シャツの男は船ばたに坐りこみ、署長はモーター船の先待 0 ておれ。そういう註文を受けて来たのであります。誰 に立っていた。ちょうどそれで二人の顔の位置の高低が平かが、船でイリコを受取りに来ると思って、あの辺をぐる あなた ぐるまわっておりました。はじめ、貴方のモ 1 ター船を、 均した。青シャツの刑事が . 手帳にメモをとった。 「この船の、船籍はどこだね。」 ィリコの受取人の船かと思っておりました。しかし自分ら ゃない 「山口県柳井町郊外の万里村であります。持主は雲川商会は、誰がこの船のイリコを受取って行ってもよいのです。 であります。」 もし確かな受取証さえ書いてもらえたら、相手は誰だろう つうよう 「荷主は誰だね。」 と痛痒を感じないのであります。船乗でありますから、註 「雲川商会支店であります。山口県大島郡の、大島旧港に文通りの場所まで、積荷を大事に送り届けさえすれば、よ 今度設立された支店であります。」 いのであります。」 じんもん 「君は、荷主かね。」 署長は一と先ず訊問を打ちきると、応急の対策について 「いいや、自分は、この第二ゃなぎ丸の船員であります。中田老人の意向をうかがった。このモ 1 ター船で、帆掛船 この船の船頭の孫養子であります。マレ 1 軍にいた復員者の船頭たちを本署まで連れて行きたいので、私たちには帆 ざんし であります。」 掛船に乗り移って暫時のあいだ魚釣でもしていてくれない 「船頭は、どこにいるかね。」 かと一一 = ロった。 つくろ 「いまさっきから、胴の間で、積荷の袋の破れたのを繕っ 「それも結構ですな」と老人が言った。「しかし、このモ ております。今年六十一一で、好人物であります。」 1 ター船が本署へ行って来るまでに、ニポシの受取人が船 「乗員は、ほかに何人いるかね。」 を漕いで来たらどうしましようか。私には抵抗力がありま コ一人だけであります。」 すまい。」 「積荷の種類は、何と何だね。」 「その点は、御心配いりません」と署長が言った。「積荷 「イリコであります。千一一百五十袋あります。全部、イリ の見張番には、この青シャツの運転手君を帆掛船に残して コであります。」 置きます。私は自分で運転して行って参ります。ごゆっく 「つまり、大島名産のニポシだね。これが、統制品だとい り、お釣りになっておって下さい。」 とうびよう うことを知っておるだろう。投錨目的地は、どこだ。」 中田老人は私をして帆掛船に乗り移 0 た。船ばたの囲 カイリ 「因ノ島の一ばん南の、とっさきの地蔵岬から一浬の沖で板に両手をかけ、署長にお尻を押しあげてもらいながら、 しり
舫いのロープを足場代りに踏んで乗り移るのである。私もれるまで見送っていた。中田老人は船尾の坐りエ合のいし あぐら それを真似た。青シャツの刑事は「そうだ、大事な物を忘場所に胡坐をかいて、コヅキで釣りはじめていた。この辺 くろだい れておられます」と言って、船室から弁当や果物など持ちりでは当歳の黒鯛や、セイゴ、ペラなどが釣れるそうであ わく かこえさ【・一 へさき 運んでくれた。釣糸の枠や籠や餌なども持って来てくれる。私は舳先に近い船ばたから釣糸を垂らした。青シャッ しばら の刑事は、暫く私の釣る手もとを見ていたが、次に、中田 あく 東の空が朱色に見えた。青シャツの刑事は帆掛船に乗り老人の釣っているのを覗きに行って引返して来た。彼は欠 移ると、胴の間から一人の老船頭を連れ出して来て、モー 伸などはしなかったが、もう退屈しはじめていることが私 ター船の署長に報告した。 にもわかった。 「乗員を連れて来ました。