまるつきり知らなかった。何故な 浮んでいる私の顔を、とても変梃にさせていそうだった。 ら、そんな小学生の時分から、私はみんなの前では、私の 私はいっそのこと、そんな顔も砂の中に埋めてしまいたか母から話しかけられるのさえ、ひどく羞かしがっていたか 帽ったー何故なら、私は田舎から、私の母へ宛てて、わざら。そうして私は私の母から隠れるようにばかりしていた 藁と悲しそうな手紙ばかり送っていた。その方が彼女には気から。 麦に入るだろうと思って : : : 。彼女から遠くに離れているば そして今もそうだった。井戸端で、みんなが身体を かりに、私がそんなにも悲しそうにしているのを見て、私洗ってしまってからも、私は何時までも、そこに愚図愚図 の母は感動して、私を連れ戻しに来たのかしら ? : ・ : ・ それしていた。ただ、私の母から隠れていたいばかりに。 だのに、私は、彼女に隠し立てをしていた一人の少女のた井戸端にしやがんでいると、私の脊くらい伸びたダリアの エル へんてこ

9. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ころでよく我慢しているね。 どうして暮らしているだ にいる他の外人とは全然つきあわないのかい。」 うわさ 「どうもその女だけ除けものにされているらしい。村の人ろうと、ときどき噂をしていたよ。」 にきくとあの女はしようがありませんと云って、てんで相「暮らそうとおもえば、どんなことをしても暮らせること が分かったよ。それに寒さだって、こういうものだと思っ 手にならないんだ。」 すじよう いくらでも我慢していられるね。」 僕はどういう素性の女かよく知らてしまえば、 「そんななのかい。 ないが、夏なんぞその女が奇妙ななりをして、買物袋をぶ 「でも、万里子さん。」と僕は言葉を挿んだ。「あなたの方 らさげながらなんだかしょ・ほしょ・ほして歩いているのを見の為事は大へんでしよう ? 」 かけては、何者だろうとおもっていたんだがね。あれで、 「そんなでもありませんわ、いまのところ何んにも困りま、 この夏聞いたことだが、恋人がいるんだそうだ。毎夏やっせんの。」万里子さんはそんな事はいかにも何んでもなさ てくるハンガリイの音楽家でね、その男と町などで逢うそうな答えかたをした。 「そりゃあ困らないわけさ、一週間も同じものばかり食べ と、人中だろうと何だろうと構わずに立ち止まって、黙っ てその音楽家の顔を穴のあくほどじっと見つめているのださせられていても、僕はなんにも言わないんだもの。」 そうだよ。それがもうかれこれ十年来の意中の人なのだそ君はそうは言っても、すこしも不平そうではなかった。む しろ、そういう山のなかの簡素な暮らしを好んでいるよう うだ。」 にさえ見えた。 「あの女にもそんな話がね。」君はうなずいていた。 とっぴょうし 「どうもこんなところに来ている外人には突拍子もない奴夕食は、しかし山のなかでは思いがけない御馳走だっ がいるものだな。 , ーー夏あんなに見す・ほらしいなりをしてた。ひさしぶりに四人で鳥鍋をかこみながら身も心も温か いた女が、冬になって誰れもいなくなると、急にすばらしになって、世はさまざまな話をするのは愉しかった。 い毛皮の外套なんぞを着込んで林の中をあるいていような僕はこの秋から冬にかけてひとりで旅して歩いた大和路 路んて、想像もできないことだよ。だが、ああして一人っきのことを話した。それからその旅のおわりに、エル・グレ くらしき その倉敷という コの絵を見てきたことなども話した。 大りでもって、よく暮らしていられるものだなあ。」 」君も考え深そうに 小さな町まで五時間もかかって往って、やっとそこの美術 「本当によく暮らしているね。 館にたどりつぎ、画廊にはいるなり、すぐエル・グレコの 答えた。 「だが、人のことよりか、君も寒がりのくせに、こんなと絵に近づいて見ると、それは思ったより小さなものだった はさ

10. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ばかりをしていたのだったが、或夕方も私がそんな端近やっと泣くのを堪えているらしかった。 くでいつまでも・ほんやりしていると、後ろから道綱が気づ みどう かわしそうに「もうおはいりになりませんか」と私に声を五日ばかりで身が浄まったので、また私は御堂に上っ かけた。子供心にも私に物をあんまり深く思わせまいとすた。ずっと来ていて下すった伯母もその日お帰りになって るのだろう。しかしもう少しこうして居たいと思って、そ往かれた。その車がだんだん木の陰になりながら見えなく ぎやくじよう たたす のまま私がじっとしていると、再び道綱が「何だってそんなって往くのをじっと見送って佇んでいるうちに、逆上で な事をなすって入らっしやるのですか。お体にだってお悪もしたのだろうか、私は急に気もちが悪くなってひどく苦 やまごも くはありませんか。それに、まろはもう睡くってたまりましいので、山籠りしていた禅師などを呼びにやって加持し ねんす せんから」と言いかけるので、私はついそんな子供にまて貰った。タぐれになる頃、そんな人達が念誦しながら加 で、まるで自分自身に向って言いでもするように、「お前持してくれているのを、ああ溜まらないと思って聞き入り の事だけが気になって、こうして長らえているのだけれどながら、年少の折、よもやこんな事が自分の身に起ろうなど あま 」と言い出した。「どうしたら好いのだろうね。尼にとは夢にも思わなかったので、そうなったならどんなだろ でもな 0 たら一番好いのかしら。この世に居なくな 0 てしうなどと半ばいもの見たさに丁度このような場合を想像 まうよりか、そうでもして生きていたら、お前にしたってに描いて見たことがあったが、いまその時の想像に描いた お母あ様の事が気にかかればすぐ会いにも来られるし、そすべての事が一つも違わずに身に覚えられて来るようなの あきら れでいてあとはもうこの世に居ないものだと諦めてもいらで、何だか物の怪でも憑いて、それが自分にこんな思いを れるでしよう。 そうやって尼になったって、お前のおさせているのではないかとさえ私は思わずにはいられない 父う様さえ本当に頼りになるのなら、お前の事は少しも心位だった。 配は入らないのに、それがどうにももどかしいような気が するので、こうやって物思いばかりしているのだけれどそれほど、まるで何かに憑かれでもしたかのように、私 : 」と、ひとりごとのように言い続けているうちに、ふが苦しみながら山に籠っているのを、京では人々が思い思 とこんな言葉が、かわいそうに、この子をどんなに苦しめ いにああも言いこうも言っているようだし、のみならず、 うわさ ているのだろうと気がついて、私は突然言うのを止めた。 この頃では自分が尼になったというような噂までし出して 思ったとおり、道綱はもう返事もできない位、私の背後で いるらしかったけれど、私は何を言われようとも構わずに こら