352 れたほどの美人であった。金太夫はそのことを繰返して書「花落つるでしよう。すると紹巴は、光秀の心中を知って いている。 いたんですね。本能寺の乱のあとで、秀吉は紹巴を取調べ 「一方、良多と金太夫の義理の父親は、若いときの友達で たといいますね。紹巴は、何と言って申し開きをしたでし よ 0 す」と和尚さんが言った。「この二人は、良阿の流れをく む同門の連歌師です。金太夫が書いています。三成が金太「ときに和尚さん、『続軍記』のことでお願いがあるんで 夫のために、前田利家の陣を訪ねる割符をやったのも、良すが。」 かんちょう 多のとりなしです。しかし当時の連歌師は、たいてい間諜どうせ駄目かと思ったが、私がそう言うと、 おっしゃ や謀略の仲立ちに浮き身をやっしていたのでしようね。」 「あの写本、借りて行きたいと仰有るんでしよう。承知し きとう 「さっきの、堤の祈疇の会というのは、どんなことをしたました。しかし所有者がどう言うか、交渉してみます。」 のでしようか。」 和尚さんは簡単に引受けて電話をかけた。 「さあそれです。どんなことをしたのでしよう。後で、時「続軍記」の所有者は、弘光寺の古い檀徒総代であった深 保先生に電話して伺います。」 野谷東太という御隠居である。私は一面識もなかったが、 いさぎよ 和尚さんは食事がすむと、時保さんに電話をかけた。 和尚さんの電話してくれたおかげで、御隠居は潔く承知 堤の祈疇の会というのは連歌の会である。築堤工事に着してくれた。私は「借用状」を書いてその写本を借りて帰 手する際に、その堤防が決潰しないように祈るための行事った。 である。だから句のなかに切れるという言葉が入るのを百谷金太夫は「続軍記」のなかで、生国備後のことには はとん むことになっている。旅の祈疇の連歌には不帰という言葉殆ど話を触れていない。広木の娘についてもあまり筆を費 を嫌う。城地の祈疇の会には落ちるという言葉を嫌う。明していない。たった一つ娘について次のように書いてい - * しようよ 智光秀も大事決行の前に、連歌師紹凸を招いて出陣の祈疇る。これは金太夫が忍城下に向けて、広木の家を出発する の会をした。 前日の晩のことである。当時の日常語と思われる文体で書 時保さんが電話でそう答えたそうだ。 いている。 「和尚さん、あの明智光秀の発句の次は、何という句でし たつけ。あめが下知る五月かなの次、花落つるじゃなかっ たでしようか。」 世に定めないは男をんなのならひぢゃ。 ( 文字不明 ) 共に語らうた。 ( 不明 ) 日のくるるを待ちかねて、気を
に、本町、西町、横町、北町、船戸、下町などの地名があ神主の母親は至って話好ぎの人で「わたくしの夫が生き ていたら、城址のことはよく知っとるのですけんど、息子 るのは昔を物語っている。 ちんざ はあきまへん」と残念そうに言った。「わたくしの夫は日 その昔、六の丸神社は城山の明神の丸に鎮座してい れんたい たのを現在の山麓に移した郷社である。平安朝初期の御神露戦争の勇士でして、わたくしところの鎗や刀を前の聯隊 長に差上げました。わたくしところは六の丸城主の家臣の 像が祠られてある。 まっえい 六の丸城主は初代の城主長房より吉野朝廷に純忠を末裔でして、城が焼け落ちたとき、逃げ出した乳母の子が 捧げた謂わゆる山嶽武士で勤王方を誇りとしてお 0 た。七わたくしのうちの先祖だと言います。何でも城が陥ちたと えびすやまおい 代の城主成祐は天正十年十一月七日、夷山に於て討死しぎ、女子供は山の上の池に身を投げたと言いますが、わた た。天正三年の秋、土佐の長曽部親は方面より侵くしの夫が生きていたころは、秋になるとその池で女子供 入、城主東条関久を結婚政策で自党に入れ、七千の大兵をの泣声がしてました。息子の代になってからは、そんな阿 ひき 呆なことはないと言うようになりまして、もう泣声はきこ 率いて六の丸城を攻撃した。しかしながら城兵よく戦い、 天正十年の秋、元親は城主成祐に和を乞い成祐を夷山に誘えなくなりました。