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検索対象: 現代日本の文学 24 高見順集
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1. 現代日本の文学 24 高見順集

左昭和 33 年 5 月、国際ペンクラプ会長 ( 第 7 代 ) シャンソン氏宅を訪ねて。左よ りゲノー夫人、ゲノー氏、順、シャンソン 夫妻、青野季吉 く撮影者堺誠一郎 > 下警職法改正反対運動の静かな抗議デ モ ( 昭和 33 年 11 月 ) を提案し、みすから実 施した順。右端く撮影者中島健蔵〉 日は芸会 だった。時代は火野葦平の「麦と兵隊」「土と兵隊」「花 と兵隊」などが大きな反響を呼び、ジャーナリズムも 争って兵隊もの・戦記文学を掲げていた戦雲急を告げ る時期に、高見はそうした時局に対置するような形で、 「如何なる星の下に生れけむ、われは世にも心よわき 者なるかな」 ( 高山樗牛 ) の、その「心よわき者」の孤 独なエゴを、ここに「七転八倒の苦しみを嘗めさせら なんじフ れる」 ( あとがき ) 難渋の末に、表出したのである。こ の長編が単なる浅草ものの佳作の一つとか、すぐれた 風物詩的物語の一つとかにとどまらす、今も生き生き した生命をもっている理由もそこにある。作者は子供 のような踊り子への「プラトニック・ラヴ」ともいう ー当フカ、 べき「慕情」をくどくどと書きつつける韜晦の姿勢を 示しながら、芸術荒廃の時代に対して精いつばいの抵 抗をこころみたのであった。伊藤整は発表されてから 北鎌倉の自宅で、桑野みゆきと十五年後の昭和三十年に、かっては「大変新鮮で、生 ( 昭和一十三年十一月 ) き生きしたカがあり、三雲の挿絵と照応して注目のま もしろ と」となった作品ではあったが、「即興的な面白さを主 としたものであったから、きっと多少は色褪せた感じ を与えるだろう」と予期しながら読んだところ、「私は 読み進むに従って、この作品がちょっとも力を失って いす、水から揚げたばかりの魚のように生き生きして おり、その鱗の一つ一つが光っているような実感が伝 うろこ 454

2. 現代日本の文学 24 高見順集

であった。向島のお花見といえば、上野の山以上に有これは、特に、東京の生活についていえることかもし 名で、それを忘れていたのは、直接の経験がなかったれない。東京は、むやみに大きくなった首都である。 からである。「徳川邸」あとが隅田公園となり、牛島神政治の中心は東京、経済の中心は大阪といった時代も 社がその一隅に引っ越したのは、疑う余地のない事実あるが、東京対大阪の問題ではなく、人口過密地帯、 だが、昔の東京見物だったら、ことに花見の季節には、 過疎地帯の差が大きくなるような現代生活が問題なの ここまで案内して来るのが当然だったかもしれない ちばん 隅田公園から、今度は、旧本所錦糸堀へ車を向けた。 社会を動かす方に腰をすえている人間が、い 現在は、駅ビルができたが、錦糸町駅前には、江東楽濃密に集まっているのが東京である。ところが、どんな 天地がある。ここは、初対面ではない。浅草に似て小 にそれが濃密でも、動かされる方の人間の数の方が、圧 規模な盛り場と、 しいたいが、昼間は人影も少なく、カ倒的に多い。どの町に行っても、夕方の買い物でにぎ なり前に来た時とはすっかり印象が違った。 わう通りがある。大がかりなマーケットや、百貨店の ほんとうの東京は、盛り場にはない。 丸の内や銀座食料品部ではなく、家の近くでの買い物の場所である。 はず に、もかよい。め、はり . 、 大通りから外れた住宅街とか、横芝の清正公のわきにもそれがあった。ふと、通りすが 丁の商店街とかにありそうである。ところがありきた りに、そういう狭くてにぎやかな道へ出ると、いやで りの東京観光ルートは、夜、宿直しかいないような場も応でも、「生活」を考える。そして、自分の家を考え 所をことさらに選んでいるような気がする。そういう る。もしも生活の場所が決まらす、夕食の準備のため 場所は、高見順の作品の中にはあまり出てこない。彼の買い物にまったく縁がなかったら、そういう人間の 社会観は、どこかにゆがみがあるにちがいない。そう の案内、すなわち作品を手がかりとして歩いているう ちに、わたくしの心の中には、ますます強く、人間社気がつくと、現在の東京の激しい変貌のかげにある薄 会を見る時の身の置き所について、大きな分かれ道が気味悪い別の底ゆれが感しられるのである。 あることがわかってきた。社会を動かす方に腰をすえ 古い東京は、内と外で、大きな相違を見せていた。 るか、動かされる方にすわるか、これは、自分自身の問 町が続き、人通りが多い地域から一歩離れると、空気 題としても解決のむすかしいやっかいな問題である。 がにわかに変わり、農村や漁村が伸びていた。国木田

