まずに働いていた。松吉も、その由次郎に目をかけ、殆んは急に醒めた人のようになって、為事にも身を入れ出した。 ど細工場のほうのことは任せ切りにしていた。ところが、そうして小梅の家は以前にもまして、あかるく、人出入り 或る夜、泥酔してかえってきた松吉は、其処にふと見るべが多くなっていった。 父も母も、江戸っ子肌の、さつばりした気性の人であっ からざるものを見た。 松吉はさんざん一人で苦しんだ末、何もいわずに、およたから、そのまま私のことでは一度も悶着したこともない うを由次郎に添わせてやる決心をした。二人のために亀戸らしく、誰れの目にもほんとうの親子と思われるほどだっ の近くに小さな家を見つけ、自分のところにあった世帯道た。それからまた、おようさんとも以前とかわらずに付き 具は何から何まで二人に与えて、そうして自分だけがもと合って、由次郎にもずっとうちの為事をしてもらってい こ 0 の家に裸同様になって残ったのである。 小さな私だけはなんにも知らないで、いっかその由次郎 もとより、私の母はそういう経緯のあったことは知って にもなついて、来るとかならず肩車に乗せてもらって、用 いたはずである。しかもなお、そういう人のところに、か わいくてかわいくてならない私をつれて再婚したのであ達しにも一しょについていったりしていた。 その五つか六つぐらいの頃の私は、いまの私とはちがっ る。そこにはよほど深い考えもあったのだろうと思われる。 いい、ただ私を大事にさえしてくれる人でて、かなりな道化ものでもあったようだ。父や母につれら どんな人でも あれば。 それが母の一番考えていたことであったようれて、おばさんの家などに行くと、おばさんにすぐ三味線 である。それには母がいつもその人の前に頭を下げていなをじやかじやか鳴らして貰って、自分は手拭を頭の上にち いとのせ、妙な手つぎや腰つきをして、「猫じゃ、猫じ ければならないようでは困る。その人のほうで母にだけは : ことひとりで唄いながら、皆にひと踊り踊ってみせ 女どうしても一生頭の上がらないように、その人が非常に困や : るっているときに尽くせるだけのことは尽くしておいてやた。そんな俗踊をいつのまにか見よう見真似で覚えてしま 持る。そういう不幸な人である方がいい そういった母ったのである。 私の生父は、裁判所などに出ていても、謹厳一方の人で 花の意にかなった人が、ようやく其処に見いだされた。 勝気でしつかりとした人、私のことだとすぐもう夢中にはなかったらしく、三味線の音色を何よりも好んでいたそ うである。その血すじをひいた生父のことはもうすっかり 眦なってしまう人、ーー誰でもが私の母のことをそう云う。 そういう負けず嫌いな母がおようさんのあとにくると、父忘れてしまって、私のことをかわいがっていてくれる新し
人はこんなに痩せていて、それにこの人の方が私のお母さで一つに溶け合いだしている。そしてどういうものか、よ おもかげ んよりずっと綺麗だもの : : : と、私は不審そうにその写真く見なれた晩年の母の俤よりも、その写真の中の見なれ と私の母とを見くらべる。 ない若い母の俤の方が、私はずっと懐しい。私はこの頃で 其処には、その見知らぬ女の人が生花をしているところは、子供のときその写真の人がどうしても私の母だと信じ が撮られてある。花瓶を膝近く置いて、梅の花かなんか手られなかったのは、その人を自分の母と信ずるにはその人 にしている。私はその女の人が大へん好きだった。私の母があまりに美し過ぎたからではなかったかと解している。 などよりもっと余計に。 その人がただ美しいと云うばかりでなしに、その容姿に何 びたい それから数年経った。私にもだんだん物事が分かるよう処ということなく妙になまめいた媚態のあったのを子供心 になって来た。私の母は前よりも一そう肥えられた。