こんなエ合に昔の歴史がだんだんにな やり くなって行きますけん」と神主の母親は慨嘆した。 導した。元親は鎗をもって成祐を突いた。成祐の家臣は城 たてこも 御案内します」 やがて神主が来て「お待たせしました、 / 山に立籠ったが、元親のため城を焼打ちにされ、城兵は一 と城址見物の案内に立ってくれた。神主は白い衣服の下に 兵も残さず討死した。 たびぞうり はなは 以上のような甚だ簡単な記録である。しかし私は「一兵長・ ( ッチを見せ、白足袋に草履をはき中折をかぶり、ステ ッキをついていた。城址に登る裏路は胸をつく険しい山路 も残さず討死した」というような表現に満足し、校長さん である。神主は「これが昔の街道でがんした」と言い「こ に見送られて学校を出た。 ふもと 村城山の麓には、山つづきの段々畑がある。私がその段々の城山のお城は、お米蔵が表口にあったのが欠点でした。 古 畑の間の坂路にさしかかると、後から六の丸神社の社主のそこに火がかかり、城兵はどうも出来ませなんだ。それに 多母親が来て「もう直きに祈願式がすみますけ、お茶でも飲城主が元親のために暗殺され、あとは家臣だけで駄目でが みながら待っとって下さい。息子が御案内しますけん」とんした」と言った。山上に近くなった坂路の途中、青麦の 言 0 た。それで再び神主のところに引返し、神主が村の人山畑のなかに大きな石がころが 0 ていた。付近に矢竹の薤 や、石だたみや、壇になっている地面や、窪みになってい たちと酒を飲んでいる隣の部屋でお茶の御馳走になった。 まっ なかおれ
340 つじ こえおけ 習を厳禁し、辻ごとに新しい肥桶を二つあて並べさせ攻の策をとった。私は三成を面にくいとった。 た。配下の兵、並びに築堤工事の人夫たちにもこれに小 弘光寺さんは忍城の古図の写しに添え、数日来また少し 便させた。男は前向き、女は後向きでそれにする。肥桶ずつ「続軍記」を判読してわかった百谷金太夫に関する記 の内容物は百姓が肥料にする。これは当時における花の述を書き送ってくれた。 都の京の風習だということで、百姓町人たちも喜んでこ の制度を受入れた。後に、百谷金太夫が石田の陣営から 再啓、御参考までに忍城の当時の図面の写しを同 たど 鉢形城に辿りついたとき、すでに鉢形城下にも肥桶を街封する。これを見ると、石田三成の水攻の構想が如何に 角に置く風習が伝わっていた。その城下では今までに見壮大なものであったかわかると思う。「続軍記」によれ なかった風習であった。 ば、百谷金太夫は桶ノ上村付近における築堤工事の人夫 大体、忍城外における百谷金太夫に関する記述は右の頭を仰せつかっていた。桶ノ上村は忍城の東南、佐間村 みすめ かわっら 如くである。石田三成の忍城水攻は、築堤の規模の上で より更に南下して川面村に至る間に所在する。忍城の佐 は秀吉の高松城水攻に劣らない。もし貴殿が丸墓山に登 間ロ門より約一里の距離である。この村には西軍の大谷 って忍城の廃墟を望見したい意向なら、拙僧もまだ見ぬ 吉継の本営が置かれ、歴下の将兵は農家に分宿するもあ ところだが案内に立ちたいと思っている。その前に、拙 り幔幕をめぐらした仮小屋に住むもあった。百谷金太夫 ひさし 僧も忍城合戦記を何かの参考書で読んでおきたいもので は農家の廂の下に設けられた板囲いのなかに寝起きし やぐら ある。以上、ここ数日来「続軍記」を判読して得た部分 た。そのわきに大きな柿の木があった。これが物見櫓に みつまた である。合掌。 代用され、太枝の三股に分れたところに板を並べて物見 台が設けられていた。ここに夜となく昼となく物見の兵 私も忍城合戦の模様を参考書で読んだ。 が陣取っていた。敵状を見るためよりも、築堤工事の人 豊臣秀吉の命令で、石田三成、大谷吉継、長束正秀が夫の逃亡するのを警戒する物見であった。 びわうし かどづけ 上州館林城と武州忍城の攻略に着手したのは、天正十八年 夜は琵琶法師が門付に来た。どこからともなく流れこ にがたけ 五月二十七日で、総大将が石田三成である。これに対して んで来た法師である。琵琶を紐で背に吊し、細めの苦竹 とんしょ めぐ 城兵はよく戦ったが、小田原から城内への救援が皆無だか の杖をついて屯所から屯所へ巡っていた。四十前後の盲 ら、三成は作戦に綾をつける意味もあってか頗る無難の水人である。これに平家を語らせるのは、主に大谷麾下の らや すこふ まんまく つる