積荷は、確かにイリコの袋であ「さっきの船頭は、弁当を持ってくのを忘れましたね。」 ります。何千袋あるかちょっと見当がっかないですが、船私は釣をつづけながら刑事に言った。「船尾のところに、 の底はイリコの匂で、むんむんしております。」 炊きたての御飯がお釜にはいってるじゃありませんか。さ 「よろしい。」 つき、僕はお釜の蓋をとってみましたが、あれは芝えびの 署長は、年とった船頭とその孫養子という舟子を、モー釜めしですね。あの船頭が、今日じゅうに帰らないとする あたまはちまき ター船に乗り移らせた。年寄の船頭は禿げ頭に鉢巻をしと、腐ってしまいますね。」 ももひき しぎ て、刺子の股引をはき、縞のシャツを細帯でとめて肌ぬぎ「いやあ、彼らは豪勢なものです。だから図に乗って、減 ちゃくちゃ になっていた。孫養子の方は、払いさげの軍袴をはいてい茶苦茶です。腐ったって、平気な顔でしよう」と刑事は不 きげん た。二人ともちょっと浮かぬ顔をしていたが、さほど大事機嫌そうに言った。「第一、彼らは無燈火で航海しておっ ごはん 件とも思わぬ風で、せきたてられないでもおとなしくモ 1 たくせに、船の上で御飯を炊いております。取締りを屁と 島ター船の船室にはいって行った。青シャツの刑事はロープも思っておらんのです。」 ノを解いた。 「常習犯でしようか。」 じぎ 因 「では、後ほどまた」署長は中田老人にお辞儀をして、青「いやあ、我々を屁とも思っておらんのです。いろいろ統 シャツの刑事には「見張に気をつけてくれ」と言って、モ制の規則というものが戦時中に設けられたものですからし けいべっ ーター船の操縦室にはいった。 て、統制の規則を軽蔑しとるんです。それですから自分は 私と青シャツの刑事は、モーター船が岩鼻のかげにかく思うのですが、敗戦後の統制の規則を、統制という文字で こ 0 におい ぐんこ た ごうせ、 のぞ あた
カ 表 カ 左 休 日 本 を 賞 学 文 ニ = ロ 回 第 年 和 昭 本日休診井伏二 ) 本月休診 本日休診 一三ロ 一章をこれにあてている。朽木一二助氏の手紙の全文を 紹介して、次のように云っている ある 「わたくしはこれを読んで大いに驚いた。或いは狂 人の所為かと疑い、或いは何人かの悪謔に出でたらし くも田 5 った。しかし、筆跡は老人なるか如く 文章に も真率な処がある。それゆえわたくしは間に書を作っ て答えた。」 て・ - らめ 鵰外の返事は井伏さんの説は全くの出鰹目だと云う 「筆跡は老人なる ことを懇切に教えたものであった。 か如く」とあるが、そのころ井伏さんは既に老成した 筆跡を持っていたのだろう。「伊沢蘭軒」に引用され た手紙を見るとなかなか立派な文章である。しかし、 てんさく 井伏さんの話によると公表された手紙は鵰外が添削し たもので「てにをは」を変え、語辞を入れ替えるだけ で文章が面目を改める。井伏さんはそれに驚嘆した。井 伏さんの最初の文章の師は鵰外と云えるかもしれない このあと、井伏さんは鵰外の返事を欲しがる級友に 強要されて、鵰外宛にもう一度手紙を出している。朽 木三助氏は死んだと云う手紙である。これに対して鵄 外から丁重な返事が来た。「何ぞ秤らん、数週の後に ふいん 朽木氏の訃音が至った」と鵰外は「伊沢蘭軒」に書い ちな ている。因みに「朽助のいる谷間」の「朽助」と云う 名前は、この朽木一二助から出たのである すて 426
