として、一しよう懸命になっている馬は、ほとんど胸のあた。 たりまで雪に埋っていた。なんども前脚を雪のなかから引 僕はそれから橇のなかに再び坐りなおして、がたんがた き抜こうとしては、そこらじゅうに雪煙りをちらしてい た。僕もそのとばっちりを受けそうになって、いそいで顔ん揺られるがままになりながら、いよいよ自分も久恋の雪 の山に来ているのだなとおもった。ずいぶん昔から、いま をひっこめたが、向うの橇はすっぽりと幌を下ろしてはい から るものの、空のようだった。 のように、 こうしてただ雪の山のなかにいること、 続いて、もう一台の橇とすれちがった。こんどはどうやれだけをどんなに自分は欲して来たことだろう。・ヘつに雪 スポルティ らうまくすれちがったようだったが、それも空らしかつの真只中でどうしようというのでもない。 フになれない弱虫の僕は、ただこういう雪の中にじっとし そうやって二台の橇とすれちがって、しばらくしてからて、真白な山だの ( ーーーそう、山もそんなに大それたもの ちょうど 僕はふいと時計を出してみると、橇に乗ってから一時間ばでなくとも、丁度いま自分の前にあるような小品風なもの かりも経っているので、ああ、もうこんなに乗っていたのでいし •••) 、真白な谷だの ( ーー谷もあの谷で結構 : かと意外におもいながら、一体、いまどのへんなのだろう •••) 、雪をかぶったいくつかの木立のむれ ( ーーーあそこに と、又、例の穴に顔を近づけてみると、ちょうど自分の橇立っているのような木などはなかなか好いではないか : そば の通っている岨の、ずっと下のほうの谷のようなところを : ・ ) などを・ほんやり眺めてさえいればよかった。 二台の橇がずんずん下りてゆくのが、それだけが唯一の動ただすこし慾をいえば、ほんの真似だけでもいし きつつあるものとして、いかにもなっかしげに見やられ真白な空虚にちかい、 このような雪のなかをこうして進ん ぎよしゃ 濃た。それにしても、あれがいましがた自分とすれちがったでいるうちに、ふいと馭者も馬も道に迷って、しばらく何 信 橇かとおもわれる位、そんなにもう下のほうまで往ってい処をどう通っているのだか分からなくなり、気がついてみ 路るのには驚いた。そうしてそれと共に、僕ははじめて自分ると、同じところを一まわりしていたらしく、さっきと同 大のいつのまにかはいり出している山の深さに気がついてきじ場所に出ているーーーそんな純粋な時間がふいと持てたら た。それほど自分のそれまでの視野のうちには、いつまでどんなに好かろう、とそんな他愛のないことだけが願わし いような、淡々とした気もちでいた。・ 経っても、同じような白い山、同じような白い谷、同じよ うなをした白い木立しかはい 0 て来ないでいたのだっ僕は目をつぶ 0 て、幌の穴から見ようとすれば見えたで こ 0
じらしいものをとり入れているために・・ーー・そこに・ハラドク シカルな、悲痛な美しさを生じさせているのにちがいない 赤ままの花 のだった。若しそれらを彼が本当にその詩を書いたのち綺 私の若い頃の友人だ 0 た、 1 詩人が、彼自身も 0 と若く麗さつばりと撥き去 0 てしま 0 たなら、その詩人はひょ 0 て、もっと元気のよかったとき、 としたらその詩をきっかけに、だんだん詩なんそは書かな お前は歌うな くなるのではないか、という気が私にされぬでもなかっ お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな と高らかに歌った。その頃、私はその「歌」と題せられそれほど、私はより高い人生のためにそれらの小さなも た詩の冒頭の二行に妙に心をひかれていた。