それに私は感づいていて、その人を自分の母だと思うことが何 は一つは、私をどうかして中学の入学試験に合格させたいんとなく気恥しかったのであろう。そう云えば、その写真 たしな と、浅草の観音さまへ願掛けをされて、平生嗜まれていた酒のなかで母のつけていた服装は、決して人妻らしいもので と煙草を断たれたためでもあった。そして私の母は、それ等もなければ、また素人娘のそれでもなかったようだ。今の の代りに急に思い立たれて生花を習われ出した。私はとき私には、それがどうもその頃の芸者の服装だったようにも おり、そういう生花を習われている母の姿を見かけるよう思われる。そんな事からして私はこの頃では私の母は父の ところへ嫁入る前は芸者をしていたのではないかと一人で 仟時の間に になった。そんな事から私はまたひょっくり、ロ か忘れるともなく忘れていた例の花を持った女の人の写真ひそかに空想をしているのである。ーー・私の母の実家が随 のことを思い出した。その写真は私の心の中にそっくり元分貧しかったらしいことや、私の母の妹とか、弟とか云う 女のままみずみずしい美しさで残っていた。私はその頃は頭人達が大抵寄席芸人だの茶屋奉公だのをしていたことや、 る ではそれが私の母の若い時分の写真であることを充分に認私の父が昔は相当道楽者だったらしいことなどを考え合せ て 持めることは出来ても、まだ心の底ではどうしてもその写真て見れば、そんな私の空想が全然根も葉もないものである とは断言できないだろう。 花の人と私の母とを一緒にしたくないような気がしていた。 それから更らに数年が経った。私の母は地震のために死私はしかし芸者と云うものを今でも殆んど知っていない そういう今となっと言っていい。ただ少年の頃から鏡花などの小説を愛読し んだ。その写真も共に失われた。 て、不思議なことには、漸くその一一つのものが私の心の中ているし、そういう小説の女主人公などに一種の淡い愛着
べてが、いかにそれらの子供らしい悲しみにまんべんなく 裏打ちされていることか ! 学生 そのおよんちゃんの間借りしている煙草屋からの帰りみ ち、駒形の四つ辻まで来ると、或る薬屋の上に、大きな仁とうとう幼稚園へはあれつきり行かずに、それから約一 丹の看板の立っているのが目のあたりに見えた。私はその年後、私はすぐ小学校へはいった。 看板が何んということもなしに好きだった。それにも、大その小学校は、私の家からはかなり遠かった。それにま 概の仁丹の広告のように、白い羽のふわふわした大礼帽をだ、その町へ引越してから一年も立つか立たないうちだっ かぶり、ロ髭をびんと立てた、或えらい人の胸像が描かれたので、同じ年頃の子とはあまり知合のなかった私は、そ ているきりだったが、その駒形の薬屋のやつは、他のどこの町内から五六人ずつ連れ立ってゆく男の子や女の子たち のよりも、大きく立派だった。それで、私はそれが余計にとは別に、いつまでも母に伴われて登校していた。そうし 好きだったのだ。そして帰りがけにそれを見られることて学校へ著いてからも、他の見知らぬ生徒たちの間に一人 が、そうやっておばさん達のところへ母に連立って行くとぼっちに取残されることを怖れ、授業の終るまで、母に教 きの、私のひそかな悦びになってもいた。 室のそとで待っていて貰った。最初のうちは、そういう生徒 その後、私はそのおよんちゃんという人が、目の上に大に付き添って来ていた母や姉たちが他にもあったけれど、 きな黒子のある、年をとったおじいさん見たいな人と連れだんだんその数が減り、しまいには私の母一人だけになっ 立って歩いているところを二度ばかり見かけた。一度は私た。 が父と一しょに浅草の仲見世を歩いているときだった。そまだ授業のはじまらない前の、何んとなくざわめき立っ れからもう一度は、並木のおばさんの病気見舞に行って母た教室の中で、私は隣りの意地悪い生徒にわざとしかめ面 と一しょに出て来たとき、入れちがいに向うから一一人づれなそをされながら、半ば開いた硝子窓ごしに、廊下に立っ でやって来るところをばったりと行き逢った。