ないように、そう言う追憶に自分を任せ切っていた。・ 翌年の夏もまた、隣村のホテルに県養に来ていたこの孤 独な作家は不意に 0 村へも訪ねて来たりした。その頃か その赫かしい少年の日々は、七つのとき両親を失くしたら、三村夫人が彼女のまわりに拡げ出していた一種の悲劇 明を引きとって育てて呉れた独身者の叔母の小さな別荘の的な雰囲気は、何か理由がわからないなりにも明の好奇心 あった信州の O 村と、其処で過した数回の夏休みと、そのを惹いて、それを夫人の方へばかり向けさせていた間、彼 村の隣人であった三村家の人々、 殊に彼と同じ年の菜はそれと同じ影響が菜穂子から今までの快活な少女を急に 穂子とがその中心になっていた。明と菜穂子とはよくテニ抜け出させてしまった事には少しも気がっかなかった。そ スをしに行ったり、自転車に乗って遠乗りをして来たりしして明が漸っとそう言う菜穂子の変化に気づいたときは、 すで はとん た。が、その頃から既に、本能的に夢を見ようとする少年彼女は既に彼からは殆ど手の届かないようなところに行っ と、反対にそれから目醒めようとする少女とが、その村をてしま 0 ていた。この勝気な少女は、その間じゅう、一 , 人 舞台にして、互に見えっ隠れっしながら真剣に鬼ごっこをで誰にも打ち明けられぬ苦しみを苦しみ抜いて、その挙句 していたのだった。そしていつもその鬼ごっこから置きざもう元通りの少女ではなくなっていたのだった。 りにされるのは少年の方であった。 その前後からして、彼の赫かしかった少年の日々は急に 或夏の日の事、有名な作家の森於兎彦が突然彼等の前に陰り出していた。 姿を現わした。高原の避暑地として知られた隣村のホテ ルに暫く保養に来ていたのだった。三村夫人は偶然そのホ或日、所長が事務所の戸を開けて入って来た。 テルで、旧知の彼に出会って、つい長い間よもやまの話を「都築君。」 ちんうつ し合った。それから二三日してから、 0 村へのおりからの と所長は明の傍にも近づいて来た。明の沈鬱な顔つきが 子タ立を冒しての彼の訪れ、養蚕をしている村への菜穂子やその人を驚かせたらしかった。 たの 穂明を交じえての雨後の散歩、村はずれでの愉しいほど期待「君は青い顔をしている。何処か悪いんじゃないか ? 」 菜に充ちた分かれ、ーーーそれだけの出会が、既に人生に疲弊「 いいえ別に」と明は何だか気まりの悪そうな様子で答え したようなこの孤独な作家を急に若返らせでもさせたよう た。前にはもっと入念に為事をしていたではないか、どう こうふん してこう熱意が無くなったのだ、と所長の眼が尋ねている な、異様な亢奮を与えずにはおかなかったように見えた。 ように彼には見えた。 かがや ひへい かげ どこ
のないような反抗の様子を示した。 あさんは私にすっかり手を焼いて、それ等の光景を上気し それからお午の時間にな 0 た。小さな生徒たちは教室にたような顔をして見ていた。私の隣席にいた、笹曜のあ はいるなり、先生のお許しも待たずに、きやっきやっと言ゑ痩せた少女が私に目くばせをして、そのちぢれ毛の少 いながら、お弁当をひろげ出した。その目の大きな、異人女に対する彼女の反感へ私を引き込もうとしていた。が、 さんのような少女は、私から少ししか離れない席について私がそれにも知らん顔をしていたので、彼女はしまいには いた。みんながその少女だけ特別扱いにするのを変だと思私にも顔をしかめて見せた。 っていたら、それはその幼稚園にゆく途中にある、或る大私はとうとう強情に自分の小さなお弁当箱をひらかずに きなお屋敷のお嬢さんだった。その少女のところへは、おしまった。 屋敷から大きな重箱が届いていた。そうして付添の小間使午後からは折り紙のお稽古があった。