それは、非常のが棄て去られることには半ば同意しながら、しかしその に逞ましい意志をもち、しかもその意志の蔭に人一倍に一方これこそわれわれの人生のーーー少くとも人生の詩の 紐な神経をひそめていた、その独自の詩人が自分自身にも 最も本質的なものではないかと思わずにはいられない 向って彼の「胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところ」幼年時代のささやかな幸福、ーーーそれをこの赤まんまの花 を歌ったのにちがいがなかった。その勇敢な人生の闘士たちはつつましく、控目に、しかし見る人によっては殆ど は、そういう路傍に生えて、ともすれば人を幼年時代の幸完全な姿で代表しているのだ。・ 福な追憶に誘いがちな、それらの可憐な小さな花を敢えて「それはそうと、赤まんまの花って、いっ頃咲いたかし 踏みにじって、まっしぐらに彼のめざす厳しい人生に向っら ? 夏だったかしら ? それとも : : : 」と私は自分のう て歩いて行こうとしていた。・ ちの幼時の自分に訊く。その少年はしかしそれにはすぐ答 その素朴な詩句は、しかしながら私の裡に、言いしれずえられなかった。そう、赤まんまの花なんて、お前ぐらい わす 複雑な感動をよび起した。私はその僅かな二行の裡にもその年頃には、年がら年じゅうあっちにもこっちにも咲いて の詩人の不幸な宿命をいっか見出していた。何故なら、そ いたような気がするね。 の二行をもって始められるその詩独特の美しさは、それは いわばそれほど、季節季節によってまるでお祭りのよう 決してその詩人が赤まんまの花や何かを歌い棄てたからでに咲く、他の派手な花々に比べれば、それらの地味な花は はなく、いわばそれを歌い棄てようと決意しているところ いっ咲いたのか誰を こも気づかれないほどの、そして子供た に、 ・ : かえってこれを最後にと赤まんまの花やその他いちをしてそれがままごとに入用なときにはいつでも咲いて ぼう」う こ 0 ひかえめ
おりました。そんな事なぞどうしてあなた様にお気づきなの上に「所詮生れ変らねばと思っては居りますけれど、何 されましようとも。わたくしの知った所なんそとは違っ処そあなた様がわたくしの前を素通りなされるのを見ずに た、思いもっかないような所へしじゅう御歩きなされて いもすむような所がござりましようかと存じまして、今日参 らっしやるのでしようから。ーーー何もかもみな、今まで生ります。ああ、また問わず語りをいたしてしまいました」 き長らえている私の身の怠りなのですから、いまさら何もと書きつけ、その中に元のように御薬を入れて、道綱に 申し上げようもござりませぬ」と返事を書いて持たせてや「もし何か訊かれそうだったら、これだけ置いて早く帰っ った。 ていらっしゃい」と言いつけて持たせてやった。 あわ 本当にこんな風にときどき思い出されたように何か気安それを御覧になると、余程あの方もお慌てなされたと見 もっと めみたいな事を言って来られたりなんかすると、反って私え、「お前の言うのも尤もだが、まあ何処へ往くのだか知 には辛くってならない。不意にでもあの方にやって来られらせてくれ。とにかく話したいことがあるので、これから て、またこの前のように悔やしい事もないとはかぎらない。 すぐ往くからーーー」と折返し書いておよこしになった。そ こんな私なんそは、 いっその事これつきり何処かへひそかれが一層せき立てるように私を西山へと急がせた。 に身を引いてしまった方がいいのではないかしら。 「そう、それがいし そうだ、西山にはこれまでよく その五 往った寺があるけれど、あそこへ往って見よう。あの方の 御物忌のお果てなさらぬうちに 」と私は突然思い立っ山へ行く途中の路はとり立ててどうと云うこともなかっ 一日も早くと思って、四日の日に出かけることにしたが、昔、屡ここへあの方とも御一しょに来たことのある のを思い出して、「そう、四五日山寺に泊ったことのあっ 丁度その日はあの方の御物忌も明けるらしいので、気ぜたのも今頃じゃなかったかしら、あのときはあの方も宮仕 わしい思いで、いろいろ支度を急がせていると、人々がえも休まれて、一しょに籠 0 て入らし 0 たつけが、・ーこな むしろ 筵の下から何か見つけ出して「これは何でしよう」などとどと考え続けながら、供人もわずか三人ばかり連れたきり 言い合っていた。