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検索対象: 現代日本の文学 20 堀辰雄集
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1. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ばかりをしていたのだったが、或夕方も私がそんな端近やっと泣くのを堪えているらしかった。 くでいつまでも・ほんやりしていると、後ろから道綱が気づ みどう かわしそうに「もうおはいりになりませんか」と私に声を五日ばかりで身が浄まったので、また私は御堂に上っ かけた。子供心にも私に物をあんまり深く思わせまいとすた。ずっと来ていて下すった伯母もその日お帰りになって るのだろう。しかしもう少しこうして居たいと思って、そ往かれた。その車がだんだん木の陰になりながら見えなく ぎやくじよう たたす のまま私がじっとしていると、再び道綱が「何だってそんなって往くのをじっと見送って佇んでいるうちに、逆上で な事をなすって入らっしやるのですか。お体にだってお悪もしたのだろうか、私は急に気もちが悪くなってひどく苦 やまごも くはありませんか。それに、まろはもう睡くってたまりましいので、山籠りしていた禅師などを呼びにやって加持し ねんす せんから」と言いかけるので、私はついそんな子供にまて貰った。タぐれになる頃、そんな人達が念誦しながら加 で、まるで自分自身に向って言いでもするように、「お前持してくれているのを、ああ溜まらないと思って聞き入り の事だけが気になって、こうして長らえているのだけれどながら、年少の折、よもやこんな事が自分の身に起ろうなど あま 」と言い出した。「どうしたら好いのだろうね。尼にとは夢にも思わなかったので、そうなったならどんなだろ でもな 0 たら一番好いのかしら。この世に居なくな 0 てしうなどと半ばいもの見たさに丁度このような場合を想像 まうよりか、そうでもして生きていたら、お前にしたってに描いて見たことがあったが、いまその時の想像に描いた お母あ様の事が気にかかればすぐ会いにも来られるし、そすべての事が一つも違わずに身に覚えられて来るようなの あきら れでいてあとはもうこの世に居ないものだと諦めてもいらで、何だか物の怪でも憑いて、それが自分にこんな思いを れるでしよう。 そうやって尼になったって、お前のおさせているのではないかとさえ私は思わずにはいられない 父う様さえ本当に頼りになるのなら、お前の事は少しも心位だった。 配は入らないのに、それがどうにももどかしいような気が するので、こうやって物思いばかりしているのだけれどそれほど、まるで何かに憑かれでもしたかのように、私 : 」と、ひとりごとのように言い続けているうちに、ふが苦しみながら山に籠っているのを、京では人々が思い思 とこんな言葉が、かわいそうに、この子をどんなに苦しめ いにああも言いこうも言っているようだし、のみならず、 うわさ ているのだろうと気がついて、私は突然言うのを止めた。 この頃では自分が尼になったというような噂までし出して 思ったとおり、道綱はもう返事もできない位、私の背後で いるらしかったけれど、私は何を言われようとも構わずに こら

2. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ら仰やると、あの子も障子の向うでくすくす笑い出してい 大門を出ると、あの方も同じ車に乗って来られて、道すた。それを聞くと、私までもつい一しょになっておかしい がら、いろいろ人を笑わせるような事ばかり仰やって、 、ような気もちになりかけていたが、ふとそんな自分に気が た。けれども、私は物も言う気にはなれなかった。一しょ つくが早いか、それがいかにも自分でも思いがけないよう わらいか に乗っていた道綱だけ、ときどき笑を噛み殺しながら、そな気がしながら「私と云うものはたったこれつきりだった れに内気そうにお答えしていた。 のかしらん」と思わずにはいられなか 0 た。・ はるばると乗 0 て、や 0 と家に着いたのは、もう亥の刻その夜も更けて、もう真夜中近くなりかかった頃、あの かたふさが にもなっていた。 方が急にお気づぎになったように「どちらが方塞りにあた るか」と仰やられ出したので、数えて見ると、丁度此方が 京では、昼のうちから私の帰る由を言い置かれてあった塞がっていた。「どうしようかな」と、あの方もお当惑な ちりはら やりど と見え、人々は塵掃いなどもし、遣戸などもすっかり明けすったように仰やって、「ともかくも、一緒に何処かへ移 うなが 放してあった。私は渋々と車から降りた。そうして心もちろうじゃないか」と私をお促しなさるけれど、私は打ち臥 も何だか悪いので、すぐ几帳を隔てて、打ち臥しているしたぎり、まあ、こんな事ってあるものかしらと、胸のつ と、其処へ留守居をしていた者がひょいと寄ってきて「瞿ぶれるような思いに身を任せながら、しばらくは返事も出 麦の種をとろうとしましたら、根がすっかり無くなってお来ないほどになっていた。それから私はようやっとの思い くれたけ りました。それから呉竹も一本倒れました、よく手入れをでロを開きながら「また他の日にいらっしゃいませ。ほん させて置きましたのですがーーー」などと私に言い出した。 とうに方がお明けになってから入らっしやると好かったの 日こんなときに言わずとも好い事をと思って、返事もしずにですのに」と諦め切ったように言った。あの方も、とうと ういると、睡 0 ていられるのかと思 0 ていたあの方が耳ざとう外にしようがなさそうに「例の面白くもない物にな 0 ろくそれを聞きつけられて、障子ごしにいた道綱に向ってこ、 ナカ」とぶつぶつ言われながら、真夜中近くをお帰りにな そむ か「聞いているか。こんな事があるよ。この世を背いて、家って往かれた。そういうあの方の後ろ姿は、私の心なし だい を出てまで菩提を求めようとした人にな、留守居のものが か、いつになくお辛そうにさえ見えた。 何を言いに来たかと思うと、瞿麦がどうの、呉竹がどうの 翌朝、すぐ御文をおよこしになった。その御文も「ゆう と、さも大事そうに聞かせているそ」とお笑いになりながべは夜も更けていたのでひどくつらかったぞ。そちらはど コロ なで かた

3. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

をしめつけられるような心もちで、それに時までもじっ ってしまったが、そう、何でも五月の二つあった或年の事 うるう と見入っていた。 そんな事さえも、その日頃にはとかである。その閏五月には雨が殆ど絶え間もなしに降り続 く有りがちなのであった。 いていた。そうしてその月末から、どうしたのか、私は何 処と云うこともなしに苦しくって溜まらなかった。もうど そういう一方に、あの坊の小路の女のところでは子供がうなったって好いと思っている自分の事ではあるし、そん 生れるとか言って大騒ぎをしていたらしかったが、その頃な命をさも惜しがってでもいるようにあの方に見られたく からどう云うものか、あの方はあんまりその女のもとへははないと思って、私は痩せ我慢をしていたが、側の者たち うわさ からしやき お出にならなくなったとか云う噂だった。その女の事をがいろいろと気づかって、しきりに芥子焼なんぞという護 憎い憎いと思いつめていた時分に「いつまでも死なせずに摩なども試みさせるのだけれど、一向その効力はないのだ 置いて私の苦しみをそっくりそのまま味わせてやりたい った。 そうやって私がひどく苦しみ続けている間も、 きんしんちゅう ものだ」と思っていた通りに、すべての事がなって往きそあの方は謹慎中だからと言われて一度だって御見舞には来 おやしき うだった上、その生れたばかりの子供までが突然死んだとて下さらなかった。何でも新しい御邸をおっくりなさると 聞いた時には、「まあ何ていい気味だろう。急にそんなに かで、そちらへ毎日のようにお出になるついでに、ちょ なってしまわれて、どんな心もちがしているかしら。私のっとお立寄りになっては、「どうだ」などと車からもお下 苦しみよりかいま少し余計に苦しんでいる事だろう」などりなさらずに御言葉だけかけていらっしやるきりだった。 と考えて、本当に私は胸のうちがすつばりとした位だっそんなような或物悲しく曇ったタ暮に、私がすっかり気 こんな人らしくもない心の中まで此処に書きつけ力も衰え切っているところへ、そちらからお帰りの途中だ はす るのは、ちょっとためらわれもしたけれど、こう云うとこといわれて、あの方は蓮の実を一本人に持たせて、「もう かえ あそこ ろに反って生き生きとした人の心の姿が現われているかと暗くなったので寄らないけれど、これは彼処のだから御 も思えるので、この私と云うものをすっかり分かって貰う覧」とことづけて寄こされた。私は只「生ぎているのかど ためには、やはりそう云うものまで何もかも私はこの日記うかも分かりません程なのでーー」とだけ返事をやって、そ につけて置きたいのである。 んな蓮の実なんそは見る気にもなれずに、そのまま苦しそ うに臥したきりでいたが、そのような大そうお見事らしい むな さて、そんな事のうちに数年と云うものは空しく過ぎ去御邸だって、そのうち見せてやろうなどと仰やって下すっ こ 0 まち

4. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

以上の雨にだって、御いといなさらずにいらしったものでまでも吹ぎ加わって来たので、あの呉竹はどうなったかし なみだ すのに」とすこし泪ぐんで応えた。私はじっと無言のままらと思って見やると、もうそれは二三本傾いてしまってい あまま た。早く元のようにしてやりたいと思いながら、雨間を待 でいたが、そのうちにふいと何か熱いものが頬を伝い出し たのに気がついて、覚えず「思ひせく胸のほむらはつれなっているうちに、しかしこう云う自分だって何時その行末 くて涙をわかすものにざりける」と口を衝いて出たままをはこんな思いがけないような事になるかも知れないのに ロの中で繰り返し繰り返ししていた。そうしてとうとうそと、またしても例の物思いをし出そうとしている自分に気 ふしど の儘、そんな臥所でもない所で、私はその夜はまんじりとがつくと、私はもうそんな自分をば勝手に一人で苦しませ るために、さっきの呉竹がますます傾き出しているのを もせずに過ごしてしまった。 も、わざとそのままにさせて置いた。 その四 この頃あの方はずっと近とか云う女のもとへお通い詰 くれたけ 去年の春、呉竹を植えたいと思って人に頼んでおいためだと云う事をお聞きしていた。 そんな或日の事、あの方から珍らしく御消息があって ら、それから一年も立ったこの二月のはじめになって漸っ しえ、もう少しも「私の心の怠りでもあるが、いま忙しい事も忙しいのだ。 と「さし上げますから」と言ってきた。「い、 こわ 長らえたいとは思えなくなりましたこの世に、何でそんな夜分でもと思うけれど構わないか。何だかお前が怖いよう 心ないような事をして置けましよう」と私がことわらせるな気もするがーーこなどと書いておよこしになった。私は ぎようきぼさっ と、「まあ、大へん狭いお心ですこと。あの行基菩薩は行「只今気分が好くありませんので何も申し上げられません」 日末の人の為にこそ実のある庭木はお植えなされたと申すでと素っ気ない返事をやったが、そのすぐ跡からそんな返事 の うはありませんか」などと言い添えて、その木を送ってよこをやった事でもって自分から絶え入るような思いをしてい ると、その夜、あの方はいかにも平気そうな御様子をなす ろしたので、つい私もそれに気もちを誘われるがままに、 か「そう、此処はこの上もなくふしあわせな女の住んでいたってお見えになった。ほんとうに悔しいと思ってロも利か じようだん 所だと、見る人は見るがいい」と思って、胸を一ばいにさずにいると、あの方は悪びれもせずに常談ばかりお言いに なっていらしった。それが私にはとても辛くて辛くて、と せながら、それを植えさせた。 それから一一三日して、雨がはげしく降り、そのうち東風うとうこの日頃ずっと我慢しつづけていた事をお訴えし出

5. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

あきら のですか、確かに覚えて居りますとも。今こそこう心なら佐もとうとうお諦めになったように、しばらくまた他の物 ずも疎遠にいたして居りますがーーー」などとお答えなされ語などし出されていたが、それももう途絶えがちで、夕方 て、それからそれへとその昔の頃の事を一しょになって思になると、お帰りになって往かれた。 カそのう い出しながら、さまざまな物語を続けていた。・ : ちに私がふいと物を言いかけて、何だか急に声が変になり そういう兵衛佐などにお目にかかるにつけ、ふいと京恋 そうな気がしたので、そのまま少しためらっていると、相手しさを溜らないほど覚えたが、それをやっと抑えつけな にもそれがおわかりになったものと見える。すぐには物もがら、ただお懐しそうに昔物語をし合っただけで、つれな ルやられずにいたが、や 0 と兵衛佐はロを開かれて「おく京〈お帰ししてからと云うもの、私が何とはなしに気の もっと 声までがそうお変りなされるのも尤もの事とは思います遠くなるような思いで数日を過ごしていたところへ、京で が、もうそんな事はお考えなさいますな。このまま殿がお留守居をしている人の許から消息があった。「今日あたり 絶えなされるなんという事があるものですか。どうしてそ殿がそちらへ御迎えに入らっしやるように伺いました。 う御ひがみなされるのか、私共にはわかりませぬ。殿もこ この度もまた山をお出なさらないようですと、世間でもあ おお ちらへ参ったらようく言って聞かせてやって呉れなどと仰まり強情のように思うでしようし、それに後になってか せられていました」と私を慰めるように言われる。「何もら、もし山をお出なさりでもしたら、それこそどんなに物 あなた様にまでそう云う御心配をしていただかなくとも、笑いの種になりますことやら」などと言ってぎた。そんな うわさ いずれそのうち此処からは出るつもりなのですけれど世間の噂なそどうだって構いはしないのだ、いくらあの方 」と私がいつになくつい気弱な返事をすると、「それなが御迎えに入らしったって自分で出たい時にならなければ ら同じ事ですから、今日お出になりませんか。私共もこの出やしないから、と私は自分自身に向って言っていた。丁 じようらく まま御供いたしましよう。何よりもまあ、この大夫がとき度その日、私の父が田舎から上洛して来たが、京へ著くな ろどき京へ出られては、日さえ傾けばまた山へお帰りを急がりその足ですぐやって来て下すった。そうしてさまざまな かれるのを、はたで見ていましても本当にお気の毒なようで物語をし合った末、父はつくづくと私を御覧になりながら 」などと道綱の事まで持ち出して切に口説かれるけ「そうやって暫らくでもお勤をするが好いと私も思ってい れど、私はもう何か他の事でもじっと思いつめ出したようたが、大ぶ弱られたようだな。もうこの上はなるべく早く に、返事もろくろくしないようになった。そのうちに兵衛出られた方が好いだろう。今日出る気があるなら一緒に出

6. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

「こういう高原の木は、どこか孤独の相のようなものを帯「たしか真昼の牧場の絵で、アルプスが遠く見え、前のほ うに羊飼いの女の立っているような構図だったとおもいま びているね。」僕はふと君にそう言ってみたが、それだ すが。 けではまだなんだか言い足りないような気がした。 それから僕たちはその儘、草原の雪のうえを歩いてみて「ああ、それで思い出した。なんだかこう妙にねじくれた ・ : 」僕はそ いたが、なかなか道がはかどらない。そこで、またさっき白樺の木にその女がもたれているんだろう。 この美術館ではエル・グレコの絵しか見て来なかったよう の街道のほうへ出ることにした。 みると、こんどはその街道をやはり板橋のほうへ向かつな気がしていたが、セガンティニのような特異な絵はやは めやぎ て、一匹の牝山羊をつれた女が、こう、すこし首をうなだり注意して見ていたものと見える。さっき草原に立った木 をなっかしそうに見ながら、何かいまにも思い出せそうで れるようにして歩いてゆく。まだ若い女らしい。 冬の真昼、ときどきまぶしく光っている雪原、風のためまだ思い出せずにいるものが、その殆ど忘れかけていたセ に枝のねじれた樹木、それらのすべてを取り囲んでいる雪ガンティニの絵に描かれた白樺の木とも何か関係のありそ うなことをふいと感じた。だが、それはまだ僕のうちでも の山々、 そういう自然の中からひとりでに生れてきた はっきりとしていない。 ようなその羊飼いの女。 「まるでセガンティニの女みたいだね。」僕はおもわず小 僕たちはその牝山羊をつれた若い女に追いっこうとし て、いそいで泥濘の街道に出て、再び道ばたの雪を拾いな さく叫んだ。「あの首のうなだれ方までそっくりだな。」 くらしき カそんなことをして漸うやっと歩い 「セガンティニは僕はあの倉敷の美術館にあるのしか知らがら歩きはじめた。・ : ている僕たちは、泥濘のなかをも平気で歩いてゆくその牝 ないな。」 君は僕の言葉をそのまま受けいれるにはすこし自信が山羊をつれた女にもずんずん引き離されてしまった。そう なさそうだ。 していつのまにか、また僕たち二人きりにされてしまっ 「そりゃあ知らないといえば、僕だってなんにも知らない れんそう ようなものだがね、ただまあひょいとそんな聯想がうかん そんな調子でいくら歩いていっても、野辺山が原は尽き だんだ。」僕の方でもそんな云いわけをした。「そういえそうもない。もうかれこれ一時間ぐらいは歩いているだろ ば、あそこにもアルプスの絵かなんかあったね。あれはどう。腹もへってきているし、もうおしゃべりをする元気も んな絵だったかな ? 」 なく、一一人とも泥だらけになった靴をただ重そうに運んで こ 0 はらっ のべやま

7. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

」そう言いながら、向いあいに腰かけて、そちら「ほら、あそこに一本。」妻が急に僕をさえぎって山のほ がわの窓のそとへじっと目をそそぎ出した。 うを指した。 「だって、わたしなそは、旅先きででもなければ本もゆっ 「どこに ? 」僕はしかし其処には、そう言われてみて、や くり読めないんですもの。」妻はいかにも不満そうな顔をつと何か白っぽいものを、ちらりと認めたような気がした して僕のほうを見た。 だけだった。 「ふん、そうかな」ほんとうを云うと、僕はそんなことに「いまのが辛夷の花かなあ ? 」僕はうつけたように答え こ 0 は何も苦情をいうつもりはなかった。ただほんのちょっと だけでもいし 、そういう妻の注意を窓のそとに向けさせ「しようのない方ねえ。」妻はなんだかすっかり得意そう て、自分と一しょになって、そこいらの山の端にまっしろだった。「いいわ。また、すぐ見つけてあげるわ。」 こぶし な花を簇がらせている辛夷の木を一二本見つけて、旅のあ が、もうその花さいた木木はなかなか見あたらないらし われを味ってみたかったのである。 かった。僕たちがそうやって窓に顔を一しょにくつつけて そこで、僕はそういう妻の返事には一向とりあわずに、 眺めていると、なかいの、まだ枯れ枯れとした、春あさ ただ、すこし声を低くして言った。 い山を背景にして、まだ、・ とこからともなく雪のとばっち 「むこうの山に辛夷の花がさいているとさ℃ちょっと見たりのようなものがちらちらと舞っているのが見えていた。 いものだね。」 僕はもう観念して、しばらくじっと目をあわせていた。 「あら、あれをごらんにならなかったの。」妻はいかにもとうとうこの目で見られなか 0 た、雪国の春にま 0 さきに うれしくってしようがないようにの顔を見つめた。 咲くというその辛夷の花が、いま、どこその山の端にくっ 「あんなにいくつも咲いていたのに : きりと立っている姿を、ただ、心のうちに浮べてみてい 「嘘をいえ。」こんどは僕がいかにも不平そうな顔をした。 た。そのまっしろい花からは、いましがたの雪が解けなが 「わたしなんそは、 いくら本を読んでいたって、いま、どら、その花の雫のように・ほた。ほたと落ちているにちがいな んな景色で、どんな花がさいているかぐらいはちゃんと知かった。・ っていてよ。 じようるりじ 「何、まぐれあたりに見えたのさ。僕はず 0 と木曽川の方浄瑠璃寺の春 ばかり見ていたんだもの。川の方には : : : 」 うそ

8. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

ことは積りましたけれど、午後から日があたって見る見るの、変な女を見かけたが、なんだか夏とは見ちがえるよう とけてい 0 てしまうので、あんな手紙なんか出してしま 0 な、凄い毛皮の外套を着て、真紅なペレかなんぞかぶ 0 て、気が気でありませんでしたわ。 でも、まだあそこて、気どった風に歩いていたが、こんな冬の村に一人きり だんろ いらには少しばかり残っていますの。」 で何をしているんだろう ? 」僕は煖炉で体が温まると、突 もう薄暗くなり出している林の奥のほうにまだいくらか然その不思議な女のことを思いながら言った。 もよう 残雪が何かの文様のようにみえるのを、万里子さんはすこ 「では、きようまた見にきたのでしようか。これで三度目 し気まり悪そうにして示した。 ですわ。」万里子さんは急に目を大きくして、頸巻をした 僕はもうそんなものはどうでもよかったが、すっかり葉まま、煖炉の火を掻きまわしていた君のほうを見た。 が落ちて林の中がどこまでも透いてみえたりするのを珍ら「なんだかよく来るね。」君はやっと手を休めながらその しそうに見ている君におっきあいして、その儘しばらく話に加わった。「このすこし向うに、十一月ごろまでいた 三人でそこに立って見ていた。そのうち小屋のかげからポ独逸人の一家がいてね、それがクリスマス頃になったらま プが飛び出してきた。 た来るからと云って、一時引き上げていったのさ。 そ 「ボ・フ、駄目よ。 : こ万里子さんはその人なっこい犬がの人達がまだ来ていないかどうかと、そうやってもう二週 泥足でもって僕のほうに飛びかかろうとするのを、すばや 間ぐらいも前から、毎日のようにその女が様子を見にくる く捕まえた。 のだよ。二三度、僕たちのところにも立ち寄って、何か心 「よう。」君が小屋の中から首だけ出して僕たちに声を配そうに様子をきくので、こっちでもその度に相手になっ かけた。「何をしているんだい。寒いだろう。」 てやっていたが、問い 合わせの手紙でも出したらどうかと 「こないだの雪をお見せしていますの。」万里子さんはポ云うと、ただ首をふっているきりなのだ。もうその家では ・フがもがくのを漸っとおさえつけながら言った。 来ないことが分かっているのだ。それだのにこの頃は一日 「雪なんぞはもうありゃあしないだろう。」寒がりの君のうちに二度も三度もやって来るんだ。い つもあの毛皮の くびまき はうちの中でも頸巻をしたままで、小屋から出て来ようと外套をきて、紅いペレをかぶって。 そうしてその度 もせずに僕たちを促した。「早くはいりたまえ。」 に、僕たちの家の中をじいっと見てゆくんだ。それをまた 万里子が薄気味わるがってね。 「さっきここの林のいりぐちで、クルッといったかな、あ「結局、一人でさびしくってしようがないんだな。こっち

9. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

うだったな。はやく精進明けをしなさい。大夫も大ぶ窶れの男が帰 0 てぎて「今しがた装束をお解ぎにな 0 て御 ていたようだから」と、いつもに似ずお心がこもっているたちもお引取りになりました」と告げ知らせた。 ようだった。こうやってまでして、山から下りたばかりの その翌朝、道綱が「どうして入らっしやらなかったのか 私をおいたわりになろうとなすって居られるあの方のお心伺って参りましよう」と自分から言って出かけて往った。 ばえも、そんな生な物のために、しばらく私からお遠が、すぐ戻 0 て来、「ゆうべは御気分がお悪か 0 たのだそ のきになって入らっしやる間に、又昔のようにつれなくおうです、急にお苦しくなられたので、伺えなくなったと仰 なりになられそうな事ぐらいは、私にもよく分かってい やっておられました」と私に言うのだった。そんなお心の た。しかし私には、それをそのままに任せて置くよりしか見え透くような御言葉なら、いっそ何にも聞いて来なかっ たがないのだった。 た方がよかった位だったのに。同じ御返事にしたって、も っと私の気もちをいたわって下さるようなお言葉がお言い になれないものなのかしら。せめてもの事、「急に差し障 その七 りが出来たので往かれなくなってしまった。若しか都合が むな そう云うあの方の御物忌のお果てなさる日を私は空しくついたらすぐ往こうと思っていたので、車の用意もそのま お待ちしているうちに、やがて七月になったが、或日の昼まにさせて置いたのだがーーー」なんそとでも言って下され 頃に「やがて殿がお出になる筈です、此方におれとの仰ば、まだしも私の気もちも好いものを。 さむらい せでした」と言って、侍どもがやって来た。こちらの者矢っ張自分の思ったとおり、少しはお心が変られるのか も立ち騒いで、日頃から取り乱してあった所などをあわてなと考えたのはあの時の私の考え過しで、あの方は相変 て片付け出していた。私はそれを何かしら心苦しいようならず以前のあの方だけだったのらしい。そうして私だけが 思いで見ていた。が、なかなかお見えにならないままに、 そう、私は少くとも、あの山から帰って来てからは、 日が暮れてしまったので、来ていた侍どもも「御車の装束もう昔のような私ではなくなりかけているのだ。・ などもすっかりなすってしまわれたのに、どうして今にな その日もまた、私がそんな考えをとつおいっし出してい ってもお見えにならないのかしら」などと不思議そうに言たところへ、西の京にお住いになって居られるあの方の御 い合っていた。そのうちにだんだん夜も更けて往くばかり妹から御文があった。見れば、まだ私があれからずっと山 だったが、とうとう侍どもが人を見せにやると、その使いに籠っているものとばかりお思いになっていらしって、