その目の上たままでいる私の母の方へ、ときどき救いを求めるような に大きな黒子のあるおじいさん見たいな人は、母とは丁寧目で見た。や 0 と頭の禿げた、ちょ・ほの、人の好さそう な他人行儀の挨拶を交わしていたが、私には何んとなく人な受持の先生が来て、こんどは出欠を調・ヘるために、生徒 の好い、親切そうな人柄のように見えた。 の名を順々に読み上げてゆく。それがまた私には死ぬよう な苦しみだった。自分の苗字が呼ばれても、私は一ペんで はくろ よろこ
いぎよう すさま 橋に近づき出した。 を現し、そんな妻じい異形をそこでし出してでもいるかの それまで互にロも利き合わずに、ひたすら帰りをいそいように、二人には見えるのであった。・ でいた私達は、はじめてほっとし出した。そうして最初に 沈黙を破ったのは、それまで私のために気づかって、かえ 洪水 っていつまでもそれを気にしすぎていることで一層私を不 機嫌にさせていた、不幸な少女の方だった。 そういう夏が終って、雨の多い季節になった。 「さっきの水たまりには小さなお魚が泳いでいたわね」そ毎日が雨のなかにはじまり、雨のなかに終っていた。そ うおずおずした思い出し笑いのようなものを浮べながら、 ういう雨の日を、たかちゃんも遊びに来ず、私はよく一人 少女はそっちの方を振りかえって見た。 で硝子戸に顔をくつつけて、つまらなそうに雲のたたずま 「ああ、・ほくも見た : : : 」私もやっと自分自身にかえった いを眺めていた。それを眺めているうちに、いっか自分の ように、急に元気よく言った。 吸で白く曇り出している硝子に、字とも絵ともっかない ような、それでいて充分に描き手を楽しませる模様を描い そう言い合いながら、二人は、それまで無我夢中になっ て歩いてきた野の方を、それを最後のように振りかえっては、それを拭わずにそのままにして、又ほかの硝子戸に いって雨を眺めていた。 た。野の上には、二人の過ぎってきた途中の水たまりが、 あたか かなた いまも二つ三つ日に反射していた。そのまたずっと彼方そんな硝子の模様は、恰も私自身のいる温かい室内の幸 、つまでも残り、それに反 の、地平線の方には、二人のまだ見たこともないような大福を証明しているかのように、し きな入道雲が浮び出していた。 ( 実はさっき野原を横切っして、それ等を透かして見えている雨にびしょ濡れになっ いちじく : ・ ) そた無花果の木をば、一層つめたく、気持わるそうに私に思 ているときから二人には気になっていたのだった : 時れが、いま、極めて無気味な恰好に拡がって、もうずっとわせていた。その無花果の木は、漸っと大きく実らせた果 年遠くになった硝子工場の真上に覆いかぶさろうとしているを、私達に与える前に、すでに腐らせ出していた。・ 幼ところだった。さっきから一一人を脅かしつづけていたもそういうほどにまで雨が小止みもなしに降りつづいたあ きようしゅ の、やっとのことで二人がその兇手から逃れ出してきたもげく、或る日、それにはげしい風さえ加わり出した。風は のが、いまや、もう二人が追いっきようのないほど遠ざか殆ど終日その雨を横なぐりに硝子戸に吹きつけて、ざわめ ってしまったものだから、やむを得ずにとうとうその正体いている戸外をよくも見させず、家のなかの私達まで怯や おび
