124 も、それから自分自身にも言って聞かせてある。そうして異ったものになって来ているだろうーそれはそう云った おれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、お幸福に似た、しかしそれとはかなり異った、もっともっと れの詰まらない夢なんそにこんなに時間を潰し出している胸がしめつけられるように切ないものだ。こういう本当の のだ : : : 」 姿がまだ私達の生の表面にも完全に現われて来ていないも そんな私のもの言いたげな目つきに気がついたのか、病のを、このまま私はすぐ追いつめて行って、果してそれに ふさわ 人はペッドの上から、につこりともしないで、真面目に私私達の幸福の物語に相応しいような結末を見出せるであろ の方を見かえしていた。この頃いつのまにか、そんな具合うか ? なぜだか分らないけれど、私がまだはっきりさせ に、前よりかずっと長い間、もっともっとお互を締めつけることの出来ずにいる私達の生の側面には、何んとなく私 合うように目と目を見合わせているのが、私達の習慣にな達のそんな幸福に敵意をもっているようなものが潜んでい っていた。 るような気もしてならない。・ そんなことを私は何か落着かない気持で考えながら、明 十一月十七日 りを消して、もう寝入っている病人の側を通り抜けようと 私はもう二三日すれば私のノオトを書き了えられるだろして、ふと立ち止まって暗がりの中にそれだけがほの白く う。それは私達自身のこうした生活に就いて書いていれば浮いている彼女の寝顔をじ 0 と見守 0 た。その少し落ち 切りがあるまい。それをともかくも一応書き了えるためにんだ目のまわりがときどきびくびくと攣れるようだ 0 た は、私は何か結末を与えなければならないのだろうが、今が、私にはそれが何物かに脅かされてでもいるように見え もなおこうして私達の生き続けている生活にはどんな結末てならなかった。私自身の云いようもない不安がそれを唯 ふう だって与えたくはな い。いや、与えられはしないだろう。そんな風に感じさせるに過ぎないであろうか ? むし 寧ろ、私達のこうした現在のあるがままの姿でそれを終ら 十一月二十日 せるのが一番好いだろう。 現在のあるがままの姿 ? : : : 私はいま何かの物語で読ん私はこれまで書いて来たノオトをすっかり読みかえして だ「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」という言見た。私の意図したところは、これならまあどうやら自分 葉を思い出している。現在、私達の互に与え合っているもを満足させる程度には書けているように思えた。 のは、嘗て私達の互に与え合っていた幸福とはまあ何んと が、それとは別に、私はそれを読み続けている自分自身 かっ っぷ ひそ
114 謎のような徴笑を脣に漂わせた。 共に愉しむようにして味わっている生の快楽ーー・それこそ 私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと私達が信 じているもの、 それは果して私達を本当に満足させ了 せるものだろうか ? 私達がいま私達の幸福だと思ってい 絶対安静の日々が続いた。 病室の窓はす 0 かり黄色い日覆を卸され、中は澣闇くさるものは、私達がそれを信じているよりは、も 0 と束の間 つまだ れていた。看護婦達も足を爪立てて歩いた。私は殆んど病のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろう よとぎ 人の枕元に付きっきりでいた。夜伽も一人で引き受けてい た。ときどき病人は私の方を見て何か言い出しそうにし夜伽に疲れた私は、病人の微睡んでいる傍で、そんな考 た。私はそれを言わせないようにすぐ指を私のロにあてえをとつおいっしながら、この頃ともすれば私達の幸福が こ 0 何物かに脅かされがちなのを、不安そうに感じていた。 そのような沈黙が、私達をそれそれ各自の考えの裡に引 その危機は、しかし、一週間ばかりで立ち退いた。 っ込ませていた。・、、 カ私達はただ相手が何を考えているの 或る朝、看護婦がやっと病室から日覆を取り除けて、窓 かを、痛いほどはっきりと感じ合っていた。そして私が、 あたか 今度の出来事を恰も自分のために病人が儀牲にしていて呉の一部を開け放して行った。窓から射し込んで来る秋らし い日光をまぶしそうにしながら、 れたものが、ただ目に見えるものに変っただけかのように 思いつめている間、病人はまた病人で、これまで二人して「気持がいいわ」と病人はペッドの中から蘇ったように あんなにも細心に細心にと育て上げてきたものを自分の軽言った。 はずみから一瞬に打ち壊してしまいでもしたように悔いて彼女の枕元で新聞を拡げていた私は、人間に大きな衝動 を与える出来事なんぞと云うものは却ってそれが過ぎ去っ いるらしいのが、はっきりと私に感じられた。 そしてそういう自分の儀牲を犠牲ともしないで、自分のた跡は何んだかまるで他の事のように見えるものだなあ 軽はずみなことばかり責めているように見える病人のいじと思いながら、そういう彼女の方をちらりと見やって、思 らしい気持が、私の心をしめつけていた。そういう犠牲をわず揶揄するような調子で言った。 まで病人に当然の代償のように払わせながら、それがいつ「もうお父さんが来たって、あんなに興奮しない方がいい 死の床になるかもしれぬようなペッドで、こうして病人とよ。」 くちびる たの おびや まどろ よみがえ