例の少女のところ いが二人がかりでその少女のお弁当の面倒を見ていた。私では、小間使いが一緒になって、大きな鶴をいく羽もいく はそういう様子をちらりと目にすると、それきりそっぽを羽も折っていた。私には折り紙なんぞはいくらやっても出 向いてしまった。 来そうもないので、おばあさんにみんな代りに折って貰い 「食べんの、厭 : : : 」私はおばあさんが私の傍で小さなアながら、私は何かをじっと怺えているような様子をして、 じやけんさえぎ ルミニウムのお弁当箱をあけようとするのを邪慳に遮つ自分の机の上ばかり見つめていた。 こ 0 その日行ったきりで、翌日から又私は、こんどはまるで 「食べないのかい 」おばあさんは又私がいつもの我儘お弁当の事からみたいに、幼稚園を休んでしまった。 をお言いだなとでも云うような、困った様子で、「 : : : ほ しかし、その一。へん見たっきりの、その異人のような、 ら、お前の好きな玉子焼だよ。 ・ : ね、一口でもお食べ目の大きい、ちぢれ毛の少女は、他の優しい少女たちとは まるで異った風に、いかにも高慢そうな様子をして、私が ・ : 」私は黙って首を振った。 いくら彼女に対して無関心を示しても、いつまでも私の記 他の生徒たちは私と同じような小さなアルミニウムのお憶の裡に残っていた。・ 弁当箱をひろげて、きやっきやっと言いながら食べ出して くち ひげ いた。例の少女のところでは、二人の小間使いが代る代る ロ髭 立ったり腰を下ろしたりして何かと面倒を見ていた。おば ひる うち こら
こ 0 昇り降りしているあの跛 0 花売りのことをひょっくり思い 「まあ、こんな道あるの、私、ちっとも知らなかったわ」浮べ、あいつはまた何だってこんなあぶなっかしい坂道を 坂の中途で、友人の若い妻君がそんなことを誰にともなわざわざ選んで通るのだろうかしらと、全然いまの場合と く言ったらしいのが、もうその時はその小さな坂を降り切は何んの関係もないようなことを考え出していた。・ ってしまっていた私のところまで、手にとるように聞えて 来た。私は丁度、その友人の妻君も確か数年前にその坂道 で私の出会った少女たちの中に雑っていたことを思い出す ともなく思い出していたところだった。 その出会いは 私にはあんなにも印象深いのに、嘗ってその少女たちの一 人であった彼女の方では、 ( 恐らく他の少女たちも同様に ) そんな私との出会いのことなどは少しも気に留めていない で、すっかり忘れてしまっているのかなあと髞った。が、 一方ではまた何んだか、そんなことを言って彼女が私をか らかっているのじゃないかしら、とそんな気もされた。ひ いと彼女のロを衝いて出たらしいそんな言葉を私はひと りで気にしながら、いつまでもそっぽを向いて皆の降りて くるのを待っていると、突然、そのうちの誰かが足を滑ら して、「あっー」と小さく叫んで、坂の中途にどさりと倒 村れたらしい気配がした。見上げると、その坂の中途にまだ 転がっているらしいものがまるで花ざかりの灌木のように し 見えた。そして他のものがみんな立ち止まって、その一番 美 最後に降りてきた少女の方をふり返っているのを、私はた 9 だぽかんとして眺めながら、その場を一歩も動こうとしな いで突っ立っていた。そうして私は毎朝のようにこの坂を