3. 現代日本の文学 24 高見順集

しらりん 「浅草と言や、吉原はひどかったね」 まだ危いとあって庭に七輪を持ち出してやったところから これはブリキ屋のおやじだった。 すると、余震にまだおびやかされていた頃だが、それにし くるわ 、ゆうじゅっひん 「火の手が、廓の京町、江戸町、揚屋町と一遍にあがっては随分早くアメリカの救恤品が日本に着いたものであ おおもん た。だってえのに、大門を締められちゃって、おいらん達る。関西あたりにかねてあった輸入品を救恤用に廻したの は逃げるに逃げられねえ。ーー吉原病院裏の弁天池なんだろうか。ともあれ、アメリカ製のそのコーンド・ビーフ ざ、おいらんの死体で埋まってたね」 というのを私はその時初めて眼にし口にしたのである。罐 さんじよう 地震の最中に居合わせたのか、それともあとから惨状をを切ると生肉みたいな赤さなので、そのまま食べるのがた 見に行ったのか、どっちとも分らぬ言い方だったが、皆はめらわれ、それで火でいためたのだが、フライ・ハンからぶ ししゅう へ、えき ただふーんふーんと聞いていた。そのふーんふーんの中に ーんとにおってくるにおいに屍臭を思い出させられて辟易 は私も加わっていた。名は知っていてもその吉原へ一度だした。そしてこれは、いためたりしないでそのまま食べた って行ったことの無い私は、京町だ大門だ弁天池だと言わ方がうまいと教えられた。それは実にうまかった。以来私 れてもとんと見当がっかないのだったが、それをまるで熟は漫画のジグスみたいな大のコーンド・ビーフ党と成り、 知の場所としているかのような私のふーんふーんで、そうそれは今日に至るも変らない。 ぎい ZJ う した私をまた行列の大人たちは、大人の母親の代理という夜警が行われ出したのは何日頃からだったろうか。在郷 軍人団、青年団、それに町内有志などが加わっての自警団 のでなく一人前の男として見ている顔だと私は見た。 その時のことではなかったと思うが、私がしたりげに、 ( ーーー鮮人狩りを、主としてやったのは、これである。 ) の 「東京がこう焼けてしまっては、京都へまた御所が帰るん夜警は一日のすぐ夜から行われていたのだが、それを、一 すっ じゃないかしら。大阪へ遷ると言う人もありますね。で軒の家から必らず一人宛大人の男を出して公平にやること も、やつばり歴史を考えて、京都じゃないでしようか」 に成ったのだ。一一人宛組んで竹棒を持って徹夜の巡回に当 などと言ったのは、大人が私を一人前扱いしてくれるこるのだが、男は私だけのわが家では私が出た。私はここで とに対する返礼めいた気持からで、更に自分でもまた一人も、否ここではっきり一人前扱いされた訳である。男手の 前のような顔をしたい為でもあった。 無い大家の当番も私が引き受けた。 リビーのコーンド・ビーフが配給されたのは何日目位だ「神戸のやり口は、ひどいですな。横浜が立ち直るまで、 ったか。その肉をフライ・ハンでいためるのに、家の中ではその間だけ、生糸の輸出を代りにやってやろうというんじ うつ かん