の裡に、その物語の主題をなしている私達自身の「幸福」 いて行った。小さな月のある晩だった。それは雲のかかっ をもう完全には味わえそうもなくなっている、本当に思い た山だの、丘だの、森などの輪廓をかすかにそれと見分け がけない不安そうな私の姿を見出しはじめていた。そうしさせているきりだった。そしてその他の部分は殆んどすべ て私の考えはいっかその物語そのものを離れ出していた。 て鈍い青味を帯びた闇の中に溶け入っていた。しかし私の 「この物語の中のおれ達はおれ達に許されるだけのささや見ていたものはそれ等のものではなかった。私は、いっか ュ 4 イク かな生の愉しみを味わいながら、それだけで独自にお互をの初夏の夕暮に二人で切ないほどな同情をもって、そのま 幸福にさせ合えると信じていられた。少くともそれだけま私達の幸福を最後まで持って行けそうな気がしながら眺 め合っていた、まだその何物も消え失せていない思い出の で、おれはおれの心を縛りつけていられるものと思ってい よみがえ こ 0 が、おれ達はあんまり高く狙い過ぎていたのであ中の、それ等の山や丘や森などをまざまざと心に蘇らせ ばか ろうか ? そうして、おれはおれの生の欲求を少し許り見ていたのだった。そして私達自身までがその一部になり切 くびり過ぎていたのであろうか ? そのために今、おれのってしまっていたようなそういう一瞬時の風景を、こんな いましめ 心の縛がこんなにも引きちぎられそうになっているのだ具合にこれまでも何遍となく蘇らせたので、それ等のもの ろうか ? : : : 」 もいつのまにか私達の存在の一部分になり、そしてもはや 「可哀そうな節子 : ・ : こと私は机にほうり出したノオトを季節と共に変化してゆくそれ等のものの、現在の姿が時と そのまま片づけようともしないで、考え続けていた。「こすると私達には殆んど見えないものになってしまう位であ いつはおれ自身が気づかぬようなふりをしていたそんなおった。 れの生の欲求を沈黙の中に見抜いて、それに同情を寄せて「あのような幸福な瞬間をおれ達が持てたということは、 いるように見えてならない。そしてそれが又こうしておれそれだけでももうおれ達がこうして共に生きるのに値した を苦しめ出しているのだ。 : おれはどうしてこんなおれのであろうか ? 」と私は自分自身に問いかけていた。 ち 私の背後にふと軽い足音がした。それは節子にちがいな の姿をこいつに隠し了せることが出来なかったのだろう ? 立 かった。・、、 カ私はふり向こうともせずに、そのままじっと 風何んておれは弱いのだろうなあ : : : 」 私は、明りの蔭になったペッドにさっきから目を半ばっしていた。彼女もまた何も言わずに、私から少し離れたま と ぶっている病人に目を移すと、殆んど息づまるような気がま立っていた。しかし、私はその息づかいが感ぜられるほ しす した。私は明りの側を離れて、徐かに・ハルコンの方へ近づど彼女を近ちかと感じていた。ときおり冷たい風がパルコ
とぎばなし 女の知っている唯一のお伽噺かなんぞのように繰りかえし何かしきりに話し出した。 その菜っ葉服をきた人は、その立ち話の間に、私の方を 繰りかえし私に話して聞かせたのだった。そうしてしまい には私はどうしてもそれを自分でも見ずにはすまされない 一ペんじろりと見たようだった。それからまた少女の云う 程になって、数日前からそれを誰にも云わずにこっそりとのを聞いているようだったが、そのうち急にその少女の方 見にゆく約束をし合っていたのだった。 へ真黒に光った顔をむけて、二言三言何か乱暴そうに答 が、それは小さな私達にはすこしばかり冒険すぎた。近え、もう私の方なんそ目もくれないで、少女をそこへ一人 道をしようとして、私達があとさきの考えもなく飛び込ん残したまま、さっさと又火の中へはいっていってしまっ でいったところは、あちらこちらに自然に水溜りが出来てこ。 いるような湿地にちかいものだった。が、そういう水溜 り少女はその場にいつまでも立ちすくんだようになってい をあっちへ避けこっちへ避けながら歩いていると、いくら た。