112 いるかのように、見較・ヘていた。そしてそんな会話の間に ようか ? それにこういう山の療養所なんぞは冬がいいの よくよう 父に示す彼女の表情や抑揚のうちに、何か非常に少女らし だと云いますが : : : 」 しんぼう い輝きが蘇るのを私は認めた。そしてそんな彼女の子供「それは冬まで辛抱して居られればいいのかも知れんが : ・ がまん らしい幸福の様子が、私に、私の知らない彼女の少女時代 : ・しかしあれには冬まで我慢できまいし : : : 」 のことを夢みさせていた。・ 「しかし自分では冬も居る気でいるようですよ。」私はこ ちょっとの間、私達が二人きりになった時、私は彼女にういう山の孤独がどんなに私達の幸福を育んでいて呉れる からか 近づいて、揶揄うように耳打ちした。 かと云うことを、どうしたら父に理解させられるだろうか 「お前は今日はなんだか見知らない薔薇色の少女みたいだともどかしがりながら、しかしそういう私達のために父の 払っている犠牲のことを思えば何んともそれを言い出しか せつかく 「知らないわ。」彼女はまるで小娘のように顔を両手で隠ねて、私達のちぐはぐな対話を続けていた。「まあ、折角 山へ来たのですから、居られるだけ居て見るようになさい ませんか ? 」 : だが、あなたも冬迄一緒に居て下されるのか ? 」 もちろん 父は二日滞在して行った。 「ええ、勿論居ますとも。」 : だが、あなた 出発する前、父は私を案内役にして、サナトリウムのま「それはあなたには本当にすまんな。 わりを歩いた。・ : カそれは私と一一人きりで話すのが目的だは、いま仕事はして居られるのか ? 」 った。空には雲ひとつない位に晴れ切った日だった。いっ 「しいえ : : : 」 あか になくくつきりと赭ちやけた山肌を見せている八ヶ岳など「しかし、あなたも病人にばかり構って居らずに、仕事も を私が指して示しても、父はそれにはちょっと目を上げる少しはなさらなければいけないね。」 くち」も きりで、熱心に話をつづけていた。 「ええ、これから少し : ・・ : 」と私はロ籠るように言った。 からだ 「ここはどうもあれの身体には向かないのではないだろう 「そうだ、おれは長いことおれの仕事を打棄ら か ? もう半年以上にもなるのだから、もうすこし良くな かしていたなあ。なんとかして今のうちに仕事もし出さな って居そうなものだが : : ・こ けりゃあいけない。」・ : ・ : そんなことまで考え出しながら、 どこ 「さあ、今年の夏は何処も気候が悪かったのではないでし何かしら私は気持が一ばいになって来た。それから私達は よみがえ いっしょ
んな突起を、でもいじるように、何度も撫でて見た。 くすぐ 彼は目をつぶりながら、なんだか擽ったそうにしていた。 夏休みになった。 翌日もまたどんよりと曇っていた。それでも私たちは出 私は三枝と一週間ばかりの予定で、或る半島へ旅行しょ発した。そして再び海岸に沿うた小石の多い道を歩き出し うとしていた。 た。いくつか小さな村を通り過ぎた。だが、正午頃、それ 或るどんよりと曇った午前、私たちはまるで両親をだまらの村の一つに近づこうとした時分になると、今にも雨が いたずら して悪戯かなんかしようとしている子供らのように、いく降って来そうな暗い空合になった。それに私たちはもう歩 ぶん陰気になりながら、出発した。 きっかれ、互にすこし不機嫌になっていた。私たちはその 私たちはその半島の或る駅で下り、そこから一里ばかり村へ入ったら、いっ頃乗合馬車がその村を通るかを、尋ね のこぎり て見ようと思っていた。 海岸に沿うた道を歩いた後、鋸のような形をした山にい だかれた、或る小さな漁村に到着した。宿屋はもの悲しか その村へ入ろうとするところに、一つの小さな板橋がか った。暗くなると、何処からともなく海草の香りがしてきかっていた。そしてその板橋の上には、五六人の村の娘た しようひ た。少婢がランプをもって入ってきた。私はそのうす暗いちが、めいめいに魚籠をさげながら、立ったままで、何か ランプの光りで、寝床へ入ろうとしてシャツをぬいでい しゃ・ヘっていた。