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検索対象: 現代日本の文学 20 堀辰雄集
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1. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

154 それを決して分かろうとはしなかった重苦しいものからの見ている事はなかった。娘は自分の気のせいかとも思っ 釈放を感ぜずにはいられなかった。そしてその数日の間彼た。娘はきようこそ自分が此の秋にはどうしても嫁いで行 女を心にもなく苦しめていた胸苦しさは、それきり忘れ去かなければならぬ事をそれとなく彼に打ち明けようと思っ られたように見えた。 ていた。それを打ち明けて見て、さて相手にどうせよと云 うのではない。唯、彼にそんな話を聴いて貰って、思いき 八 り泣いて見たかった。自分の娘としての全てに、そうやっ 明は相変らず、氷室の傍で、早苗と同じようなあいびきてしみじみと別れを告げたかった。何故なら明とこうして を続けていた。 逢っている間くらい、自分が娘らしい娘に思われる事はな しかし明はますます気むずかしくなって、相手には減多かったのだ。いくら自分に気むずかしい要求をされても、 に口さえ利かせないようになった。明自身も殆ど喋舌らなその相手が明なら、そんな事は彼女の腹を立てさせるどこ かった。そして二人は唯、肩を並べて、空を通り過ぎる小 ろか、そうされればされる程、自分が反って一層娘らしい ぞうき ! やし さな雲だの、雑木林の新しい葉の光る具合だのを互に見合娘になって行くような気までしたのだった。・ っていた。 何処か遠くの森の中で、木を伐り倒している音がさっき 明はとぎどき娘の方へ目を注いで、いつまでもじっと見から聞え出していた。 つめている事があった。娘がなんと云う事もなしに笑い出「何処かで木を伐っているようだね。あれは何んだか物悲 ひと 1 」と すと、彼は怒ったような顔をして横を向いた。彼は娘が笑しい音だなあ。」明は不意に独り言のように云った。 うことさえ我慢できなくなっていた。ただ娘が無心そうに 「あの辺の森ももとは残らず牡丹屋の持物でしたが、二三 ようす している容子だけしか彼には気に入らないと見える。そう年前にみんな売り払ってしまって : : : 」早苗は何気なくそ 云う彼が娘にもだんだん分かって、しまいには明に自分が う云ってしまってから、自分の云い方に若しゃ彼の気を悪 見られていると気がついても、それには気がっかないようくするような調子がありはしなかったかと思った。 にしていた。明の癖で、彼女の上へ目を注ぎながら、彼女が、明はなんとも云わずに、唯、さっきから空を見つめ を通してそのもっと向うにあるものを見つめているような続けているその眼つきを一瞬切なげに光らせただけだっ ゆいしょ 眠っきを肩の上に感じながら : ・ た。彼は此の村で一番由緒あるらしい牡丹屋の地所もそう しかし、そんな明の眼つきがきようくらい遠くのものをやって漸次人手に渡って行くより外はないのかと思った。 んじ

2. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

るようになると次第に誰も手を出す者がなくなり、多くのがニ人の習慣になった。 氷室がその儘諸方に立腐れになった。今でもまだ森の中な 五 そん んぞだったら何処かに残っているかも知れない。 そのうちにいつの間にか、明と早苗とは、毎日、午後の な事を村の人達からもよく聞いていたが明もそれを見るの 何時間かをその氷室を前にして一しょに過すようになっ は初めてだった。 「なんだか今にも潰れて来そうだなあ・ : : ・。」明はそう云た。 明が娘の耳のすこし遠いことを知ったのは或風のある日 いながら、もう一度ゆっくりと小屋の中を見廻した。いま だった。漸っと芽ぐみ初めた林の中では、ときおり風がざ まで雨垂れのしていた藁屋根の隙間から、突然、日の光が いくすじも細長い線を引き出した。不意と娘は村の者らしわめき過ぎて木々の梢が揺れる度毎に、その先にある木の くない色白な顔をその方へもたげた。彼はそれをぬすみ見芽らしいものが銀色に光った。そんな時、娘は何を聞きっ けるのか、明がはっと目を諍るほど、神々しいような顔つ て、一瞬美しいと思った。 明が先になって、一一人はその小屋を出た。娘は小さな籠きをする事があった。明はただ此の娘とこうやって何んの を手にしていた。林の向うの小川から芹を摘んで来た帰り話らしい話もしないで逢ってさえいればよかった。其処に なのだった。二人は林を出ると、それからは一ことも物をは云いたい事を云い尽してしまうよりか、それ以上の物語 云い合わずに、後になったり先になったりしながら、桑畑をし合っているような気分があった。そしてそれ以外の欲 求は何んにも持とうとはしない事くらい、美しい出会はあ の間を村の方へ帰って行った。 るまいと思っていた。それが相手にも何んとかして分から その日から、そんな氷室のある林のなかの空地は明の好ないものかなあと考えながら 子きな場所になった。彼は午後になると其処へ行って、その早苗はと言えば、そんな明の心の中ははっきりとは分か 穂毀れかかった氷室を前にしては草の中に横わりながら、そらなかったけれども、何か自分が余計な事を話したりし出 菜の向うの林を透いて火の山が近か近かと見えるのを飽かずすと、すぐ彼が機嫌を悪くしたように向うを向いてしまう 彼女ははじめ ので、殆ど口をきかずにいる事が多かった。 / に眺めていた。 夕方近くになると、芹摘みから戻 0 て来た綿屋の娘が彼のうちはそれがよく分からなくて、彼の厄にな 0 ている の前を通り抜けて行った。そして暫く立ち話をして行くの牡丹屋と自分の家とが親戚の癖に昔から仲が悪いので、自 せり よこた

3. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

148 しゅうう そのうちに春らしい驟雨が日に一度か二度は必らず通りつと上ずった声で娘の方へ向けて云った。 「・ : ・ : 」娘は黙って頷いたようだった。 過ぎるようになった。明は、そんな或日、遠い林の中で、 ものすご 明はそのとき初めてその娘を間近かに見ながらそれが同 雷鳴さえ伴った物妻い雨に出逢った。 わらぶ 明は頭からびしょ濡れになって、林の空地に一つの藁葺じ村の綿屋という屋号の家の早苗と云う娘であるのに気づ 小屋を見つけると、大急ぎで其処へ飛び込んだ。何かの納いた。娘の方では先に明に気づいていたらしかった。 屋かと思ったら、中はまっ暗だが、空虚らしかった。小屋明はそれを知ると、こんな薄暗い小屋の中にその娘と二 の中は思いの外深い。彼は手さぐりで五六段ある梯子のよ人きりで黙り合ってなんそいる方が余っ程気づまりになっ うなものを下りて行ったが、底の方の空気が異様に冷え冷たので、まだ少し上ずった声で、 えとしているので、思わずいをした。しかし彼をも 0 「此の小屋は一体何んですか ? 」と問うて見た。 と驚かせたのは、その小屋の奥に誰かが彼より先にはいっ娘はしかし何んだかもじもじしているばかりで、なかな て雨宿りしているらしい気配のした事だった。漸く周囲にか返事をせずにいた。 ちんにゆう 目の馴れて来た彼は突然の闖入者の自分のために隅の方へ「普通の納屋でもなさそうだけれど : : : 。」明はもうすっ かり目が馴れて来ているので小屋の中を一とあたり見廻し 寄って小さくなっている一人の娘の姿を認めた。 「ひどい雨だな。」彼はそれを認めると、てれ臭そうに独た。 り言をいいながら、娘の方へ背を向けた儘、小屋の外ばかそのとき娘が漸っとかすかな返事をした。 「氷室です。」 り見上げていた。 が、雨はいよいよ烈しく降っていた。それは小屋の前の まだ藁屋根の隙間からはぼたり・ほたりと雨垂れが打ち続 でいりいう 火山灰質の地面を削って其処いらを泥流と化していた。落けていたが、さすがの雨もどうやら漸く上りかけたらしか ナしくぶん外が明るくなって来た。 葉や折れた枝などがそれに押し流されて行くのが見られつこ 9 、 明は急に気軽そうに云った。「氷室と云うのはこれです 半ば毀れた藁屋根からは、諸方に雨洩りがしはじめ、明か。 はそれまでの場所に立っていられなくなって、一歩一歩後昔、此の地方に鉄道が敷設された当時、村の一部の人達 ずさり は冬毎に天然氷を採取し、それを貯えて置いて夏になると 退して行った。娘との距離がだんだん近づいた。 「ひどい雨ですね。」と明はさっきと同じ文句を今度はも各地へ輸送していたが、東京の方に大きな製氷会社が出来 こ 0 こわ ひむろ わた あまだ

4. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

いとふり向いた。その途端、通行人の一人が明に肩をぶつ け、空けたように佇んでいた背の高い彼を思わずよろめか 明がそれから漸っと立ち直ったときは、もうさっきの二 人は人込みの中に姿を消していた。 しようす、 何年ぶりかで見た菜穂子は、何か目に立って憔悴してい た。白い毛の外套に身を包んで、並んで歩いている彼女よ むとんじゃく りも背の低い夫には無頓著そうに、考え事でもしているよ まっすぐ・ うに、真直を見たままで足早に歩いていた。一度夫が何か 彼女に話しかけたようだったが、それは彼女にちらりと 蔑むような頬笑みを浮べさせただけだった。 ーー都築明 は自分の方へ向って来る人込みの中に目ざとくそう言う一一 人の姿を見かけ、菜穂子さんを見るような人だがと思い出 「や 0 ばり菜穂子さんだ。」思わず都築明は立ち止りながすと、かに胸の動悸が高ま 0 た。彼がその白い外套の女 いぶか ら、ふり返った。 から目を離さずに歩いて行くと、向うでも一瞬彼の方を訝 すれちがうまでは菜穂子さんのようでもあり、そうでなしそうに見つめ出したようだった。しかし、何んとなくこ いようにも思えたりして、彼は考えていたが、すれちがっちらを見ていながら、まだ何んにも気づかないでいる間の まな たとき急にもうどうしても菜穂子さんだという気がした。 ような、空虚な眼ざしだった。それでも明はその宙に浮い しばら 子明は暫く目まぐるしい往来の中に立ち止 0 た儘、もうかた眼ざしを支え切れないように、思わずそれから目を外ら 穂なり行き過ぎてしまった白い毛の外套を着た一人の女とそせた。そして彼がちょいと何んでもない方を見ている暇 菜の連れの夫らしい姿を見送っていた。そのうちに突然、そに、彼女はとうとう目の前の彼にそれとは気づかずに、夫 の女の方でも、今すれちがったのは誰だか知った人のようと一しょにすれちがって行ってしまったのだった : だったと漸っと気づいたかのように、彼の方をふり向いた 明はそれからその二人とは反対の方向へ、な・せ自分だけ ようだった。夫も、それに釣られたように、 こっちをちょ がそっちへ向って歩いて行かなければならないのか急に分 菜穂子 うつ ほえ たたず

5. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ないように、そう言う追憶に自分を任せ切っていた。・ 翌年の夏もまた、隣村のホテルに県養に来ていたこの孤 独な作家は不意に 0 村へも訪ねて来たりした。その頃か その赫かしい少年の日々は、七つのとき両親を失くしたら、三村夫人が彼女のまわりに拡げ出していた一種の悲劇 明を引きとって育てて呉れた独身者の叔母の小さな別荘の的な雰囲気は、何か理由がわからないなりにも明の好奇心 あった信州の O 村と、其処で過した数回の夏休みと、そのを惹いて、それを夫人の方へばかり向けさせていた間、彼 村の隣人であった三村家の人々、 殊に彼と同じ年の菜はそれと同じ影響が菜穂子から今までの快活な少女を急に 穂子とがその中心になっていた。明と菜穂子とはよくテニ抜け出させてしまった事には少しも気がっかなかった。そ スをしに行ったり、自転車に乗って遠乗りをして来たりしして明が漸っとそう言う菜穂子の変化に気づいたときは、 すで はとん た。が、その頃から既に、本能的に夢を見ようとする少年彼女は既に彼からは殆ど手の届かないようなところに行っ と、反対にそれから目醒めようとする少女とが、その村をてしま 0 ていた。この勝気な少女は、その間じゅう、一 , 人 舞台にして、互に見えっ隠れっしながら真剣に鬼ごっこをで誰にも打ち明けられぬ苦しみを苦しみ抜いて、その挙句 していたのだった。そしていつもその鬼ごっこから置きざもう元通りの少女ではなくなっていたのだった。 りにされるのは少年の方であった。 その前後からして、彼の赫かしかった少年の日々は急に 或夏の日の事、有名な作家の森於兎彦が突然彼等の前に陰り出していた。 姿を現わした。高原の避暑地として知られた隣村のホテ ルに暫く保養に来ていたのだった。三村夫人は偶然そのホ或日、所長が事務所の戸を開けて入って来た。 テルで、旧知の彼に出会って、つい長い間よもやまの話を「都築君。」 ちんうつ し合った。それから二三日してから、 0 村へのおりからの と所長は明の傍にも近づいて来た。明の沈鬱な顔つきが 子タ立を冒しての彼の訪れ、養蚕をしている村への菜穂子やその人を驚かせたらしかった。 たの 穂明を交じえての雨後の散歩、村はずれでの愉しいほど期待「君は青い顔をしている。何処か悪いんじゃないか ? 」 菜に充ちた分かれ、ーーーそれだけの出会が、既に人生に疲弊「 いいえ別に」と明は何だか気まりの悪そうな様子で答え したようなこの孤独な作家を急に若返らせでもさせたよう た。前にはもっと入念に為事をしていたではないか、どう こうふん してこう熱意が無くなったのだ、と所長の眼が尋ねている な、異様な亢奮を与えずにはおかなかったように見えた。 ように彼には見えた。 かがや ひへい かげ どこ

6. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

はす ような事もあった。 いない筈だった。それが明には、寂しくとも、何か心安ら たく 「わたしには明さんのように自分でどうしてもしたいと思かにその村へ自分の病める身を托して行ける気持ちにさせ う事なんぞないんだわ。」そんなとき菜穂子はしみじみと た。それに、今自分を一番親身に看病してくれそうなの 考えるのだった。「それはわたしがもう結婚した女だからは、牡丹屋の人達の外にはあるまい なのだろうか ? そしてもうわたしにも、他の結婚した女深い林から林へと汽車は通り抜けて行った。すっかり葉 のように自分でないものの中に生きるより外はないのだろの落ち尽した無数の唐松の間から、灰色に曇った空のなか ぞうがん に象嵌したような雪の浅間山が見えて来た。少しずつ噴き 出している煙は風のためにちぎれちぎれになっていた。 きかんしゃ 一一十 先ほどから汽罐車が急に喘ぎ出しているので、明は漸っ 或夕方、信州の奥から半病人の都築明を乗せた上り列車と O 駅に近づいた事に気がついた。 O 村はこの山麓に家も 畑も林もすべてが傾きながら立っているのだ。そしていま はだんだん上州との国境に近い 0 村に近づいて来た。 いんうつ 一週間ばかりの陰鬱な冬の旅に明はすっかり疲れ切って明の身体を急に熱でも出て来たようにがたがた震わせ出し ている此の汽罐車の喘ぎは、此の春から夏にかけて日の暮 いた。ひどい咳をしつづけ、熱もかなりありそうだった。 もた まどわく 明は目をつぶった儘、窓枠にぐったりと体を靠らせなが近くに林の中などで彼がそれを耳にしては、ああ夕方の上 ら、ときどき顔を上げ、窓の外に彼にとっては懐しい唐松りが村の停車場に近づいて来たなと何とも云えず人懐しく や楢などの枯木林の多くなり出したのをぼんやりと感じて思った、あの印象深い汽罐の音と同じものなのだ。 谷陰の、小さな停車場に汽車が著くと、明は咳き込みそ がいとうえり 明はせつかく一箇月の休暇を貰って今後の身の振り方をうなのを漸っと耐えているような恰好で、外套の襟を立て 子 ながら降りた。彼の外には五六人の土地の者が下りただけ 考えるために出て来た冬の旅をこの儘空しく終える気には 穂どうしてもなれなかった。それではあまり予期に反し過ぎだった。彼は下りた途端に身体がふらふらとした。彼はそ 菜た。彼はさしずめ O 村まで引き返し、其処で暫く休んで、れを昇降ロの戸をあけるために暫く左手で提げていた小さ じやけん かい′一く それからまた元気を恢復し次第、自分の一生を決定的なもな鞄のせいにするように、わざと邪険そうにそれを右手に のにしようとしている此の旅を続けたいという心組になっ持ち変えた。改札口を出ると、彼の頭の上でぼつんとうす た。早苗は結婚後、夫が松本に転任して、もうその村には暗い電燈が点った。彼は待合室の汚れた硝子戸に自分の生 なら かばん か

7. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

いだその若い細君、それから出戻りの主人の姉のおよう、 数年誰も来ないらしく何処もかも釘づけになっていた。夏 明はそんな人達の事を少年の頃から知るともなしに知の午後などよく其処へ皆で集った楡の木の下には、半ば傾 っていた。殊にその姉のおようと云うのが若い頃その美し いたべンチがいまにも崩れそうな様子で無数の落葉に埋ま い器量を望まれて、有名な避暑地の隣りの村でも一流のっていた。明はその楡の木かげでの最後の夏の日の事をい ホテルへ縁づいたものの、どうしても性分から其処がいやまだに鮮かに思い出すことが出来た。 ーーーその夏の末、隣 うわさ でいやで一年位して自分から飛び出して来てしまった話な村のホテルに又来ているとかというが前からあった森於 そを聞かされていたので、明は何となくそのおように対し兎彦が突然 0 村に訪ねて来てから数日後、急に菜穂子が誰 ては前から一種の関心のようなものを抱いていた。・ : カそにも知らさずに東京へ引ぎ上げて行ってしまった。その翌 のおように今年十九になる、けれどもう七八年前から脊髄日、明はこの木の下で三村夫人からはじめてその事を聞い えん 炎で床に就ききりになっている、初枝という娘のあった事た。何かそれが自分のせいだと思い込んだらしい少年は落 なぞは此度の滞在ではじめて知ったのだった。・ ち著かないせかせかした様子で、思い切ったように訊い た。「菜穂子さんは僕に何んにも云って行きませんでした そう云う過去のある美貌の女としては、おようは今では ようす 余りに何んでもない女のような構わない容子をしていた。 か ? 」「ええ別に何んとも : : : 」夫人は考え深そうな、暗 けれどももう四十に近いのだろうに台所などでまめまめしい眼つきで彼の方を見守った。「あの娘はあんな人ですか うなす く立ち働いている彼女の姿には、まだいかにも娘々した動ら : : : 」少年は何か怺えるような様子をして、大きく頷い 作がその儘に残っていた。明はこんな山国にはこんな女のて見せ、その儘其処を立ち去って行った。 それがこの 人もいるのかと懐しく思った。 楡の家に明の来た最後になった。翌年から、明はもう叔母 が死んだために此の村へは来なくなった。・ 子 林はまだその枝を透いてあらわに見えている火の山の姿これでもう何度目かにその半ば傾いたペンチの上に腰か 穂と共に日毎に生気を帯びて来た。 けた儘、その最後の夏の日のそう云う情景を自分の内によ 菜来てから、もう一週間が過ぎた。明は殆ど村じゅうを見み返らせながら、永久にこっちを振り向いてくれそうもな て歩いた。森のなかの、昔住んでいた家の方へも何度も行い少女の事をもう一遍考えかけたとき、明は急に立ち上っ はす Ⅷって見た。既に人手に渡っている筈の亡き叔母の小さな別て、もう此処へは再び来まいと決心した。 にれ 荘もその隣りの三村家の大ぎな楡の木のある別荘も、ここ こら

8. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

分が何の気なしに話したおよう達の事でもって何か明の気な事なんぞを考え出している間、手近い草を手ぐりよせて は、自分の足首を撫でたりしていた。 を悪くさせるような事でもあったのだろうと考えた。が、 外の事をいくら話し出しても同じだった。ただ一つ、彼女二人はそうやって二三時間逢った後、夕方、別々に村へ の話に彼が好んで耳を傾けたのは、彼女が自分の少女時代帰って行くのが常だった。そんな帰りがけに明はよく途中 のことを物語ったときだけだった。殊に彼女の幼馴染だつの桑畑の中で、一人の巡査が自転車に乗って来るのに出逢 たおようの娘の初枝の小さい頃の話は何度も繰返して話さった。それは此の近傍の村々を巡回している、人気のい えしやく 、若い巡査だった。明が通り過ぎる時、いつも軽い会釈 せた。初枝は十二の冬、村の小学校への行きがけに、凍み ついた雪の上に誰かに突き転がされて、それがもとで今のをして行った。明はこの人の好さそうな若い巡査がいま自 わずら 脊髄炎を患ったのだった。その場に居合わせた多くの村の分の逢って来たばかりの娘への熱心な求婚者である事をい っしか知るようになった。彼はそれからは一層その若い巡 子達にも誰がそんな悪戯をしたのか遂に分からなかった。 査に特殊な好意らしいものを感じ出していた。 明はそう云う初枝の幼時の話などを聞きながら、ふとあ の勝気そうなおようが何処かの物陰に一人で淋しそうにし ている顔つぎを心に描いたりした。今でこそおようは自分或朝、菜穂子は床から起きようとした時、急にはげしく あきら の事はすっかり詮め切って、娘のためにすべてを犠牲にし咳き込んで、変な痰が出たと思ったら、それは真赤だっ て生きているようだけれど、数年前明がまだ少年で此の村た。 あト へ夏休みを送りに来ていた時分、そのおようがその年の春菜穂子は慌てずに、それを自分で始末してから、いつも 一日中、外には から彼女の家に勉強に来て冬になってもまだ帰ろうとしなのように起きて、誰にも云わないでいた。 ある かった或法科の学生と或噂が立ち、それが別荘の人達の話何んにも変った事が起らなかった。が、その晩、勤めから 題にまで上った事のあるのを明はふと思い出したりして、帰って来ていつものように何事もなさそうにしている夫を ろうばい そう云う迷いの一とぎもおようにはあ 0 たと云う事が一層見ると、突然その夫を狽させたくな 0 て、二人きりにな 彼のうちのおようの絵姿を完全にさせるように思えたりしってからそっと朝の喀血のことを打ち明けた。 「何、それ位なら大した事はないさ。」圭介は口先ではそ うつ 早苗は、彼女の傍で明が空けたような眼つきをしてそんう云いながら、見るも気の毒なほど顔色を変えていた。 こ 0 たん

9. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

えた。しかし、それから日が立つにつれて、何故かその時した浅間山を近か近かと背にした、或小さな谷間の停車場 から夫と一しょに外出したりなどするのが妙に不快に思わに下りた。 れ出した。わけても彼女を驚かしたのは、それが何か自分明には停車場から村までの途中の、昔と殆ど変らない景 を佯っていると云う意識からはっきりと来ていることに気色が何んとも云えず寂しい気がした。それはそんな昔のま づいた事だった。それに近い感情はこの頃いつも彼女が意まの景色に比べて彼だけがもう以前の自分ではなくなった しきみ 識の閾の下に漠然と感じつづけていたものだったが、菜穂ような寂しい心もちにさせられたばかりではなく、その景 子はあの孤独そうな明を見てから、な・せか急にそれを意識色そのものも昔から寂しかったのだ。 , ーー・停車場からの坂 の閾の上にのぼらせるようになったのだった。 道、おりからのタ焼空を反射させている道端の残雪、森の かたわらに置き忘れられたように立っている一軒の廃屋に 四 ちかい小家、尽きない森、その森も漸っと半分過ぎたこと 田舎へ行 0 て来いと言われたとき都築明はすぐ少年のを知らせる或第れ道 ( その一方は村〈、もう一方は明がそ 頃、何度も夏を過しに行った信州の O 村の事を考えた。まこで少年の夏の日を過した森の家へ通じていた : : : ) 、そ だ寒いかも知れない、山には雪もあるだろう、何もかもがの森から出た途端旅人の眼に印象深く入って来る火の山の すその そういう未だ知らぬ春先きの山裾野に一塊りになって傾いている小さな村 : ・ 其処ではこれからだ、 国の風物が何よりも彼を誘った。 ぼたんや 0 村での静かなすこし気の遠くなるような生活が始まっ 明はその元は宿場だった古い村に、牡丹屋という夏の間 学生達を泊めていた大きな宿のあった事を思い出して、そた。 れへ問合わせて見ると、いつでも来てくれと言って寄した山国の春は遅かった。林はまだ殆ど裸かだった。しかし こずえ ので、四月の初め、明は正式に休暇を貰って信州への旅をもう梢から梢へくぐり抜ける小鳥たちの影には春らしい敏 しよう 捷さが見られた。暮方になると、近くの林のなかで雉がよ 決行した。 くわばたけ く啼いた。 明の乗った信越線の汽車が桑畑のおおい上州を過ぎて、 いよいよ信州へはいると、急にまだ冬枯れたままの、山陰牡丹屋の人達は、少年の頃の明の事も、数年前故人にな などには斑雪の残っている、いかにも山国らしい景色に変った彼の叔母の事も忘れずにいて、深切に世話を焼いて呉 とっ あかはだ り出した。明はその夕方近く、雪解けあとの異様な赭肌をれた。もう七十を過ぎた老母、足の悪い主人、東京から嫁 かたま びん

10. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

菜穂子はそのお辞儀の仕方を見ると、突然、明が彼女のそうしたように、今も自分の痕を彼女の心にぎゅうぎゅう 新前に立ち現われたときから何かしら自分自身に儁 0 ていた捺しつけようとしているような気がされて、そのために苛 それ以上にそれ 感情のある事を鋭く自覚した。そして何かそれを悔いるから苛らしていたばかりではなかった。 のよ、つに、 いままでにない柔かな調子で最後の言葉をかけが彼女を困惑させていた。云って見れば、それが現在の彼 ふしあわ こ 0 女の、不為合せなりに、一先ず落ち著くところに落ち著い おびや ているような日々を脅かそうとしているのが漠然と感・せら 「本当にあなたも御無理なさらないでね : : : 」 「ええ : : : 」明も元気そうに答えながら、最後にもう一度れ出していたのだ。彼女よりももっと痛めつけられている あまが つばさ 彼女の方へ大きい眼を注いで、扉の外へ出て行った。 身体でもって、傷いた翼でもっともっと翔けようとしてい やがて扉の向うに、明が再びはげしく咳き込みながら立る鳥のように、自分の生を最後まで試みようとしている、 ち去って行くらしい気配がした。菜穂子は一人になると、以前の彼女だったら眉をひそめただけであったかも知れな いような相手の明が、その再会の間、々彼女の現在の絶 さっきから心に滲み出していた後悔らしいものを急にはっ しんし きりと感じ出した。 望に近い生き方以上に真摯であるように感・せられながら、 その感じをどうしても相手の目の前では相手にどころか自 十八 分自身にさえはっきり肯定しようとはしなかったのだっ よぎ 冬空を過った一つの鳥かげのように、自分の前をちらり と通りすぎただけでその儘消え去るかと見えた一人の旅び菜穂子は自分のそう云う一種の瞞著を、それから一一三日 その不安そうな姿が時の立つにつれていよいよ深してから、はじめて自分に白状した。何故あんなに相手に こんせき くなる痕跡を菜穂子の上に印したのだった。その日、明がすげなくして、旅の途中にわざわざ立寄って呉れたものを 心からの言葉ひとっ掛けてやれずに帰らせてしまったの 帰って行った後、彼女はいつまでも何かわけのわからない 一種の後悔に似たものばかり感じ続けていた。最初、それか、とその日の自分がいかにも人気ないように思われた しかし、そう思う今でさえ、彼女の内には、 は何か明に対して或感情を佯っているかのような漠然としりした。 た感じに過ぎなかった。彼が自分の前にいる間じゅう、彼若し自分がそのとき素直に明に頭を下げてしまって居た 女は相手に対してとも自分自身に対してともっかず始終苛ら、ひょっとしてもう一度彼と出逢うような事のあった場 ら立っていた。彼女は、昔、少年の頃の相手が彼女によく合、そのとき自分はどんなに惨めな思いをしなければなら にじ こ 0 まんちゃく