間がらである。つまり、井伏先生と太宰のなんとなく のだが、ほんとは親友などとはちがう交際である。太 温い結びつきは、太宰の死んだあと、私が太宰に代っ宰治の亡霊の訪問以来、井伏先生に尊敬というような て井伏先生の弟子になってしまったというようなひと堅いものではなく、 父親のような親しさを抱いてしま り合点だった。あとで私はその妙な訪問者を「太宰治ったのだった。とにかく、太宰治の亡霊は私のつごう の亡霊」とひとりできめていた。それは、誰にも信しのよいひとり合点だったが、私には有難い訪問客たっ なっとく られないことだが、私にはそれが納得できるのだった。 そんな風に考えなければ信じられないはど、不思議な ところが、その亡霊はまた私のところへ来たのであ 訪問者だった。その亡霊が帰るとき玄関に私は送ってる。二度目は風流夢譚事件のあとだった。それは訪問 いって、そこで ( あッ ) と私は驚いたのだが、なんとではなく葉書をくれたのだった。その葉書は失ってし まったので、原文のままここにのせることは出来ない なく糸でもひかれているかのように玄関まで送って、 そのはこうとする古靴が、あまりにみすばらしいのでか 「 5 年くらい前にお邪魔した者だがそのとき太宰治の 私は驚いてしまったのだった。妙なことに、そのとき、 ことをいろいろ話しましたが、やはり、あなたは太宰 その人の服装のみすばらしさにも気がついたのだった。 靴をはくときになるまで、服装のことなどには全然気治の霊魂が乗りうつっていますよ。こんどの事件の」 説で正宗白鳥や井伏鱒二は、すべてあなたの敵になり かっかなかったのだった。みすばらしいという感じが、 妖しいという感ます。太宰治の敵はすべてあなたの敵にまわります。 哀れというように田 5 えたのではなく、 しに私は受けてしまったので、「亡霊」というようなその結果、あなたは狂って入水自殺などしないように、 くれぐれも身体に気をつけ大いに文壇の人たちと戦っ 呼びかたにしてしまったのだった。それは、私に都合 太て、女々しい泣きごとを言わないよう、がんばってく のよいよ、つに受けとってしまったのかもしれない 宰治の亡霊が来てから井伏先生にとくべっ親しみを感れ」 いうような内容だった。主所も名も聿日いてないが、 じてしまったのだった。たいたい、私は親友とか、親 あのときの太宰治の亡霊にちがいないと、私は直観し しいという風な相手はなかった。仲のよい人は数多い ほどあって、親友とか親しいような人も数多くはある た。当時、脅迫状なども来たし、また激励のような手 あや
った或るお宮の神主は、地方の六箇所の町でそれぞれ自分る街角で、添乗員の万年さんが私を待受けて、 の好きな女に旅館を経営させていると言っておりました。 「おい、首尾はどうなんだ。でも、その話、あとでゆっく それも自慢のつもりで言ったのだと思われます。そのときり聞くよ。おれは、あの寮長さんの部屋へこれを届けるか 私が、 らな。」 「すると旦那は、半期半期、一つの旅館に一回ずつ収益を と、スケジュールを書いた紙ぎれを私に見せ、於菊のあ 集めにお出かけになるんでございましようね。そう致しまとを追いました。 すというと、毎月旅行にお出かけにならなくっちゃなりま帳場の仕事は下帳が大体のところ片づけて、階下も二階 まぎわか せんですね。御多忙のことでございましよう」と申しますも団体客の部屋の寝床を敷き終り 、門限間際に駈けて戻る と、「なん・ほ自分の女にさせる旅館といっても、管理の難学生を待つだけになっておりました。しかし、二階に泊っ しさは普通の商店と同じことだ。