私たちが近づくのを見ると、彼女たちは る、三枝の裸かになった脊中に、一ところだけ脊骨が妙なしゃ・ヘるのを止めた。そして私たちの方を珍らしそうに見 具合に突起しているのを見つけた。私は何だかそれがいじつめていた。私はそれらの少女たちの中から、一人の眼っ って見たくなった。そして私はそこのところへ指をつけなきの美しい少女を選び出すと、その少女ばかりじっと見つ がら、 めた。彼女は少女たちの中では一番年上らしかった。そし 「これは何だい ? 」と訊いて見た。 て彼女は私がいくら無作法に見つめても、平気で私に見ら 「それかい : : こ彼は少し顔をらめながら云 0 た。「それるがままになっていた。そんな場合にあらゆる若者がす せきつい あと れは脊椎カリエスの痕なんだ」 るであろうように、私は短い時間のうちに出来るだけ自分 「ちょっといじらせない ? 」 を強くその少女に印象させようとして、さまざまな動作を そう云って、私は彼を裸かにさせたまま、その脊骨のヘ工夫した。そして私は彼女と一ことでもいいから何か言葉 は、それについてはロをつぐんでいた。
翌日も雨が降っていた。それは昨日より一そう霧に似て旅行した。そして私はその後、三枝には会わなかった。彼 しましば いやおう いた。それが私たちに旅行を中止することを否応なく決心は、その湖畔に滞在中の私に、まるでラヴ・レタアのよ うな手紙をよこした。しかし私はだんだんそれに返事を出 させた。 雨の中をさわがしい響をたてて走ってゆく乗合馬車の中さなくなった。すでに少女らの異様な声が私の愛を変えて いた。私は彼の最近の手紙によって彼が病気になったこと で、それから私たちの乗り込んだ三等客車の混雑のなか で、私たちは出来るだけ相手を苦しめまいと努力し合ってを知った。脊椎カリエスが再発したらしかった。が、それ いた。それはもはや愛の休止符だ。そして私は何故かしらにも私は遂に手紙を出さずにしまった。 三枝にはもうこれつきり会えぬように感じていた。彼は何秋の新学期になった。湖畔から帰ってくると、私は再び 度も私の手を握った。私は私の手を彼の自由にさせてい寄宿舎に移った。しかし其処ではすべてが変っていた。三 た。しかし私の耳は、ときどき、何処からともなく、ちぎ枝はどこかの海岸へ転地していた。魚住はもはや私を空気 れちぎれになって飛んでくる、例の少女の異様な声ばかりを見るようにしか見なかった。・ : ・ : 冬になった。或る薄氷 聴いていた。 りの張っている朝、私は校内の掲示板に三枝の死が報じら 別れの時はもっとも悲しかった。私は、自分の家へ帰るれてあるのを見出した。私はそれを未知の人でもあるかの にはその方が便利な郊外電車に乗り換えるために、或る途ように、ぼんやりと見つめていた。 中の駅で汽車から下りた。私は混雑したプラットフォムの 上を歩き出しながら、何度も振りかえって汽車の中にいる 彼の方を見た。彼は雨でぐっしより濡れた硝子窓に顔をくそれから数年が過ぎた。 つつけて、私の方をよく見ようとしながら、かえって自分その数年の間に私はときどきその寄宿舎のことを思い出 の呼吸でその硝子を白く曇らせ、そしてますます私の方をした。そして私は其処に、私の少年時の美しい皮膚を、丁 かんぼく 見えなくさせていた。 度灌木の枝にひっかかっている蛇の透明な皮のように、惜 しげもなく脱いできたような気がしてならなかった。 そしてその数年の間に、私はまあ何んと多くの異様な声を が、それらの少女らは一 した少女らに出会ったことかー 八月になると、私は私の父と一しょに信州の或る湖畔へ人として私を苦しめないものはなく、それに私は彼女らの
