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検索対象: 現代日本の文学 20 堀辰雄集
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1. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

り、沖の方で泳いでいた。 私はいそいで着物をぬぐ。そして海水着だけになって、 きれい 盲のように、その声のする方へ、飛び込もうと身構える。 沖の方で泳いでいると、水があんまり綺麗なので、私た その瞬間、私のすぐ足許からも、「ハロオ ! 私は振りむく。さっきの少女が、砂の中から半身を出しちの泳いでいる影が、魚のかげと一しょに、水底に映っ て、につこりと笑っているのが、今度は、私にもよく見えた。そのおかげで、空にそれとよく似た雲がうかんでいる 時は、それもまた、私たちの空にうつる影ではないかとさ る。 え思えてくる。 「なあんだ、君だったの ? 」 「おわかりになりませんでしたこと ? 」 海水着がどうも怪しい。私がそれ一枚きりになるや否私たちの田舎ずまいは、一銭銅貨の表と裏とのように、 いろんな家畜小屋と脊中合わせだった。ときどき家畜らが や、私は妖精の仲間入りをする。私は身軽になって、いま たちま 交尾をした。そのための悲鳴が私たちのところまで聞えて までちっとも見えなかったものが忽ち見え出す : きた。裏木戸を出ると、そこに小さな牧場があった。いっ 都会では難しいものに見える愛の方法も、至極簡単なもも牛の夫婦が草をたべていた。夕方になると、彼等は何処 のでいいことを会得させる田舎暮らしょー一人の少女のへともなく姿を消す。そのあとで、私たちはいつもキャッ 気に入るためには、かの女の家族の様式を呑み込んでしまチボォルをした。するとお前は、或る時はお前の姉と、或 うが好い。そしてそれは、お前の家族と一しょに暮らしてる時はお前の小さな弟と、其処まで遊びに出てきた。いっ いるおかげで、私には容易だった。お前の一番気に入ってだったかのように、遠くで花を摘んだり、お前の習ったば いる若者は、お前の兄たちであることを、私は簡単に会得かりの讃美歌を唱 0 たりしながら。ときどきお前がっかえ まだ八 する。彼等はスポオッが大好きだった。だから、私も出来ると、お前の姉が小声でそれを続けてやった。 つにしかならない、お前の小さな弟は、始終お前のそばに るだけ、スポオティヴになろうとした。それから彼等は、 お前に親密で、同時に意地悪だった。私も彼等に見習っ付きっきりだった。彼は私たちの仲間入りをするには、あ んまり小さ過ぎた。そんな小さな弟に毎日一ペんずつ接吻 て、お前をば、あらゆる遊戯から・ホイコットした。 お前がお前の小さな弟と、波打ちぎわで遊び戯れているをしてやるのが、お前の日課の一つだった。「今日はまだ 間、私はお前の気に入りたいために、お前の兄たちとばか一ペんもしてあげなかったのね : : : 」そう云って、お前は

2. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

もやむを得ずに芝の烏森に移って、小さな骨董屋をはじめ語家になってしまった。しかし、それらの人達はみんな早 た。が、それも年々思わしくなくなる一方で、もう米次郎世してしまって、いまは亡い ばんかい には挽回のほどこしようもなく、とうとう愛宕下の裏店に私はそういう母の一家の消長のなかに、江戸の古い町家 のあわれな末路の一つを見いだし、何か自分の生い立ちに 退いて、余生を侘びしく過ごす人になってしまった。 かげ ろうきょ 米次郎がその愛宕下の陋居で、脳卒中で亡くなったのも一抹の云いしれず暗い翳のかかっているのを感ずるが、 もしそういうも しかしそれはそれだけのことである、 は、明治二十八九年ごろだった。・ のが私の心をすこしでもましむるとすれば、それは私の そのとき私の母は二十四五になっていた。死んだ米次郎母をなっかしむ情の一つのあらわれに過ぎないであろう。 むすめ と玉との間には、長女である私の母をはじめ、四人の女と まだ小さな二人の弟たちがいた。 それから私の生れるまでの、十年ちかい年月を、私の母土手下で小さな煙草店をやっていた私の母が、その店を はそれらの若い妹や小さな弟をかかえて、気の弱い、内気廃めて、小梅の父のところに片づいたのは、私が四つか五 たす な人だったらしいおばあさんを扶けながら、どんなにけなつのときだったらしい。私ははじめのうちはその新しい父 げに働いたか、そしてどんなに人に知れぬような苦労をしのことを、「お父うちゃん」とお云いといくら云われても、 いつも「ベルのおじちゃん」と呼んでいた。そうして町な たか、いま私にはその想像すらも出来ない。私の母を知っ かにある仁丹の看板をみつけては一人でそれを指して「お ていた人達は、母のことを随分しつかりした人で、あんな に負けず嫌いで、勝気な人はなかったと一様に言う。なん父うちゃん」と言ってばかりいるので、母たちも随分手古 女でもおじいさんが死んでからまもなく、若い母は夜店など摺ったらしい。・ る 「ベル」というのは、その時分、尼寺のそばに住んでいた を出して何かをひさいだりしたこともあったという話を、 持まだ私の小さかったとき母自身の口から何かの折にきいたおじさんのところで飼っていた大きな洋大の名前で、私は その犬と大の仲好しだった。自分よりもずっと大きなその 花ことのあったのを、私はうっすらと覚えている。 母のいもうとの中には、茶屋奉公に出ていたものもい犬を、小さな私はいつも「お前、かわいいね : : : 」といっ る。芸者にな 0 て、きん朝さんという落語家に嫁いだものて撫でてやっていたそうである。そうしてその頃私は大さ もいる。それから一番末の弟はとうとう自分から好きで落え見れば、どんな大きな大でもこわがらずに近づいていっ いちまっ

3. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

空気銃を肩にしながら、掘割づたいに、小さなきたない農た。いつもは私の聞きづらがっている、それらの田舎言葉 家のならんでいる、でこ・ほこした村道を帰ってきた。そのさえ、何んだか遠い見知らない土地に来てそれを聞いてで 途中、私はそれらの家の一つの前を通り過ぎながら、ふも居るかのように、私にはなっかしく思われた。・ 父が帰って来ると、私はいつになく、元気よく父と一し と、それだけが他の家からその家を区別している緑色に・ヘ ょに台所へ行って、さも面白いことでもするように、茶碗 ンキを塗った窓から、十七八の、小さく髪を東ねたひとり の少女が、ぼんやりおもての方を見ているのを認めた。窓や皿を洗ったりした。 枠を丁度いい額縁にして、鼠がかった背景の奥からくつきその日から、私は空気銃を肩にしては、毎日のように近 りとその白い顔の浮び出ているのが非常に美しく見えたのくの林の中をぶらっき、日の暮れ方、その窓の前を少しお どおどしながら通った。それは村に一軒しかない医者の家 で、私はおもわず眼を伏せた。 だった。空気銃は、そんなものを子供らしく自分が肩にし 「この村にもこんな娘がいたのかなあ : : : 」 私はこの日頃、父との旅行の計画を立てながら、あんなているのをその娘に見られたくはないと思いながら、しか にも夢みていた、そしてそれは遠い見知らないところにのもそれはそんな私の散歩の唯一の口実にさえなっていた。 が、その後、私はその「窓の少女」をついぞ一ペんも みあると思っていた「人生」が、私からつい数歩向うの窓 に倚りかかっているのを、こんなに思いがけず発見して、見かけなかった。 私はなんだかどぎまぎしていた。そして私は、その娘のも そのうちに、夏休みのまま、地震のために延ばされてい の珍らしげな視線をいつまでも自分の背中に感じながら、 其処を通り過ぎていった。その日は、私は二三日前或る友た秋の学期がそろそろ始まりかけた。私は寄宿舎へ帰らな 人の送ってくれた、そのお古の、すこし小さくて私の体にければならなかった。で、私はこれがもうこの村の最後の 話 よく合わない、高等学校の制服をちょこんと着ていたし、散歩かと思って、いつものように窮屈な服をつけ、空気銃 のおまけに空気銃などを肩にしていたので、そんな私の後姿を肩にして、何処に行ってもコスモスの咲いているその村 をあちらこちらと歩き廻っていた。 三がいかにもその娘に滑稽に見えそうでならなかった。 そうしていると、秋ながら、汗の出てくるほどの好い天 自分の家へ帰って来てからも、私は何もしないで、窓の くたび すぐ向うの井戸端で、鶏が騒いだり、水を汲みに来ている気だった。 : : : すこし草臥れたので、私はとある小さな林 の中にはいって、一本の松の木の根に腰をかけながら、足 女たちが口々にしやべっているのを・ほんやりと聞いてい

4. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

のないような反抗の様子を示した。 あさんは私にすっかり手を焼いて、それ等の光景を上気し それからお午の時間にな 0 た。小さな生徒たちは教室にたような顔をして見ていた。私の隣席にいた、笹曜のあ はいるなり、先生のお許しも待たずに、きやっきやっと言ゑ痩せた少女が私に目くばせをして、そのちぢれ毛の少 いながら、お弁当をひろげ出した。その目の大きな、異人女に対する彼女の反感へ私を引き込もうとしていた。が、 さんのような少女は、私から少ししか離れない席について私がそれにも知らん顔をしていたので、彼女はしまいには いた。みんながその少女だけ特別扱いにするのを変だと思私にも顔をしかめて見せた。 っていたら、それはその幼稚園にゆく途中にある、或る大私はとうとう強情に自分の小さなお弁当箱をひらかずに きなお屋敷のお嬢さんだった。その少女のところへは、おしまった。 屋敷から大きな重箱が届いていた。そうして付添の小間使午後からは折り紙のお稽古があった。例の少女のところ いが二人がかりでその少女のお弁当の面倒を見ていた。私では、小間使いが一緒になって、大きな鶴をいく羽もいく はそういう様子をちらりと目にすると、それきりそっぽを羽も折っていた。私には折り紙なんぞはいくらやっても出 向いてしまった。 来そうもないので、おばあさんにみんな代りに折って貰い 「食べんの、厭 : : : 」私はおばあさんが私の傍で小さなアながら、私は何かをじっと怺えているような様子をして、 じやけんさえぎ ルミニウムのお弁当箱をあけようとするのを邪慳に遮つ自分の机の上ばかり見つめていた。 こ 0 その日行ったきりで、翌日から又私は、こんどはまるで 「食べないのかい 」おばあさんは又私がいつもの我儘お弁当の事からみたいに、幼稚園を休んでしまった。 をお言いだなとでも云うような、困った様子で、「 : : : ほ しかし、その一。へん見たっきりの、その異人のような、 ら、お前の好きな玉子焼だよ。 ・ : ね、一口でもお食べ目の大きい、ちぢれ毛の少女は、他の優しい少女たちとは まるで異った風に、いかにも高慢そうな様子をして、私が ・ : 」私は黙って首を振った。 いくら彼女に対して無関心を示しても、いつまでも私の記 他の生徒たちは私と同じような小さなアルミニウムのお憶の裡に残っていた。・ 弁当箱をひろげて、きやっきやっと言いながら食べ出して くち ひげ いた。例の少女のところでは、二人の小間使いが代る代る ロ髭 立ったり腰を下ろしたりして何かと面倒を見ていた。おば ひる うち こら

5. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ことごとく失った跡だった。そんな葉ばかりになってしま 私はなんだか急に考えごとでもし出したかのように黙り とち っている野薔薇の茂みは、それらが花を一ばいつけていた 込んだ。私たちはその橡の林を通り抜けて、いっか小さな 美しい流れに沿い出していた。しかし私はいま自分の感じ頃のことを、殆んど強制的に私に思い出させはしたけれ ていることが何処まで真実であるのか、そんなこはみんど、私はそれがどんなになって居ようとも、もうそれには な根も葉もないことなんじゃないかと疑ったりしながら、少しも感動できなくなっていた。それほどあの頃からすべ 気むずかしそうに沈黙したまま、自分の足許ばかり見て歩てが変っていた。そしてそれが何もかも自分の責任のよう が、それらの いていた。そうして私は、そんな自分の疑いに対するはつな気がされて、私はふっと気が鬱いだ。 、つまでも彼女の方を生墻の間からサナトリウムの赤い建物が見えだすと、私は きりした答えを恐れるかのように、し 力とうとう私は我慢し切れな気を取り直して、黄いろいフランス菊がいまを盛りに咲き 見ようとはしないでいた。・、、 サン・ルウム くなってそんな沈黙の中からそっと彼女の横顔を見上げみだれている中庭のずっと向うにある、その日光室を彼女 かいゆき た。そして私は思ったよりももっと彼女がその沈黙に苦しに指して見せた。丁度、その日光室の中には快癒期の患者 しお とういすもた んでいるらしいのを見抜いた。そういう彼女の打ち萎れたらしい外国人が一人、籐椅子に靠れていたが、それがひょ ような様子は私には溜まらないほどいじらしく見えた。突いと上半身を起して、私たちの方をもの憂げな眼ざしで眺 それから私たちは、なおもその流れに沿っ 然、後悔のようなもので私の胸は一ばいになった。・ : ・ : 私め出した。 がほとんど夢中で彼女の腕をつかまえたのは、そんなこんて、そこいらへんから次第にアカシアの木立に縁どられだ がらがった気持の中でだった。彼女はちょっと私に抵抗しす川沿いの道を、何処までも真直に進んで行った。それら かけたが、とうとうその腕を私の腕のなかに切なそうに任のアカシアの花ざかりだった頃は、その道はあんなにも足 やわら せた。・ ・ : それから数分経ってから初めて、私はやっと自触りが軟かで、新鮮な感じがしていたのに、今はもう、あ 分の腕の中に彼女がいることに気がついたように、何んとちこちに凸凹ができ、汚らしくなり、何んだかいやな臭い さえしていた。その上、それらのアカシアの木立は、まだ もかんとも言えない歓ばしさを感じ出した。 私たちは、少しぎごちなさそうに腕を組んだまま、例のみんな小さいので、はげしい日光から私たちを充分に庇う 小さな木橋を渡った。それからその流れの反対の側に沿っ ことが出来ないので、その川沿いの道はそれまでの道より て、サナトリウムへの道に這入って行った。その途中にずも一層暑いように思えた。私たちは途中からそれらのアカ いけがき っと続いている野薔薇の生墻は、既にその白い小さな花をシアの間をくぐり抜けて、丁度サナトリウムの裏手にあた よろこ ふさ

6. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ちからもら 等は峠でカ餅などを売っている家の子供たちであった。大もあった。かと思うと急に私たちの目の前が展けて、ちょ きい方の子は十一二で、小さい方の子は七つぐらいだっ っとの間何も見えなくなるくらい明るい林のなかの空地が たど た。三人兄弟なのだが、その真ん中の子が村の小学校からあったりした。私たちがそういう林の中の空地の一つへ辿 まだ帰らぬので峠の下まで迎えに行くのだと言っていた。 り着いた時、突然、一つの小石が何処からともなく飛んで 子供たちは何を見つけたのか急に私を離れて、林のなか来て私たちの足許に落ちた。その飛んで来たらしい方を私 したば へ、下生えを掻き分けながら駈け込んでいった。そうしてたちがまぶしそうに振り向いた途端、数本の山毛欅を脊に こう : いわらやね 一本のやや大きな灌木の下に立ち止まると、手を伸ばしてしながら、ほとんど垂直なほど急な勾配の藁屋根をもった、 その枝から赤い実を揉ぎとっては頬張っていた。それは何窓もなんにもないような異様な小屋の蔭へ、小さな黒い人 ぐみ の実だと訊いたら、「茱萸だ」と彼等は返事をした。そう影が隠れるのを私たちは認めた。それを知っても、しか かえ して彼等はときどき私の方をふり向いて手招きをしたが、 し、私の小さな同伴者たちは何も罵ろうとせず、却って私 私が下生えに邪魔をされてなかなか其処まで行くことが出に向って何かその訣でもしたいような、そしてそれを私 来ずにいると、大きい方の子がその実を少しばかり私のたに言い出したものかどうかと躊躇っているような、複雑な ふしん めに持って来て呉れた。私は子供たちの真似をしてそれを表情をして私の方を見上げているので、私は不審そうに、 一つ宛こわごわ口に入れてみた。なんだか酸つばかった。 「あの子は白痴なのかい ? 」と訊いた。 私はしかしそれをみんな我慢をして嚥み込んだ。そうして子供たちは顔を見合わせていた。それから大きい方の子 こごえ 子供たちが低い枝にあった実をすっかり食・ヘつくしてしまが低声で私に答えた。 うと、今度は高くて容易に手の届きそうもない枝をしきり「そうじゃないよ。 あれあ気ちがいの娘だ」 に手ぐろうとしては失敗しているのを、私は根気よく、む「ふん、それであんな変な家にいるんだね ? 」 しろ面白いものでも見ているように見入っていた。 「あれあ氷倉だ。 あの向うの家だ」 かっこう さえ 子供たちはまた林の中のいろいろな抜け道を私に教えて しかしその氷倉だという異様な恰好をした藁小屋に遮ぎ 呉れようとした。そうして急な草深い斜面をずんずん駈けられて、その家らしいものの一部分すら見えないところを 下りて行った。私はそのあとから危かしそうな足つきでつ見ると、恐らく小さな掘立小屋かなんかに違いなかった。 いて行った。ほとんど何処からも日の射し込んで来ないく「気ちがいっておとつつあんがかい ? 」 らい、木立が密生して枝と枝との入りまじっているところ「 : : : 」兄も弟も同時に頭を振った。 槿おば ひむろ いわけ ほったて ためら ののし

7. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

めいそうおづえ のでもあったのであろう。ともかくも、その笹むらのなか 一つの思惟像として、瞑想の頬杖をしている手つきが、 ぷざま いかにも無様なので、村人たちには怪しい迷信をさえ生じ の小さな思惟像は、何かにつけて、旅びとの私にはおもい させていたが、 そのうえ、鼻は欠け落ち、それに胸の 出されがちだった。 あたりまで一めんに苔が生えていて、 : : : そういえば、そん ちゅうぐうじ 或る秋の日にひとりで心ゆくまで拝してきた中宮寺の観なにそれが苔づくほど、その石仏のあるあたりは、どんな やさ 音像。ーーその観音像の優しくカづよい美しさについて夏の日ざかりにもいつも何かひえびえとしていて、そこい は、いまさら私なんその何もいうことはない。ただ、このらまで来ると、ふいと好い気もちになってひとりでに足も 観音像がわれわれをかくも惹きつけ、かくも感嘆せしめず止まり、つそのままそこの笹むらのなかの石仏の上へし はだ * はんかしゆい にはおかない所以の一つは、その半跏思惟の形相そのものばらく目を憩わせる。と、苔の肌はしっとりとしている。 かったっ そ であろうと説かれた浜田博士の濶達な一文は私の心をいまちょっとそれを撫でてみたくなるような見事さで。 だにたしている。その後も、二三の学者のこの像の半跏う、いまのいままでそれに気がっかなか 0 たのは、いや、 すいぶんう 思惟の形の発生を考察した論文などを読んだりして、それ気がついていてもそれを何んとも思わずにいたのは随分迂 じゅかしゆい がはるかにガンダラの樹下思惟像あたりから発生して来て濶だが、あそこは何かの大きな樹の下だったにちがいな すこし離れてみなければ、それが何んの樹だかも いるという説などもあることを知り、私はいよいよ心に充 ちるものを感じた。 分からないほどの大きな樹だったのだ。あの頬杖をしてい アルカイック あのいかにも古拙なガンダラの樹下思惟像ーーー仏伝のる小さな石仏のうえにちらちらしていた木洩れ日も、よほ しゆいざんまい * たいし なかの、太子が樹下で思惟三昧の境にはいられると、そのど高いところから好いエ合に落ちてきていたので、あんな に私を夢み心地にさせたのだったろう。 濃樹がおのずから枝を曲げて、その太子のうえに蔭をつくっ 信 そんなこ たという奇蹟を示す像ーーそういう異様に葉の大きな一本あれは一体、何んの樹だったのだろうか ? : : : 路の樹を装飾的にあしらった、浅浮彫りの、数箇の太子思惟とをおもいながら、私はふと樹下思惟という言葉を、その 大像の写真などをこの頃手にとって眺めたりしているときな言葉のもっ云いしれずなっかしい心像を、身にひしひしと ど、私はまた心の一隅であの信濃の山ちかい村の寺の小さ感じた。あれは一体、何んの樹 ? : : : だが、あの大きな樹 の下で、ひとり静かに思惟にふけっていたものーーーそれは な石仏をおもい浮かべがちだった。 あの笹むらのなかに小さな頭を傾げていた石仏だったろう ゆえん

8. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

言い出した。全部でなくてもいい、二つか三つでいい、と私かった。唯、その板塀の上から、すっかり葉の落ちつくし た、ごっごっした枝先をのそかせているのは、恐らくあの は返事をした。そんな分の悪い交換に私が同意したのは、 腕力の強い緒方を怖れたばかりではなかった。私の裡には私の大好きだった無花果の木かも知れなかった。いまの私 何かそういう彼をひそかに憐憫するような気もちもいくら達の家に引越すとき、他の小さな植木類は大抵移し植えた かはあったのだ。 が、その無花果の木だけはそのままに残してきた筈だっ それは冬の日だった。その日にとうとう約束を果たすこた。 とにし、私は自分で好きな・ヘイを選ぶことになって、はじ私はその老人が何も言わずに気むずかしげに仕事をしつ めて緒方の家に連れて行かれた。私はなんの期待もなしづけているのに気がねしながら、縁側に倚りかかって、緒 みぞ に、黙って彼についていった。しかし、彼が或る大きな溝を方の出してきた袋の中から自分のもらうべイを選んでいる 越えて、私を連れ込んだ横丁は、ことによるとその奥で私間も、絶えず隣りの家に気をとられていた。そのときの私 のおずおずした目にも、それはまあ何んとうす汚れて、み が最初の幼時を過ごした家のある横丁かも知れないと思い 出した。私は急に胸をしめつけられるような気もちになつじめに見えたことか。それは私が緒方にさえもその家が昔 て、しかしなんにも言わずに彼についていった。二三度狭の自分の家だったことを口に出せずにいた位だった。 苦しい路次を曲った。と、急に一つの荒れ果てた空地を背「お隣りは何んだい ? 」私は漸っとためらいがちに訊いて 後にした物置小屋に近い小さな家の前に連れ出された。私みた。 はその殆ど昔のままの荒れ果てた空地を見ると、突然何も「ふふ : : : 」緒方はいかにも早熟たような薄笑いをした。 かもを思い出した。ーー・彼が自分の家だとい 0 て私に、示しそれから彼はちらりと自分の老父の方をみ見ながら、 たのは、それは昔私の家の離れになっていた、小さな細工場私にそっと耳打ちをした。 めかけ をそれだけ別に独立させたものにちがいなかった。その一 「お妾さんの家だ。」 間きりらしい家の中では、老父が一人きり、私達を見ても私はその思いがけない言葉をきくと、不意と、何か悲し 無言のまま、せっせと自分の仕事に向っていた。それは履い目つきをした若い女の人の姿を浮べた。それは私の方で 物に畳表を一枚一枚つける仕事だった。 その家というも大へん好きになれそうだし、向うでも私のことを蔭では のもほんの名ばかりのような小屋から、もと私達の住んでかわいがってくれているのに、その境遇のために何とはな おもや いた母屋とその庭は、高い板塀に遮られて殆ど何も見えなしに私に近づけないでいる、あのおよんちゃんという小さ れんびん さえぎ

9. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

どこ かしていたが、夕方、漸っとその長い雨を何処かへ吹き払のを作っていた。それはもう半ば出来かかっていた。母は ってしまってくれた。そうしてからもまだ風だけは、その縁側に出ている私を見ると、着物を手ばやく着換えさせ、 まま闇の中にしばらく残っていた。 「あぶないから、あんまり水のそばに行くんじゃないよ」 そんな夜ふけに、私はふと目を覚まして、自分の傍に父と言ったきりで、すぐ又向うへ行って、忙しそうに皆を指 も母もいないことに気がつくと、寝間着のまま、みんなの図していた。 話し声のしている縁側まで出ていった。そうして私はみん私はそこに一人ぼっちにされていた。そのあいだ、小さ まなこ なの背後から、寝ぼけ眼をこすりながら、その縁側の下まな私は、自分の前に起っている自然の異常な現象をまだよ で一ばいに押し寄せてきている濁った水が、父の手にした く判断する力もないのに、それに対してただ一人ぎりで立 ろうそく 燭の光で照らされながら揺らめいているのを、びつくりち向わせられていたのだった。そのとき、その縁先きまで のぞ くろ して覗いていた。その蝋燭の光の届かない、家のすぐ裏手押しよせてきている黝い水や、その上に漂っているさまざ あくた を、誰だかじゃぶじゃぶ音をさせて水の中を歩いていた。 まな芥の間をすいすいと水を切りながら泳いでいる小さな ときどき、暗やみの中で、何やら叫んでいる者がいた。魚や昆虫を一人で見ているうちに、ふと私の思いついたも のは、こないだ買って貰ったばかりの新しい玉網だった。 そうやって皆と一しょになって、何が何だか分からずそんな小さな魚や昆虫がそういう得体の知れないような黝 いかに、も に、ろ面白そうにしている私に気がつくと、母は私を寝い水の上をも、まるで水溜りかなんそのように、 間に連れていって、「心配しないでおいで。この位の洪水何気なさそうに泳いでいるのを見ているうちに、それら小 はいつもの事なんだからね」そう繰り返し繰り返し云ってさな魚や昆虫のもっている周囲への無関心さとほとんど同 なだ 私を宥めながら、無理やりに私を寝かしつけた。・ : が、様のものが私のうちにも自然と生じてきたのかも知れな ただ : 私はふとそれを思いつくと、どこからか自分でそ 明け方になって再び私が目をさましたときは、家の中は只 ならず騒々しくなっていた。私はゆうべ夢の中でのようにの玉網を捜し出してきて、縁先きにしやがんで、いかにも 見たかすかずの事を思い出し、縁側に飛んでいって見た。無心に、それでもって小さな魚を追いまわしていた。 ゅう・ヘまざまざと見た濁った水は、いまその縁と殆どすれ何処かで半鐘が、間を隔いては、鳴っていた。 たんす すれ位のところにまで押しよせて来ていた。 細工場の方の棚は漸っと出来上ったらしかった。簟笥や 父は弟子たちに手伝わせて、細工場の方に棚のようなも何かが次ぎ次ぎにその上に移されていった。その次ぎはも

10. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

とを言っているのを、聞くともなく聞いていた 0 ることを思いついた。私は地震のとき、跣足になって逃げ て行った道筋のとおりに、うすぎたない場末の町のなかを 「ずいぶん捜していたんだよ。」 「そう : : : 」娘の返事はいかにも気がなさそうに見えた。抜けて行った。多くの工場が、入れかわり立ちかわり、同 それつきり彼等は無言で、草をごそごそ踏み分ける音だじようなモオタアの音をさせながら遠くまで私について来 た。とうとう私は川に架っている一つの長い木の橋の上へ けを立てながら、私からだんだん遠ざかって行った。 出た。 >A 村がやっとその川向うに見え出した。 夕方、家へ帰ってくると、私は窓をすっかり開けて、そ私はその橋に差しかかりながら、その橋の真ん中近くに の窓の近くに負傷をした小さな獣のように転がっていた。人立ちのしているのを認めた。橋の欄干がそこだけ折れて そうしてその窓のそとからはいってくる、井戸端の女等の いて、その代りに一本の縄が張られていた。私も自転車か 話し声や、子供の叫びや、土の匂いや、それからそれに混ら降りて、人々の見下ろしている川の中を覗いて見た。数 っている、コスモスのらしい匂いだのが、痛いほど私の傷日前、そこから一台の貨物自動車が墜落したものらしかっ に沁みて来るのを私はそのままにさせて置いた。 た。しかし、その橋の下には一面に葦が茂り、それが一部 父の帰りが私をそんな麻痺したような状態から蘇らせ分折られているだけで、その他にはもう其処には何も見え こ 0 なかった。それだのに、人々は何かが其処にまだ見えでも 「おい、そんなことをしていると風邪をひくぞ。」 するかのように、その惨事の痕をじっと見入っていた。 父はいつもの、その優しい感情を強いて私に見せまいと私は再びペダルを踏みながら、やっとその長い橋を渡り するような、乾いた声で私を叱った。しかし私は前よりも切り、そしてそのまま >-* 村にはいって行った。遠くからそ っと小さくなって転がっていた。私の父は私がまた母のこの全体を見渡したときは、なんだか此処もこの数年間にす 話とを思い出してそんな風に悲しそうにしているのだと信じっかり変ってしまっているように思えた。それほど見知ら のているらしかった。それが私には羞かしかった。・ ない大きな工場が、沢山出来てしまっているのだ。が、その 村を二等分している真っ黒な掘割に沿うてすこし行き出す 私はこういう >A 村に於ける私の悲歌をいっか一ペん書いや否や、ことにその上に架っている多くの小さな木の橋と て置きたいと思っていた。それから数年後の、或る秋晴れ橋との間に、いまを盛りにコスモスが咲きみだれ、そして の日だった。私は自転車に乗って、その村を一周りして来その側に誰もいないのに四つ手網だけがかかっているのを 悪レジイ よみがえ