二人 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 20 堀辰雄集
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1. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

いぎよう すさま 橋に近づき出した。 を現し、そんな妻じい異形をそこでし出してでもいるかの それまで互にロも利き合わずに、ひたすら帰りをいそいように、二人には見えるのであった。・ でいた私達は、はじめてほっとし出した。そうして最初に 沈黙を破ったのは、それまで私のために気づかって、かえ 洪水 っていつまでもそれを気にしすぎていることで一層私を不 機嫌にさせていた、不幸な少女の方だった。 そういう夏が終って、雨の多い季節になった。 「さっきの水たまりには小さなお魚が泳いでいたわね」そ毎日が雨のなかにはじまり、雨のなかに終っていた。そ うおずおずした思い出し笑いのようなものを浮べながら、 ういう雨の日を、たかちゃんも遊びに来ず、私はよく一人 少女はそっちの方を振りかえって見た。 で硝子戸に顔をくつつけて、つまらなそうに雲のたたずま 「ああ、・ほくも見た : : : 」私もやっと自分自身にかえった いを眺めていた。それを眺めているうちに、いっか自分の ように、急に元気よく言った。 吸で白く曇り出している硝子に、字とも絵ともっかない ような、それでいて充分に描き手を楽しませる模様を描い そう言い合いながら、二人は、それまで無我夢中になっ て歩いてきた野の方を、それを最後のように振りかえっては、それを拭わずにそのままにして、又ほかの硝子戸に いって雨を眺めていた。 た。野の上には、二人の過ぎってきた途中の水たまりが、 あたか かなた いまも二つ三つ日に反射していた。そのまたずっと彼方そんな硝子の模様は、恰も私自身のいる温かい室内の幸 、つまでも残り、それに反 の、地平線の方には、二人のまだ見たこともないような大福を証明しているかのように、し きな入道雲が浮び出していた。 ( 実はさっき野原を横切っして、それ等を透かして見えている雨にびしょ濡れになっ いちじく : ・ ) そた無花果の木をば、一層つめたく、気持わるそうに私に思 ているときから二人には気になっていたのだった : 時れが、いま、極めて無気味な恰好に拡がって、もうずっとわせていた。その無花果の木は、漸っと大きく実らせた果 年遠くになった硝子工場の真上に覆いかぶさろうとしているを、私達に与える前に、すでに腐らせ出していた。・ 幼ところだった。さっきから一一人を脅かしつづけていたもそういうほどにまで雨が小止みもなしに降りつづいたあ きようしゅ の、やっとのことで二人がその兇手から逃れ出してきたもげく、或る日、それにはげしい風さえ加わり出した。風は のが、いまや、もう二人が追いっきようのないほど遠ざか殆ど終日その雨を横なぐりに硝子戸に吹きつけて、ざわめ ってしまったものだから、やむを得ずにとうとうその正体いている戸外をよくも見させず、家のなかの私達まで怯や おび

2. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

り合いながら絶えず変化していることを想像した。 わりに彼は、真白なクッションのある黒い自動車の中に黄 彼女は庭園の中で彼を待っていた。しかし彼はなかなか いろい帽子をかぶった娘の乗っていたのが、西洋の小説の 邁入って来なかった。彼が何をぐずぐずしているのか分るように美しかったことなどを好んで話すのだった。そして ような気がした。数分後、彼女はやっと門を這入って来るその娘の香いがまだ残っていた美しい自動車に乗ってきた 彼を見たのであった。 のだと愉快そうに言った。 彼はばかに元気よく帽子を取った。それにつり込まれて しかし彼はその自動車の中に残っていた唾のことは言わ 彼女までが、愛らしい、おどけた徴笑を浮べたほどであつないでしまった。そうした方がいいと思ったのだった。 た。そして彼女は彼と話しはじめるが早いか、彼が肉体をが、それを言わないでいると、その唾が花弁のように感じ 恢復したすべての人のように、みように新鮮な感受性を持られたあの時の快感がへんに鮮かにいつまでも彼の中に残 っているのを見のがさなかった。 っていそうな気がするのだ。こいつはいけないと思った。 ども 「お病気はもういいの ? 」 その時から少しずつ彼は吃るように見えた。そして彼はも 「ええ、すっかりいいんです」 う不器用にしか話せなかった。一方、そういう彼を彼女は 彼はそう答えながら彼女の顔をまぶしそうに見つめた。持てあますのだった。そこでしかたがなしに彼女は言っ 」 0 彼女の顔はクラシックの美しさを持っていた。その薔薇「家へはいりません ? 」 の皮膚はすこし重たそうであった。そうして笑う時はそこ 「ええ」 画にただ笑いが漂うようであった。彼はいつもこっそりと彼しかし二人はもっと庭園の中にいたかった。けれども今 の女を「ルウ・ヘンスの偽画」と呼んでいた。 の言葉がおかしなものになってしまいそうなので、二人は ス まぶしそうに彼女を見つめた時、彼はそれをじつに新鮮やっと家の中へはいろうとしたのであった。 ン べに感じた。いままでに感じたことのないものが感じられて そのとき二人は、露台の上からあたかも天使のように、 ル来るように思った。そうして彼は彼女の歯ばかりを見た。彼等の方を見下ろしている彼女の母に気がついた。二人は あか 腰ばかりを見た。その間に、彼は病気のことは少しも話そ思わず顔を赧らめながら、それをまぶしそうに見上げた。 うる うとはしなかった。そういう現実の煩さかったことを思い 出すことは何の価値もないように彼は思っていた。そのか にお

3. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ていた。 そのうち一度、扁理が彼女の母の留守に訪ねて来たこと 絹子は、自分ではすこしも気づかなかったが、扁理に初めがある。 扁理はちょっと困ったような顔をしていたが、それでも て会った時分から、少しずつ心が動揺しだしていた。 扁理に初めて会った時分からではすこし正確ではない。そ絹子にすすめられるまま、客間に腰を下してしまった。 れはむしろ九鬼の死んだ時分からと言い直すべきかも知れあいにく雨が降っていた。それでこの前のように庭へ出 ることもできないのだ。 いまだに死んだ父二人は向い合って坐っていたが、別に話すこともなかっ それまで絹子はもう十七であるのに、 の影響の下に生きることを好んでいた。そして彼女は自分たし、それに二人はお互に、相手が退屈しているだろうと の母のダイアモンド属の美しさを所有しようとはせずに、想像することによって、自分自身までも退屈しているかの ように感じていた。 それを眺め、そしてそれを愛する側にばかりなっていた。 し間、へんに息苦しい沈黙のなかに坐 そうして二人は長、 ところが、九鬼の死によって自分の母があんまり悲しそ っていた。 うにしているのを、最初はただ思いがけなく思っていたに 過ぎなかったが、いっかその母の女らしい感情が彼女の中しかし二人は室内の暗くなったことにも気のつかないく そんなに暗くなっていることに初めて気 にまだ眠っていた或る層を目ざめさせた。その時から彼女らいだった。 は一つの秘密を持つようになった。しかし、それが何であがつくと、驚いて扁理は帰って行った。 そして、それからというも絹子はそのあとで、何だか頭痛がするような気がした。 るかを知ろうとはせずに。 の、彼女は知らず識らず自分の母の眼を通して物事を見る彼女はそれを扁理との退屈な時間のせいにした。だが、実 族 は、それは薔薇のそばにあんまり長く居過ぎたための頭痛 ような傾向に傾いて行きつつあった。 家そして彼女はいっしか自分の母の眼を通して扁理を見つのようなものだったのだ。 聖めだした。もっと正確に言うならば、彼の中に、母が見て いるように、裏がえしにした九鬼を。 椴とん しかし彼女自身は、そういうすべてを殆ど意識していな かったと言っていい。 そういう愛の最初の徴候は、絹子と同じように、扁理に も現われだした。 ちょうこう

4. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

310 たお そのと何度もおばさんに頼んだそうだった。父の病に仆れたの かったので私を生れるとすぐその跡とりにした、 位の小さいドラマはそこにあったのにちがいないと段々考は、それから数日立つか立たないうちだったのである。 えるようになっていた。そんな事のあったあとで、父は再 ちじく び東京に戻ってきて、向島のはずれの、無花果の木のある 私がそれまで名義上の父だとばかりおもっていた、堀浜 家に母と幼い私とをむかえたのではあるまいか。ともかく こうめ も、その小梅の父なる人は、幼い私のまえに、最初からい之助というのが、私の生みの親だったのである。 た人ではなくって、どうも途中からひょっくり、私のまえ広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓をも勤 めていたことのある人だそうである。維新後、上京して、 に立ち現れてきたような気のする人なのである。 しかし、その突然自分のまえに現れた小梅の父が、自分裁判所に出ていた。書記の監督のようなことをしていたら の本当の父でないかも知れないなんぞというようなことしい。浜之助には、国もとから連れてきた妻があった。し は、私はずっと大きくなって、ことによると自分の生い立かし、その妻は病身で、二人の間には子もなくて、淋しい かく ちには、何かの秘密が匿されていそうだ位のことは気のつ夫婦なかだった。 そういう年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸 きそうな年頃になっても、私はいっこう疑わなかった。そ して先きに母だけが死んで、父と二人きりで暮らさなけれの落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られる ばならなくなってからも、私はそれをすこしも疑うことをようになり、そしてそこにどういう縁が結ばれて私という ものが生れるようになったか、そういう点はまだ私はなん しなかっこ 0 ともかくも、私は生れるとす 私が去年結婚して信州に出立した後、おばさんが或日向にも知らないのである。 島の家にたずねてゆくと、父はたいへん上機嫌で、二人のぐ堀の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町平河町 間にはいろいろ私の小さいときからの話などがとりかわさにあった。そして私はその家で堀夫妻の手によって育てら ふところ れたそうであるが、その折にも、真実の父がほかにあるこれることになり、私が母の懐を離れられるようになるま とを此の年になるまで知らずにいる私のことを、「あいつで、母も一しょにその家に同居していた。しかし、私がだ もかわいそうといえば、かわいそうだが、まあ自分にはこんだん母の懐を離れられるようになって来てからも、母は んなにうれしいことはない。 : ・ : 」といって、それから「どどうしても私を手放す気にはなれなかった。それかといっ うか自分の死ぬまで何んにも知らせないでおいて下さい。」て、いつまでも母子してその家にいることはなおさら出来 おやこ えにし

5. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

彼女は扁理とその恋人らしいものの姿を、下手な写真師それは斯波という男の声であった。 「あいつはまるで壁の花みたいな 期波という男は、 のように修整していた。その写真のなかでは、例の小さい 踊り子は彼女と同じような上流社会の立派な令嬢に仕上げ奴ですよ。そら、舞踏会で踊れないもんだから、壁にばか りくつついている奴がよくあるでしよう。そういう奴のこ られていた。 彼女はそういう扁理たちに対して何とも云えないにがさとを英語で Wall Flowe 「というんだそうだけれど : : : 期 を味った。しかし、それが扁理のための嫉妬であることに波の人生における立場なんか全くそれですね」ーーそんな は、勿論、彼女は気づかなかった。何故なら、彼女は扁理ことをいっか扁理が言っていたのを思い出しながら、それ たちのような年輩のどういう二人づれを見てもその同じよから彼女はふと扁理のことを考えた : ・ うなにがさを味ったからだ。そして彼女はそれを世間一般彼女が客間に入って行くと、斯波は急に話すのを歇め の恋人たちに対するにがさであると信じた。ーーー実は、彼た。 が、すぐ、斯波は、例のこわれたギタアのような声で、 女はどういう二人づれを見ても知らず識らず扁理たちを思 い出していたのだが : 彼女に向って言いだした。 「いま、扁理の悪口を言っていたところなんですよ。あい 彼女は歩きながら、飾窓に映る自分の姿を見つめ た。そうして彼女は、いますれちがったばかりの二人づれつはこの頃全く手がつけられなくなったんです。くだらな に自分を比較した。ときどき硝子の中の彼女は妙に顔をゆい踊り子かなんかに引っかかっていて : : : 」 「あら、そうですの」 がめていた。彼女はそれを悪い硝子のせいにした。 絹子はそれを聞くと同時ににつこりと笑った。いかにも 或る日、そういう散歩から帰ってくると、絹子は玄関に朗らかそうに。そして自分でも笑いながら、こんな風に笑 どこか見お・ほえのある男の帽子と靴とを見出した。 ったのは実にひさしぶりであるような気がした。 そうしてそれが誰のだかはっきり思い出せないことが、 このながく眠っていた薔薇を開かせるためには、たった 彼女をちょっと不安にさせた。 一つの言葉で充分だったのだ。それはい子の一語だ。 「誰かしら」 ー扁理と一しょにいた人はそんな人だったのか、と彼女は と思いながら、彼女が客間に近づいて行ってみると、そ考え出した。私はそれを私と同じような身分の人とばかり の中から、こわれたギタアのような声が聞えてきた。 考えていたのに。そしてそういう人だけしか扁理の相手に ン■ウウインドウ

6. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

は、その時まだその竹垣をみんなで乗り越してしまわない留守居をしているきりである。そんな寂しいくらいの路地 じいや うちに、寺の爺たちに見つかって、散々な目に遇ったからのなかに、いつも生気を与えているように見えるのは、彫 だ。その時くらい爺たちが私たちに向って腹を立てたこと金師の一家だけである。ずっと奥の、別棟になった細工場 は今までにもなかった。爺やたちは二人がかりで、何処まからは、数人の職人がいつもこっこっと金物を彫っている でも私たちを追いかけて来た。 そのときは私たちも何仕事の音が絶え間なしに聞えて来るのであった。・ んだか昻奮して、墓と墓の間をまるで栗鼠のように逃げ廻その年の春頃から、その彫金師の、それまでは家人だけ の出入り口になっていた、蔦などのからんだ潜り戸に「古 りながら、口々に叫んでいた。 流生花教授」という石板がかかるようになった。その数ヶ 「赤鬼ゃあい : : : 青鬼ゃあい 月前から立派な白髯の老人がいつも大きな花束をかかえ しばしば て、屡々その家に出はいりしていたが、そんなことを好き 昼顔 な一面のある此の家の夫婦をおだてて、そこをとうとう自 その小さな路地の奥には、唯、四軒ばかり、小ぢんまり分の出張所にしたのである。それからやがて木曜日ごと した家があるきりなのである。ちょうど水戸様の下屋敷のに、町内の娘たちが五六人それを習いに来るようになっ いままで た。そうしてその午後になると、その路地には、 裏になっていて、いたって物静かなところである。 その路地をはいって右側には、彫金師の一家が住んで いに聞いたことのない、花やかな、若い娘たちの笑い声が起 る。そのお向うは二軒長屋になっていて、その一方には七るようになった。・ 十ぐらいの老人が一人で住んでいる。五六年前に老妻を亡その日だけは、息子の弘は、中学校から帰ってくると、 くなしてから、そのままたった一人きりで淋しいやもめ暮自分の勉強間にしている奥座敷が娘たちに占領されている らしをしているのである。その隣りには、お向うの彫金師ので、いつもお向うの、おばさんの家へ追いやられてしま の細君のいもうと夫婦が住んでいる。亭主は、河向うの鋳 う。おばさんの家は狭かったが、格子戸を開けて入ったす もの 物工場へ勤めているので、大抵毎日その細君は一人で留守ぐ横の三畳が茶の間になっていて、そこの長火鉢の前でお 居をしている。その路地の突きあたりの家は、そこ一軒だばさんはいつも手内職をしているきりなので、弘は奥の八 けが二階建になっていて、主人はやはり河向うの麦酒会社畳の間を一人で占領して、茶ぶ台を机の代りにして、その に勤めている。あとにはその老母とまだ若い細君が静かに上で夢中になって帳面に何やら円だの線だのばかりを描い りす

7. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

まずに働いていた。松吉も、その由次郎に目をかけ、殆んは急に醒めた人のようになって、為事にも身を入れ出した。 ど細工場のほうのことは任せ切りにしていた。ところが、そうして小梅の家は以前にもまして、あかるく、人出入り 或る夜、泥酔してかえってきた松吉は、其処にふと見るべが多くなっていった。 父も母も、江戸っ子肌の、さつばりした気性の人であっ からざるものを見た。 松吉はさんざん一人で苦しんだ末、何もいわずに、およたから、そのまま私のことでは一度も悶着したこともない うを由次郎に添わせてやる決心をした。二人のために亀戸らしく、誰れの目にもほんとうの親子と思われるほどだっ の近くに小さな家を見つけ、自分のところにあった世帯道た。それからまた、おようさんとも以前とかわらずに付き 具は何から何まで二人に与えて、そうして自分だけがもと合って、由次郎にもずっとうちの為事をしてもらってい こ 0 の家に裸同様になって残ったのである。 小さな私だけはなんにも知らないで、いっかその由次郎 もとより、私の母はそういう経緯のあったことは知って にもなついて、来るとかならず肩車に乗せてもらって、用 いたはずである。しかもなお、そういう人のところに、か わいくてかわいくてならない私をつれて再婚したのであ達しにも一しょについていったりしていた。 その五つか六つぐらいの頃の私は、いまの私とはちがっ る。そこにはよほど深い考えもあったのだろうと思われる。 いい、ただ私を大事にさえしてくれる人でて、かなりな道化ものでもあったようだ。父や母につれら どんな人でも あれば。 それが母の一番考えていたことであったようれて、おばさんの家などに行くと、おばさんにすぐ三味線 である。それには母がいつもその人の前に頭を下げていなをじやかじやか鳴らして貰って、自分は手拭を頭の上にち いとのせ、妙な手つぎや腰つきをして、「猫じゃ、猫じ ければならないようでは困る。その人のほうで母にだけは : ことひとりで唄いながら、皆にひと踊り踊ってみせ 女どうしても一生頭の上がらないように、その人が非常に困や : るっているときに尽くせるだけのことは尽くしておいてやた。そんな俗踊をいつのまにか見よう見真似で覚えてしま 持る。そういう不幸な人である方がいい そういった母ったのである。 私の生父は、裁判所などに出ていても、謹厳一方の人で 花の意にかなった人が、ようやく其処に見いだされた。 勝気でしつかりとした人、私のことだとすぐもう夢中にはなかったらしく、三味線の音色を何よりも好んでいたそ うである。その血すじをひいた生父のことはもうすっかり 眦なってしまう人、ーー誰でもが私の母のことをそう云う。 そういう負けず嫌いな母がおようさんのあとにくると、父忘れてしまって、私のことをかわいがっていてくれる新し

8. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

だろうか、それとも私がそんな見知らない少女と二人づれ種の努力をさえしなければならなかった。それほど、私自 8 なのを異様に思ってそうするのだろうか ? : : : しかしそれ身は私のそばにいる彼女のことで一ばいになってしまって らの子供たちも、そのうちだんだんに、そんな林の中で最いるのだった。 ・ : そうしてそんな薄ぐらい道ばたなど 初のうちは私たちのよく見かけたものだった、さまざまなで、私は私の方に身を靠せかけてそれ等のものをよく見よ 小鳥などと共に、その姿をほとんど見せないようになっ うとしている彼女のしなやかな肩へじっと目を注ぎなが た。そしてその代り、私たちとすれちがいながら、私たちら、そっとその肩へ私の手をかけても彼女はそれを決して まな に好奇的な眼ざしを投げてゆく、散歩中の人々や、自転車みはしないだろうと思った。そして私は或る時などは、 に乗った人々などがだんだんに増えて来た。それらの中にその肩へさりげないように私の手をかけようとして、彼女 は私と顔見知りの人たちなども雑っていた。私はいっかこの方へ私の上半身を傾けかけた。私の心臓は急にどきどき んなところをひょっくり昔の女友達にでも出会いはしない しだした。・ : カそれよりももっとはげしく彼女の心臓が鼓 かと一人で気を揉んでいたが、ときどき、そんな散歩の途動しているのを、その瞬間、私は耳にした。そしてそれが 中に、ふと向うからやってくる人々のうちに遠見がどこか私に、そういう愛撫を、ほんのそのデッサンだけで終らせ あわ それらに似たような人があったりすると、私は慌てて、そた。・ : : ・私はまだその本物を知らないのだけれど、それが こころよ の人たちを避けるために、道もないような草の茂みのなか与えるのとちっとも異わないような特異な快さを、その おどろ へ彼女を引っ張りこんで、何んにも知らない彼女を駭かせデッサンだけでもう充分に味ったように思いながら。 るようなこともあった。 ふう そんな風に、私は彼女と暮方近い林のなかを歩きなが ら、まだ私が彼女を知らなかった頃、一人でそこいらをあ 一体、「水車の道」というのは、郵便局やいろんな食料 てもなく散歩をしていたときは、あんなにも私の愛してい品店などのある本通りの南側を、それと殆んど平行しなが はす た瑞西式の・ハンガロオだの、美しい灌木だの、羊歯だのら通っているのだが、それらの二つの平行線を斜かいに切 を、彼女に指して見せながら、私はなんだか不思議な気が っている、いくつかの狭い横町があった。そんな横町の一 した。それ等のものが今ではもう私には魅力もなんにも無つに、その村で有名な二軒の花屋があった。二軒とも藁屋 くなってしまっていたからだ。そうして私は彼女の手前、根の小さな家だったが、共に、その家の五六倍ぐらいはあ それ等のものを今でも愛しているように見せかけるのに一るような、大きな立派な花畑に取り囲まれていた。そして どう ちが わらや こ

9. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

まな る眼ざしとよりほかには、殆んど何も見覚えのない位であ っこ 0 ・ : やがて別館から彼女の父らしいものが姿を現し た。そしてその二人づれは私の窓の前を斜めに横切って行 ったが、見ると、彼女はその父よりも脊が高いくらいであ 突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失った。そしてその父らしいものが彼女にしきりに話しかけ つつじ っている躑躅の茂みの向うの、別館の窓ぎわに、一輪の向るのに、彼女はいかにも気がなさそうに返事をしながら、 まわり 日葵が咲きでもしたかのように、何んだか思いがけないよ いつまでも私の方へ第躅の茂みごしにその特徴のある眼ざ うなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出ししをそそぎつづけていた。・ ・ : その二人が中庭を立ち去っ そこ むぎ・わらぼうし たように思えた。私はやっと其処に、黄いろい麦藁帽子をてしまった跡も、私はしばらく、今しがたまでその少女が うつろ かぶ 0 た、脊の高い、痩せぎすな、 1 人の少女が立ってい 向日葵のように立っていた窓ぎわの方へ、すこし空虚にな るのだということを認めることが出来た。 : : : 誰かを待つった眼ざしをやっていたが、ふと気づくと、そこいらへん ているらしいその少女は、さっきから中庭のあちらこちらの感じが、それまでとは何んだかすっかり変ってしまって に注意深そうな視線をさまよわせていたが、最後にその視いるのだ。私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい 線を、離れの窓から彼女の方をぼんやり見つめていた私の匂いが漂い出しているのだった。 上に置いた。そんな最初の出会の時には、大概の少女たちその日の夕方の、別館の方への私の引越し、 ( 今まで私 しゅう娶ん は、自分が見つめられていると思う者からわざとそっぽをの一人で暮らしていた、古い離れが修繕され始めるのでー 向いて、自分の方ではその者にまったく無関心であることー ) その次ぎの日の、その少女の父の出発、それから他に しゅうち を示したがるものだが、そんな羞恥と高慢さとの入り混つはまだ一人も滞在客のないそんな別館での、その少女と二 村た視線とは異って、私の上に置かれているその少女の率直人っきりの、脊中合わせの暮らし : ・ な、好奇心でいつばいなような視線は、私にはまぶしくっ しかし私は毎日のように、ほとんど部屋に閉じこもった し てそれから目をそらさずには居られないほどに感じられたきりで、自分の仕事に頭していた。その私の書きつつあ 美 ので、私はそのときの彼女・ーー最初に私の目の前に現れたる「美しい村」という物語は、六月頃からこの村に滞在し ときの彼女に就いては、そのやや真深かにかぶった黄いろている私が、そんなまだ季節はずれの、すっからかんとし い帽子と、その鍔のかげにきらきらと光っていた特徴のあた高原で出会ったことを、それからそれへと書いて行った たいがい そっちよく ひまわり

10. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

利けないほど気の小さな夫とを送り出しながら、何かその 菜穂子はそれには故意と返事をせずに、ただ相手をじっ と見つめ返していた。それがいま夫の云った言葉をいかに母がわざわざ夫と一しょに自分に付添って来てくれた事を 素直には受取れないように感じていた。それほどまで自分 も空虚に響かせた。 夫はそう云う菜穂子の眼ざしから顔を外らせた儘、もうの事を気づかって呉れると云うよりか、圭介をこんな病人 の自分と二人きりにさせて置いて彼の心を自分から離れが そんな気休めのようなことはロに出さなかった。 翌日、圭介は母には喀血のことは抜かして、菜穂子の病たいものにさせてしまう事を何よりも怖れているがための いようだった。菜穂子はその一方、そう云う事まで猜疑しず 気を話し、今のうちに何処かへ転地させた方がよくはな かと相談を持ちかけた。菜穂子もそれには同意している事にはいられなくなっている自分を、今こうしてこんな山の かたぎ もつけ加えた。昔気質の母は、この頃何かと気ぶっせいな療養所に一人きりでいなければならなくなった自分より 娵を自分達から一時別居させて以前のように息子と二人きも、一層寂しいような気持で眺めていた。 りになれる気楽さを圭介の前では顔色にまで現わしなが ら、しかし世間の手前病気になった娵を一人で転地させる此処こそは確かに自分には持って来いの避難所だ、と菜 事にはなかなか同意しないでいた。漸っと菜穂子の診て貰穂子は最初の日々、一人でタ飯をすませ、物静かにその日 っている医者が、母を納得させた。転地先は、その医者もを終えようとしながら窓から山や森を眺めて、そう考え やつがたけ 勧めるし、当人も希望するので、信州の八ヶ岳の麓にあるた。露台に出て見ても、近くの村々の物音らしいものが何 処か遠くからのように聞えて来るばかりだった。ときどき 或高原療養所が選ばれた。 風が木々の香りをりながら、彼女のところまでさっと吹 つきそ て来た。それが云わば此処で許される唯一の生のにおい 或薄曇った朝、菜穂子は夫と母に付添われて、中央線のい ・こっこ 0 子汽車に乗り、その療養所に向った。 穂午後、その山麓の療養所に著いて、菜穂子が患者の一人彼女は自分の意外な廻り合わせについて反省するため に、どんなにかこう云う一人になりたかったろう。何処か 菜として或病棟の二階の一室に収容されるのを見届けると、 日の暮れる前に、圭介と母は急いで帰って行った。菜穂子ら来ているのか自分自身にも分からない不思議な絶望に自 は、療養所にいる間絶えず何かを怖れるように背中を丸く分の心を任せ切って気のすむまでじっとしていられるよう かつう していた母とその母のいるところでは自分にろくろく口もな場所を求めるための、昨日までの何んという渇望、 よめ ここ