を交わしたいと思いながら、しかしそれも出来ずに、彼女 のそばを離れようとしていた。そのとき突然、三枝が歩み私たちは黙りあって、その村はずれにあるという乗合馬 を弛めた。そして彼はその少女の方へずかずかと近づいて車の発着所へ向った。そこへ着いてからも馬車はなかなか 行った。私も思わず立ち止りながら、彼が私に先廻りして来なかった。そのうちに雨が降ってきた。 その少女に馬車のことを尋ねようとしているらしいのを認空いていた馬車の中でも、私たちは殆んど無言だった。 めた。 そして互に相手を不機嫌にさせ合っていた。夕方、やっと 私はそういう彼の機敏な行為によってその少女の心に彼霧のような雨の中を、宿屋のあるという或る海岸町に着い の方が私よりも一そう強く印象されはすまいかと気づかっ た。そこの宿屋も前日のうす汚い宿屋に似ていた。同じよ た。そこで私もまた、その少女に近づいて行ぎながら、彼うな海草のかすかな香り、同じようなランプの仄あかり よみがえ が質問している間、彼女の魚籠の中をのそいていた。 が、僅かに私たちの中に前夜の私たちを蘇らせた。私た 少女はすこしもかまずに彼に答えていた。彼女の声ちは漸く打解けだした。私たちは私たちの不機嫌を、旅先 しやが は、彼女の美しい眼つきを裏切るような、妙に咳枯れた声きで悪天候ばかりを気にしているせいにしようとした。そ だった。が、その声がわりのしているらしい少女の声は、 してしまいに私は、明日汽車の出る町まで馬車で一直線に かえって私をふしぎに魅惑した。 行って、ひと先ず東京に帰ろうではないかと云い出した。 今度は私が質問する番だった。私はさっきからのそぎ込彼も仕方なさそうにそれに同意した。 んでいた魚籠を指さしながら、おずおずと、その小さな魚その夜は疲れていたので、私たちはすぐに寝入った。 は何という魚かと尋ねた。 ・ : 明け方近く、私はふと目をさました。三枝は私の方に 脊なかを向けて眠っていた。私は寝巻の上からその脊骨の 少女はさも可笑しくって溜らないように笑った。それに 小さな突起を確めると、昨夜のようにそれをそっと撫でて る ゆっれて、他の少女たちもどっと笑った。よほど私の問い方見た。私はそんなことをしながら、ふときのう橋の上で見 燃が可笑しかったものと見える。私は思わず顔を赧らめた。 かけた、魚籠をさげた少女の美しい眼つきを思い浮べた。 そのとき私は、三枝の顔にも、ちらりと意地悪そうな微笑その異様な声はまだ私の耳についていた。三枝がかすかに 歯ぎしりをした。私はそれを聞きながら、またうとうとと の浮んだのを認めた。 私は突然、彼に一種の敵意のようなものを感じ出した。眠り出した トす
この頃、細木夫人はすっかり若さを失っていた。そ 人は始終自分の貧乏なことを気にしていたようだけれど ・ ( そんな考えがさっと少女の頬を赤らめた ) : : : それして彼女には、自分の娘が何んだか自分から遠くに離れて で、あの人は私のお母さんに誘惑者のように思われたくなしまったように思われてならないのだった。彼女はときど き自分の娘を、まるで見知らない少女のようにさえ思うこ かったのかも知れない。あの人が私のお母さんを怖れてい たことはそれは本当だわ。こんな風にあの人を遠ざからせとがあった。そして今も、そうだった : てしまったのはお母さんだって悪いんだ。私のせいばかり絹子は、海の絵はがぎの裏に、鉛筆で書かれた扁理の神 ではない。ひょっとしたら何もかもお母さんのせいかも知経質な字を読んだ。彼は、その海岸が気に入ったからしば らく滞在するつもりだ、と書いて寄こしたきりだった。 れない : そんな風にこんぐらかった独語が、娘の顔の上にいつの絹子はその絵はがきから、彼女の狂暴な顔をいきなり夫 まにか、十七の少女に似つかわしくないような、にがにが人の方にむけながら、 しげな表情を雕りつけていた。