私は門のそばに不安そうに立ったまま、もうどうなっ 行っても、依然として遠くに見えている、その魔法のかか たって好いような気もちにさえなって、まだ何か未練がま ったような工場の方へ、私達がだんだん心細くなりながしくしている彼女の方を、まるで怒ったような目つきで見 ら、それでもどうにかこうにか漸っと近づき出したときていた。とうとう彼女は首をうなだれて私の方に向ってき よ、 それまでそうやって私達を殆ど向う見ずに歩かせた。 うち ていたところの、私達の裡の何物かへのはげしい好奇心そ私は彼女に何も訊かないで、そこにいつまでも彼女が泣 のものはもうどこかへ行ってしまっていた。それほど、そき顔をしたまま居残っていそうに見えるのを、無理に引っ うやって歩いていることだけに小さな私達は全力を出し尽ばり出すようにして、二人して工場の門から出た。そうし してしまっていたのだ。 て、来るときは殆ど駈けっこをするようにして突切って来 たど やっとのことで私達はその大きな硝子工場の前まで辿りた広い野を、こんどは二人並んでしょんぼりと歩き出し ついた。私は急にいじけて、たかちゃんのあとへ小さくなた。ところどころにある水溜りがきらきらと西日に赫いて いた。相手の顔がときどきその反射でちらちらと照らされ って付いていった。やがて、遠くから見るとその内側が一 めんに火だらけになって見えるような作業場の中から、てたりするのを、私達はさも不思議そうに、しかし何んにも かてか光るような菜っ葉服をきた、 / - 彼女の父親らしいもの言いあわずに見かわした。 ようやっと私達は、さっきそれを渡った覚えのある木の が姿をあらわした。たかちゃんがその傍に走っていって、 かがや
た、どこの山だかちっとも知らずにいたのが、確かにこれ私の二三歩先きに彼女を歩かせながら森の中などを散歩し らしい。丁度そんな方角になりそうだ。・ : ・お前、あた頃のさまざまな小さな思い出が、心臓をしめつけられる あふ がたんと生い茂っていた原を覚えているだろう ? 」 位に、私の裡に一ばいに溢れて来た。 「ええ。」 ふもと 十一月二日 「だが実に妙だなあ。いま、あの山の麓にこうしてこれま で何も気がっかずにお前と暮らしていたなんて : : : 」丁度夜、一つの明りが私達を近づけ合っている。その明りの 二年前の、秋の最後の日、一面に生い茂った薄の間からは下で、ものを言い合わないことにも馴れて、私がせっせと じめて地平線の上にくつきりと見出したこの山々を遠くか私達の生の幸福を主題にした物語を書き続けていると、そ ら眺めながら、殆んど悲しいくらいの幸福な感じをもつの笠の蔭になった、薄暗いペッドの中に、節子は其処にい て、一一人はいっかはきっと一緒になれるだろうと夢見て いるのだかいないのだか分らないほど、物静かに寝ている。 なっ た自分自身の姿が、いかにも懐かしく、私の目に鮮かに浮ときどき私がそっちへ顔を上げると、さっきからじっと私 んで来た。 を見つめつづけていたかのように私を見つめていることが 私達は沈黙に落ちた。その上空を渡り鳥の群れらしいのある。「こうやってあなたのお側に居さえすれば、私はそ かさな が音もなくすうっと横切って行く、その並み重った山々をれで好いの」と私にさも言いたくって溜まらないでいるよ 眺めながら、私達はそんな最初の日々のような親わしい気うな、愛情を籠めた目つきである。ああ、それがどんなに たたず 持で、肩を押しつけ合ったまま、佇んでいた。そうして私今の私に自分達の所有している幸福を信じさせ、そしてこ 達の影がだんだん長くなりながら草の上を這うがままにさうやってそれにはっきりした形を与えることに努力してい せていた。 る私を助けていて呉れることかー やがて風が少し出たと見えて、私達の背後の雑木林が急 十一月十日 にざわめき立った。私は「もうそろそろ帰ろう」と不意と 思い出したように彼女に言った。 冬になる。空は拡がり、山々はいよいよ近くなる。その 私達は絶えず落葉のしている雑木林の中へはいって行っ山々の上方だけ、雪雲らしいのがいつまでも動かずにじっ た。私はときどき立ち止まって、彼女を少し先きに歩かせとしているようなことがある。そんな朝には山から雪に追 た。二年前の夏、ただ彼女をよく見たいばかりに、わざとわれて来るのか、・ハルコンの上までがいつもはあんまり見 した