半期半期に、一回ずつでた青森の中学生に面会に来た人たちが長っちりで、なかな 管理がっとまるものか。それだによって、腹心の番頭を置かまだ帰りそうにないのでした。 めちゃくちゃ かないことには減茶苦茶だ。」 これは東北人の気質です。客気質でございます。秋田、 すくな そう言って、神主は強引に私を柊元旅館の帳場から引抜青森といった方面から先ず百人の学生が来るとすると、尠 こうとしたものでした。それで私、自分の貰う固定給と歩くとも百人の面会があると思って間違いない。その団体が しようたく くらがえ 合次第では、神主の妾宅旅館へ鞍替しようかと心を動かし到着するに先だって、しきりに電話で問いあわせがある。 たことでした。 それも簡単に言えばいいものを、律儀一偏に詳細にわたっ 私という人間は、番頭として、また一個の人間として何て事情を述べる人がある。たとえば、私ども夫婦は秋田の ら節操があるわけではなく、自分で自分を信用している人生れだが、かって青森県の某町の営林署に勤務していた当 こんい 館間ではない。しかも自分は、何という女に弱い人間だろう時、懇意に願っていた何某さんという人のお子さんで某と 旅 と自分で自分の気持を持てあますことがある。ただ、自分いう学生が ( まだ会ったことは一度もないが ) 本日お宅へ 前 でもよくわからない何か意地ずくのような気持から、その到着するということだから、面会に行くと電話をかけて来 駅 、つこう る。だから東北の団体が来ると、電話が混雑して通話に差 日その日の慨好がつくように我流で凌いでるだけなんだ。 於菊と私は車を降りて、どちらが言うともなく離ればな 気えるので、そのために電話ロで怒りだす人がある。女中 れに通りを歩いて行きました。すると柊元旅館の通りへ曲や中番などに至っては、小便に行くことも出来ないほど応 なにがし
260 に舞い戻ると、中央大学に入学したと申します。この順でがあるほど上手でございます。私どもとしましては、先ず 行くと古山は、今に日本中で一番年長の大学生になること上手な易者に占ってもらいに行くぐらいの信頼を置いてい でございましよう。私どもの旅館では帳場の連中も女中たるわけなんで、その点では旅行社の大阪本社でも万年さん あだな ちも、古山の仇名の万年大学生というのを略して、いっとを高く買っているようでございます。 もなく「万年さん」と呼ぶようになってしまいました。 いっぞや徳島県の高校生が門限を破ったとき、万年さん 一般に観光屋なんていうものは、多くは大阪に本社を持が出かけて行って半時間もたたない間に見つけたことがご っていて、団体客を引受けると添乗員を付けて道中の世話ざいます。さかり場のはずれの、ネオンだけ派手な薄ぎた をさせる組織になっています。たいてい学生や講中なんか ないトリス・・ハーで見つけたと申しますが、そのとき万年 しやりよう 団体の乗っている車輛には空席は一つもなくて、デッキのさんに「手妻みたいじゃねえか。どんなエ合にして、あの てあい ところに旗を持ってしやがんでいる腕章をつけた男をよく手合の行方に見当っけるんだ。やつばし、帰納法というや 見かけますが、その男は汽車から出ると急に元気づいて物つか」と聞きますと、「今日は、まぐれ当りなんだよ。か 識り顔に、あちらこちら指差したりして団体客のお相手をくれん・ほの子を見つけるときだって、まぐれ当りで子供同 っとめている。この男、そのときにはもう腕章をはずして士、鉢合せすることだってあるじゃないか」と話を逸らし 旗も巻いている。あれが添乗員でございまして、万年さんました。でも、大体の見当っけなくっちゃ、幾らまぐれ当 の勤める旅行社では、団体客の発足地から到着地まで付添りだと言ったって見つかりつこない。 って行くだけを専門にしている者がいて、帰りの道中の付それから後に、兵庫県の高校生が一度、それからまた広 おく 添はまた別の者が勤めますが、到着地においてだけ案内し島県の高校生が一度、いずれもカフェに行って門限に後れ てまわる役の者がいる。 たことがございました。