それは実は彼女自身への意「河野さんは死ぬんじゃなくって ? 」と出しぬけに質問し 地であったのだけれども、彼女には、それを彼女の母へのた。 細木夫人はその瞬間、自分の方を睨らんでいる、一人の 意地であるかのように誤って信じさせながら : 見知らぬ少女のそんなにも恐い眼つきに驚いたようだっ た。が、その少女のそんな眼つきは突然、夫人に、彼女が 「はいってもよくって ? 」 その少女と同じくらいの年齢であった時分、彼女の愛して そのとき部屋の外で母の声がした。 いた人に見せつけずにはいられなかった自分の恐い眼つき 「いいわ」 絹子は、彼女の母がはいって来るのを見ると、いきなりを思い出させた。そうして夫人は、その見知らない少女が 自分の狂暴な顔を壁の方にねじむけた。細木夫人はそれをその頃の自分にひどく肖ていることに、そして、その少女 が実は自分の娘であることに、なんだか始めて気づいたか 彼女が涙をかくすためにしたのだとしか思わなかった。 「河野さんから絵はがきが来たのよ」と夫人はおどおどしのように見えた。夫人は溜息をしずかに洩らした。ーー・ - ・娘 は誰かを愛している。自分が、昔、あの人を愛していたよ ながら言った。 その言葉が絹子の顔を夫人の方にねじむけさせた。今度うに愛している。そしてそれはきっと扁理にちがいない は夫人がそれから自分の顔をそむかせる番だった。 お ふう
を透しながらくつぎりと見えている、程遠くの、真っ白さな花のように何処へともなく私から去っていった少女た な、小さな橋をはじめて見でもするように見入っていた。 ちのことを思い出していた。・ : この頃、ともすると、一 とうげ それは六月の半ば頃、私が峠から一緒に下りてきた二人の人の新しい少女のために、そんな昔の少女たちのことを忘 子供たちと別れた、あの印象の深い小さな橋であった。 れがちであったが、そう言えば、彼女たちがこの村におい ー私は、彼女がしやがみながら、・ハレットへ絵具をなすりおいとやって来る時期ももう間ぢかに迫っているのだ。彼 つけ出すのを見ると、彼女の仕事を妨げることを恐れて、女たちが来ないうちに私はこの村をさっと立ち去ってしま 其処に彼女をひとり残したまま、その渓流に沿うた小径をつた方がいい そうしなくっちゃいけない そう自分 ぶらぶら上流の方へと歩いて行った。しかし私は絶えず私で自分に言って聞かせるようにしながら、その一方ではま の背後に残してきた彼女にばかり気をとられていたので、 た、この頃やっと自分の手に入りかけている新しい幸福 私の行く手の小径の曲り角の向うに、一つの小さな灌木を、そうあっさりと見棄てて行けるだろうかどうかと疑っ が、まるで私を待ち伏せてでもいたように隠れていたのにていた。そうして私は自分の気持をそのどちらにも片づけ むぞうさ 少しも気づかずに、その曲り角を無雑作に曲ろうとした瞬ることが出来ずに、自分で自分を持て余しながら、かれこ 間、私はその灌木の枝に私のジャケツを引っかけて、思われ一時間近くもその山径をさまよっていた。そうしてその あげく ずそこに足を止めた。見ると、それは一本の花を失った野挙句、私がやっと気がついた時には、そんな風に歩きなが とげ 薔薇だった。私はやっとのことで、その鋭い棘から私のジら自分でも知らずに何度も指で引張っていたものと見え ャケツをはずしながら、私はあらためてその花のない野薔て、私の色のジャケツの肩のところに出来たその小さな 薇を眺めだした。それが白い小さな花を一ばいつけていた綻びは、もう目立つくらいに大きくなっていた。