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検索対象: 現代日本の文学 21 井伏鱒二集
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1. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

「ここが俺の御本陣だ。昨日、中番がカステラを差入れて菜種屋の女主人がそう言っていたというのです。買われて 2 くれたんで、それ食ってから寝ようか。御本陣といったっ来た女で、器量のいい、賢そうな女に限って、割合に手易 て、薄ぎたねえ座敷だよ。」 く人買いに身を任すという。賢い女は、自分が賢いことを 高沢は二階の部屋に私を案内してくれました。 知っているんで、自分は容易に男なんかにだまされないと 私たちはカステラを食べてから寝ることにしましたが、 思っている。自信、うぬ・ほれがある。だから賢い女は、案 しゅんめ 実に薄ぎたない部屋で、と言うよりも一ぶう変った部屋で外にも変てこな男にしてやられる。駿馬は、しばしば痴漢 した。畳敷きの部屋でありながら、寝台を二つも置いてあを乗せて走ると申します。すると、私なんか痴漢になるの る。床の間がなくて、鏡のついたタイルの流しが壁に取りは造作もないことだから、器量がよくって賢い於菊との取 つけてある。壁に嵌込式の鏡が取りつけてある。一見、普りあわせはどうだろう。つい私、そんなことを思いめぐら 通の鏡と変らないが、よく連込屋などにある例で、壁の裏したことでございます。 すどお 側から見ると素透しの鏡だと高沢が言っておりました。 ところが、美貌で賢いのと反対な女を売る場合には、凄 うで 「お化けの出そうな部屋だな。お化けなら出てもいいが、腕の人買いも相当に手を焼くことだと申します。容貌に自 南京虫は出ねえだろうな。」 信のない愚図なのは、男に対して自分には魅力がないし心 そんなようなことで、私は寝台の上に横になりました。得ている。はじめ田舎で聞かされた通り、人買いに連れら かたぎ この菜種屋という宿は、よほど前に水無瀬ホテルにいたれて堅気な旅館へ奉公に行くのだと思っている。だから、 女中頭が、出資者を見つけて経営しているそうでした。こ人買いが無法な真似に及・ほうとすると、「あんた、何する こは東北方面で人買いをして来る者がよく泊る宿で、一人だ」と固くなるのは当り前だ。そこで、人買いは飽くまで の男が同時に三人も四人も若い女を買って来て泊ることがも甘言を用いながらっきまとって、その上で「俺はもう諦 あるそうでございます。 めた。もう安心しろ」と言うかのように、他の寝台に引き しやくふ 高沢の言うことに、人買いは酌婦屋なんかへ女を売る前とって行く。そうしておいて、夜あけ近くなってから、女が に、どこかの宿屋で女を犯してから売るということです。 ぐっすり寝ているところを急襲する。普通、これが菜種屋 さもなければ、女が人買いの言うままに売られてくれない へよく泊る或る人買いの、いつもの手だということでした。 おそれがある。犯しておいてから売りとばす。ところが女私、菜種屋ではお昼前に目をさまして、高沢と共に駒形 の方も、そうは手易く人買いの言うままになるものでない。 の「どじよう」で昼飯を食・ヘて柊元旅館に帰りました。女 はめこみ

2. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

236 前で明けさせられた話もありました。 は致しませんでした。でも、何だか可笑しなものでござい ました。 私は筆跡鑑定はヘたくそだが、家の前を通る人を見て、 これは泊る客か泊らない客かの区別はつけられます。泊る これが煩悩だと思いました。そこで、郷関を出るとぎの 客は何となく元気がない。淋しい感じがっきまとう。それ誓いにしたがって、東照宮の五重の塔の軒下に参りまし と反対に、足どりに元気のある人や、若い男女で手をつな た。そうして、手を合せて拝むしながら、自然の道理 ぎあって歩いているようなのは、絶対にと言っていいくらで裸の女の肩や耳朶など思い出しておりますと、私の肩を たた い泊らない。お客が金を持っているかいないかは、往年の卩 ロくものがありました。見れば、春木屋の番頭だ。 につしん 木島金吉にはおよばないにしても、長年の勘で私にもわか「殊勝げに見えるぜ、何を発心したんだ。」 ります。宿料を値切るような客は、知って金持だと見て間 春木屋の番頭は、今にも噴き出しそうな顔で私を見て、 違いございません。 事実ぶっと噴き出したね。 さて、お風呂で私を 0 た女の話でございますが、その 「うん、わかった。白昼に祈願するからには、深夜に犯し ざいごう 翌朝、この女は廊下で女中を呼びとめて、 た罪業のためとわかった。白状しな。どうせ喋りたくっ 「お風呂で抓った女が、帳場の番頭さんによろしく。そうて、たまらねえ話だろう。今度の慰安会の当番は、おめえ 言ってたと言っといてね。」 だ・せ。」 そんなことづけして、女中に百円札を三枚握らせたとい そんなことを言って、私に白状させてしまいました。 うことでした。 でも、白状すると言ったって、こっちとしては悪くない しぐさ 私は前の晩に寝苦しくって、夜あけ近くなってウイスケ気持です。女に抓られた一件を、事こまかに仕種を入れて を飲んで眠ったんで、女が山田さんたちと一緒に発ってし喋ってやりました。抓った女が女中にことづけして行った はなは まってから目をさましました。あとで、女中から女のこと ことも、甚だ熱烈だったと思われるように喋ってやって、 づけを聞かされたわけで、しかし、そのとき何だかキナく「無論、今度の慰安会は俺が受持った。」 さいような気がしました。私が若いころの馴女のうち と、当番役を引受けました。 に、キナくさい気がするのは心臓が焦げているからだと言慰安会というのは、私どもの同業で仲のいい番頭が五人 ったのがいましたので、ふとそれを思い出して心臓に手をで旅行に出る会ですが、面倒な当番役をお互に嫌がるの どうぎ て・こた 当てたことでした。まさか動悸をうつなんてような手応えで、五人のうち誰か浮気したやつが引受ける規定でござい さび ぼんのう みみたぼ しやペ

3. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

田さんという客は、甲府から芸者連れで長野にまわって東ま湯のシャワーだから、大丈夫だ。みんな集まれ、おい於 京に出て来たものと思われる。芸者のうちの一人は、下帳菊、花龍。」 の話だと、「おそろしくハグイ玉だ」ということでした。 男の客は、ちょうど彫刻美術で言う群像のように、シャ キャラとはお客のこと、ガマ連れとは女連れ、 ( グイ玉ワーの降り来るなかに三人の女を掻き寄せて、 は美人のことでございます。関西では、ガマ連れをネコ連「おい於菊、頭の毛が濡れたってかまわんよ。もっと、く れと申します。 つつけ、くつつけ。この滝は、京都の音羽の滝のようなも ついでに私どもの符牒を申しますと、お客に金のありそんだ。京都の芸者は、音羽の滝に打たれるから色が白いん うな場合はケタフカイ、金の無いものはケタハイ、または オケラ。一人客はビンコロ、酒を飲むはドジをひく、食事と、出放題のことを言っておりました。 をするのかどうかは、ハクはいいのか、またはハクは出る 三人の女は、頭の毛が濡れるのもかまわず、男を三方か のかい。座敷はシキザ、宿料はケタ、料金の安いことはケら取囲んで、京都へ連れて行ってくれとせがんだりしてい タオチ、またはケタ ( イ。御祝儀を貰ったかは、・ ( ッタがましたが、ふと女の一人が、群像から抜けだして風呂のな わかったか。そのほかまだいろいろございますが、要する かに飛びこむと、いきなり私の二の腕を抓りました。 に的屋の符牒と違って、酒場や料理屋などに行ってこの符「おや、何だこのガマ。」 ねえ 牒を使ったって意味も通じない。また、心配ごとのある姐でも、声には出さないで振向くと、どこで見たか覚えの としかっこう さんがたに、頼もしがられるようなこともございません。 ない女でした。裸になった女というものは、年恰好もよく そこで、長野の山田さんという客の泊った夜のことだ。 わかりません。 夜なかの一時ごろ、中番が風呂をお仕舞にする前に、私が「おい於菊、酔っぱらってて、熱い湯は毒なんだよ。のば お湯につかって半ば居眠りをしておりますと、いぎなりどせるよ、ここへおいで。」 やどやとお客がはいって参りました。男の客が一人、女の群像の方の男は呼ぶのですが、 客が三人、みんな相当に酒に酔っている。 「大丈夫よ、ぬるま湯なんだもの。」 「おい、熱いお湯につかっちゃ毒だよ。」 於菊という女はお湯のなかで、またもや私の腕を抓っ 男の客がシャワ 1 のところへ行って、 「おい、みんなここに集まって、シャワーを浴びろ。ぬる「でも、やつばり熱いわ。どうせ、あたいは熱いの。」 てきや ふちょう て、

4. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

とうしてこんなに雑に出来てること「やつばしお前は、新時代の人間じゃあねえようだ。居酒 し私という人間は、・ か、われながら、わが身を持てあますような思いをするこ屋と女郎屋は別ものだ。居酒屋の女を張るときには、最初 きわ とがございます。誘ってくれる女が目の前に出て ( こちらの日は、その店で極めて月並な飲みかたをする。その次に めがねかな が酔ってるときなんか ) その女が眼鏡に適ったとなると、 は、忙しい商用がある人間だと見えるように忙しく飲ん もう有頂天にならなければ損だというような気を起す。酔で、さっさと引きあげる。余計な口はきかないことだ。そ っていても、これが自分の本当の気持だ、これが本来であこで三度目に行ったとき、今日はゆっくり飲める晩だと見 かったっ ただし ると錯覚を起す。こんなのは、自分が今だに男やもめでい せて、大いに濶達に飲む。但、三度とも御祝儀を置かなく るというだけのことでなくって、心の底のどこかに、これっちゃいけねえ。そうして三度目のとき、突如、女の気を ひそ 引いてみることだ。四度も五度も通っているてえと、友達 が男やもめの特権だという気持を潛めているせいじゃない かと思うのでございます。 づきあいになって、もはや口説けねえ。お前さんのやりか とん 私、連中と旅行に出るまでの十日あまり、殆ど一日おきたは、お前さんの青春のかけらというやつを、まるで味噌 づけ に高沢を誘いまして、割勘で辰巳屋へ酒を食らいに行きま漬にしてるようなもんだ。だが、俺の見るところじゃあ、 した。無論、おかみの顔を見るためなんで、しかも飲みに充分すぎるほど脈があるね。」 たび そぶりつや これは高沢自身、泥を吐いているようなものでした。以 行く度ごとにおかみの素振が艶つぼくなって行くと確認し どじよう きゅうり うちょう たいためなんでした。おかみの胡瓜を刻む庖丁の音にまで前、高沢は毎日のように辰巳屋へしけこんで、裏の鰌屋に 色けが出ているようだ。こちらは、そう思いたい一心で鰌の割ぎかたなんか習ったりしているうちに、たぶん不本 す。おかみは、ふと思い出したようにスタンドのかげにし意ながらおかみと「友達づぎあい」の仲になったんでござ やがんで、コン・ハクトを使う。それを見ているときの私の いますね。でも、私は高沢の前で、そんなことは、そっと 館満足感は、また格別なものでありました。 伏せておきたい気持でした。私はずいぶん好色の男です 旅でも高沢の見解によりますと、居酒屋通いと女郎屋通い が、友達の女や友達の妹や友達の身内の女の前では、自分 は、自ら道も骨法も違っている。のべっ幕なし、私のようは女ぎらいではないかというような気持になる性分です。 駅 に同じ居酒屋へ通うのは、 0 て効果がないんだそうでご私は幼いとき旅館の女中部屋に寝起ぎさせられながら育っ じだらく たので、ろくでもない女の内幕を見聞きして自堕落になる ・さいます。いよいよ明日の朝は出発という晩に、辰巳屋か らの帰りに高沢が私にこう申しました。 一方には、どうにか人並にそういう性分になったのだろう おのすか くど

5. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

しますか、何とも彼とも無軌道な書生さんでございましの後家さんの方が、遙かに美しい。喋ることも後家さんの 方が気が利いている。と言うよりも、すれつからしで、ざ 御当人の話では、俺の兄弟はロシャの何とかゾフ兄弟とっくばらんな口をきく。姉の方は、日本衛生思想の貧困に おっしゃ いう小説のように、のろわれた性格の者の集まりだと仰有ついて、・ほそ・ほそ声で喋り出す。すると妹の方が、「そん しくじ なこと言って、だから姉さん、いつだって見合を縮尻るの っておりました。顔が四角いところへ、つるりとして、一 なまり 見、三十あまりに老けた顔で、ひどい山形訛でございましよ」と、人前もかまわず窘める。そういったような取合せ た。のろわれた性格でなくっても女には好かれない。御当でございました。 人も、俺は女に好かれないんだ、女の前では遠慮ばかりし ところが、見合がすんでからの帰り道で、松山さんは、 ているが好かれないんだと、よく嘆いておいでになりましあの看護婦と結婚することにしたと言って私をびつくりさ た。そのくせ酒の席になりますと、山形訛で「おお、去せました。 「お止しになったらいかがです。お止しなさい。同じ酔狂 れ、サロメ : ・ : 」という声色と、「ああ、一体どこなんだ、 どこへ行ってしまったんだ、俺の過去は : : : 」という外国にしても、下宿のおかみの方が、なん・ほか増しでございま せりふ 芝居の声色をつかうのが御自慢でした。どちらも長い台詞す。私は付添人として、あくまでも御破算になさいますよ でして、私、たびたびそれを拝聴しましたが、「おお、去う、お願い致します。」 くろぶどうひとみ じれったいほどの気持からそう申しました。でも松山さ れ、サロメ : : この方は、「ソドムの園の黒葡萄の瞳のよ うな、何とか何とか : ・ : ・」と、ちょっと威圧的に聞える声んは「二三日うちに、お前に電話をかけるからね」と仰有 ったきり、横町に逸れて行ってしまいました。 色でございました。吉原の女が好くわけもございません。 酔狂というのでございましようか。事情を知らなけれそれから一週間ばかりして、松山さんから「いま求心閣 で飲んでるから、帳場がしまったら飲みにおいで」という ば、そうとしか思われないことでした。この松山さんが、 御自分より五つも六つも年上の女と求心閣で見合なさった電話でした。学生だが一人前の男の口上です。ともかく御 のでございます。相手の女は地方の病院に勤めている石護贔屓筋のことだから、本帳さんに言って夜の十時すぎに出 しろうと 婦で、松山さんの素人下宿の女主人と姉妹だということでかけると、新館の二階の座敷で松山さんが女中を相手に飲 した。女主人は後家さんですが看護婦の妹で、見合の席にんでいる。そのそばに、松山さんの素人下宿の後家が、か まくら おきましては、私の見たところ、姉の方の看護婦よりも妹いまきを着て枕もせずに酔いつぶれたように体裁をつくっ こ 0 こわいろ はる たしな しやペ

6. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

なそ と、謎のようなことを言い残して、お湯から出て行きま並べて敷いた。その程度のことがわかりました。 いずれにしても、長野の宿屋から紹介してよこした客だ から、中番にノーエンぐらいよこすのは当り前だ。宿帳に 私はお湯につか 0 たまま目を閉じて、いまの女はより 、つこう 幾つぐらい年若いだろうと、背中や肩の慨好、耳の恰好、は、山田さんは年は四十二歳とな 0 ている。この年をし 顔つきなどを思い浮かべ、はて誰だったろう、いや、人違て、お風呂のシャワーの下に女を集めて軽々しくはしゃい いしてやがるんだ、と考えておりました。でも、人違いさでいた。 ごうよら 「ガマ連れのキャラで、あんまり快活なのは、心中するお れたんだとすれば業腹だから、私はお湯からさっと出て、 ろくに体も拭かないで、湯あがりを着て帳場に帰りましそれがあるからな、気をつけなくっちゃいけねえ。塞いで るやつは、きっと三角関係だ。」 中番にそう言って、私はその日に中番の取った一日ぶん 私、裸の女に腕を抓られたのはそのとき初めてなんで、 ましてんや「どうせ、あたいは熱いの」なんて、気を持の客の所書きを集めて自分の部屋にさがりました。実は、 たせるようなことを言われると、満更でもない気持でし山田さんの書いた宿帳の筆跡を見て、どのくらい人間が出 た。人違いされたとすれば、しかし、悪意があってのこと来ているか筆跡で鑑定してやろうと思ったのです。連れの でもあるまいし、腹を立てるにも当らない。全く ( グイ玉女が私を抓ったので、すこし私は逆上せ加減になって、も やきもち であった。私は二の腕をまくって、抓られた跡が、もっとう山田さんに焼餅やく気になっていたのだね。 、と思ったりしたことでし でも、筆跡鑑定なんて私に出来るものではない。じっと はっきり赤くなっていればいし 山田さんの筆跡を見ておりますと、ともすれば裸の女の肩 みみたぼ 私、この年をして、やつばり好色家という部類なんでごや耳朶が目にちらっきます。筆跡鑑定では、私の若いころ 館 ざいます。中番を呼んで、それとなく持ちかけて、山田さ木島金吉と言って練達な男がいましたが、これは四十年も んというお客のことを喋らせました。中番が宿帳をとると宿屋の番頭をやって来た人で、宿帳をひとめ見て、これは 前 きには、山田さんは自分の万年筆で書いた。連れの女の名嘘の住所、これは変名だということを立派に見やぶった。 前や年齢を書くときには、いちいち女に言わせながら山田職業の記入の嘘もすぐ見やぶったね。あるとき、堂々たる ふうさい さんが書いた。・ ( ッタは女中にはヤリ ( 千円 ) であ 0 た。風采の泊り客を一文なしだと見やぶ 0 て断わ 0 たので、交 中番にはノーエン ( 五百円 ) であった。蒲団は四つ窮屈に番に訴えられ、結局、その紳士は一文もない財布を巡査の ) 0 」 0 しやペ まんざら ふさ

7. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

ろうそく と言うと、女は割合元気に顔を振向けた。蠍燭のような白桑野さんを促し隣の部屋に行ってたずねると、ひそひそ くちびる い顔色で、口紅をつけた唇が耳まで裂けているように思わ声で「だいぶこれは重態ですね。猫イラズを、十グラム嚥 せいさん んどりますな。それこ、・こ、・ れて凄惨であった。女は苦しそうに「エンエン」と噎せ、 冫ナしふ時間が経過しとりますけ つば 乗り出して洗面器に黄色い唾を吐いた。「苦しいか」とた に、二十四時間とは保つまいですよ」と桑野さんが言っ ずねても、女は何も言わないで「エン、エン」と噎せ、洗た。傍できいていた住持は、つらそうな顔をして涙ばかり おうと 面器に黄色い唾を嘔吐した。 こ・ほしていた。桑野さんは「まあ応急手当がしてあります 住持に「医者は、まだなんか」とたずねると「もう、おが」と気の毒そうに住持に言って「私のカではどうなりま つつけ来るとこですわ。近所の人が走ってくれました」とすか、受けあえぬのですが : : ともかく薬をとりに来て下 言った。表に自転車のとまる音がして、近所の人が私の顔さい」と帰りかけた。「診断書を頼みますよ」と追いかけ 見知りの桑野医師を案内してはいって来た。桑野さんは金て行って言うと「はい承知しました、お先へ」と帰って行 おりかばん しんかん ぶち眼鏡をかけ、片手を洋服のズボンに入れ片手に折鞄をつた。急に屋内が森閑として来た。調書をとる必要上、住 提げ、私の顔を見ると「やあ御苦労さん、患者はどうです持に「原因は何ですか」ときくと「振られた男のことが : こと言いかけて、わッと泣きだした。それで追及せぬ か」と言った。「なんだか、唾ばかり吐いて苦しがってい ことにした。 ます。ものは言わぬですが、たぶん猫でしよう」と言う と、桑野さんは落ちついて「そうですかね、ともかく : : : 」女が蚊の泣くような声で私を呼ぶので枕元に引返して行 と言って診察にとりかかった。女のロをあけたり脈をとっくと「みんな私が悪いのです。お父さんを叱らんで下さ たり、聴診器をあてたり、首をかしげたりして、桑野さん い」と虫の息で言った。そして涙を・ほろぼろとこ・ほした。 は折鞄から注射器をとり出した。桑野さんと一緒に来た近「実に早まったことをしたなあ、方法は幾らでもあんのに 村所の人は、いつの間にか姿を消していた。 なあ。しかし大丈夫です、しつかりしなさい」とカづけて 古注射がすんでから、桑野さんは女の繃帯をとき、薄く斬みたが、女はすでに覚悟しているものと見え、苦しそうに えがお しながらもちょっと笑顔をして、またもや黄色い唾を洗面 っていた傷の手当をして繃帯を巻いた。傷はともかくも、 多 毒物の手当の方が困難らしく思われた。桑野さんは女に吐器に嘔吐した。幾らあせっても私には手がつけられない管 しゃざい かっ 瀉剤を嚥ませたが、黄色い唾ばかり吐いて効果が見えなか轄である。住持に「一応、署に報告せなけりゃならんので っこ 0 帰るが、男に知らしたんか」ときくと「へえ、電話かけて かん

8. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

本堂の前に行って、 直結というやつを着けてもらいてえ。」 「お風呂で私を 0 た女に逢えますように。その女と、も またしてもそんな馬鹿なことを言いながら、それでも慣 うやうや と引手茶屋にいた豆女中が、同じ女でありますように。」 れた手つきで御守札を恭々しく押し戴き、いつも肌身につ と、人が見ていないのを幸いに本気でお祈りいたしましけている大型の御守袋のなかに納めました。 た。それから、石段の降り口へ横倒しに生えている太い松私は御守袋を持たないので、包紙をつけたまま背広のポ の幹の下をくぐって、薄暗がりの石段を降りて来ましたが、 ケットに入れておきました。この御守札の正体は、金色の おきく ふとそのとき、豆女中の本名は於菊というのであったこと紙でくるんだ長さ一寸五分ほどの短冊型の堅紙で、表に うんき も思い出しました。石段はまだ昼間の温気を残していて、 「厄除地蔵尊御守」と印刷され、裏の文字は「国塩沢 そこだけ空気が温く、何だか語 = ったいようなその温気が、寺」となっておりました。一一十年前に私の頂いた湯村地蔵 豆女中の本名を思い出させてくれたんだと思ったことでしの御守札は、長さ五寸ほどの長方形の紙ぎれで、地蔵様の お立ちになっている姿を木版ずりにしてありまして、それ そこで宿に帰 0 て見るてえと、高沢の野郎、ジ、 0 さんが慈愛にちた地蔵顔の絵姿でございました。勿佑ないこ に酌をされながら薄ぎたねえ顔で飲んでやがるんで、私、とながら、昔の御守札の方にずっと有難味があったように そくいん 惻隠の情を催しまして、 存じます。 「お前さんに、厄払いの御守札を買って来てやったよ。こ私、高沢の言うままに穴切町に行くのは止しにして、ジ しやく れを肌身につけた上で、連中のあとを追って穴切町へ行く ュコさんのお酌で飲みなおしながら、信州長野へ行った女 ことだな。お前さんが行くなら、俺も出かけるよ。」 のことをジュコさんの口から聞き出そうとしましたが、こ さかすき と御守札を一つやりますと、高沢は私に盃を差して、 の女中、しつかりもんで、ロが固いのか本当に知らないの 「有難え。俺は今しも、女難よけのお札が欲しかったとこ か、知らぬ存ぜぬの一点ばりでございました。もしかした ろなんだ。ジュコさんの耳を見ているてえと、その感慨たら、信州長野に行った女が乱行芸者と見られていたので話 るや切実の至りだな。ついては、ジュコさんは、当地におを避けていると思われる節もありましたが、つい私、女を しやペ ける風教上から言って、耳にイヤリングを着ける必要があう気を起して、豆女中の頃の女の行状を喋ることになっ る。イヤリングには直結というやっと、・フラというやっとてしまいました。 二つあるが、ジュコさんには、耳のくびれ目を隠すために こ 0

9. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

難波さんが帰ってから、私はその場で報告書と検屍調書 って世話になったのやけんど、わたしが来る前に、わたし しんせき を作った。私の手帖はオキヌ婆さんの記事で三頁も費されや高松の親戚のところに金を四十円あずけたんやけど、そ た。やがて近所の人たちが念仏をとなえに集まったので、 の金とってもらえんだすか」と言う。「そうやなあ、だけ 私は後を浄海さんと村議に頼んで引きあげた。 んどお前、なんでその金いるのや」ときくと「太七さん が、金いると言うのだす」と言う。「そりや考えもんじゃ。 何か知らぬが、お前は五十にもなって嫁に来たのやけに、 恋愛・人事問題の件 また不縁にでもなったときの用意に預けといたのやろう。 それと違うか。」「そうだす。そやけんど、わたしやまだ五 三月二十日 十にはならんのや、今年四十三になりますのや。」「そりや 事件というものは何だか癖を持っているような気持がす失敬したわ。そやけんど、その金、親戚に置いとき。でな る。ばったりと事件が起らなくなったと思うと、また続々 いと、またお前が不縁になったとき、預けにくいやない と発生して、それも同じ系統の事件が続発することがあか。太七さんはまだ三十ぐらいだし、大酒のみだし、四十 る。かって私は町の交番で往還の人通りを見ながら気がっ円ぐらい直きになくするぜ。そりやお金を預けといた方 いたが、人の出盛りに人通りがばったり止まってしまう瞬が、太七さんはお前に親切にしてくれるやろう。まあ預け 間と、妙に若い女ばかり通る瞬間があった。これと同じよとき。」「へえ、そうだすなあ、そうしますわ」と、女は顔 うに、何の事件も起らない日が二日も三日も続くかと思うに決意の色をうかべ「いろいろ御後見してくだはって有難 と、とるに足りない小さい事件が重なりあって発生するこうおます」と感謝して出て行った。この女はまるで世間知 とがある。 らずの女のように思われたが、警察は人民のため何でもし うれ 村今日は、小さな事件が幾つも発生した。隣村の・ ( ッチアてくれると思っているらしいところが嬉しかった。 ミの網元、軍平さんがこの村に縄ない工場を建てたいと届女が帰ってから、何だか今日は小さな事件がいろいろ発 多けに来て帰って行くと、入れちがいに背の低い労働者のお生しそうだと予想していると、果して大黒屋の使いを頼ま 神さん風の女がはいって来た。「何じゃね」ときくと「あれたという一人の青年訓練生が自転車で駈けつけて来た。 んた、警察の旦那はんですかい」と言うので「そうじゃ」青訓生は「甲田さん、いま大黒屋で、デレ助がまた騒いど と言うと「わたしや、南の太七のところに、ちかぢか縁ありますけに、お頼みしますわと言うとります。私は大黒屋 てちょう なわ けんし

10. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

もらいましたけん、来ると思います」と言ったので「来たが、それが去年の暮でした。女は初め不承知で、やだ嫌 ら、わしのところへ来るようにしてくれ」と言い置いて来やだ、 : ホク絶対に嫌やだと言ったですが、食えぬので住持 た。 のところへ帰ったです」と、彼は新様式の生活者が使うと 帰って来て、二時間ぐらいたってから若い男がやって来いう言葉を用いた。「しかし、別居しただけで、自殺をは た。頭髪をてかてかにボマードで光らせ赤ネクタイにダブ かるのは何故じゃね」と咎めると「今度、私の母が無理や にお ル服というのを着用し、剃りたての顔にクリームを匂わせ りに、私に他の縁談を持って来たです。私は反対しました ゆいのう ていた。こういういでたちの青年を村の人たちはモダンポ が、どうにもならぬので結納をかわしたので、女は恨んで どな ーイと言うのだが、きよう午前中ダルマ女といっしょに来おったです。私のうちへ三度も呶鳴り込んで、昨夜も私の のどき た青年とよく似た感じの男であった。これは何も不思議な うちへ来て喉を斬る真似をしたです。母は青くなって逃げ 暗合というわけではなく、これと同じような型の青年は町出しましたが、結局は私がだましたと思うて死にましたん に行くと幾らでも歩いている。しかし私の目に、彼等がたや」と石に彼は興奮してさめざめと泣いた。 いてい同じようにこの型に壜っていると見えるのは不思議 いったいに近時の青年は、食えぬということを前置きに な現象である。 して、しかも食えるのに意気地がない。「全くだらしない 若い男はおどおどして私の事務室にはいって来た。こい奴じゃなあ。この非常時に何じゃね。くだらぬ手ぎわで、 つが相手かと思って「まあ掛けや」と言うと「まことにと女を困らせたり毒を嚥ませたり、世間を騒がして済むと思 んだことで、申しわけないです」と言った。住所姓名をきうか」と叱りつけてやると、「済みません、済みません」 くと、この若い男は町の伊丹屋米店の長男だと言う。「そと言づて泣いてばかしいた。性根を入れかえてやろうと思 くぎ れで、出来たのはいつごろだ」ときくと「去年の春です」ったが、に釘だと諦めて「もう帰れ」と言って返してや と言う。「私がカフェに行っとるうちに、懇意になりましった。 たんですが、だんだんに深い仲になったのです。母に言う朝がたになって住持が来て「とうとう駄目でしたわ」と と、母は不承知だったのです。家を出て二人で愛の巣を持言ったので、地蔵堂へ出かけて行くと、女の顔に白い布を ちましたですが、私に能がなくて食えぬので、私は母のとかけ、その部屋に近所の人たちが集まって念仏をとなえて ころに帰ったのです。女には、君が子を産んでから母に許いた。住持は部屋から出たりはいったりしていたが、隣の してもらうつもりだとなだめ、地蔵堂に帰しましたです部屋で私をつかまえて「気の強い娘でしたけになあ。それ いたみや しか