ふと見ると、それはいつもあの方が朝ごで、はるばるとその山路を辿って往った。 たとうがみ とにお飲みなすっていた御薬が檀紙の中に挿まれたままにタ方、漸っと或淋しい山寺に着いた。まず、僧坊に落ちっ まがき なって出て来たのだった。私はそれを受け取って、その紙いて、あたりを眺めると、前方には籬が結われてあり、そ こ 0 かえ しょゼん たど
みちつな らし、八月の末になって道綱を生んだが、いまから思えば、 たらしからた。おおかた小路の女の所へでも入らしったの カ朝になって、何だかそのままにして まあその頃があの方も私を一番何くれとなく深切になすつだろうと思った。・、、 て下すっていた頃だったようだ。 置いても気になるし、それかと云って戸をちょっとお明け ところが、その九月になって、あの方がお出かけにならしなかった間ぐらいはとも思うものだから、私は「歎きっ れた跡に手筥が置いてあったので、何の気なしに開けて見つひとりぬる夜の明くるまはいかにひさしきものとかは知 たら、どこかの女のもとへ送るおつもりだったらしい御文る」と、いつもよりか少しひきつくろった字で書いて、萎 がしのばせられてあった。私は驚いてどうしたら好いかもれかけた菊に挿してやった。すぐ御返事があったが、「私 わからない位だったが、せめて自分がそれを見たと云う事だってお前が戸を明けてくれるのを、夜の明けるまでだっ だけでもあの方に知らせてやりたいと、わざとそれをそのて待って見ようとしたのだ。・ : カ折悪しく急ぎの使いが来 まま放って置いた。しかし、あの方はそんな事には少しもてしまったものだからーー」と書いてあるぎりだった。い 気をお留めにならぬらしかった。 そんな事があってかつもに変らず、こちらがこれほどまでに切ない心もちをお ら、私はとても気になってそれとはなしにあの方の御様子訴えしているものを、あの方はさも事もなげにあしらわれ を窺っていると、或夕方、急に「どうしても往かなければようとしかなさらないのだ。どうしてそんな女の事なんぞ おっし ならない所があるから」と仰やって出て往かれた御様子を私にもっと出来るだけお隠しなすって、いま暫くなりと、 だま がどうも不審だったので、人を付けさせて見たら、果して「内裏へ」ーーーなどと仰やってでも、私をお瞞しになって 坊の小路のこれこれの所へおはいりになったと云う事だ いて呉れられなかったものなのだろうか。 った。ーーー矢っ張そうだったのかと、胸もつぶれるよう な思いで、それからの数夜と云うもの、私は寐も寐られそれからだっても、あの方はいかにも何気ないような御 ず、しかしどうしようもなく一人きりで歎き明かしてい顔をなすって、おりおりお見えにはなったが、それすらだ た。そんな或夜の明け方だった。誰か訪れて来たものがんだん途絶えがちになり、そのうちにその堪え難いほどだ あるらしく、しきりに門を叩いているようだった。すぐあった冬も過ぎ、漸っと春が立ち返って、三月になった。三日 の方が入らしったのだとは分かったものの、私も少し意地の節句にも、桃の花なんぞを飾りつけてお待ちしていたの になって、いつまでも戸を明けさせずにいた。やがて私のにとうとうお見えにならなかった。近頃姉のもとへしげし 知らない間に、あの方はすごすごお帰りになってしまわれげとお通いになって来るいまひと方も、いつもはそんな事 とだ しお