4. 現代日本の文学 24 高見順集

こうとうむけい 必ずしも荒唐無稽の夢というものでもないなと思わせられ何日目かに玄米の握り飯と梅干の配給が行われた。焼け 出された人々に先ず配給されて、焼けない私たちのところ かんづめ まっす 銀座通りを真直ぐに行って金杉橋に出た私は、そこで右は後廻しに成ったのだが、やがて罐詰類も与えられた。私 に逸れ、芝園橋、赤羽橋、中の橋、一の橋、二の橋というは母親に代って配給の列に立った。長屋のおかみさん連に 順に古川に沿って帰ったのだが、二の橋と三の橋の中途混って立っということは、長屋に住みながら長屋の住人で で、小学校時分の友人の「ビリケン」と ( 彼は、ーー・彼もないような顔をしていたかった私にとって、恥しいいやな 学生の時分 慶応の生徒だった。 ) その家の石屋の前で会った。にきびことなのだったが、今は自ら進んで立った。小 おもかげ は母親の使いをよくやっていた親孝行の私も、中学生に成 を吹き出させて、以前のような美少年の俤は無い「ビリ しか 冫をししが、外の使いは ケン」君だったが、私は然し彼に会うと彼が西洋人形を思ると、家の用事を家の中でする分こよ、 ほお わせるつやつやした頬をしていた頃に私に歌ってきかせた恥しくいやだと逃げていたものだが、ここへ来て急に小学 もど 生時分の従順を取り戻した風の孝行息子に成った。虚栄心 「煙草のめのめ」の歌を思い出すのだった。 しゅうら と羞恥心に何やら変化があった如くである。 煙よ、煙よ、ただ煙、 ひムくしよう いっさいがっさい 配給の列の中では、本所被服廠跡の三万三千の死人の山 一切合切、みな煙。 めぬ、 東京の目貫通りはこの流行歌通りに「一切合切、みなの話や、永代橋にぎっしりつまっていた避難民が橋の焼け 落ちるとともこー 冫月にごっそり落ちて死んだ話などが取り交 煙」に成った。 されていた。死体の群をこの眼で見たのは私ひとり位だろ コ余震はまだつづいていた。だんだん弱くなり回数も減っうと秘かに自慢していたのが、そんなのは中学生の幼い自 のたが、それでも ( 記録に拠ると ) 三日は夜半から午前六時慢だと知らされた。 底まで六十四回、午前六時から正午まで三十六回、正午から「浅草の観音さまがたすかったのはあそこの公孫樹が水を 物午後六時まで四十一一回、午後六時から夜半まで三十九回。吹いて、すぐ側まで火が来たのをそいで防いだせいだとい そして四日は夜半から午前六時まで三十六回、午前六時かうじゃないですか」 ら正午まで五十六回、正午から午後六時まで六十回、午後おかみさんの一人が言うと、 六時から夜半まで三十一一回。五日は正午までに百四十八「有り難い話ですね」 うなす と他のおかみさんが大きく顔を頷かせた。 回。六日は同じく七十八回。 ひそ うめばし

5. 現代日本の文学 24 高見順集

人たちによって開かれた時、その席に石田愛子が出席意をかため、五年間にわたるサラリ ーマン生活に終止 し、高見夫妻と握手をした。井上友一郎の小説「高見符を打った。 「文芸時評」で「文学界」賞を受賞し、 ーうし・うろう 順」には、高見だけでなく、井上たちまで驚き周章狼九月には最初の単行本「起承転々」が短編十作品を収 狽する様子が書かれている。この時、愛子を引っぱっ めて改造社から、翌十月には短編集「女体」が竹村書 てきたのは田村泰次郎と十返一 ( 肇 ) だったらしいが、 房から刊行された。 ひだ 愛子も悪びれすに起って祝辞を述べたという。 日華事変がはしまった昭和十二年七月、飛騨の白川 ところで「故旧忘れ得べき」の後半が発表された「人村に出かけ、庄川をめぐって展開された水力電気会社 民文庫」は、昭和十一年三月、「文学界」の小林秀雄やと木材会社の激烈な係争に取材した「流木」を書き、 林房雄の傾向にあきたりす思っていた武田麟太郎が、 「文芸」十月号に発表した。この小説は高見順のいわ オこの年の十 新たに高見のはか、「現実」と「日暦」の同人を中心ゆる「左翼もの」の最後の作品となっこ。 に旧作家同盟系の新進作家を結集して創刊した雑誌で 月、「人民文庫」のメンバー十五人は新宿の喫茶店大 ある。「日暦」に途中から参加した円地文子、田宮虎山で徳田秋声の研究会を開いたが、いきなり飛び込ん 彦、矢田津世子らも加わり、保田與重郎らの「日本浪できた刑事に全員が手錠をかけられ、淀喬署に逮捕さ 曼派」が「浪漫的詩精神」と民族主義を高唱したのにれるという事件がおこった。高見、新田、荒木、田宮、 対し、武田や高見たち「人民文庫」では「散文精神」 ヾー . 翌亠日 田村、立野信之、本庄陸男ら研究会のメンノ による批判的リアリズムを唱え、ファッシズム的な潮釈放されたが、このできごとがきっかけとなり、翌昭 流に対抗した。 和十三年一月号かぎりで「人民文庫」は廃刊された。 この年、高見は「故旧忘れ得べき」を「人民文庫」 この前後の経緯は戦後の長編「深淵」に詳しい に連載したはか、「文芸時評」を「文学界」に連載した 高見順の浅草での生活がはじまったのはこの頃から 「描写のうしろに寝ていられない」を発表するな である。住居者がはとんど芸人ばかりの五一郎アパ トに部屋を借りて、高見は六区を毎日プラブラはつつ ど目ざましい活躍がはしまり、五月から「国民新聞」 に最初の新聞連載小説「三色すみれ」 ( 後に「遙かなる き歩いた。間もなく傑作「如何なる星の下に」が、こ 朝」と改題 ) を書くことになって、筆一本ですすむ決こで書きはじめられた。 . せん 450

