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検索対象: 現代日本の文学 21 井伏鱒二集
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1. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

「夜桜の電気でござす。行ってみなざっせんな。ほんに、部屋にお通ししといてね。」 お客さんよござんすもんなし。おともしまっしゅうたい。」 「へえ、よござす。ではどうぞ、ごゆっくりおやすみなざ しかし私たちは夜桜見物をするよりも、早く寝て早く起っせ。」 きることにした。明くる日の予定は、お互に朝早く起きて女中は電気を消して出て行ったが、しばらくたっとまた からかみ 午前中に集金を終り、午後は下関からこの旅館に訪ねて来階段をあがって来て、唐紙を細めに明けた。 はす る筈の産婦人科医にコマッさんは対面しなくてはいけない 「もしもしお客さん、おやすみのところすみませんばって のである。その際、私は親戚のものだという振れこみで、 ん、こげな名刺のかたがお見えになってござすばい。早う あいさっ 私もその医者に挨拶だけはした方がいいだろうということ起きなざいまっせ。」 であった。 私は起きあがって電気をつけた。コマッさんはたしなみ はらま 私がお湯からあがって来ると、コマッさんは寝床に腹を忘れて掛蒲団の上に片足をのせていたが、まぶしそうに いになり、女中が部屋の隅でコマッさんの帯や衣類をたたして頭から蒲団をかぶった。しかし、そろそろと蒲団から んでいた。彼女たちは、福岡の医科大学生にかぎらず一般顔を出して囁いた。 学生は気ぶんがあっさりしていていいなどと、出まかせの 「きっと、下関のお医者よ。」 ことを話していた。私も寝床に腹這いになって、女中とコ その通り、女中の持って来た名刺には「産婦人科専門、 マッさんの対話をきいていたが、女中のしゃべるこの土地岡山医学士、箕屋官次」と印刷してあった。別に女中はコ あて ふうぼう の言葉づかいは、ふつくらとした感じで風貌も大きく、ひマッさん宛の「箕屋官次氏持参」という紹介状と、菓子折 らしい大きな風呂敷包みをコマッさんの枕もとに置いた。 とかどの風情があった。 コマッさんは不平そうにのろのろと紹介状の封を切っ 「へえ、そらお客さん御遠方で、おくたびれでございまし つかまつりそうろう て、その中身を私に見せた。「昨夜は大失礼仕候。本 行っろう。」 おんもと 旅「あす、あたくしたち、とても早く起きるわよ。」 日電話をかけ候ところ、御許様すでに御出発のところに御 金「へえ、よござす。何時でよござすな。」 座候。ついてはこの紹介状持参の箕屋官次氏を御紹介仕 とんこう 「六時。」 候。同氏は資性敦厚にして学才識見ともにそなわる好個な なお おもうしこしぎんす 「へえ、そら早か。」 る人物に御座候。尚、昨夜御申越の金子は箕屋氏に託し置 「それから、あたしたちの留守にお人が見えたら、このおき候云々。一郎」としたためてあった。封筒にも一郎とだ しんせき ささや

2. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

114 母屋の障子は明けひろげてあった。部屋の仕切りもすつ手ぶらで帰ってはいけないではないかというようにも見え こ。しかしこの取込みごとの場合、私は請求書も出しかね かりとりのそけられ、広くした部屋のなかには紋つきを着ナ ぬりん かぎ むりよ た男女が無慮五十人ばかり鉤の手に坐り、それぞれ塗膳をて鶴屋幽蔵に型通りおくやみの挨拶をした。コマッさんも 前にして食事中であった。これは悪いところへ来たと思っ同じようなおくやみの挨拶をした。そのとき廊下に鶴屋幽 て私が立ちどまると、コマッさんも立ちどまって、この家蔵とよく似た顔つきのモー = ング姿の男が現われて、 ささや ではどうやら取込みごとがあるようだと囁いた。しかし若「おい幽蔵、お客さんを座敷の方に御案内しないか。」 といって、なお私たちに向って黙礼した。幽蔵は頭をか い衆は私たちのトランクを持って土間のなかに駈けこん いて私にお辞儀をした。そのお辞儀の意味を私は解しかね やがて土間のなかから、モー = ング姿にア駄をはいた男たが、たくさんの来客に対しても幽蔵のためには座敷にあ が現われた。でっぷり太って眼鏡をかけ頭髪をもじゃもじがって仏前で焼香すべきであった。 座敷にあがると幽蔵の兄貴らしいモーニングの男が挨拶 やにしていた。 けげんそうな顔をしたが、コマッさんがそこに立って微に出た。私はこの男にも型通りおくやみを述べ、そうして とたん 仏間に行って仏壇の前に坐り、どの修牌を拝むともなく、 笑しているのを見ると、途端に顔を赤くした。 「これは驚いちゃったなあ。へえ、これは驚いちゃった。」要するに手を合せてお辞儀をした。コマッさんも私のした 彼は実際に驚いた様子で、しかもとりの・ほせていた。コ通りおくやみを述べ、仏壇の前に行って合掌礼拝していた マッさんに向ってお辞儀をしかけたと思うと私にお辞儀をが、香をたいて鐘を一一つ三つ鳴らしてから立ちあがった。 して、それからまたコマッさんにお辞儀をした。そして彼彼女の目には意外にも涙がたまっていた。 むりやり は早口に彼がモーニングを着ているわけや、モー = ングが私たちは無理矢理、五十名あまりの客人の上席に坐らさ ぬりぜん ゅばにんじん こうやどうふ びったりと身につかないわけをしゃべりだした。一昨日、れ、高野豆腐や湯葉や人蔘などに味をつけた料理を、塗膳 彼の祖父が亡くなったので、いま葬式を終ったばかりのとで御馳走になった。食事中はみんな黙って食べていたの ころだが、家兄のモーニングを借用しているので寸法がすで、私も黙って食べ、食事が終ると汽車の時間の都合があ しんせき るという名目で帰って来た。家族一同、そのほか親戚の人 こし大きすぎるというのである。 きび コマッさんは私に目くばせした。それはア。 ( ート代を厳たちまで総出になって、石崖の上から私たちを見送ってく おうかん しく請求してやれというようにも見え、にせ 0 かく来てれた。私は石崖の下の坂みちを下るとき、・往還まで見送 0

3. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

ろうそく と言うと、女は割合元気に顔を振向けた。蠍燭のような白桑野さんを促し隣の部屋に行ってたずねると、ひそひそ くちびる い顔色で、口紅をつけた唇が耳まで裂けているように思わ声で「だいぶこれは重態ですね。猫イラズを、十グラム嚥 せいさん んどりますな。それこ、・こ、・ れて凄惨であった。女は苦しそうに「エンエン」と噎せ、 冫ナしふ時間が経過しとりますけ つば 乗り出して洗面器に黄色い唾を吐いた。「苦しいか」とた に、二十四時間とは保つまいですよ」と桑野さんが言っ ずねても、女は何も言わないで「エン、エン」と噎せ、洗た。傍できいていた住持は、つらそうな顔をして涙ばかり おうと 面器に黄色い唾を嘔吐した。 こ・ほしていた。桑野さんは「まあ応急手当がしてあります 住持に「医者は、まだなんか」とたずねると「もう、おが」と気の毒そうに住持に言って「私のカではどうなりま つつけ来るとこですわ。近所の人が走ってくれました」とすか、受けあえぬのですが : : ともかく薬をとりに来て下 言った。表に自転車のとまる音がして、近所の人が私の顔さい」と帰りかけた。「診断書を頼みますよ」と追いかけ 見知りの桑野医師を案内してはいって来た。桑野さんは金て行って言うと「はい承知しました、お先へ」と帰って行 おりかばん しんかん ぶち眼鏡をかけ、片手を洋服のズボンに入れ片手に折鞄をつた。急に屋内が森閑として来た。調書をとる必要上、住 提げ、私の顔を見ると「やあ御苦労さん、患者はどうです持に「原因は何ですか」ときくと「振られた男のことが : こと言いかけて、わッと泣きだした。それで追及せぬ か」と言った。「なんだか、唾ばかり吐いて苦しがってい ことにした。 ます。ものは言わぬですが、たぶん猫でしよう」と言う と、桑野さんは落ちついて「そうですかね、ともかく : : : 」女が蚊の泣くような声で私を呼ぶので枕元に引返して行 と言って診察にとりかかった。女のロをあけたり脈をとっくと「みんな私が悪いのです。お父さんを叱らんで下さ たり、聴診器をあてたり、首をかしげたりして、桑野さん い」と虫の息で言った。そして涙を・ほろぼろとこ・ほした。 は折鞄から注射器をとり出した。桑野さんと一緒に来た近「実に早まったことをしたなあ、方法は幾らでもあんのに 村所の人は、いつの間にか姿を消していた。 なあ。しかし大丈夫です、しつかりしなさい」とカづけて 古注射がすんでから、桑野さんは女の繃帯をとき、薄く斬みたが、女はすでに覚悟しているものと見え、苦しそうに えがお しながらもちょっと笑顔をして、またもや黄色い唾を洗面 っていた傷の手当をして繃帯を巻いた。傷はともかくも、 多 毒物の手当の方が困難らしく思われた。桑野さんは女に吐器に嘔吐した。幾らあせっても私には手がつけられない管 しゃざい かっ 瀉剤を嚥ませたが、黄色い唾ばかり吐いて効果が見えなか轄である。住持に「一応、署に報告せなけりゃならんので っこ 0 帰るが、男に知らしたんか」ときくと「へえ、電話かけて かん

4. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

順調に運んでも五時間はかかる。私は朝の一番・ ( スで出発 した。順調に行けなかったので、夕方ちかくなって中田医 院に着くことができた。 ちょうど中田さんの応接間には、この島の警察署長が来 て用談の最中であった。明日、モーター船を一艘、・せひと も貸してもらいたいと中田老人に頼みこんでいた。しかし 署長は、モーター船入用の目的については、言葉をにご し、ただ入用だとばかり言っていた。二人の話の様子で は、この島にはモーター船は一艘しかない風であった。 「あんたが、もし釣においでになるんでしたら、御一緒に 私は広島県のに疎開中、因ノ島の中田医師 ( 仮名 ) おいでなさい」と中田老人は署長に言 0 た。「私の方では、 の招待でこの島へ魚釣に行った。かねがね行ってみたいとわざわざこうして、お客さんを招いたところです。せつか 思 0 ていた島である。瀬戸内海には、不思議に周囲七里のく招いて、待 0 て下さいとは言いかねますでな。」 島がたくさんある。因ノ島も周囲七里である。 「しかし、明日、ほんの一日だけです。むろん、モーター 中田医師は今年六十五歳だが、足腰も達者で目もよく見用の石油も自分で持 0 て参ります」と署長が言 0 た。「自 えるし耳も遠くない。最近、この老人のお孫さんが、私の分の方では、必ずしも舟遊びのためじゃないのでして、入 従弟の嫁さんにな 0 たので、その結婚式で私たちは知りあ用の目的は、後日、いずれわか 0 て頂けると思います。」 いになった。そのとき、私が魚釣に自分は趣味を持つなど「お言葉ではありますが、私は、魚釣に行くときには、配 と余計なことを言ったので、爾来、しきりに釣案内を受給の油は絶対に使いません。近所の小島のものが、ランプ ちょうぎきそ けていた。その案内状は、私と釣技を競わないでは止まな用の油を節約して、私へ進物にくれたのを使っておりま いといった感じのものであった。手紙が回を重ねるごとす。舟遊びのときと、往診のときのモーター用の油は、ち ぎよじんやそう に、その感じが濃くなって行くのがわかるのであった。 ゃんと区別しております。島々の漁人野叟、みなこれを知 私の疎開していた家から因ノ島へ行くには、・ ( スで福山らないものはない轡です。しかも、本日の御来客は、千里 市へ出て、汽車で尾道市まで行き、そこから汽船に乗る。 を遠しとせずしてお見えになったものでしてな。」 因ノ島 いんしま そう

5. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

の番頭は、それそれに自分の色を応募させていたことが確したらどんなもんだ。俺なら、闇雲に第一着の女を採用す 実で、しかもお互に言わず語らずのうちにそれと気がついる。」 「応募者は、履歴書を提出しなくっちゃいけないのね。」 ていたらしいというのです。 「そうさ、マダムなら何某妻と書かなくっちゃ、いけない 「四十何人の応募者のなかに、とても感じのいい女の人が がくん 一人いましたわ。四人の審査員さんたち、愕然となすったんじゃないか。」 「あたし、字が下手だから履歴書なんか書けないわ。あた ようでした。でも、みなさん自分の色を連れて行くことに いくらじれったくっ なっているのでしよう。じっと我慢を殺していらっしやるしの気持が通じないのと同じように、 てはす んです。おかしくって。色を連れて行く手筈になっているても仕様がないのね。まるで宿命を背負っているみたい。」 こんな会話の遣りとりは、おかみに器用に扱われている こと、見ていて、すぐばれてしまいますわ。」 「やつら、無駄なことしたもんだ。その行為たるや、応募上のことかも知れないんで、このくらいのところで打ちき 者に対して、民法第何条の罪を犯したことになるんだろっておくべきでした。もはや夏場のことで、この界隈では う。選挙演説で、大嘘を聞かせるために人を集めるような旅館や土産物屋は無論のこと、飲屋なんかも商売が上がっ おおむ もんだろうな。ところで連中の色は、概ねどんな風な女だたりで、辰巳屋のおかみも退屈まぎれの気持もあったろう かっこう と思われます。だから、こちらは調子に乗りすぎては恰好 がっかなくなる。そう思うのが常連客のたしなみでござい それにはおかみは返辞をせずに、 「でも、女の身にすれば、応募して旅に連れて行かれるとます。 いう立場ですもの、すつばりした気持じゃないかしら。女ところが、その翌日の晩、帳場が片づいたころ、高沢の 性同士、お互にずいぶん気持が楽でしようね。ものは試代理として辰巳屋のおかみが公衆電話をかけて来て、例の 連中に高沢が集合を命じていると言うのでございます。 館し、あたしも応募すればよかった。」 旅 と、有るか無しかに、気を持たせるようなことを言うの「春木屋さんも房総屋も、杉田屋さんも、みなさんうちの もんちゃく 駅でございます。かねて私、かすかな或る気持をおかみに対店にお見え下さいます。今度、水無瀬ホテルの悶着が解決 して、高沢さんがレジスタンスを止して、明日から水無瀬 して感じていましたので、がらにもなくこう申しました。 「マダム、印象の深いこと言ったね。それなら、第二回目ホテルの帳場にお坐りになるそうです。そのお祝ですか の募集をやらかすか。今度は、新鋭の俺が審査員になるとら、今晩は高沢さんの御招待です。私もお待ちしていま おおうそ へた かいわ

6. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

あわただ 慌しげに出て行く姿を私は見とどけた。 代りに弁解すると、彼女は手を振って反対した。 ちょうし 宿の二階の部屋にはお銚子が二本も三本もならび、彼女「ちがいます。あたしが怒っているのにあの人格者は、あ てじゃく たしの手をにぎってるんだもの。あたしに叱られながら、 だけが部屋にとりのこされていた。彼女は手酌でのんでい たが直ぐに足をなげ出して莨をふかしはじめた。片手を畳あたしの手をにぎってる。おそろしかったから、あなたに について反りかえり、煙を天井にむかって吹くのである。電話をかけてもらって、追いかえしてやったの。」 * ばくれんおんな これでは莫連女とちっとも変らない。酒も莨ものまない人彼女が寝ころぶのを待って、私は掛蒲団をとり出して来 格者を相手に、彼女ひとりだけのんでいたものと思われて彼女にかけてやった。 そろまんばし つりざお る。言うことも舌がもつれてだらしなくきこえるのであ宿で釣竿を借りて、算盤橋の下で私が魚釣をしている と、夕方ちかくなって二階の彼女が私を呼びに来た。小さ たいがんじようじゅ 「あたしは、きようは凄いわよ。大願成就なの。でも、こな鮠が一びき釣れていたが、彼女は・ハケツのなかをのそき 込んで、 れつぼっちじゃ、アパートは買い戻せないわ。」 あおむ 彼女は仰向いていたかと思うと頭をがつくり下げ、同じ「まあ、よく釣れましたこと。」 ように仰向いたり頭を下げたりした。私は集金が上首尾でそういう大げさなお世辞を言った。 ぐっすり眠ったという彼女は、足もとがまだ確かだとは あったことを彼女に報告して、さきほど私が隣の部屋で彼 女たちの談話を盗みぎきしたのを知っているかとたずねる見えなかった。しかし私たちは次の汽車に乗って出発する ものみゆさん ことにした。おたがいに物見遊山の旅に出ているのではな いと彼女も言っていた。 「その通り。」 か岩国の町を発っとき、私はこの町のことを決してひんや と言って、彼女は頭をどしんと落してうなずいた。し し隣の部屋できいていても、彼女の話は途方もなく高飛車りした感じの町だとは思わなくなっていた。コマッさんは で、ずいぶんぎすぎすした女に思われたと私が非難する本線の汽車に乗り込むまで、岩国の町にはもう二度と行け と、またもや彼女は頭をがくりと落し、 ない気持だと言っていたが、汽車が小さい駅を二つ通りす ぎると、あの町の名物をな・せ買わなかったのか残念だと言 「その通り。」 と答えた。言いたいことを二十年ぶりに言ったので、きいだした。あの謹厳な人格者という人に、な・せ彼女はもっ っと興奮してそんな不用意な始末になったのだろうと私がと大きく切り出して要求しなかったのか惜しいことをした すご たばこ はや

7. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

を持ったとこ・ほしたが、そう言われてみるとそんなように 穂町三〇九」と白ペンキで記されていた。 しばら も思われる。 細い道から往還に出て暫く行くと、 あお たけ はす くるまづか その古墳は道ばたにあった。形は小さいが、丈の低い青 「この辺に、車塚がある筈です。写真で見ると、可愛らし はとん 笹に覆われているためか、殆ど完全な前方後円の姿に見え い古墳です。」 案内の吉田さんがそう言って、通りすがりのパランルをた。 「この地方には円墳は多いですが、この形の古墳は少いん さした洋装の二人の女性を呼びとめた。 ばいちょう 「ちょ 0 とお囀ねしますがーーおや、あんたは、僕の教えです。車塚というのだから、陪塚があるかもしれないです 子だったね、高等学校で」と吉田さんは、二人の女性を等ね。」 分に見ながら言った。「あんたがた、この村の小学校の先吉田さんは、畑のなかにはいって向側にまわったり、近 生しているんだね。では、車塚を知っとるだろう。古墳だ所の人に何か訊ねたりした。 どまんじゅう すっきりした形の土饅頭だが、まわりの濠は道路に削り とられて僅かばかり残っている。それも土で埋もって浅く 二人の女性は顔を赤くした。つるりとした顔の方が、 「見やん。ああ、そうそう、あんな墓があるって、子供たなり、びしよびしょのその水たまりに芹が一面に生え、モ ちが言うてた。」 ンべに深ゴムをはいた娘がその芹を鎌で刈りと 0 てい そう言ったが、その塚がどこにあるか二人とも言えない で、逃げるように行 0 てしま 0 た。すると向うから、小学塚の土どめは、円筒でなくて小型の石で築かれた石で 生が十人ばかりやって来たので、吉田さんが訊ねた。元気あった。すなわち、浅くなった濠の向側は、三尺ばかりの のよさそうな男の子が、 高さの石崖である。もし修理されたものでないとすれば、 道 ふきいしすそ 街「もっと・ハックや ・ハックや。右手に家があってな、あの葺石の裾を石崖に延長したものだろう。誰か石崖の年齢を 言い当てる者がいたら、これの判定を下してくれるだろ ゃな、その向うべラ」と教えてくれた。 さ 「向うべラ」とは「向う側」のこと、「見やん」とは「見う。私たちは来た道を引返し、園部を素通りして亀岡に行 さ ふもと ない」ことだと吉田さんが説明してくれた。それで子供のく途中、八木の町の近くにある城山を麓から見た。この城 教えてくれたところまで引返すと、それは吉田さんが女の山については、吉田さんの見せてくれた参考書に次のよう ふしよう 先生に声をかけた場所であった。吉田さんは不肖の教え子に書いてある。 ざさおお こ 0 わす せり

8. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

焼の岬の端が崩れ落ちた。名勝指定地になっていた岬であ と泰明さんが叫んだ。その足元へ、一間ぐらい先の地面 る。 に、畳のような石がめり込んだ。泰明さんは宙に浮いたよ 「こりや大変だ、大損害だ。」 うに、ふわりと足をすくわれて、ひっくりかえった。しか また と泰明さんがロ走った。 し、すぐ起きあがって、湯気をたてている赤い石を跨ぎ、 「いや、泰明さん、あわててはいかん、麓へ逃げよう。俺「突撃だ。」 は牛をつれて帰る。」 と叫んで、一目散に駈け下りた。 藤五郎は窪みに駈け下りた。泰明さんもその後について藤五郎も泰明さんの後につづいて駈け下りて行ぎ、泰明 とどろ 駈け下りた。海の方でまた爆音が轟いて、つづいて直ぐ近さんの後から声をかけた。 く頭の上で爆音が轟いた。石や灰のようなものが降って来「おうい泰明さん、転ぶな。後を振向くな。熔岩流の流れ がけ すき た。あたりは、ほの暗くなっていた。崖の上の木の枝の隙る速さは、俺たちの駈け下りる速さと同じだ。後を振向く 間から明るみが見え、火の海が沢に流れ落ちるのが目にとな。」 「そうか、同じか。お前も後を振向くな。」 泰明さんは後を見ないで駈けながら叫んだ。 「わあ熔岩だ。逃げろ、熔岩流だ。俺の牛の跡へついて、 逃げろ。」 「そうか、同じ速さか。気休め言うのではなかろうな。」 しかし藤五郎の乳牛は、どこに行ったかもはや見えなか「同じ速さだ。急な崖は、俺たちも滝のように跳びおり っこ 0 る。熔岩流も流れ落ちる。平らなところは、どろどろ流れ 「尾根を逃げろ。」 泰明さんは沢の窪みから、崖の上にいあがろうとし「そりや大発見だ。山を降りて、浅沼さんに報告する。浅 火た。その崖の上には、どろどろの赤い熔岩流が押し寄せて沼さんは、地震学者に報告する。貴重な大発見だ。」 神いた。沢づたいに山瀬の流れた跡を駈け下って行くよりほ後から追いかけて来る明るみが消えた。いきって振向 いてみると、風向きが変ったためか、いつの間にか熔岩流 御かに方法がない。熔岩流に追いっかれるか追いっかれない かの競争である。 が沢の途中で流れを止めていた。泰明さんは一とまず胸を また爆音が轟いた。 撫でおろし、いま自分たち二人はヨリダイガサワを駈け下 「麓へ向って、突撃だ。」 りて来たことに気がついた。いま自分たちの立っている場 ふもと こら

9. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

ゅうゆう て、どれにしたらいいか分らなくなるだろう。「しかし、給悠々と英気を養っているという逃げ口上もある。英気とい うよりも、志を養っているといった方が大人らしいよう 料を高く書いてありますね。村にはたくさん人が余ってい るようですが、応募する人はないのですかい。」「ええ、みだ。 んな懲りとるから行かんのでしよう。遊んでいる人はみん ただ な利ロやから、銭を只で呉れるとも思わぬし、夢のような十二月二十五日 話には吊られぬでしような。」「われわれ仲間では、部長が この多甚古村の一里ほど南、鵜川町六千本山越えの麓 もうこ 蒙古へ行きましたし、その他いろいろ大陸へ行きました。 に、浜口トノエ ( 五一 l) という者がいる。これは出征兵の しかし欠員の募集難で、もしかしたら質が低下するおそれ留守宅で、祖母イト ( 七五 ) と二人暮しである。この家で があるのです。この不安があるにもかかわらず、若い人は宵寝していると「電報、電報」と大声でトノエを起す者が くろしようぞく 直ぐ条件のよいところへ行こうとします。辞職禁止令は、 いた。戸を明けると黒装束の賊が出刃を突きつけて「二十 おおみえ 当を得た処置ですな。」「そうですか、若い人は出征する円貸せ」と言った。何か大見得を切るような風をして、そ し、軍需方面も手不足でしようけんなあ」と温帯さんと寒のらしい面にくさは定九郎そっくりであったという。 帯さんは立ち話をした。「そうですな、温帯さんも一つ工 トノエは初めは驚いたが五十女の図々しさで正気を取りか 場へ進出したらどうですか。」「いや、寒帯さん、もう私はえし、「この不景気に二十円もあるものか。おかどが違い 駄目です。寒帯さんこそいかがですな。」「いや、この寒帯はせぬか。一円五十銭くらいならあるけんど」と財布を出 さんも、もう少し健康で才能があると大陸行を思いますが、 し「ぜっぴ二十円いるんなら、信用組合で借りて来ましょ 何の取りえもないのでこの道で終ろうと思います。それにうか」と言った。ところが今度は賊の方で驚いて「一円五 ひきこ、 寒帯さんは田舎に引籠ってしまったので、田舎の景色のよ十銭くらいならいらんけに、ほかで借りる」と賊はそれで 村うにのんびりとして覊気をなくしました」と私が言うとも虚勢をはり、悠々と去り行くと見せかけて、山の中に雲 古「この節は時局柄、酒のみがすくなくて乱暴者もなく、違をかすみと逃けて行った。 まち そんな事件があったので街へ潜入しては大変と、私たち 多反者もすくないので、お暇で困るでしよう」と温帯さんが 言った。「私は何よりも、この退屈な心持が身にしみこむは電話でしめしあわせて非常警戒につき、明神様の前に張 おそ 四ことを怖れます」と言って家のなかにはいった。閑居して番することになった。トノエさんも加勢に来た。賊などに むけこ 不善をなすようになっても困りものだと考えるが、いまはおどかされては、出征兵の息子に相すまぬと度胸を出し、 こ っ よいね うかわ ふもと