の時は既にもうその風景の上に一瞬間生じていた異様な美て、そしてただおれの流儀で、夢みていただけなのだ。 しさは消え失せていた。 ・ : それだのに、節子が自分の最後の瞬間のことを夢みて いるとも知らないで、おれはおれで、勝手におれ達の長生 その晩、私が隣りの側室へ寝に行こうとした時、彼女はきした時のことなんぞ考えていたなんて : : : 」 いっしかそんな考えをとつおいっし出していた私が、漸 私を呼び止めた。 っと目を上げるまで、彼女はさっきと同じように私をじっ 「さっきは御免なさいね。」 かっこう 「もういいんだよ。」 と見つめていた。私はその目を避けるような恰好をしなが 「私ね、あのとぎ他のことを言おうとしていたんだけれどら、彼女の上に跼みかけて、その額にそっと接吻した。私 はす : つい、あんなことを言ってしまったの。」 は心から羞かしかった。 「じゃ、あのとき何を言おうとしたんだい ? 」 「 : : : あなたはいっか自然なんそが本当に美しいと思える のは死んで行こうとする者の眼にだけだと鵬しゃ 0 たこと とうとう真夏になった。それは平地でよりも、もっと猛 があるでしよう。 : : : 私、あのときね、それを思い出した烈な位であった。裏の雑木林では、何かが燃え出しでもし せみ たかのように、蝉がひねもす啼き止まなかった。樹脂のに の。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて : : こそう言いながら、彼女は私の顔を何か訴えたいようにおいさえ、開け放した窓から漂って来た。夕方になると、 、・、レコンまで・ヘッ 見つめた。 戸外で少しでも楽な呼吸をするために / ′ ドを引き出させる患者達が多かった。それらの患者達を見 その言葉に胸を衝かれでもしたように、私は思わず目を 伏せた。そのとき、突然、私の頭の中を一つの思想がよぎて、私達ははじめて、この頃俄かにサナトリウムの患者達 った。そしてさっきから私を苛ら苛らさせていた、何か不の増え出したことを知った。しかし、私達は相かわらず誰 ようや 確かなような気分が、漸く私の裡ではっきりとしたものににも構わずに、二人だけの生活を続けていた。 なり出した。 ・「そうだ、おれはどうしてそいつに気が この頃、節子は暑さのためにすっかり食慾を失い、夜な つかなかったのだろう ? あのとき自然なんそをあんなにどもよく寝られないことが多いらしかった。私は、彼女の 美しいと思ったのはおれじゃないのだ。それはおれ達だっ昼寝を守るために、前よりも一層、廊下の足音や、窓から はちあぶ たのだ。まあ言って見れば、節子の魂がおれの眼を通し飛びこんでくる蜂や虻などに気を配り出した。そして暑さ うち ふう こ・こ
115 風立ちぬ 彼女は顔をし持ちらめながら、そんな私の揶揄を素直「こ 0 ちへ来てあんまり何もせずにしま 0 たから、僕はこ に受け入れた。 れから仕事でもしようかと考え出しているのさ。」 「こんどはお父様がいらっしたって知らん顔をして居てや「そうよ、お仕事をなさらなければいけないわ。お父様も るわ。」 それを心配なさっていたわ。」彼女は真面目な顔つきをし て返事をした。「私なんかのことばかり考えていないで 「それがお前に出来るんならねえ : : : 」 そんな風に冗談でも言い合うように、私達はお互に相手 の気持をいたわり合うようにしながら、一緒になって子供「いや、お前のことをもっともっと考えたいんだ : : : 」私 らしく、すべての責任を彼女の父に押しつけ合ったりしはそのとき咄嗟に頭に浮んできた或る小説の漠としたイデ 工をすぐその場で追い廻し出しながら、独り言のように言 そうして私達は少しもわざとらしくなく、この一週間のい続けた。「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだ 出来事がほんの何かの間違いに過ぎなかったような、気軽よ。それより他のことは今のおれには考えられそうもない な気分になりながら、いましがたまで私達を肉体的ばかりのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、 皆がもう行き止まりだと思っているところから始って でなく、精神的にも襲いかかっているように見えた危機 いるようなこの生の愉しさ、 そう云った誰も知らない を、事もなげに切り抜け出していた。少くとも私達にはそ う見えた。 ような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なもの に、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分る 或る晩、私は彼女の側で本を読んでいるうち、突然、そだろう ? 」 たたす れを閉じて、窓のところに行き、しばらく考え深そうに佇「分るわ。」彼女は自分自身の考えでも逐うかのように私 んでいた。それから又、彼女の傍に帰った。私は再び本をの考えを逐っていたらしく、それにすぐ応じた。が、それ ゆが 取り上げて、それを読み出した。 からロをすこし歪めるように笑いながら、 「どうしたの ? 」彼女は顔を上げながら私に問うた。 「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」 むぞうさ あしら 「何んでもない。」私は無雑作にそう答えて、数秒時本のと私を軽く遇うように言い足した。 ようす 方に気をとられているような様子をしていたが、とうとう私はしかし、その言葉を率直に受取った。 「ああ、それはおれが好きなように書くともさ。 私はロを切った。 こ 0 とっさ 、刀