この頃、細木夫人はすっかり若さを失っていた。そ 人は始終自分の貧乏なことを気にしていたようだけれど ・ ( そんな考えがさっと少女の頬を赤らめた ) : : : それして彼女には、自分の娘が何んだか自分から遠くに離れて で、あの人は私のお母さんに誘惑者のように思われたくなしまったように思われてならないのだった。彼女はときど き自分の娘を、まるで見知らない少女のようにさえ思うこ かったのかも知れない。あの人が私のお母さんを怖れてい たことはそれは本当だわ。こんな風にあの人を遠ざからせとがあった。そして今も、そうだった : てしまったのはお母さんだって悪いんだ。私のせいばかり絹子は、海の絵はがぎの裏に、鉛筆で書かれた扁理の神 ではない。ひょっとしたら何もかもお母さんのせいかも知経質な字を読んだ。彼は、その海岸が気に入ったからしば らく滞在するつもりだ、と書いて寄こしたきりだった。 れない : そんな風にこんぐらかった独語が、娘の顔の上にいつの絹子はその絵はがきから、彼女の狂暴な顔をいきなり夫 まにか、十七の少女に似つかわしくないような、にがにが人の方にむけながら、 しげな表情を雕りつけていた。それは実は彼女自身への意「河野さんは死ぬんじゃなくって ? 」と出しぬけに質問し 地であったのだけれども、彼女には、それを彼女の母へのた。 細木夫人はその瞬間、自分の方を睨らんでいる、一人の 意地であるかのように誤って信じさせながら : 見知らぬ少女のそんなにも恐い眼つきに驚いたようだっ た。が、その少女のそんな眼つきは突然、夫人に、彼女が 「はいってもよくって ? 」 その少女と同じくらいの年齢であった時分、彼女の愛して そのとき部屋の外で母の声がした。 いた人に見せつけずにはいられなかった自分の恐い眼つき 「いいわ」 絹子は、彼女の母がはいって来るのを見ると、いきなりを思い出させた。そうして夫人は、その見知らない少女が 自分の狂暴な顔を壁の方にねじむけた。細木夫人はそれをその頃の自分にひどく肖ていることに、そして、その少女 が実は自分の娘であることに、なんだか始めて気づいたか 彼女が涙をかくすためにしたのだとしか思わなかった。 「河野さんから絵はがきが来たのよ」と夫人はおどおどしのように見えた。夫人は溜息をしずかに洩らした。ーー・ - ・娘 は誰かを愛している。自分が、昔、あの人を愛していたよ ながら言った。 その言葉が絹子の顔を夫人の方にねじむけさせた。今度うに愛している。そしてそれはきっと扁理にちがいない は夫人がそれから自分の顔をそむかせる番だった。 お ふう
いとふり向いた。その途端、通行人の一人が明に肩をぶつ け、空けたように佇んでいた背の高い彼を思わずよろめか 明がそれから漸っと立ち直ったときは、もうさっきの二 人は人込みの中に姿を消していた。 しようす、 何年ぶりかで見た菜穂子は、何か目に立って憔悴してい た。白い毛の外套に身を包んで、並んで歩いている彼女よ むとんじゃく りも背の低い夫には無頓著そうに、考え事でもしているよ まっすぐ・ うに、真直を見たままで足早に歩いていた。一度夫が何か 彼女に話しかけたようだったが、それは彼女にちらりと 蔑むような頬笑みを浮べさせただけだった。 ーー都築明 は自分の方へ向って来る人込みの中に目ざとくそう言う一一 人の姿を見かけ、菜穂子さんを見るような人だがと思い出 「や 0 ばり菜穂子さんだ。」思わず都築明は立ち止りながすと、かに胸の動悸が高ま 0 た。彼がその白い外套の女 いぶか ら、ふり返った。 から目を離さずに歩いて行くと、向うでも一瞬彼の方を訝 すれちがうまでは菜穂子さんのようでもあり、そうでなしそうに見つめ出したようだった。しかし、何んとなくこ いようにも思えたりして、彼は考えていたが、すれちがっちらを見ていながら、まだ何んにも気づかないでいる間の まな たとき急にもうどうしても菜穂子さんだという気がした。 ような、空虚な眼ざしだった。それでも明はその宙に浮い しばら 子明は暫く目まぐるしい往来の中に立ち止 0 た儘、もうかた眼ざしを支え切れないように、思わずそれから目を外ら 穂なり行き過ぎてしまった白い毛の外套を着た一人の女とそせた。そして彼がちょいと何んでもない方を見ている暇 菜の連れの夫らしい姿を見送っていた。そのうちに突然、そに、彼女はとうとう目の前の彼にそれとは気づかずに、夫 の女の方でも、今すれちがったのは誰だか知った人のようと一しょにすれちがって行ってしまったのだった : だったと漸っと気づいたかのように、彼の方をふり向いた 明はそれからその二人とは反対の方向へ、な・せ自分だけ ようだった。夫も、それに釣られたように、 こっちをちょ がそっちへ向って歩いて行かなければならないのか急に分 菜穂子 うつ ほえ たたず