す。密封した甕のを、昨晩、わけてもらったのですが、な穴だらけの帆の向ぎがゆるゆると変って行ぎ、片帆になっ たところで船体が右にまわった。正面は砂浜である。 かなかです。」 「おうい、まっすぐに行けえ。その船、まっすぐに行け 「足がふらっきますから。」 あごひも 署長はそう言って、帽子の顎紐をしめなおして船室からえ。」 りようしゃ とメガホソの声で命令があった。いつの間にか、私たち 出て行った。石崖の上の漁師屋から、柱時計の鳴るのがき こえて来た。四時を打 0 た。私は固唾をのんでいるのに自の船では青シャツの刑事がロープを帆掛船のに投げか 分で気がついた。老人は船室の窓硝子を全部あけ放 0 た。けて、そのロープの端を撼まえていた。つまり私たちの船 てんません は、親船に曳かれて行く伝馬船のようなもので、もうエン いきなりモーターが音をたてはじめ、船が進み出て行っ た。青シャツの刑事はメガホンを片手に持ち、片手でハン ジンはとめてあった。静かになったので、帆掛船の舵取と ドルを扱っていた。署長の姿は操縦室のかげにかくれて見白シャツの男が、何か話をしているのがきこえていた。内 のんき 容はわからないが、無駄ばなしでもしているように、呑気 えなか 0 たが、なり光の強い懐中電燈を振りまわしてい はかけぷね るようであった。その光の漸く届いている圏内に、帆掛船そうな話声であった。 の横腹が見え、帆が見えたり船尾の舵が見えたりした。私「おういその船、帆をおろせえ。とまれえ、とまれえ。」 たちの船は、一艘の帆掛船の進んで行くまわりを急速度で メガホンで呼ぶその声が島に木霊した。帆をおろす万カ の音も木霊した。碇を投げこむ音で私はびつくりさせられ 走りまわっていた。威嚇行進といったようなものだろう。 署長がメガホンで「おういこらあ、その船、おも舵とれた。帆掛船の舳先に書いてある「第二ゃなぎ丸」という文 どな え。おういその船、おも舵とれえ」と怒鳴りつけるのがき字を、私は夜明けの明るみで読みとることが出来た。さほ はんそで こえた。帆掛船の船ばたに、半袖の白シャツをきた男が、 ど大きくない古・ほけた帆掛船である。その船と私たちの船 島署長の懐中電燈の光を浴びて現われた。その男は何やらは一本のロープで舫いして、そのために、私と老人ののそ ノ「違う、違う」というように手を振って見せた。そして船いていた窓は帆掛船の胴腹で塞がれた。私と老人は船尾に 尾の方へ駈けて行くと、その姿を懐中電燈の光が追って行出た。 かじとり き、その男が舵取の男に向って何か告げているような状景署長は「その船の荷主は、誰か。責任者、ちょっとここ が写し出された。私たちの船は速度を落し、その帆掛船と〈顔を出せ」と言 0 て、白シャツの男を船ばたに呼び出し た。署長と白シャツの男の間に訊問と応答が始まった。白 並行に進んでいた。舵取の男は直ぐに帆綱に手をかけた。 か ようや もや ふさ こだま
182 していたが、やがて話がまとまったのか西分の長老格であなどとロぐちに言って拍手した。みな同じ部落の者同士、 る九平老人が「議長」と言った。「はい、九平さん」と議一つところに区分けして集まっていた。 ちゅうぶう 北分の茂十老人は「議長」と言って立ちあがり「西分の 長が発言を許可すると、九平さんは少し中風のように頭を ただいま 絶えず微動させながら「只今の利吉さんの決断は、わたい九平さん、有難いこってす、助かりました。お礼を申しま も気に入りましたけに、西分の人等と相談して、わたいがす。それから甲田はん、利吉さん、すみまへん。私も若い 代りに言いますけんど、だいたい甲田はんがよう言うて下者に喧嘩はすなちゅうてとめておりますが、若い者という うる はりましたもんやと感心しとりまん。甲田はんが言うたのものは、老人のする世話を煩さがって今度の喧嘩になりま で喧にならんのやけんど、もし今晩のような話が北分かした。