にくかった。 った。よっぽどそんなところで思いがけず父に逢えたのが とうとう母はひとり意を決して、誰にも知らさずに、私うれしかったものと見える。しかし、それが私のその父に をつれてその家を飛び出した。私が三つのときのことであ逢うことの出来た最後であったそうだ。 る。丁度その頃堀の家には親類の娘で薫さんという人が世それからまもなく、その父浜之助は、脳をわずらって、 話になっていた。その薫さんが私の母贔負で、すべての事もう再び世に立たない人となってしまったのである。 情を知っていて、そのときも母の荷物をもって一しょにつ いて来てくれた。麹町の家を出、母が幼い私をかかえて、 私の母は、それまで弟たちのところにいたおばあさんに ひと先ず頼っていったのは、向島の、小梅の尼寺の近所に来てもらって、土手下の、水戸さまの裏に小さなたばこや 家を持っていたいもうと夫婦ーーーそれがいまの田端のおじの店をひらいた。 さんとおばさんでーーー・のところだった。漸っとその家に落 いままで私たちのいた麹町の堀の家は、立派な門構え ちついて、まあこれでいいと思っていると、突然薫さんがの、玄関先きに飛石などの打ってあるような屋敷だった。 しやく 癪をおこして苦しみだした。それがなかなか快くならず、それだものだから、そうやって土手下なんぞの小さな借家 いつ一人で帰れるようになるか分からなかったので、とうずまいをするようになってからも、三つ四つの私は母やお とう役所に電話をしてすべてを浜之助に告げた。浜之助はばあさんに手をひかれて漸っとよちょちと歩きながら、そ すぐ役所から飛んできた。それが小梅のおばさんの家に浜のへんなどに、ちょっと飛石でも打ってあるような、門構 之助のきた最初であり、また最後であった。夕方、ようやえの家でも見かけると、急に「あたいのうち : : : あたいの く薫さんの癪もおさまり、浜之助が連れもどることになつうち : ・ : ・」といい出して、その中へちょこちょこと駈けこ 女て、皆して水戸さまの前まで送っていった。そして土手のんでいってしまって、みんなをよく困らせたそうだ。 る うえで、母と私とは、薫さんを伴った父と分かれた。 それからもう一つ。 その頃よく町の辻などに仁丹の て 持なんでも私はたいへん智慧づくのが遅くって、三つぐら大きな石板が出ていて、それには白い羽のふさふさとした 花いになってもまだ「うま、うま : : : 」ということしか言え大礼帽をかぶって、美しい髭を生やした人の胸像が描かれ なかったのに、その夕方、おばさんの家で父に逢うと、私てあった、 それを見つけると、私はきまってそのほう はとてもよろこんでしまって、そのとき生れてはじめてを指して、「お父うちゃん : : : 」といってきかなかった、 「お父うちゃん : : : お父うちゃん・ : : こと言えるようにな漸っとそのお父うちゃんというのが言えるようになったば ひげ
るのであります。ーーその当時はもう原始的な他界信仰からくの間は山の奥などに生きているときとすこしも変らな とん ら脱して人々は漸くわれわれと殆ど同じような生と死とのい姿をして暮らしているものだと、老人などのいうことを 観念をもちはじめていたのにちがいありません。だが、自聞いて、亡くなった妻恋いしさのあまりに、もしやとおも って、岩を踏み分けながら、骨を折って山のなかを捜して 分の愛しているものでも死んだような場合には、死後もな お彼女が在りし日の姿のまま、その葬られた山の奥などをみたが、それも空しかった。ひょっとしたら在りし日さな しょん・ほりとさすらっているような切ない感じで、その死がらの妻の姿をちらりとでも見られはすまいかと思ってい これ 者のことが思い出されがちでありましよう。そういう考えたが、ほんの影さえも見ることができなかった。 方は嘗っての他界信仰の名残りのようなものをおおく止めはその長歌の後半をなしている部分ですが、ここにも人麻 ておりますが、半ばそれを否定しながらも、半ばそれを好呂の死に対する同様の観念があらわれております。・ーーす んで受け入れようとしている、ーーすくなくとも心のうえこしそれが露骨に出すぎている位で、いかにも情趣のふか おほとりは ではすっかりそれを受け入れてしまっているのでありまい前の歌ほど僕は感動をお・ほえません。