やはり万年さんが付添ってた団体 万年さんのようなのは、東京都内だけの案内係だから、 の学生だったので、万年さんが流しのタクシーで捜しに行 その道にかけて段々と熟練を積んで行くわけだ。夕食後のって見つけて参りました。見つけるこつは、要するに、帰 りくっしぼ 自由散歩に出た学生が、点呼になっても旅館に帰らないと納法という正式な理窟で搾り出すんだそうでございます。 きなんか、万年さんが捜しに出かけます。そいつが、必ず万年さんがそう申します。・ ( スのなかなんかで団体学生の しも一発で捜し当てるとは言えないにしても、他の添乗員行状を見ていると、大体においてその学校の格がわかって にくらべると万年さんは勘の働きで大人と子供ほどの違い来る。それで大胆不敵に規律を破るほどの学生なら、その はち てづま
もあるし雪の降った後のいい気持のときでもあったので、初に行った引手茶屋の若旦那が、その数日前に玉の井の射 初めての店に威勢よく入りまして、女中の応対で二階の座的場でコルク鉄砲を撃っていると、その店の女の子がイン けんか 敷に通されました。ところが、階下に降りて引返して来たチキしたと文句をつけたので喧嘩口論になって、若旦那が なぐ にがみ 女中が、 その辺の地廻りにぶん擲られた。その地廻りは苦味ばしつ 「あいにく今日は、どの部屋も先約がございまして、まこ たいい男であった。いかにも遊び馴れた男のようであっ とに申しかねますが、今日のところは、旦那様、ひとつお た。それが私に大変よく似ているんで、それと間違えられ 引きとり下さいませ」と改まった口上で断わるので、いろたというのでした。私が引手茶屋の階段を元気よくあがる いろ談じたが埒があかねえ。すると、そこへ十六七ぐらい とき、若旦那が帳場からちらりと見て、因縁をつけに来た のしぶくろ の若い女中が酒をつけて来て、お盆には熨斗袋まで添えてものと思ったというのです。 ある。 馴染の店の遣手婆は、私のあとをつけて来た引手茶屋の 客を断わりながら熨斗袋を出すなんて、何が何やらわか番頭に、いや、あの人は上野駅前の旅館の立派な支配 らねえ。あべこべの、あべこ・〈だね。全くに落ちねえ。人で大した旦那さんだ。うち〈もお客を連れて来てくれる こんなときには、さっと立って来るに限るんだ。 大変なお得意さんで、玉の井の地廻りだなんて人違いだ。 しやくさわ そこで、その店は出たものの、どうも癪に障って仕方がそう言ってくれたとのことで、引手茶屋の番頭は大急ぎで ねえから〕二三軒おいて隣の一軒に入って行くと、また同若旦那のところへ注進に走ってからまた引返し、遣手婆を わび じように懃慇無礼の手で断わられた。私は顔を逆に撫でら通して私へ詫を入れ、「そう言えば、玉の井の地廻りより れたような不快な気分でした。どうしても、ぶらぶら歩きも、少し背が高いように思われた。若旦那がそう申され するだけでは気のまぎれようもない。 とうとう馴染の店にる。人違いとは言え、大変な失礼を致しました。それな やりてばばあ ようや 館 あがって行った。この家の遣手婆の話で漸くわかったことら、手前どもの店へもお客を紹介していただきたいので、 なんだが、実は最初にあがった引手茶屋の番頭が、私のあ失礼ながらお馴染にしていただきたい。いずれ改めてお詫 前 駅とをつけて来て、同業のよしみで私の寄る店の裏口から先を入れに伺います」と伝言して行ったと申します。 廻りして、私を危険な男だと注意させたのだね。 その翌日、引手茶屋の番頭が一升持って、籾山旅館の私 もっと 事情を聞けば尤も至極な次第なんで、遣手婆の話を聞い のところへ詫を言いに参りました。さすがは吉原の然るべ ているうちに、私はがたい気持になりました。実は、最き引手茶屋の番頭ですから、折目ただしい口をききまし した だんな