幸い、甲田はんの代理の杉野巡査はんが、囀賺 らじかにあったら喧嘩ゃ。こないだ、わたい等の西分の若敗で軽くしてくれてすみまへん。西分の怪我人の手当は私 い者が、北分の者に擲られて寝込んでおる手前があんのやの方が負担しますけに、それと水車を動かすには、私の方 が、やつばり正々堂々と話すのがよいのやと思う。困ったより若い者を出しますけに、それともう一つ、水のお礼金 は村の共有財産の方にまわしますけに」といって座につい ときはお互やから、喧嘩を買うのでも売るのでもないが、 わたいも西分の総代として喧嘩はしとうない。そもそも西た。 分の用水の件では、弘化二年の夏から北分とは流血の騒ぎ今度は議長が立って「皆さん有難う。これで解決がっき たけやり があったちゅうもんやで、わたいの祖父の時代に竹槍をもましたが、雨のあるまでの喧嘩でして、北分の茂十さんの 0 て突きあ 0 たこともあるのやし、近年も年ごとに北分と方の寄付金は有用に使い、発動機を購入し、稲の機に 水喧嘩をやりあっとりまんのも、そのためやが、国家非常も幾分まわしますけに」と述べて座についた。 うなが 時に喧嘩は嫌ややから、わたいの方から譲りまんが、こな私は一同の拍手に促されて立ちあがり「皆さん、難事件 いだの喧嘩の若い衆の傷の手当は治療代を北分に頼みまを一瀉千里に解決して下さって感謝します。幸いこれを機 おけ ん。用水の水は桶に入れて水車で北分に入れたげまひょ 会に、多年の水喧嘩の習慣が改まれば何よりと思います」 う。北分が水に困っとるのは西分かて察しまん、水の辛さと謝辞を述べて座についた。 一ばん上席にいた村長が「みなさん、お手を拝借」と言 はお互ゃ。しかし、わたいのところの方にも四分は要りま ったので一同は坐りなおし、シャン、シャン、シャンと手 んよって、六分は北分にあげまひょう」と言って座につい た。北分の水のない人たちは「すんまへん、恩にきるわ」を拍って、みんな「どうも有難う」と口々にいって解散し なく いっしやせんり
ひじ 去ってしまうまでは、屋根の頂上から降りようとはしなか かぎられていました。そういう時に、私は机に肘をついた ありさまなが ったのです。若しこのときのサワンの有様を眺める人があまま、または夜更けの寝床のなかで、サワンの鳴声に答え るならば、おそらく次のような場面を心に描くことがでぎるところの夜空を行く雁の声に耳を傾けるのでありまし るでしよう。 ーーー遠い離れ島に漂流した老人の哲学者が、 た。その声というのは、よほど注意しなければ聞くことが ようや かす 十年ぶりに漸く沖を通りすがった船を見つけた時の有様できないほど、そんなに微かな雁の遠音です。それは聞き を人々は屋根の上のサワンの姿に見ることができたでようによっては、夜更けそれ自体が孤独のためにうち負か ためいき 1 レよ .- っ -0 されてもらす溜息かとも思われて、若しそうだとすればサ サワンが再び屋根などに跳び上らないようにするために ワンは夜更けの溜息と話をしていたわけでありましよう。 ひも は、彼の脚を紐で結んで紐の一端を柱にくくりつけておか はす さら なければならない筈です。けれど私はそういう手荒らなこ その夜は、サワンがいつもより更に甲高く鳴きました。 ほとん とを遠慮しました。彼に対する私の愛着を裏切って、彼が殆ど号泣に近かったくらいです。けれど私は、彼が屋根に 遠いところに逃げ去ろうとはまるで信じられなかったから登った時にかぎって私のいいつけを守らないことを知って です。私は彼の羽根を、それ以上に短くすれば傷つくほど いたので、外に出てみようとはしませんでした。