でも、「大鳥の羽 す。そうしてまた一方では、そういう愛人の死後の姿をでがひの山」などというその山の云いあらわしかたには一種 ・ : そうの同情をもちます。翼を交叉させている一羽の大きな鳥の きるだけ美化しようとする心のはたらきがある。 いうさまざまな心のはたらぎが、ほとんど無意識的に行わような姿をした山、ーーー何処にあるのだか分からないけれ ぞうさ れて、なんの造作もなくすうっと素直に歌になったところど、なんだかそんな姿をした山が何処かにありそうな気が に、万葉集のなかのすべての挽歌のいい味わいがあるのだする、そんな心象を生じさせるだけでもこの山の名ひとっ がどんなに歌全体に微妙に利いているか分かりません。 ろうと思われます。 はがび おとり 濃軽の村の愛人の死をいたんだ歌とならんで、もう一首、ろいろな学者が「大鳥の」を枕詞として切り離し、「羽買 どうせい 信人麻呂がもうひとりの愛人 ( こちらの愛人とは同棲をし、山」だけの名をもった山をいろいろな文献の上から春日山 路子まであった ) の死を悲しんだ歌があり、それにも死者にの付近に求めながら、いまだにはっきり分からないでいる おとりは 大対する同様の考えかたが見られます。「・ : : ・大鳥の羽がひのようであります。勿論、学としてはそういう努力が大切で 山に、わが恋ふる妹はいますと人のいへば、岩根さくみてなありましようが、これを歌として味わう上からは、そうい うっそみ づみ来し、よけくもぞなき。現身とおもひし妹が、玉かぎう羽買山ではなしに、何処かにありそうな、大きな鳥の翼 るほのかにだにも見えぬ、思へば。」ーーー人は死んでしばのような形をした山をただぼんやりと浮かべて見ているだ ようや うむ
めいそうおづえ のでもあったのであろう。ともかくも、その笹むらのなか 一つの思惟像として、瞑想の頬杖をしている手つきが、 ぷざま いかにも無様なので、村人たちには怪しい迷信をさえ生じ の小さな思惟像は、何かにつけて、旅びとの私にはおもい させていたが、 そのうえ、鼻は欠け落ち、それに胸の 出されがちだった。 あたりまで一めんに苔が生えていて、 : : : そういえば、そん ちゅうぐうじ 或る秋の日にひとりで心ゆくまで拝してきた中宮寺の観なにそれが苔づくほど、その石仏のあるあたりは、どんな やさ 音像。ーーその観音像の優しくカづよい美しさについて夏の日ざかりにもいつも何かひえびえとしていて、そこい は、いまさら私なんその何もいうことはない。ただ、このらまで来ると、ふいと好い気もちになってひとりでに足も 観音像がわれわれをかくも惹きつけ、かくも感嘆せしめず止まり、つそのままそこの笹むらのなかの石仏の上へし はだ * はんかしゆい にはおかない所以の一つは、その半跏思惟の形相そのものばらく目を憩わせる。と、苔の肌はしっとりとしている。 かったっ そ であろうと説かれた浜田博士の濶達な一文は私の心をいまちょっとそれを撫でてみたくなるような見事さで。 だにたしている。その後も、二三の学者のこの像の半跏う、いまのいままでそれに気がっかなか 0 たのは、いや、 すいぶんう 思惟の形の発生を考察した論文などを読んだりして、それ気がついていてもそれを何んとも思わずにいたのは随分迂 じゅかしゆい がはるかにガンダラの樹下思惟像あたりから発生して来て濶だが、あそこは何かの大きな樹の下だったにちがいな すこし離れてみなければ、それが何んの樹だかも いるという説などもあることを知り、私はいよいよ心に充 ちるものを感じた。 分からないほどの大きな樹だったのだ。あの頬杖をしてい アルカイック あのいかにも古拙なガンダラの樹下思惟像ーーー仏伝のる小さな石仏のうえにちらちらしていた木洩れ日も、よほ しゆいざんまい * たいし なかの、太子が樹下で思惟三昧の境にはいられると、そのど高いところから好いエ合に落ちてきていたので、あんな に私を夢み心地にさせたのだったろう。 