ーー私は 頃には、あんなにも私がそれで楽しんでいた癖に、それらとうとう踵を返して、再び渓流づたいにその山径を下りて の花がひとっ残らず何処かに立ち去ってしまった今は、そきた。そうして私は自分の行く手に、真っ白な、小さな橋 んな灌木のあることにすら全然気づこうとしなかった私にと、一本の大きな蝙蝠傘のような樅の木を認めだすと、私 ふくしゅう 対して、それが精一杯の復讐をしようとして、そんな風にはすこし歩みを緩めながら、わざと目をつぶった。その木 私のジャケツを噛み破ったかのようにさえ私には思えた。蔭になって見えずにいるものを、私のすぐ近くに、不意 : と そういう花のすっかり無くなった野薔薇をしばらく前に、思いがけぬもののように見出したかったのだ。 がまん にしながら、私はいっか知らず識らずに、それらの白い うとう私は我慢し切れずに私の目を開けてみた。しかし彼 ころ きびす ゆる
いるかのような , ーー実はその小さな花を路傍などで見つけの無花果の木こそ、現在では私もまた喜んで自分の幼年時 あたか て、誰か一人がふいと手にしてきたのが彼等にそんな遊戯代をそれへ寄せたいと思っている木だ。恰も丁度私の幼年 を思いっかせるのだが 心もちにさせる、いかにも日常時代もまたその木と同じく、殆ど花らしいものを人目につ 生活的な、珍らしくもない雑草だった。 かせずに、しかもこうやっていっか私に愉しい生の果実を あだな しかしながら、その「赤まんま」というなっかしい仇名育くんでいてくれているとでも云うように とともに、あの赤い、粒々とした、花とはちょっと云いが りゅう たい位、何か本当に食べられそうに見える小さな花の姿を 一人の少女は、お龍ちゃんといった。ちょうど私とおな 思い浮べると、 いまだに私には一人の目のきつい、横からい年だった。きつい目つきをした、横から見ると、まるで 見ると男の子のような顔をした少女の姿がくつきりと浮男の子のような顔をした少女だった。どうかすると、とき その目 ぶ。それから、もう一人の色つやの悪い、痩せた、貧相などき私をそのきつい目でじっと見つめていた。 女の子の姿が、その傍らに色褪せて、・ほおっと浮ぶ。それざしを私はいまだによく覚えている。本当に覚えているの しかしそれだけを思 からその幼時の私のたった二人っきりの遊び相手だった彼はその印象的な目ざしきりだが、 むしろ 女たちと、庭の無花果の木かげに一枚の花莚を敷いて、そい浮べただけで、もう忘れてしまっている顔の他の部分ま の上でそれ等の赤まんまの花なんそでままごとをしながでが、何んとなく・ほおっと浮んでくるような気さえされる ら、肢体に殆どじかに感じていた土の凹凸や、何んともい位だ。 いけがき えない土の軟か味のある一種の弾性や、あるとぎの土の香私の家の生籬の前に、そこいらの路地の中ではまあ少し りなどまでが : ばかり広い空地があったので、夕方など、よく女の子たち そうして私はそういうとき、自分の前に、或時はすっかが其処へ連れ立ってきて、輪をつくっては遊んでいた。 代 り冬枯れて、ごっごっした木の枝を地中の根のように空へ ひらいた。ひらいた。何んの花ひらいた。 時 そういう女の子たちの歌声がそこから聞えて来ると、一 年張っていた、ーーー或時は円い大きな緑の木蔭を落して、そ 幼の下で小さい私達を遊ばせていた、一本の無花果の木をあ人虫の私は、そっと生籬の中に出て、八ッ手の葉かげか りありと蘇らせる。 「私にとって、おお無花果の木ら、彼女たちの遊びを見ていた。大抵は余所から遊びに来 よ、お前は長いこと意味深かった。お前は殆ど全くお前のたらしい、私なんそよりすこし年上の、知らない女の子た 花を隠していた : : : 」とリルケの詩にも歌われている、こちばかりで、唯、その輪の中にはいつも顔見知りのお龍ち よみがえ いのち