6. 現代日本の文学 24 高見順集

「もう、そんな話、よして下さい」 て、おやと、静枝は足を止めた。草も木もことごとくが、 オミナェシは秋の七草の一つだった。と静枝は思いすがれているなかで、なにが生えているのか、そこだけ、 当って、 みずみずしく、もうすぐ冬だというのに、春を告げるよう な新鮮な色である。 「キキョウ、オ・ハナ、オミナェシー 指を繰りながら、それまで一気に言って、つかえた。 一面のスギゴケだった。しやがんで、毛のような細葉に 「それから、ハギに、クズに : 手をやると、毛糸そっくりの暖い触感も快かった。水けの つかえ、つかえ、ナデシコにフジ・ハカマと数えた。数えまるで無い、悲しいような細葉だが、けなげに強く生きて ながら、その花を心に浮べていた。 いる。寒気に負けずに、眼のさめるような色を見せている。 フジ・ハカマとクズの花は知らなかったが、 ほかの五つの静枝はしばらくスギゴケの上に手を伏せていた。このス 花はすぐ浮んだ。 ギゴケのように、生きたいのであった。このスギゴケは、 どれも寂しい花だった。哀れの深い花ばかりだった。女さそかし、しつかりと地面にしがみついて、生きているの の哀れさを思わせる。女というのは哀れなものだと、静枝だろう。静枝は、髪でもっかむように、スギゴケをつかん はそんな風に考えて、心を慰めていると、 でみた。すると、ああ、なんということだ、ー 弓き抜かれま ( 妻から二号になった哀れな女 : : : ) いと必死の抵抗を示す筈だったスギゴケが、まるで抜け毛 誰かから突然、言われたみたいだった。静枝の耳に、はみたいに、ずるずると、あっけなく引き抜かれた。人間の もろ ちょうしよう つきりと嘲笑が聞えた。 手にかかったら、ひとたまりもない脆さと無力さだった。 ( やつばり駄目だ。いい え、もう、駄目。 おびえた眼をあたりに放ったが、誰もいなかった。スス キのまだ小さな穂が、傾いた陽を横から受けて、ぎらきら静枝のうちに、そんな声が呟かれた。そうしてその静枝 骨と光っていた。オ・ ( ナと呼んでこれを秋の七草の一つに数の眼は、緑の絨毯の上に白く置かれた自分の骨を見た。見 えた古えの日本人の寂しい心が、いま、静枝にはよく分るたとおもうと、その骨は、みるみる、軽く空に舞い上って ようだった。 行った。 軽 オミナェシを胸に捧げて静枝は宿への道を戻って行っ Ⅱた。宿の庭に入ると、黒い木の幹の間から見えるかなたの 「どうなさいました。お顔の色が : : : 」 もえぎ じゅうたん 地面に、美しい萌黄の絨毯でも敷いたようなところがあっ玄関に立った静枝に、女中が言った。 いにし つぶや