もやむを得ずに芝の烏森に移って、小さな骨董屋をはじめ語家になってしまった。しかし、それらの人達はみんな早 た。が、それも年々思わしくなくなる一方で、もう米次郎世してしまって、いまは亡い ばんかい には挽回のほどこしようもなく、とうとう愛宕下の裏店に私はそういう母の一家の消長のなかに、江戸の古い町家 のあわれな末路の一つを見いだし、何か自分の生い立ちに 退いて、余生を侘びしく過ごす人になってしまった。 かげ ろうきょ 米次郎がその愛宕下の陋居で、脳卒中で亡くなったのも一抹の云いしれず暗い翳のかかっているのを感ずるが、 もしそういうも しかしそれはそれだけのことである、 は、明治二十八九年ごろだった。・ のが私の心をすこしでもましむるとすれば、それは私の そのとき私の母は二十四五になっていた。死んだ米次郎母をなっかしむ情の一つのあらわれに過ぎないであろう。 むすめ と玉との間には、長女である私の母をはじめ、四人の女と まだ小さな二人の弟たちがいた。 それから私の生れるまでの、十年ちかい年月を、私の母土手下で小さな煙草店をやっていた私の母が、その店を はそれらの若い妹や小さな弟をかかえて、気の弱い、内気廃めて、小梅の父のところに片づいたのは、私が四つか五 たす な人だったらしいおばあさんを扶けながら、どんなにけなつのときだったらしい。私ははじめのうちはその新しい父 げに働いたか、そしてどんなに人に知れぬような苦労をしのことを、「お父うちゃん」とお云いといくら云われても、 いつも「ベルのおじちゃん」と呼んでいた。そうして町な たか、いま私にはその想像すらも出来ない。私の母を知っ かにある仁丹の看板をみつけては一人でそれを指して「お ていた人達は、母のことを随分しつかりした人で、あんな に負けず嫌いで、勝気な人はなかったと一様に言う。なん父うちゃん」と言ってばかりいるので、母たちも随分手古 女でもおじいさんが死んでからまもなく、若い母は夜店など摺ったらしい。・ る 「ベル」というのは、その時分、尼寺のそばに住んでいた を出して何かをひさいだりしたこともあったという話を、 持まだ私の小さかったとき母自身の口から何かの折にきいたおじさんのところで飼っていた大きな洋大の名前で、私は その犬と大の仲好しだった。自分よりもずっと大きなその 花ことのあったのを、私はうっすらと覚えている。 母のいもうとの中には、茶屋奉公に出ていたものもい犬を、小さな私はいつも「お前、かわいいね : : : 」といっ る。芸者にな 0 て、きん朝さんという落語家に嫁いだものて撫でてやっていたそうである。そうしてその頃私は大さ もいる。それから一番末の弟はとうとう自分から好きで落え見れば、どんな大きな大でもこわがらずに近づいていっ いちまっ