ざんし カ・、いっ そでな 説によると、封建時代の残滓であると同時に宗教的に画一 見ると、軍帽をかぶって袖無しを着た悠一がすぐ後に立 された姿を持っ墓に謐るのは、彼の主義に反するというのって、墓参の人たちを睨みつけていた。目が吊りあがって である。橋本屋さんは与十に言いたいだけのことを言わし いるので、発作が頂点に達しているのが知れた。 なだ た後に、こう言って宥めた。 「ははあ、やつばり、岡崎中尉殿でありましたか。御苦労 「まあそう言うな、郷に入れば郷に従うじゃ。言うことをさまであります。ーーーきようは中尉殿の、大好物がありま きかんと、嫁に来るものがなくなるよ。とにかく、墓参せす。」 んという法はない。」 橋本屋さんがそう言って気をきかせ、お墓に供えてあっ にぎ 新宅さんも与十に言った。 た饅頭を取って悠一の手に握らせた。 かのち 「与十さんは、彼地に郷に入り郷に従ったから、自分の郷悠一はその饅頭に視線を落したが、いきなり、それを押 に帰って郷に従えんわけがなかろう。人間の生涯には、素し頂く手で目を覆った。悠一がこんな真似をするのは珍し 通りせんければならんものが、なん・ほでもあるよ。でも、 。そればかりでなく、悠一は肩で息をしながら次第に鼻 よく帰って来た。みんな心配して待っておったよ。さあ、 を駸りはじめた。やがて饅頭を左手に握りなおして、大き お詣に行こう。」 な声で泣きだした。大の遠吠えするような泣声であった。 そうして与十に墓参の決心をさせた。兄貴の棟次郎が幾それも、すぐに泣き止んで、 ら言ってきかせても、与十がきこうとしなかったので、ひ「あつまれえ。」 そかに棟次郎の嫁が、橋本屋と新宅に説得役を頼みに行っ と、嗄れ声で喚いた。 て二人に来てもらったのであった やはり目が吊りあがって、小刻みに首が震えていた。い そな どな ちょうこう 墓前に一同が立ち並ぶと、棟次郎がお墓に線香を供えてまにも呶鳴り出す徴候が明らかであった。こうなると、号 はなたて 土瓶の水を花立に入れた。与十は山茶花の枝を花立に差し令をかけられる者は、その号令に従うか、さもなければ悠 もくとう がっしよう て、お墓に向かい合掌して黙疇をささげた。ほかの者も、 一を捉えて家に連れて行くか、そのいずれかを選ぶ必要が そまく 手を合わして無言のままにお墓を拝んだ。この素朴味ゆたある。 かな式典が終ったとぎ、突如として耳もとで大声を出すも「どうするかのう。号令に従うか」と、橋本屋さんが小声 の・カい十ー で言った。 「しゅうごう、小隊、あつまれえ」という号令であった。 「せ 0 かく与十が墓参したのやから、きようのところ、阯 ごう おが しやが わめ おお にら とおぼ
りよう いのである。脳をミして記憶を喪失したと言うならそれず、与十の生れ在所の「御んでやろ」という俚謡を知って はとん 幻までだが、どうして足がびつこになったとたずねても、殆いた。これは笹山部落の子供たちが、草の芽を一本ずつ抜 ひな くちすさ ど浮かぬ顔で、漠然としたことさえも答えない。 これは戦いて遊びながら、ロ誦む歌で、鄙びて他愛のない童謡風の っ けんじよう 傷兵として謙譲に処する態度にも通じるので、はじめのう歌詞である。この歌をツ・ハナ摘みながらうたうのは悪くな あら ち近所の人たちも、悠一の無ロは謙譲の美徳の顕われだと 言っていた。それが敗戦後には、近所の人たちから、親の むくたと 往んでやろ往んでやろ 因果が子に報う譬えばなしにまでされるようになった。不 あきかご 空籠さげて往んでやろ 断、気持がしずまっているときの悠一は、割合様子も落ち ハッタビラへ来てみたが ついていて、ぶらぶらする青壮年者を見さえしなければ、 カケスが鳴いて坊主原 大概、むつつり屋をきめこんでいた。野良仕事の手伝いや そうしゅう 草刈り草刈り来てみたが 傘張りもする。それに縄ない機械を操縦したりするほどの 刈りとるこぐち籠目をもれた 器量も持っている。いかに半人足とはいいながら、自分の 空籠さげて往んでやろ びつこになった事情が全然わからないという法はないだろ これで十五本目じゃ う。それを、どうあっても言おうとしないのは、それ相当 に口外できかねる理由があるものと見て差支えない。