7. 現代日本の文学 24 高見順集

突進しうるにはこの私が、あまりにも食う心配に悩まされではなかったのか。 すぎている貧乏人だということをも教えてくれたのであ る。 この枝は特別なものである。へんなものであるかも しれない。だが内から生きてゐる。すべて生きてゐるもの 学校を出たら私は職業を持たねばならないのであった。 人が職業を選び職業を持っというのは、多くは人が職業をは美しくなければならない。その美のわかる人にこの枝を つかむというより職業が人をつかむというものではあろう捧げる」と武者小路氏は「一本の枝ーの序文の中で書いて いる。私はこういうやさしい文章ならこの私にだって書け が、私もまたその例に洩れず、私を選ぶ職業に対してわが 身を有利に売りうる条件をそなえねばならないのであつると思った。こういうエ合に自分の思っていることをすら こ 0 すらと書いていいのなら、この自分にも書けると私は思っ かかわ 芸術への憧れは、そういう職業への心構えと、別のものた。浅墓な自信だったが、それはその浅墓さにも拘らず、 もらろん くつぶ として考えた。勿論、芸術家といえばぐうたらの穀潰しと私にとって非常に重大な結果をもたらすに至った。「へん 思っている母親に対しても、私は芸術家に成りたいなどと なもの」でも「内から生きてゐるーものであったら、それ 言えたものではなかった。私は芸術を職業と切りはなしては美と価値を持っと知らされたことは、正に私にとって革 考えていた。それだけ、芸術を純粋な気持で考、ズていたの命的な意味を持った。 でもあった。 思えば、私たちの小学校の頃の「作文」は、自分の思っ はそんな純粋な気持とともに、私のうちには異常なまでに たこと、自分の見たことを、自分の文章で書くということ 、わ コ俗悪を極めた「出世」欲が同居していたことは前述の通りではなく、与えられた漢文口調の模範文にならって美文を つづけいこ だが、その「出世ー欲は実は「出世」によって何かに復讐綴る稽古でしかなかった。それは自分に対する正当な誇り の 底したいという陰険にして低劣な気持でもあった。その何かすら持たぬ私のようなたちのものには自分自身の考えとい べっし 胸とは、何か。私を汚辱の子としてこの世に生みつけた父親うものに対する人一倍の不当な蔑視と成って現われた。 を指すのか。私を汚辱の子としてめる友人やそういう友私はいま中学一一年の時の夏休みの宿題として私の書いた 人をそのうちにふくむ世間一般を意味するものか。そう ( ? ) 「生理衛生日記」なるものを思い出す。幸い保存され 5 オいっそ人生そのものに対する復讐のおもいと言ってもていたので、再見できるのだが、原稿紙一二四頁にわたる いいだろう。いや、自分の汚辱感そのものに対する復讐感一見まことに努力の作であり、その目次は次のように書か

8. 現代日本の文学 24 高見順集

ある。「染太郎」ははしめてだが、われわれの世代のた まり場の一つは、銀座出雲橋の「はせ川」であった。 銀座は、場所としては下町にちがいないが、内容とし ては、山の手も下町もないふしぎな町である。銀座の 店の人々は、今では、夜は大部分、山の手の住居に帰っ 銀座は、丸の内に劣らず、住民の少ない町に なりつつある。わたくしが、一ばんよく高見順と一し ょに歩いたのは、銀座、そして新宿であったから、浅 草をすませてからは、当然そちらに足が向きそうなも のであった。しかし、案内の高見順は、盛り場ばかり では、お互い変に思われるから、回り道をしろというら しく、隅田川東岸の細長い隅田公園へと足が向いた。 五隅田公園 隅田公園は、現在の墨田区、元の本所区小梅町新小梅 というわけだか、わたくしにとって、そのあたりは未 知にひとしい土地であった。そのために、却って、変化 しらひげ のひどさがわからす、やがて高速六号線が白鬚橋まで 開通するとしても、あまり気にならないのである。とこ ろが、地図を読んでいくと、このあたりこそ、たいへん な変化らしい高見順の作品の中に隅田公園が出てき たとしても、わたくしは、ああ、あの細長い公園か、