る階段を昇ろうとして機械的に足を弛めた瞬間、その階段も、夕方には再び元の山々へ立ち戻って来るかと見えた。 の一つ手前にある病室の中から、異様な、ついぞそんなの私は、私達が共にした最初の日々、私が節子の枕もとに からき はまだ聞いたこともないような気味のわるい空咳が続けさ殆んど附ききりで過したそれらの日々のことを思い浮べよ まに洩れて来るのを耳にした。「おや、こんなところにもうとすると、それらの日々が互に似ているために、その魅 患者がいたのかなあ」と思いながら、私はそのドアについ力はなくはない単一さのために、殆んどどれが後だか先き だか見分けがっかなくなるような気がする。 ている No.17 という数字を、ただ・ほんやりと見つめた。 と言うよりも、私達はそれらの似たような日々を繰り返 しているうちに、いっか全く時間というものからも抜け出 してしまっていたような気さえする位だ。そして、そうい こうして私達のすこし風変りな愛の生活が始まった。 節子は入院以来、安静を命じられて、ずっと寝ついたぎう時間から抜け出したような日々にあっては、私達の日常 りだった。そのために、気分の好いときはっとめて起きる生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでと ようにしていた入院前の彼女に比べると、かえって病人らは全然異った魅力を持ち出すのだ。私の身近にあるこの微 しく見えたが、リ 男に病気そのものは悪化したとも思えなか温い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手を った。医者達もまたすぐ快癒する患者として彼女をいつもとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたと 取り扱っているように見えた。「こうして病気を生捕りにきどき取り交わす平凡な会話、ーーそう云ったものを若し じようだん してしまうのだ」と院長などは冗談でも言うように言った取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような りした。 単一な日々だけれども、ーーー我々の人生なんぞというもの 季節はその間に、 いままで少し遅れ気味だったのを取りは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささや 戻すように、急速に進み出していた。春と夏とが殆んど同かなものだけで私達がこれほどまで満足していられるの うぐいす 時に押し寄せて来たかのようだった。毎朝のように、鶯やは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と かんこどりさえず 閑古鳥の囀りが私達を眼ざませた。そして殆んど一日中、云うことを私は確信して居られた。 周囲の林の新緑がサナトリウムを四方から襲いかかって、 それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、彼女がと 病室の中まですっかり爽やかに色づかせていた。それらのきおり熱を出すこと位だった。それは彼女の体をじりじり カ私達はそうい 日々、朝のうちに山々から湧いて出て行った白い雲まで衰えさせて行くものにちがいなかった。・ : ゆる ぬる なま
う日は、いつもと少しも変らない日課の魅力を、もっと細っていたんだ。」 しに、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味をこっそり「本当にそうかも知れないわね。」彼女はそう私に同意す 偸みでもするように味わおうと試みたので、私達のいくぶるのがさも愉しいかのように応じた。 ん死の味のする生の幸福はその時は一そう完全に保たれたそれから私達はしばらく無言のまま、再び同じ風景に見 入っていた。・ : カそのうちに私は不意になんだか、こうや 程だった。 ってうっとりとそれに見入っているのが自分であるような ぼら・ばく そんな或るタ暮、私は・ハルコンから、そして節子はペッ自分でないような、変に茫漠とした、取りとめのない、そ してそれが何んとなく苦しいような感じさえして来た。そ トの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない 夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのとき私は自分の背後で深い息のようなものを聞いたよう カそれがまた自分のだったような気もされ のが、半ば鮮かな茜色を帯びながら、半ばまた不確かなよな気がした。