机の前に 彼の翼の羽根を短く切 0 ていたのです。あまり彼を醗に坐 0 てみたり、早く彼の鳴声が止んでくれれま、 。しいと願っ とりあっかうことを私は好みませんでした。 たり、明日からは彼の羽根を切らないことにして出発の自 ただ私は翌日になってから、サワンを叱りつけただけで由を与えてやらなくてはなるまいなどと考えたりしていた たと ものすご 1 しこ 0 のです。そうして私は寝床に入ってからも、譬えば物凄い ワ「サワン ! お前、逃げたりなんかしないだろうな。そん風雨の音を聞くまいとする幼児が眠る時のように、蒲団を 額のところまでかぶって眠ろうと努力しました。それ故サ のな薄情なことは止してくれ。」 上私はサワンに、彼が三日かかっても食べきれないほど多ワンの号泣は最早きこえなくなりましたが、サワンが屋根 えさ 根量な餌を与えました。 の頂上に立って空を仰いで鳴いている姿は、私の心のなか から消え去りはしなかったのです。そこで私の想像のなか サワンは、屋根に登って必ず甲高い声で鳴く習慣を覚えに現われたサワンも甲高く鳴き叫んで、実際に私を困らせ ました。それは月の明るい夜にかぎって、そして夜更けにてしまったのであります。 かんだか
井伏鱒一一文学アルバム 3 著者近影昭和 45 年 7 月 29 日 井伏さんの「肩車」と云う随筆は次のよう な文章で始まっている。「私の父は私の六つ のときに逝くなった。生きていればもう七十 近くの老人である。仮りに私はいま往来で行 き会っても、その顔を見忘れてはいないだろ 、つとい、つ自信がある顔かたちだけでなく、 かっ・ : フ 後ろ姿の好や感じなども覚えている。ただ 一つどうしても思い出せないのは声である」 ( 昭和十年 ) 「肩車」は夢のなかで小さな子供に戻った 井伏さんが父親の肩に乗せられるのだが、夢 のなかにしろその気分は格別であったろう。 三十そこそこで逝くなった父郁太氏は、井伏 さんの話によると平凡な田舎地主だったと云 うことだが、当時にあっては新奇を好むモダ 評伝的解説 沼丹 417
いにく雨が降り出した。横なぐりに吹きつける雨である。 二月二十二日 私は明神前の老人床の軒下に陣を張り、・ハスを停めたり 朝早く、満開の梅林のなかを歩きまわって来ると、役場通行人を停めたりして服装を点検したが、・ とうも人通りが はふ の温帯さんが事務所の入口に来て私を待っていた。温帯さ多すぎるので顔見知りだけは省くことにした。それでも目 んは私のドテラ姿を見て「うん、朝帰りでもなさそうな がまわるほど忙しくて、夢中になってやっていると「や どこ が、その姿で何処をほっつき歩いとったんやろうなあ」とあ、済まぬ済まぬ。一人でやってるね」と相棒の百田君が 呆れ「いま、本署から電話が来たんや。呼びに来ても留守翩な 0 てや 0 て来た。老人床のおやじさんは親切もの うそ やさかい、いま駐在は留守ですけんと言うといた。嘘を言で「濡れて風邪をひくといけませんけに」と店の戸口に七 うても、あかんわと思うてなあ」と言った。急いで役場へ輪の炭火をかんかんにおこし「どうです、交替で服を温め 駈けて行って電話で本署に問いあわせると、交換君が「強たら」と勧めてくれた。おやじさんは隣の井筒屋の後家さ 盗犯の手配だ」と言った。先日のトノエさんところの強盗んに好意をよせているようで、井筒屋の店にあるものを何 は村の前科者で、それがまった たらまた強盗であかと買ってくれてお茶を出してくれた。私も相棒も、初め る。場所は隣村の金物外交員の家で、のありそうな家でのうちは辞退していたが、寒くてかなわぬので、交替で服 くぐりど ちそう はないと言う。