濃樹がおのずから枝を曲げて、その太子のうえに蔭をつくっ 信 そんなこ たという奇蹟を示す像ーーそういう異様に葉の大きな一本あれは一体、何んの樹だったのだろうか ? : : : 路の樹を装飾的にあしらった、浅浮彫りの、数箇の太子思惟とをおもいながら、私はふと樹下思惟という言葉を、その 大像の写真などをこの頃手にとって眺めたりしているときな言葉のもっ云いしれずなっかしい心像を、身にひしひしと ど、私はまた心の一隅であの信濃の山ちかい村の寺の小さ感じた。あれは一体、何んの樹 ? : : : だが、あの大きな樹 の下で、ひとり静かに思惟にふけっていたものーーーそれは な石仏をおもい浮かべがちだった。 あの笹むらのなかに小さな頭を傾げていた石仏だったろう ゆえん
かしい言葉でその姿を言いあらわすのはすこしおかしい。 もうすこし、何んといったらいいか、無心な姿勢だ。それ を拝しながら過ぎる村人たちだって、彼等の日常生活のな かでどうかしたエ合でそういった姿勢をしていることもあ るかも知れないような、親しい、なにげなさなのだ。・ そんな笹むらのなかの何んでもない石仏だが、その村でひ と夏を過・こしているうちに、いっかその石仏のあるあたり が、それまで一度もそういったものに心を寄せたことのな たの い私にも、その村での散歩の愉しみのひとつになった。と きどきそこいらの路傍から採ってきたようなな草花が そな 二つ三つその前に供えられてあることがある。村の子供ら のいたずららしい。・ : カそんなのではない、もうすこしち 樹下ー・・・・・・序に代えて ゃんとした花が供えられ、お線香なども上がっていたこと も、その夏のあいだに二三度あった。 その藁屋根の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径のかた わらに、一体の小さなした石仏が、笹むらのなかに何「お寺の裏の笹むらのなかに、こう、ちょ 0 とおもしろい かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光 0 て見えていをした石仏があるでしよう ? あれはなんでしよう る。いずれ観音像かなにかだろうし、しおらしいなどとは か ? 」夏の末になって、私はその寺のまだ四十がらみの、 そまっ 信 もってのほかだが、 いかにもお粗末なもので、石仏としかしもう鋭く痩せた住職からいろいろ村の話を聴いたあ 路いっても、ここいらにはざらにある脆い焼石、ーーー顔も鼻とで、そう質問をした。 こけ 大のあたりが欠け、天衣などもすっかり磨減し、そのうえ苔「さあ、わたしもあの石仏のことは何もきいておりません ゆいしょ がほとんど半身を被ってしまっているのだ。右手を頬にが、どういう由緒のものですかな。かたちから見ますと、 によいりんかんのん あてて、頭を傾げているその姿がちょっとおもしろい。一まあ如意輪観音にちかいものかと思いますが。・ : : ・何し 種の思椎像とでもいうべき様式なのだろうが、そんなむずろ、ここいらではちょっと類のないもので、おそらく石工 大和路・信濃路 わらやね こみち
唯一つ、こういう記憶だけが私には妙にはっきりと残っ ている。ーーー或る晩、母が私を背中におぶって、土手の上 に出た。そこには人々が集って、空を眺めていた。母が言 っこ 0 きれい 「ほら、花火だよ、綺麗だねえ : : : 」みんなの眺めている くもで 空の一角に、ときどき目のさめるような美しい光が蜘蛛手 にばあっと弾けては、又ばあっと消えてゆくのを見なが こおど ら、私はわけも分からずに母の腕のなかで小躍りしてい それと同じ時だったのか、それとも又、別の時だったの ちじく か、どうしても私には分からない。