310 たお そのと何度もおばさんに頼んだそうだった。父の病に仆れたの かったので私を生れるとすぐその跡とりにした、 位の小さいドラマはそこにあったのにちがいないと段々考は、それから数日立つか立たないうちだったのである。 えるようになっていた。そんな事のあったあとで、父は再 ちじく び東京に戻ってきて、向島のはずれの、無花果の木のある 私がそれまで名義上の父だとばかりおもっていた、堀浜 家に母と幼い私とをむかえたのではあるまいか。ともかく こうめ も、その小梅の父なる人は、幼い私のまえに、最初からい之助というのが、私の生みの親だったのである。 た人ではなくって、どうも途中からひょっくり、私のまえ広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓をも勤 めていたことのある人だそうである。維新後、上京して、 に立ち現れてきたような気のする人なのである。 しかし、その突然自分のまえに現れた小梅の父が、自分裁判所に出ていた。書記の監督のようなことをしていたら の本当の父でないかも知れないなんぞというようなことしい。浜之助には、国もとから連れてきた妻があった。し は、私はずっと大きくなって、ことによると自分の生い立かし、その妻は病身で、二人の間には子もなくて、淋しい かく ちには、何かの秘密が匿されていそうだ位のことは気のつ夫婦なかだった。 そういう年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸 きそうな年頃になっても、私はいっこう疑わなかった。そ して先きに母だけが死んで、父と二人きりで暮らさなけれの落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られる ばならなくなってからも、私はそれをすこしも疑うことをようになり、そしてそこにどういう縁が結ばれて私という ものが生れるようになったか、そういう点はまだ私はなん しなかっこ 0 ともかくも、私は生れるとす 私が去年結婚して信州に出立した後、おばさんが或日向にも知らないのである。 島の家にたずねてゆくと、父はたいへん上機嫌で、二人のぐ堀の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町平河町 間にはいろいろ私の小さいときからの話などがとりかわさにあった。そして私はその家で堀夫妻の手によって育てら ふところ れたそうであるが、その折にも、真実の父がほかにあるこれることになり、私が母の懐を離れられるようになるま とを此の年になるまで知らずにいる私のことを、「あいつで、母も一しょにその家に同居していた。しかし、私がだ もかわいそうといえば、かわいそうだが、まあ自分にはこんだん母の懐を離れられるようになって来てからも、母は んなにうれしいことはない。 : ・ : 」といって、それから「どどうしても私を手放す気にはなれなかった。それかといっ うか自分の死ぬまで何んにも知らせないでおいて下さい。」て、いつまでも母子してその家にいることはなおさら出来 おやこ えにし
じいや どを荒し廻っているところを寺の爺にでも見つかろうもの かん なら、私たちはたちまち追い出されてしまうのだった。疳 べき 癖らしかった爺の一人なんそは、手にしていた竹箒を私た ちに投げつけることさえあった。だが、そうなると一層そ の寺の境内や墓地を荒すことが面白いことのように思わ れ、私たちは爺に見つかるのを恐れながら、それでも決し てその中へ侵入することを止めなかった。その寺には爺が * しきみ 二人いた。一人は正門の横で線香や樒などを売って居り、 もう一人はよく竹箒を手にして境内や墓地の中を掃除して いた。私たちは彼等を顔色から「赤鬼」「青鬼」と呼んで 墓の家 たしか秋の学期のはじまった最初の日だったと思う。学 これは私が小学三四年のころの話である。 校の帰り途、五六人でその夏の思い出話などをしながら一 じようせんじ 私の家からその小学校へ通う道筋にあた 0 て、常泉寺としょに来ると、そのうちの一人が数日前に常泉寺の裏を抜 いう、かなり大きな、古い寺があ 0 た。非常に奥ゆきの深ける、まだ誰も知らなか 0 た抜け道をみつけたといって得 い寺で、その正門から奥の門まで約三四町ほどの間、石甃意そうに話した。