軍隊 やまくぼ はす でも、悠一の滅私奉公のロぶり身ぶりは大げさにすぎた筈 ハッタビラとは池の名前である。笹山部落の背後の山窪 ひょうたんがた みすせぎ で、同輩にそれを注意されて掴みあいの帯でもして足をに、堤で水堰されて瓢簟型に池水をためている。笹山部落 折られたのかもわからない。たしかに組打ちの喧嘩をしての子供たちは、ハッタビラの池のほとりの原つばへ、よく 草刈りに出かけて行く。池の周囲は、わずか四五町ぐら 足を折ったのだという臆説が生れて来た。 ちょうど、そんな臆説が近所じゅうの定説になったこ 。坂路からそれて行って杣道づたいに行く林のなかにあ ろ、棟次郎の弟の与十が帰還者としてシベリアから帰ってる。ひっそりとして、何の奇もない薄にごりの水を甚え、 つる歩 よその人には目につかない問題外の池である。この池の気 来ることになった。与十は敦賀から帰って来る汽車のなか そうちょう で、上田五郎という元曹長と隣あわせの座席にいた。この塞ぎなような風景も、シベリアからの帰途にあった与十に 上田元曹長は山口県の山奥の村の出身であるにもかかわらは郷愁の対象にしたいのが当然である。しかし、与十はそ ばくん さしつか ふさ 、 0 かごめ そまみち たた
240 ひさがしら くいしばって笑いをこらえまして、膝頭で春木屋の番頭の落ちは現場で働く者の責任にする。そうしておいて、自分 膝を小突いてやって、 は知らぬ顔でもう次の新企画をやってる。これじゃあ、現 「ねえ、親分、今度は、容易な現場じゃないんだからね。」場で働く労務関係者はやりきれねえ。俺は親分に告ロする そう言ってやると、 わけじゃあねえが、親分だってそうは思わねえかね。」 「いや、人夫の件なら、お前らに心配させるまでもない。 「うん、たしかに設計課長にはその傾向がある。しかし、 万事はに任しておけ。俺は専ら平和主義だ。しかし、こ今度の工事は大工事だからな。お前らも、真の腕だめしの の上にまだ不逞な輩がのさばると、こ 0 ばい塵にきつつもりで取りかか 0 てくれ。ダムエ事とは言 0 た 0 て、結 けるんだ。それが俺の性分だ。お前たち、まあ一生懸命に局はお国のためだ。日本が戦争に負けたって、お前らは、 やってくれ。お国のためでもあるからな。」 お互に自分のことを亡国の民と諦めてはいかん。自分の国 春木屋の番頭は大きく出て、ふと取って付けたように、 を馬鹿にしてはいかん、同胞を馬鹿にしてはいかん。」 「自分の国を馬鹿にしちゃいかん。亡びる国もあれば、ま もうそれ以上のことを言わしては散々ですから、春木屋 よみがえ た蘇る国もある。」 の番頭が独りごとのように、 きざ と、気障なことを吐かすんだ。 「スメがネキだよ。サマ・ハも、そろそろネキだ。俺は寝 ところが、これにはちょっと反応がございました。外人る。」 ももひき すそ の秘書みたいな女は、春木屋の番頭の顔をじっと見てまし と言って着物の裾をまくり、富士絹の股引を丸出しで座 たが、次に外人の顔をちらりと見て目を伏せました。それ席にかしこまって目を閉じました。 ごきげん が与瀬のトンネルをくぐる前のことで、やがて汽車がトン 「スメ」は娘、「ネキ」は御機嫌が悪い、「サマ・ハ」は婆さ ネルを出て行くと、高沢のやっ、外人の連れの女に聞えよんという意味なんで、外人の連れの妙齢の女は、美人では ・か、しに、 ないが真に娘さんのような若々しい顔でした。この女性は 「人夫の件は、それは先ずそれとして、やはり親分、問題英語が全然わからないと見えまして、初めから終りまでロ ふけ は設計の件だね。あの設計課長の花岡君は、俺と大学時代をきかないで、つんとして雑誌を読み耽るような風をして の同期なんだがね、企画第一主義の派手な性分で、新企画おりました。秘書みたいな女の方は、婆さんと言ってもま だ新企画だと先へ先へ走る悪い癖がある。ところが、派手だ四十にはならないと思われる年頃ですが、こちこちに瘠 かふ あっげしよう な企画をするだけで、そいつが企画通りに行かねえと、手せて色が黒いのに厚化粧して、ポンネットなんか被ってる