時刻は午前一時半頃で、賊は横手の潜戸をを温めたりお茶や菓子の馳走になったりした。通行人は士 0 枕を蹴 0 , , さ ~ さますと面 0 賊 = 洋服れ、」る。それが後〈ら後〈ら何人もや 0 来。とうと のポケットからナイフをとり出して「声を出すんでねえう不審者はかからずに昼飯をすませ、その状態のまま夜に おど そ。金はあるか、騒ぐと危ねえぞ」とタマノさんを威かしなった。それでも雨は止まなかった。 あぐら て、どっかと胡坐をかいた。タマノさんが蒲団の下から財物見高い人たちは、井筒屋とか吉田屋とか大黒屋などの 布を出すと、賊はそれを引ったくって忍術使いのように消店先に集まって来て、いまに強盗が撼まるのを待受けてい え去ったという。先日のトノエさんのところの強盗と同じ た。客商売屋のおかみたちは井筒屋の土間に集まっておし ような手口である。あの強盗がまた出て来たのではないかや・ヘりして、「この事件で、毎日のように夜の警戒が厳重 という錯覚を起しそうな気持がした。私は電話で聞いた手になれば、客商売はあがったりや」と聞えよがしに言うお すうよう 配により、いつもの枢要箇所である明神前に向ったが、あかみもあった。それでも私たちが聞えぬふりをしている ふとん りん しち
でたらめ は、音曲のうちで浪花節が一ばん嫌いだが、この犯人にと習をしているので、この人なら出鱈目を歌う心配はない。 っては浪花節も芸術なのだろう。大声を出すなと叱りたいそれで控室にいた仲間は余暇を利用して、われわれ警官の のを我慢していると、人はいい気持そうに歌いつづけ歌や軍隊の歌を交換君に 0 ーチされていたのである。 た。それは「急ぎも周章てもするじゃない、持ったさかず柿崎君は譜の本をひろげ、交換君が黒板に譜を書くのを こひざ き、そっと置き、小膝たたいてにつこと笑うて、馬鹿は死写しながら「どうも交換君のは本譜でよくわからん」と言 ななきゃなおるまい : ・ : こと、そういう文句の浪花節であった。柿崎君は家作持ちで、長男を大学に近わしている。 しらが っこ 0 もう一人白髪の上野山君は、地主で子供がたくさんある。 古賀刑事は犯人に「みんな顔まけだ。お前の声はよい声この二人は普通ならもはや老人の部に入れられるが、若い かどうか知らんが、そんな大きな声が出せるのに、な・せ堅仲間に打ちまじって行進歌を習得しようと大元気である。 気にならんか」と言った。犯人は「へい、あっしはあまり若い連中も譜を筆記して低い声で予習していたが、ただ彼 上等でないので」と頭をかき「今度ばかりは酒がたたった等は和やかな一座に見えるだけで、ちっとうまく歌えな い。一ばん年の若い池辺君が、筆記した歌詞を私のところ のやけに、酒は止めました。いつまでも若いときはないけ に持って来て「学者君、この意味、何かね」とたずねたの んなあ、生れかわってみまひょう」と言った。「そうせい よ、それに限る」と私たちはロぐちに言って柔道場を出た。で、私は歌詞を見て「さあね、華北では三月に雪がとけ 外勤の人たちが控室に七人も八人も来ていたので何ごとる。いろいろな春の花も咲く、平和が来たら楽しい家庭を かと思って行ってみると、外勤から看守に来ているのであっくろう、戦禍から救われる日が来るだろう、花が咲き幸 った。このごろ本署では悪徳政治家の大物を収容している福の日が来ます、という歌のようだ」と訳した。やがて交 ひげづら ので、刑事がそれを調べている間、同僚たちは控室で待っ換君のタクトで、老人、鬚面、太ったの、痩せたの、いろ あだな ふうさい いろの風采の人が仲よく歌いだした。 