・ : ねずみいろ うな鼠色に徐々に侵され出しているのを、うっとりとしてた。私はそれを確かめでもするように、彼女の方を振り向 眺めていた。ときどき思い出したようにその森の上へ小鳥いた。 うぶっせん たちが抛物線を描いて飛び上った。ーーー私は、このような「そんなにいまの : : : 」そういう私をじっと見返しなが ら、彼女はすこし嗄れた声で言いかけた。が、それを言い 初夏の夕暮がほんの一瞬時生じさせている一帯の景色は、 ためら すべてはいつも見馴れた道具立てながら、恐らく今を措いかけたなり、すこし躊躇っていたようだったが、それから てはこれほどのれるような幸福の感じをもって私達自身急にいままでとは異 0 た打棄るような調子で、「そんなに にすら眺め得られないだろうことを考えていた。そしてずいつまでも生きて居られたらいいわね」と言い足した。 っと後になって、いっかこの美しいタ暮が私の心に蘇つ「又、そんなことをー」 て来るようなことがあったら、私はこれに私達の幸福その私はいかにも焦れったいように小さく叫んだ。 ち ものの完全な絵を見出すだろうと夢みていた。 「御免なさい。」彼女はそう短く答えながら私から顔をそ 風「何をそんなに考えているの ? 」私の背後から節子がとうむけた。 いましがたまでの何か自分にもの分らないような気分 とうロを切った。 「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すが私にはだんだん一種の苛ら立たしさに変り出したように ようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思見えた。私はそれからもう一度山の方へ目をやったが、そ あかねいろ よみがえ ごめん
とら わしげに引きのばしていた。そのうち彼女が急に顔を上げことはないでしよう。まあ、一二年山へ来て辛抱なさるん て、私をじっと見つめたかと思うと、それを再び伏せながですなあ」と病人達に言い残して忙しそうに帰ってゆく院 ら、いくらか上ずったような中音で言った。「私、なんだ長を、私は駅まで見送って行った。私は彼から自分にだけ か急に生きたくなったのね : : : 」 でも、もっと正確な彼女の病態を聞かしておいて貰いたか それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足しったのだった。 た。「あなたのお蔭で : : : 」 「しかし、こんなことは病人には言わぬようにしたまえ。 ツアタア 父親にはそのうち僕からもよく話そうと思うがね。」院長 はそんな前置きをしながら、少し気むずかしい顔つきをし それは、私達がはじめて出会ったもう二年前になる夏のて節子の容態をかなり細かに私に説明して呉れた。それか 頃、不意に私のロを衝いて出た、そしてそれから私が何とらそれを黙って聞いていた私の方をじっと見て、「君もひ いうこともなしに口ずさむことを好んでいた、 どく顔色が悪いじゃよ、 オしか。ついでに君の身体も診ておい てやるんだったな」と私を気の毒がるように言った。 風立ちぬ、いざ生きめやも。 駅から私が帰って、再び病室にはいってゆくと、父はそ という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっのまま寝ている病人の傍に居残って、サナトリウムへ出か くりと私達に蘇ってきたほどの、 云わば人生に先立ける日取などの打ち合わせを彼女とし出していた。なんだ った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切なか浮かない顔をしたまま、私もその相談に加わり出した。 たの いまでに愉しい日々であった。 「だが : : : 」父はやがて何か用事でも思いついたように、 私達はその月末に八ヶ岳山麓のサナトリウムに行くため立ち上がりながら、「もうこの位に良くなっているのだか の準備をし出していた。私達は、一寸した識合いになってら、夏中だけでも行っていたら、よかりそうなものだが いる、そのサナトリウムの院長がときどき上京する機会をね」といかにも不審そうに言って、病室を出ていった。 捉えて、其処へ出かけるまでに一度節子の病状を診て貰う 一一人きりになると、私達はどちらからともなくふっと黙 ことにした。 り合った。それはいかにも春らしいタ暮であった。私はさ 或る日、やっとのことで郊外にある節子の家までその院つきからなんだか頭痛がしだしているような気がしていた 長に来て貰って、最初の診察を受けた後、「なあに大した が、それがだんだん苦しくなってきたので、そっと目立たぬ よみがえ ちょっと