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4 上昭和 22 年 2 月、デビュー当時の三条美 紀とともに で集中 編食の高見はここにダダイズムのコント「響かない警鐘」 浅庫昼 その他を発表し、翌大正十五年には深田久弥の後をう の文 跡倉て けて一高の文芸委員に推され、「校友会雑誌」に毎号 習作を発表しはしめた。「、ツ ・ト見 ~ 豕になろ、つと 頃月屋決心」したのは東大文学部英文科に進んだときで、ま 末 8 木 : 年年白 もなく半田祐一 ( 後の新田潤 ) らと同人雑誌「文芸交 一 c 和京錯」を創刊、ここにはト説「短篇集第一」「悲劇の第四 昭東型」のほか、表紙の装画やカットまで「高間芳雄」の : 上左部本名を使って高見が描いている。 この「文芸交錯」は昭和三年に当時東大内で出され ていた藤沢桓夫や武田麟太郎らの「辻馬車」など左翼 的な同人雑誌六誌と合同して「大学左派」に発展的解消 たこの雑誌 ( ー、 、こま当時のマルクス主義芸術理論の影 響の強い「植木屋と廃兵」などの小説のほか、「葉山嘉 樹論」「我国に於ける尖端芸術運動に関する一考察」な どの評論をも書き、批評家としてもすぐれた才能を示 している 同じ昭和三年に高見は壺井繁治、三好十郎、半田祐 一 ( 新田潤 ) らと左翼芸術家同盟を結成し、その直後に 全日本無産者芸術連盟 ( ナソプ ) が結成されると、壺井 や高見たち左翼芸術家同盟のメンバ ーもナップに加盟 し、高見はその機関誌「左翼芸術」創刊号に小説「秋か ら秋まで」のほか、「六号雑記」を書き、同年三月の反

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146 。それはその場の思い が政治家に成るということではなかったのかと私は首を傾 から慎んだ点もあったが、更に つきでなく、私を中学校へ通わせるため夜なべ仕事をしてげた。 政治家になるなというの 苦労している母親のことを思うと、いつもそういうことが政治家になると殺される。 頭に浮ぶからだったが、そういう切実な気持からの思いつはそういう意味だった。 きであるだけに、それを口外すると、その言葉の裏の、他「政治家でなくたって殺される」と私は笑った。私は母親 人には知らせたくない自分の貧乏がばれそうなので、ひとの言葉に、子への愛情を汲まず、女心の浅墓さといったも のを見た。一一月前に「銀行王」のが大磯の別荘で暗殺さ つはその予感 ( ! ) から私はロをつぐんでいたのである。 一一十六日に議会は解散された。そして次の議会で普選案れた。私はそれを言ったのだ。 やみほうむ 「殺される位の偉い人になれば、大したものだ」 は闇に葬り去られた。 こうして内閣も、人民の権利を圧迫しつづけてきた従「いえいえ、どんなに偉くなろうと、殺されたりしたら、 来の官僚内閣と何ら変らない反動性を示すに至って、それなんにもなりやしない」 ようや まで「平民宰相ーとして人気を呼んでいた氏も、漸く「大丈夫ですよ。どうせ、そんな偉い人になれやしないか 「平民」の反感を買うように成った。 首相弾劾の声が高く成って行った。その声に浮かされ「忠雄は一体何に成るつもりだね」 「ーー政治家」 た一青年が、翌十年、東京駅で首相を襲った。 「政治家はおよしと言うのに」 前述の如くその氏の弟の家が私の母親の「おとくいさ「大丈夫ですよ」 ま」に当っていたから、その暗殺事件は私の一家に特別の「牢屋に入れられたり、刑事につきまとわれたり : : : お お、いや、いや。そしてさんのように成ると、殺される 衝撃を与えた。 し、 ほんとに政治家だけはおよし」 「ああ恐ろしい」 うんぬん 首相の弟の家へおくやみに行った母親は、帰ると私に言牢屋云々は、郷里で有名な明治の自由党の党員が藩閥政 府から手をかえ品をかえて迫害された事実を母親は見てい たからである。 「忠雄も政治家にだけは成るんじゃありませんよ」 ? 」母親が私にかけていた「出世」の夢は、私「政治家はいけません。お母さんが頼むから政治家に成る だんがい あさはか おおいそ