村ていたわけである。元老と仇名のある古参の柿崎君は「な ぜ苦労して政治家になって、悪いことをするのやろう」と帰りに書類を受取るため受付へ行くと、人事係の主任さ 多言った。それで私が「どうせ苦労する忍耐があるなら、埋んのところに三十前後の婦人が来て泣いていた。泣きなが 立地の手伝いでもせんかなあ」と言っているところへ、交ら言うので詳しくはわからなかったが、彼女の亭主を学問 換君がやって来た。交換君はなかなかの流行歌手で、いつのある女が奪いとって返してくれないという訴えであっ か流行歌を現地放送したこともあった。本格的に音楽の練た。営業係のところには、顔を真白に塗った若い女が鑑札 ′ぎ一ら かた なご
8 いたけだか して威丈高に一つ顎をしやくって見せた。 めてあるので彼に気がねをする必要もなく、私は手足をの 「こればやるけん、これば持ってさっさと去ね。」 ばして寝ころんだ。コマッさんの話によると、隣のお医者 うそ そういって、それは腹立ちまぎれの嘘ではなしに、彼ははこのところしばらく私たちといっしょに旅行したいとい たもとから多額の紙幣をとり出した。彼はその紙幣を突きっているということである。小さな声で彼女は言った。 つけて、 「ついて来たけりや、勝手について来るがいいわ。うっち 「こればやるけん、さっさと去ね。貴様らちに用はなか。」やっときましようよ。」 ばけものやしき というのである。化物屋敷のこの大気違いめ ! しかし いささかむごたらしいことをいうのである。しかも彼女 私は、このぶんなら自分も貸金取立業ができるかもしれなは結婚するほどなら、きよう慰藉料を要求しに行って反対 ぎえんきん いと思いながら、紙幣を受取って調べてみた。 に義捐金を置いて来た相手と結婚するといった。これはな 「確かに頂きました。」 かなか事務多端なことになりそうであると思っていると、 なついん 私が受取証に署名捺印しようとしていると、 彼女が慰藉料をとりに行った家と私の集金に出かけて行っ 「何ばしとるや、さっさと去ね。」 た家は、どうやらそれは同じ家らしいのである。 あげく 最後までこんなに青筋たてておこった挙句、この中年者「化物屋敷みたいで、一本だけ桜の木があったでしよう。」 は大きな足音で駈けだして黄櫨林のなかに姿を消した。私すると、大きな桜の木が一株あったという。 は署名捺印した受取証の上に釣銭三円を銀貨銅貨にして文「家や土蔵の跡が麦畑になって、門長屋だけ残っているで ちん 鎮の代りに載せ、それを土間の上り口のところに載せて置しよう。」 いた。そして黙ってその家を出て来たのである。 その通り、確かにそれでは同じ家だという説が成立っ 私は来たときと同じ路を帰って行き、そうして旅館に立た。しかし私がその家の主人は化物屋敷の大気違いだとい ち戻ったのが五時ちかくの時刻であった。コマッさんは部うのに対し、彼女のいうには、その家の主人は非常に小心 屋のまんなかに鏡台を持出して、女髪結に頭のふけを落しではあるが風流人で、その反面また熱情的なところがある はち おもと て貰っていた。私の気がかりになっていた隣の部屋の産科という。彼女が訪ねて行ったとき主人は万年青の鉢を敷石 医は、いつまで隣の部屋に据っているつもりか謡曲のの上に置き、ふところ手をしてじっとそれを見おろしてい 「東西九町、南北五町、五丈のはたぼこ、りゅうしゃの雲た。彼女の表現にしたがえば、その物静かな態度といい四 うんぬん からかみ 井、云々」というところをうたっていた。けれど唐紙が閉囲の背景といい、十三年前のあの人とはすっかり別人のよ ふん