10. 現代日本の文学 20 堀辰雄集

「どうして私のところへなぞ入らしったのですか」と云っ 又すぐお帰りになって往かれた。大かた私たちが心細がっ た顔をしたぎり、私が何も言わずにいるものだから、あの ているだろうとさえもお思いにはならないものと見える。 しごと いつも云いわけがましく「この頃は為事が多いのでーーー」方も何だかひどくエ合悪そうにしていらっしやる。まあ、 などと仰やっては入らっしやるけれど、まあちょっとで折角こうしてお出になっていられるのだから、こうばかり よもぎ もこれに目をお留めなすったら、この数知れぬほどな蓬よしていてもと、つい弱気になろうとする自分を、私は一生 りもまさかお為事が多いとは仰やれまいにと、私はわが家懸命に抑えつけて、あの方がいかにも物足らなそうにお帰 の荒れ放題になった庭をいまさらのように見やっては、少りになるがままにさせている。 そんな事ばかり繰り返しているうちに、とうとう或日 し自嘲的な気持にもなって、それがますます荒れ果てるが などはあの方もすっかり気を悪くされたと見え、つと端の ままに任せておいた位だった。 そんな私に向って、「まだお若い身空ですのに、どうし方へ歩み出されてから、幼い道綱をお呼び出しになって何 てそのようにばかりして入らっしやるのですか」と気づかか耳打ちをなすっていらしったが、そのままいつにない怨 っては、熱心に再婚などを勧めてくれる人もあった。それみ顔をなされて出て往かれてしまった。あの子ははいって どこ だのに、あの方はまたあの方で、「おれの何処が気に入ら来るなり、私の前でしくしく泣いている。「どうしたの」 ないのだ」と云った顔つきをなすって、少しも悪びれずにと尋ねて見ても返事もせずにいた。あの方にきっとおれは もう来ないそ、とでも言われたのだろうと思って、それ以 いらっしやるので、本当にどうしていいのやら、私は思い あぐねるばかりだ 0 た。何んとかしてこの胸に余る思いを上尋ねるのは止めて、いろいろ慰めたり応したりしていた おとずれ が、それから何日たっても、あの方からは音信さえもなか つぶさにこの人にも分からせようがものはないかと思えば 記 った。「まさかと思っていたのに、本当にこのままお絶え 思うほど、私はあの方に向っては一ことも物を言うことが 日 なさる気なのかしらん」と不安そうに思いながら、それで の出来ずにしまうのだった。 ろ「今のようにときどき思い出されたように入らっしやるよもまだそれを半ば疑うような気もちで暮らしていると、或 、っその事もうすっかりお絶えになって下すった方日の事、こないだあの方の出て往かれる時に鬢をお洗いに がどんなに好いか知れやしない」などとまで私はその日頃な 0 たの水がそ 0 くりそのままにな 0 ているのにふと ちり 考え出していたものだった。又意地の悪い事にはそんな時気がついた。よく見ると、その水の上にはもう一面に塵が にかぎってあの方がひょっくりお見えになったりする。溜まっていた。「まあ、こんなになるまでーー・」と私は胸 じちょう びん