そこで私たちはすぐそのまま、一人の異 が長々と続いていた。そしてその石甃の両側には、それに議もなく、その抜け道を通って見ることにした。 沿うて、かなり広い空地が、往来から茨垣に仕切られなが そのころ常泉寺の裏手にあたって、小さな尼寺があっ ら、細長く横わっていた。その空地は子供たちの好い遊びた。円通庵とか云った。丁度その尼寺の筋向うに、ちょっ 場になっていた。そしてその空地で遊んでいる分には、誰と通り抜けられそうもない路地があったが、その中へ私た にも叱られなかったが、若し私たちがその奥の門から更にちの小案内者が、ずんずん得意そうに入って行くので、私 ほろきめ 寺の境内に侵入して、其処のいつも箒目の見えるほど綺麗たちもさも面白いことでもするようにその汚い路地の中へ に掃除されている松の木の周りや、鐘楼の中、墓地の間な入って行 0 た。最初のうちは何んだかゴミゴミした汚らし 三つの挿話 ん いしだたみ
166 かにも何気ない会話や動作をとりかわしているのを、明は明にはいつの間にかどっちをどっち切り離しても考える事 傍で見たり聞いたりしているうちに、其処から突然 0 村のの出来ない存在となっていた。病院から帰る時、いつも玄 特有な匂のようなものが漂って来るような気がしたりし関まで見送られる途中、彼ははっきりと自分の背中におよ た。彼はそれを貪るように嗅いだ。そんなとき、彼には自うの来るのを感じながら、ふと自分が此の母子と運命を共 分が一人の村の娘に空しく求めていたものをらずも此のにでもするようにな 0 たら、とそんな全然有り得なくもな 母と娘の中に見出しかけているような気さえされるのだっさそうな人生の場面を胸のうちに描いたりした。 た。おようは明と早苗の事はうすうす気づいているらしか 十四 ったが、ちっともそれを匂わせようとしない事も明には好 ましかった。・、、 カそれだけ、ときどき此の年上の女の温か或るタ方、都築明は少し熱があるようなので、事務所を まっすぐおぎくぼ い胸に顔を埋めて、思う存分村の匂をかぎながら、何も云早目に切り上げ、真直に荻窪に帰って来た。大抵事務所の わず云われずに慰められたいような気持ちのする事もない帰りの早い時にはおよう達を見舞って来たりするので、こ んなにあかるいうちに荻窪の駅に下りたのは珍らしい事だ ではなかった。 あかね った。電車から下りて、茜色をした細長い雲が色づいた雑 「なんだか夜中などに目をさますと、空気が湿々してい て、心もちが悪くなります。」山の乾燥した空気に馴れ切木林の上に一面に拡がっている西空へしばらくうっとりと ったおようは、この滞京中、そんな愚痴を云っても分かつ目を上げていたが、彼は急にはげしく咳き込み出した。す て貰えるのは明にだけらしかった。おようは何処までも生ると。フラットフォームの端に向うむきに佇んで何か考え事 粋の山国の女だった。 O 村で見ると、こんな山の中には珍でもしていたような、背の低い、勤人らしい男がひどくび ようぼう らしい、容貌の整った、気性のきびしい女に見えるおようつくりしたように彼の方をふり向いた。明はそれに気がっ いたとき何処か見覚えのある人だと思った。が、彼は苦し も、こう云う東京では、病院から一歩も出ないでいてさ ひな いかにも鄙びた女い咳の発作を抑えるために、その人に見られるが儘になり え、何か周囲の事物としつくりしない、 ながら、背をこごめたきりでいた。漸くその発作がまる に見えた。 過去のおおい、その癖まだ娘のようなおもかげを何処かと、そのときはもうその人の事を忘れたように階段の方へ わずら に残しているおようと、長患いのために年頃になってもま歩いて行ったが、それへ足をかけようとした途端、不意と いまの人が菜穂子の夫のようだった事を思い出して、急い その一一人は だ子供から抜け切れない一人娘の初枝と、 じめじめ きっ たたず たいてい