10. 現代日本の文学 21 井伏鱒二集

ほ。」 一人の俥夫はコマッさんにお辞儀をして、 そういって娘はコマッさんの持ちものを受取って、私た 「行きゃんしよ。どうそ、行きゃんしよ。」 ていちょう ちを二階の部屋に案内した。娘は改めて私たちにお辞儀を と鄭重にいい、他の一人の俥夫は私に、 ちゃがま すると、部屋の隅に置いてあった茶釜のそばに行儀よく坐 「行きゃんしよ。なん・ほうでも安う行きゃんすで。」 り、そうしてお茶をついで私たちの前に持って来た。コマ といった。とにかくそれは好都合だというので私たちは くるま 俥に乗り、どこでもいいから駅の近くでない堅気の旅館にツさんはこの娘に、箕屋官次という人が訪ねて来ても決し て取次いではいけないと言いふくめた。もしも私たちを訪 連れて行ってくれと註文した。俥夫は二人で相談した。 「ホテルならどうぎゃあの。」 ねて来る人があったにしても、その人はたいへん悪者だか 「あそこの女中が堅気なもんきゃあ。お前は何も知らんのら私たちがここにいるといってはいけないと言いふくめた のである。しかし私は、箕屋官次をこのまま駅前の旅館に きゃあ。」 「それなら、むず堅気なら西国寺下の、あそこがええきやとりのこしておくのもすこしばかばかしいという考えか ら、せめて電話でもかけて彼をこの町から引きあげさした あのう。」 いと隸った。 「懋、御意、あそこなら堅すぎる。」 かじまう そういう打ちあわせをして俥夫は梶棒をあげて駈けだし「このままうっちゃっとくと、きっとあの男は当分この町 をうろっきますね。電話をかけて、早く自分の家に帰るよ た。目ぬきの通りだというのに街幅がせまく、更にせまい とん 幾つもの横町の突きあたりには、殆どおきまりのように青うに暗示してやったらどうでしよう。」 私は卓上電話をコマッさんの手もとに押しやって、電話 く海が見えた。 私たちの連れて行かれた旅館は、駅から十町あまり離れ帳で駅前の花乃屋旅館の番号をしら・ヘた。しかしコマッさ ひなた 行ている和田屋という旅館であった。玄関さきの日向に、白んは頭から相手にしなかった。 らんはちうえじよろ あ・こひげたくわ 「うっちゃっときましようよ。うろっくなら勝手にうろっ い頤鬚を蓄えた老人が蘭の鉢植に如露の水をそそいでい くがいいわ。あたしの知ったことじゃないんですもの。」 集た。玄関のなかはほの暗く、奥行の深い薄暗いところか ら、明るいレモンエローの洋服を着た年ごろの娘が現われ「いやな男に結婚を申込まれると、女というものはそんな にも腹の立つものなんですかね。」 て私たちを迎えてくれた。 「おいでなさいませ。奥さん荷物を、あたくし持ちゃん混み入った話の手前、宿の娘は遠慮して部屋から出て行