が、それと同じような 人込みの中で、私は同じように母の背中におぶさってい 無花果のある家 た。私はしかしこんどは何かに脅かされてでもいるように 私は自分の幼年時代の思い出の中から、これまで何度も泣きじゃくっていた。私達だけが、向うから流れてくる人 何度もそれを思い出したおかげで、いっか自分の現在の気波に抗らって、反対の方へ行こうとしていた。ときどき私 もちと綯い交ぜになってしまっているようなものばかりを達を脅かしているものの方へ押し戻されそうになりなが 主として、書いてゆくつもりだ。そして私はそれらの幼年ら。そしてその夢の中のようなもどかしさが私を一層泣き 時代のす・ヘてを、単なるなっかしい思い出としては取り扱じゃくらせているように見えた。 それは自家が火事に 代 うまい。まあ言って見れば、私はそこに自分の人生の本質なって、母が私を背負って、着のみ着のままで逃げてゆく 時 途中であったのだ。・ 年のようなものを見出したい。 幼私は四つか五つの時分まで、父というものを知らずに、 その当時には、まだその土手下のあたりには茅葺屋根の 或る土手下の小さな家で、母とおばあさんの手だけで育て家がところどころ残っていたが、或る日、花火がその屋根 られた。しかし、その土手下の小さな家については、私はの一つに落ちて、それがもとで火事になったのである。 殆ど何んの記憶ももって居ない ずっと後になって、私はそんなことを誰に聞かされる 幼年時代 こ 0 おびや かやぶき
を中心とする近代派から、その代表的作家と云うべき たとえば、昭和の抒情詩の方向を決定した「四季」 プルーストへ、必然的に進んで行った。 派の人々の活動の中心とな「た雑誌「四季』を発案し 彼はプルーストに関する読書ノートを、次つぎと発主宰したのは彼自身である。 そして、この雑誌も、単に抒情詩の運動というので 表して、わが国へのプルースト導入の指導的役割を演 しはじめる はなく、近代の散文的客観的リアリてムが忘れ去って すいたい いた、人間の内面の微妙な開発の仕事のために、抒情 西欧の小説の歴史は、自然主義の衰退のあとで、今 世紀の初頭に、イギリスのジェイムス・ジョイスとフ性を新しい武器としようという、彼の考えのもとに構 ランスのマルセル・プルーストとによって、新しい展想されたのだった。 プルーストはフランスのみならす西欧の小説全般に 開の基礎が開かれたのであるが、ジョイスの方は既に、 谷崎潤一郎や芥川龍之介が注目していた。それに対し大きな影響を与えた。その特徴のひとつは人間心理の しつよう てプルーストの方は、本格的な紹介が行なわれるよう無意識界への大胆で執拗な潜入であり、その際の微細 になったのは、この時期であり、堀辰雄の美しいプル極まる分析である。 ( 彼の同時代者ヴァレリ ルーストのこの分析を、「普通の作家が分で考える時 ースト論はーーーそれは当時、続々とフランスや英国で に、プルーストは秒で考える」と批評した。 ) もうひと 発表されはしめた新しい批評家たちの文章の紹介であ 日本の文学界に新しい「、 説」の考え方つは自然主義文学が捨て去った抒情性による美の復活 と、又、そうした発想の生まれる風土を作りあげて行であった。 ( この他にも、プルーストの実現した重要なものに、 ばうだ、 バルサック的な厖大な社会風俗図絵という要素がある 新しい文学の興るためには、新しい文学理論が必要 であることは勿論であるが、それと共に、そうした理が、これは堀辰雄の資質には余るもので、その面では 論が自然的に自由に活動することのできる雰囲気なり堀辰雄は影響は受けなかった。 プルーストの影響の第三は、やはり写実主義の忘れ 風土なりのできあがることが必要である。そして、堀 ロマネスク 辰雄はそうした「風土」を彼の周囲に作りあげる天才ていた物語の、小説のなかでの復活である。 であった。 無意識界への、潜入、その手段としての微細な分析、